正しい女
朝、駅のホームで肩がぶつかった。
相手は小さな声で
「すみません」と言ったが、
女は聞こえないふりをした。
謝る声が小さいのは、
謝っていないのと同じだと思っている。
舌打ちだけ落として、電車に乗る。
周囲はいつも鈍い。
自分ばかりが気づいている。
列の乱れ、
歩く速度、
ぶつかっても謝らない人間、
優先席で寝たふりをする若者。
世界は、少しずつ彼女に失礼を積み重ねてくる。
会社に着くと、後輩の机に書類が積まれていた。
「これ、昨日の分まだ終わってないの?」
声をかけると、後輩は怯えた顔で
「すみません、母が倒れて病院で」
と言った。
女はため息をつく。
「で? 仕事は仕事でしょう」
泣きそうな顔をされると腹が立つ。
被害者ぶる人間はずるい。
困った顔さえすれば許されると思っている。
昼休み、同僚たちが静かに食事をしていた。
女が席に着くと、会話が止まる。
感じが悪い、と思う。
自分を避けているのだ。
正しいことを言う人間は嫌われる。
昔からそうだった。
小学校でも、忘れ物をした子を先生に伝えたら泣かれた。
中学でも、太った友人に健康のため痩せた方がいいと言ったら縁を切られた。
大学でも、グループ課題で怠ける人間を責めたら孤立した。
いつだって、悪者にされるのは本当のことを言う側だった。
夕方、部長に呼ばれた。
「君の言い方がきついと相談が来ている」
またか、と思う。
「事実を言っただけです」
「事実でも、伝え方がある」
「甘やかしてるから成長しないんです」
部長は黙った。
その沈黙に、女は勝利を感じた。
言い返せないのだ。
正論だから。
翌週、異動を告げられた。
窓のない倉庫のような部署だった。
理不尽だと思った。
能力がある人間を排除したのだ。
弱い者同士で群れて、自分を追い出した。
帰宅して、SNSに書く。
『日本は真面目な人ほど損をする』
『感情論ばかりの社会』
『仕事できる女を妬む人、多すぎ』
すぐに「わかります!」と知らない誰かが反応した。
やっぱり、と女は安心する。
自分は間違っていない。
そのとき、隣の部屋の壁を叩く音がした。
昨日も、その前も、掃除機の音がうるさいと苦情を入れられていた。
常識のない住人だと思う。
壁を叩き返しながら、女は叫んだ。
「こっちだって我慢してるんですけど!」
返事はない。
静まり返った部屋で、女はひとり息を荒げる。
世界は今日も、自分にばかり厳しい。




