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囚人の俺は壁を見て、もう一人は星を見た。

作者: 草鹿午午

 ガリ、ガリ、ガリ、と、石を削る音がする。

 俺の手だ。

 俺の手に握られた破片が、壁を削って音を出している。


 まだ小指の関節ほども掘れていないが、何年も捕まっているなら、中指よりも深くは掘れるだろう。



「お前は掘らないのか?」


「……」



 背後の一人に、声をかける。

 同じ囚人服を着た、大柄な男。


 どうやらこの刑務所では、一つの牢屋に二人の囚人が入れられるらしい。

 牢屋に入れられる時は冷静に見ていられなかったが、その後落ち着きを取り戻し、脱獄計画を練っていた時にも、そのような会話は聞いた。


 囚人の監視のために、看守をみすぼらしい格好で入れているのかとも思ったが、流石に全ての牢屋に入れるほどの人員はいないだろうし、何より、囚人仲間すら信用しない者もいるだろうから、この男も正真正銘、犯罪を起こし、そして間抜けにも捕まった囚人なのだろう。


 ……俺とは違う。

 あの毒殺はバレず、ただ道端の喧嘩に巻き込まれ捕まっただけの俺とは。



「フン、大人しく刑を受けるか。

 犯罪者にまでなって自分の望みも叶えようとしない腑抜けが」


「……僕は、確かに犯罪者だ。

 人を殴ったし、中には死んだ人もいる。

 けど、法は遵守されるべきだと思っているし、だからこそ己の意のままに人を殺す“奴”が許せない……大人しく刑を受ける気はないよ。

 僕にも、この監獄を脱獄する『決意』がある。」



 この牢屋に入れられてから、初めて男が喋った。

 だが、こいつは何もせず、ただ座って格子のついた窓を見ている。



「そうやってただ窓から星を見ていることがか?

 助けが来るとでも思っているのか? まさか、野生の親切な獣が壁を掘って助けてくれるとでも? 呆れたメルヘンさだな。夫には貴族の紳士がお似合いだ」


「……生憎、僕にはもう婚約者がいてね。貴族ではないが、ちゃんと麗しいお嬢様だ。

 ところで、名前を聞いていなかったね。『未来』について話すなら、まず互いに名前が必要だ」


「……………ジョディ。」


「ジョンだ。よろしく」



 迷ったが、ひとまずは名前を名乗った。

 『女みたいな名前だ』とでも意趣返しされると思ったが、驚くべきことに、こいつは何も言わず、あるいは名前を聞きながら呼ばないことが意趣返しだったかもしれないが、俺たちは名を名乗りあった。



 そこからも、やはり奴は壁を掘らなかった。

 格子を確かめるでも、壁を叩くでも、窓から外を覗くでもなく、ただ壁から、じっと外を見つめていた。


 それから、空が明るくなってきてからは眠り、飯が配られる頃に起き、また眠り、そして暗くなってから、また壁を掘り続けた。

 初日では小指の爪も入らなかった穴は、ついに小指の関節まで入りそうになった、その頃だった。



「やめた方がいい、ジョディ。」


「…ん?」


「看守だ。巡回に来た看守が、近くまで来ている。

 ひょっとしたら、壁を削る音が聞こえるかもしれない。」



 この男は、そんなことを言い出した。

 思わず破片を握る手を止めて振り返り、聞き返した。



「巡回だと? 足音も聞こえん、この牢屋に入れられる時も、他の看守を見たのは一瞬だろう。どうしてそんな言葉を信じる?」


「足音なら聞こえる。それに、確かに連行された時は一瞬だったけど、時間と場所は覚えてる。歩き方もね。

 もう星が傾いている。そろそろ近くまで来る時間だよ。」



 その時、カツン、カツン、と。

 確かに、微かに廊下を近づく音が聞こえた。


 思わず、押し黙った。

 だが、この男が警告したのは、10秒以上前だ。

 そんな遠くから、この音が聞こえたとは思えない。


 視線で察したのか、男も小声で答えた。



「君の壁を削る音は几帳面だからね。

 ずっと聞いていれば、ほとんど無いものとして、他の音に集中して聴くことができる。

 それに、そもそも君よりも壁を削る音から遠いよ。僕の方が聞きやすい。」


「…………」



 音が几帳面、という言葉はよくわからなかったが、それ以外の理屈には、ひとまず納得した。


 そのまま黙っていると、男も信用されたと思ったのか、わずかに微笑み、そして、看守が牢の前を過ぎ去り、足音も遠ざかり、聞こえなくなるまで、俺も男も、黙っていた。


 そうして聞いていると、確かに足音以外にも、俺以外の囚人が、脱獄しようとしているのか、単にじっとしていられないだけか、壁や布、あるいは手足を擦るような音が聞こえる。

 ずっと聞いていれば慣れるだけで、確かに聞こえないように思えるのだ。

 俺が壁を掘っていた時も、男に声をかけられるまで、無音と錯覚していたように。



 看守の足音が聞こえなくなり、もう一度壁を掘り始めようと向き直ったところ、また男から声がかかった。


「まだやめた方がいい。外からも看守が来ている。ざっと2、3人だね」



 今度は、10秒もかからなかった。

 ほんの3秒後、ザッ、ザッ、と、土を踏む靴の足音がした。

 ちょうど3人分。


 今度こそ眉を顰め、聞いた。



「なぜ人数まで分かった?」


「足音とかで分かったわけじゃないよ。単に、外なら脱走を防ぐため、人数が多いだろうと思っただけさ。

 さっきの看守も、足音はひとつだったけど、もう一人、足音の無い奴がいただろう?」


「……」


 あの時は、この男を警戒してよく見ていなかったが、確かに人影は一つではなかった気がする。

 だが、そもそも先ほどは、壁を削っていた時と違い、俺も無音だった。

 音を聞く条件は同じだったはずだが……この男は、耳がいいのか。


 やがて、その足音も遠ざかり、俺は男に視線を向けた。「もう壁を掘っていいのだな?」と。

 男は頷いた。


「うん、このあとしばらくは巡回が来ないはずだよ。

 曜日とかで経路が変わっていたら困るけど……まぁ、その時も警告するさ」


「…………………そうか」



 そうして、また壁を掘り始めた。

 それからは、普段と変わらない毎日だった。

 壁を掘り、眠り、飯を食べ、眠り、壁を掘る。

 時折、声をかけられると手を止め、慣れ始めると、言われるまでもなく視線でわかるようになっていた。


 しばらくそんな生活が続くと、男も巡回に慣れ始めたのか、地面に絵を描いた。

 初めは曖昧な、おそらくこの牢屋だろう、一つの部屋と、巡回の線を描いただけの、簡単な図だったが、徐々にそこから、監獄全体の地図と、ここからは見えも聞こえもしないだろう、巡回の経路に、監視塔の位置まで描き始めたのだ。


 そこから俺は、一つの結論を導き出さねばならなかった。


「…………貴様は……何者だ?」


「うん?」


 今度は、男の方が聞き返す番だった。


「その地図。明らかにここで見聞きしたものだけではないだろう。

 ただ、この近くに来る時間から、建物の構造やルートまで、全て計算したとしか思えない。

 そんな学のあるものは、よほどの貴族……金持ちだけだ。

 貴様は、何をして捕まった?」


「…………」


 今度は、男は押し黙った。


「…………………」


 壁を掘る手を止め、しばらく見ていると、男はやがて語り出した。


「……最初に言った通りだよ。

 僕は、人を殴った。殺した。

 そうしなければ、止められない……『悪』があったからだ。

 ヤツは……人殺しだ。僕もそうだけど、ヤツはそれ以上に残忍だ。悪意を持って人を殺し、傷つけ、愉しむ。

 許してはならない悪だった……戦争まで起こすつもりだ……!

 だから止めようとした……僕は軍人だった。ただの兵士だけど、それでも国のために、罪もない人を傷つけることは許せなかった…!

 だが、失敗した。

 ヤツを止めようと……倒そうと、ヤツの配下を、殺してでも破り、行き着いた先で……ヤツには姿をくらまされ、僕は証拠もなく、ただ人を殺しただけの殺人犯として捕まった……

 ……それが全てだ。

 僕が脱走しようとしているのは、今度こそヤツを止めるためだ。

 まだ一月も経っていない……そう大きなことはできないと思うけど、どれだけの企みを進めているか想像もつかない。

 だから、僕は脱走しなくちゃいけないッ!! ヤツを止めるためにも! 僕の家族を守るためにもッ!!」


「……!」


 男の言っていることが真実か、ただの妄言なのかは分からなかったが……男の言葉には確かに、必ず脱走をやり遂げるという『気迫』があった。


 ……いずれにせよ、気になったから聞いただけだ。

 この男が暑苦しい正義漢でも、思い込みの激しい狂人であっても、俺が壁を掘り続けることに変わりはない。


「……ふう。ゴメン、熱くなった……

 …………君は? どうしてこんなところにいるんだい? 僕にも話を聞いて、巡回や経路の地図を理解したり、何日も壁を掘り続けたり、忍耐強くて、賢く冷静だ。とても犯罪に走るほど短慮とは思えない。」


「……フン、お前みたいに嵌められたマヌケじゃあないさ。

 単に喧嘩に出くわして…………………捕まった。それだけだ。」


「……冤罪という意味じゃあ同じではないかい?

 僕は、殺したのは事実だけどさ。」


「フン、運が悪かっただけだ。同じにしてもらわないでいただきたい。」



 そうしてまた、壁を掘り続けた。

 月明かりの強い、秋の初めの頃だった。



 壁に近づいてきた野犬をやり過ごし、削れて小さくなりすぎた破片を取り換え、ジョンも壁を掘るようになり、看守共の犬にも慣れさせ……窓から雨風の入り込む嵐の日も、むしろ音が消えると壁を掘り続け、その数日でも最も雨が強く、雨雲に空が隠れ、廊下の灯りもわずかにしか差し込まなかった日。

 とうとう、壁を掘り続けていた破片が、空を切った。

 


「…………!」



 同じようなことは、何度かあった。

 単に、壁の中にできた亀裂で、落胆したことも、何度もある。


 だが、あの窓から推測できる壁の厚さ通りなら……!


 逸る気持ちを抑え、その周囲も削っていく。

 少しずつ、穴は大きくなった。

 ただの亀裂ではなく、確かに、少しずつ穴が開いていった。



 嵐が去った夜明け。

 日の出の光が、壁から牢に差し込んでいた。


 強い力で、肩を叩かれる。

 この牢にいる人間も、こんな怪力の人間も、一人しかいない。


 

「……………や……! やったな!! ジョディ!!」


「馬鹿、声を抑えろ! これで看守に見つかったらどうして来れる!」


「ああっ、すまない…! だが、これで……!」


「ああ、ようやく一歩目だ…! だが、一目でわかるということは、看守にもバレるぞ。最悪、外からも中の光が漏れて見えるかもしれない。ここからは最速で…!」


「いや、すまない。巡回経路が変わっていないか確認するから、またしばらくは耳を澄ませて聞くことに集中するよ。まだ手伝えそうにない。」


「は?」



 突然ジョンは冷静な声で、協力を拒んだ。



「話を聞いていなかったのか!? ここからはバレる危険性も高まると……!」


「だからこそだ! いざ出た瞬間、看守と鉢合わせする気か!?」


「……っ!」


「大丈夫、一週間もあれば確認できるし、その時間があれば、その穴ももう通れるまで広げられるだろう。

 それにそもそも、今まで削った破片でも生まれば、灯りは防げると思うよ。」



 この男は本当に、波に乗らない男だ。

 それを痛感した。

 


「ハァ……まぁいい。俺は壁を掘り進めるだけだ。何か来たら教えろよ」


「あぁ、もちろんさ」



 そして、初雪の降る冬の日。

 とうとう、俺たちは掘った枠の壁を押し出し、牢屋の外へ脱出した。


「行こう! 看守塔はあるけど、まだ雪も降っていないなら、土の色と被ってそうは見えない! 何より走り抜ける時間が肝心だ!」


「分かっている! 野犬も看守も来ていないのだな!?」


「無論!! この外は簡単な金網のフェンスだけだ! 追われていないなら、容易によじ登って超えられる!」


「電流は!?」


「無効化できる!!!」


 土に降る白い結晶を蹴飛ばしながら、一直線に、走る。


 目指すは金網。

 この時間は電流が流れているが……


「ワン!!!!」


 この金網には、艦首のものでもない野犬が通れる、穴がある。


 その野犬が迫ってくる間に……ジョンは、冷え切った土に、腕を突っ込んだ。

 野犬が迫る。


「ガウ!!!!」


「どっせい!!」


 野犬がジョンに飛びかかった瞬間、ジョンは腕の突っ込んだ地面ごと、野犬を金網に放り投げる。

 飛び散った土が電流に焦げ、それに曝された野犬もまた、気絶した。


 そして、その野犬の体重を受けた金網は、斜めに傾いている。

 電流は、いちど流れ切ると、もう一度流れるまで数秒の時間がかかる。


「今だ! ジョディ!」


「……!」


 全速力で傾いた金網に駆けていき、跳躍。

 野犬を踏み台に、一息で、金網を踏まずに、乗り越える!!

  (**※この小説は、動) (物虐待を肯定するもの) (ではありません。**)


 そのまま、看守にでも切り落とされた枝を踏み台に、獄外の地面へ、降り立った。


「このまま進むぞ! できるだけ枝を足場に! 足跡は残さない!」


「わかっている!」



 時に枝に捕まり、木の上を走り、獣を返り討ちにし、火を起こし、焚き木で焼き肉と焼き魚と山菜を食べ、まだ綺麗そうな枝と落ち葉で寝床を作り、一晩を明かしたところで、一つ提案した。


「思いついたことがある。

 合言葉を作らないか?」


「合言葉?」


「この後は、お前も『悪』を追うのだろう? 脱獄したんだ。

 俺は付き合う気はないが、まぁ、真っ当な立場を上り詰めて見せる。

 だが、脱獄囚だ。

 どこかで警察に追われ、追いつかれ……いざという時があるかもしれない。

 だから、合言葉だ。

 もし、この先どこかで会った時、お互いの無事を…あるいは、危機を察知するためのな。」


「なるほど……確かに。この先も別れたままなんて、少し寂しそうだ」



 朝焼けに照らされて薪を挟んで座る中、少しだけ、未来について話し合った。


「では、俺の場合は……『耳を負傷して治療している』というのはどうだ? 俺が捕まった時はそれで、元気なら……」


「待った、怪我なら、本当に事故でする場合もあるんじゃないかい? もう少し安全なことにしよう。そうだな……『人形を縫い直しに行ってる』とか……」


「俺が人形を持つタマか? まぁ、妻子でもできればそういうこともあるかもしれんが……」


「じゃあ……」







「市長、お客様がお見えです」


「ああ、行こう。」


 襟を正し、杖を持ち、扉を開けて、秘書の方を見る。

 そのまま客室へ歩きながら、ついてくる秘書に尋ねる。


「要件はなんだね? また貧乏人の癇癪じゃあないだろうね」


「身なりは良かったですよ。ただ、市長を知らないようだったので、成り上がりかもしれません。

 それでも商談にはなりそうですが」


「そうだな。成り上がりには、少なくとも後ろ盾なしに上り詰める意思と、力がある。」



 客室の扉を開け、中に入る。

 そこには、大柄な、一人の青年……いや、男性がいた。

 不意な幻視に重なるように、男は日差しに照らされて、こちらを見ていた。


 日が差す窓は、見上げていなかった。



「やあ、市長。貴族の紳士は見当たらないけど、嫁入りはまだかな? ひょっとして、行き遅れかい?」


 ピク、と反応する秘書をよそに、笑みを浮かべる。

 コートも肩幅も顔も、完全に男の私を見て、嫁入りなどという男は、一人しかいない。


「そういうお前も一人だな。麗しいお嬢様とやらには逃げられたか。それともちゃんと離婚したか?」


「いや、しっかり待ってくれていたし、今でも良好だよ。

 ……元気そうで良かった。ジョディ。」


「そういうお前は、ジョン…ジョージか。

 新聞を見たよ。悪とやらを無事、討ち果たせたようで何よりだ。返り討ちに遭うかと思っていたのだがな」


「遅くなってすまない。

 壁は破れたが、少し……星を見ていてね」

 

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