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「……なんでここにいるのよ、あんたは」

 呻くように沙月は言った。叫びたいのをこらえたのは、扉の向こうの純一を意識してのことだった。彼にやり取りを聞かれるわけにはいかない。純一に気づかれるわけにはいかないのだ、小納谷冬栄がここにいることを。

「なんで今更、ここにっ」

 それでも怒りを抑えきれず、沙月は足音高く、廊下の向こうにいる冬栄に近づいていった。自分に彼女を怒る資格がないことは分かっている。所詮自分は他人なのだから、口を出す権利など持っているわけがない。それでも、暴走した感情は止まってはくれなかった。

「どの面下げてここにいるのよ……いい大人が、産んだ責任もとらず好き勝手やっておいて……そのくせ最後の最後で、やっぱり自分の子供が大切なんですとでも言うつもりなのっ」

 言葉をぶつけながら、沙月は右腕の義手を真っ直ぐ伸ばした。指先に冬栄の髪の毛を絡ませ、義手を動かすことで顔を上向けさせる。

「答えられるものなら答えてみなさいよ!」

 冬栄の顔を睨みながら、低い怒声を叩きつけた。

 だが冬栄は、黙ったままだった。

 答えられるわけがなかった。

 小納谷冬栄は、既に死んでいるのだから。

「……バカみたい。ただの死体に、なに言ってんのよ、私は」

 冬栄の姿を見たことで高ぶっていた感情が、一気に冷えた。肩から力が抜け、義手が体の脇に下がる。指から髪の毛は自然と抜け落ちた。支えを失ったことで、冬栄の顔が廊下に落ちる。彼女の体勢は、最初の俯せの状態に戻った。その体を包む派手な赤色のワンピースは、まだ濡れたままだ。左足のハイヒールはなくなっている。まるでその代わりだとでも言うように、ストッキングには藻のようなものが絡み付いていた。肌に血の気はない。左手の皮膚はふやけ、真っ白いしわができていた。水死体によく見られる漂母皮だった。

 沙月の目の前にあるのは、命をなくした死体だった。水萌の予想通り、冬栄はあの交通事故に巻き込まれ、亡くなったのだ。

 廊下に横たわるこれは、ただの水死体だ。この中に冬栄の魂はない。意識もない。心だってあるはずがなく、もう二度と、自分の意思で動くことはないはずだった。

 その死体の右腕が、動いた。青ざめながらも肌色を保ち、生身の腕のように血管が透けて見える右腕は、主が死亡したにもかかわらず動いていた。指が曲がり、爪が廊下に突き立てられる。手首が浮き上がり、肘が曲がって、冬栄の体が僅かに前に進んだ。本当に僅か、たったの数ミリだけ、彼女の体は二〇四号室に近づいたのだ。

 数秒その場で止まり、それから冬栄の右手が宙に浮いた。肘が真っ直ぐ伸ばされ、鉤のような指が廊下に下ろされる。鈍い音が沙月の耳を打った。次いで手首が浮き、山のような形を作る。肘が曲がった。冬栄の体がまた数ミリだけ、あの部屋に近づいていった。

 この動作を繰り返して、冬栄の体はあの事故のあった川からここまで来たというのだろうか。こんな亀よりも遅い歩みで。どのような経路で来たのか知らないが、よく人に見つからなかったものだと思う。奇跡と言ってもいいだろう。最低最悪の奇跡だったが。

「……これが母さんの作った義手……こんな悪趣味な真似をするのが、母さんの作った義手なのよ、父さん……」

 動き続ける冬栄の右腕、その義手を見つめながら、沙月は言った。

 冬栄の死体を引きずり、動き続ける義手。着用者が死んだ後もまだ停止せず、死者への冒涜を繰り返しているこれが、沙月の母が開発した義手なのだ。

「こんな、ものが……」

 沙月の母親の名を取り、これらの義肢はアンナ・モデルと呼ばれていた。「生身の体の復元」をコンセプトに研究が進められ、安和が高性能AIの開発に成功したことにより実現した義肢であった。

 安和の開発したAIの性能は、従来の義肢に取り付けられていたコンピュータのはるか上をいくものであった。それまでのAIとは名ばかりのマイコンとは違う、まさに人工知能と呼ぶに相応しいコンピュータ。従来の進化型ハードウェア以上の学習速度をもち、利用者のくせを完璧に学ぶだけでなく、反射的な動作までも実行する。そのため着用者はまったく違和感なく、生前と同じように義肢を動かすことができるのだ。それだけでなく、AIは義肢に取り付けられた感覚受容器の情報を処理し、利用者の脳に送る機能ももっていた。それにより、生身の頃とまったく変わることのない触覚までもが再現されているのである。アンナ・モデルはそのコンセプト通り、利用者に生身と変わらぬ四肢を与えるものであったのだ。

 アンナ・モデルは完璧な義肢と謳われた。実地テストの被験者は皆満足し、手放すことを拒んだほどだ。ある一つの欠陥さえ判明しなければ、すぐに製品化されたはずであった。

 その欠陥が、冬栄の身に起きているこれだった。AIの暴走。利用者があまりに強い意思や感情を抱くと、AIが反応し、義肢を勝手に動かしてしまうのである。「ついかっとなって手が出てしまった」という状況を再現してしまうばかりではない。利用者がもしその直後に意識を失ってしまったら、止まることなく義肢は動き続けてしまうのだ。今沙月の目の前で、義手が冬栄の体を引っ張り続けているように。本来なら異常が解決されるまで送信され続けるはずの緊急コールも、暴走したAIは停止させてしまう。最悪の場合、半永久的に、義肢は死体を弄び続ける可能性すらあるのだ。

「こんな欠陥義肢をこの世に残しておくことが、父さんの望みなの……」

 沙月の視線の先で、冬栄は、いや義手はまだ動き続けていた。機械仕掛けの腕が、水死体を引きずり回している。心などないAIが、遺志を継いだ気になって死体を弄んでいた。それは見るに堪えない光景だ。本音を言えば視線を逸らしたかった。でも、逸らすわけにはいかなかった。あの両親の娘として、そして義肢を回収する者として、自分はこの死体からも、義手からも目を逸らしてはならないのだ。

「私は認めない……父さん、私はこんなもの、絶対に認めないからっ」

 死者を冒涜する義肢など認めない。ましてや、遺志を継いだふりをするAIなど、絶対に認めたりしない。認められるわけがなかった。

 奥歯を噛みしめながら、沙月は冬栄の死体の脇に膝をついた。間近で冬栄を見ると、怒りがまた溢れ出しそうになってしまう。行方をくらましている自分の父と、このアパートに戻りたいなどと願った冬栄。両者に対しての怒りだった。

(なんて身勝手な大人たちだ……)

 そう思った矢先、思い出した。自分もまた二十歳をこえ、年齢では大人の仲間入りをしてしまっていることを。

(ああ、そうか……)

 自分の行いを思い返し、沙月は苦笑した。身勝手な大人たち……自分も、そんな大人ではないか。年齢だけではない。やっていることだって同じだ。周りの忠告も聞かず、心配や迷惑をかけていることを分かっていながら、意地を張っている自分。身勝手なところは父とも冬栄ともかわらないではないか。彼らを怒る資格も、嗤う資格も、沙月にはなかった。

 自分は童顔で、心も子供のまま成長していないと思っていた。それは事実だ。そして成長しないままに、自分は嫌な大人になってしまってもいたのだ。

(だから、これは誰のためでもない……ただ私が嫌だから、気にくわないから……だから意地になってしていることなのよ……)

 母親の義肢を自分の手で回収しようとしていることは、沙月自身の意地であり、意志であった。

「そう、これは私の意志なのよ……母さんっ」

 叫び、沙月は左腕を前に伸ばした。冬栄の右腕の義手に触れ、それを握りしめる。その動きに抗議するかのように、左肩に痛みが走った。先程の比ではない、顔をしかめるような激しい痛みだ。それは一瞬で沙月の脳まで駆け上がると、その意志を、心を踏みつけていく。涙で視界がにじみ、その中を誰かの影がよぎっていった。

「邪魔しないで、母さん!」

 痛みに耐え、涙を振り払い、左手に力をこめる。強く、手の甲が白くなるほどに。

 まるで鈍器で殴られたかのように、衝撃が脳を突き抜けていった。左腕はがくがくと震え、痛みはどんどん強くなっていく。たまらず悲鳴が漏れそうになった。それを唾と一緒に飲み込んで……代わりに沙月は、強く言葉を発した。

「AI停止コード、送信!」

 言葉にあわせて、低いモーター音が沙月の左腕の中から響いて聞こえた。次の瞬間、無数のピンが左手の平の皮膚を突き破って現れた。十数本はあろうかというピンの群れは、そのまま冬栄の義手に突き刺さる。人工皮膚に穴があき、そこからイミテーションの血液が流れ出した。赤い疑似血液が沙月の左手を染める。廊下にできた小さな血だまりは、すぐに乾いて固まった。

 そして……冬栄の義手が、止まった。微かに痙攣した後、完全に停止する。それきりぴくりとも動かない。AI停止コードを受けて、義手のAIが機能を止めたためである。正規のAI起動コードが送信されない限り、この義手が動くことは二度とないのだ。

 ゆっくりと左手から力を抜き、沙月は冬栄の義手を離した。開いた指先から、ぽたりと赤い雫が廊下に落ちた。

「終わった……」

 立ち上がろうとし、だが足に力が入らず、沙月はその場に座り込んでしまった。こんなところを人に見られたら大変な騒ぎになってしまう。その前に、早く水萌や聖樹に連絡をしなければならない。それが分かっていながら、沙月はどうしても動くことができなかった。体が言うことをきいてくれなかった。

「……終わったからね、母さん」

 呟いた後で、沙月は顔をしかめ、自分を罵倒した。いったいなにを言っているのだ。AIなどと言っても、所詮人が作ったものにすぎない。ただのプログラムではないか。そこに人の魂はない。遺志が残されているわけでもない。冬栄の右腕の中にあるAIも、自分の左腕の中のAIも……だというのに、自分はいったいなにを言った。自分は誰に対して怒鳴り、いったいなにを呟きかけていたというのか。

「……ほんとに、バカみたい」

 ぐらりと沙月の体は傾ぎ……廊下に倒れた。床にぶつかった二つの義手が、鈍い音を響かせた。

 沙月の右腕、古い型の筋電義手。

 そしてもう一つ。沙月の左腕、オリジナルのアンナ・モデル。安和が一番最初に開発し、コスト面から採用は見送られた、最高品位のAIが搭載された義手だ。それが、母親とともに事故でなくなった左腕の代わりとなっていた。失踪し、今はどこにいるのかも分からない父親の手によってつけられたものだった。

 義手から逃れようとするかのように体を動かし、沙月はその場に仰向けに寝そべった。首を動かし、視線を廊下の奥に向け、上下逆になった世界の中の扉を見つめる。ここからでは、あのドアに書かれた、落書きのような『二〇四』は見えなかった。あのドアの向こうで、まだ純一は待ち続けているのだろう。もう決して戻ることのない母親を。沙月が今止めた、小納谷冬栄を。

「……私が止めたのは、ただの機械よ」

 呟いた途端、目の周りが熱くなった。鼻の奥がつんとし、寒気にも似た冷たさに体が震えた。

 それでも沙月は、泣かなかった。

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