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第六章_黒幕

同じ頃、慶人と紗英は新幹線に乗っていた。

車窓からは雪をかぶった山々が見え、二人の表情は緊張していた。

「本当に大丈夫かな」

紗英が不安そうに呟く。結菜の母親に会うという、気の重い任務が待っている。

「事前に連絡した時は、迷惑そうな反応じゃなかったよ。だからきっと大丈夫だ。」

慶人が妹を励ました。膝の上には、結菜の実家の住所を書いたメモがある。


長野駅に到着した二人は、タクシーで結菜の実家に向かった。古い住宅街の一角にある小さな一軒家で、玄関先には枯れた植木鉢が置かれている。

「すみません、佐藤さんのお宅でしょうか?」

慶人がインターホンを押すと、50代の女性が出てきた。

「はい、そうですが...」

「一条と申します。結菜さんの件でお話があります」

慶人が丁寧に挨拶すると、民子の表情が一変した。

「結菜の!結菜に何かあったんですか?」


「あなたが、結菜さんのお母様で、佐藤民子さん?」

「はい、そうです。」

民子に案内されて家の中に入った慶人と紗英。リビングは質素だが、きちんと片付けられている。テーブルの上には結菜の写真が飾られていた。

「実は、結菜さんが私たちの会社に関わることになりまして」

慶人が慎重に切り出した。全ての事情を話すわけにはいかないが、情報を得る必要がある。

「そうなんですか!…最近、結菜と連絡が取れなくて心配していたんです」

民子が心配そうに言った。その顔には疲れが滲んでいる。

「以前、結菜さんから借金の話を聞いたことがあります」

紗英がそう言うと、民子の表情が一瞬で暗くなった。

「ええ...恥ずかしい話ですが、主人が亡くなった後、生活が苦しくて」

民子が小さな声で語り始める。

「結菜が高校生の時に、消費者金融から借金をしてしまいました。最初は50万円だったんですが、利息でどんどん膨らんで...」

「どのくらいの金額になったんですか?」

慶人が静かに尋ねた。

「最終的には2000万円近くになっていました」

民子が泣きそうな声で答える。

「結菜は大学を卒業してから、一生懸命働いてお金を送ってくれました。でも、とても返せる金額じゃなくて...」

民子が続けた。しかし、その表情には安堵と同時に、疑問も浮かんでいる。

「でも、3年前に急に完済することができたんです。結菜が『会社で昇進して、ボーナスがたくさん出た』と言っていましたが...」

「3年前...」

慶人と紗英が顔を見合わせた。それは結菜が金融口座を開設した時期と一致している。

「それ以来、結菜は忙しくなって、あまり連絡をくれなくなりました」

民子が寂しそうに言う。

「最近は電話をしても出てくれないし、メールの返事も来ないんです」

「お母さん」

紗英が民子の手を握った。

「もし結菜さんに会ったら、私たちから連絡してもらいますから」

「本当ですか?ありがとうございます」

民子が涙を浮かべて感謝した。

「結菜に何かあったんじゃないかと、毎日心配で眠れないんです」

慶人は民子の言葉を聞きながら、結菜の置かれた状況を理解していた。借金を背負った母親を守るため、結菜は悪魔と取引をしたのだ。

「結菜は母親の借金のために、脅されたんだな」

帰りの新幹線の中で、慶人と紗英は情報を整理していた。

「2000万円の借金を返済する代わりに、マフィアの手先になることを要求されたんだろう」

「かわいそう...」

紗英が同情を示した。

「でも、だからといって犯罪に手を染めていいわけじゃない」

慶人が厳しく言う。

「父さんや会社を巻き込んだ責任は重い」

二人の携帯電話が同時に鳴った。達也からの緊急連絡だった。

「兄さん?」

慶人が電話に出る。

「大変だ!緊急役員総会が明日招集される」

達也の興奮した声が聞こえてくる。

「父さんが不在の間に、あいつ、何かを企んでいる!」


父と母が香港で戦っている間、達也は東京の一条グループ本社で孤軍奮闘していた。会議室の机の上には資料の山が積まれ、パソコンの画面には数字がびっしりと並んでいる。

「これだけの金額が動いているのに、記録が曖昧すぎる!」

達也が財務資料をめくりながら呟く。結菜と役員による不正の証拠を掴むため、過去3年分の帳簿を徹底的に調べていた。

「大山さん!こちらの処理はどう思われますか?」

達也が隣に座る大山に声をかけた。大山は監査部の主任で、田村の上司だった。40代半ばの真面目な男性で、眼鏡の奥の目が鋭く光っている。

「これは明らかにおかしいですね」

大山が指差した箇所には、巨額の購入費が計上されていた。

「同じ機器を3台も購入する必要があったんでしょうか?しかも、納入先が全て海外の子会社になっている」

「やはりそう思いますか!」

達也が安堵の表情を見せる。一人で調べていると、自分の判断が正しいのか不安になることがあった。

「大山さん、海外子会社との契約書は入手できますか?」

達也が尋ねると、大山が少し困った表情を見せた。

「それが難しいんです。海外関連の書類は全て役員が管理していて」

「うわあ、マジですか…!」

達也の表情が暗くなる。不正に関与している当人が証拠を管理しているという、最悪の状況だった。

「でも、一つ方法があります」

大山が声を潜めて続けた。

「システム上の記録なら、私の権限でアクセスできます。削除されていなければ、電子データとして残っているはずです」

「お願いします」

達也が頭を下げた。

大山がパソコンに向かい、慣れた手つきでキーボードを叩いていく。画面には次々とデータが表示され、二人の顔が青白く照らされる。

東京に戻った慶人は紗英と別れ、急いで会社に向かった。

達也は会議室で大山と資料の最終確認をしていた。

「お疲れ様。どうだった?」

達也が弟と妹を迎える。

「結菜の母親は2000万円の借金を背負ってたよ」

慶人が報告した。

「3年前に突然完済されたけど、それ以来結菜との連絡が取れなくなったそうだ」

「やっぱりそうか」

達也が納得した表情を見せる。

「結菜の弱みに付け込んで、脅迫したんだな」

大山が資料を指差しながら説明を始めた。

「こちらが今日判明した事実です」

テーブルには海外送金の記録が並べられている。

「過去3年間で、合計180億円が昇華キャピタルに送金されています」

「180億円...」

紗英が息を呑む。

その時、田村の携帯電話が鳴った。監査部の後輩からの連絡だった。

「田村です...何ですって?」

田村の表情が険しくなる。

「分かりました。すぐに戻ります」

電話を切った田村が振り返る。

「大変です。クラウド上の重要な書類が大量に処分されてるそうです!」

「証拠隠滅だ!」

達也が立ち上がった。

「明日の役員総会で、何かを発表するつもりだな」

慶人が推測した。

「多分、父さんの解任を提案するつもりなんだ!」

「そんなことをさせるわけにはいかない!」

達也が決意を固めた。

「明日の総会で、全ての不正を暴露する!」


取り調べ室で、崇は必死に弁明を続けていた。蛍光灯の冷たい光が、疲れ切った彼の顔を照らしている。

「私は被害者です!」

崇が声を荒げた。両手を机に叩きつけ、必死の表情で検事を見つめる。

「龍冠華と結菜に騙されたんです。最初から罠だったんですよ!」

検事は資料をめくりながら、冷静に質問を続けた。

「では、具体的にどのような経緯で関わったのですか?」

「結菜から『新しい投資機会がある』と持ちかけられました」

崇が震える声で説明する。

「医療機器の正当な輸出ビジネスだと聞いていたんです。まさか資金洗浄だったなんて...」


隣の取り調べ室では、結菜が全く異なる証言をしていた。

「最初に接触してきたのは崇さんでした!」

結菜が叫ぶようにと証言した。

「『新しい投資話がある』と言って、私に近づいてきたんです!」

調査官が記録を取りながら質問した。

「具体的には?」

「昇華キャピタルとの仲介を依頼されました!」

結菜が続けた。

「私は単なる通訳として雇われただけです!まさか資金洗浄に関わっているとは知りませんでした!」

しかし、調査官は懐疑的だった。

「あなたの仮想通貨口座には、総額八億円もの資金が流れています」

「それは…崇さんに指示されて開設したものです!」

結菜が弁解した。

「私は何も知らされていませんでした!」

「では、なぜ香港まで同行したのですか?」

「崇さんに『通訳が必要だ』と言われて…」

結菜の証言により、崇の罪は明確になったものと思われた。


しかし、調査官が新たな証拠を提示した。

「こちらをご覧ください」

調査官が資料を広げた。詳細な投資計画書が並んでいる。

「これらの計画書は誰が作成したものですか?」

「…それは!」

結菜は推し黙った。

その様子を見て、調査官が核心に迫った。

「あなたの母親の借金2000万円について説明してください」

結菜の表情が一瞬揺らいだ。

「…ラウンジ嬢だった頃に、客の一人に相談したところ、『特別な仕事』を紹介されました」

「それが昇華キャピタルとの仲介だったと?」

「最初はそう思っていました」

結菜が苦い表情を見せる。

「でも、途中から自分の意思で関わるようになりました。お金の魅力に負けたんです」

「崇さんを騙すことに罪悪感はありませんでしたか?」

「ありました」

結菜が小さく答える。

「でも、もう後戻りできませんでした」


別室では、志保と千鶴が検事から説明を受けていた。

「香港で撮影された映像と、両名の供述により、事件の全貌が判明しました」

検事が資料を整理しながら説明する。

「結論から申しますと、崇さんは完全に騙されていたということが判明しました」

志保の表情が一瞬で明るくなった。

「本当ですか?」

「はい。主犯は結菜容疑者で、崇さんは被害者の立場です」

検事が断言した。

「崇さんの個人口座への不正な入金も一切確認されていません」

千鶴がほっと息をついた。

「それなら、息子は...」

「犯罪者ではありません」

検事が明確に答える。

「ただし、経営者としての管理責任は免れませんが」

検事が画面を再生した。香港での会合の様子が映し出される。

「こちらの映像をご覧ください。崇さんが話している内容をよく聞いてください」

画面の中で、崇が資料を読み上げている。

「『こちらの数字については、詳細がわからないので確認いたします』」

「『専門的な内容なので、後日回答させていただきます』」

志保が画面を見つめながら頷いた。

「確かに、内容を理解していないようですね」

「はい。専門用語や数字について、全て保留の回答をしています」

検事が指摘した。

「これは、事前に内容を把握していない証拠です。さらに、結菜容疑者の供述により、崇さんが騙されていたことが明確になりました」

検事が別の資料を見せる。

「『崇を完全に騙していた』『彼は何も知らない』『私が全ての責任を負う』という供述を得ています」

千鶴が安堵の表情を見せた。


中国当局との協議により、崇と結菜の処遇が決定された。

「結菜容疑者については、中国国内での活動を永久に禁止します」

中国領事館の担当者が通告した。

「崇氏については、被害者の立場ですが、今後5年間の入国を禁止いたします。没収した資金については、被害企業である一条グループに全額返還いたします」

志保が大きく安堵の表情を見せた。

「本当にありがとうございます」

「崇氏の個人資産には一切手をつけていません」

担当者が続けた。

「不正に得た利益がないことが確認されたためです」

千鶴も肩の荷が下りたような表情を見せる。

「息子が犯罪者でなくて、本当によかった」


夕方、崇と結菜は保釈の手続きを済ませた。ただし、パスポートは没収され、結菜については海外渡航が禁止されている。

羽田空港の出口で、志保が一人で待っていた。

「崇さん」

志保が静かに夫の名前を呼んだ。

崇が顔を上げ、妻の姿を見て表情を歪めた。

「お迎えに上がりました」

志保が冷静に答えた。

「あなたを家に連れて帰るために」

彼は志保を見て、明らかに怯えていた。香港での一件以来、千鶴と志保に対して恐怖心を抱いているのだろう。

「家に帰りましょう」

志保が静かに言った。

「話すことがたくさんあります」

崇は妻の顔を見ることができず、俯いたままだった。

「結菜は?」

崇が小さく尋ねた。

「彼女はもう関係ありません」

志保が冷たく答えた。

「あなたと私の問題です」

結菜は別の出口から、弁護士と共に去っていった。

もう崇と行動を共にすることはない。

黒い車に乗り込みながら、崇は全てを失ったことを実感していた。


車は夕暮れの中、静かに一条家に向かっていた。オレンジ色に染まった空が、フロントガラス越しに二人を照らしている。エンジン音だけが車内に響き、重い空気が流れていた。

「慶人や紗英は?」

崇が心配そうに尋ねた。家族に合わせる顔がないという思いと、それでも会いたいという複雑な感情が入り混じっている。

「今夜は家にいません」

志保が前を見つめたまま答えた。

「あなたと二人だけで話をしたいと思います」

車内は再び重い沈黙に包まれた。崇は窓の外を見つめながら、この数ヶ月間の出来事を振り返っていた。街灯が一つ一つ過ぎ去っていく様子を見ながら、自分の人生も同じように過ぎ去っていくような気がした。

すべては自分の欲望から始まった。結菜に惹かれ、家族を裏切った。そして今、すべてを失った。

「志保…」

崇が口を開きかけたが、志保は振り返らなかった。

「家に着いてからにしましょう」

一条家の門が見えてきた。普段なら温かく感じる我が家の明かりが、今は冷たく感じられた。まるで自分を拒絶しているかのように。


車が玄関前に停まると、志保が先に降りた。崇も重い足取りで後に続く。

「お帰りなさい」

志保が振り返って微笑んだ。しかし、崇にはその奥に何かが隠されているような気がしてならない。

家に入ると、志保は崇を応接室に案内した。

「少し待っていてください」

志保が部屋を出ていく。その足音が廊下に響き、やがて遠ざかっていった。

崇は一人、馴染みのある応接室に座っていた。この部屋で、何度も家族会議を開いた。慶人の進路について、紗英の留学について、会社の将来について。温かい思い出がたくさん詰まった場所だった。

しかし、今夜は違った。空気が重く、まるで裁判所の法廷にいるような緊張感が漂っている。

やがて志保が戻ってきた。手にはワインボトルとグラスを載せたトレイを持っている。普段使わない、結婚記念日にだけ開ける特別なワインだった。

「お疲れ様でした」

志保がテーブルにワインを置いた。その手つきは優雅で、まるで特別なゲストをもてなすかのようだった。

「まず、乾杯をしましょう」

崇が不安そうに妻を見つめた。

「乾杯?何を祝うんだ?」

「もちろん、あなたの帰国です」

志保がワインを注ぎながら答えた。赤いワインが静かにグラスに注がれる音が、室内に響く。

「そして、私たちの結婚生活について話し合うために」

志保はキッチンから運んできた料理を崇の前に並べた。手作りのパスタ、サラダ、崇の好物ばかりが丁寧に盛り付けられている。

「こんなに用意してくれて…」

崇が驚いた。逮捕されて帰国した自分を、なぜこれほど丁寧にもてなしてくれるのか。

「特別な夜ですから」

志保が微笑んだ。

「あなたと、これからのことを話し合いたくて」

しかし、その言葉に崇はフォークを持ちながら、恐る恐る口を開いた。

「志保、実は話したいことがある」

「何でしょう?」

志保が優雅にワインを口に運んだ。

「私たちの結婚について…いや、離婚について話そう」

志保の手が一瞬止まった。ワイングラスを持つ指に、わずかな震えが走る。

「今回のことで、いろいろと考えた。俺は志保を傷つけてしまった。取り返しのつかないことをした」

「それで?」

志保が静かに尋ねた。声は平静を保っているが、目の奥に何かが燃えているのを崇は感じ取った。

「離婚しよう」

崇がはっきりと言った。

「俺は結菜と一緒になりたい。結菜を愛している」

崇が真っ直ぐに志保を見つめて言った。その瞬間、彼の表情には懐かしむような、遠い記憶を辿るような陰りが浮かんだ。

「彼女と過ごすうちに、俺は気づいたんだ」

崇の声が少し震えた。

「俺は長い間、誰からも必要とされていなかったということに」

「必要とされていない?」

志保が眉をひそめた。

「六十歳を前にして、俺は何のために生きているのかわからなくなっていた。社長としても退任が近い。家族との時間も、仕事ばかりで失ってしまった」

崇の目に、遠い日の記憶が蘇った。

「結菜は俺を見てくれていた。まるで20代の頃に戻ったような気持ちになれた。もう一度人生をやり直せるような、そんな希望を感じることができた」

志保は静かに夫を見つめていた。その表情には、悲しみと同情、そして諦めが入り混じっている。

「結菜はあなたを裏切りました」

志保が冷静に指摘した。

「警察で、すべてをあなたの責任にして逃れようとした。それでも彼女を愛せるの?」

「それは…仕方なかったんだ」

崇が必死に弁解した。

「彼女も怖かったんだろう。追い詰められて、パニックになって…」

「あなたは本当に愚かな人ね」

志保が溜息をついた。

「彼女があなたを愛していると、本気で思っているの?」

「愛しているとも!」

崇が声を荒げた。

「君には分からない。結菜と俺の間には、特別な絆がある」

崇は再び窓の外を見つめた。

「特別な絆?」

志保が皮肉な笑みを浮かべた。

「お金の絆のことかしら?」

「違う!」

崇が振り返った。

「俺はもう老いるのが怖いんだ。無価値になることが怖い。誰からも必要とされなくなることが…」

崇の声が震えた。

「結菜といると、その恐怖を忘れることができた。まるで時間が巻き戻ったような、生きている実感を得ることができた」

「老いが怖いだなんて…」

志保は困ったように言った。

「笑うのか俺を!君もそうだろう!」

崇は怒って志保へ詰め寄った。椅子が勢いで後ろに倒れそうになる。

「気持ちは若いままで、歳ばかり重ねていく!次第にできることが出来なくなる!怖くないのか!」

崇の声は切実だった。これまで誰にも話せなかった恐怖を、ついに吐き出したのだ。

「ええ、怖くなんかないわ」

しかし、志保は優しく微笑んだ。

「だって、一緒に歳をとって、死んでいく相手がいるんだもの」

その言葉に、崇が困惑した表情を見せた。まるで初めて聞く言葉のように、志保を見つめる。

「私にとっては、老いも死も、一つの楽しみだったわ。あなたと一緒ならね。あなたの髪が白くなっていくのを見るのも、皺が増えていくのも、全部楽しみだった」

志保が立ち上がり、ゆっくりとサイドボードに向かった。その上には、あらかじめ用意されていたかのように、小さな瓶が置かれている。

「もう一度聞くわ」

志保が振り返り、崇を見つめた。その目には、これまで見たことのない強い意志が宿っている。

「私と離婚したいと本気で思っているの?」

崇は妻の変わり様に戸惑いながら答えた。

「志保...俺は本気だ。結菜と一緒になりたい」

その瞬間、志保の表情が一変した。温かな笑顔が消え、氷のような冷たさが顔を覆う。

「そう...」

志保が小さく呟いた。

「なら、仕方ないわね」

志保が振り返ると、手には小さな瓶が握られていた。ガラス瓶の中の透明な液体が、照明に反射して不気味に光っている。

「これは毒薬です」

志保が淡々と説明した。まるで料理のレシピを説明するかのような、恐ろしく冷静な口調だった。

「即効性はありませんが、確実に効きます。苦痛もありません」

「志保、正気か?」

崇が後ずさりした。妻の突然の変貌に、心臓が激しく鼓動している。血の気が引いて、足が震え始めた。

「正気です」

志保が微笑んだ。その笑顔は美しく、しかし恐ろしかった。

「私はあなたと離婚するつもりはありません。死が二人を分かつまで、夫婦でいるつもりです」

志保は瓶をテーブルに置くと、二つのワイングラスを並べた。

「ま、まさか…!」

崇は視界が薄れていくのを感じた。喉が焼けるように熱くなり、立つこともままならない。

「選んでください」

志保が静かに言った。

「離婚を取り下げて、私と一緒に生きるか」

志保がワイングラスを目の前にかざした。

「それとも、私と一緒に死ぬか」

応接室に重い沈黙が落ちた。

「志保…まさか本気じゃないだろう?」

崇が震え声で尋ねた。

「本気です」

志保が微笑んだ。

「あなたが私を捨てて結菜と生きるつもりなら、私はあなたと一緒に死にます」

志保はグラスを手に取ると、躊躇なく一口飲んだ。

「志保!」

崇が叫んだ。

「何をしている!」

崇は妻が毒を飲んだのを見て、パニックになっていた。

「やめろ!病院に行こう!」

「いいえ」

志保が首を振った。

「志保…」

崇の目に涙が浮かんだ。

「君を失いたくない…」

「では、離婚を取り下げて」

志保が懇願した。

「結菜のことは忘れて、私たちの家族を守って」

崇は長い間、妻を見つめていた。

志保の顔が少しずつ青ざめているのが分かった。

「どうするの?選んで?」

崇は薄れゆく意識の中で、ある選択を告げた。

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