第三章_結束
「私はこの離婚に反対ですッ!」
紗英はちらりと隣の志保の顔を見た。志保の顔に動揺が浮かんでいる。
彼女は目を丸くして千鶴を見つめていた。まさか千鶴が自分を庇うとは思わてもみなかったのだろう。
紗英も、先日千鶴が志保を責め立てていた出来事を思い出す。
『でもこうなってしまったからには仕方がないわ。あなたにはこれを書いてもらうから。』
『崇のことはともかく、考えるべきは会社のことよ。一条の看板に泥を塗る真似は許さない。社員と株主に、どう顔向けするのかしら?』
千鶴に一体何があったと言うのだろうか。長年確執があった姑の応戦に、さすがの志保も戸惑っているようだ。
「あなた、息子たちと紗英に感謝するのね」
千鶴は志保の戸惑いに気がづいたのか、薄く笑みを浮かべてそう言った。
「あの子たちがいなければ、こんな事もなかったでしょう。この私が味方してやるのだからしゃんとしなさい!」
その言葉に紗英はハッとした。つい先日兄たちに連れられていったパーティーのことを思い出したのだ。
「なんでお前も来るんだよ!」
姫川結菜について調べた後、兄弟2人が向かったのは、華やかなパーティー会場だった。達也、慶人、なぜか紗英もいる。
「来るに決まってるじゃない!お兄ちゃんたちは頼りにならないんだから!」
達也の抗議に紗英が胸を張り、自信満々に答える。その態度に、達也は言葉を失った。
「パーティーに来るのはいいけど、お前が関わって良いことじゃないぞ。」
「そうそう、すぐ帰れよ。そもそも紗英は、酒飲めるのか?」
兄2人にそう言われると、紗英が眉を吊り上げて憤慨した。
「もう20歳よ!子供扱いしないで!」
達也と慶人は顔を見合わせて苦笑する。
老若男女が入り乱れる華やかなパーティー。政財界の重要人物たちが集まっていた。3人とも普段着慣れない正装に身を包み、どこか居心地の悪そうな表情を浮かべている。きょろきょろと少し緊張しながら辺りを見回していた。
「皆様、どうも、お揃いで」
そうしていると、壇上で主催者が挨拶を始めた。マイクを前に、女性の姿がスポットライトに照らされて浮かび上がる。
それは3人の祖母、千鶴だった。年齢を感じさせない堂々とした立ち振る舞いで、会場全体を見渡している。
彼女は夫を支えながら、経済界、政界にもコネを持つ、夜の女王である。夫と死別し、70歳を超えてなお、社交界の主役を担う女性だった。
「今日はどうか、心ゆくまで楽しんでくださいませ」
祖母の存在感は圧倒的だった。この会場の全ての人が、彼女を中心に動いている。参加者たちの視線が一斉に千鶴に注がれ、その一言一言に耳を傾けていた。
「それで、連絡はしたのか?」
達也が慶人の袖を引っ張りながら、恐る恐る尋ねた。
「したよ!兄ちゃんがビビってしないからな!」
慶人が小声で抗議した。
「全く、小さい時はおばあちゃんに甘やかされて貰ったくせに」
紗英が兄たちを見て呆れたような表情を見せた。
「だって、怖いじゃん!うちのおばあちゃん!」
達也が情けない声を出し、肩をすくめる。
昨日千鶴が家に来て、母に離婚を迫ったことも、既に2人の耳に入っている。それを考えると、なおさら気まずい。足をもじもじと動かし、2人とも落ち着きがなかった。
「あ、おばあちゃんの秘書の人だ!話しかけよう!」
達也が会場の隅に待機している男性を見つけ、ズカズカと人混みを通り抜けていく。
「すみません、事前におばあちゃん…千鶴さんに連絡していたんですけど…」
達也が恐る恐る言うと、付き人は事務的で冷たい口調で告げた。
「本日、千鶴様は誰とも会う予定はないと聞いています」
「えっ?」
三人は揃って愕然とする。
「それから、伝言も預かっております」
付き人が感情を込めずに続けた。
『達也も、慶人も、母親の味方をするつもりだろう。薄情な奴らめ。これから一生何があっても私の味方をするって言うなら話を聞いてやらんこともない』
付き人が千鶴の言葉をそのまま伝えた。
「無茶苦茶だ」
慶人はそう言って頭を抱えた。紗英は眉間にしわを寄せ、達也はぽかんと口を開けたままだった。
祖母はもしかしたら拗ねているのかもしれない。そういうところがある人だった。父や母の前では、冷酷で厳格な女性だったが、孫の前では、子供っぽい一面を見せるのだ。もしかすると、連日の離婚騒動のことで虫の居処が悪いのかもしれない。
「どうするんだよ…」
達也が弱々しく言い、項垂れた。
「どうするって言ったって…」
慶人も困り果てている。手をひらひらと振りながら、解決策を見つけられずにいた。
「もう!お兄ちゃん達ったら!」
紗英が両手を腰に当てて、二人を叱責する。
「私が行く!」
「えっ?」
紗英が決然と宣言した。
「おばあちゃん、多分私が来ていることを知らないはずよ」
紗英は付き人をキッと見据えて言った。その眼差しには強い意志が宿っている。
「おばあちゃんに伝えて、紗英が留学から帰ってきて会いたいって!」
「し、しかし…」
付き人が初めて動揺した表情を見せた。
「紗英が留学のお土産を渡したいって伝えて!今すぐ!」
紗英の迫力に、付き人も押し切られそうだった。
付き人が無線機を取り出し、誰かと小声で話している。しばらくして、戻ってきた。
「千鶴様がお会いになるとのことです。紗英お嬢様だけご案内致します」
「やった!」
紗英が小さくガッツポーズをした。
「なんでだよ!」
「ケチだ!」
兄二人が同時に抗議する。2人とも不満そうに口を尖らせた。
「2人がおばあちゃんにそっけないからでしょ!」
紗英が兄たちを見返しながら言った。
そう言われると二人は心当たりがあるのか、ばつが悪そうに視線を逸らして黙った。
「私は日本に帰ってきたらおばあちゃんとご飯に行ってたもん!お兄ちゃん達とは違うのよ!」
紗英は得意げに胸を張った。
「でも、紗英、大丈夫か?」
慶人が心配そうに妹の肩に手を置いた。
「昨日のことがあるからな…」
達也が不安そうに眉をひそめて言った。
「任せて!」
紗英が胸を叩いて意気込んで言った。
「本当に大丈夫かな」
達也が心配そうに慶人に耳打ちした。
「紗英なら大丈夫だよ。あの子は頭がいいから」
慶人が兄の肩を叩きながらそう答えた。
紗英は付き人に案内されて、会場の奥の部屋に向かう。
本当にうまくいくだろうか。自信満々に言ったものの、紗英は内心不安だった。
『これは重要な資料なんだ。おばあちゃんに渡して欲しい』
兄たちから託されたもののことを思うと、手のひらに汗が滲んでくる。
「こちらです」
付き人が重厚な扉を開けた。パーティー会場の奥にあったのは、バーのような場所だった。特に地位の高い人々がいるようだ。紗英は一瞬、その豪華さに圧倒されるが、すぐに気持ちを切り替えた。今は祖母のことだけを考えなければならない。
「おばあちゃん!」
紗英が千鶴を見つけて声をかける。千鶴がゆっくりとこちらを振り向いた。
「紗英、よく来たね」
千鶴はそう言ってニヤッと笑った。その声は予想していたより優しかった。よかった、と紗英は胸を撫で下ろした。祖母は機嫌が悪くなさそうだった。
「あんたのお母さんのことで、恨み言の一つでも言いにきたのかい?」
千鶴は意地悪そうに笑った。紗英はその言葉に動揺する。やはり先日の一件を根に持っているのだろう。でも、ここで慌ててはいけない。
「違うわ!おばあちゃんにお土産を渡し損ねてたからきたの!」
その言葉に千鶴は驚いた顔をする。
「はい!おばあちゃんの分よ!」
紗英が可愛らしい包装の箱を両手で差し出す。その箱にはカナダの美しい景色が描かれていた。英語で何かメッセージが書かれ、リボンが結ばれている。
「あら紗英、ありがとう…。」
千鶴はお土産を受け取り、それから紗英を見て、目を細めた。
「悔いのない人生を生きてきたと思ったけど、後悔があるとすれば…」
千鶴は紗英の頬をそっと手で触れる。その手は思っていたより温かかった。
「紗英、あんただよ」
「わ、私!?」
突然言われた言葉に、目を丸くして祖母を見つめる。紗英は顔が熱くなるのを感じていた。
「私は、ずっと女の子が欲しかった。自分にそっくりな可愛い女の子が。…それなのに、私は男しか産めなかった」
千鶴が遠い目をして言う。その表情には寂しさが感じられた。紗英は父のことを思い出す。一人っ子で、祖母から大事に大事に育てられたと言うことを聞いていた。
「男なんてねえ、小さい時は可愛いけど、大きくなったら、親のことなんか気にもかけやしない。孫もそうだよ。」
千鶴は手にしたグラスを見つめながら、遠い目をして続ける。兄たちのことを言っているのは明らかだ。確かに、達也も慶人も祖母とは距離を置いている。その言葉を聞いて、紗英は少し胸が痛んだ。
「あの女が女の子を産んだと聞いた時には、珍しく喜んだものだよ。あんたも聞いてるだろ?」
紗英の心境は複雑だった。母と祖母の関係を改めて感じている。
「でもねえ、あんたに名前をつけてやるって言ってやったんだ。何日も考えてね。画数まで計算したんだよ!それをあの女『ありがたく頂戴します』とだけ言ってあとは無碍にしたのさ!」
千鶴は顔を歪めた。その様子に、紗英は苦笑いした。
「それから、可愛い服を着せてやろうと思って10着くらい選んで送ってやったんだ。あの女、『ありがたく頂戴します』とだけ言って全部処分したんだよ!ひどい嫁だろう!」
千鶴の声には恨みが込められていた。母の立場も理解できるが、祖母の気持ちも分からなくはない。母は祖母からの干渉を避けたかったのだろう。でも、祖母の善意を無下にされた気持ちも分かる。
それほど母と祖母の確執は根深く、それ故、家族も苦労してきたのだった。
「でも私は嬉しいよ。大人になったね、紗英。あんたの爺さんも、あんたと酒を飲みたかっただろう」
紗英は少ししんみりする。祖父の弘治は、十年前に亡くなっていた。仕事に奔走し、会ったことは数回しかない。もし祖父が生きていたら、どんな風に接してくれただろうか。
千鶴はウェイターを呼んで高級シャンパンを注文した。ボトルには金色のラベルが貼られている。
「さて、私の孫が留学先から帰ってきたよ!乾杯!」
祖母が大声をあげると、その場にいる人は大笑いをしながら乾杯をした。
賑やかだなと思う反面、祖母の人脈の凄さを、改めて実感する。この場にいる人々は皆、政財界の重要人物ばかりだった。
「おばあちゃん、実はね、もう一つお土産があるの」
しばらく談笑した後、紗英は急に真剣な表情になって、周囲を見回した。今度は本題に入らなければならない。
「あら、なんだい?」
千鶴が興味深そうに眉を上げる。紗英は大きな封筒をハンドバッグから取り出した。それを見た千鶴はスッと表情を消す。空気が一変したのを、紗英も感じ取った。
「達也お兄ちゃんと慶人お兄ちゃんから、おばあちゃんに見てほしいって」
小声で説明する。紗英の声は緊張で少し震えていた。
「…只事じゃなさそうだね」
千鶴は立ち上がり、紗英を連れて奥の誰もいないスペースへ向かった。歩きながら、表情はどんどん険しくなっていく。紗英も緊張が高まっていた。これから祖母がどんな反応を示すのか、想像もつかない。
静かな個室で、千鶴は封筒を慎重に開ける。その様子を、紗英は固唾を呑んで見守っていた。
「これは…」
封筒を開けた千鶴は目を見開いた。その顔色が見る見る変わっていく。最初は驚き、次に怒り、そして深い憂いの表情になった。紗英は祖母の反応を見て、事の重大さを改めて理解する。これは本当に大変なことなのだ。
「詳しくは二人から説明をしたいって」
紗英が小さく言った。
「…なるほどね」
千鶴は考え込むような顔になる。資料を何度も見返しながら、顔を歪ませた。長年会社経営に関わってきた彼女にとって、この資料の意味するところは一目瞭然だった。
「…あの2人はまだいるかね。紗英、追い返して悪かったと伝えておいて。」
そういうと、千鶴は笑った。紗英はこくこく、と頷く。
「また、これをよく調べたね。私はこの後もあるから、今日はここで帰りなさい。この件は、改めて時間を作ろうじゃないの。」
千鶴は紗英の頭を優しく撫でた。
「…あんたたちが賢い子に育ってよかった。3人とも、気をつけて帰りなね」
その言葉には、深い愛情が込められていた。
「週刊誌がかぎ回っている?不倫問題が公になったら、ですって?」
千鶴が役員たちを見回しながら言った。その眼差しは鋭く、誰一人として身動きが取れない。
紗英はあの時パーティーで祖母に渡したものが、なんらかの形で影響していることを悟った。しかし、それがどうして母の味方をすることに繋がったのだろうか。
役員たちは千鶴の迫力に完全に飲まれていた。先ほどまでの威勢はどこへやら、縮こまって座っている。千鶴の視線を避けるように下を向く者もいる。
「会長夫人、私どもは会社の将来を考えて…」
眼鏡の役員が震え声で説明しようとする。しかし、千鶴の冷たい視線を受けて、言葉が続かない。
「あははは!会社のこと、ですって?」
千鶴はそう言って大笑いしはじめた。
「会長夫人…?」
千鶴の笑い声が会議室に響く。その笑い声は冷たく、嘲笑的な響きがある。まるで子供の戯言を聞いているかのような、馬鹿馬鹿しいという表情だ。役員たちは困惑し、志保も千鶴の真意を測りかねていた。
千鶴は笑いを止めると、急に表情を変えた。その目は氷のように冷たく、口元には皮肉な微笑みが浮かんでいる。
「あなたたちが公になって困るものは、そうじゃないでしょう」
千鶴の言葉に、役員たちの表情が一変した。何かを察したような、恐怖に近い表情だ。互いに顔を見合わせ、冷や汗をかき始める。
千鶴は立ち上がり、ゆっくりと役員たちの周りを歩き始めた。
「私も年を取りましたが、まだまだ耳は聞こえますのよ」
千鶴の声は低く、威圧的だった。
「…東南アジアへの投資の件」
その言葉に、何人かの役員の顔色が見る見る変わった。血の気が引いて、真っ青になっている。中には膝に置いた手を震わせている者もいる。
「それは…!」
一人の役員が慌てたように声を上げた。その声は震えていた。
「葛城専務、あなたから説明していただけますか?」
千鶴が白髪の男性に視線を向けていった。葛城と呼ばれた男は、顔面蒼白になって震えている。
「会長夫人、それは…誤解が…」
「誤解?」
千鶴が眉を上げる。
「ここにいる全員が同意したそうですね?」
千鶴の発言に、部屋の空気が凍りつく。役員たちは皆、固まったように動かなくなった。
「曽我常務、佐藤取締役、あなたも覚えているわよね?」
千鶴が気弱そうなメガネの男性と、口髭を生やした男性に声をかけた。一人一人の名前を呼ぶたびに、該当する役員の顔が青ざめていく。
「あなたたち、一体何を考えているの?」
千鶴が厳しい口調で言った。その声には怒りが込められている。
「私の夫が作った会社を、潰す気ですか!」
千鶴の一喝に、役員たちは完全に黙り込んだ。完全に千鶴の迫力に圧倒されている。誰も千鶴の目を見ることができず、うつむいたままだった。
紗英は祖母の怒りの凄まじさに圧倒されていた。70歳を過ぎてなお、祖母がこれほど激しい感情を見せるとは想像もしていなかった。
「そもそも、あなたたちがしているのは、会社のためではなく、自分たちの保身でしょう?」
千鶴の指摘は的確だった。役員たちが志保を責めているのは、自分たちの不正を隠すためだということを見抜いている。
「それにね、あなたたち、志保さんがどれだけ会社に貢献してきたか忘れたの?慈善事業、社交界での活動、取引先との関係構築。全て志保さんがやってきたことでしょう?」
千鶴の言葉に、役員たちはハッとする。
「その志保さんを、不倫をした息子の尻拭いのために切り捨てろと?」
千鶴の追及に、役員たちは反論できない。確かに、その通りだった。
「そもそも、不倫をしたのは崇です。悪いのは息子。それなのに、なぜ志保さんが責められなければならないの?」
千鶴の言葉に、役員たちは顔を見合わせる。
「第一、離婚するかどうかは夫婦の問題です。会社が口出しすることではありません」
千鶴は足を止めると、役員たちを見回した。
「以上です。お帰りください」
千鶴がきっぱりと言った。もはや議論する価値もないという表情だった。
「会長夫人、しかし…」
役員の一人、佐藤取締役が最後の抵抗を試みる。しかし、その声には力がない。
「何か?」
千鶴が振り返った。その眼差しは氷のように冷たい。曽我常務も口を開こうとしたが、千鶴の視線に射抜かれて言葉が出ない。
「…失礼いたします」
やがて葛城専務がそう言うと、役員たちは諦めたように立ち上がった。千鶴の前では、もはや何も言えない。重い足取りで、一人また一人と応接室を出て行く。
最後の役員が扉を閉めると、部屋には千鶴、志保、紗英の三人だけが残された。
「志保さん、あなた...知っていたわね」
千鶴は志保に向き直り、そう言った。先ほどまでの激昂とは打って変わって、今度は冷静な表情を浮かべている。
「知っていた...?お義母さま、何のことでしょうか?」
千鶴の言葉に、志保の表情がわずかに変わった。しかし、すぐに穏やかな微笑みを取り戻す。
「…崇の不倫相手のことよ」
千鶴は手に持っていた封筒を静かにテーブルに置いた。それは、達也と慶人が調べ上げた資料だった。
「達也と慶人が、姫川結菜について調べていることを知っているでしょう?」
千鶴の質問に、志保の微笑みが少し固くなる。
「…達也と慶人が?」
千鶴は封筒から書類を取り出し、テーブルに広げた。そこには複雑な金融取引の記録と、結菜の個人ファンドに関する詳細な資料が記載されている。
「あら、知らなかったのかい?あの2人は大したもんだよ。姫川結菜だけならまだしも、こんなことになってるなんてね」
「まさか、あの子たちが...」
志保はそれを聞いて俯いた。その表情には、初めて動揺が現れている。知らなかったようだ。彼女は自分の子供たちを巻き込みたくないと思っていたのだ。
「…今回のことはね、別にあんたの力になろうだなんて思ってきたわけじゃないんだよ。考えただけでも虫唾が走る。でも、孫たちに言われたんじゃしょうがない。」
千鶴は嫌そうな、嬉しそうな顔で言った。長年の確執がある一方で、孫たちの頼みとあっては無視できない。そんな複雑な表情だった。
「あの子たちから頼まれたんだよ。お父さんとお母さんを助けてくれって。泣ける話じゃないか。」
「...。」
志保は無言のまま、さらに深く俯いた。子供たちが自分たちのために動いてくれていることへの感謝と、同時に申し訳なさが入り混じっている。
「いい加減腹を括りなさい。あんた、姫川結菜がただの受付嬢じゃないって知ってたんだろ?あんたはもしかしたら、旦那と自分だけでカタをつけようって思ってたのかもしれないけど、もうそんな問題じゃないんだ」
千鶴の言葉は厳しい。志保は、俯いて無言のままだった。確かに、この問題は夫婦で解決すべきだと考えていた。しかし、事態はもはや個人的な問題を超えている。
「それで、あんたはどこまで知ってるんだい?」
千鶴の質問は直接的で、逃げ道を与えなかった。志保はゆっくりと顔を上げ、千鶴の目を見つめた。
「正直に言うと、まだ全貌は見えていません」
志保の声には、これまでの強気さとは違う、率直さがあった。
「結菜という女性が単なる愛人ではないことも知っていました。そして、崇さんがあの女性とお付き合いを始めた直後に、会社で不穏な動きがあったことも」
「なるほどね」
千鶴は志保の説明に頷いた。やはり、志保も何かを察していたのだ。
「お義母さまは、どこまで?」
「ひとまずは、あの兄弟が調べているところを、引き継いでる途中さ。あの子たちは会社ではまだペーペーだからね。やれることは限られている。ただ...。」
千鶴は言葉を区切り、意味深な表情を浮かべた。
「誰が黒幕かまでは、なんとなくわかってるよ」
その言葉に、志保の目が見開かれた。
「黒幕、ですか?」
志保は眉を顰めた。これまで漠然と感じていた違和感が、具体的な形を取り始めている。
「あんた、崇がこんなことを愛人とやるような人間に見えるかい?」
その質問に、志保はぐっと押し黙った。そして、少し考えてから答えた。
「...いいえ」
確かに、崇は会社を巻き込むような複雑な策略を練るような人間ではない。練れるような人間ではないと言った方がいいだろう。単純で、目先のことしか考えられない男だった。
「だろう?会社の中に、姫川結菜と崇を引き合わせたやつがいるのさ。まあ、あらかた見当はついてるけどね」
千鶴の推理に、志保は息を呑んだ。
「そうなのですか?」
「ああ、今日来た役員の中にいるはずさ」
「…なんですって?」
志保は先ほどの会議を思い返した。志保に離婚を迫っていた役員たちの中に、黒幕がいるというのか。
「私を誰だと思ってるんだい?あの役員どもが入社した時からの付き合いだよ。ま、詳しく調べてみないことには、何も言えないけどね」
千鶴は立ち上がり、窓の方へ歩いて行った。外の景色を眺めながら、重いため息をつく。
「志保さん、あんたのことをずっと憎らしいと思ってきた」
千鶴の率直な言葉に、部屋の空気が張り詰めた。紗英は祖母の突然の告白に驚き、母親の反応を心配そうに見つめる。
「息子の結婚相手として、あなたは相応しくないと思っていた。気に食わない嫁だったしね。愛想がいいだけで、根っこの部分は何を考えてるかわからない。」
千鶴の言葉は容赦ない。しかし、その表情には単なる悪意ではなく、複雑な感情が宿っている。
「あんたも、私に恨み言の一つや二つはあるだろ」
千鶴が続けた。その声には、これまでの自分の行いへの反省も込められている。志保は微笑んだまま目線を下へ向けた。確かに、千鶴との関係は決して楽なものではなかった。姑からの数々の嫌がらせ、冷たい視線、時には露骨な軽蔑の態度。しかし、志保はそれらを全て耐え抜いてきた。
千鶴は振り向き、決意を込めて言った。
「今回ばかりは、お互いに目をつぶろうじゃないか。私が大切なのは、この会社さ。夫と私が血を流し、命を削って繋いできた会社だ」
千鶴の声には深い愛情が込められていた。長年の個人的な感情よりも、もっと大切なものがあることを理解していた。一条グループは、彼女と夫にとって、人生そのものだったのだ。
「そこで働く社員、お世話になっている取引先、それから株主様たちにも、何かあったら生きた心地がしないよ」
千鶴の言葉には、経営者の妻としての重い責任感が表れている。
「お義母さま...」
「この会社を守れるなら、針でも槍でも飲もうじゃないか。あんたも、家族を守りたいと思ってるんだろ」
千鶴の決意は固かった。個人的な感情よりも、会社と家族を守ることの方が重要だった。
「手を組もう。どちらにしても、あんた一人じゃ勝ち目はない相手だ」
千鶴の申し出に、志保は初めて表情を崩し、俯いた。これまでの強気な態度の裏には、一人で戦うことへの不安があったのだ。
「私の知り合いのツテを使わせてやる。どうだ?」
彼女の言葉に、志保は顔を上げた。その目には、希望の光が宿っている。
千鶴はそこで、思いついたような表情を見せると、提案した。
「そうだ、私が恨めしいなら、ここで恨み言の一つでも...」
千鶴がそう言いかけると、志保は近くにあった花瓶をつかんだ。千鶴は続けようとしたが、志保の行動に言葉を失う。
「まあ、では遠慮なく」
志保はそう言うなり、花瓶の水を千鶴に引っ掛けた。水が千鶴の和服にかかり、髪も濡れてしまった。千鶴は驚いて目を見開き、口をぽかんと開けている。
「...これでひとまずは、恨みっこなしですわね」
志保が笑うと、千鶴は顔を引き攣らせた。まさか本当に水をかけられるとは思っていなかった。
「あんた...」
千鶴が呆れたような、しかしどこか満足そうな表情を見せた。
「…私にはもったいない進言でございます、お義母さま。ぜひ、お願いします」
志保はそう言って立ち上がり、深々と頭を下げた。志保の声には、心からの感謝が込められていた。
千鶴は濡れた髪を手で払いながらその様子をじっと見つめていた。そして、深く息を吐くと、彼女に向かってニヤリと笑った。
「では、一条家の女として、この家を守るために力を合わせましょう」
「はい」
二人は合意した。長年の確執を超えて、ついに手を組むことになったのだ。
「達也君、ちょっといいか?」
「はい、何でしょうか?」
田中課長が達也のデスクに近づいてきた。営業フロアはいつもと変わらない忙しさに包まれている。達也は自分のデスクで書類整理をしていた。
「社長のことなんだけどさ」
田中課長は声を潜めて言った。周りに聞かれないよう、達也のデスクに身を寄せている。
「社長の?」
達也は眉をひそめた。父の話題が職場で出ることは珍しい。
「いや、明後日から社長が出張らしいんだけど、お前何か聞いてないか?」
田中課長は困惑した表情で続けた。手にしている資料を見ながら、首をかしげている。
そんな話は初耳だった。そもそも達也は父と関わる部署ではない。業務上の接点がほとんどないのだ。さらに、今回の不倫騒動の一件もあり、あれから一度も父とは話していないのだ。
「いや、知りませんけど…」
「そうだよなあ、俺の部署も誰も聞いてなくてさ。役員も今日初めて聞いたって言ってたから、お前に聞いてみようかなって思って」
田中課長は肩をすくめた。その表情には、困惑と同時に少しの不安も見え隠れしている。身内の自分にわざわざ聞き取りが入ることなんて、よっぽどのことだ。達也の胸に嫌な予感が広がった。
「詳しく教えてもらえますか?」
達也は身を乗り出した。何かが起きているという直感が働いている。
「実は今朝、突然決まったらしいんだ」
田中課長は声をさらに小さくした。
「中国への出張でな、一週間の予定だって」
田中課長は資料を見直しながら答えた。
「でも、おかしいんだよな。普通、こういう海外出張は最低でも一週間前には決まるものだろ?それが今朝突然って…」
課長の言葉に、達也の不安は確信に変わった。
(もしかして、これ高跳びか!?)
田中課長が去った後、達也は慌てて電話をかけた。
「もしもし!俺だけど!おばあちゃん!?」
「少し早いが、駒を進めよう」
都心の高級ラウンジ。VIPルームでは密談が行われていた。重厚な革張りのソファに座る二人の影が、静かに向き合っている。男の声には、何かを急いでいる焦りも感じられた。
「早いって、まだ準備が整ってないでしょう?」
結菜はいつものようにきらびやかなドレスを身に纏い、高価なアクセサリーで身を飾っている。しかし、その表情には先日の出来事がまだ影を落としていた。
「状況が変わった。こちらの動きが読まれている可能性がある」
男は重い口調で説明した。
「あら、作戦は失敗だったの?」
結菜の声には、以前の甘ったるさは微塵もない。彼女は足を組み直し、男を見下すような視線を向けた。失敗の責任を男に押し付けるつもりのようだった。
「いい度胸だな?」
男の声は低く、威圧的だった。結菜への警告が込められている。机に身を乗り出し、鋭い視線で彼女を睨みつけた。顔が赤くなり、握りしめた拳が震えている。
ガシャン!
派手な音がラウンジに響き渡る。男が目の前のグラスを机から落としたのだ。高価なクリスタルグラスが床で砕け散り、中身のウイスキーが絨毯に染み込んでいく。琥珀色の液体が白い絨毯に黒いシミを作った。
その音に驚いて、ウェイターが慌てて寄ってくる。黒い制服を着た若い男性が、掃除用具を手に急いで駆け寄った。
「申し訳ございません、すぐに片付けさせていただきます」
ウェイターが恐縮しながら床を拭き始める。
しかし、結菜は全く動じていない。むしろ、男の動揺を楽しんでいるかのような表情を見せている。
「あら、こんなことで怖気づいてたらこれから大変じゃない」
先日とはうって変わって、結菜は冷ややかに笑った。その笑い方には、何かを諦めたような、同時に開き直ったような響きがある。彼女は手鏡を取り出し、口紅を塗り直し始めた。まるで男の怒りなど眼中にないかのような余裕を見せていた。
「お前、この状況の深刻さが分かっているのか?」
対して男は苛立ちを隠せない。拳を握りしめ、額に汗が浮かんでいる。
「もちろんよ。でも、パニックになったって仕方がないでしょう?」
結菜が手鏡をバッグにしまいながら答えた。
「まさか会長夫人が出てくるとはな」
男は深いため息をついた。千鶴の介入は、彼らにとって想定外の事態だったのだ。椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げた。
「社長夫人とは水と油だと聞いていたのに、面倒だ」
「どうするの?」
結菜が男に問いかけた。その声には、不安よりも興味の方が強く表れている。男は少し考えてから、決意を込めて答えた。
「計画に変更はない。強いて言うなら向こうでやることが増えただけだ」
男の声には、後戻りできない覚悟が込められている。
彼は立ち上がり、窓の方へ歩いて行った。外の夜景を見つめながら、次の指示を出す。東京の街並みが宝石のように輝いているが、その美しさも今の彼には目に入らない。
「向こうに着いたら、隠蔽に回れ。証拠を処分しろ」
「なんですって?遊んで回るつもりだったのに!」
結菜の声に不満が滲んだ。海外旅行気分でいた彼女にとって、証拠隠滅という危険な任務は受け入れがたい。立ち上がって男に近づき、不満をあらわにした。
「遊びじゃないんだ。これは戦争なんだよ」
男が振り返って言った。
「会長夫人は厄介だ。俺もこちらでやることが増えた」
男は椅子に戻り、深く座り込んだ。千鶴の存在が、彼らの計画を大幅に狂わせていることは明らかだった。
しかし、ここで男は安堵したように息を吐いた。まるで何かを思い出したかのような表情を見せる。
「いずれにしても、もう手遅れだ。一条グループは、いずれ地に落ちる」
結菜も男の自信を感じ取り、微笑みを浮かべた。
「ええそうね、出発してしまえば、あとはこっちのものよ」
結菜は立ち上がり、バッグを手に取った。明後日の出発に向けて、準備を整える必要がある。
「私たちが海外にいる間は手出しできないわ」
結菜が自信満々に言った。男も立ち上がり、結菜を見送る準備をした。
「お前も抜かりなくやれ」
男の警告に、結菜は軽く手を振って応えた。
「心配ご無用よ。私は一人でも十分やっていけるわ」
結菜は自信満々の表情で部屋を出て行った。高いヒールの音が廊下に響き、やがて消えていった。
窓の外では、東京の夜景が煌めいていた。しかし、その美しい光の下で、恐ろしい陰謀が着々と進行していることを、誰も知らない。