エピローグ
水萌が怒っていることは、テーブルの上を見れば明らかだった。沙月のために用意されたホットコーヒー。それにはストローがつきささっていたのだ。右腕の義手は整備のために取り外され、左腕の義手はあまり使いたくないと思っている沙月に、ストローをさしたホットコーヒーを出す。それもとびきり熱いコーヒーを。それは水萌なりのお仕置きなのだろう、きっと。なんとなく逃げ出したい気分だったが、ここは自分のマンションだ。ここから逃げて、それでどこへ行けというのか。
壁に寄りかかってコーヒーを飲んでいる聖樹は、それを見て苦笑を浮かべていた。「仕方ないなぁ」という顔をしてはいるが、新しい飲み物を用意してくれる気はないらしい。それは聖樹も怒っているからだろうか。いや単に、水萌のことを怖がっているだけかもしれない。
ため息をつき、沙月はストローに顔を近づけた。罰ゲームと思って、ストローの端を口に含む。頬を叩く湯気の熱さに耐えながら、息を吸って黒い液体を飲み込み……熱さと苦さに、咳き込んでしまった。
「大丈夫かい?」
「へ、平気です……」
少し鼻をすすりながら、沙月は答えた。そんな沙月の様子を見て、聖樹は小さな笑い声を上げ、
「……あの義手は、研究室に運ばれたから」
すぐに真面目な顔に戻って、そう言った。
「……そうですか」
「役員も研究室のスタッフも喜んでいたよ。貴重なアンナ・モデルがまた一体、無事な形で回収できたってね」
聖樹の口調は苦々しかった。その声音から分かった。彼はまだ、沙月のやっていることを良くは思っていない。できることなら止めたいと、今でも思っているのだ。
心の中に罪悪感がまた積もっていく。だが同時に、沙月は義手を無事回収できたと聞いて安心してもいた。自分は義手の回収に成功したのだ。取引の中身は守られている。だからユウシの役員たちも、自分との約束を守り、沙月の邪魔をすることはないはずだった。
三年半前、沙月の母が他界し、父が行方不明になった直後、アンナ・モデルの欠陥が判明した。本来ならその時点で、すぐに義肢の回収を試みるべきだった。だがユウシの役員たちは、義肢の欠陥を公表し、実地テストの被験者や限定販売版の購入者などから義肢を強制的に回収することをためらっていた。会社のイメージを損ねてしまうからという理由だけではなかった。強制的に着用者から義肢を取り外してしまうと、搭載されているAIに負荷がかかり、AIが壊れてしまうという問題があったのだ。アンナ・モデルには確かに欠陥があったが、その性能を考えれば、ただ廃棄してしまうような真似はできるわけがなかった。アンナ・モデルのデータを著人が持ち出してしまっていることもあり、ユウシの役員は研究材料としてアンナ・モデルを欲していたのである。
そこで、沙月は取引をもちかけた。自分の左腕、オリジナルのアンナ・モデルなら、正規のAI停止コードを送信することで、破壊することなく義肢を回収することができる。だから自分に、義肢の回収をやらせて欲しい。代わりに、回収した義肢はすべて無事な形で引き渡す……それが三年半前、沙月とユウシの役員が交わした約束、取引だった。研究室のスタッフや監査会もそれに賛成した。副社長の聖樹と、研究室の主要メンバーの一人でもあった水萌は反対したが、沙月の決意が変わらない以上、止めることはできなかったのである。
(……矛盾してるわよね、私も)
ふと沙月は思った。
なぜ著人がデータとともに行方をくらまし、アンナ・モデルを回収できないような状態にしたのか。その理由は想像がついた。きっと著人の心理は、臓器移植のドナーの家族のそれと、よく似たもののはずだ。体の一部でもいいから、故人にどこかで生き続けていて欲しいという思いが、ドナーの家族にみられることがあるという。著人の心理も、それと同じものだったのではないか。安和の開発したAIに、故人の心が宿っていると思い込んで……。
そんな著人の心情を沙月は否定した。AIに人の心など宿っているわけがない。人工知能とて所詮はプログラムだ。そんなものをこの世に残すために、死者を冒涜する欠陥義肢を放置しておいていいわけがない、と。そう思いながら、だが沙月自身、安和の義肢にこだわってしまっている。本当に欠陥義肢の回収だけを目的とするなら、聖樹が最初に言ったように情報を公開して、欠陥を利用者に伝えるべきなのだ。それをせずに、自分の手で母親の義肢を回収しようとしていることこそ、沙月もまた著人と同じであることの証明だった。
それだけではない。もし本当に、AIをただのプログラムと思っているのなら、今の左腕を動かすことをためらうわけがなかったし、右腕だってマイコンを積んだ、もっと高性能の義手をつけられたはずではないか。
「……ほんと、矛盾してる」
母親の義肢にこだわっている自分。左腕の中のAIに怯えている自分。マイコンを積んだ義手をつけることを怖がっている自分。どれだけ否定しようとも、沙月と著人は、自分と父親は……
「……きゃっ」
突然頭の上に手がのせられ、沙月は悲鳴にも似た声を上げていた。視線を動かすと、いつの間に近寄ってきていたのか、聖樹が沙月の側に立っていた。頭の上にのせられた手は、聖樹のものだった。
「……今回もよく頑張ったね。お疲れ様」
言って、聖樹が沙月の頭を撫でた。子供のように慰められて、沙月は羞恥に頬を染めていた。
「おじ様……それ、二十歳の女性に対してすることじゃないです」
「まあそう言わずに。大人にとって、子供はいつまでも子供なんだから」
「……その台詞は、結構侮辱ですよ? 女性にとっては特に」
「そうかねぇ」
「……水萌さんに言いつけます」
「……とっ」
慌てて、聖樹は沙月の頭から手を離した。その拍子にコーヒーがかかったのか、聖樹の小さな悲鳴が聞こえた。子供っぽいその声に、沙月は笑い声を抑えることができなかった。
「……ああ、そうそう……あの純一君だけどね」
悲鳴と笑い声がおさまった頃、聖樹が純一の名前を出した。それを聞いて、沙月の顔が強ばる。自分は純一に対して、結局なにもできなかった。それどころか、冬栄がアパートに戻ることを邪魔さえしたのだ。それは仕方のないことだったが、それでも負い目は消えてくれなかった。
「彼……冬栄さんの恋人が引き取ることになったから」
「え……?」
「冬栄さんの恋人もね、やっぱり事故にあってたんだけど、奇跡的に助かったんだって。川の下流で救出されたらしいよ。それでね、冬栄さんの義手のことや、純一君のことを知ってね、責任をとりたいって、そう言ったらしいんだ」
聖樹の説明に、沙月は顔をしかめていた。冬栄の恋人だった男。彼が引き取れば、確かに生活面は改善されるはずだ。だが、純一の心の方はどうだろう? 彼にその気はなくても、結果的に純一から母親を奪っていたことにかわりはない。彼に引き取られたら、かえって純一はつらい思いをしてしまうのではないだろうか。
「まぁ、引き取ればそれで解決、とはいかないだろうけどね」
そんな沙月の考えを読み取ったのか、聖樹は言葉を続けた。
「でも、大人として責任をとろうとは思ってくれたんだから……そこは信じてあげたいと思うんだ、私はね」
言って、聖樹はコーヒーを口に含んだ。
沙月はなにも言えなかった。ただ、中途半端に同情するしかなかった自分よりはましかもしれないと、そう思った。
(……信じることなんてできないけど)
それでも願った。冬栄の恋人だった男が、純一を守ってくれることを。たとえ偽善でも、彼がその思いを貫きとおしてくれることを。
(私も自分の意志を、貫きとおそう……)
母親の開発した義肢を回収する。死者を冒涜するすべてのアンナ・モデルを、自分の手で回収してみせる。それは間違った意志かもしれない。それでも自分は選び、決心したのだから。だから最後まで、この意志を貫きとおそうと思った。
「メンテ、終わったわよ」
パーツの交換作業のために別室に行っていた水萌が、部屋に戻ってきた。手には、沙月の筋電義手を持っている。
「水萌さん、ありがとうございました」
立ち上がった沙月は、水萌から義手を受け取った。やはり一瞬ためらってしまったが、それでも左腕を伸ばし、筋電義手をしっかり掴む。しみ一つない肌色の義手を見つめ、そのソケットを肩にはめた。ハーネスを固定し、手先の向きを調整して、軽く動作確認をし……そして今の自分の両腕を見つめた。
右腕の、古い型の筋電義手。
左腕の、オリジナルのアンナ・モデル。
(たとえ間違っていても、私は私の意志を貫く……貫きとおしてみせる)
奥歯を噛みしめ、両腕を見つめたまま、沙月は心中でそう呟いていた。今はぴくりとも動かない両腕。性能も重さも違う、アンバランスな二つの義手。
それでもこの二つが、今の沙月の腕なのだった。




