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第二章_志保と千鶴

4人はそのまま、料亭を出た。街の雑踏が耳に入ってくるが、まるで他人事のように聞こえた。

「せっかくの集まりの日だったのに、ごめんなさいね。紗英も」

志保はそう言って、子供たちの顔を見回しながら、ため息をついた。その表情には、深い疲労と悲しみが滲んでいる。

「なにいってるの?お母さんは悪くないわよ!」

紗英が母の手を掴んでそう言った。まだ興奮が収まっていないようだ。その目は大きく見開かれ、頬は怒りで紅潮していた。

「お父さんが悪いのよ!あんなひどいことして!」

「そうそう、不倫相手を連れてくるなんて、父さんはどうかしてるよ」

慶人は眼鏡を押し上げながら、深いため息をついた。

「家族の大切な集まりの場に、あんな女を連れてくるなんて」

達也の言葉には、普段の彼からは想像もつかないほどの軽蔑が込められている。

「三人とも、気にしないで。これは、父さんと母さんの問題だから」

志保は子供たちを気遣うように言った。

「そんなわけないじゃない!私はお母さんの味方よ!」

紗英の手を握る力が、だんだん強くなっている。大好きな母親がこんなにも傷つけられていることが、どうしても許せない。彼女の若い心は、正義感で燃えていた。

「お母さんは何も悪くない。悪いのはお父さんよ!」

「そうそう。母さん、俺たちは母さんの味方だから。」

慶人も頷いて言った。

「みんな同じ気持ちだよ。今日のことは、どう考えても父さんがおかしい」

その言葉に、達也も同意した。

三人の子供たちの言葉に、志保の心は少しだけ温かくなった。しかし、同時に申し訳なさも感じている。子供たちをこんな大人の問題に巻き込んでしまったことへの罪悪感が、胸を締め付けていた。

「ありがとう。」

志保はそう言って力無く笑った。



三人は疲労の色が見える志保を家まで送り届け、母親を見送った。いつもなら背筋を伸ばして歩く志保の後ろ姿が、今日はどこか小さく見える。玄関のドアが閉まる音を聞いて、三人は顔を見合わせた。

「お母さん、大丈夫かな」

紗英が心配そうにつぶやく。

「今日はゆっくり休んでもらおう。俺たちも落ち着く必要があるしな。」

三人は近くの喫茶店に入った。頭を突き合わせて、今後のことを話し合う。

「父さんはまさか、あの場に不倫相手を連れてきて、俺たちが歓迎するとでも思ってたのか?」

そう言う慶人の声は、怒りというより呆れているようだった。彼は首を振りながら、信じられないという表情を浮かべている。

「父さんならあり得る。いまだに私たちのことを子どもだと思ってるから」

紗英が腕を組んで言った。その表情には、父親への軽蔑が浮かんでいる。彼女の声には、長年感じていた不満が込められていた。

「でも、離婚だなんて…。俺、これからどうすればいいんだよ?」

父と近い部署で働いている達也は頭を抱えた。会社での立場や、周りの目のことを考えると、どうしていいかわからない。

「ちょっとしっかりしてよ!頼りにならないんだから!」

それを聞いた紗英が顔を顰める。

「だって、うちの親はそんなこととは無縁だって思ってたんだよ!」

達也は情けない声でそう言うと俯いた。それを聞いて慶人と紗英も顔を見合わせる。それはこの場にいる全員が、同じ気持ちだった。

仕事で家にいないことの多かった父、家族を精一杯サポートしていた母。三人の頭にはこれまでの家族との日々が思い出された。

裕福な暮らしをして、困る事はなかった。大学にも行かせてもらった。欲しいものは大抵買ってもらえたし、家族旅行も毎年楽しんでいた。

完璧な家庭、完璧な父と母。それがこんなにあっけなく壊れてしまうとは夢にも思わなかった。

「不倫だとか、離婚だとかって、ずっと他所の家の話だと思ってたよな」

しばらく沈黙が続いた。コーヒーカップから立ち上る湯気だけが、静かに揺れていた。

「…とにかく、母さんのためにできることをやるしかないだろ」

慶人がそう言った。じっと机を睨みつけ、決意を固めている様子だった。

「そうね、私しばらく日本にいるから、お母さんの側にいるわ」

紗英がそう言うと、達也がほっとした表情を見せた。

「そうしてくれると助かる。」

「…助かるじゃないのよ!達也兄ちゃんも様子を見に来てよね!」

紗英の声は鋭く、達也を睨みつけている。

「全く、なんでこんなに情けないの?」

紗英は横から叱責されると、達也は身を縮こませた。

「何をやるにも他人任せ!弱音ばっかり吐いて!」

「父さんと母さんが長男だからって甘やかしたからだろ。」

紗英と慶人から責められると、達也はムッとした顔になる。確かに自分が一番甘やかされて育ったという自覚はあったが、こんな言い方をされると腹が立つものだ。

「兄ちゃん、今だに黙ってても飯が出てくると思ってるからな」

慶人が苦笑いを浮かべながら言った。

「おい!流石に一人暮らししてるんだから違うぞ!」

達也が怒ったように言うと、紗英が肩を掴んで揺さぶってきた。その手は意外と力強い。

「ていうか、父さんと同じ会社なんだから、不倫してるってわからなかったわけ?」

紗英の質問は鋭く、達也を追い詰める。

「はあ?そんなこと言われても、毎日会うわけじゃないんだぞ?」

肩を揺さぶられながら、達也は必死に反論する。

「とにかく!何かあの女の事でも調べてきなさいよ!」

「無理だろ!あの人、どこの誰なんだよ!」

紗英の命令口調に、達也は困った顔をする。

「それはいいかもしれない」

慶人が横から言った。彼の目は真剣で、何かを考えている様子だ。

「俺にも考えがある。何か一つでも母さんに有利に働くような情報を仕入れたほうがいい」

慶人の声には、冷静な分析力が戻ってきている。彼は手帳に何かメモを取りながら話している。

「なるほど、じゃあ私もそうするわ!」

紗英が乗り気になって言った。その目は輝いている。

「待ってくれ、調べるって言ったってどうやって…」

乗り気になった二人を前に、達也が困ったように言う。

現実的な問題を考えると、どうしていいかわからない。

「それは自分で考えなさいよ!」

紗英が呆れたように言った。その表情は、兄への失望で満ちている。

「まったく、甘ったれだな、兄ちゃんは」

慶人も苦笑いを浮かべた。達也は何も言えず、小さくなるばかりだった。


喫茶店の時計は8時を回っていた。長い一日が終わろうとしているが、本当の戦いはこれからだった。三人は母親を守るために、それぞれができることを考え始めていた。


翌朝、志保は早めに起きてキッチンに向かった。普段なら夫の朝食も一緒に準備するのだが、今朝はその必要はなさそうだった。

昨夜、崇は帰ってこなかった。おそらく、あの女のところにいるのだろう。

「お母さん、おはよう」

二階から紗英が階段を降りてくる音が聞こえた。まだ眠そうな足音だが、母親を心配して早起きしたのかもしれない。寝癖のついた髪をそのままに、パジャマ姿の紗英がキッチンに現れた。まだ完全に目が覚めていない様子だったが、母親の様子が気になっているようだった。

「おはよう、紗英。よく眠れた?」

「うん、でもお父さんは?」

紗英はキッチンを見回した。いつもなら父親の分の食器も準備されているはずなのに、今朝は母親の分しかない。嫌な予感が胸をよぎる。

「帰ってきていないわ」

志保は淡々と答えた。しかし、紗英の表情が曇る。予想していたこととはいえ、実際に聞くと胸が締め付けられる思いだった。父親が家族よりもあの女を選んだという現実が、改めて突きつけられる。

「お母さん、本当に離婚しないの?」

紗英は心配そうに母親を見つめた。昨日の夜、あれだけ屈辱的な思いをさせられて、それでも離婚しないと言い切った母親のことが理解できない。

「ええ、しないわよ。理由があるの」

「理由?」

志保は朝食の準備をしながら答えた。紗英はその言葉に首をかしげる。

しかし、そこで二人の会話は中断された。

大きなブレーキ音がして、家の前に車が止まった音がしたからだ。

「あの車は…。」

志保は手を止めて、窓の方を見た。その表情が一瞬で緊張に変わる。

窓から見てみると、一条家の玄関に高級車が横付けされていた。黒塗りの高級セダンで、ナンバープレートも特別なものだった。

運転手が慌てて降りて、後部座席のドアを開けるのが見える。

現れたのは、白髪の女性だった。その歩き方には迷いがない。背筋はまっすぐで、顔つきは厳しい。

「奥様、こちらでお待ちを…」

運転手が気遣うように声をかけたが、彼女は手を振って制した。その手つきは有無を言わせない圧があった。

「結構です。すぐに済みますから」

その女性こそは、70歳を過ぎてなお威厳を失わない前会長の妻、一条千鶴であった。崇の母親である。普段から厳格な人柄で知られる彼女だが、今日は特に険しい表情をしていた。彼女の後ろには、黒いスーツを着た男性が控えている。千鶴の秘書兼ボディーガードのような存在である。その男性も緊張した面持ちで、千鶴の様子を見守っていた。

志保は玄関に向かった。紗英も慌てて後に続く。

「お義母さま、いらっしゃい…」

志保が丁寧に挨拶をしようとした瞬間、千鶴は手にしていたペットボトルの水を志保の顔に引っ掛けた。

「きゃっ!」

冷たい水が一気に志保の顔にかかる。予想していなかった出来事に、紗英は目を閉じて身を縮めた。

水が志保の顔と服にかかり、紗英は驚いて後ずさりした。彼女の髪と服が、一瞬でびしょ濡れになる。

「ちょっと、おばあちゃん!」

「紗英、大丈夫よ」

志保は紗英を制し、冷静に対応した。水を拭きながらも、姿勢を正している。千鶴の怒りを受け止める覚悟ができているようだった。

「お義母さま、どうぞお上がりください。二人でお話しましょう」

志保は紗英に目配せをして、二階に上がるよう促した。この場は大人同士で解決すべきだという判断だった。

紗英は心配そうに母を見たが、従って階段を上がっていく。足音が次第に遠ざかっていく中、玄関には重い沈黙が流れた。


「やってくれたわね、志保さん」

応接室に案内されると、千鶴は扇を取り出して激しく仰いだ。その声は怒りで震えている。いつもなら優雅に構えている彼女の眉間には、深いしわが刻まれていた。

「昨日崇が女を連れてきたわ。すでにあなたと話はついてるって言ってね!」

千鶴の言葉に、志保は内心で納得した。あの料亭でのあと、二人はそのまま千鶴のところへ向かったようだった。困ったことがあると、すぐに母親のところへ行く。崇の行動パターンは相変わらずだ。今回は千鶴に先んじて伝え、離婚を進めようとしているようだった。

「あなたがうまく息子の手綱を握ってくれてると思っていたのに、このザマよ。」

千鶴は心底憎たらしげに言った。扇を握る手に力が入る。

「一般家庭のお嬢様に何ができるというの?許した私がバカだったわ。あの時もっとしっかり反対しておけば」

千鶴の言葉は容赦がなかった。志保の脳内に、婚約時のやりとりが思い出される。

『息子には、もっと相応しい相手がいるのよ。同じ階級の、きちんとした家庭のお嬢様が!』

当時の千鶴の声が、まるで昨日のことのように蘇った。あの頃の千鶴は今以上に厳しく、若い志保を徹底的に批判していた。

『今日のお料理、味が薄いわね?志保さん、崇の好みをちゃんと把握していらっしゃるの?』

夕食の席でも、千鶴の評価は厳しかった。志保が一生懸命作った料理も、いつも何かしら問題を見つけ出される。崇は何も言わずに食べているのに、千鶴だけが文句をつけ続けた。

『お客様をお迎えする時の服装じゃないわね。一条家の品格を考えて選んでいただかないと』

『立ち居振る舞いがまだまだですわ。もっと優雅に、一条家の奥様らしく』

歩き方、座り方、お辞儀の仕方まで、千鶴は細かくチェックしていた。志保の自然な動作も、千鶴にとっては「品がない」ものに映るのだった。

『ご近所の奥様方との付き合い方も考えなさい。あなたの言動一つで一条家の評判が決まるのよ』

崇がそんな千鶴を見かねて文句を言う場面もあったが、それが千鶴に響くことはなかった。

そんな日々が何年も続いた。志保は必死に千鶴の期待に応えようと努力したが、完璧になることは不可能だった。どんなに頑張っても、千鶴は新たな欠点を見つけ出すのだ。2人は表面的には嫁姑として付き合ってきたが、常に緊張感漂う関係が続いていた。


「やってくれたわね、志保さん」

応接室に案内されると、千鶴は扇を取り出して激しく仰いだ。その声は怒りで震えている。いつもなら優雅に構えている彼女の眉間には、深いしわが刻まれていた。

「昨日崇が女を連れてきたわ。すでにあなたと話はついてるって言ってね!」

千鶴の言葉に、志保は内心で納得した。あの料亭でのあと、二人はそのまま千鶴のところへ向かったようだった。困ったことがあると、すぐに母親のところへ行く。崇の行動パターンは相変わらずだ。今回は千鶴に先んじて伝え、離婚を進めようとしているようだった。

「あなたがうまく息子の手綱を握ってくれてると思っていたのに、このザマよ。」

千鶴は心底憎たらしげに言った。扇を握る手に力が入る。

「一般家庭のお嬢様に何ができるというの?許した私がバカだったわ。あの時もっとしっかり反対しておけば」

千鶴の言葉は容赦がなかった。志保の脳内に、婚約時のやりとりが思い出される。

『息子には、もっと相応しい相手がいるのよ。同じ階級の、きちんとした家庭のお嬢様が!』

当時の千鶴の声が、まるで昨日のことのように蘇った。あの頃の千鶴は今以上に厳しく、若い志保を徹底的に批判していた。

『今日のお料理、味が薄いわね?志保さん、崇の好みをちゃんと把握していらっしゃるの?』

夕食の席でも、千鶴の評価は厳しかった。志保が一生懸命作った料理も、いつも何かしら問題を見つけ出される。崇は何も言わずに食べているのに、千鶴だけが文句をつけ続けた。

『お客様をお迎えする時の服装じゃないわね。一条家の品格を考えて選んでいただかないと』

『立ち居振る舞いがまだまだですわ。もっと優雅に、一条家の奥様らしく』

歩き方、座り方、お辞儀の仕方まで、千鶴は細かくチェックしていた。志保の自然な動作も、千鶴にとっては「品がない」ものに映るのだった。

『ご近所の奥様方との付き合い方も考えなさい。あなたの言動一つで一条家の評判が決まるのよ』

崇がそんな千鶴を見かねて文句を言う場面もあったが、それが千鶴に響くことはなかった。

そんな日々が何年も続いた。志保は必死に千鶴の期待に応えようと努力したが、完璧になることは不可能だった。どんなに頑張っても、千鶴は新たな欠点を見つけ出すのだ。2人は表面的には嫁姑として付き合ってきたが、常に緊張感漂う関係が続いていた。


「崇も崇よ。我が息子ながら情けない。あんな若い女に本気だなんて。」

千鶴は更に苛立ちを募らせたようだった。息子への失望も隠せない。

「面目ございません」

千鶴の追求にも、志保は淡々と答える。その声には感情の起伏がなく、まるで業務報告をしているかのようだ。

「ふん、こうなってしまったからには仕方がないわ。あなたにはこれを書いてもらうから。」

吐き捨てるように言い、千鶴は脇に控えた黒服に合図をした。その動作は慣れたもので、普段から多くの人を使っている証拠だった。

「志保さま。こちらを」

「これは…。」

黒服は一枚の書類を差し出した。それは記入済みの離婚届だった。

志保は離婚届を手にとり、じっと見つめる。確かに崇の名前が記入され、証人欄にも千鶴のサインがあった。すべて準備万端で、志保の署名だけが待たれている状態だった。

「周囲に勘付かれる前に済ませなさい。円満に離婚したと思われるようにね」

千鶴は扇で自分の顔を仰ぎながら笑った。

「崇のことはともかく、考えるべきは会社のことよ。一条の看板に泥を塗る真似は許さない。社員と株主に、どう顔向けするのかしら?」

千鶴はそういうと、志保を睨みつけた。その視線は鋭く、威圧感がある。

「もう話はついてるそうだし、迅速に離婚を進めて頂戴。あの女の処遇はそのあと私が決めましょう」

千鶴の脅しにも似た言葉を聞いて、志保はにっこりと笑った。その笑顔は今まで見せたことのないような、不気味な美しさがあった。

「わかりました、お義母さま」

「あなたが聞き分けの良い嫁で助かったわ。今までご苦労様。」

志保が穏やかに答えたのを見て、千鶴は満足そうに扇を閉じた。

その瞬間だった。


志保は離婚届を千鶴の前に掲げると、その場で破り捨てた。ビリビリという音が応接室に響き、紙片が宙に舞う。

「ちょっ…!?」

千鶴は愕然とした。まさか、破られるとは思っていなかった。口がぽかんと開いて、扇を握る手が止まっている。

「お義母さまのご意見はごもっともです。今回の件は、ひとえに私が至らないせいで起きました」

志保は顔色一つ変えず、破った離婚届を千鶴の目の前に置く。その動作は丁寧で、まるで茶菓子でも差し出すかのようだ。

「これまで、お義母さまからたくさんの"ご指導"を頂いたのにも関わらず、申し訳ございません」

千鶴は何も言えずに、震えながら目の前の離婚届を眺めていた。全く理解が追いついていないようだ。

「しかし、離婚はいたしません」

志保はキッパリと言った。その声は静かだが、強い意志が込められている。

「なんと言われても、これだけは譲れないのです」

それを聞くと、扇子を閉じ、千鶴は立ち上がった。これ以上の話し合いは無理だと悟ったのだろう。

「これが私の精一杯の譲歩だったのに」

千鶴は志保を見下ろしながら、扇子を激しく握りしめた。その目には、怒りと困惑が入り混じっている。

「あなた、後悔するわよ」

千鶴の声は低く、最終警告のようだった。

「いいえ。後悔などと…」

志保は立ち上がり、千鶴に深々と一礼をする。

「不出来な嫁で恐れ入ります」

千鶴はその言葉に何も言い返さず、黒服の男性と共に立ち去った。足音が玄関に向かって遠ざかっていく。

玄関のドアが勢いよく閉まる音が、家全体に響いた。

やがて車のエンジン音が聞こえ、それが遠ざかっていくまで、志保は一人深々と頭を下げたまま、破れた離婚届の破片を見つめていた。


千鶴が帰った後、間も無くして足音が慌ただしく階段を駆け下りてくる。

紗英は千鶴との話し合いの間、ずっと二階で心配していたのだろう。紗英が母の元へ駆け寄ってきた。

「お母さん!大丈夫?おばあちゃんに意地悪されなかった?」

紗英は心配そうに母の顔を覗き込んだ。その目は不安でいっぱいで、母親に何かひどいことが起きたのではないかと恐れている。紗英の手が、そっと母親の濡れた袖に触れた。

「大丈夫、気にしなくていいのよ、紗英」

志保は優しく微笑んだ。千鶴との激しいやりとりがまるで嘘のように、いつもの穏やかな表情に戻っている。

「そういうわけにはいかないわ!」

紗英が強い口調で言った。彼女にはその優しさが逆に心配だった。本当は傷ついているのに、自分のために無理をしているのではないかと思ったのだ。

「お父さんもお兄ちゃんも頼りにならない!私はどんなことがあっても、お母さんの味方だからね!」

紗英が張り切ったように宣言すると、志保は突然声を上げて笑った。その笑い声は、今朝からの重苦しい雰囲気を一瞬で吹き飛ばすような、明るく豪快なものだった。

「?お母さん?」

紗英が不思議そうに母を見た。こんなに豪快に笑う母を見るのは久しぶりだった。いつもは上品で控えめな笑い方をする母親が、お腹を抱えて笑っている姿に、紗英は驚いている。

何がそんなに面白いのか、紗英には理解できない。でも、母親が笑っているのを見て、少し安心した気持ちになった。

「いえ、なんでもないわ」

志保は笑いを収めて、紗英の頭を優しく撫でた。その手は温かく、いつもの志保だった。なんだかわからないけれど、お母さんが元気になったならよかった、と紗英は思った。

「紗英、ありがとう。あなたがいてくれて、本当に心強いわ」

志保が娘を抱きしめた。

「当然よ!私の大切なお母さんなんだもの!」

紗英も目を閉じて、母を抱きしめ返した。

母にこれ以上酷いことが起きなければいい。

紗英は幼い心でそう願った。


その夜、都心の一角にある高級ラウンジ。下卑た話題と下品な笑い声が飛び交っている。皆それなりの地位にある者ばかりのようだったが、ここでは品格も理性も完全に放棄されているようだった。

「あのモデルは、理事のお気に入りの一人でしたからね!」

派手なスーツを着た男性が、グラスを振りながら大声で話している。

「そうそう、スポーツ選手と結婚したそうだな!」

もう1人、高齢の男性が下品に笑いながら言った。その笑い方は品がなく、周囲の女性たちが複雑そうな顔をしているのも気にしていない。

その中を一人の女性が歩いていく。

ヒールの音を乱暴に響かせ、奥の部屋に向かっていた。化粧は完璧だが、彼女の表情は険しく、その目には苛立ちと不安が宿っている。

周囲の男たちが振り返るが、女性は無視して歩き続けた。普段なら愛想を振りまくところだが、今夜はそんな余裕はない。

店の奥には、さらに特別な個室がある。そこは一般の客が入ることのできない、特別な客だけが使える場所だった。

「話と違うじゃない!」

扉を勢いよく開けると、女は部屋へ入るなり、バッグを投げて激昂した。高価なブランドバッグが床に落ち、中身が散らばる。

その女こそは姫川結菜だった。派手な服を着て、ラウンジ嬢と見まごうばかりの格好をしている。

その部屋には一人の男がいた。

薄暗い照明の中、その顔ははっきりと見えない。ただ、高そうなスーツを着た男だということだけが分かる。椅子に深く腰掛け、グラスを手にしている姿からは、ただならぬ威圧感が漂っていた。

「どうした、結菜?何をそんなに怒っているんだ?」

男は落ち着いた声で言った。結菜の激昂ぶりを見ても、全く動じていない。むしろ、面白がっているような余裕すら感じられる。

「あの女、離婚なんてしないって言ってんのよ!どうするのよ!」

結菜は男に向かって叫んだ。声が震えている。計画通りにいかないことへの苛立ちと、先行きへの不安が入り混じっていた。

「長年尽くしたのに不倫されて、捨てられるバカな女の顔を見てやろうと思ってたのに!」

結菜は崇と志保の離婚が計画通りにいかないことに憤慨していた。あの料亭での志保の冷静な対応が、未だに脳裏から離れない。予想していた弱々しい女性ではなく、得体の知れない強さを持った相手だったのだ。

「ていうか、なんで私のことを知ってんのよ!まさか、この計画のことも…!」

結菜の声に恐怖が混じってきた。志保が自分の過去を詳細に調べ上げていたことが、彼女にとっては何よりも恐ろしかったのだ。自分の出身地、前職、家族関係まで、すべて知られているという事実。それは結菜にとって、完全に予想外の出来事だった。

「まあ待て、何を焦っているんだ?」

男は余裕そうに笑った。グラスを手にして、ゆっくりと中身を飲み干す。

「元はと言えば一般家庭で育った世間知らずの社長夫人だ。俺たちのように、知略も駆け引きもできない。何ができるって言うんだ?」

男の声には、志保への明らかな軽蔑が込められていた。

女はそれでも、不安でいっぱいだった。黙って男を睨みつけている。あの時の志保の表情が頭から離れない。

「それともなんだ?結菜は俺たちの計画に不満があるって言うのか?」

「えっ?」

男の声が急に冷たくなった。結菜の顔が青ざめていく。その言葉の裏には、明確な脅しが込められていた。

「降りたいなら降りればいい。今更そんなことが出来るとは思えないが」

男の口調に、結菜は無言になった。確かに、もうこの計画から降りることはできない。これは、彼女にとっても、自分の人生を賭けた計画だった。貧しい過去から抜け出すための、最後の賭けなのだ。

「安心しろ。俺に考えがある」

「何よ、考えって!」

男の言葉に、結菜が身を乗り出した。

「まず落ち着け。お前がそんなに慌てていては、相手に足元を見られる」

男は冷静に言った。椅子に深く腰を下ろし、結菜を見つめた。

「社内でも噂は広まっている。社長が愛人を作って家庭を顧みない。そんな男に会社を任せられるかという声も出始めている」

「なんですって?」

結菜はその言葉に考え込んだ。

「少し早いが、次の一手といこう。お前の出番はその後だ」

男が薄暗い部屋の中で不敵に笑った。


一方その頃、グループの本社では、達也と慶人の2人の兄弟が会議室を貸し切って、何やら話をしていた。

夜も更けた静かなオフィスフロアに、ぽつりと二人だけが残っている。普段なら賑やかなオフィスも、今は静寂に包まれていた。

達也は疲れた表情で椅子に座り、慶人はパソコンの前で何かを必死に調べている。二人とも、ほとんど眠っていない様子だった。

「これを見てくれ」

慶人が封筒を差し出した。その手は微かに震えている。

「何だこれ?」

達也が慶人の肩越しに封筒の書類を覗き込んだ。

「興信所にお願いして、色々と調べて貰ったんだ。そしたら、姫川結菜名義の個人ファンドがあることがわかった」

慶人の声は緊張していた。

「個人ファンド?」

達也は首をかしげた。金融の専門用語は、営業畑の彼には馴染みがない。

「ほら、これだ。『みどり資産管理LLC』」

慶人が書類の一部を指差す。そこには確かに、結菜の名前が記載されていた。達也が眉をひそめた。金融に詳しくない彼には、その意味がよく分からない。

「どういうことだ?なんでこれが問題なんだ?」

達也がそう言うと、慶人は書類を指差しながら、困った表情で説明を始めた。眼鏡を押し上げる動作が、彼の緊張を物語っている。

「普通、個人ファンドを持つには、最低でも数千万円の資金が必要なんだ」

「数千万円!?」

慶人の説明に、達也の目が見開かれた。

数千万円。受付嬢の給料どころか、並の会社員では、到底手が届かない金額だ。

「なんでそんなものを受付嬢が?」

「そうだ。それなんだよ。しかも、個人ファンドを持つには、専門的な知識もいるし、法的な手続きも大変なんだ。」

慶人は深刻な表情で続ける。達也は絶句した。それを聞くと、ますます普通では考えられない。

「それだけじゃない。このファンドの運用内容を見てみろ」

慶人が別の書類を広げる。書類には、複雑な金融商品の詳細が表示されていた。数字の羅列が、まるで暗号のようだった。

「海外の不動産投資。…しかも東南アジア中心だ。素人がやるような投資じゃない」

慶人の指が、投資先のリストを指している。

「ベトナム、タイ、インドネシア…だって?」

馴染みのない地名ばかりだ。達也は書類を見つめながら、頭の中で計算しようとしたが、、あまりにも現実離れしていて理解が追いつかない。額面の大きさに、めまいを感じるほどだった。

「待ってくれ、なんでそんなことしてるんだ?姫川結菜は、ただの受付嬢じゃないのか?」

達也の声には、困惑が滲んでいる。慶人も戸惑ったような顔をして話を続けた。

「問題はそれだ。普通の受付嬢が、こんな専門的な投資をするはずがない。身内にたまたまそう言う人間がいるのか。もしくは…」

言葉を濁す慶人を見て、達也の不安は増していく。弟の表情が、これまで見たことのないほど深刻だった。

「もしくは、誰かが後ろにいるか、だ。」

慶人の言葉に、達也は目眩がするのを感じた。まるで地面が揺れているような感覚に襲われる。

「この女、普通じゃないよ。嫌な予感がする」

慶人が書類の数字を見つめながら言った。

「父さんも詰めが甘い。俺だって調べればわかることだ。それなのに、なんであんな女と結婚するって言ってるんだ…?」

達也も慶人も混乱していた。信じたくない現実が目の前に突きつけられている。二人の間に重い沈黙が流れた。

「ん?…ちょっと待ってくれ。東南アジア中心の投資だって?」

達也が急に真剣な表情になった。記憶の奥から、違和感を感じていた出来事が蘇ってくる。何かが頭の中で繋がり始めているのを感じた。

「思い出した!そういえば、去年から父さん同じような事してないか?」

「なに?どう言うことだよ?」

達也は椅子に身を乗り出し、弟を真剣に見つめる。

「去年から突然、ベトナム、タイ、インドネシアの聞いたこともない現地企業と次々に契約を結んでる。特に力を入れてるのが、現地の不動産開発と医療インフラ分野への投資だ。でも正直、俺には理由が分からない」

達也の説明に、慶人の表情が険しくなる。眉間のしわが深くなり、唇をきつく結んでいる。

「それで?」

慶人が促した。何か重要な情報が隠されていることを直感していた。

「慈善事業だって言ってたけど、それにしても、国内事業でも一杯一杯なのに、なんでまた急にそんなことを始めたのか不思議だったんだ」

達也の疑問は、長い間胸の内にしまっていたものだった。今になって、その疑問が重要な意味を持ち始めている。

「確かに、タイミングが怪しいな」

慶人も同意した。兄弟の間に重い空気が流れる。二人とも、何か恐ろしい真実に近づいているのを感じていた。

「しかも、その投資の決定過程が正直おかしかった。普通なら、株主とか、投資委員会で何度も議論するはずなのに、数人の役員だけで決めてしまった」

この情報に、慶人の表情がさらに険しくなった。

「その頃の資料があるはずだ。少し調べてみないか?」

達也が過去の会議資料を引っ張り出してきた。慶人がパソコンで財務資料を検索する静かなオフィスに、キーボードを叩く音だけが響いていた。時々、達也が資料をめくる音や、慶人がため息をつく音が混じる。

「おい、ちょっと見てくれないか?」

そして、記載されているデータの一部に目を止めると、2人は眉をひそめた。

「……この請求書、日付が合わない。現地法人の立ち上げが3月なのに、請求がその前に発生してるぞ?」

達也は困惑していた。資料を見直しても、やはり日付は間違っていない。

「本当だ。2月の請求書があるのに、会社設立は3月になってる」

慶人もその言葉にハッとして、パソコンの画面を指してた。データは確実に矛盾している。

「これはおかしい。存在しない会社が請求を出すなんて、あり得ない」

達也が資料を眺めながら言った。2人の背中を冷や汗が伝っていく。

「海外窓口として使われているのは…『昇華キャピタル』っていう中国の投資会社だ」

「昇華キャピタル?」

慶人が資料を読み上げると、達也が聞き返した。初めて聞く会社名に、困惑する。

「聞いたことない会社だな。でも、うちの全ての東南アジア案件がここを経由している」

慶人が画面をスクロールしながら言った。データを見れば見るほど、不審な点が浮かび上がってくる。

「この昇華キャピタルってさ、うちと組むにしては随分小規模じゃないか?こんな投資額に耐えられる体力あるのか?」

達也が疑問を口にした。どう考えても不釣り合いな取引相手だった。

「それが変なんだ。資料には取引実績も資本詳細もない」

慶人がパソコンの画面を指しながら答えた。通常なら当然あるべき情報が、完全に欠けているのだ。

その説明に、達也の顔が真っ青になる。血の気が引いていくのを感じた。

「待ってくれ、なんでこんな会社と取引してるんだ?」

そこまで調べて、2人は沈黙した。取引実績も資本詳細もないような会社に、多額の投資を任せるはずがない。常識で考えても、あり得ないことだった。見えないところで、何か恐ろしいことが起きている。達也と慶人は、直感的にそう感じていた。

「父さんはこのことを知ってたのかな」

達也がぽつりと言った。声が震えている。父親が関与している可能性を考えたくなかった。

「まだわからない。でももし、そうだとすれば、この投資は最初から…」

慶人が言いかけて止まった。その先を言うのが怖かったのだ。

「最初から何だ?」

達也が促した。しかし、答えを聞くのも恐ろしかった。

「最初から仕組まれていた可能性がある」

慶人の言葉が、会議室に重く響いた。点と点が線で繋がり始めているのを感じる。偶然ではない何かが、そこにはあるような気がしていた。家族の不倫騒動から、とんでもない疑惑が浮かび上がろうとしていた。一条グループを揺るがす大きな不正の可能性だ。

「慶人これ、…本当にやばくないか?」

達也の声は震えていた。

「もしこれが本当なら、会社は…」

言葉が途切れ途切れになる。慶人は黙って兄を見つめていた。普段は頼りにならないと思っている兄だが、この時ばかりは同感だった。

「…これ、見なかったことには、できないかな?」

「は?何言ってるんだ…」

「だって、これを調べ続けたら、どうなると思う?父さんが逮捕されるかもしれない。会社も潰れるかもしれない!」

達也の声はだんだん大きくなっていく。恐怖が彼を支配していた。

「俺たちの生活だって、どうなるかわからないぞ。母さんだって、こんなこと知ったら…」

「兄ちゃん」

慶人が冷静に割り込む。達也は椅子に深く座り込み、両手で頭を抱えた。

「兄ちゃん、しっかりしてよ」

慶人が呆れたように言った。しかし、兄の気持ちも理解できなくはない。

家族のことも、会社のことも、自分たちにとっては盤石で疑う余地もないものだった。それがここ数日で、呆気なく崩れていこうとしている。

「とにかく、どちらにしても、もっと詳しく調べる必要がある」

慶人が立ち上がった。椅子がきしむ音がやけに大きく響いた。

「でも、これ以上は俺たちの権限では無理だ。財務部の詳細なデータにはアクセスできない」

達也が不安そうに言った。

「…こういうときは、あの人に相談してみよう。何かわかるかもしれない」

慶人がそう言うと、達也は露骨に嫌な顔をした。一瞬考え込むような顔をした後、眉間に深いしわが寄り、首を横に振る。

「お前、マジで言ってんのかよ!」

達也の声には困惑と拒絶が入り混じっていた。

「当たり前だろ、こんなのとてもじゃないけど社員には言えないよ。もちろん、母さんにも」

慶人も苦渋の表情を浮かべながら答えた。

二人は神妙な顔をする。離婚問題で大変な時に、志保に相談するのは得策とは思えなかった。

「一応あの人は、会社の特別相談役なんだ。あの人以外にいないよ」

「…マジかよ」

しかし、弟の言うように、他に適任者は考えられない。達也は深いため息をつき、肩を落とした。


その日、一条家は朝から騒がしかった。

玄関のチャイムが何度も鳴り響く。

紗英が窓から外を覗くと、高級車が何台も並んでいるのが見えた。

「お母さん、何かしら?」

紗英が志保に声をかけた時、玄関から男性の声が聞こえてくる。

何人もの年配の男性が家に来ていたのだ。彼らは皆、高級スーツに身を包み、深刻そうな雰囲気を漂わせている。

こんなに大勢の男性が一度に家を訪れるなど、今まで経験したことがない。一体何が起こっているのだろうか。

「奥様はどこだ?」

「志保夫人にお会いしたい」

「緊急にお話があります」

彼らは口々にそう言った。その口調は焦った様子だった。

「まあまあ、役員の皆様。お揃いで、どうかされたのですか?」

志保が穏やかに微笑みながら言った。紗英は何人かの顔に見覚えがあった。男たちは一条グループの役員たちだった。

志保は落ち着いた様子で彼らを応接室に案内した。その表情からは、動揺の色は微塵も感じられない。

応接室に通すと、全員が志保を取り囲んだ。まるで取り調べのような光景だ。紗英は不安になり、母の隣に座る。

「実は、お願いがあって参りました」

一人の役員が重々しく口を開いた。白髪をきっちりと撫で付けたその男性は、額に薄っすらと汗を浮かべている。

「一条社長の件でございます」

別の役員が続ける。その声は申し訳なさそうだが、どこか事務的な響きもあった。

志保は微笑みを浮かべたまま、じっと彼らの言葉を待っている。紗英は母の隣で緊張しながら事の成り行きを見守っていた。

「率直に申し上げます」

白髪の役員が咳払いをした。

「社長の…その、不倫問題が噂になっておりまして」

「既に一部の社員から問い合わせが来ております」

「週刊誌も嗅ぎ回っているようで」

役員たちは次々と状況を説明し始める。

「つまり、どういうことでしょうか?」

志保が穏やかに尋ねた。内心では既に彼らの目的を理解していたが、あえて聞き返す。

「あの…」

役員の一人が困ったような表情を見せた。

「夫人には、穏便に離婚していただきたいのです」

ついに本題が出された。

「離婚ですか?」

志保が眉を少し上げた。その表情からは、驚きとも困惑ともとれる感情が読み取れる。

「はい。既に社長が不倫相手の家で生活しているという噂が流れているのです」

「身内で既に決着がついた出来事だとすれば、会社のイメージダウンも最小限に抑えられます」

「それに、社員や株主達にも説明ができます」

役員たちは口々に理由を並べ立てる。しかし、その全てが会社の都合ばかりだった。

「なるほど」

志保が静かに頷いた。

「つまり、私が身を引けば全てが丸く収まると、そういうことですね」

「そ、そういうことになります」

役員の一人が困惑したような表情で言った。

その一方で、紗英は信じられないという顔で役員たちを見つめている。

こんな身勝手な話があるだろうか。

「頼む、志保さん!理不尽を言ってるのは重々承知だ!」

白髪の役員が頭を下げた。

「我々も社員を持っている立場なのだ。彼らに何かあってはいけない!」

「会社の信用問題になります」

「株価への影響も心配で」

「取引先へもなんと説明すればいいか!」

彼らは口々にそのようなことを言った。その言葉は一見もっともらしく聞こえるが、本質的には自分たちの保身でしかない。

「いい加減にして下さい!」

あまりに身勝手な言葉に紗英は怒りがこみ上げてきた。母を責めるような彼らの態度が許せなかった。

「どうして母がそんな事を言われなきゃいけないんですか!悪いのは父でしょう!」

紗英が立ち上がって抗議した。その声は怒りで震えている。

役員たちは紗英の剣幕に圧倒され、口籠もる。しかし、志保は相変わらず冷静そのものだ。

「皆様のお気持ちはよく分かります」

志保がゆっくりと口を開いた。

「しかし、夫にも言っているのですが、私は離婚をする気はないのです」

志保がきっぱりと言った。その声には迷いがない。

役員たちの表情が一瞬で曇った。期待していた答えとは正反対だったからだ。

「そこをなんとか!」

「お気持ちは理解できますが…」

役員の一人が弱々しく言った。もはや懇願するような口調だ。別の役員も食い下がろうとする。

「私の気持ちは変わりません」

志保が再度、きっぱりと答えた。

「夫人、もう少し現実的に考えていただけませんか?」

一人の役員が語気を強めた。

「現実的にですか?」

志保が静かに聞き返す。

「そうです。例えば、せめて離婚調停を進めて頂くとか…」

「数千人の社員の生活がかかっているんです」

役員たちの声に焦りが混じり始める。

志保の態度が変わらないのを見て、役員たちの苛立ちの色が濃くなってきたのだ。

「そもそもあんたが社長を見張ってなかったからだろう!」

太った役員がそう叫んだ。

「…優秀な社長夫人だと聞いていたが、こんなに融通が効かんとは!」

「妻の役目を果たしていれば、こんなことにはならなかった」

「夫の管理も出来ないのか!」

役員たちは次第に志保を攻め始めた。

「ちょっと!なんて事言うんですか!」

紗英が顔を真っ赤にして立ち上がった、その時だった。

「皆様、お待ちください」

低く威厳のある声が響いた。誰かが部屋へ入ってきたのだ。

「会長夫人!?」

「おばあちゃん!」

それぞれが驚きの声を上げた。

それは千鶴であった。

千鶴は和服に身を包み、堂々とした足取りで部屋に入ってくる。

その存在感は圧倒的で、部屋の空気が一変した。

志保は表情を固くする。昨日の出来事が脳裏に蘇った。

今度は何をしに来たのだろうか。

「この件、わたくしにお任せになって?」

千鶴が静かに言った。その声には有無を言わさぬ力強さがある。

役員たちは途端にほっとした表情になった。

千鶴なら志保を説得してくれるだろうと期待しているのだ。

「あ、ありがとうございます!会長夫人に仲裁していただけるなら私らとしても…!」

一人の役員が安堵の表情で言った。対して、志保の顔には緊張が走る。千鶴が味方につけば、状況は一気に不利になる。

「ええ、どうかこのまま穏便に離婚を…!」

別の役員が続けた。その時だった。

役員の言葉に千鶴はスッと真顔になった。

その表情の変化に、部屋にいる全員が息を呑む。

「お黙りなさい」

千鶴の一言で、役員は口を閉ざす。

「私は、この離婚に反対です」

千鶴の発言に、部屋の空気が凍りつく。

「なんだって…?」

一人の役員が動揺した声を出した。

千鶴は大股で役員達の前に近づいて行った。

「もう一度言いましょう。」

千鶴はキッと前を見据えた。

「私はこの離婚に反対ですッ!」

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