29 婚約
イーファは両手で顔を覆っているオルヘルスを見て、グランツに問い詰める。
「殿下。今、オリになにかしましたね?」
「まさか、私はオリを傷つけるようなことはしない」
するとイーファはオルヘルスに訊く。
「オリ、本当になにもされてないのか?」
オルヘルスはとにかく言葉も発せずに何度も何度もうなずくしかできず、それからしばらくは恥ずかしくてグランツの顔を見ることもできなかった。
そのあとグランツは終始ご機嫌な様子で過ごし、イーファは納得がいかない顔をして常にグランツの行動に警戒して過ごした。
そのあと数日経っても、エーリクもアリネアも特になんの動きもなく、結局パールドゥクラブもそのまま立ち消えになってしまったようだった。
あれだけ失態を晒したのだから、それも当然のことだろう。
さらにスノウの盗難があってから、リートフェルト家の警備も一層厳重になりエーリクたちも迂闊にオルヘルスやスノウに近づけないようになった。
その裏でグランツたちはしっかり準備を進め、いよいよ正式に婚約を交わすこととなった。
婚約をしても、公の場でそれを発表するのはまた後日場をもうけて行うとのことで、その日は王宮内で密かに婚約する運びとなった。
別荘に迎えの馬車が来ると、オルヘルスはいよいよ本当に自分はこの国の王妃となるのだと思い、とても緊張した。
何度かこの日のリハーサルをやっており、そこまで難しい手順ではなかったが緊張のあまり失敗してしまうのではないかと不安になった。
だが、それも王宮でグランツの顔を見るまでのことだった。
王宮に入りイーファのエスコートでグランツの前まで連れていかれると、グランツはいつもの穏やかな優しい眼差しでオルヘルスを迎えてくれた。
オルヘルスがグランツの差し出す手を取ると耳元で囁く。
「これで君は私から逃げられなくなるが、構わないか?」
オルヘルスは微笑んで答える。
「望むところですわ」
そう言うとお互いに正面を向いて階段を上がり、両陛下の前に出た。
準備されていた契約書にお互いがサインし、オルヘルスはリボンをグランツはホワイトタイを差し出し交換した。
立会人であるシャウテン公爵はそれを見届け静かに言った。
「ここにグランツ・ファン・デ・ヴァル・ユウェル王太子殿下とオルヘルス・リートフェルト男爵令嬢との正式な婚約が執り行われました」
その台詞に、ふたりは見つめ合うと微笑んだ。
すると、黙ってそれをみていたエリ女王が懐からおもむろにハンカチを取り出し、正面を向いたまま横に座っているフィリベルトに差しだして言った。
「よし。もう泣いてよろしい」
フィリベルト国王はそのハンカチを受け取った瞬間、それまで我慢していたのか堰を切ったように泣き始めた。
「二人とも、本当によかった……。オリも本当に……。ぐうぅ」
そうして泣いているフィリベルト国王をそのままに、エリ女王は玉座から立ち上がると二人の前に立った。
「オリ、グランツ。あなたたちならこの国を立派に導くことができると信じてるけれど、まだまだ二人は若いのだから、私と国王が生きているあいだはなんでも相談しなさい」
すると、グランツは少し悲しそうな顔で答える。
「生きているあいだに……なんて、女王陛下にしては気の弱いことを仰る。ですが、その気持ちはしっかり受け取りました」
オルヘルスもそれに続いて答える。
「私も精一杯努めさせていただきますので、ご指導よろしくお願いいたします」
それを聞いてエリ女王はオルヘルスに優しく微笑む。
「あなたはそのままでいいわ。誰よりも努力家であることは知っていてよ? でも王宮へ来て、これから慣れないこともあるでしょう」
そこまで言うとエリ女王はグランツに向き直った。
「グランツ、そのときはあなたが支えるのよ」
「はい、わかっています」
グランツはそう答えてオルヘルスに微笑んだ。
こうして契約が終わると、関係者のみのささやかな晩餐会が開かれた。
そこでグランツは、あらためて白糸刺繍の入ったリボンをまじまじと見つめるとオルヘルスを褒めたたえる。
そして、ある花モチーフを見て不思議そうにオルヘルスに質問する。
「この花は? 見たことのない花だが」
ユヴェル国には桜の木はない。グランツが不思議に思っても仕方がないかもしれない。そう思いながら、オルヘルスは言った。
「それは桜という花ですわ。遠い異国の花で、春になると淡いピンク色の小さな花がたくさん咲いて、その花弁がひらひら舞うのがとても幻想的で、とても美しい光景になるそうですわ」
「そうなのか、それは是非一度みてみたいものだ」
もしかすると、この国のどこかに山桜があるかもしれない。そう思いながらオルヘルスはうなずく。
「そうですわね、私も見たいですわ」
そんな話をしていて、オルヘルスはハンカチを渡していなかったことを思い出し手渡す。
「グランツ様。あの、これを」
グランツはそれを受け取ると、包みを開けた。
「頼んでいたハンカチだな。こんなに素晴らしいものをありがとう。これはリボンの刺繍とも揃いになっているのだな」
「そうですわ、それで……」
オルヘルスは、揃いの自分のハンカチを取り出し刺繍の説明をした。
「なるほど。君に任せて正解だったな。揃いになっていると同時に、全て違うデザインになっているとは」
そう言うと、ハンカチの刺繍を指でなぞりながら嬉しそうに微笑んだ。その顔を見てオルヘルスは頑張って作ってよかったと心から思った。
そんな会話をしているふたりの横で、両陛下とステファン、エファも和やかな雰囲気で会話を楽しんでいる、
オルヘルスは知らなかったが、両陛下とリートフェルト家は昔から親交があったようで、昔話に花を咲かせていた。
それを見て不意に、両陛下がお茶会や愛馬会で会ったときに再会を喜んでいる様子だったのを思い出し、この機会にそれについて訊いてみようと考えた。
だが、ステファンとフィリベルト国王が気分よく飲み始めてしまい、話を聞けるような状態ではなくなってしまったので、屋敷に戻ってからあらためて訊いてみることにした。
翌日から風習に従い、グランツはオルヘルスのリボンをタイとして使用し、オルヘルスはグランツのタイをリボンとして首に巻いた。
こうして周囲にはグランツが誰かと婚約したことが知れ渡ると、その相手はオルヘルスだろうと噂された。
だが、オルヘルスは強固な護衛もあり、興味本位で近づく貴族たちにもほとんど接触することなく、姿を見られることがなかったのでその噂は噂止まりとなっていた。
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