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第四章_逃避行

翌日、志保は都内の高級ホテルのラウンジにいた。重厚な革張りのソファに座り、周囲を見回している。このホテルのラウンジは、機密性の高い商談によく使われる場所だった。志保は手元のティーカップに口をつけながら、約束の時間を待っていた。

『この男に会って、調査してもらいな。先に話はつけてあるよ。』

今日会う相手は、千鶴の紹介で知り合った調査のプロフェッショナルだった。国際金融に詳しい調査会社の代表、藤田という男性だ。50代前半の彼は、紺色のスーツを着こなし、知的な雰囲気を醸し出している。長年金融業界で培った鋭い洞察力を持つ人物として知られていた。

「大変お待たせいたしました」

藤田が現れ、テーブルに近づきながら謝罪した。彼の表情は緊張しており、重要な情報を持参していることが窺える。

「いえいえ、私も今到着したばかりです」

志保が上品に微笑みながら答えた。

「今回、こちらを準備させていただいております」

藤田が厚いファイルを丁重に取り出した。そのファイルは黒い革製で、機密資料であることを示すように厳重に封印されている。

「結菜さんの金融取引について、詳しく調べさせていただきました」

志保はファイルを慎重に受け取った。その重さから、相当な量の資料が入っていることが分かる。封印を解いて、ファイルを開いた。

最初のページを見た瞬間、志保の表情が変わった。

「これは…」

志保が驚愕した。そのページには、見慣れない口座番号と、信じられないような金額の数字が並んでいる。

そこには、結菜名義の海外仮想通貨口座と、高額送金履歴が詳細に記載されていた。取引回数は数十回に及び、一回の取引額も数千万円単位だった。

「受付嬢の給料では、到底不可能な金額ですね」

志保が冷静に分析した。

「結菜さんは複数の仮想通貨口座を持っており、過去一年間で総額八億円を超える取引を行っています」

藤田が説明した。資料の該当部分を指しながら、詳細を解説する。

「8億円…」

志保が息を呑んだ。その金額の大きさに、改めて事態の深刻さを理解した。

「送金履歴を追跡すると、『昇華キャピタル』→『姫川結菜』→『香港』→『第三者口座』という流れが確認できます」

藤田が別のページを開きながら続けた。そこには、資金の流れを示すフローチャートが描かれている。

志保は資料を詳しく見た。確かに、昇華キャピタルから結菜の口座に大金が送金され、その後香港の金融機関を経由して、正体不明の第三者口座に流れている。

「この手法は…マネーロンダリングの典型的なパターンですね」

志保が言うと、藤田は頷いた。

「まさにその通りです。結菜さんは中継役として利用されている可能性が高いです」

「この第三者口座の正体は?」

志保が尋ねた。最終的な資金の行き先が一番重要な情報だった。

「申し訳ございませんが、そこまでは特定できませんでした」

藤田が謝罪した。その表情には、プロとしての悔しさが滲んでいる。

「ただし、香港の当該金融機関は、マネーロンダリングで問題視されている銀行として知られています」

「なるほど。十分な情報です」

志保は静かに資料を閉じた。必要な確証を得ることができた満足感があった。

「ありがとうございました。おかげで助かりましたわ」

志保が感謝を込めて言った。

「お役に立てて光栄です」

藤田が頭を下げた。二人は丁寧に挨拶を交わし、藤田は先に席を立った。

志保はホテルを出ると、車の中で考え込んだ。

運転手に「少し時間をください」と告げて、後部座席で資料を再度確認した。

「……姫川結菜は愛人じゃない。"洗浄装置"だったのよ」

志保が一人つぶやいた。崇が巻き込まれた理由。若い女性が社長を誘惑するという単純な構図ではなく、もっと大きな陰謀の一部だったのだ。

志保は急いで千鶴に連絡を取った。すぐに会って、この情報を共有する必要があった。

「お義母さま、重要な情報を入手しました。今日の夜、お会いできますでしょうか」

志保の声には緊迫感が込められていた。戦いの新たな局面が始まろうとしていた。


「お待たせして申し訳ありませんでした」

同時刻、千鶴は都内の老舗料亭で、金融庁OBの渡邉と会合の約束をしていた。格式高い個室には、季節の花が美しく生けられ、静寂が保たれている。

「本日はお忙しい中、お時間をいただきまして」

千鶴が挨拶をすると、渡邉は手を挙げてそれを制した。

「とんでもございません。弘治さんには大変お世話になりましたから」

渡邉が深々と頭を下げた。故人となった千鶴の夫への敬意を込めて、丁寧に挨拶をする。その目には、古い友人への懐かしさと哀悼の気持ちが込められていた。

「渡邉さん、今日お話しすることは...」

千鶴がそう告げると、渡邉も頷いた。手をきちんと膝の上に置き、上品な微笑みを浮かべている。しかし、その内心では緊張が高まっていた。

「分かっています。壁に耳ありと申します。こちらなら安心です」

二人は個室で、誰にも聞かれることのない環境だった。襖が閉められ、外の音は一切聞こえない。お茶が運ばれてきたが、どちらも手をつけることなく、重要な話に集中していた。

「お話頂いた件について、詳しく調べてさせて頂きました。」

渡邉はそう言うと、一瞬表情を曇らせた。そして、手元の書類に目を落とす。その表情から、良いニュースではないことが読み取れた。

「調査には時間がかかりました。海外の情報機関にも協力を求めましたから。しかし、非常に興味深い結果が出ました」

渡邉が慎重に言葉を選びながら、厚い封筒から資料を取り出した。

「千鶴さん、この情報は非常に危険なものです」

渡邉が前置きした。千鶴の安全を心配している様子だった。眼鏡を押し上げ、真剣な表情を見せる。

「知ってしまったら、もう後戻りはできません。あなたの身にも危険が及ぶ可能性があります」

渡邉の警告に、千鶴は覚悟を決めた。

「構いません。教えてください」

千鶴がきっぱりと答えた。夫が築いた会社を守るためなら、どんな危険も受け入れる覚悟があった。渡邉は深呼吸してから、資料を開いた。ページをめくる音だけが静寂を破る。

「まず、昇華キャピタルの表向きの情報から説明しましょう」

渡邉が資料を指差しながら話し始めた。

「設立は5年前、香港に本社を置く投資会社です。資本金は10億香港ドル」

「そうなのですか。しかし、表向きはですね?」

千鶴が確認した。

「はい。しかし、実態は全く異なります」

渡邉の声が低くなった。

「昇華キャピタルは表向き正当な投資会社ですが、実態は中国マフィア『東龍幇』系のファンドであることが判明しました」

その言葉を聞いた瞬間、千鶴の表情が険しくなった。手が微かに震え、お茶碗を持つ手に力が入る。

「マフィア…ですか」

千鶴の声が少し震えた。想像していた以上に深刻な事態だった。

「東龍幇は香港を拠点とする犯罪組織です」

渡邉が続けた。その声は低く、周りに聞かれることを警戒している。

「この会社の主な手口は、合法的な投資会社を装って、違法な資金を洗浄していること。麻薬取引、人身売買、武器密売など、様々な犯罪で得た資金を、投資という名目で正当化しているのです。」

渡邉の説明に、千鶴は背筋が寒くなった。一条グループが、そんな組織と関わっているとは思いもしなかった。

「彼らの手口は非常に巧妙です」

渡邉が続けた。資料のページをめくりながら、詳細を説明する。

「まず、ターゲットとなる企業を選定します。業績の良い中堅企業が狙われやすい」

「たとえば、一条グループのような、ですか?」

千鶴がつぶやいた。

「ええ、そうです。」

渡邉の説明が続く。

「次に、日本企業に接近し、正当な投資話を持ちかける。企業側は利益に目がくらんで契約する。しかし、実際は犯罪資金の洗浄に協力させられているのです」

千鶴が顔を青くした。

「まさか一条グループが...」

千鶴の顔が青ざめた。額に冷や汗が浮かんでいる。

「おそらくそうでしょう。完全に罠にかかったのです」

渡邉が顔を伏せて言った。その表情には、千鶴への深い同情が表れている。

「我々は...騙されたということですか?」

千鶴が確認した。

「おそらくはそうでしょう。しかし、こればかりは判断がつきません」

渡邉が厳しい現実を告げた。

「ただし、これは極秘情報です。公にはできません」

渡邉が警告した。崇がどれほど深く関わっているのか、まだ分からない。しかし、事態は想像以上に深刻だった。夫が築いた会社が、犯罪組織に利用されているという現実に、心が痛んだ。

「渡邉さん、この情報を警察に提供することは可能ですか?」

千鶴は資料を受け取りながら考えていた。正義を求める気持ちと、家族を守りたい気持ちが複雑に入り混じっている。

「適切な手続きを踏めば可能です。ただし、相当な覚悟が必要でしょう」。

「どのような覚悟でしょうか?」

千鶴が詳細を求めた。

「東龍幇は報復を恐れない組織です。関わった人間の安全は保証できません」

千鶴は深く息を吸った。それでも、一条グループを守るためには戦うしかない。

「分かりました。ありがとうございます」

千鶴が立ち上がった。その表情には、困難に立ち向かう強い意志が宿っている。

「千鶴さん、もし何かあったら、すぐに私に連絡してください」

渡邉が名刺を差し出した。

「ありがとうございます」

千鶴が名刺を受け取った。

「くれぐれもお気をつけください」

渡邉が心配そうに見送った。千鶴の背中が小さく見えたが、その歩き方には決意が込められていた。

個室を出た千鶴は、廊下で立ち止まった。手に持った資料の重さを感じながら、これから始まる戦いのことを考えていた。


そして、同日の一条グループ本社。

達也は一人パソコンに向かっていた。 彼の目は血走り、疲労の色が濃い。コーヒーカップは既に三杯目で、机の上には資料が山積みになっていた。

「やっと見つけた…」

達也がつぶやきながら、画面に表示された資料を見つめる。 予想していた通りの不正の証拠が、ついに姿を現したのだ。

「おい達也!俺も見つけたぞ!」

この一週間、達也は社内監査部の同期である田村と極秘に連携し、東南アジア事業の書類を徹底的に調べていた。表向きは通常の業務監査として進めていたが、実際は父親と結菜の関係を調べるためだった。 毎晩遅くまで残り、昼間は通常業務をこなしながら、密かに調査を続けてきた。家族には心配をかけまいと、何も言わずに頑張ってきたのだ。

「達也、お疲れさま」

「田村も遅くまでありがとう」

達也が振り返って言った。彼も同じように疲れ切った表情で、手には厚い資料の束を持っている。

「達也、これを見てくれ」

田村が別の資料を持ってきた。その足取りは急いでおり、重要な発見をしたことが表情から読み取れる。

「東南アジア事業のスキーム内に、偽装請求書とキックバック構造があることを発見した」

田村の声は興奮を抑えきれずにいた。彼が指し示す資料には、赤いマーカーで重要な部分が印をつけられている。 達也は田村が指し示す書類に目を通した。そこには、実態のないコンサルティング料金や、架空のライセンス費用が並んでいた。どれも莫大な金額で、明らかに不自然な取引だった。

「これは…ひどいな」

達也が呟いた。予想以上の規模の不正に、言葉を失いそうになる。

「これ、全部同じやつの承認印が押されてるぜ」

田村が半分呆れたようにして指差した。朱肉の跡がくっきりと残る承認印を見つめながら、達也はその人物の顔を思い出す。

「馬鹿にしてるよな!こんなことしてたら、いつか誰か気づくに決まってるだろ!」

田村が別の資料を広げた。企業の関係図が描かれており、複雑な資金の流れが矢印で示されている。

「なんだこれ、昇華キャピタルにいくら注ぎ込んでんだよ…」

達也は改めて資料を見直した。通常なら複数の業者から見積もりを取るべき案件で、すべて昇華キャピタル関連企業が選ばれている。競合他社との比較検討の記録も見当たらない。

「価格も相場より二割から三割高い。差額がどこに行ってるのか…」

達也が電卓を叩きながら計算した。差額だけでも数億円になる。

「おそらくキックバックだろうな」

田村が推測した。

「これに判を推した人間が、昇華キャピタルから見返りを受け取っている可能性が高い」

田村の分析に、達也は項垂れた。会社の役員クラスが関与する不正となると、事態は深刻だ。二人の間に重い沈黙が流れ、オフィスの静寂がより一層重苦しく感じられた。

「田村、ありがとう。これで決定的な証拠が掴めた」

達也が心から感謝を込めて言った。田村の協力なしには、ここまで調査は進まなかっただろう。

「いいよ。どの道、誰かが気づいてたことだろうから」

田村が真剣な表情で答えたが、その目には迷いの色も見えていた。

「なあ、俺らの会社潰れないよな?」

田村がぽつりと言った。その声には先ほどまでの勢いはない。声にも不安が滲み出している。

「この不正が表沙汰になったら、株価は暴落するし、取引先からの信用も失う。最悪の場合、グループ全体が…」

彼は資料を握りしめながら、震える声で続けた。

達也は田村の言葉を黙って聞いていた。同期の不安な表情を見つめながら、自分自身も同じことを考えていることに気づく。

「…。」

達也は項垂れた。家族や会社、自分の身の回りの人間が危機にあると言うのに、何もできない自分が情けなかった。

「とりあえず、今日のことは一旦忘れてくれ。ありがとうな、田村」

達也は資料を封筒に入れ、急いで帰路についた。家族を救うための重要な一歩を踏み出したと同時に、自分たちが取り返しのつかない道に足を踏み入れてしまったかもしれないという不安も感じていた。


その夜、一条家の応接室に志保、千鶴、そして達也、慶人、紗英が集まった。それぞれが入手した情報を共有するためだった。そして、達也が最後に到着した。

「みんな、お疲れ様。」

達也が到着するなり、疲れた表情で挨拶した。彼の顔は青白く、目の下にはクマができている。この一週間の激務と精神的な負担が、如実に表れていた。

「兄ちゃん、顔色悪いよ」

「大丈夫?無理してない?」

慶人と紗英が心配そうに言った。兄の様子を見て、本当に体調を崩しているのではないかと心配になる。

「この一週間、会社で色々調べてたんだ」

達也が椅子に座りながら答える。椅子に座ると同時に、深いため息をついた。

「達也、ありがとう。本当にお疲れさまでした」

志保が労いの言葉をかけた。

「後で聞かせてもらいましょう。まずは、これを見て欲しいの」

志保が厚い封筒を取り出した。その封筒は茶色で、かなりの重量がある。封筒の中には、千鶴が金融庁OBから取り寄せた資料、昇華キャピタルの実質株主と、結菜が受け取った不審な送金の明細書が入っていた。

「姫川結菜と昇華キャピタルに繋がりがあることがわかったわ」

志保は一枚ずつ丁寧に資料を取り出し、テーブルの上に並べていく。それぞれの資料には付箋が貼られ、重要な部分にマーカーで印がつけられている。

「これは…」

慶人が資料を手に取り、食い入るように見た。数字の羅列を見ながら、その意味を理解しようと集中している。

「……この香港口座。姫川結菜名義だ……しかもこの金額……」

慶人の声が震えていた。そこには、数億円単位の送金記録が記載されていた。一回の送金額が数千万円から一億円に及んでいる。

「母さん、これ全部調べたの?」

慶人が驚愕した表情で志保を見た。母親がここまで詳細な調査をしていたことに驚いている。

「ええそうよ。千鶴さんにお手伝い頂いてね」

志保は静かに微笑む。千鶴の方を見て、小さく感謝の気持ちを表現した。それを見た千鶴は鼻を鳴らす。

達也も資料に目を通し、呆然とした。額の大きさもさることながら、取引の複雑さに圧倒されている。

「なんだこの額、本気で会社を動かすつもりだったのか……」

達也がつぶやいた。これまで想像していた以上の規模だった。

「結菜という女は、ただの愛人じゃないね。何かしらの組織的な犯罪に関わっている可能性が高いよ」

千鶴が厳しい表情で言った。長年の経験から得た知恵が、その言葉に込められている。

「あとは、結菜の金融取引を調べてもらいました」

志保がさらに別の資料を見せる。こちらはコンピューターで印刷された、より詳細な取引記録だった。

「結菜は複数の仮想通貨口座を使って、昇華キャピタルからの資金を香港経由で第三者に流していることがわかったわ」

志保の説明に、慶人が資料を詳しく見直した。

「なるほど、まさに資金洗浄ってことね」

千鶴が厳しい表情で言った。

「申し訳ないけど、今回の話はこれで終わらないよ。達也、あんたからもあるんだろう?」

千鶴が達也の方を向いた。

「…はい、おばあちゃん」

達也が重々しく口を開き、自分が持参した資料を取り出した。それは会社の正式な書類をコピーしたもので、機密性の高い内容だった。

「社内監査の結果、弊社が昇華キャピタルとの取引で不正を行っていることが判明した」

達也が項垂れながら、資料を机の上に広げた。彼自身も、こんなことは知りたくなかったのだろう。

「偽装請求書による水増し請求、そして差額のキックバック。総額で十数億円規模の不正だ」

達也の報告に、部屋に重い沈黙が流れた。

「驚かないで聞いて欲しいのだけど」

千鶴が志保と達也の並べた資料の上に、一枚の紙をおいた。

「私が得た情報では、昇華キャピタルは中国マフィアが関わっているそうよ」

千鶴の報告に、4人は息を呑んだ。マフィアという言葉の重さが、部屋の空気をさらに重くする。

「中国マフィアが犯罪に使うために作った会社なんだってさ」

達也、慶人、紗英の3人は絶句した。自分の生活のすぐ隣で、会社が犯罪に加担しているなど知る由もなかった。そんな3人を見て、志保はため息をついた。

「一条グループはまんまと罠にはまってしまったのね」

志保が頷き、資料を見比べながら、事態の全貌を理解していった。それぞれの資料が、一つの大きな陰謀を描き出している。

「でも、はっきりしたことが一つあるわ」

志保が全員の顔を見渡して言った。

「首謀者は、一条グループの解体、もしくは乗っ取りを計画していると言うことです。」

志保がキッパリと告げた。千鶴は顔を顰め、達也と慶人、紗英はその途方もなさに息を呑んだ。

「なるほど。これだけ大きな事をしていて公にならないはずがない。最初からグループに隠れてやろうなんて思っちゃいないってことか」

千鶴は吐き捨てるように言った。

「事の始まりは、恐らく本人ではなく、『昇華キャピタル』でしょう。彼らは、ターゲットとなる企業を選定していた。その中から一条グループが標的とされた」

志保が資料を並べ替え、指を差しながら説明する。

「そこで、投資会社として『昇華キャピタル』の名前を使い、一条グループの人間に声をかけた」

「…投資会社として『昇華キャピタル』と組む代わりに、キックバックの約束を取り付けたってことか。馬鹿げた筋書きだよ」

志保の言葉に続けて、千鶴が苛立ったように机を叩きながら補足した。

「ただ、この時点では恐らく相手がマフィアだったなんてこれっぽっちも気づいてなかったんだろう。ただの小遣い稼ぎのつもりだったに違いないよ」

千鶴が呆れたように言った。

「資金を実名で受け取るには、リスクがある。…リスクというよりはほぼ犯罪ですが。そこも言いくるめられたのでしょう。そこで、キックバックの受け取り先として指名されたのが、姫川結菜。彼女の名前を使って、口座を作り資金を受け取るようにした。」

志保は資金の流れを指差しながら、順番に追っていく。

「なるほど、そういう事だったのかい」

千鶴が納得したような顔になった。しかし、兄妹3人は不安な顔のままだった。

「でもじゃあ、父さんは?」

「問題はそこじゃないか?父さんが首謀者なのか?」

達也と慶人が心配そうな声で言った。

「…正直なところ、少なくともあの人ではないと思うわ。このやり方では、会社にとってリスクが大きすぎる。そんな事をしても、あの人が得することはないもの。これは私の個人的な思いも入ってるから当てにならないんだけど」

志保が寂しそうに笑って言った。しかし、千鶴も横で頷いている。

「あの子がこんな大それた事が出来る器なもんか。大方、知らない間に言いくるめられたくらいのもんだろう」

千鶴が扇子を取り出して扇ぎ始めた。

「ということは、やっぱりこの承認印の持ち主が、首謀者で間違いなさそうだね。小遣い稼ぎにしては、ちょっとスケールがでかすぎるけど」

千鶴が皮肉たっぷりにつぶやいた。承認印を指差しながら、その人物への軽蔑を込める。

「個人的な利益のためだったかもしれませんが、途中からマフィアに取り込まれたのでしょう」

志保が推測した。

「…ということは、結菜も最初から仕組まれた罠だった」

慶人が資料を指しながら言った。

「この首謀者と結菜が、別々に父さんへ東南アジアへの投資の話を持ちかけた。父さんは、愛人と会社の人間から言われたから、ホイホイ話に乗っちゃったのかもしれない」

「…それに関しては、もしかすると偶発的な部分があるかもしれないけど」

志保はため息をついた。

「脇が甘いったらないよ!こんな毒虫を自分から招き入れるなんてね!」

千鶴は怒りのあまり、震えながら扇子を握りしめた。

「結菜もこいつも、会社を食い物にするなんて、それ相応の罪は償ってもらわないと!」

しかし、その時。

「あら、電話だわ」

志保のスマートフォンが鳴った。ブルブルという振動音が、静寂な部屋に響く。画面を見ると、見知らぬ番号からの着信だった。


「はい、一条です」

「奥様、お疲れ様です。奥様からご依頼いただいていた件で、ご報告があります」

電話の向こうから、男性の声が聞こえてくる。志保の表情が変わった。調査を依頼していた探偵からの連絡だった。

「崇社長と結菜さんが動き出したとのことです」

その報告に、志保の表情が一気に強張った。

「お二人とも、荷物をまとめ始めまして、どこかに移動する準備をしているようです」

探偵の報告に、志保は静かに頷いた。

「分かりました。ありがとうございます」

電話を切ると、3人が心配そうに志保を見つめていた。

「達也、お父さんたちが出張の準備を始めたみたいよ」

志保の報告に、達也が反応した。

「出張って、まさか...」

「あなたから連絡をもらってから、ずっと監視して頂いてたの。今日から明日にかけての早い便で移動するみたいね」

至極当然のように言う志保に、その場の4人は頭に疑問符が浮かんでいた。

「お母さん、お父さんの居場所知ってたの?」

慶人が驚いた表情で尋ねた。母親がここまで準備していたことに驚いている。

「ええ、もちろん」

志保はにっこり笑って言った。スマホを大切そうに手に持っている。

「崇さんの居場所が、いつもわかるようにしてあるのよ」

そう言いながら、志保はスマートフォンの画面を見せた。そこには、崇の位置がGPSで表示されていた。赤い点が都内の高級マンションを示している。

「もしかして、ずっと知ってたの?」

紗英が恐る恐る尋ねた。

「そうよ?昔からずっと入れてたの。もし、崇さんに何かあったら危ないじゃない。そのためのGPSよ?」

志保の説明に、3人は顔を見合わせた。千鶴も苦虫を噛み潰したような顔をしている。達也は引き攣った顔で質問した。

「…それって、お父さんは知ってるんだよな?同意の上で見てたんだよな?」

その言葉に、志保は笑顔のまま沈黙した。その沈黙が、全てを物語っている。

「…。」

千鶴と兄妹3人もまた黙った。言いたいことがあったが、それは言わない方がいいだろう。母の父への愛と、用意周到さに、改めて恐れを感じていた。

「でも、二人とも、どうするんだろう。ずっとこのまま隠れてた方が良かったんじゃないの?」

紗英がその空気を払拭するように切り出した。話題を変えて、重い空気を和らげようとしている。

「そうだな、ほとぼり冷めるまで、愛人と雲隠れだと思ってたのにな」

慶人がそう言う後ろで、達也はあることに気づいた。

「あれ、おばあちゃんなにしてるの?」

千鶴は出かける準備をはじめていた。コートを羽織り、ハンドバッグを手に取っている。

「何って、追いかけるのさ!」

千鶴が力強く言った。その声には、決意と怒りが込められている。

「ええ!?」

3人は、千鶴の突拍子もない言動に目を向いた。まさか70代の祖母が、直接追跡しようとするとは思わなかった。

「何言ってるのおばあちゃん!こんな夜中に!」

紗英が止めようとした。祖母の身を案じて、必死に引き留めようとする。

「危ないよ!他の人に任せよう!」

「相手はマフィアと繋がってるんだぞ!」

達也と慶人も千鶴を引き留め、必死に説得しようとする。しかし、千鶴の決意は固い。

「ぐずぐずしてたら行っちまうよ!志保さん!あんたも来な!」

千鶴が志保に向かって言った。

「…どうして私が…?お義母さま、調査会社の方に追跡をお願いすればいいのでは?」

「冗談じゃないよ!文句の一つでも言ってやらなきゃね!そもそも、あんたが来ないと場所がわかんないだろ!」

千鶴は二人を追い詰めるつもり満々だった。証拠を集めるだけでは満足できない。直接対決を望んでいるのだ。志保は頭を抱えた。

「おばあちゃん、本気で言ってるの?」

慶人が確認した。

「当たり前だよ!このままのうのうと高跳びできるとは思わないことだね!」

千鶴の怒りは止まらない。全員が戸惑いを隠せずにいる。しかし、同時に千鶴の決意の強さも伝わってきた。

「どうするんだい、志保さん!行くのかい?」

千鶴が最終通告のように言った。志保は深く考え込んだ。危険だとわかっているが、千鶴の気持ちも理解できる。そして、自分自身も崇と結菜に直接問い詰めたい気持ちがあった。

時計の針は夜中の11時を回っていた。重要な決断の時が迫っていた。


千鶴の秘書が運転する車が、夜の東京の街を走っている。後部座席には志保が座り、その隣で千鶴が身を乗り出していた。

「本当に崇はそこにいるんだろうね?」

志保の手にあるスマートフォンには、小さな赤い点が点滅している。千鶴が呟きながら、運転手へ指示を出す。

「間違いありません」

志保がきっぱりと答えた。彼女の声には確信があった。

「動きがあれば教えて下さいと、調査会社の方にもお願いしています」

千鶴はもどかしさに唇を噛んだ。

「小賢しいわね。もしかしたら、計画がバレたことに気づいたのかもしれないよ」

車は目的地に近づく。高級マンションが立ち並ぶ通りに差し掛かると、運転手は慎重に速度を落とした。街灯の光が車内に差し込み、2人の緊張した表情を照らし出す。

マンションの前に到着すると、千鶴は窓から外を注意深く見回した。夜の静寂の中、街灯の光に照らされた歩道に、二つの人影が見える。

「あら、あそこにいるじゃない」

千鶴が震える指で指差した先には、確かに崇と結菜の姿があった。二人は大きなスーツケースを二つ持ち、道路の端で車を待っている様子だった。結菜は何度も腕時計を見て、そわそわしている。崇は重そうなスーツケースを地面に置き、額の汗を拭っていた。

「逃げるつもりね」

千鶴の声は冷静だが、その目には激しい怒りが燃えている。

「どうしましょう?」

志保が千鶴を見つめて尋ねる。

「もちろん、捕まえるのよ」

千鶴が不敵に笑い、車のドアを勢いよく開けた。志保も千鶴に続き、車を降る。二人の足音が静かな夜の街に響いた。


「あら、崇。元気そうね」

千鶴が皮肉たっぷりに言う。その声には、息子への失望と怒りがにじんでいる。二人は崇と結菜に向かって、まっすぐに歩いていく。街灯の光が彼女たちの影を長く伸ばしていた。

崇が妻と母の姿を見て、一瞬で青ざめる。スーツケースを持つ手に力が入ったのが見えた。

「志保…母さん…なんでここに?」

崇の声は震えていた。大企業の社長だというのに、まるで悪いことをした子供のように、小さくなって立っていた。

「どこか旅行でもするの?こんな夜中に、こんなに大きなスーツケースを持って」

千鶴が大袈裟な口調で言うと、崇は何も言えずに震え出した。顔は真っ青だ。隣にいる結菜も、千鶴たちを見て、明らかに震えている。

「不倫相手とどこへ行こうってんだい?会社のことは捨てるつもりなのかい?」

千鶴の声は低く、怒りを抑えていることがありありと分かる。崇は母の迫力に圧倒され、うつむいた。

「母さん、結菜はそんなんじゃ…」

「お黙り!」

崇が弱々しく反論しようとした瞬間、千鶴の怒声が響く。

「いい歳してみっともない!つまらない女に引っかかって!」

千鶴は結菜を一瞥しながら、息子への怒りを露わにした。

「会社を潰すつもりかい!?」

千鶴の最後の言葉は、まるで雷鳴のように響く。崇の顔が更に青ざめる。

「あ、あの…これは…」

結菜が言い訳をしようとしたが、声が震えて言葉にならない。千鶴の圧倒的な存在感に完全に萎縮していた。

「説明は後でいいわ」

志保が冷静に言い、千鶴の隣に並んだ。

「まず、家に帰りましょう。お話することがたくさんあります」

崇は観念したように肩を落とす。逃げることはもはや不可能だと悟ったのだ。スーツケースを持つ手を離し、項垂れた。街灯の光が彼の顔を照らし、諦めの表情がはっきりと見て取れる。

「分かった…帰ろう」

崇の声は力なく、まるで敗北を受け入れるかのようだった。


しかし、その瞬間だった。結菜が突然崇の顔を見て激昂する。

「冗談じゃないわよ!」

彼女の顔は怒りで歪み、握りしめた拳が小刻みに震えている。今まで抑えていた感情が、ダムが決壊するように溢れ出した。

「何よ、これ!せっかくここまで来たのに!」

結菜は髪をかき上げながら、千鶴と志保を睨みつけた。計画に邪魔が入ることへの苛立ちが、ついに爆発したのだ。

「私たちがどれだけ準備してきたと思ってるのよ!」

結菜の声は次第に高くなっていく。

「私が必死に働いて、やっと見つけた幸せなのよ!それを邪魔する権利があなたたちにあるっていうの?」

結菜は千鶴を指差しながら叫ぶ。その声は感情的で、最後の方は八つ当たりのような言葉だった。

「あんたたちみたいに、なんの苦労もなく、金を湯水のように使って生活できるような人間に、何がわかるの!」

しかし、志保も千鶴も微動だにしなかった。結菜の感情的な爆発を見ても、表情一つ変えない。まるで子供の癇癪を見ているかのような、冷静で落ち着いた態度だった。

「まるで駄々っ子ね。観念しなさい」

千鶴の言葉に、結菜はますます怒りを募らせたようだった。

「崇さん、逃げるわよ!」

結菜が崇に向かって叫ぶ。その声には、もう後戻りはできないという決意が込められていた。

「今よ!」

突然、崇が結菜の手を強く握った。 結菜が叫ぶと、二人は真後ろに向かって走り出した。すると背後から黒いセダンが現れた。いつから待機していたのだろうか。2人はスーツケースを引きずりながら、必死の形相で駆け出す。

「なんですって!」

千鶴が驚愕した。

崇と結菜は素早く車に乗り込んだ。車のドアが勢いよく閉まる音が響く。

「狛野さん、車をこちらに回して!」

志保が鋭く背後へ叫んだ。運転手の男が車を歩道へ寄せる。

その間に、黒いセダンはエンジンが唸りを上げ、タイヤが悲鳴を上げながら夜の街に消えていく。排気ガスの臭いが後に残った。

「急いで!追いかけて!」

千鶴が狛野に叫ぶ。その声は怒りと焦りで震えていた。

「狛野さん、追いかけられますか?」

志保が運転席の狛野に尋ねた。

「やってみます!」

狛野が力強く答え、アクセルを思い切り踏み込んだ。千鶴たちの車も勢いよく発進し、夜の東京に向かって駆け出した。

「若い頃はレーサーを目指していたんです。お任せください!」

狛野の目が真剣になった。ハンドルを握る手に更に力が入る。


夜の東京を舞台に、壮絶な追走劇が始まった。崇と結菜を乗せた黒いセダンが、赤信号を無視して交差点を駆け抜ける。横断歩道を渡ろうとしていた歩行者が慌てて飛び退く。対向車線の車が急ブレーキをかけ、クラクションが鳴り響いた。

「あの馬鹿息子!」

千鶴が怒りで体を震わせている。シートベルトが体に食い込むほど、身を乗り出している。

「こんなことになるなんて…、」

志保も動揺を隠せない。手でしっかりと座席を握り、前方を見詰めている。

ネオンが煌めく繁華街の中を、二台の車が猛スピードで駆け抜けていく。歩行者たちが驚いて立ち止まり、スマートフォンで撮影を始める者もいた。コンビニの前にいた若者たちが道を開ける。

「距離が開いてる!」

千鶴が焦った声を上げる。

狛野がアクセルを更に踏み込む。エンジンが唸りを上げ、速度計の針が跳ね上がる。

前を行く黒いセダンが、急に右折した。タイヤが悲鳴を上げ、後輪が横滑りする。千鶴たちの車も同じように急角度でカーブを切った。車内の3人が大きく横に振られる。

「きゃあ!」

志保が思わず声を上げる。

「大丈夫ですか?」

狛野が心配そうに振り返る。

「前を見て運転して!」

千鶴が叫ぶ。黒いセダンは細い路地に入っていく。狭い道を縫うように走り、駐車してある車の間をすり抜けていく。

「上手い運転ね」

志保が感心する。

「でも、こっちも負けてられない」

狛野が自信を見せる。同じように細い路地に突入した。両側の建物が迫り、まるでトンネルのようだ。

「お義母さま!危険すぎます!」

志保が悲鳴を上げる。

「いいえ!ここで逃げ帰るわけにはいかないじゃないのよ!」

千鶴がそう叫んで、歯を食いしばる。路地を抜けると、再び大通りに出た。前方に黒いセダンの姿が見える。

「どこへ向かってるのかしら?」

志保が疑問を口にした。スマートフォンの画面を確認する。

「おそらく高速道路です」

狛野が推測した。

「一般道では逃げ切れないと判断したんでしょう」

案の定、黒いセダンは首都高速の入り口に向かっていた。料金所のゲートを勢いよく通過していく。

「高速に入られたら厄介ね」

志保が眉をひそめる。

「面白くなってきたじゃない。逃がすわけにはいかないわよ」

千鶴がニヤリと笑い、狛野がアクセルを踏んだ。

二台の車は首都高速に入った。深夜の高速道路を駆け抜ける。周りの景色が流れるように過ぎていった。

「もっと出して!」

千鶴が命令した。前方の黒いセダンが、車線を頻繁に変更している。左車線から右車線へ、また左車線へと巧みに移動しながら、他の車を避けていく。運転技術は確かに高い。

「すごい運転だ。プロの仕業かもしれません」

狛野が推測した。

「結菜の関係者でしょう。厄介ですね」

志保が呟く。

「とにかく追いかけて!」

千鶴が叫ぶ。

狛野も同じように車線変更を繰り返す。大型トラックの横をすり抜け、乗用車の間を縫うように走る。他の車のドライバーたちが驚いて道を譲る。

その時、前方で異変が起きた。

黒いセダンが急ブレーキをかけたのだ。ブレーキランプが真っ赤に光る。後ろを走っていた大型トラックも慌てて急停車し、千鶴たちの車の前を完全に塞いだ。

「しまった!」

狛野が舌打ちする。

「回り込んで!」

千鶴が指示した。

狛野は左車線に移り、トラックを追い越そうとした。しかし、その隙に黒いセダンは加速し、遥か前方に消えていた。テールランプの赤い光だけが遠くに見える。

「申し訳ありません…!」

スピードを落としながら、狛野が項垂れた。黒いセダンはみるみる小さくなっていく。

「狛野のせいではないわ」

千鶴が肩で息をしながら言った。

「私たちを守ってくれたのね」

千鶴は息を吐いた。落ち着こうとしているようだった。

「ええ、諦めるのは早いわ」

志保がスマートフォンを慌てて確認した。

「GPSはまだ生きてる。位置が分かるわ」

画面には、赤い点が依然として移動し続けているのが表示されている。

「まだ高速道路上にいるようね」

千鶴は安堵した。

「追いかけましょう」

狛野がアクセルを踏み直した。


GPSの表示を見ながら、千鶴たちは崇の後を追った。志保が手にするスマートフォンの画面では、赤い点が首都高速を南下し、やがて明確な方向性を示している。

「空港に向かってるわ」

志保が確信を持って報告した。画面上の軌跡が飛行場へと向かっている。

「わかりやすくていいわね」

狛野は迷わずハンドルを切り、空港への道を選ぶ。深夜の高速道路を、三人を乗せた車が猛スピードで駆け抜ける。

車は国際線へ到着した。深夜にも関わらず、国際ターミナルには多くの人々が行き交っている。出発便を待つ旅行者、到着した人を迎える家族、空港職員たちが忙しそうに動き回っていた。

千鶴たちが車から降りた瞬間、すると後ろから足音がした。振り返ると、達也、慶人、紗英だった。三人とも息を切らしている。

「よく分かったわね」

千鶴が驚く。

「母さんたちが追跡してるって連絡をもらってたから」

慶人が答える。

「国際線に乗るかもしれないから、待ち伏せしてたんだ」

達也が息を荒くしながら説明した。

志保が急いでGPSを確認すると、赤い点は国際線出発ロビーを示していた。

「検査場にいるわ」

志保の声には緊張が走る。

「急ぎましょう」

千鶴が先頭に立って歩き出した。その足取りは力強く、周りの人々が道を開ける。


5人は空港内を急いだ。長い廊下を駆け抜け、エスカレーターを駆け上がり、国際線出発ロビーに到着する。広いロビーには、深夜便を待つ乗客たちがあちこちに座っていた。

そこには、確かに崇と結菜の姿があった。二人は大きなスーツケースを預け、搭乗手続きを済ませている。結菜は搭乗券を手に持ち、保安検査場に向かおうとしている。

「崇!」

千鶴が大声で呼ぶ。その声はロビー全体に響き渡り、周りの人々が振り返った。

崇が驚いて振り返ると、再び家族の姿を見て顔を歪める。まさかここまで追いかけてくるとは思っていなかったのだろう。

「なんで…どうして分かったんだ?」

崇は愕然とする。手に持っていた搭乗券が震えている。

「もう逃げるのはやめなさい」

千鶴が厳しく言う。その声には、母親としての威厳と悲しみが込められている。

「家に帰って、きちんと話をしましょう」

志保も千鶴に続いて言った。しかし、崇は首を横に振る。もう後戻りはできないという苦悶の表情だった。

「お父さん!」

紗英が涙声で呼びかける。崇がハッとして娘を見た。

「行かないで、お父さん!帰ってきて!」

紗英の目には涙があふれている。

「何してるんだよ!」

達也も声を荒げる。

「家に帰ろう、父さん!」

慶人も必死に呼びかけた。

ロビーにいる他の乗客たちも、この家族の様子を心配そうに見守っている。しかし、結菜が崇の袖を強く引いた。

「崇さん、行きましょう。もう時間がないわ」

結菜の声には焦りがにじんでいる。搭乗時間が迫っているのだ。

崇は深く迷っていた。家族の前に立つか、結菜と逃げるか。崇は長い間、家族と結菜を見比べていた。

「崇…」

志保が静かに夫の名前を呼ぶ。その声には、悲しみと愛情が込められていた。空港のアナウンスが響く中、時間だけが過ぎていく。そして、崇はついに決断を下した。

「ごめん…」

崇が小さくつぶやくと、結菜と共に保安検査場に向かって走り出した。スーツケースを引きずりながら、必死の形相で駆け出す。

「待って!」

紗英が叫んだが、もう手遅れだった。

「崇!」

千鶴も叫んだが、息子は振り返らない。

二人は保安検査場の入り口に到着し、係員にパスポートと搭乗券を見せる。そして、金属探知機を通過し、搭乗ゲートの向こうに消えていった。


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