第一章 物語のはじまり
むかしむかし、数えて十三の大罪を犯した泥棒がおりました。
泥棒はやがて捕らえられ、裁判にかけられました。
そして死刑を宣告された時、泥棒はこう言いました。
「おれの命を救うなら、そいつの望みを叶えてやろう。王家の秘法が欲しいというなら盗んで来てやる。世界で一番美しい女が欲しけりゃ、さらって来てくれてやろう。どうだ、取引をしないか」
その言葉を聞いたほとんどの者は泥棒を笑い、呆れましたが、ただ一人だけ泥棒の言葉を真に受けた男がおりました。
「君の命を助けたら、ぼくを王様にしてくれるかい」
「もちろんだ。おれを助けるならお前を王様にしてやろう」
それを聞いた男は、泥棒を牢屋から逃がしてやりました。
泥棒は約束を守り、世界で一番小さな国を盗んできて、男を王様にしてやりましたとさ。
――ウィッツ・ウィックのむかしばなし、『どろぼう貴族レッド・オーランド』より。
「……そして泥棒は、王様から爵位を与えられて貴族に列せられました。貴族になった泥棒は王様に感謝し、自分の過去の罪状を消すことと引き換えに、王様の願いごとを十三回叶えると約束しました。一つ目の願い事は、王様が王様になることでしたのですでに叶えられました。では二つ目の願い事とは、なんだったでしょう」
「世界で一番美しく賢い娘をお妃にすることでした」
太后サルバローデは振り返り、問いかけに正しく答えた少女を見て目元を和ませた。
后の居間に案内された少女は、つつましく片膝を折って礼をする。
「王太后陛下におかれましては、ご機嫌うるわしく……」
「堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。久しぶりですね、マドモアゼル・ラキシス。宮廷でお会いするのは半年ぶりかしら?」
「母の喪中には格別のお計らいを頂きまして、ありがとう存じます」
年の差が十歳以上離れている二人の女。
片方は会釈することもなく、窓に背を向けて立つ。まっすぐな黒髪を、額をすっきりと出す形で後ろで結わい、紋章入りの細い金の額飾りが先の王后である身分を示す。目を瞠るほどの美貌ではないが、知性の高さを自然とあらわす青い湖面のような瞳が魅力的だ。身なりは慎ましやかで、しかし地味すぎず、王族としての適度な権威を保っている。
片や膝を折って臣下の礼を取る娘は、咲き初めの薔薇の花を思わせるあでやかさ。身にまとうドレスは首までつまった漆黒の喪服だ。しかしその一切飾りのない黒装束が、却って娘の美しさの本質を際立たせる。雪の中、凛として一輪のみで咲き誇る冬の薔薇。しかも棘つきの手ごわい薔薇だ。
サルバローデはラキシスに椅子をすすめ、二人は茶の仕度が整えられた丸テーブルの席についた。女官はすでに退室し、后の部屋の周囲には人払いがされている。
ちょうど昨日喪が明けたので本当は黒のドレスで来なくても良かった。ところが今日は予定外なことに朝から太后の使者が訪れ、出仕を命じられた。宮中参内復帰の初日に、いきなり流行最先端のバッスルドレスを着るのはどうかと思って、結局この装いにしたのだ。
ラキシスは、結い上げた髪がまだしっくりと馴染まない十八歳の娘だ。母親が亡くなるまでは、ゆるく波打つオレンジ色の髪を背にそのまま垂らしていた。目鼻立ちの整った顔をして、笑うと幼く、拗ねるとこまっしゃくれて見える、あどけない少女だったものだ。
それが今ではローデラント王国の譜代家臣、名門貴族オランジュ家の伯爵夫人。いや、女伯爵と呼ぶべきか。ラキシス自身はまだ夫を持たぬ独身だが、先代亡き後、彼女が現伯爵家の当主であるので。
サルバローデは紅茶のふくよかな香りをかぎ、それからゆっくりと茶を一口味わって、言った。
「あなたのお母さま、先代伯爵夫人マダム・アルキスはわたくしの大切な友人でした。どんな悩みでも打ち明けられる、そして喜びを共にわかちあえる、数少ない真友でした」
「太后様にそこまで仰られて、亡き母もさぞ喜んでいることでしょう。母に代わって感謝申し上げます」
神妙な言葉のわりには、ラキシスの態度はどこか空々しい。
「あなたがまだ小さい頃にお父上が亡くなられ、お母さまもいなくなってしまっては、何かと不自由なことでしょう。寂しくはありませんか」
ラキシスは微笑を浮かべ……と言うよりどことなく冷笑に近い表情で、口調だけは丁寧に答えた。
「おそれ多くも太后陛下が後見人となって下さいましたので、暮らし向きに不自由など何ひとつございません。どうぞご安心くださいませ」
「そう……まだまだ小さなお嬢さんだとばかり思っていたのだけれど、もう子供ではないのですね。立派に成長なさったこと」
「太后様、そろそろ本題に入りませんこと? 今日私をお召しになりましたのは」
サルバローデは音を立てずに紅茶のカップを受け皿へと戻した。その動作に、ラキシスは聡く太后の意を悟って口を閉じる。
「あなたのせっかちなところはアルキス譲りですね。貴婦人はもっと鷹揚として振舞わなくては。それが宮廷人の嗜みというものですよ」
「……ご無礼、お許しくださいませ」
殊勝に謝って見せるものの、ラキシスには少しも悪びれたところがない。実際にそうしたわけではないのだが、ぺろっと舌を出して見せそうな、上目づかいに人を見上げる、悪戯好きな黒猫に似た印象がある。
サルバローデは、ふっと笑った。
「でもわたくしは、あなたのそういうところが嫌いではありません。ほんとうにお母さまにそっくりだこと。良く似た母娘だわね」
「……あまり嬉しくはありません」
「あらなぜかしら?」
「母は仕事をしくじりましたので」
これまた貴婦人にはふさわしくない単語であるが、ラキシスはあえてその言葉を選んだ。サルバローデは表情をほとんど変えず、涼しい目元をほんの少し笑みの形に細めただけだ。
実際のところ、よくもしくじりやがったな、と言いたいのをグッとこらえて、ラキシスは表面上お上品さを保つ。しくじった、という言葉自体がすでに上品でないのは、この際どこかに置いといて。
「私は母のようにはなりたくありませんから。さっさと契約を果たして、自由になりたくて仕方ありませんの。ですから太后様、何でも結構ですから〝三つの願いごと〟を早いとこ仰って下さいな」
「三つの願い」
しれっとした顔でサルバローデは問う。
分かっているくせにこちらから言わせたいのか。ラキシスは内心イライラしながらも、あえて答える。
「ウィッツ・ウィックの昔話。『どろぼう貴族レッド・オーランド』の忌々(いまいま)しい契約ですわ」
サルバローデは、ふぅっと吐息するように笑った。
「ウィッツ・ウィックの昔話に出てくる〝世界で一番小さな国〟――それがわが国ローデラントだと知る者は多くありません。国王の直系後継者とその妃、それからオーランドの子孫のみが受け継いでいく秘密です」
先王は五年前に亡くなり、後を継いだ新国王は来月ようやく十五歳になる少年だ。建国に関わる秘密と古の契約のことなど、まだ何も知らされてはいまい。今は摂政として、王が成人するまで補佐するサルバローデ王太后の胸の内にのみ、秘められている話だろう。
ということは、いまこの世で契約の秘密を知るのはサルバローデと、ラキシスを筆頭に頂くオランジュ一族のみということだ。
サルバローデの言葉が続く。
「レッド・オーランドは改名し、初代ローデラント王からオランジュ伯爵の称号を得た。そして十三の罪状を免除されるのと引き換えに、王家の願いを自分の過去の罪と同じ数だけ、叶えることを約束しました」
「ただし、条件がありましたよね」
その条件とは、次のようなものだった。
叶える願いは、一代につき三つまでに限ること。
残りは後継者に委ねること。
願い事は、あくまでも現実的なもの。人間に実現が可能なものでなければならない。
ただひとつ、殺人に関わる願いは、決して引き受けられないこと――。
「本来ならば、先代オランジュ伯の代で三つの願いはすべて解消される予定だったのに。あなたにとっては不本意で、気の毒なことになりましたね」
ラキシスは喉の奥から息をもらす。へっ、と吐きすてるような響きだった。
「それもこれも、お人よしでドジな母のせいですわ」
「あら、亡くなった方をそんな悪し様に言うものではなくってよ」
「いいえ太后様、だってこれ、ほんとだったらとっくの昔に解消されてて然るべき契約ですもの。母があなたのために何かと尽力した回数は三回を遥かに超えてると思いますけど……。それをあのお人よしがですね」
「ああ、アルキスはほんとうに優しい人だったわ。契約なんて関係ないの、あなたのために力を貸せることが嬉しいの。だって私たちお友達じゃない、そう言うのが口癖で」
「そのせいで親の代で済むはずだった借金を何故だか背負わされてる気分なんですけど、私」
「借金って、実際お金の貸し借りをしたわけではないのだし、そもそもこの契約を立てられたのはあなたのご先祖なのだから、ねえ?」
王家を恨むのは筋違い、と言わんばかりのサルバローデを、ラキシスは思わず睨みそうになるのをぐぅっとこらえた。
「どーでもいいから早いとこ願い事を仰って下さい。どうせ御用の向きはそれなんでしょ」
ラキシスの口調は幾分キレ気味になっている。ドレスの下では音を立てないように床を蹴ったりなんかしていた。
ほんとなら母親の代できれいさっぱり清算されるはずだった契約を、そっくりそのまま押しつけられたのだ。これでキレるなと言うほうがどうかしている。
オランジュ家はオーランドからラキシスの代まで六代続いている。初代オーランドから三つずつ、順調に契約を果たせば、五代目が最後の願いを一つ叶え、それで全てが終わるはずだった。
が、三代目(ラキシスの曽祖父だ)がポカをやらかし、願い事を一つしか叶えないまま死んでしまった。その時代は大陸各地で戦争があったり、国内もゴタゴタがあって落ち着かず、オランジュ一族は結構な苦境に立たされる。動乱は四代目の壮年期まで続く。
あげくに五代目であるラキシスの母が最後に残った三つの願いを正式には一切解消することなく、というか、親友のサルバローデのためにあれこれ手助けはしたらしいのだが、当の本人が「やあねぇ、いいのよー、こんなの願い事のうちに入んないわよー。だって私たち、お友達じゃなぁい❤」などと適当なことを言っているうちに、さっさと死んでしまったのだ。
あんたら二人がどんだけ仲良かったとか知らないし、はっきり言ってどうでもいいけど。
でもちょっと待て、私情と契約の勘定だけは別にしとけっ! ぐらいの文句は言ってもいいだろうと、後を受け継ぐラキシスとしては断固として主張したいわけだ。
そもそも自分には全く無関係だったはずの〝三つの願い〟だ。こんなモンとっとと片付けて、きれいさっぱり自由の身になってやる。
ラキシスは憤りをやる気に昇華した。でないとこんな面倒くさいの、マジメにやってられない気分だ。契約に縛られた暗い青春期なんか、ぜったいに送りたくない。
サルバローデは席を立ち、ラキシスの前に立って厳かに言う。
「六代目女伯爵、ラキシス・ヴィアンカ・ド・ラ・オランジュ。契約の執行者として、三つの願いを叶える覚悟は出来ていますか」
「いつ、何なりとも。お命じのままに」
ラキシスも席を立つと、サルバローデの前に片膝をついて頭を垂れた。
サルバローデの手が、そっとラキシスの肩に触れる。
「顔をお上げなさい。あなたの忠節心はよく分かりました。先代と変わらぬ真心を王家に捧げようとする態度は立派です。先王亡き今、幼い陛下に代わって王権を預るわたくしは、嬉しく思います」
口調はどこまでも優しいんだけど、やってることは結局債権者の取立てと一緒なのよね。
ラキシスは唇の端がヒクヒクするのを堪えながら、言った。
「私が最後の執行者になれるよう……できるだけ努力いたします」
「確かにあなたは、契約の最後の執行者となるでしょう。なぜならば、わたくしはあなたのお母さまとの友情に免じて」
「えっ、チャラにしてくれるんですかっ?」
パッと顔を上げたラキシスは見るも鮮やかな笑顔だったが、
「誰がそんなこと言いますか」
即座にきっぱりと否定され、喜びの笑みは一瞬でしぼんだ。何よ、期待して損したじゃないのよう。
「まあお聞きなさい。まずは座りましょう。わたくしが言いたかったのは、こういうことです」
そうして椅子に座り直し、改めてサルバローデが言ったのは。
「あなたのお母さまがわたくしに示して下さった幾多の友情と引き換えに、残り二つの願い事を免除します」
「つまり、あと一つだけでいいってことですか」
「そうです。そしてあなたとわたくしの代でこの契約をお終いにしましょう。そうすれば、王家とレッド・オーランドの秘密を知るものは後世に残らないでしょう。わたくしはこの契約の詳細を、王陛下や新しく王妃となる方に伝えるつもりはありません。ローデラント国の建国の影に、泥棒の助力があったなどと知る者は、将来にいてはならないのです」
ラキシスは少し背筋を伸ばし、居住まいを正した。
「国王陛下はまだ独り身でいらっしゃいますけど、どなたをお妃さまに迎えられるか、内々ではお決まりですの?」
「その辺りの事情も、わたくしが出す最後の願い事に含まれて来るのです。さあラキシス、もう一度だけ聞きますよ。あなたはわたくしのたった一つの願い事を、叶えてくれるかしら?」
ラキシスはテーブル越しに身を乗り出し、サルバローデに顔を近づけた。不敬ながらも、まっすぐに目を見て聞く。
「実現可能なんですよねソレ、一応……?」
サルバローデは目を伏せた。
「そんなに難しくはないと思うのだけれど……ええ、たぶん、あなたならきっと大丈夫だと……」
「なんですか、その含みのある言い方は」
「どうなの、できるの?」
サルバローデはいきなり顔を寄せて来て、ラキシスの肩を掴まんばかりの勢いで聞いた。
こっちの問いかけの答えは軽く飛ばして、逆に質問で返すのか。なんかずるくないー? そういうの。ラキシスはイラッとしながら、やや気圧されて逃げ腰になる。
「そう言われたらやるって言うしかないじゃないですかぁ、ここまで来たんだし」
だめだ、勢いに負けている。そう思ったが、言ってしまってはもう遅い。
サルバローデは胸の前で軽く両手を合わせ、にっこりと笑った。
「ありがとう、あなたならきっとそう言ってくれると思っていたわ」
結局タヌキよね、このオバハン……。
ラキシスは内心で毒づく。
嫌いじゃないけど、実際世話にもなってるんだけど、なんて言うかこう……一緒にいて疲れるタイプってやつ? 母さんよくこんなのと親友やってたなぁ。
ラキシスは、ふう、と深く息をつく。
「で、具体的に何なんですか、今回の願い事って」
これが最後の願い事になるのだ。そう考えると改めてわくわくしてきた。これを叶えたら自由になれる! もう王家の願い事なんか聞かなくてもいいんだ。といっても一応臣下だという事実に代わりはないのだが、それでも目の上のタンコブが消えるような解放感はある。
「まずはこれを見てちょうだい。そしてあなたの感じたことを聞かせて」
サルバローデはラキシスに左手を差し出した。指を伸ばし、甲を上に向けている。労働の辛さを感じさせない白い手だ。
薬指には大きなルビーを中央にあしらい、周りをダイヤモンドが取り囲んだ素晴らしい指輪が輝いていた。台座と輪は金。もちろん純金だろう。
「これは見事な……ちょっと失礼致します」
ラキシスはフォーマルバッグの中からルーペを取り出した。ラキシスにとって、いわば商売道具のようなもの。初代オーランドから続く泥棒貴族オランジュ一族は、生まれた時から宝石や古美術品の鑑定眼を徹底的に仕込まれる。ラキシスには教えられた知識以上に、天性の『見る眼』があった。何しろヒカリモノ大好きだし、絵画や美術品の真贋を見極めるのも得意だ。貴族をやめてもこの特技で立派に食べていけると自負している。
これは『王妃の指輪』と呼ばれるローデラント王家の家宝だ。代々の王妃が受け継いでいく指輪である。これほどの至近距離で見るのはラキシスも初めてだった。なにしろ王家の家宝なのだから、下手な鑑定など許されない。鑑定する機会がまずない。
聞くところによると、中央を飾るルビーは十カラットの大きさで、ピジョン・ブラッドと呼ばれる最高品質のもの。その名の通り、鳩の血のように鮮やかな赤い色を誇る。同じカラット数のダイヤモンドより遥かに価値が高い石だ。
何故なら、ルビーは結晶が大きく育ちにくい性質の石で、この大きさの石が採掘される確率は極めて低い。年に一個出たら幸運とも言われる希少さだった。それにこのつるりとしたカボションカットを施されたルビーは、特徴的なスター効果を有している。石の中央に六条の光の線が星のように輝く現象は鉱石の光効果の一つで、石の内容物の構造と配置によって生み出されるのだ。光の線が一条だけなら、キャッツ・アイ効果と呼ばれる。
普通なら宝石の内包物は不純物扱いされて嫌われるが、スタールビーはシルクと呼ばれる密度の高い針状結晶を内包しているおかげで、目にも美しい明星のごとく効果を生みだす。十カラットもあるピジョン・ブラッドのスタールビーとくれば、時価にしてざっと、七千万ルブランほどか。(※日本円にして約二億円)
頭の中に知識としてあるこの指輪の鑑定書と、実際目で見た評価が一致するのか、ラキシスはどきどきしながらルーペを覗き込んだ。口元には滅多にない機会を喜ぶ笑みが自然と浮かび、美しい宝石を見る素直な喜びで、頬にはほんのりと朱が上る。が、その微笑は赤い宝石を目にした瞬間から自然と失せていく。
次に表れるのは当惑。そして疑惑。まさかこんなはずはない、という驚きと困惑。
ラキシスは無礼を承知で太后の手から指輪を抜き、それを自分の手のひらに乗せて感覚で目方を量る。そして金で作られているらしい指輪の台座と、周辺を飾る無色透明の石の重さを差し引く。頭の中で様々なパターンの計算が一瞬にして駆け巡る。長年の訓練の成果で、ラキシスは各種貴石のカラット数における重さを感覚で記憶していた。もちろん正確を期するためには専用器具を用いるが、目分量でも充分に言い当てられる自信はある。
最終的にラキシスは結論を出した。が、それをはっきりと目の前の貴婦人に――それもこの国で最も身分の高い唯一の女性に告げていいものか、さすがに逡巡した。
「かまいません、正直な所見をおっしゃい」
サルバローデはラキシスの内心をとうに見抜いている目をしていた。ややこしい応用問題を出して解答を求める、優しいが厳しい教師の顔だ。
ラキシスは腹を決めた。
「サルバローデ王太后陛下に申し上げます。恐れながらこの指輪は、国家の至宝『王妃の指輪』と尊称される価値には、とうてい満たないものでございます」
天然の宝石には違いない。しかし中央を飾る赤い石はルビーではなくスピネルで、周囲を囲う無色透明の石はダイヤモンドではなくジルコンだ。どちらもルビーやダイヤと混同されやすい石だ。しかしどんなに似ていようとも硬度が違うから、磨耗具合を見ればその違いは歴然としている。
スピネルとルビーの違いは、確かに一目では鑑別しにくい。昔は赤い宝石とくれば、何でもかんでもルビーと呼ばれた。ヨーロッパの歴代王室が冠に飾り、王家のルビーと呼んで権威を示してきたその石が、近年になって鑑定してみたら実はスピネルやガーネットでした、なんていう粗末な話は、結構その辺にごろごろしている。
スピネルは花崗岩や変成岩中に産生され、鉱物の特性でコランダム(ルビーは赤色コランダムだ)と一緒に混ざって掘り出されることが多い。だからよけいに混同される。良質のスピネルならば、質の悪いルビーより見た目は美しいぐらいだ。しかしそれでも、価値はルビーの方が格段に高いのだ。
この二つの石は結晶の成り方が違うので、無傷の原石を見ればその違いは一発で分かる。コランダムは三方晶系の六方偏三角面体に育ち、スピネルは等軸晶系の八面体となる。とはいえ、無傷完全な原石自体がそうそう発見されないので、同じように砂で丸く磨耗されてしまえば、外見では見分けがつかない。
ではどうするか。結局は器具に頼るのだ。顕微鏡で覗き、二面鏡や屈折計あるいは偏光器を使って内部の構造を見るしかない。
スピネルは等軸晶系だから、どの方向から覗いても色は一色にしか見えない。これがルビーだと多色性を示して見せる。大きな石の場合は特に器具など使わなくとも、複屈折の石であるルビーを通して文字などを見ると、対象がだぶって見えるのに対し、単屈折のスピネルにはそうした現象が現れない。
このような特性の違いを、長年訓練を積んできた鑑定士ならば器具が無くとも、原石をその目で見、手に触れて石の感触を確かめることで感覚的に見分けてしまう。ラキシスがルーペのみで見分けることが出来たのも訓練の成果だ。天賦の才がどれほどあったとしても、生まれ持ってきた感性は訓練を積んでこそ真に能力として発揮されるものだ。
誤解されやすい石だからこそ、指輪の製作時点ですでに混同されていた可能性はある。
初代ローデラント王が王妃に贈ったと言われる指輪。その時点でこれはルビーだと決めつけられたら、誰もわざわざ鑑定し直したりはしない。
だが当時は、王の側近としてオーランドが傍に控えていたはず。もはや伝説のどろぼう貴族オーランドが、よもやルビーとスピネルを見間違えたとは、思いたくないのだが……。
「あなたが思っている通り、この指輪は真の王妃の指輪ではありません。本物はいま国外にあります」
「盗まれたのですか」
だとすると、いったい誰に。
「なぜ無くなったか、誰のしわざか。そんなことはもはや問題ではありません。ただ現在指輪を秘匿している者の所在は分かっています。……ですからラキシス、六代目泥棒貴族に命じます。本物の『王妃の指輪』を取り戻していらっしゃい」
サルバローデは、そう言って微笑した。
后の間へと続く長い大廊下の一角では、喧しい少女達の笑い声と、眉目秀麗な青年の囁き声が楽しげに弾んでいた。
「いや、君のこのすんなりとした指ときたら、なんて美しいのだろうね! それにこの爪! まるで桜の花びらのようさ。形よく、色よく、麗しい。この柔らかな白い手のひらで僕の頬をそっと包んで欲しいよ。いったいどんなに良い心地がするのだろうね!」
「もう、レイジェルさまったらいやですわー。そんなことより早くわたくしの手相をご覧になって下さいませ」
「ああそうそう、君の運命線はとてもいいよ! くっきり鮮明に伸びて力強い。それに恋愛運がバツグンだ。特に今日あたりの恋愛運が強いね。運命の人に出会えるかもだよ。たとえば僕なんかどうかな?」
「いやですわー。レイジェル様ったら、さっきアニタにも同じことおっしゃったくせに」
「マリアにもですわ」
「シモーヌにも似たようなことおっしゃったわよねぇ」
后の居室から続く長い廊下の片側には中庭に面した大窓があって、日当たりのいいそこはちょっとしたサンルームのよう。
壁際に休憩用の椅子と小卓が置かれ、控えの間には入れない身分の来客や、その付き人たちが、のんびり庭を眺めながら時間を潰せるようになっている。
ひっきりなしにきゃあきゃあと、軽やかな笑い声が響く。小鳥が囀るように可愛らしい声。その中心で椅子に腰掛け、宮中勤めの若い女官や行儀見習いで参内している貴族の令嬢達と談笑しているのは、いかにも女と遊び慣れた話術巧みな青年だ。年は二十歳。すらりと背が高く、瀟洒で小粋な雰囲気。金色の髪は襟足がやや長め。今風に毛先を不揃いにそいで、少し撥ねさせている。前髪も長めに下ろして、目元に自然とかかるようにした顔立ちは優しい。髪から覗いて見える双眸は、淡い水色。氷の冷たさではなく、春の小川のあたたかな色合いだ。
んまあ、ニヤけて。女の子たちに囲まれて嬉しそうにしちゃってさ。
サルバローデの部屋から出てきたラキシスは、コホン、と軽く咳払いした。
「帰るわよ」
呼ばれて慌てて立ち上がる青年の周りで、令嬢達が軽く腰をかがめて礼をする。
宮廷では身分の低い者から上位の人に先に声をかけることは出来ない。ましてラキシスは若年とはいえ、れっきとした名門伯爵家の女当主だ。
行儀見習いで王宮に上がる貴族の娘たちにとって、王太后の覚えもめでたいラキシスは憧れの対象であり、羨望の的でもある。
ラキシスはそんな女の子たち一人ひとりの顔を見て、にこやかに言った。
「こんにちは、トルバーレ子爵令嬢。王太后陛下の書簡係のお勤めにはもう慣れまして?
アニタ・シフォン嬢、お目にかかるのは久しぶりですこと。ルーサー男爵令嬢は少しお痩せになったのでは? トルファン夫人ご考案のダイエット運動は、噂に違わず効果抜群のようですわね。マリア・ステファン嬢、母の葬儀にはステファン准将から丁寧な弔文を頂きました。お父様によろしくお伝え下さいね。それでは皆様本日はこれにて。ごきげんよう」
これを聞いた少女たちは全員驚きと喜びに頬を染めた。いずれもさして身分が高いとは言えない家柄の娘たちだ。まさか皆の顔と名前を知ってくれているとは思わなかった。
「は、伯爵夫人もお元気そうで何よりですわ」
「ありがとうございます、父にきっと伝えます」
「ごきげんよう」
「またぜひお声をかけて下さいねっ」
まるで女学院の下級生が上級の『お姉さま』を慕って見るような眼差しである。みんな一様にぽうっと頬が赤らんで、瞳が潤む。
金髪の青年はその光景を目の当たりにして、うわー、俺の出る幕全然ないや、と小声で呟いた。
「レイジ君て、ほんっとーに、女たらしよね」
「誰もたらしてないですよー、ただにこやかに世間話してただけですってば」
「言い方変える。あんたってほんと、女の子好きよね」
「あっ、それは否定しませーん」
レイジェル・バトー・オランジュ。それが彼の名前だ。ラキシスの遠縁にあたる。ものすごく遠い傍系だからもはや他人といってもいい。オランジュ一門には違いないが貴族の称号は有していない。ラキシスの執事のような存在だ。正式には『淑女お傍付き紳士』と呼ばれる立場だ。簡単に言えば、護衛を兼ねた身の回りの世話係といったところか。
「でも俺が一番好きなのはラキさんだけですよ。とっくにご存知だと思うけど」
けろっとした顔で抜け抜けと、こんなセリフを言う男だ。ふてぶてしいことこの上ない。
「はいはい、それもう百回ぐらい聞いたから」
ラキシスも慣れたもので、すでにまともに取り合わない。
「で、太后様のご用件ってなんだったんです?」
「こんなとこでひょいひょい出来る話じゃないわ。帰りがてら馬車ん中で話す。……いや、どうせダヤンも一緒に行くことになるから、まとめて話した方がいっか。家に帰ってから話すわ」
「どっか出かけるんですか」
「うん。ちょっとノイエンディアまで」
「あっさり言うけど、結構遠いですよ?」
ローデラントの隣の隣、ヴァネッサ王国の北部の州だ。アイネンザッハ帝国との国境にある。
「せいぜい列車で二日ってとこでしょ。世界の果てまで行くわけじゃないし」
「あっちの方はだいぶ寒いですよ。長逗留になります?」
「さあ、行ってみないと分かんないわ」
「了解、レディ。じゃあ荷物は軽めに作って、足りないものは向こうで買おうか」
レイジェルは物分り良く頷き、世話係らしく旅の荷造りについてあれこれと考え始めた。