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 室内に一歩足を踏み入れ、その汚れように沙月は顔をしかめてしまった。

 畳は黒ずんでいた。壁紙は破れ果てていた。地の壁にはカビが一面に浮いていた。部屋の一角ではインスタント食品の容器や袋が山を作り、ゴミを限界まで突っ込まれたゴミ箱は奇妙なオブジェと化していた。天井は怖くて見上げられなかった。

(まいったなぁ……)

 心中で呟きながら、慎重に足を進める。小さな窓から入ってくる陽光はほんのわずかで、部屋の中はひどく暗い。足下はよく見えず、不用意に歩けばなにを踏んでしまうか分からなかった。

 つま先で床を確認しながら、部屋の中心に近づいていく。呼吸がしづらく、動くたびに咳き込んでしまった。苦い唾を飲み込むのがひどく不快で、生ぬるい空気が服の中に入り込んできて、ガムのような粘っこさで肌に纏わり付いてくるのも耐え難い苦痛だった。目の端が痛み、瞼をちゃんと開けていることすら至難のわざだ。鼻はとうの昔に麻痺してしまっているのか、臭いはまるでしなかった。それだけがせめてもの救いだったかもしれない。

(まともな人の住むところじゃないわよ、ここ)

 室内を見回して、改めて思う。控え目に言ってもごみ溜めと形容するのが相応しいこの部屋では、普通の神経の者は一日ともたないだろう。潔癖症の人間なら、入った途端ショック死してしまうかもしれない。

(こんなところで、あの子は一人、ずっと過ごしているっていうの……)

 部屋の中央で足を止め、沙月は入口の方を振り返った。玄関のたたきに、あの少年、小納谷純一が座り込んでいる。壁を背にし、両腕で膝を抱え、右手に水鉄砲を握りしめて。あの場所なら、インターホンが鳴らされたらすぐに扉を開けることができるだろう。きっと彼は、学校にも行かずに、ああして一日中あそこに座り込んでいるのだ。

(帰ってこない母親を、あそこで待ち続けているの?)

 昨日読んだ書類によれば、純一は今年十歳になるはずだった。学年でいえば小学四年ということになる。だが純一は、小学校にはほとんど行っていなかった。入学当初から頻繁に学校を休み、昨年からは完全な不登校になってしまっている。近所の人の話では、コンビニに食べ物を買いに行くとき以外、ほとんど家を出ることはないという。純一には親しい友達もいないようで、ここを訪ねる人もいないということだ。まれに学校の教師や児童福祉士が訪れても、純一が追い返してしまっていた。彼自身にその気はないかもしれないが、水鉄砲で撃たれたりすれば、誰だって嫌になり、離れていくだろう。

(そう、四年前からずっと、あの子は一人でここにいるのね……)

 苦々しい思いで、沙月は書類の内容を思い出した。冬栄は四年前に、前の家を売りに出し、このアパートに引っ越してきている。スーパーのパートから広告会社に転職したのも四年前だ。今の恋人と知り合ったのもその頃で、純一が家に閉じこもりがちになったのも、四年前からだった。

 そして四年前なら、まだ生きていた。沙月の母親、安和は。父、著人も行方をくらましてなどいなかった。新開発の義肢の実地テストも始められている。聖樹からの情報をすべて並べてみれば、推理するまでもなく分かることだった。四年前、冬栄は義手を手に入れたのだ。安和の開発した、新タイプの義手を。

(同時に彼女は、新しい生活も手に入れようとした)

 安和の義手なら、それも可能だろう。冬栄もそう思ったはずだ。だから彼女は、自分の過去を知る者がいない街に移り、華やかな職業に転職したのだ。実際、安和の義手によって、冬栄は新しい生活を謳歌していた。不便な義手による生活に別れを告げ、仕事で成果を出し、自由に娯楽を楽しみ、恋人も手に入れ、その彼の家に入り浸るようになり、

「……いらないものを、ここに捨てたのね」

 室内をぐるりと見回し、沙月は呟いた。この部屋のことをごみ溜めと形容したが、それは的を射た表現だったのかもしれない。小納谷冬栄にとって、ここはいらないものを捨て、また閉じこめるためのごみ溜め、ごみ箱だったのだろう。新しい生活を手に入れようとしていた冬栄にとっては、自分の子供も邪魔なものだったに違いない。自分の過去を知る者であり、自分を捨てた夫を思い出させる者でもあるのだから。

(ごみ箱にお金をかける人なんていないものね)

 緊急時の連絡先がこのアパートだったのも、新しい生活を手放さないための防衛策だったのかもしれない。安和の義手を一度つけてしまったら、古い型の義手に戻ることなどできないだろう。契約期間が過ぎても、ユウシの社員に義手を返したくないと思ってもおかしくはなかった。冬栄はきっと、連絡先を自分が寄りつかないこのアパートにすることで、ユウシの社員から逃げようとしていたのだ。安和の義手と、新しい生活を手放さないために。

(気持ちは分かるけどね……)

 冬栄の気持ちは分からないわけではなかった。肉体の一部を失った事による喪失感や苦痛は自分も味わっている。周りに人たちの態度の変化、偏見の目は今だって忘れていない。冬栄の気持ちを完全に理解することはできなくても、想像することぐらいはできた。だから彼女の行動のすべてを否定することはできないし、するつもりもない。

(でも、あの子への仕打ちまでは認められない!)

 苛立ちを抑えきれず、沙月は床に落ちていた布団を蹴っ飛ばした。ほこりが宙に舞い上がり、この部屋に入って初めて、つんとした臭いが鼻の奥に届いた。悪臭にたまらずむせ、瞳から涙がこぼれ、

「……なに考えてるのよ、私は」

 小さく呟いた。頭を振って、心に浮かんだ考えを振り捨てようとする。自分は義手の回収をしに来ただけだ。冬栄がどのような思いでいようが、彼女の子供がどのような目にあっていようが、関係ないではないか。それに自分には、他人の家族をどうこうすることなどできない。なにもできないくせに、悲惨な境遇を目の当たりにしたからといって同情などするのは、それこそ許されないことだろう。

(……いっつも私は間違ってばかりね)

 そもそも部屋に入り込んだことこそ間違いだったと、沙月は思った。純一のことが気になって、放っておけなくて、それで部屋に入って……その後、自分はなにをするつもりだったのだろう? 書類から得られた情報以上のことはなにも知らず、冬栄の生活を壊そうとしている自分が、いったいなにを。

(もう部屋を出た方がいい……)

 ここにいてもなにもできないのだから。なにもできないくせに善人を気取ることこそ、一番許されないことなのだから。

 吐息をつき、沙月は足を玄関の方に向けた。重たい気分で足を動かしたとき、つま先になにかが触れた。視線を下げ、それを見やる。

(……写真?)

 それは写真だった。何枚もの写真が床に散らばり、一部のものは布団の下から端っこだけを覗かせている。どうやら沙月が蹴ったことで布団が動き、その下敷きになっていた写真が外に出てきたようであった。

 見るべきではない。そう思いながらも、沙月の膝は自然と曲がってしまっていた。その場にしゃがみ込み、落ちていた写真を覗き込む。見つめた一枚には、四〇歳前後と思われる女性と幼稚園ぐらいの子供が映っていた。女性は、小納谷冬栄だった。そして、冬栄に打たれたのか、頬を腫らして大泣きしている子供は、純一だった。純一の右手には水鉄砲が握られている。大泣きしている純一を前にして、冬栄は怒ったような困ったような表情を浮かべていた。僅かに開いた彼女の口、そこから漏れるため息の音が聞こえてきそうだった。

 この写真を撮ったのが誰なのかは分からない。だが状況だけは想像できた。水鉄砲で悪戯をした純一を、冬栄が叱ったのだろう。それで純一は大泣きしてしまい、まさかそんなに泣くと思わなかった冬栄は、叱ればいいのか慰めればいいのか分からず困ってしまっている。きっと、そんな状況なのだ。

(そうか……あの子は、やっぱり……)

 写真から顔を上げ、沙月は玄関のたたきに座り込んでいる純一を見つめた。その右手に握りしめられた水鉄砲。昨日今日と、沙月の服を、アパートの壁や廊下を濡らした彼の銃は、だが誰かを狙ったものではなかった。あの銃は、誰かを撃つために引き金を引かれていたわけではないのだ。純一はただ、

(母親を、呼び戻したかっただけなのね)

 悪戯を続けていれば、この写真を撮ったときのように、また母親が叱りにきてくれるのではないか。そう考えて、純一は誰かが尋ねてくるたびに水鉄砲を撃っていたのだろう。半ば諦めながら、それでも自分にできることはこれだけだと思い、最後の希望に縋って。

「そんなことしたって、戻ってくるわけないじゃない……」

 呟きながら、沙月は右腕の義手を動かした。肘だけを曲げ、右手の指を布団の端に引っかける。中腰になって後ろに下がり、布団をもとの位置に戻した。写真は偶然布団の下敷きになっていたわけではないのだろう。多分純一は、この部屋の中で一番汚れていない場所を考えて、それで布団の下に大切な写真をしまっていたのだ。

「やっぱり、部屋に上がり込んだりしなければよかった……」

 写真も見るべきではなかったと、沙月は後悔した。なにも知らずにいればよかったのに。そうすれば、ためらいなく義手を回収することができた。罪悪感を抱くことなく、最悪のケースを願っていられた。でも、もうできなかった。義手を回収することにためらいを覚えてしまう。最悪のケースを願っていた自分の醜さを思い出し、吐き気が込み上げてきてしまう。間違った自分の決意に胸を貫かれ、その傷の痛みに涙まで出てきそうになった。

(それでも、私は!)

 奥歯を噛みしめ、瞼をぎゅっと閉じる。絶対に泣かない、泣いてはいけない。目的を果たすまで、母の開発した義肢をすべて回収するまで、自分は泣くわけにはいかないのだ。

 ずきんと、突然左肩が痛んだ。その痛みに、はっと顔を上げる。

「まさか……」

 ゆっくりと、沙月は立ち上がった。右腕の義手を身体の脇に垂らし、玄関の扉を見つめる。左肩の痛みは治まっていない。ずきずきと、まるで時計のアラームのように規則正しく、繰り返し痛みを沙月に与えていた。

「……最悪のケース、か」

 足を踏み出しながら、沙月は思った。これは自分への天罰なのだろうか、と。中途半端に純一に同情した自分への。もしくは、間違った決意を貫き続けている自分への。だとしたら仕方ないだろう。確かに神様が怒るのももっともかもしれない。

 座り込んだままの純一を避けて、沙月はたたきに立った。彼の方は見ようともせずに、義手を前に伸ばす。湾曲した右手をドアノブに引っかけ、回した。

 また水が、沙月の服にかけられた。純一が水鉄砲の引き金を引いたのだ。沙月を家の中に通した後、すぐに純一は水鉄砲に水を入れていた。母親を呼び戻すための悪戯を、ほとんど諦めながらも純一はまだ繰り返している……なんという皮肉な現実だ。沙月はまた泣きそうになった。

(泣くな!)

 心中で叫び、ドアを押し開け、純一をもう一瞥することもなく、沙月は外に出た。純一が部屋の外を見る前に、素早くドアを閉めた。

(あの子に見せるわけにはいかないもの)

 嘆息しながら、廊下の先を見やる。

 そして、沙月は対峙した。

 小納谷冬栄と。

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