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未来の私がネタバレしてくる! 『公衆の面前で婚約破棄されるわ』って、どうせなら詳しくお願いできます?

掲載日:2026/10/20


『今日は昼からひどい雨よ。そのリボン、お気に入りなのでしょう? 濡れるからやめておきなさい』


 朝の身支度の最中に、手鏡がしゃべった。

 正確には、手鏡に映った美女がしゃべった。


 祖母から譲り受けた、我が家に伝わる銀の手鏡。

 昨日までは異常なく、私の顔を映していた。


 それがどうして、見知らぬ女性を映しているのか。しかも勝手にしゃべるし。


 蜂蜜色の髪は、私と同じ。若葉色の瞳も、私と同じ。

 けれど頬の丸みはあちらがすっきりしているし、目元は涼しげで艶がある。首から肩にかけての線なんて、絵画から抜け出してきたみたいだった。


 まさか、と思ってすぐに打ち消す。いくらなんでも、私がこんな、ねえ?


『なにを見惚れているの? まあ、貴女の見た目では憧れるのも無理ないけれど』


「なっ――!?」


 なんなんだ、この女は失礼な!

 憤慨はしたものの、見惚れていたのは事実だ。


 実のところこの私、フィオナ・ラングレーは侯爵令嬢にして、この国の第二王子と婚約関係にある。

 齢十五にして超勝ち組との自負があった。


 ただ顔立ちは地味だしスタイルは並だし才能も平々凡々。これといって際立ったところがなく、無個性の体現者と揶揄される始末。

 だからまあ、美人で自信に満ち溢れているこの女性に、憧れを抱かないと言えば嘘になる。


 でもやっぱり冷静に考えて、


「これって――」『夢じゃないわよ?』


 先んじて言葉を被せられ、ひとまず鏡を机に伏せた。

 不可思議な事象を日記に記し、窓の外に目をやる。


 うん、とてもいい天気だ――。




『明日、侍女のニナが熱を出すわ。貴女に移って三日寝込むことになるから、近づかないことね』


 その夜。手鏡を見ると、やはり鏡の中にいた美女がそう言った。


「……リボン、ダメになった」


『あら、残念だったわね』


 見下すような笑みにカチンとくる。言外に『忠告を無視するからよ』と鼻で笑っているようなイヤらしい笑みだ。

 たしかに、この美女が言うように、今日は昼から土砂降りになった。リボンどころかドレスも靴も、散々な状態になったのだ。


「あなた、何者?」


 未来予知ができるとか? そもそも鏡の中から話しかけるなんて、どこの高位魔術師の仕業だろう?


『貴女が気づくまで教えない』


 こいつ……。

 けど、口角を持ち上げるその様すら絵になる。ため息が漏れそうになるのをぐっと我慢して。


「で、ニナだっけ? 朝からずっと元気だったけど――」


 ちょっと待てよ、と思い返す。

 土砂降りで散歩から逃げ帰るとき、彼女もまたびしょ濡れになったのだ。自分のエプロンやら上着やらを私に被せ、「もう意味ないからやめなさい」と言っても聞かず。


 私はすぐさま部屋を出た。

 近くにいた使用人に声をかけ、ニナをすぐ休ませるよう言いつけた。明日いっぱいはあたたかくして寝ているように、と強めに。


 部屋に戻る。

 手鏡を起こした。


『甘いわね。でも唯一の長所ですもの。改める必要はなくてよ?』


「知った風な口を利くのね。貴女って……」


 いけない。淑女にあるまじき言葉が出かかった。


「熱が出るかどうかはしらないけど、あの子は働きすぎなきらいがあるの。だから雨に濡れて弱っているときくらい、しっかり休ませたいだけ」


 長々と語ると、手鏡の美女はにやにやしていた。ムカつく。


 けっきょくニナは熱を出した。

 でも早めにあたたかくして休んでいたからか、翌日にはすっかり熱も治まり、念のため翌日もお休みさせたので、その次の日には元気に仕事に戻っていた。


 で、私はといえば――。


『ふふ、貴女は貴女で濡れネズミだったもの。移されたのではなく、仲良く熱を出した、ということね』


 そう、三日寝こんだのだ。

 この女の未来予知だかなんだかも、当てになるんだかならないんだか。




『さて、ここからが本題よ』


 ようやく熱が下がったかと思ったらこれである。


「今度は何? 言っておくけどひとつ前のは当たらずとも遠からず、くらいだったじゃない。私、信用してないからね」


 毒を吐くもお構いなしで、手鏡の女は言う。


『今日から三日後、東の街道の峠で、商隊が賊に襲われるわ。ラングレー家にとってかけがえのない人物が危険な目に遭うから、なんとしても食い止めて』


 いきなりスケールが大きくなったなあ。

 でもこれはない。さすがにない。


「東の街道ってわりと治安がいいはずよ? 山賊が出たなんて話は聞いたことないわ。それに東からの商隊なら重要な取引先ではあるけど、『かけがえのない』ってほどの人なんていたかしら?」


 私を箱入りのお嬢さんと思ってもらっては困る。

 領地や王国の情報収集には余念がないし、あれこれ学んでもいるのだ。いずれ王族になるのだから、凡人なりにやらないとね。限界はもちろんあるのだけど。


『山賊ではないわ。〝賊〟と言ったのよ。まあ、実際には山賊に見せかけてはいるのだけれど』


 意味がわからない。


「つまり、物品やお金じゃなくて、その『かけがえのない人物』が狙われているってこと?」


『あら、足りないオツムにしては理解が早いわね』


 本当にひと言多いなこの女。


『ともかく、今のうちに父親を説得しておきなさい』


「説得って言われても、誰が信じるのよ、こんな話」


『貴女の父親なら信じるでしょう? ほら、ちょうど貴女はこの三日、熱で寝こんでいたじゃない』


「意味わからないこと言わないで。そもそも熱が出たのはそっちのせいでしょ」


『最初の忠告を聞かなかったのは貴女。非はどちらにあるのかしらね?』


 ぐっ……。悔しいけど、あっちの言い分が正しい。


『熱にうなされて夢に見た。それでいいんじゃない?』


「貴女ね、さすがにお父様をバカにしすぎ。そんなので信じるわけ――」




 ――信じました。




 ひとまずやるだけやってみるかと、ノックもそこそこにお父様の執務室に乗りこんでみた。


「お父様、大変です。三日後、東の街道の峠で――」


 熱にうなされて夢に見た。夢にしてはすごくはっきりくっきりしていて夢とは思えなかった。てなことを熱っぽく、ちょっと演技が臭かったかなあと後に反省するほどねっとりと。


 お父様は書面に走らせていたペンを止め、険しい顔つきで聞いていた。あ、これ怒られるやつ。などと恐れおののいていたところ。


「三日後の、東からの商隊……。なるほど、あり得るな」


 お父様はなぜか納得し、


「フィオナ、お前はもしかすると、特異な魔術の才能があるのかもな」


 意味不明なことを口走ると、


「ラングレー領の境から護衛をつけるか。ご苦労だったな、フィオナ。もう夜も遅い、早く寝なさい」


 いつもの優しいお父様に戻ったのだ。




『言ったとおりでしょう?』


「いや、娘に甘いって雰囲気じゃなかったし。なんなのあれ?」


『なんだっていいわ。ともかく貴女は護衛隊についていけばいいのよ』


「は?」


 なに言っちゃってんのこの人?


『治癒の魔術は勉強中でしょう? 拙かろうが、かすり傷でも癒せれば上々よ』


「だからなんで知ってるのよ!? こっそり練習してるのに!」


『さあ? どうしてでしょうね。そういえば、このところ寝こんでいたから、日課もこなせずに身体が鈍って――』


「だから! なんで! そんなことまで!?」


 本当に気味が悪い。どこまで見透かしているのか。


『あら、まだわからないの? いいえ、違うわね』


 ギラついた視線に身体がこわばる。若葉色の優しい色なのに、皮膚を斬り裂くような鋭さを感じた。


『いつまでわからないフリを続けるのかしらね』


「……」


 言葉が出ない。

 だって認めてしまえば、自分が目指す先(・・・・・・・)が揺らいでしまいそうだから。


 鏡の女は首を傾いで流し目を寄越す。


『まあ、いいわ。どのみち貴女は行くしかない。もう知ってしまったのだから』


 私は手鏡を机に伏せた。そのまま、眠りにつくのだった――。






 翌朝、お父様に護衛隊への同行を願い出た。


 言われたとおりにするのは癪だけど、無視するのも大人げない。ケガをする人がいるとも言われたし。

 ただ、さすがに今度は無理だろう。侯爵家の娘で、第二王子の婚約者。賊が出ると夢で見た峠に、わざわざ出向かせる理由がない。

 お父様はペンを止め、私の顔をじっと見て――


「また許されたんだけど?」


 荷馬車にガタガタ揺られながら、私は独りごちる。

 ちなみに手鏡は持ってきていない。持っていけば、あれこれ聞いてしまいそうだったから。


 もっとも同行の条件は三つ。


 身分は伏せる。

 護衛隊長のそばを離れない。

 何があっても荷馬車から出ない。


 そして――。


 首元から服の中へ手を突っこみ、引っ張り上げる。

 手のひらに収まる大きさの、琥珀の護符(アミュレット)だ。楕円形をした琥珀を銀枠で留め、細い革ひもで首から下げている。


『我が家に伝わる家宝の護符だ。いざとなったら使いなさい』


 こんなものがあるのも初耳だし、そもそも私は魔力がほぼない、はず。いざとなったらもなにも、ただのお守りでしかないのでは?

 それなりに固そうだから、一回くらいは剣で斬りつけられても防げるかも。運がよければ、だけど。


 領地の境で、東からの商隊と落ち合った。

 荷馬車五台の商隊に、こちらは護衛の兵が十二人と幌付きの荷馬車が一台。その荷台で、包帯やら薬箱やらに囲まれて座っているのが私だ。


「治癒士見習いのフィーです。よろしくお願いします」


 地味な綿のワンピースに前掛け。髪は一つに束ねて白い布で押さえている。

 護衛隊長以外は誰一人、私を侯爵令嬢だなんて疑いもしない。地味な顔立ちがこんなところで役に立つとは……ちょっと複雑。


 さて、問題は『かけがえのない人物』だ。


 恰幅のいい商隊長は、指という指に指輪をはめていた。うちの大事な取引先だ。できればこの人でないことを願う。


 他に目につくのは灰色の外套の青年くらい。

 ただ、目元以外は布でぐるぐる巻きにしているので、青年かどうかもちょっと怪しい。なんとなく、雰囲気的にそう見えるだけだ。


 腰に剣を下げているけれど、護衛にしては身なりがいいし、商人にしては目つきが鋭い。

 商隊長となにやら話していた。うなずくか首を振るかで済ませている。私と目が合っても会釈すらせず、馬の蹄を見に行ってしまった。


 これほど愛想がない人がいたとは。

 すくなくとも、かけがえのない感じはしなかった。




 峠道に差しかかったのは、あの予告から三日後の昼ごろだ。

 道幅が狭まり、片側は崖、もう片方は深い林。

 荷台の隅で膝を抱え、自分が襲う側ならこの辺りでやるなあ、などと漠然と考えていたら。


 ひゅっ、と空気を裂く音がした。


「賊だ! 迎え撃て!」


 護衛隊長の怒鳴り声。馬のいななき。幌の向こうが、パッと明るく光った。魔術まで使うの?


 護衛の兵も魔術で応戦。さらに剣と剣のぶつかる音が四方から押し寄せてきた。

 私は薬箱の陰で身をひそめる。


「荷は放っておけ。奴を捜すんだ!」


 奴……目的はやはり『人』のようだ。揃った掛け声。指示は護衛隊のそれと同じく理路整然。


 本当にただの賊じゃない!

 統率された兵士たちが、なぜ商隊を襲う? 捜している誰かとはいったい――。


 ばさり、と後ろの幌がめくれた。


 覆面の男が、荷台に片足をかけていた。私を見て目を細める。


「なんだ、女か。いや、ちょうどいいな。人質にもってこいだ」


 大股で近づいてきて、ごつごつした手が伸びてくる。

 恐怖で竦む。なのに勝手に身体が動いた。


 私は前の幌をくぐる。荷台から転がり落ちた。服の上から琥珀の護符を握りしめる。荷馬車から出るな。約束破ってごめんなさい。


 小石が浮かぶ土の上を這う。立ち上がった。そのまま走る。


「待て!」


 待てと言われて待つバカはいない。

 だが相手はほぼ確実に手練の兵士。どさりと着地する音が背後から。地面を蹴る音が近づいてきた。


 ぞわり、と首筋に悪寒。


 瞬間、私は身を低くした。

 頭の上を通過する太い腕。手首をつかみ、両脚に力をこめて跳ね上がった。背で相手の巨躯を受け、弾くように投げ飛ばす。


「どぉわっ!?」


 覆面男は宙を舞い、背中から地面に叩きつけられた。


 び、びっくりしたぁーっ!


 王子妃教育には、護身術も含まれている。凡人の私は、人一倍どころか三倍やってようやく人並み。教えられた型を、欠かさず地道に繰り返す毎日だった。熱にうなされてるとき以外はね。

 まあ、教官には『型だけはきれいなんですけどねえ』と嫌味を言われ続けたけど。


 そんな私がまさか、大の男を投げ飛ばす日がくるなんて。


 剣戟が止む。

 賊も、護衛隊の兵も、私や投げ飛ばされた覆面男を見て呆けていた。


 それは一瞬の出来事だったけれど、また身体が勝手に動くには十分な隙だった。『隙があったら即行動』と教えてくれた嫌味な教官、本当にありがとう。


 すぐ近くで、剣を交差して互いに押し合う二人が見えた。

 片方は灰色の外套。あの無愛想な人だ。肩口の袖が破れ、赤いものがにじんでいる。


 私は狙いを、もう一方に定めた。


 一足で肉薄。

 二拍目は身をかがめて相手の視界から消え。

 三を数えたとき、片脚を軸に、もう片方の脚を思いきり下から突き上げた。


「ごぎっ!?」


 顎に命中。

 覆面の賊は剣を握った姿勢のまま後ろにゆっくり倒れていった。


 ドキドキが止まらない。

 まさか、自分が本職の兵士を蹴り倒してしまうなんて。


 がくがく震える脚でなんとか立っていられたものの、まだ気が休まるのを許してくれないらしい。


 灰色の外套が、こちらを向く。

 手を伸ばせば届く距離だ。


 その背後に、覆面の賊の影。剣を振り上げ、音もなく迫る。


 声が出なかった。

 代わりに手が動いた。大立ち回りでいつの間にか服の中から出てきていた、琥珀の護符(アミュレット)を握りしめる。紐を引きちぎり、投げつけた。


 これで防げる、なんて思ってはいない。

 背後からの刺客の注意をすこしでも逸らせれば、と必死だった。


 それでも私はこのとき、強く願ったのだ。




 ――守って。




 外套の彼は眉根を寄せ、護符の軌跡を視線で追う。

 見込みは外れ、賊は護符には目もくれず、剣を勢いよく振り下ろした。


 このままだと彼が――そう、恐怖した瞬間。


 カッ、と。

 眩いばかりの光があふれる。

 外套の彼の肩越しを通過した護符はその瞬間、蜂蜜色の光の壁となって彼の背後を覆い尽くした。


 凶刃が弾かれる。

 覆面は目を押さえて悶絶した。


 外套の青年は、振り向きざまに賊を斬る。

 覆面の賊はその場に崩れ落ちた。


「お、お嬢さ――フィー殿に後れを取るなぁ!」


 護衛隊長の雄叫び。兵士たちが一斉に応えた。

 劣勢が一転、護衛隊が賊を押し返していく。


 形勢が傾くと、賊の引き際は早かった。笛の音ひとつで林の奥へ消えていく。


 静けさが、戻ってきた。


「ぁ、あれ……?」


 膝の力が抜けていく。体力だけではない。なにか別のモノが、身体の奥底からごっそりなくなった感覚。


 灰色の外套が、慌てた様子で手を伸ばしてくるのが見えた。なにか言っているけど聞こえない。

 直後、視界が暗転した――。


◇


 青年は、倒れかけた娘を片腕で受け止めた。

 軽い。

 羽のよう、とまでは言わないが、十五かそこらの娘の重さだ。


 実際の年齢もそのくらいだろう。幼い顔を見ていると、その向こうに、琥珀色の石が目に留まった。

 娘を支えたまま拾い上げる。


 銀枠に嵌めこまれた琥珀の護符だ。


「ん? これは……」


 銀色の枠の裏側に、小さく紋章が刻まれている。


「ラングレー侯爵家のものか」


 どうやら、ただの治癒士見習いではないらしい。

 青年は護符をポケットに押しこむと、もう片方の手を彼女の膝裏に通した。肩の傷がずきりと痛む。


 そうして彼女が元いた荷馬車へ向け、歩き出した――。


◇


 揺れている。どこかふわふわして心地いい。

 けれど急速に意識が戻ってくると、幸せ気分は吹き飛んだ。


「お目覚めか?」


 すぐ近くに灰がかった青い瞳。それ以外は覆面で隠れているけれど、紛うことなき男性の顔面だ。あの無愛想な青年。つまり私は今、彼に抱きかかえられているわけで。


「~~っ!」


 声にならない。振りほどこうにも力が入らなかった。


「お、下ろして……」


「立てるのか?」


「き、気合で……」


 青年が目をぱちくりさせる。そして「ぷっ」と吹きだした。


「くくく……。いや、失礼。緊急事態だ。気にするな」


 感情豊かな反応に戸惑う。目元以外が隠れた顔はそのままに、ずいぶん印象が違って見えた。


 幌付きの荷馬車まで運ばれて、荷台の縁に座らされた。


「君のおかげで命拾いした」


 青年は外套のポケットに手を入れ、琥珀の護符を差し出した。


「ぁ……」


 そうだった。家宝を放り投げたのだった。

 受け取って裏返す。

 琥珀も銀の縁も無事。小さな傷は前からついていた、と思いたい。ただそれよりも――。


 ……裏の紋章、見られた?


 上目に彼の顔を窺う。

 目元しかわからないので、判断が難しい。

 紋章ひとつでどこの家かなんて、ふつうはわからない、はず。変に言及すれば墓穴を掘りかねない。

 私はそそくさと護符を前掛けのポケットにしまった。


 と、青年が踵を返す。


「ちょっと、どこに行くんですか?」


「ん? 看病が必要か?」


「私じゃなくて、貴方のです」


 青年は「ああ」と自身の肩を見やる。


「かすり傷だ。問題な――って、なにを」


 そこらに転がっていた包帯と薬をつかんで荷台から飛び降り、襲いかかった。

 腕を取る。ずっしりと重い。筋肉質だったことに面食らう。


「おい」


 無視し、傷口を見た。

 血はさほど流れていないものの、皮膚をかすった程度では収まらない。かすり傷とは呼べなかった。

 消毒液をぶちまける。


「――っ」


「あら? かすり傷ではなかったのですか? 痛そうですけど」


「……すこし、沁みただけだ」


 ぶっきらぼうな物言いに、思わず口元が綻ぶ。

 薬を塗りながら、集中を高めた。


「……?」


 不審に思われているが気にしない。説明すると止められそうだし。

 傷口を睨みつけた。

 書物に記されていたとおりの言葉を口ずさむ。


 ぽわっと小さな光が灯った。


「ぶはぁっ……」


 息をするのを忘れていたらしい。頭がくらりとした。

 ひとまず血は止まったようで、それでも傷口がくっつくほどの治療はできなかった。当たり前だけど。


「ふぅ……、ぉ、おぉ?」


 ひと息ついた。さらに頭がくらくらした。手にした包帯を落っことす。

 またみっともなく気を失うわけにはいかない。両脚に力をこめて耐えるも、変に力んだのでバランスが――「おっと」


 背中を支えられた。腿の裏にも腕が回される。


「だ、だから、それはやめて……」


 じたばたするも、


「すぐそこだ。我慢してくれ」


 真摯に言われては、大人しくするほかなかった。


 再び荷馬車の縁に座らされる。

 あちらの顔を直視できず、上体だけ振り返って包帯を求めてごそごそ。顔の火照りは落ち着いてくれないので、仕方なく包帯を握りしめて向き直る。


 腕の傷にだけ視線を合わせてぐるぐる巻き巻き。


「下手くそだな」


「悪かったわね!」


「慣れてないのか」


「いや、その、見習いなもので……」


 そういう設定なのを思い出す。


「見習いの治癒士が手練の賊を二人ものした(・・・)、か。君、素人ではないな?」


「いやだから、あれはその、淑女の嗜みと申しましょうか……」


「ほう? 近頃の淑女は荒事も嗜むのか」


 ぐ、ぬぬぬ……。

 ダメだ。なにを言っても粗しか出てこない気がする。ここは攻めに転じなければ。


「そちらこそ、商人にしては剣が使えすぎますし、護衛にしては身なりが良すぎます。それにその覆面」


 青年は、巻きかけの包帯に目を落とした。


「お互い様。違うか?」


「それはまあ、そうね……」


 たしかにお互い、訊かれたくないことを抱えているようだ。


 しかもこいつ、はぐらかし方が堂に入ってるし。

 やはり不利なのはこちらか。こういう駆け引きにはまだ慣れていない。


「はい、終わり」


 包帯を巻き終えて、痛んでない方の肩を軽くぽんとたたく。


「ああ、助かった」


 青年は踵を返すと、


「基本に忠実。それが難しい」


 ぽつりとこぼした。

 ひらひらと包帯をした方の手を振るその背を眺めながら、ふと気づく。


「今、褒められた?」


 毎日のように鍛錬を続けるも、基本の型しか身につかないと落胆していた。

 その努力が、報われた気がする。いや、本当に褒めたのかはわからないのだけど。


「はぁ~~」


 一気に力が抜ける。だが気が休まる時間はないようだ。


「準備ができ次第、出発する。負傷者は後部の荷馬車に連れていけ」


 いちおう治癒士ですからね。見習いだけど。

 最初に連れてこられたのが、私が投げ飛ばした賊だったのはご愛敬。


 次に運ばれてきた商隊長は、転んで膝を擦りむいただけで、指輪は一つも欠けていなかった。そのかすり傷を癒やしただけで、両手を握って大げさに感謝された。

 ……あれ? だったら『かけがえのない人物』って、けっきょく誰だったの?


 にしても、これでまた的中しちゃったのか。


 手鏡の中の誰かの予言。

 賊の襲撃なんて大事をここまで正確に言い当てたのなら、もはや疑う余地はない。


 けれど同時に、腑に落ちなかった。


 未来のことを教えるなら、詳しくお願いできますか?


 そうして私は、荷馬車に揺られて帰路につくのだった――。






 屋敷に戻った私は、お父様の執務室で深々と頭を下げていた。


「申し訳ございません。荷馬車から出て、護衛隊長のそばを離れました」


 事前の約束で守ったのは『身分を伏せる』ひとつだけ。いや、それも怪しいか? あの覆面の青年は、すくなくとも『治癒士見習い』なんて信じてなかった気がする。


「これは、お返しします」


 手にした琥珀の護符を、執務机に置く。

 お父様は背もたれから身体を離して机に肘をついた。


「ケガはないな?」


「え? ……はい」


「お前が無事でよかった。護衛隊長から報告を受けている。護符が役に立ったようでなによりだ」


 嬉しい言葉だった。けれど、もしかしたら誤解しているかもしれない。


「実は、その、護符は自分に使ったのではなく、別の人に投げつけまして……」


 お父様の片眉がぴくりと跳ねる。


「結果的にその人は守れたのでよかったのですけど……」


 家宝を他人に使ったとなれば、怒られても仕方ない。けれど嘘を報告するのも、事実を隠してしまうのも憚られるのだ。

 お父様は珍しく半眼になった。これどういう感情?


「報告を受けた、と言ったろう? お前が商隊のとある人物を救ったのは知っている。そのうえで問おう」


 真顔になったので背筋を伸ばして待ち構えた。


「その人物を、お前はどう感じた?」


「どう、感じたか、ですか?」


「ああ、率直な感想が聞きたい」


 いや本当にこれどういう流れ? 疑問は尽きないが、正直に話すほかないだろう。


「無愛想で、失礼な人でした」


「……なに?」


「ぶっきらぼうで言葉が足りず、手当てをしたのに感謝の言葉も――いや、気持ちはあったみたいですけど直接的な表現をしないからわかりにくいと言いますか。それに包帯を巻くのが下手くそだの『近頃の淑女は荒事も嗜むのか』なんて皮肉を寄越してきたんです。あとけっこう深い傷なのに治療を断ろうとして、すこしは大人しくしてほしいものです」


 いけない。めちゃくちゃ早口になった。しかも悪口ばかり。これは本当にいけない。


「まあ、剣の腕はたしかだと思います。いちおう、他者を褒めたりもできるみたいですし」


 ――基本に忠実。それが難しい。


「ただやっぱり、言動がわかりにくいですね」


 ひらひらと手を振って去っていく背中が、頭に浮かぶ。


「というか、誰なんですか? あの人」


「……護衛だよ。大切なものを守る、特別な」


 お父様はそれだけ言って押し黙る。

 嫌な沈黙が流れたのち、扉を叩く音で緊張が破れた。


「侯爵閣下、捕らえた賊の件で報告がございます」


 護衛隊長の声だ。

 お父様の表情がいっそう険しくなる。


「入れ。フィオナは下がりなさい」


「はい、お父様。失礼いたします」


 スカートの裾をつかんで軽く持ち上げ、会釈する。

 振り返って出て行く間際。

 護衛隊長がすれ違いざま、「お疲れさまでした」とささやいてきた――。






『明後日の夜会で、フィオナ・ラングレー侯爵令嬢は、公衆の面前で第二王子直々に婚約破棄を言い渡されるわ』


 自室に戻り、とりあえず言いたいことを言いまくろうと思ったら先を越された。


「待って。明後日に夜会は予定されていないし、第二王子がいらっしゃる話もなければ、私が王都へ赴くよう命じられてもいないわよ」


 言いながら、不思議だった。『婚約破棄』の言葉に、さほど衝撃を受けていないのだ。もしそれが事実なら、王子妃を目指してきた日々の行き先が、消えると言うのに。


『だからなに?』


「ほんとあんたって……」


 怒りで口調が乱れてしまう。しかしここはぐっと我慢。


「夜会は、侯爵領(ここ)なの?」


『そうよ』


「ジュリアン第二王子殿下が、うちに来るの?」


『そうよ』


 いくらなんでも、そんな急展開が――。


『あるのよね、これが。ほら、来たわよ』


 心を読んでいるかのようなセリフに続けて、部屋の扉が柔らかに、それでいてトトトトっと素早く鳴った。


「フィオナお嬢様、旦那様がお呼びです。喫緊のご用件とのことです」


 侍女の慌てた様子で察しがついた。

 見たくはないが、手鏡を覗く。

 きっと満面のドヤ顔が――そこにはなく、鏡の中の美貌は射殺すほど鋭い目つきで、私ではないなにかを睨みつけているようだった――。






 運命の日がやってきた。

 夜会が急遽、開催されたのは、ジュリアン第二王子が突然やってきたからだ。


 事前通達はなし。

 目的も告げず、『婚約者の顔を見に来るのに理由がいるのか?』とうそぶくばかり。


 手鏡の女性(ひと)はといえば、


『しっかりね』


 珍しく励まして……くれた、のかな? ともかく、それだけ告げてあとはだんまり。

 そしてこれまた疑問でいっぱいなのは、


「どうして貴方が、私の護衛なんでしょうね」


 覆面の青年が私の背後にぴったりとくっついているのだ。


「無駄口を叩くつもりはない」


 相変わらず無愛想なので逆に安心する。

 でも本当にわからないなあ。夜会で護衛をつけるってなに?


 この後、私は一方的に婚約破棄を告げられるそうだけど、だからといって身柄を拘束、なんて事態にはならないよね?


 我が家の大広間は、急ごしらえとは思えないほど華やかに飾りつけられていた。

 楽団の演奏がふっと途切れ、扉が開く。


 ジュリアン殿下の登場だ。

 明るい金の髪に、晴れた空のような青い瞳。甘く整った顔立ちは、いつ見ても王子様そのものだった。

 その腕に、見知らぬ令嬢がしなだれかかっていなければ。


 ざわめきが広がる。

 侯爵家の夜会に、その家の娘の婚約者が、別の女性を伴って現れたのだ。まあ、そうよね。


 ん? 覆面男が私の後ろに回って背中合わせになったけど? え、私って護衛対象よね? なんであんたが隠れるのよ?


 私の混乱をよそに、殿下は広間の中央まで進むと、私のほうをちらりと見た。口角を持ち上げ、蔑みたっぷりの視線を寄越す。芝居がかった仕草で片手を掲げた。


「フィオナ・ラングレー!」


 はい来た。


「今、このときをもって、君との婚約を破棄する! 僕は真実の愛を見つけたのだ。君のように地味で、詩歌のひとつも解さない女性では、僕の隣は務まらない」


 私は感心していた。

 婚約者の家の夜会で、しかも父親の目の前で、その娘をこき下ろしたのだ。私は殿下への評価を改めた。

 こいつ、なかなかの胆力を持っているな。


「殿下っ! なにを勝手なことを!」


 声を荒らげたのは、ジュリアン殿下に続いて現れた白髭の公爵だった。第二王子の後ろ盾とも言える重鎮……だった気がする。


「ラングレー侯爵家との縁組に、我らがどれほど骨を折ったと――」


「黙れ。僕の縁談だ。僕が決めてなにが悪い」


 殿下はおそらくお世話になった公爵にも冷たい笑みを投げかける。『やってやったぜ~』と言わんばかりのドヤ顔だ。

 再び私に向き直り、かつかつと靴音を響かせ寄ってきた。まだなにか用ですか?


「残念だったね、フィオナ。次期国王たる僕と結婚し、王妃となる計画は水の泡、というわけだ」


 この人は唐突になんの話をしているのかしら?


「そう! 兄上がいない今、この僕こそが、次なる国王となる男だ! これまでさんざん僕を利用してきた連中も、今後は僕の決定に従ってもらう。もちろん君もだ、フィオナ。そしてラングレー卿」


 いつの間にか隣にお父様が立っていた。殿下と睨み合っている。


「不肖の娘ながら、衆目の中で辱めを受ける謂れはありませんな」


「はっ! よくも言ったな。兄上に媚びへつらっていたかと思えば、いつしか僕の派閥に尻尾を振って、まんまと王族の仲間入りをせしめようとしていたくせに」


「……」


 お父様は押し黙る。

 殿下とお父様との間に、どのようなやり取りがあったかは知らない。公爵様がどう骨を折ったのかもわからない。

 ただ私の婚約について、私以外の人たちはずいぶんと詳しいようで。


 まあ、侯爵家に女として生まれたのだから、自由恋愛なんて端から期待はしていなかったけれど……なんか、ムカついてきた。


 なにも知らされなかったことに。

 せめて片棒くらい担がせてほしかった。


「ま、僕は寛大だ。捨てたモノにも最大限の温情を与えてやろう。フィオナ、君の嫁ぎ先は僕が――」




 ――その必要はない。




 ジュリアン殿下の言葉を、会場全体に響くほど通る声がさえぎった。

 背後でしゅるしゅると衣擦れの音。


「彼女は、俺がもらうと決めた」


 肩に手を置かれた。ごつごつしているけど不快な感じはいっさいないその手を伝い、横に立った男の顔を見る。


 一瞬、見惚れてしまった。


 淡い金髪に、すっと通った鼻筋。引き結ばれた唇はほんのわずか、口角が上がっている。見覚えのある灰がかった青い瞳で、それが誰だかすぐにわかった。

 と言っても、名前もなにも知らない。今日一日だけの護衛役。悔しいが、顔はいい。


「な、どう、して……?」


 ジュリアン殿下が腰を抜かし、無様に床に尻もちをつく。公爵様も口をあんぐり。ざわめきが一転、水を打ったように静まり返った。


 今がどういう状況なのか、確認したいことは山ほどあるのだけど。

 私は一切合切がどうでもよくなるほど、頭にきていた。


 俺が?


 もらう?


 決めた、ですって?


 身体のどこかで、なにかがプツンと切れる音がした。




 パァーーーンッ!




 我ながらいい音が鳴った。思いっきり、無愛想で無礼な男の頬を引っ叩いたのだ。


「もう、私抜きで好き勝手に決めないで」


 どよめきは一瞬。

 しーんと静かになる。

 手のひらがじんじんと疼いてきて、思う。


 やっちゃったぁーーっ!


 公衆の面前で男性を引っ叩く。

 淑女にあるまじきどころか、一生嫁の貰い手がなくなる蛮行。


 が、後悔しても後の祭り。

 ここで取り乱せば、恥の上塗りだ。


 私はドレスの裾を滑らかな動きでつまみ、王子妃教育で叩きこまれた完璧な礼を繰り出す。

 そうして踵を返し、一目散に駆け出した――。




 中庭の隅まで逃げてきた私は、植え込みに身を隠すように膝を抱えて縮こまる。風が冷たい。


「はあぁぁ~~~~~~~~……」


 盛大なため息を吐き出す。

 いろんなことがありすぎて、どこから考えればいいかわからない。


 婚約破棄は、知っていた。事前に知らされていたからか、あまりショックではない――嘘だ。


 これまで将来の王子妃として必死に努力してきた。

 それが一瞬で壊れて、崩れて、無駄になったのだ。


 事前に知らされていなければ、その場で取り乱していただろう。

 事前に知らされていたから、現実逃避する準備ができていただけ。


 けっきょくは感情が爆発しての暴力沙汰。穴があったら入りたい。掘ろうかしら?

 ただ『もう勝手に決めるな』との言葉に偽りはないし、当然、撤回するつもりもない。


 とはいえやはり、私は一生独り身確定。

 人生の敗北が決まってしまった。


「はあぁぁ~~~~~~~~……」


 またも長い長いため息を吐き出すと。


「わかりやすく落ちこんでいるな」「ぴぃゃっ!?」


 頭上から降ってきた声に飛び上がるほど驚いた。見れば、さっき思い切り引っ叩いた青年の美貌があった。頬がちょっと赤い。


「どうしてここが!?」


 植え込みの陰に、完璧に身を隠していたはずなのに。


「上から丸見えだぞ?」


 指し示す先を見上げると、煌々と光あふれる大きな窓が見えた。夜会真っ最中の広間の窓だ。

 立ち上がる。スカートについた土をパタパタと手で払った。


「それでは、私はこれで」


 軽くあいさつしてそそくさとこの場を離れようとして、手首をつかまれた。


「俺は怒っていないよ」


 そういう問題……でもあるのだけど、本人が気にしてなくても周りは許さない。社会とは残酷なのだ。


「先ほどは申し訳ありませんでした。貴方に恥をかかせてしまいました。言い訳は、しません」


「俺は怒っていない、と言った。君を責める気はない」


 だから、と彼は続ける。


「こっちを向いてくれないか」


 ダメ。今振り向けば――彼の顔を見たら、せっかく我慢しているのに、いろんな感情が爆ぜてしまいそう。


 小刻みな震えが伝わったのか、彼はふっと息をついて力を緩めた。でも手を離してはくれない。


「面と向かって言うつもりだったが、この状態で失礼する」


 低音で心地よい声音が真摯に告げる。


「先ほどは失礼した。君の気持ちを考えない、身勝手な言葉だった。本当に、すまなかった」


 頭を下げている。そんな気配がした。

 彼は「それから」と柔らかな口調になって。


「峠では言いそびれていた。先日は、ありがとう。君のおかげで俺は今、生きている」


 彼の言葉が、耳から全身に沁みわたる。


 ああ、そうか。

 これまで護身術や治癒の魔術を、ただ型どおりに続けてきた。

 その努力は、けっして無駄ではなかったのだ。


 つかまれた手からは、ぬくもりが伝わるだけだ。きっとまだこの人は、頭を下げたままなのだろう。


 私はゆっくりと、振り向いた。

 やっぱり、まだ顔を伏せている。


「顔を上げてください」


 叱られた子がおっかなびっくりといった風に、彼はゆっくり頭を持ち上げながら私の様子を窺う。


「ひどい顔だ」


「はあっ!?」


「ああ、いや、すまない。哀しそうな表情をさせてしまったと、反省したんだ」


「言葉足らず、というより、言葉選びが絶望的におかしな人ですね」


「指摘されたことはないが、自覚はある」


 言いながら手を離す。思わずつかまれた腕が追いかけていきそうになった。

 目を見合わせて、互いにふっと笑う。


 遠くから、音楽が聞こえてきた。

 まさかあの状況から夜会を再開したのだろうか?


「せっかくだ。どうかな? 一曲」


 彼が手を差し伸べる。


「せめて名前くらい教えてください」


 私が口をとがらせると、彼はすこしだけ考えて。


「今だけは、君と初めて会ったときの『変な覆面男』でいさせてはもらえないか」


 意味が、よくわからなかった。


「まあ、あとで教えてくれるなら」


 私は彼の手を取る。

 中庭にある噴水のそばまでエスコートされた。敷石は平らだけど、気を抜くと継ぎ目に足を取られそうだ。


「踊りは慣れていない」


「あら、では私がリードして差し上げますわ」


 軽口で返したけれど、彼が『慣れていない』と言ったのは、私を気遣ったのだとすぐわかった。


 彼の手が、私の背に回る。軽く触れているようでいて、しっかり支えてくれていた。ダンスの先生よりも安心感がある。


 ほんのすこし、背が押された。

 自然と足が動き、音楽に合わせて身体が流れる。


 峠で抱えられたときよりも近く感じるのに、不思議と照れくさくはなかった。


 言葉はなかった。

 私が行きたいところに、彼はどこにでも連れて行ってくれる。

 楽しくて一人で回ってみても、微笑みとともについてきてくれた。


 どれくらい時間が経っただろう。

 これほど曲が終わるのを残念に思ったことはなかった。


 名残惜しく感じながら身体を離し、互いに礼をする。


 ぱちぱちぱちと、乾いた音が落ちてきて、見上げてみると。


「お父様!?」


 窓からこちらを見下ろし、拍手をしている。

 彼もそちらに顔を向けた。


「どうやら終わったようだな」


 なにが?


「戻るとしよう。ああ、その前に――」


 彼は半歩離れ、姿勢を正す。右手を左胸に添え、左手を背に回して、


「俺の名はレナード。レナード・セオドア・アルヴェリアだ」


 浅く一礼した。

 きちんとした宮廷のあいさつをぼんやり眺めながら、長ったらしい名前を反芻する。


 レナード……。アルヴェリア……。知っている。この組み合わせは子どもでも知ってて当然。だってこの国の……「ってぇ!?」


「すこし早いが、君の父親にネタばらしされても困るのでね」


 硬直する私を見て、『変な覆面男』あらためレナード第一王子(・・・・)殿下は、悪戯っぽく笑うのだった――。




 広間に戻ると、レナード様のおっしゃったとおり、諸々終わっていた。


 白髭の公爵が、兵士に両脇を取られて連行される。


 二日前に賊がレナード様を襲ったのは、第二王子派である公爵の指示によるものだった。第一王子を亡き者にし、第二王子を立てて国内の権力を掌握する腹積もりだったそうだ。

 捕らえた賊から公爵の関与が明るみに出たのだ。


 ものすごく、褒められた。

 なにせ証拠となる賊をのしてしまったのが私なのだ。


 もっともお父様はそれまでに方々に手を回し、入念に第二王子派を追い詰める準備をしていた。

 私を第二王子の婚約者にしたのは策のうち――では、なかったらしい。


「公爵が私を取りこもうとしてもちかけてきたようでね。断り切れなかった。すまない」


 お父様があそこまでしょんぼりする様を、私は生涯忘れないだろう。

 けっきょくそれを逆手に取って第二王子の派閥に近づいたので、さすがしたたかだとは思ったけど。


 ちなみに。

 ジュリアン第二王子の婚約破棄宣言は、後ろ盾であるはずの公爵もあずかり知らぬこと。

 暗殺の失敗を聞かされていなかったジュリアン殿下が、完全に暴走してしまった結果だそうな。

 今回の件で、国の重鎮はもちろん、病床の国王からの信用も失墜し、返り咲くことはない。そうお父様はおっしゃっていた。


「違う……。僕は……僕が、王に……」


 広間の隅で頭を抱えてへたりこむ殿下は見ていられなかった。あの人と結婚する未来を想像すると背筋が寒くなる。


「これでレナード様が次期国王、というわけですね」


 ちらりと横を見ると、レナード様は真摯に見つめ返してきて。


「そうだな。そのうえで改めて、君に言いたい」


 私の正面に回りこみ、手を取った。




 ――俺と、結婚してくれないか。








 十年が経った。

 私はときどき、あのころを思い出す。


 鏡の中のあの人は、あれから一度も顔を見せてはくれなかった。


 ――しっかりね。


 その言葉を心の支えに、私は今、こうして生きている。


 いや、いろいろあったなー。

 今ものんびり過ごせる環境にはないのだけど、それでも、毎日が楽しい。


 日記を開く。

 時計を見た。

 そろそろかな。


 私はテーブルの上に伏せてある、古い手鏡を手に取った。


 鏡の中には、かつて毎日見ていた少女の驚いた顔が。

 ごめんね。

 意地悪をしてしまうけれど、私は私が聞いたことを、聞いたふうにしか言えないの。すこしでも変えてしまえば、今のこの幸せにたどり着けないかもしれないから。


 私はすまし顔で、王妃の風格(・・・・・)も出しちゃったりして、言葉を紡ぐ。




 ――今日は昼からひどい雨よ。

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