遠くて近い俺のマドンナ
東京と千葉の境目あたりにある、駅前の大通りから少しはずれたアンティーク調の小さな喫茶店で、俺は彼女と久しぶりに出会った。
いつも通りに部活が終わって、家に帰ってくつろいでいたとき、携帯から「オススメの喫茶店を見つけたから週末、久しぶりに会わない?」といつもは聞きたくても聞けない穏やかな声が届いたのだ。
極度に緊張した俺は、声が裏返るんじゃないかと心配しながらつたなく、彼女のペースで、会う日にちと時間を決めた。
今は大会が終わったばかりの夏の日。
今年新年のお正月以来から会ってはいないから、彼女と会うのは約半年ぶりになる。
それまでは、パソコンや携帯での電子メールでしか、彼女と連絡は取らなかった。
声が聞きたくなかったわけじゃない、むしろ、自分は彼女には到底おいつけない目下の位置に自分がいるから面と向かいあうことがとても恥ずかしかった。
幼馴染、鮎川雄一の姉――――鮎川由美子と。
当日の日、何を着ていくか悩んだ俺はクローゼットから服を全部ひっぺがし、なるべく普段とは違う、落ち着いた大人の格好をしようか、でもやはり無理をして背伸びをしている様を彼女に笑われはしないか、さんざ悩んだあげく、結局いつもより少し高めの服を選んだ。
歯も念入りに磨き、朝シャンもした。
鏡を見て、自分を見る。自分でいうのもあれな気がするが、一般的には色男と呼ばれるジャンルの顔立ちはしていると思う。スタイルだって悪くない。それに、言い寄ってくる女の子はたくさんいる。
現在進行形で付き合っている女の子はいた。
その女の子とのデートの約束をキャンセルし、俺は彼女、由美子さんと会うことに決めた。
ただ、彼女に会いたかった。
今年の正月、幼馴染のよしみで鮎川家に遊びに行ったときを思い出す。
彼女は赤い晴れ着姿で、にっこり笑った。控えめな化粧と気品が印象的だった。
「ああ、片桐君。あけましておめでとう。」
そのときの感情は、今まで自分にはなかったものだった。
綺麗な人…それだけでは足りなかった。
自分の中で、欲情とか、そうしたものがあるのなら、まさにそれだったのかもしれない。
自分の中の、この人が欲しい、と思える様な気持ち…独占したいと思った。
このときに冷静で理性的な判別がつけたなら、俺は只の幼馴染の憧れの姉として見ているだけだったかもしれない。
もともと、小さい頃から鮎川家には遊びに行っていたから、そのたびに俺はいつも彼女を探していた。彼女はいつも綺麗だった。理想の女の人と聞かれればまっさきに彼女の名前をあげただろう。
まだ本当に小さかった幼稚園くらいのときには、彼女と雄一と3人で千葉の海沿いをはしゃいで遊んだものだった。
でも、その日の彼女を見た時、何故かもうすぐ十五を迎えようとしたとき、俺の中で違った気持ちが芽生えた。
淡くて、砂糖菓子をほおばったときに味わう様な甘い、とろける様な感情だった。
これが俺の本当の初恋なのかもしれなかった。
俺はその時、隣にいた雄一を激しく羨んだ。
彼女は品の良い愛想笑いを浮かべて、俺の手にお年玉を握らせた。
俺は受け取った後、雄一の部屋に入った。
雄一の取った写真を見た後、機会を窺って、俺はトイレに行くふりをして一人で家にいる彼女を探した。
彼女は庭で、花の手入れをしていた。
「あら、片桐君、どうしたの?こっちへ来て、リンドウの花私が植えたの。見てよ。」
俺はリンドウの花を見た。鮮やかな紫色と細い茎が彼女のイメージと良く似合った。
「雄一とはもうお開き?駅まで車で送っていこうか?」
そう彼女が振り向いて言ったとき、俺は持っていたお年玉を持っていた手を彼女の前に突き出した。
「これ…お返しします」
振り絞る様に言ったとき、彼女は少し眉をひそめた後、「どうして?」と聞き返した。
「俺は…俺は…、貴方が欲しいんです。貴方の事が好きになったんです。」
彼女は、笑わなかった。不思議なものを見る眼差しで俺を数秒見つめつづけた後、ゆっくりとお年玉の袋を俺の手から取り、哀愁の様なこもった眼差しでにっこりと笑いかけた。
「……変った子。マセガキめ」
俺は恥ずかしさで真っ赤になった。雄一に、聞かれてはしないか心配になった。もし聞かれていたら…考えるだけでも恐ろしい。只、もうその時は、無我夢中で、拙く口説いている自分を冷静に認識するまで時間がかかった。
俺を冷静にさせたのは、彼女が次に見せた大人の、含んだ様な満足そうな視線だった。
「…でも、悪くないわ。でも、庭にでるときは今度は靴を履いてきてね。雄一のサンダル借りればよかったのに」
彼女はクスクス笑って言った。
彼女を探している最中、俺はずっと裸足だったのだ。
縁側で彼女に呼ばれて浮かれた俺は、裸足のまま庭に出てきてしまっていた。
「あ…」
恥ずかしさのあまり、気まずくて俯いて頭を下げ、上げたとき、俺は目の前に一枚の名刺を差し出された。
「それ、あたしのメルアド。と、携帯番号よ。また話でもしましょう。ほら、雄一に見つかるとやばいでしょ、二階へ行った、行った」
彼女は笑いながら、俺に名刺を渡し、手でシッシッとポーズをとった。
俺は振り返りながら、縁側で、念入りに庭についた砂を落とし、「ありがとう、由美子さん」と言った。
「いっとくけど道は険しいわよ。覚悟なさい」
彼女はそれだけ言うと、また庭の手入れをし始めた。
俺は舞い上がった気持ちをいっぱいにして、雄一の部屋までいくまでの間、にやけそうになる口元を必死で隠さなければならなかった。
「随分、長いトイレだったね。大丈夫? 片桐?」
「ああ、ごめんごめん、待たせちゃった」
その時、雄一の目が一瞬光った様な気がしたが、俺は気にしなかった。
それから、俺と彼女は連絡をこっそり取り合う仲になった。
電話や、携帯越しだったが、その向こう側で、彼女は今何をしているのか想像するのが楽しかった。
何より、彼女と繋がっていられるのが嬉しかった。
大抵は俺は部活の話や学校で面白かった話、告白されたのが男で驚いたという話をすると、
彼女は大抵懐かしい、と答えた。
何か物足りなくなった。部活や学校の話だけでは、彼女の世界と俺の世界を結ぶものがなくなってしまうので、雄一に教わった紅茶のいれ方や、コーヒーのいれ方、最近ハマっているテレビ、こっそり飲んでみた美味しいお酒の話をすると、彼女はいいコーヒー豆の売ってる店や、紅茶をいれるときのコツ、社会的マナーなどを教えてくれ、話をするたびに、俺と彼女との距離を縮められる錯覚を呼び起こした。
そうして、大会前の部活の猛練習が始まって以来の連絡だったので、彼女から連絡が来た時には、俺は喜びのあまり、部屋でガッツポーズをとった。
俺は、今喫茶店で少し早く、彼女を待っている最中だ。
きっと彼女はアイス・カフェ・ラテを頼むだろう。
窓際のテーブルで、アイスミルクティーをストローでかきまぜて、
窓越しに彼女が来そうな遊歩道の道行く人を探した。
すると、後のガラスの方からツンツン、と音がした。
振り返ると、俺が探していたほうとは逆方向に、彼女は立って、窓越しに俺の反応を楽しんでいた。
俺はまた、恥ずかしくなって曖昧に笑った。
彼女はというと、やっぱりあの正月の日に見た、彼女の笑顔そのものだった。