A8
新しい常識を創りたい。今のような制度を変えたい。政権交代なんて興味はありません。人間の心が交代してほしいと思うことがあります。それはきっと不幸を紛らわすためのわがままなのです。僕は卑怯だけど、それを許してくれる人が世の中にいます。その人はとても素晴らしい人でした。
幸せな人間を贅沢な馬鹿と言う
幸せな人間を作らないことが社会の安定化に最も重要なことだ。幸せな連中は『心の肥えた偉い間抜けな奴だな』と嘲笑ってやる。
幸せの定義はやはり見た目で判断するしかない。富、名声などで判断して、突出している奴はとことん馬鹿にすればいい。幸せの度合いを平均化するのだ。
年収1000万以上のものを見下す。ニートや無職を尊敬する
金持ちはとことんまで叩き落せばいい。住民が協力して、『儲かりすぎているところで品物を買わない』『儲かっていないところで買い物をする』ようにして、経済格差を減らせば、それだけで、安定化する。住民にかかっているのだ。住民が安定化を目指さないから、金がない金がないといい続けなければならないのだ。
金持ちを見つければ、『世の中の金を独り占めしやがって』と腹を立てるようにする。そして、金持ちが儲からないようにし、儲かっていないところを儲かるようにする。住民が強ければ強いほど、それが出来る。
金持ちを見下し、儲けていない貧乏のニートや無職を尊敬することで、社会は安定化する。そうして、初めて混沌は去るのだ。
今からでも遅くはない。自分たちのお金を独り占めする嫌味な『金持ち』を儲からないように一人一人が協力しようではないか。そうして、経済格差がなくなり、金が一定になったら、貧乏な大多数の人々はようやく子供のため、家族のためにちゃんとお金を使えるようになるのだ。
少食・断食をする
ガン、糖尿病など生活習慣病が後を絶たないそうだ。ガンは染色体の欠損で起こるといわれているが、それは要するに細胞が酸化したりするのが原因だろう。塩を食いすぎたりしているといっぺんに細胞はダメになる。
もちろん、気をつけて気をつけてしても、生まれつき、ガンになってしまうことはある。だが、なりにくくすることも出来る。
少食や断食をするメリットは病気に対抗する力を身につけるためはもちろんだが、断食をすることで、活力を上げる意味も含まれている。
私の断食体験では『一日食事を抜いても、体が異常になることはない。それどころか、眠って起きたときの気だるさがまったくなく、調子がいい』というデータが出た。
そして、精神的には『集中力が増す』というデータが出た。文章を書いているが、たくさん書くことが出来るのだ。
さらには不安や焦りといったものが取り除かれ、自分の意志を貫きやすくなる。そうして、自分の道を歩むことを助けてくれるのだ。だが、少食・断食は『きちんとした栄養学』に基づいて行われる。どこかで体験談を見ていたのだが、その人は頭が悪く、『本に書いてあることをきちんと守らず、効果がない。栄養失調になった』と言っていた。栄養学も本に書いてあることも無視して、少食・断食をすれば、悪影響が出るのは当たり前だ。まずは頭をよくして、基本的思考力を高めるか、本の内容を厳守し、自らにあった量に調整できるだけの力を身につけることが先だ。
すごい馬鹿なものが『朝抜いたら、逆に太った。ここに書いてあることは嘘だ』と書いているものがいた。朝を抜けば、吸収力が上がるから、太りやすくなるのは当たり前だ。だから、少食法では昼も夜も食事量が少なくなっているのだ。それぐらい、考えれば分かると思うが、その馬鹿なものは『ただ朝食を抜けばいい』と思ったらしい。
欲を抑えることで、社会は変わる。禁欲は究極の行為
何でも欲を抑えればいいというものではない。欲にも種類がある。『出世欲』『食欲』などのように。
重要なことは欲を抑えることで『いい結果を齎す』場合に、欲を抑えるのだ。例えば、あれもほしいこれもほしい。だがお金がない。と言う場合に、物欲を押さえる。さて、世の中には抑えるべき欲がたくさんある。500億も資産を持っているものは『お金を自慢したいがためにもっと貯める』が、それは物欲である。こういう欲は抑えなければならない。これらのお金をばら蒔けば、たくさんの人が助かるというのに、それを貯めて、人々を繰苦しめる。だから、人々よ、『俺たちを苦しめる金持ちをこれ以上、儲けさせないように、物欲を抑えよう』
俺たちにいま必要な禁欲は性欲の禁欲ではない。『物欲』と『食欲』だ。自慰行為はタダだ。しかし、物欲は金がかかり、金持ちを増やす。食欲は金がかかり、金持ちを増やす。欲を抑えれば、金持ちを弾圧できるし、格差社会を埋める手助けになり、健康になる。
経済格差とは『国民が弱ければ弱いほど大きくなる』ものだ。強さを見せて、革命を起こさないと、日本はこのままずるずるといってしまう。
自分を神に選ばれた人間だと思う
他人を見下すためには自分の地位を上げなければならない。そのために最も重要なことが『神に選ばれた』と考えることである。
この現実では自分が世界の中心だ。他はエキストラで関係ない。すなわち、神に選ばれた人間は自分だけなのだ。
『優劣は人間が決めたこと』だ。だから、優劣など気にしてはいけない。人間の配下にある競走に惑わされるな。俺たちは『神の使命を果たせばいい』
それこそが『自分の極めるべきこと』なのだ。他人の評価は関係ない。他人には好きに言わせておけばいい。俺たちは『醜く汚い人間』を気にしている暇はない。直に迎えに来る神のために使命を果たすのだ。人間の決めたことなど、最低限の法律を守っていればいい。それ以上に関わる必要はない。醜い人間は好きに生かしておけばいい。
俺たちは神のため、使命を果たすのだ。
そして、死ぬとき、神に魂を変換し、次のステップへと進んでいくのだ。
二章 不幸を楽しむ方法
不幸を楽しむ? そんなこと出来るはずがないと思っているうちは人生で損をしている。不幸をむしろ楽しむことこそ、人生で重要なことなのだ。
簡単に出来ることではないが、以下の四つを見ていけば不可能でもない。ただ、やはり難しいだろう。私自身も後七年ぐらいはかかりそうだ。
1、不幸に耐えるという行為は神への崇拝
2、努力は心の弱いものがすること
3、神は自然を愛する。不幸な人間の生き様を愛する
4、障害をメリットに変える方法
1を攻略する方法
不幸肯定論理を確立する
さほど難しいことではないが、欲などに比例して難度を上げるし、不幸が連続すると、そのたびに論理を組み立てないといけないので、煩わしいとはいえる。いずれにしても論理を扱うときは感情的な物言いから論理的な物言い程度を上げている必要がある。感情的になってしまうと、論理はすぐに破綻する。論理的な思考力が上がると、精神的にダメージを受けても、感情的な言葉は出て来なくなるので、まずは論理的思考力をある程度高めておく必要がある。
そこまで行くと容易である。
『不幸になるということは幸せをみなに与えることと同じである。お金がないということはそれだけ他の人にお金を与えていることになる。不幸は尽くす行為、ボランティアの最高峰に位置するものである』
不幸な境遇の人間を探す
世の中の不幸を探すことで、『自分がいかに恵まれているか』を主観的に感じることが出来る。そうしておけば、不幸を耐える力が湧いてくる。喜んで、不幸に立ち向かえる。多くの者は『成功』を期待して、何かをする。『成功するだろう』と思って挑戦する。そうではなく、『よし、いっちょ不幸になってくるか』と言って、挑戦することが大切である。『ダメだ』と言われていて、成功すると、喜ばしいが、『成功するよ』と言われていて、失敗したら、落胆する。不幸な境遇を探し、恵まれたことを確認したら、『よーし、不幸になるぞ』と思って、物事に取り組みことだ。不幸を追い求める人生。それが立派な人生である。
幸せに見える人間を馬鹿にする論理を確立する
何度も言っていることだが、幸せな人間を馬鹿にし、不幸な人間を尊敬するということが人生で最も重要なことである。
平均的にするためには、低いものを底上げ、高いものを落とせばいい。それと同じで、『成功者は常に叩かれ、馬鹿にされなければならない』
不幸を楽しむためには『成功者』を可能な限り排除する必要がある。金を持っているものを落とし、お金を持っていない人にお金を渡す。そのための努力をするため、まずは成功者を馬鹿にする。『成功者にこれ以上の富は与えない』努力をしよう。
そうすることで、不幸が不変になり、不幸を楽しむ第一の礎が完成する。
『金持ちは汚い。多くのお金を糞のように溜め込んでいる。腸が汚らわしくなって、社会がどんどん荒れてくる。少しは便秘を改善する座薬を飲むようにしてほしいものだ。お前一人の社会じゃないんだ。腸は綺麗にしておこうぜ。汚らわしい』と言った感じに金持ちを馬鹿にし、便がきちんと排出されるように国民一人一人が努力しなければ、国は大腸がんになってしまう。
不幸がないと幸せは無い。不幸を耐えることは幸せを与えること
人間の相対性からして当然であろう。幸も不幸も相対的なものでしか考えられないのだ。例えば、学校で『明日、習字をしますので、習字道具を持ってきましょう』と言われた。A君はうっかり忘れてしまった。『ねえ、持ってきた?』と周囲に尋ねると、『もちろん』と答えた。A君は不幸を感じる。だが、
『えー、習字のつもりだったのですが、抜き打ちテストをすることになりました』と先生が言うと、習字道具を持ってきたものは『え~』となるが、A君はホッとするだろう。
『同じ先生の発言でも、その環境の違いによって、幸か不幸かは変わってくるし、その程度も変わってくる』ということだ。
だから、励ますつもりで言った言葉で傷つくものもいる。人間の相対性では基礎的な事実であるが、この点すら理解していない教師は多い。
幸か不幸かは、その環境の状態によって変わってくる。だから、一般に『世の中に幸が多ければ多いほど、不幸が異質になり、不幸が多いほど、幸が異質』になる。
平均の国日本では、少数派が異端とされる。よって、幸か不幸かは『平均との差』によって定まる。平均点が60点なら、それよりどれだけ高いかで幸せの度合いが決まり、どれだけ低いかで不幸の度合いが強まるが、環境によっては『いい点を取って、不幸になる』こともある。
このように難しい問題なので、『答えを絶対的に考えることは出来ない』
しかし、不幸が多いほど、幸せが際立つので、あなたが不幸になっている限り、あなたの変わりに幸せになっているものはいる。不幸な人は誇りに思ってもいい。幸せを与えたのだから。幸せなものは自重せよ。不幸をばら蒔いているのだから。
不幸を受け入れることで、みなを助けている。不幸は世界で一番尊いこと
上記のものに付随するものである。相対性が人間に成り立つことはほぼ疑いの余地がない。相対性を考慮し、一般化すると、
『不幸を感じれば感じるほど、誰かをより幸せに出来る』
もちろん例外はある。ある個人が幸せになって、別の者が幸せになる場合もある。例えばニートは『親がたくさんの金を稼ぐほど寿命が延びる』ので、親の幸せをこのうえなく願う。これは自分の利益になるからである。こういう場合、『共同体』という言い方をしている。
ある会社が儲かって、株で儲かった場合も『共同体』と考えられる。ある大ファンのゲーム会社が儲かって、『新作』が出せる状態になると、ファンは喜ぶ。これも『共同体』である。
問題は共同体でない場合である。共同体でない限りは、一般化した考え方に則るだろう。言い換えると、共同体を作っていれば、人の幸せは自分の幸せに繋がるが、共同体でなければ、一般化した考えに従うということだ。
人間社会では、共同体でない他人のほうが多い。よって、不幸を感じることで他人を幸せに出来る。『幸せの伝達者』は不幸な人間なら誰にでも出来る。履歴書に『幸せの伝達者』と書けば、人間の配下だから馬鹿にされるが、神の配下ではきちんと認められる可能性は高い。不幸は尊い。死ぬときの履歴書にはきちんと『幸せの伝達者』と書いておこう。幸せな人間は『不幸の伝達者』というレッテルが貼られてしまう。幸せな人間が救われるには共同体を多く作っておくことだ。そうすれば、共同体に幸せを与えることが出来る。
不幸が多ければ、多くの不幸が不幸でなくなる
当然であるが、不幸が増えると、平均が下がるから、今まで不幸だったことが不幸でなくなる。学力の平均が下がるのはいいことではないが、幸せの平均は下がるほうがいい。下げる方法は『幸せな人間を叩く』しかないが、幸せな人間が幸せにならないようにすることだ。ガンジーのように積極的に非買運動に参加したり、ネットで騒いだりときちんと行動すれば、おのずと下がってくる。弱い人間は行動できないし、欲に勝てない。強い人間は欲に勝てるし、行動できる。強くなるための努力を続ければ、不幸は救われる。
相対的考えを身に付ける
相対的な考え方を身につけることで、人間を理解しやすくなる。人の気持ちを考えるためには『論理的思考力』と『相対性の考慮』が必要不可欠である。
頭の悪い教師は『人の気持ちを考えられるようになろう』と言う割に『論理や相対性』を重視せず、建前でしかものを言わない。
物理法則に慣性があるが、系が異なると、時間の経ち方などが変わってくる。それと同じで、人間も系が異なると、感じ方は変わってくる。
『みんな平等』と思っていても、まったく当てはまらないことに注意しなければならない。相対性を考慮することは徳のある人間になるために必要なことだ。
この考え方は『人間』を考える上で絶対必要になることなので、論理的思考力と一緒に早急に身につけておくべきである。
2を攻略する方法
努力は成功したいからする。立派になりたいからする。努力は不幸ではない
よく成功者が『苦しい練習に耐えてきた』と言うが、それは目標のために自ら『不幸』を選んだので、社会的に『不幸』とは言えない。努力と言うのは不幸ではないことを知っておく必要がある。努力した人は尊いというが、そんなことはない。努力とは一種のわがままだ。本当に不幸なのは『努力を強制される』ことだ。難病患者は『病気に耐えることを強制される』それをやめると死ぬのだ。
その点、成功者の努力は『やめても死なない』から、不幸ではない。
努力をするものは典型的なナルシスト
努力というのは聞こえはいいが、本当に尊いことなのだろうか。それは『努力の目的』を考えれば分かる。
努力をするのは『欲望』のためだ。あれがしたい。あれになりたい。お金が山ほどほしい。すべて幸せの度合いを高めるためのものだ。
努力とは時間や体を酷使して、幸せの度合いを上げるものだ。そして失敗を孕んでいる。いわばギャンブルと同じだ。『ギャンブル』を否定するものが『努力』を肯定しているのはおかしい。いずれも『利益のために何かを犠牲にする』ことだ。その点、変わらない。努力が尊重されるのは『社会的利益のために努力が必要』だからだが、それが偉いことではなく、『等価交換』だということを知っておく必要がある。
人間は欲から始まった。空が飛びたいから飛行機を作った。便利だから車を作る。欲がなくなれば恐るべき努力も必要なくなる。
『努力と欲は比例している』と言えるだろう。すると、努力を過度に尊重するのは考えものである。
努力をしてもどうせダメという奴は『努力』の意味を理解できていないだけである
頭が悪いものは『努力したって無理だよ』と言う。そもそも努力とは『現時点では不可能なことを時間や労力を費やして可能にすること』だ。努力しても無理という言い方は不適切である。
もちろん軽口の発言だから、厳しく突っ込むのは適切でないが、努力とは不可能を可能にすることだ。絶対無理だと思っていた掛け軸裏の洞窟を99Fまで下りるようなことを意味する。ということは、努力とは『目標と現在が繋がっていなければ努力とはいえない』ことになる。目標を立てて、それを可能にする適切な方法を実践しないと努力とは言わないのだ。努力しても無理というのは論理的に破綻している。
努力とは『利巧さ』が最も試されている
努力とは『目標を達成するための術を探し、実行する』ことだ。その術を探すときには利巧さが試される。
スポーツで成功しようと思ったら、『さあ、ランニングだ』ではなく『運動生理学や栄養学を勉強すること』から始まる。何が適切で何が不要か。どうすればどの能力が上がるのか。そういったことを調べる必要がある。だから、努力には『利巧さ』が試されている。とはいえ、今の時代は『優秀なトレーナー』が増えたので、実行するだけの時代となっている。だが、真にすごいのは『そのトレーナーが持っていない高等理論を見つけ出す』ことだ。そうすれば、そのへんのボンボンが世界記録を出すようになるかもしれない。
努力とは『実行する対象で成功する方法を見つけ出す』ことがほとんどであって、『がむしゃらに取り組むこと』ではない
上記のものに付随するものだ。努力と言うと『ある物事に取り組み時間』で努力の量を決めようとするものが日本には山ほどいる。
だが、努力とは頭を使うものだ。
『現時点で俺が世界記録を出すのは無理。だが、世界記録を出したい。どうしたら、俺のような奴が世界記録を出せるだろうか』と考えるのが努力である。
才能がないから無理というのは『進歩のない馬鹿』である。才能がないものが凄まじい記録を出すこと。これこそが『真の努力』である。
必要であれば、人体の限界に挑戦する必要もある。そういうことをしても『世界一』になりたいと願う欲望が努力の原動力だ。がむしゃらに練習するのはただの『根性』だ。根性で勝てるほど世界は甘くない。
頭が悪いほど、計画を立てない
以前、掲示板を見ていて、『なかなか勉強の成績が上がらない』というものがいた。そしてそれにレスをしているものがいた。そのものの文章が非常に上手(分かりやすく読みやすい)だったので、読んだのだが、『計画なんて立てないで、ノルマをこなす。チャートを全部やる。それから1対1をやる……』
受験界にも詳しい人だろう。だが、俺は疑問を感じた。その人の主張は『何かを考えるより、まずはチャートと1対1をするべき』というものだった。
なるほど、基礎~標準のチャートと標準~やや難の1対1をすれば、確かに標準問題のほとんどは解けるようになるだろう。
だが、相談者は『東工大』を目指している人だった。1対1の問題で対応できる甘い問題はわずか1問しか出ないのだ。だから、俺は、『計画は立てるべき。ここの大学の数学は数学パズルに近いから、一度でも標準問題をマスターすると、逆に解きにくくなるものも多い』みたいなこと述べた。後はどうなったか分からないが、
『努力とは目標と現在が結びついてはじめて成り立つものだ』
だから、チャート、1対1という流れがすべてに適切かは疑問である。確かに比較的いいレベルと言われている私大の数学なら、難しい問題は除いて、それで対応できる。だが、相手のランクが日本一の数学を持つ東工大だと、『考え方』が根本から違う。
例えば、
『nを自然数の定数、rを正の有理数の定数とし、1/x(k)の1項からn項の和がrとなるような自然数x(k)の組の個数は有限であることを示せ』
という問題なら、まず数学的帰納法か背理法を使うのだろうということは想像が出来るが、想像のまま突き進むと、全く解答が見えてこない。範囲を限定しても、有限になることに気付くためには、問題数を多くこなしているというより、問題への取り組み方そのものを特別なものにしておかないといけない。
標準問題を解くことに慣れていると、こういう発想が出来なくなる。ある者が『センター数学におぼれると、二次数学まったく手が出なくなる。なぜなら、センター数学と二次数学はまったく別の科目だからだ』
と言うものがいたが、それと同じだ。
相手を知っているなら、まずどのような力が試されているかを知らなければならない。スポーツでもそうだ。『必要な筋肉』と『不要な筋肉』というものがある。『まずは全身の基礎体力』と言っているうちに『必要な部分』が弊害を受けることもある。
東工大の場合は、標準問題におぼれていると、この問題は完全にストップしてしまう。標準問題を解く前に、『柔軟な発想の出来る状態』を作っておくために、チャートよりも『捻った数学パズルの問題』をこなしておくほうが適切だと考える。
逆に適当な私大なら『そんな難しい問題は出ない』から、普通に単純な標準問題を解いておけば対応出来る。
相手によって、やり方を変える必要がある。そしてそれが努力だ。敵を射抜くための計画は必須条件である。『とりあえず、基礎だ』とすると、逆に弊害になるものも出てくる。
『とにかくやれ』は頭の悪いもののアドバイスである
上に付随することだが、『とにかくやれ』というのは頭が悪いことである。敵を倒すためにどのような努力をしなければならないかは最も重要なことである。それを無視している時点で『才能の勝負』に持ち込んでいる。才能があればまあ何とかなるかもしれないが、才能がないとどうしようもない。
まずは相手を知り、適切な努力方法を調べることからすべてが始まる。そうしなければ『無駄が多い』ことになる。もちろん、人生全体を考慮すれば、無駄とはいえないこともあるが、目標実行だけを考えれば、無駄は多い。
3を攻略する方法
不幸を見つけることは、幸せを見つけることである
当然であろう。不幸な人間からは勇気を与えられる。それは紛れもない幸せである。幸せになりたければ、周囲の不幸な人間を探せばいい。そうすれば生きる活力も湧いてくる。幸せな人間ばかりを見ていると、頭がおかしくなる。
幸せを見つけることは、不幸を見つける以上に世界を醜くすることである
上記に従うと、幸せを見つけることは不幸を見つけることだといえる。だが、それよりもっと恐ろしいことになる。幸せを見れば見るほど、『劣等感』が募ってくるのだ。劣等感が高くなると、憎悪が高いと『自殺』『犯罪』に出ることがあり、憎悪が低いと『うつ病』『総合失調症』になりかねない。
そこで、幸せを探さないことだ。自分よりランクの高いものはすべて劣等感をばら蒔く兇悪なものだ。少しだけなら『今に見てろ』と活力をくれるが、慢性化すると、間違いなく劣等感がたまる。
犯罪や自殺は社会を醜い混沌で包んでしまう。そうならないように幸せな人間を見つければ『全力で叩く』ことが必要だ。これは鉄則である。
失敗を恐れない。夢を追い、失敗して、不幸になっても、誰かを幸せに出来る
不安という言葉は『劣等感』が溜まるのを加速させる。そこで、不安をいかに溜めないかは重要なことである。
何かをしようとすると、失敗が嫌で、どうしても不安になる。だが、失敗することで、『誰かを幸せに出来る』のだから、恐れる必要はない。もとから『不幸になるつもり』で進めばいい。
『さて不幸になって、みなに幸せを与えに行ってくるか』という発想を自分論理として確立すれば、不安は下がってくる。不幸を恐れることなかれ。
不幸がないと幸せも偉大さもない。東大受験生が1500人しかいなければ、東大はFランク大学に成り下がる
当然のことである。東大を受けたすべての人が受かれば、偏差値は低くなり、底辺大学だ。偉大さや受かったときの幸せは『落ちた人の不幸』によって成り立っている。極端に言うと、今日の幸せな人間は不幸な人間によって支えられているのだ。
不幸な人が体を張って、幸せを作っているのだ。すると、いかに不幸な人たちが偉大か分かるであろう。
不幸とは幸せを作り出す力を持っている。不幸のない幸せは存在しない。そう考えると、幸せを見るということは陰に不幸を見るのと同じである。
幸せも不幸も平等不平等も人間が創った。神はすべてにおいて平等である
これも当然の事実だ。神は常に平等である。不平等にしたのはすべて人間の仕業である。人間は平等を不平等にし、幸せや不幸という順位を作ってしまった。
ということは単純に考えると、人間を切り離せば、平等で幸せも不幸もないことになる。だが、そうはいかないのが人間の弱いところである。人間には『欲』があるし、人間と関わらないと生きていけないような社会になっている。
では、これらの格差社会にどう対応すべきか。それはこれまで述べてきたように、不幸を楽しみ、幸せを叩くことを長期に渡り、続けるしかない。
4の攻略方法
障害を利用するためなら、プライドを捨てる
障害者を作ったのも人間である。同じ人間に『障害』のレッテルを貼って、苦しめた。それを擁護するように障害者のための制度が整いつつあるが、『根本にある不幸』は取り除けない。障害を持っている人は平均社会の中で相当な不幸を体験するだろう。だが、それは『普通の人間』になろうと思っているから、余計に苦痛なのだ。自分が普通の人間より劣っていると考えるから、劣等感が募ってしまう。
そうではなく、普通の人間と同レベルと考え、自分に与えられた自分にしかない『障害』をいかに使うかを考えるのだ。
つまり、平均に追いつくという発想ではなく、自分にしか入れないダンジョンをいかに攻略するかを考える。
このダンジョンでは最初から『障害』というアイテムがある。これをうまく使ってダンジョンを抜けるのだ。ブフーの包丁みたいなものだ。どうすれば、攻略できるかを生きる中で見出す。難易度は高い。強い武器も防具も持っていけないし、敵は非常に強い。
だが、不可能ではないはずだ。障害を利用して、このダンジョンを切り抜けるのだ。難しいダンジョンだけに素晴らしいものがあるかもしれない。
障害を使って、人間を利用し続ける
聞こえは悪いが、『障害者』は誰かに頼るほかないのだ。手足が動かなければ、動くところで誰かの助けを得るほかない。
そして、このとき『誰かに迷惑をかけてしまう』と思ってしまうと、劣等感、苦痛などが募ってくる。募るだけ、自分にも、また周りにも迷惑になる。障害を利用する第一ステップは人に頼ることを当然だと思うことだ。
少なくとも、私はそう思っている。だから、街中で障害者が困っていたら、助けを訴えればいい。そして、通りかかった人は助けるのは当然だ。
これが当然でない社会は異常である。すぐにでも革命を起こす必要がある。障害者はその障害を利用して助けを得るほかない。そうやって攻略するダンジョンなのだ。だからシステム上仕方ないのだから、人間を利用すればいい。それにたいして、嫌な気分になる必要は無い。そんな暇があれば、障害を利用する方法を考えておこう。階層が深くなると、敵も強くなる。それに耐えうる秘策を用意しなければならない。
障害を取り除こうとすることばかり考えず、利用することを考えろ。思考力の挑戦だ
掛け軸裏の洞窟でワナ師の指輪を捨てれば、肉なしクリアはまず不可能だ。同じく、障害を取り除いてしまうと、攻略はまず不可能だ。
もちろん、障害が綺麗さっぱり治ってしまうならそえに越したことはないが、現時点の医学で失ったものが戻ることはまずない。ということは障害を取り除こう。普通の人に出来るだけ近づこうとすることは『障害者』を不幸にすることに同じだ。
この難しいダンジョンは障害を利用することを前提にして作られている。そうでないとあまりに難しすぎる。
最終問題を、分裂、ジェノサイドなしでクリアするのと同じぐらい難しい。だから、障害は取り除かない。取り除こうとしても、普通の人と同じには決してなれない。
だからこそ、障害を利用するのだ。手足がないことで、出来ることもある。小説なら、経験の最低50パーセントは利用できる。不幸なこともボーっとしていた日々もすべて利用出来るのだ。
利用することを考えることで、自分のダンジョンを攻略するのだ。
余命二年なら、長生きを望むより、二年で死ぬからこそ『出来る』ことをする
これらは経験しないと分からないから、私も具体的には書けない。机上の論理的に言うなら二年で死ぬなら、その状態でしか出来ないことをすればいい。
実際、二年で死ぬとマジマジと言われると、動揺が強いだろう。すでに人生をあきらめていた人でもいくらか動揺はするはずだ。
だが、二年で死ぬからこそ、出来ることもあることを知っておくと、違った人生になるのかもしれない。
障害はハンディではない。障害をいかに利用できるかというチャンスだと考えろ
どうせ、治らないんだ。これは事実だ。ならば、それを落胆しても意味がない。どうせ治らないなら、利用するほかない。
ハンディと考えていては不幸が増大するだけだ。それで人を幸せに出来るのだが、不幸の度合いはそうとうなものになる。
ここまで不幸を増やす必要はない。幸せな人間を不幸にすればいいのだ。障害を利用するためにパラレンピックというものが出来たりしたが、そういったものが障害を利用出来る場所だ。とにかく、障害をチャンスと考えない限り、このダンジョンを突破することは出来ない。
自殺するぐらいなら、その障害で『自らの心』を殺せ
自殺の多くは劣等感から来る。この劣等感は『生』を前提にする社会において、圧倒的な障害である。身体の障害にこの劣等感の障害を感じると、自殺に追い込まれることもある。やや頭が悪めのものは『自殺は弱い人がすることです』と言うが、数値化できない劣等感などが存在するのに、そう言い切れる論理は存在しない。
自殺をするほど『劣等感』が溜まっていると考えるのが自然である。人間の心なんて大差はない。激痛を感じれば死にたくなる。麻酔なしで八時間の大手術に耐えられるものはそうそういない。自殺をするということは追い詰められているということだ。追い詰められたとき、足踏みをして死を待つのか。そうなるぐらいなら、最大限に生き抜いてみるほうがいい。死ぬぐらいなら、一切のプライドを捨てて、生きるのだ。
意識して出来ることではない。だが、限界まで粘るのだ。HPが0になるその瞬間まで、粘り続ける。そうして心を殺してしまったほうがまだマシだ。
三章 個人的見解
殺人事件は『憎悪』だけでは起こせない。『劣等感』があって初めて起こる
恨み、辛みが犯罪を起こすとよく言われるが、せめてもう少し扱いやすいステータスはないかと考えていた。そこで見出されたのが『劣等感』である。
劣っているという感情がいかに精神的ダメージを加速させるか。それを完全な理論に持っていくことを健闘している。
人間の心は見えないし、相対的なので、恐らく不可能に近い。だが、劣等感を低下させ続ければ、犯罪を防げるかもしれない。
捜査一課の話によれば殺人は『憎悪』から来るらしい。だが、俺は『果たしてそれだけなのか』と疑問に思った。なぜなら、人間には欲がある。ということは何とかして、這い上がりたいという野心がある。特に男はそうである。
憎悪があっても、自らの地位を上げることを優先するはずだ。つまり憎くても、それを晴らすために、『自分の地位』を上げようとするはずだ。そのほうが、利益もあっていいはずだ。つまり、憎悪以外に何か必要なステータスが必要だと思った。
そのステータスに劣等感を入れると、実にしっくり来るのだ。自分の地位を上げることが出来ないと考え、底に溜まった憎悪を晴らすために、『殺人』を犯す。
つまり、引き金は『劣等感』と考えることが重要だ。犯罪を食い止めるためにはいかにこの劣等感を騙すかが重要になる。
例えば、100名のうち、上位30名が合格という試験があったとする。もし、自分の順位が40位なら、
『もう少しで何とかなるな』と思って、努力を続けるだろう。だが、90位なら、
『ああ、もうダメだな』と思って、やめてしまうだろう。
このやめてしまうというのが重要だ。これを殺人犯の心理に置き換えると、『憎悪を晴らす手段が殺人しかなくなった』ことを示すのだ。
劣等感さえ少なくなれば、確実に犯罪は減る。そのためには『努力すること』『成功すること』『幸せになること』を学校教育の段階できちんと『否定』し、不幸が普通だと教える。嫌なことが当然であり、『幸せ』になることで、人をたくさん苦しめることを教えておかなければならない。
劣等感は間違いなく平均からどれだけ低いかに比例して、溜まる。平均を一定にする努力を国民一人一人が行う必要がある。
幸せ、不幸、劣等感などは保存されているのではないかと思う。つまり、劣等感は同じだけ世に存在する。一人に抱え込ませず、みんなが共有する必要があるのだ。
プライドは劣等感を高めやすいが、プライドがないと、生きることが出来ない
プライドは劣等感を高めやすくする作用があることを、私は確かめた。プライドが高いほど、理想が高くなり、比べるレベルが上がるために、劣等感が溜まる。だが、プライドがないと人は生きていけない。
すると、プライドの管理は社会に大きな影響を及ぼすことになる。プライドが高いほど野心を高め、低いほど満足しやすくなる。そこで、プライドは低めのほうが『生活のしやすさ』のレベルでは理想的である。
妥協をするためには『プライド』が低くなければならない。世の中、妥協が重要である。どこかで夢をあきらめないと、劣等感を高め、普通の生活を営むことを妨げる。夢を持つことや努力をすることを尊いこととして教える学校社会は『プライド』を高める教育になりがちだ。『プライド』を上げないようにしなければならない。
だが、プライドのない生活というのは『傀儡』にされることを普遍のこととして、捉えることが出来るので、『犬』に近いと言われてしまう。
真面目に働く犬か浮浪者だが、一匹狼か。どちらがいいかは各人が決めることだ。プライドが高いと社会性を損ねるから、犬になりにくくなるが、『安定した生活』はない。プライドが低いと犬になりやすく、『安定した生活』を半ば保障してくれる。
社会は比較的シビアな選択を国民に課している。プライドを持って不幸を受け入れるか、プライドを捨て、犬となりお約束の幸せを手に入れるか。
敬語を無くすと、犯罪は減るが、統率力が下がる
プライドが『人間の社会性』に影響することを述べた。敬語は『人間の統率力』に影響するものである。人間は『平等』であるのに、どうして『敬語』を使わなければならないのか。頼む側と頼まれる側では、頼む側<頼まれる側が暗黙に成立するので、頼む側が敬語を使わなければならない。これなら、論理的に納得できる。だが、
『xを自然数、yをxを超えない自然数とし、年齢がxとx-yの二人の人物の中には暗黙にx>x-yが成立してしまう』という日本社会はどうなのであろうか?
x>x-yは『経過した時間』の違いだ。能力や身分には何の関係もないはずだ。だが、学校では『目上の相手には敬語』と教えられる。
私は年齢に関わらず、相手が年上でも年下でも、話すときは『敬語』を使うようにしているから問題ないが、使い分けている人がいるなら、どの基準で使い分けているのかという話になる。
敬語を一歳使わないものもいる。プライドで『敬語』は決して使わないそうだが、敬語は『統率力』に影響してくるのだ。敬語がないと『統率力』がなくなる。日本の発展は統率がうまく出来たから存在する。敬語がなくなると、統率力がなくなり、国が乱れやすくなる。だが、『犯罪』が減るのは事実である。『統率力』と『犯罪』の間に綺麗な関係はないが、『統率力』が高いまたは低いと『犯罪』は多くなる。よって、統率力は中程度がいい。なお、今の日本はやや高めであるから、『少し統率力を減らしてもいい』といえる。
金持ちを弾圧して、労働力が減っても、社会は問題ない
掲示板に『年収を限界にすればいいじゃん』というのがあった。それにレスがついていたので見ると、『そうすると、働く人がいなくなる』と言うものがいた。要するに『莫大な金を稼いでいた人が労働しなくなる』という意味なのだろう。だが、それは何の問題もない。なぜなら、普通の従業員のほうが優秀なので、年収を制限して、彼らの年収を増やせば、労働力は戻るからだ。それに金持ちは『金』以上の野心があるから、金が制限されると、不平は言うが、働かなくなることはまずない。
そこで、年収の最大値を『1000万円』か『2000万円』にして、それ以上は『所得税』としてすべて国の儲けにすればいい。それが嫌で働かなくなるものがいればそれでけっこう。問題は人権の問題をどう扱うかであろう。資産の限界も制定しなければならず、金持ちは怒るだろう。
ちなみに努力が反映されない社会になると、努力家が少なくなるというがそれはない。どうせ働かないと食えないわけだ。金が少なくても、自分の好きなことで食える可能性があるなら全力で努力をする。例えば、プロ野球選手の給料が3分の1になれば、プロを目指す人が減るか? 恐らく減らない。(実際は検証しないと分からない)目指すものは『金』以上に『野球』が好きな場合がほとんどだ。金が減ったぐらいで、プロ志望者が減るはずがない。とはいえ、ボクシングの『1試合60000円はあまりに少ないのではないだろうか。これではアルバイトのほうがまだマシである。どうでもいい選手をプロにしすぎているのが問題だろう』
給食を廃止すると、まともな日本人が出現しやすくなる
学校は一体いつまで給食制度を続けるのだろう。小説を書くものにとってはネタが増えるから、喜ばしいことだが、給食は良い結果を何一つ齎さない。
『アレルギーは考慮されているか?』『各人のカロリー・栄養計算は出来ているのか?』『ダイエット中、増量中の生徒はどうなる?』『好き嫌いの問題は考慮されているのか?』
考えればきりがない問題を抱えている給食だが、なぜか、それが普通に行われている。食の文化など『各人さまざま』だ。日ごろから、たんぱく質源は豆と決めて、肉を食べないものもいる。逆に炭水化物を制限して、たんぱく質を取るものもいる。ベジタリアンもいるだろう。
こういったすべてのニーズに合わせるには『食事のすべては家庭に任せる』方針を採るほかないのだ。給食をするぐらいなら『講演会』で『栄養士』の者に呼んで、親に訴えかけたほうがまともだ。
国語は論文にするべき
学校の二つの『悪習』を挙げるとすると、『国語』と『給食』である。国語の学問のおかしさといえば開いた口が塞がらない。
論理的思考力の養成が『古文』『漢文』の読解より『不要なもの』なのか。高々娯楽の小説読解が『論文を書くこと』より重要なのか。
頼むから、国語をまともな学問にしようというのが私の願いだ。評論を読む、小説を読む。それはそれでいい。だが、それらが『論理的な考え方をする』『資料を集めて、議論をする』『文章を書く』ことより『もっともっと重要なことなのか?』
ただ、楽だからという理由で国語を『評論または随筆』『小説または詩』『古文』『漢文』にしているのか。
『論文』『議論』を主軸にする『国語』にしない論理がいまだに分からない。論理的思考力が欠如しているからか、なんと高校生が『何で水を飲まないと死ぬのか?』という質問に『喉がかれて、ご飯が食べられなくなるから』と真顔で答えているのだ。確かに喉がかれたらご飯が飲み込めないだろうが、もっと他にまともな答え方があるだろうに。
他人の駄作を読む前に『問題』を議論し『文章で自分の考えを表現する』ことを主体にした厳格な『国語』を作ってほしい。
最終的には入試で見られる『論文』という科目をそのまま使いたいところだろう。
最終章 創作に関して
作者が高い評価を下す作品紹介
作者は1000以上の作品を鑑賞してきました。そして気付きます。『評価されているものはすべてある法則に従う』ということに。
きちんと作品を評価したものはひとつもなかったと作者はいいます。そこで作者が『作者賞』を与えるべき作品をここで紹介します。
作者賞とはこれまでの適当な賞と違い、『エンターテインメントの力がどれほどかを厳密に審査したもの』なので、『大人の都合』とかそういったものが一切ありません。評価はいかのように行われます。
A(発想) この部門で評価するのはエッセンスとなる組み立て材料をひとつひとつ審査して『材料のよさ』です。ところが、『鑑賞者』によって、ある材料が『一塊の材料』か『さらに分解して細かく出来る』かが異なるため、『普遍的な観点で見た最小単位を材料とする』ことに統一します。
B(構成) この部門で評価するのは材料を組み立てた後の『完成形』です。作品のすべてと言ってもいいものですが、『それをばらばらにしたときの材料がいいほど、作品の幅は広がるのでAとは分けて審査します』
いずれも10点満点で評価し、最終的に
2A+8Bで100点満点として、評価を出します。
アニメーション部門(主題歌などは評価に入れない。ご了承ください。ただしBGMは評価に加える)
『劇場版クレヨンしんちゃん』
A=9,6 B=7,9 2A+8B=82,4
評価のポイント 劇場版をこれだけ紡げるということはエッセンスが高いことは客観的にも理解出来よう。だが、劇場版を紡げるだけでなく、『ファンタジー』への融合、『コメディ』要素の瓦解を許さず、各種展開に混ぜ込めるキャラクターや世界観の配置は『恐るべきもの』がある。構成力も高く、多くの作品で『ギャグ』『サスペンス』『感動』『ユニークな組み立て』が主流であるが、いずれも秀逸である。
『火垂るの墓』
A=6,8 B=8,5 2A+8B=81,6
評価のポイント 戦争を題材にしているため、類似性を発想にいかに影響させるかで評価は変わるが、無駄な描写がほとんどない構成力、バッドエンドを美しく持ってきている点、感動のレベルの高さ、さまざまなものを総計すると、『発想』より『構成力』で魅せる作品であり、一位、二位を争う程度の高いつくりになっている。構成力では『全作品』で長い間トップを独走している作品である。
『ドラえもん』
A=9,1 B=7,4 2A+8B=77,4
評価のポイント 初期のものと近代のものとでは構成力に差があるので、評価が難しい作品になっている。現在のものは『画』のレベルは上がっているが、『6分程度で一話を作っていた頃のように無駄なない描写』というものがなくなっている。昔は無駄がなく、非常にスムーズに作品が進んでいた。昔のほうが良かったというのが私の見解である。声優は変わったが、みんな上手なので、問題はない。問題は構成力である。6分半時代の程度の高いアニメを復活させれば、さらにあがることは間違いない。
『とんがり帽子のメモル』
A=9,6 B=7 2A+8B=75,2
評価のポイント 発想の捉え方で評価は変わってくると思われる。主人公が小人で人間界と接触するという点において、『標準的』と評価されれば、Aは下がってくるが、この大きな架け橋を強く見たとき、発想の程度の高さを尊重することは普遍なことになるのではないか。いずれにしても、構成力の高さが目立ち、トップクラスの作品になっている。
『となりのトトロ』
A=9,5 B=6,5 2A+8B=71
評価のポイント 神秘的世界をうまく表現したものであり、宮崎駿作品としては『魔女の宅急便』と並んで、トップクラスに位置している。この頃の構成力は非常に高かった。現在の作品は『作画』と『興行収入』だけは上がっているが、この時代にあった構成力の高さがなくなってしまっているのが残念である。
『君が望む永遠』
A=7 B=6,8 2A+8B=68,8
評価のポイント 作者が考えるこの作品の位置は『君が望む永遠』『クラナドアフター』『スクールデイズ』の恋愛3部作の1つである。激しい構成力争いの中で『6,8』という極めて高い数字を『恋愛』というジャンルで出した恋愛の代表的作品でもある。
『舞HIME』
A=6,3 B=6,9 2A+8B=67,8
評価のポイント この作品のライバルとなっているのは『ぼくらの』である。両者の作品とも序盤はさほど高い評価を受けていない。いずれも中盤以降で高評価を獲得したものである。発想ではなく構成力の高さが目立つ。発想が低いのは『発表された年代』を考慮すれば『典型的なもの』に近いことを疑わざるを得ないからだ。
『ひぐらしのなく頃に』
A=7,8 B=6,8 2A+8B=70,2
評価のポイント 解も同様に評価する。すべてを通して高い評価を与えられているわけではない。6,8という高い数字が出ているのは高いところのおかげである。その格差に『戸惑い』を覚えることもあるぐらいだ。評価の中心となるのは『物語の佳境部分』である。高いサスペンスとホラーが展開されているところを高く評価してある。
小説部門(文学、ミステリなどからライトノベルまでだが、エッセイなどは評価の対象に入れていない)
小説は文章のレベルも評価しなければならないと見て、『C』を新たに加える。
2A+7B+Cの100点評価だ。Cは文章力を示し、『日本語の美しさ』ではなく、『分かりやすさ』『具体的かどうか』を中心に評価した。(美しさは数学と違い、絶対的でないので、評価のしようがない)
目指したいのは許せる人です。犯罪を許すのではありません。もっと根本的なものです。許された人は犯罪なんて絶対に犯しません。許されなかったから、自分の許さないものを許せなかったのでしょう。僕にはそういう心理がよく分かるのです。こうして、逃げてきた人だから分かってしまうこともあるんですね。




