暗黒の時代、少年は勇者の剣にすべてを賭ける
かつて、世界が暗黒に染まりかけた時代があった。
空は黒く濁り、大地には魔物があふれ、人は毎夜、祈りながら戸を閉ざしたという。
国は次々と滅び、街道は閉ざされ、火を灯して眠ることすら命がけだった。
誰もが、世界はいずれ暗黒に沈むのだと信じかけていた。
そのとき、勇者が現れた。
どこの誰で、何を背負い、どう戦ったのか。
今となっては正確に語れる者はいない。
ただ、勇者は世界を巡り、魔を退け、最後には暗黒の王を討ったのだと伝わっている。
そして戦いの終わりに、一振りの大剣を地に残した。
それが、この村ルオルの中央に刺さる剣だった。
勇者の剣。
神聖なる選定の剣。
資格なき者には触れることすら許されないとされる、古き時代の遺物。
それから長い長い時が流れた。
勇者の名は伝承に変わり、暗黒の時代は昔話になった。
だが剣だけは残った。
石畳を割り、土に根を張るように、村の中央に大きな影を落としながら、ずっとそこにあり続けた。
そして今、再び世界は暗黒に染まりつつある。
最初に変わったのは、空の色だと人々は言った。
朝は少し遅く明けるようになり、夕暮れは長く居座るようになった。
冬でもないのに日差しが弱く、夜になると闇が妙に深い。
次に旅人が減った。
街道を行く商隊が少なくなり、遠くから来る噂話には、北の砦が落ちた、西の村が焼かれた、夜道で黒い獣を見たといったものが増えた。
それでも、ルオル村の朝は来る。
井戸で水を汲む音がして、パン窯の匂いが漂い、羊を追う子どもたちの声が通りを走る。
広場の大剣の根元では、鳩がパンくずをつついている。
そういう、どこにでもある朝の中に、ユノはいた。
十五になったばかりの少年だった。
鍛冶屋ラッカのもとで、見習いとも雑用ともつかぬ立場で働いている。
炭を運び、火を見て、打ち終えた金属を水へ沈め、言われれば荷物を届ける。
剣を打たせてもらえるほどではないが、子ども扱いされるほど幼くもない。
村ではそういう年頃だった。
見た目は平凡そのもの。
背は同い年より少し高いが、特別たくましいわけではない。
顔立ちも、よくいえば素直、悪くいえば印象に残らない。
力がずば抜けて強いわけでも、頭が切れるわけでもなく、自分でも自分を普通だと思っている。
ラッカは朝から怒鳴っていた。
「火を見ろ、ユノ。鉄の色ばかり追うな。火が死ねば全部死ぬんだ」
「見てるよ」
「見てる顔じゃねえ。眠そうな顔だ」
「朝だからな」
「だったら叩き起こすぞ」
鍛冶場の隅で釘を選り分けていたミアが、くすっと笑った。
ラッカの娘で、ユノより一つ年上。
髪を後ろで束ね、作業着の袖を肘までまくっている。
細身だが動きに無駄がなく、口も達者だった。
「父さん、ユノに難しいこと言っても無駄。まずごはんの話しか考えてないから」
「失礼だな」
「じゃあ今、何考えてたの」
「昼は何かなって」
「ほら」
ミアが肩をすくめる。
ラッカは鼻を鳴らした。
「仕事は半人前、腹の減りだけは一人前なんだな」
「じゃあ半分は一人前ってことだ」
「何言ってんだお前」
そんなやり取りが、ユノは嫌いではなかった。
毎日同じでも、それが崩れないことに安心していた。
昼前になると、広場がいつものように少しざわついた。
旅人が来たからだ。
ルオルには剣がある。
それだけで、人が集まる。
勇者を目指す若者。
神の加護を誇る巡礼者。
王都の騎士。
各地を巡る剣士。
彼らは皆、剣の前に立ち、自分こそ選ばれると信じて柄へ手を伸ばした。
触れられない者もいる。
触れられる者もいる。
だが、抜けた者はひとりもいない。
今日は、銀の飾りを付けた外套姿の男だった。
背筋を伸ばし、妙に自信ありげに村長の後ろを歩いている。
「また勇者候補?」
ユノが鍛冶場の前から覗き込むと、ミアが隣に来て言った。
「そうね。服が高そう」
「この村で一番似合わない服だな」
「そういうこと言わないの」
広場では人垣ができ、男が剣の前に立った。
わざわざ振り返り、村人たちへ聞こえる声で告げる。
「見届けるがいい。神意が誰を選ぶのかを」
子どもたちが面白がってざわめき、大人たちはまた始まったという顔をした。
男は柄を握る。
触れられた。
一瞬だけ、空気が変わる。
「あ」
と、誰かが小さく声を漏らす。
触れるだけなら、それなりにいる。
だが本人にとっては、それだけで十分な手応えなのだろう。
男は唇の端を上げ、ぐっと力を込めた。
剣は、動かない。
もう一度。
足を踏ん張り、肩に力を乗せ、首筋に血管が浮くほど引く。
動かない。
三度目には、半ば叫びながら引いていた。
それでも、剣はそこにある。
やがて男は静かに手を離し、咳払いひとつして言った。
「……まだ時ではないようだ」
ユノは肩を震わせた。
ミアが横から肘でつつく。
「笑うな」
「毎回同じなんだもん」
「だって悔しいんでしょ」
「言い訳が?」
「体面が」
男はそのまま宿へ去った。
子どもたちの何人かが真似して "まだ時ではないようだ" と囁き合い、大人に頭をはたかれていた。
ミアが言う。
「ねえ、ユノ。あんたは触ったことないの?」
ユノは首を振った。
「ない」
「一回も?」
「一回も。恥ずかしいだろ。皆の前でやって、駄目だったら」
「駄目でも別にそれが普通よ」
「だから嫌なんだよ。普通なのに、変に期待してたみたいで」
ミアは少しだけ目を丸くし、それから笑った。
「あんた、変なところで慎重だね」
「慎重なんじゃなくて、身の程を知ってるんだ」
「十五のくせに言うことが老けてる」
「お前は最近、言い方が母親に似てきた」
「それは嬉しくない」
二人は笑い合いながら仕事へ戻った。
広場の大剣は、その間も何もなかったようにそこにある。
日を受けた刃には古い傷が無数にあり、神聖というより使い込まれた戦道具の顔をしていた。
その日の夕方、酒場は少し賑わった。
失敗した旅人がやけ酒を飲んでいたからだ。
ユノは荷物運びを手伝い、ネマから豆と芋のスープをもらった。
塩辛いが温かい。
働いた後にはうまい。
ミアとラッカもいて、旅人はカウンターでまだ言い訳をしている。
「剣に宿る力が衰えているのかもしれぬ。この地方の気脈が濁って――」
「そうかい」
ネマは片耳で流しながら杯を拭く。
「真に選ばれるべき者が現れる時代は、まだ先なのだろう」
「そうかい」
ユノは吹き出しそうになって口を押さえた。
ネマに睨まれ、慌ててスープへ顔を戻す。
酒場の片隅では老人たちが低い声で話していた。
「北の街道、また通れなくなったらしい」
「また賊か」
「賊ならまだましだ。今度は黒い群れだと」
「魔物か?」
「見たやつがいるって話だ」
「見たやつの話なんぞ酒のつまみだ」
「だとしても、最近はそういうつまみばかりだ」
その会話の重さを、ユノは理解しきれなかった。
ただ、ラッカがいつもより杯をあおるペースが速いのを見て、あまり良い話ではないのだと知った。
帰り道、ミアが硬いパンを半分投げてよこした。
「食べな」
「ありがとう」
「さっき食べてたのに」
「それはそれ、これはこれ」
「ほんとによく食べるね」
二人は広場を横切る。
夜の剣は昼より大きく見える。
月明かりを鈍く返し、足元に黒い影を落としていた。
ミアがふと立ち止まった。
「ねえ、ユノ」
「ん?」
「暗黒って、本当に来ると思う?」
ユノは少しだけ考えた。
子どもの頃なら、そんなものは昔話だった。
勇者も魔王も、冬の夜に老人が話す大げさな物語の中の住人だった。
けれど最近は違う。
旅人は減り、北の噂は悪くなり、大人たちが口数を減らしている。
「来ないといいとは思う」
「それ、答えになってない」
「じゃあ、来るのかも。 怖い?」
「怖いよ」
ミアは頷いた。
剣を見つめたまま言う。
「もし本当にどうしようもなくなったら、あの剣、誰か抜けるのかな」
「抜いてほしいな」
「誰がいい?」
ユノは肩をすくめる。
「もっとこう、勇者っぽいやつ」
「勇者っぽいって何」
「強くて、背が高くて、顔もよくて、何かすごい名前のやつ」
「ユノではないね」
「ないな」
そう答えると、ミアは笑ったが、そのあと少しだけ真面目な顔になった。
「でも、あんたは触れるかもしれないよ」
「何で」
「わからない。ただ、そういう感じ」
「適当すぎる」
「うん、適当」
その言葉は軽かったが、不思議とユノの胸に残った。
それから数日で、村の空気は確かに変わった。
東の見張り台から帰ってきた若者が、顔色を真っ青に村長の家を叩いた。
北からの商隊が来なくなる。
門のそばには水桶が並べられ、ラッカの鍛冶場には農具ではなく槍や刃こぼれした剣の修理が持ち込まれるようになった。
「本当に来るのか」
ユノが尋ねると、ラッカは赤熱した鉄を打ちながら言った。
「来るかもしれんし、来ないかもしれん」
「どっちだよ」
「わからんもんはわからん」
「じゃあ、備えるのか」
「備えて来なきゃ笑えばいい。備えずに来たら、笑う口も残らん」
三日目の夕方、見張り台の鐘が短く鳴った。
誤報ではなかった。
森の向こうで黒い煙が上がっていたようだ。
近くの小屋が焼かれたのだろうと誰かが言う。
それを聞き、旅人の何人かは夜のうちに村を出た。
残る者もいたが、多くは去った。
その翌朝、逃げてきた者たちがルオルへなだれ込んだ。
荷車は壊れ、服は煤け、子どもを抱いた母親が泣き、何人かは血を流していた。
その中に、鎧姿の騎士がひとりいた。
若くはないが、立ち姿に隙がない。
左頬に古い傷のある男だった。
名をガレスといった。
「北の二つの村が落ちた」
広場で、彼は村長へそう告げた。
村人たちにも聞こえる声で。
「魔物の群れだ。だが、ただの群れではない。動きに統制がある」
「魔の将か」
村長が低く問う。
ガレスは少しだけ黙った。
「……それ以上かもしれん」
ざわめきが広場を走った。
誰も、口にしたくない名を口にはしなかった。
ガレスは大剣を見上げた。
「これが噂の剣か。 まだ、抜けぬのか」
「誰もな」
「都では、もうこの剣の話を信じぬ者もいる。辺境の飾りだと言う者もいた。だが、実物を見るとやはり雰囲気が違うな」
村長が顎をしゃくる。
「試してみるか」
ガレスはしばらく黙ったあと、剣の前に立った。
皆が見守る中、彼は柄に手を置いた。
触れられた。
息を呑む気配が広がる。
だがガレスは引かなかった。
ただ剣へ触れたまま目を閉じ、やがて手を離した。
「違うな」
「抜けないのか」
「それもある。だが、それだけじゃない。これは……待っている」
「誰をだ」
「知らん。ただ、私ではない」
その夜、酒場でガレスは村人たちへ戦い方を教えた。
槍の構え、逃げる順、子どもと老人の囲み方。
英雄の武勇伝を語ることは一度もなく、現実的な話ばかりだった。
「勝てるのか」
誰かが訊いた。
ガレスは杯を置いた。
「相手が群れだけなら、守れる可能性はある」
「群れだけじゃなかったら」
「その時は、生き延びることを考えろ」
正しい言葉だった。
正しいからこそ、誰も反論できなかった。
夜更け、ユノは酒場の裏で薪を運びながら広場を見た。
大剣の前に、誰か立っている。
近づくと、ミアだった。
「何してる」
「びっくりした。静かに寄らないでよ」
「いやいや忍び寄ってないし。お前が聞いてなかっただけだ」
ミアは少し気まずそうに笑う。
「触ってみようかなって」
「なんで?」
「もしかしたらって」
彼女は剣へ手を伸ばした。
触れる寸前、ぱん、と乾いた音がして、指先が弾かれた。
「痛っ」
「大丈夫か」
「大丈夫。ちょっと痺れただけ」
そう言いながらも、彼女は剣から目を離さない。
「ねえ、ユノ。もし、誰も抜けなかったらどうなるんだろうね」
「どうって」
「勇者の剣があるのに、勇者がいないまま、暗黒が来たら」
ユノはしばらく黙った。
「……終わらないんじゃないか」
「根拠ある?」
「ない」
ミアは少し笑ったあと、唐突に言った。
「ユノ、触ってみなよ」
「嫌だよ」
「何で」
「駄目だったら、何かこう……ちゃんと普通の人間なんだって確定する気がして」
ミアは一瞬だけ目を見開き、それから静かに言った。
「もう普通でもいいじゃない」
「良くないだろ。夢が現実になる気がして」
ミアは少し考えてから、首を振った。
「それでも、私は、あんたが何もしないで終わるのは嫌」
その言葉に、ユノは返事をしなかった。
できなかった。
二人はしばらく剣を見上げ、それから何も言わずに帰った。
村が襲われたのは、その二日後の夜明け前だった。
鐘が鳴った。
一度ではない。
二度でもない。
壊れるのではないかと思うほど、狂ったように鳴り続けた。
ユノは跳ね起き、外へ飛び出した。
空が赤い。
いや、赤いだけではない。
北の空が、朝ではない色に濁っている。
黒い煙のような、夜そのものが流れ込んでくるような、不吉な暗さだった。
通りでは人々が叫び、子どもを抱え、荷を持ち出し、武器を探している。
ラッカの鍛冶場の前には槍や斧が並べられ、男たちが群がった。
「ユノ、こっちだ!」
ラッカが怒鳴る。
ガレスが馬で駆け抜ける。
「門は捨てろ!」
その時、村の外れから悲鳴が上がった。
黒い獣が柵を飛び越える。
四足だが首が異様に長く、口は耳元まで裂けていた。
続いて、人に似た黒い影。
さらに上空には、ねじれた翼の群れ。
魔物だった。
話の中の怪物ではない。
目の前で人を引き裂き、火を吐き、血の臭いを撒き散らす、生きた災厄だった。
最初の獣が農夫へ飛びかかり、槍ごと押し倒して喉を裂いた。
別の影が家の壁を這うように走り、窓を破って中へ入る。
女の悲鳴が聞こえた。
ガレスが剣を抜き、獣の首を撥ねる。
ラッカが鉄槌で影を叩き潰す。
旅の僧が光を放ち、翼の一体を焼く。
対抗できる者はいた。
確かにいた。
だが、群れは止まらない。
一体倒せば二体来る。
三体裂けば五体が回り込む。
村の通りは狭く、悲鳴と煙で何も見えなくなる。
ユノも短槍を握った。
手が震える。
影が一体、こちらへ向かってきていた。
突き出すが、意味もなく空を切る。
影が白のない目でこちらを見る。
身体が凍った。
次の瞬間、その影の頭が飛んだ。
ガレスの剣だった。
「下がれ!」
怒鳴られ、ユノはようやく呼吸を思い出す。
ミアが腕を掴んだ。
「ユノ!」
「走るよ!」
二人は無我夢中で走り始めた。
村人たちも同じだ。
逃げ場があるわけではない。
そのときだった。
魔物の群れで、数体の獣が急に頭を垂れた。
その内の一体、首の長い黒獣で、人語など話すはずのない喉から、妙にはっきりとした声が響く。
「道を開けよ。魔王様のお通りだ」
その声は、周辺全体に届いた。
一瞬、世界が止まったようだった。
皆がその声に振り返ってしまう。
人も、魔物も、火も、音さえ息を潜めたように感じた。
次の瞬間、魔物たちが左右へ割れた。
まるで王のための道を作るように。
その奥から、黒い外套の男が歩いてくる。
急ぎもせず、慌てもせず、朝の散歩でもするような足取りで、災厄そのものが村の中へ進んでくる。
誰かが呟いた。
「あれが……魔王」
今度は、誰もその認識を疑わなかった。
わかってしまったからだ。
道を開かせるだけの存在。
魔物に “様” と呼ばれる存在。
群れではなく、軍勢の中心にいる者。
それが、目の前にいた。
ありえないことだった。
物語の魔王は最後に待つものだ。
遠い城の玉座にいるものだ。
だが、現れていた。
顔立ちは人に近い。
むしろ整っている。
けれど、その目だけが違った。
人も村も、祈りも抵抗も、同じ価値のない石ころのように見ている目だった。
ガレスが前へ出る。
「総員、下がれ!」
その声に従う者もいた。
動けない者もいた。
魔王は周囲を見渡し、ガレスのほうへ視線を留めた。
「ほう」
ただそれだけ言った。
ガレスが斬りかかった。
速い。
村人の誰よりも速い一閃だった。
だが届かない。
魔王の手が軽く上がる。
それだけでガレスの身体が横へ弾け飛んだ。
見えない巨人に殴られたように、石畳を滑って壁に叩きつけられる。
ラッカが吠えて鉄槌を振り下ろす。
魔王は視線も向けず、指先で受けた。
鉄槌が砕け、ラッカの巨体が膝をつく。
僧が祈りを叫び、白い光を落とす。
光は魔王の肩先で散った。
強すぎた。
対抗できる者がいない。
絶望を抱くには十分な差だった。
「はやく逃げろ!」
誰の声だったか、ユノにはわからなかった。
気づけば再び走っていた。
ミアも、村長も、ネマも、老人も、子どもを抱えた母親も、皆が走る。
息を切らし、足をもつれさせ、転びかけても立ち上がり、ただ前へ。
魔王は後ろで笑っていた。
高くも低くもない、妙に人間らしい笑いだった。
だからこそ恐ろしい。
余裕があり、追うことすら遊びのようだった。
ユノは走った。
どこへ向かっているのか、自分でもわからない。
ただ足が前へ出る。
喉が焼ける。
肺が苦しい。
ミアが転びかけ、反射的に腕を掴んで支える。
「ミア!」
「走れ!」
悲鳴が短く途切れる。
背後で何かが爆ぜる。
そして、ふと気づく。
目の前に、大剣があった。
広場の中央。
村の中央。
いつも見ていた剣が、逃げてきた先に立っていた。
理由はわからない。
縋ったのかもしれない。
最後に頼るものを身体が勝手に選んだのかもしれない。
あるいは、村のすべてがここへ集まるようにできていたのかもしれない。
ユノは手を伸ばした。
「ユノ! 何してるの!」
ミアの叫び声が聞こえる。
こんなことをしている場合ではないのはわかっている。
だが、考えたわけではない。
自分は普通だと知っている。
勇者などではないと知っている。
それでも、身体が先に動いた。
柄に触れる。
弾かれない。
後ろで、誰かが息を呑んだ。
ミアか、村長か、誰かはわからない。
ユノは柄を握る。
冷たく、重い。
指に馴染まない。
力を込める。
動かない。
もう一度。
歯を食いしばり、腕に力を込め、足を踏ん張る。
「……あああッ!」
叫びながら引く。
勇ましい叫びではない。
追い詰められた少年の、情けない悲鳴だった。
それでも引く。
次の瞬間、衝撃が来た。
抜けた、と思った。
ユノの身体が横へ吹き飛ぶ。
石畳を転がり、背中を打ち、肺の空気が全部抜けた。
手の中に、剣は無かった。
ミアが叫ぶ。
「ユノ!」
魔王が立っていた。
いつの間にか、地に突き立つ大剣の前に。
魔王は剣を見下ろす。
虫籠の中の珍しい虫でも見るように、興味深そうに。
「何だ、これは」
低い声だった。
嘲りでも怒りでもなく、純粋な疑問の声。
やめろ、と叫ぼうとした。
だが血が喉に上がり、声にならない。
周囲では、行き絶え絶えの村人たちが這うように顔を上げている。
魔王が手を伸ばした。
資格なき者には触れられない。
それが、この剣の言い伝えだった。
だから、誰もがその瞬間に、わずかな希望を抱く。
お前にそれに触れる資格はない、と。
しかし――何も起きなかった。
魔王の指先は、何の抵抗もなく柄に触れた。
一瞬だけ、魔王の眉が動く。
それから、何でもないことのように柄を握り、軽く引く。
抜けた。
あまりにも容易く。
何百年、誰ひとり抜けなかった大剣が、土を離れ、低い音を立てて持ち上がる。
重いはずの剣身が、まるで本来あるべき場所へ戻るように、自然に魔王の手へ収まった。
誰も声を出せなかった。
魔王は目を閉じ、息を吐いた。
「なるほど」
口元がわずかに歪む。
「これはあのときの男の剣か」
この瞬間、勇者の物語は終わり、別の何かが始まった。
そして、世界はまもなく暗黒に支配される。




