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  作者: アーリマン
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A7

 不幸な人は辛く苦しいと思うけど、すごくたくさんの幸せを与えていると思います。不幸なこと、貧乏なことを恥じないでほしい。僕は貧困だったり、辛い思いをする以外に出来ない人にすごく強い好意を持ちます。

 俺は人生を楽しむ方法をずっと考えてきた。相対的考えをうまく使えば、特別な努力なしに出来るのではないか。そう考えて、ようやく見つけ出した。

 だが、それは見つけ出して、すぐ出来ることではない。恐らく、訓練に何ヶ月もかかる。しかし、一度楽しくなれば、それを持続させることも出来る。


1、劣等感を抱えない

2、程度を逸脱して興味を持つ

3、多くのものを心の中で嘲笑う


この3つを実践することで、人生は楽しくなることに気付いた。


 1を攻略する方法


 不可能と言うことは不可能である


「お前には不可能だよ」と誰かが言った。

「人には持って生まれた能力がある。君ではとても不可能だよ」と誰かが言った。

 当然であるが、人は鳥のように空を飛べない。だが、

『心の中では飛んでいる自分を想像出来る』

 この意味が分かるだろうか。もちろん、これは極端な言い方である。

「日本人が100メートル走で9,45秒の記録を出せるか?」

 と言う質問ならどうだろう。

「無理」と答えるものもいるだろうし、

「出来るかもしれない」と答えるものもいる。明確な答えがないことはすぐに分かるだろう。だから、不可能と言うことは不可能である。

 これをまず考える。不可能と言うことは不可能なのである。可能にする方法があるかもしれない。不可能と言う前にそれを辛抱強く探すことである。


 何をやっても長続きしないのは、根性が足りないのではなく、理想が高いからである


「お前、もう勉強をやめたのか」

「まったく三日坊主なんだから」

 多くのものは飽きやすい性質のものを見ると、『根性がない』『上昇志向がない』などと思うらしい。だが、実際は『あべこべ』である。

 三日坊主になるものは『根性がある』し『上昇志向が高すぎる』のだ。どういうことなのかを説明する。

 三日坊主というのは途中で計画を投げ出すことである。だいたい、根性があって、上昇志向が高いものは三日もすれば飽きて、やめてしまう。

 それは『計画』が『目標を実現させるために適切かどうか』不安になるからである。

「もっと別の方法のほうがいいのではないか」「この方法を続けると取り返しのつかないことになるのではないか」

 特に限られた時間で完成させなければならないことであれば、そういう不安がいっそう増す。三日坊主になりやすいのだ。

「最善の策」を求めるがゆえに三日坊主になる。

 人と同じことをしていても恐らく追いつけない。頭がややいいものはそういう焦りを覚える。すると、計画実行力を阻害する。

 さらに自分で立てた計画は『自主性』で『強制』がないからもっとよい方法を探すようになる。そして結局何も出来ない。

 これを可能性を模索するらせんと俺は呼んでいる。

「一度に二十杯しか運べないから二十杯ずつ運ぶんだ」と言う人がいて、

「いいや、三十杯運べる方法があるかもしれない」と考える人がいる。頭がいいほど考えてしまう。もしかすれば、

「百杯運べる方法があるかもしれない」

 それを明確にしてくれたのが『風来のシレン』であった。

「掛け軸裏の洞窟99階までいったって? 嘘つくなよ。あれは36階から敵が強くなるから絶対無理なんだよ」と俺は言った。だが、実際にそのダンジョンを攻略する方法があった。これがゲームでなく人生だったらとんでもないことだ。

 出来ないと思っていたことが出来たのだ。俺は鳥肌が立った。36階から素手なら200以上のダメージを受けるダンジョンを99階まで行くなんて、物理的に無理だと決め付けていた。人生で例えると、「夢があって、それが絶対無理だ」というわけだ。

 実際は無理ではなかったのだ。

 つまり、三日坊主というのは『悪いことでもあり、いいことでもある』というわけだ。俺の予想だが、このダンジョンをクリアしたものは恐らく何回も倒されたのだろう。

「何とかクリア出来ないか」と考えたに違いない。

 もし、三日坊主の人でなかったら、「クリアできるまで、とにかくやりまくるぜ」となっていたのだろう。そして、何度も倒され、死ぬまでクリアできない。

 だが、そのとき「待てよ、ガイコツ魔王を使えば……」などと考えていれば、クリアすることが出来たのだ。

 このことをまとめるとこうなる。

『よく、つべこべ考えずとにかくやりなさい』と言うが、それでは『限界を超えることは出来ない』三日坊主と笑われても、一度立ち止まって、

「この夢を実現させる方法はないかな」と悩むことで『限界を突破できる可能性を手に入れることが出来る』

 俺は風来のシレンに出会えたことで、『劣等感』をためない方法を見つけ出すヒントを得ることが出来た。だから、俺にとっては思い入れのあるゲームだ。

 もちろん、三日坊主で考えても、意味がないこともある。

詰み将棋で詰んでいる状態は考えても改善できない。だが、せめて三回ぐらいは立ち止まるようにしてほしいと思う。

不可能だと思っていたことが『実は可能だった』ということに気付くためにも三日坊主は必要だ。そして、考えることの大切さをシレンは教えてくれる。まさにシレンである。


 不幸を称え、成功を叩く


 成功者は盛大な拍手を与えられ、失敗者は忘れられていく。闘争をして、勝ったものが称えられ、負けたものが忘れ去られるのは当たり前のことだし、別に悪いことではない。むしろ、お互いの勝つための闘志が炸裂しあい、勝負がついたのだから、いいことである。

 だが、劣等感をためないことだけを考えるならば、『成功者』を叩き、不幸に陥った人を称えることが大切なのだ。

『ネットでは成功者が叩かれている』

 このことを悪く言うものがいる。だが、それは『劣等感を緩和させる』ために必要なことである。なお、成功者というのは見た感じのことである。本人からすれば『成功していないし、自分を不幸だと思っている』かもしれない。

 そこで基準になるのが『知名度』や『収入』である。これらが高いと、本人がいくら不幸と訴えても、周囲は『成功者』と称する。

 そして、成功者は全力で叩くべきである。叩けば叩くほど、成功者を懲らしめることが出来る。第三者がそれを見て、「ああ、成功者もこうなるんだ」と思って、劣等感を緩和することが出来る。そして不幸な人を称えることで、不幸な人は劣等感を緩和出来る。

「35歳、童貞。彼女いない歴年齢、ブサメンで長所は何もなし。もう人生オワタ」

 と言うものがいれば、それを見た第三者が少し幸せになれる。そういった人は成功者より『立派』である。俺自身、にきびが程度を逸脱しているのだが、世界仰天ニュースなどで不幸な人が頑張っているところを見るたびに勇気付けられる。

「俺のにきびなんて、彼らと比べれば何でもないことなんだ」と思えて、劣等感は和らぎ、生きる活力が生まれてくる。逆に、幸せな報道を見て、

「史上最年少でプロに」とか「20歳で年収一億」とかを見ると、ひどく嫌な気分になる。

 このように不幸がどれだけ人の劣等感をやわらげてくれるか分かる。俺は成功者をこれからも叩き続ける。そして不幸で頑張っている人たちを称えて、俺自身、自分が不幸であることを誇りに思い、劣等感を緩和する。

 成功者は人に劣等感を与える。

「あんなすごい奴がいるのに、俺は何てダメなんだろ」「自分より年下なのにしっかりしてる。はあ、死にたい」

 そして、劣等感が募り、兇悪な犯罪や自殺に発展する。俺はそれを懸命に止める。

「不幸」なことを『誇り』に思ってほしい。なぜなら、

「あなたはたくさんの人を勇気付けた人」なのだから。人を勇気付けるってすごいことだと思う。自分が幸せになるのではなく、人が幸せになる。すごいことだ。普通の人は自分の幸せを願う。そのために努力をする。でも、自ら進んで不幸になって、不幸を助ける。俺は不幸な中『悲壮感』で懸命に生きている人を見ると、涙が出る。懸命に応援したくなる。逆に成功者を見ると、嫌悪感を覚える。吐き気を覚える。「さっさとどこかへ行け」と言いたくなる。

 一人でもたくさんの人が不幸を理解し、成功者を叩くようになれば、自分も相手も幸せとか劣等感のレベルが同じに近づいていく。


 自分論理を手に入れる


 客観的であることが『論理』の前提だ。筋道が通っているということは『納得できる』ということであり、それが論理的ということだ。

 だが、自分の世界を切り離し、それを世界と認識し、自分の中だけで通用する『自分論理』を見つければ、劣等感が下がり、人生が楽しくなってくる。

 では自分論理とはどういうものなのだろうか。例えば、

「私は天才である。なぜなら、他人が見つけ出していないことを次々と見つけ出しているからである」と言ったものだ。論理なので、必ず理由をつけなければならない。

 これは自分論理である。他人が見つけたか否かは『調べないと分からない』し『見つけていないことを見つけることが天才かどうか』は決定できないことだ。

 これは自分の中だけで通用する。俺の自分論理を紹介する。一言述べておくが、これは自分の中だけしか通用しない。客観論と考えないように。

「私は思考力やIQが非常に高いため、程度の低い人間とは会話がうまく出来ず、友人が出来ない。程度が高すぎると低能にあわせるのが難しい」

「私は頭がいいので、色々な術を知っている。スポーツレベルの低い日本では本気を出していればどの種目でも金メダルを取れる。特にマイナー種目はレベルが低いので、楽である。プロ野球もメジャーより筋力も技術もない。せいぜい守備がうまいぐらいである。俺なら楽に3割5分は打てるだろう。実際にしなかったのは、そんな程度の低いことに自分の大切な将来をかけたくなかったからである」

「俺は東大に合格出来る。だが、合格しても、何かいいことがあるわけでもない。あの程度の標準問題が6割、7割取れたところで、何の自慢にもならない。時間をかけて勉強するなんてあほらしくて見ていられない。どうして受験生は大してすごくもないことに時間をかけるのだろう。頭が悪いのだろうか。東大卒のノーベル賞受賞率を見て、俺は東大の程度の低さに情けなさを覚える」

「俺はたまに本を読むが、現在の読み物の質を論じると、褒め言葉が出てこない。文章はへたくそであるし、小学生程度が書ける内容しか書いていない。ベストセラーなのを見て、恐怖を感じた。こんなものに莫大な人が虫のように群がっていると思うと、日本人の頭の悪さはもはやどうしようもないところまで来ているのだなぁとお先真っ暗を予感する」

「私は恋人がいないが、望んでもいない。女と付き合うとお金がもったいない。ただの性欲のためにどうしてこんな莫大なお金を払わなければならないのか。女と付き合ったり、結婚する男は計算力や思考力の欠如した障害者と同等である。または性欲に負けたきな臭い豚並み野郎である」

 並べてみたが、これはあくまで『劣等感』を取り除くための自分論理である。実際は、

「友人が出来ないのは、俺の社会性が不足しているから」

「実際にしなかったのは能力が足りなかったから」

「東大数学で七割を取るためには圧倒的な数学的思考力が必要で、それは才能の領域である。合格など、俺には不可能である」

「ベストセラーの本を書けるほどの才能がない」

「女の子と付き合えるほどの顔も人間性もない」

 となる。こんな現実を受け止めていたら、劣等感が募るばっかりだ。哀れで、自分で自分が可哀想になる。それを慰めるために『自分論理』を身につけ、自分を騙す。都合のいい現実を作ることで、

「俺も救いようがないほどでもないな」と思うことが出来る。だが、そのためには、ただ俺ってすごいと言うだけではダメだ。ある程度、納得させる理由をつける必要がある。

 だが、自分論理を考えたところで、「現実は変わらない」のだ。劣等感で自分を壊すぐらいなら、自分論理で回避すべきだ。


 他人は常に見下して、下手に出る


 他人を見下すことで、劣等感を緩和させることが出来る。見下す対象は『国民的スター』がいい。程度が高い相手ほど、劣等感が緩和させやすいからである。

「すごい打率ですね。でも、内野安打をゴロに変えたら、打率がた落ちですね。バッティングは全然すごくないですね」

「すごい技術ですね。でも、君の試合、面白くないよ。ジャブ打っては下がって、アマチュアみたいに得点稼いじゃって。それならわざわざ見せ物にしなくても、どっかで勝手にやってればいいじゃん」

「ノーベル賞って、ただの偶然じゃん。偶然も実力のうち? でも、それなら小学生でも出来る可能性のあった程度の低いノーベル賞ですね。ノーベル小学賞にしたらどうですか」

「すごい美人? いやいや、整形してるのもろ分かるし、褒めるほどでもないよ。しかも歌は下手糞で、ライブとかマジありえんわ」

「○○賞って、こんな駄作が賞なんて、どうせ学歴とか年齢とかで決めたんでしょ。内容が駄作でも、取れるなんてこりゃまいっちゃうな。さすが○○賞、バンザーイ。ふう、今度は中学生が取っちゃったで盛り上がるのかな。そろそろ、まともな作品を受賞させないかな」

「○○の社長って、あんたはただ命令してるだけじゃん。偉いの従業員だよ。自分らばっか金取って、従業員には月30万。恥ずかしくないの? あんた、泥棒とかわんないよ、それ。いや、泥棒のほうが金額が低いだけましか。いやー、公然と泥棒するなんて、ルパンも真っ青だね。さっすが」

 と言った感じだ。こうやって無理に見下すことで、『劣等感』を緩和させる。だが、重要なことは見下していながら、相手にはぺこぺこする。

 どんなことがあっても現実では下手に出る。そして思う。

「程度の低い連中だからな。頭でも下げてやって、少しはいい思いをさせてやるか」

 とでも思う。人間は人間を決して褒めない。褒めるということは『不幸』をばら蒔くということ。

 よく学校とかで表彰するが、あれは糞だ。あんなことをしていると、劣等感が募るばっかりだ。せめて、

「まあまあじゃないの」と表彰するべき。間違っても、大勢の前で表彰してはいけない。人の成功は不幸をばら蒔くだけ。

 人は褒めない。褒めず、みんなが劣等感を共有しあうこと。これが大事である。


 満足しない


 満足しないというのは極めて重要なことである。満足するとは不幸なことであり、満足するたびに『満足しやすく』なってしまう。

 満足すると、人は虚しくなる。食欲が満たされたとき、性欲が満たされたとき、満足と同時にやってくるのは虚無感である。ところが、そんな虚無感を何度も経験しているにも関わらず、人は再び欲求を覚える。

 このように欲求を満たすと、満足するが、それは要するに『飽きる』ということである。ゲームをしていて、飽きるというのは『満足した』ということなのである。

 飽きるとは虚しい。そして飽きなければそれは魅力的である。欲を満足させない状態は心がわくわくする最も刺激的な経験である。欲を満たすと、その刺激はなくなり、虚しくなる。人生を楽しむためには満足しないことが重要である。そして、それの意味するところは『飽きたこと』をしないことにある。

 どんなに魅力的な映画を見ても、終わってしまえば、比較的虚しいものである。どんなに素晴らしい料理も食欲が満たされれば、まずくなる。どんな魅力的な異性との性行為も性欲が満たされていると、マラソンのように苦痛になる。

 すべては欲が支配している。学問もすべからず、欲によって始まる。欲を満足させないことが継続することにつながり、欲を抑えることなく、持ち続け、なおかつ満たさない。それが人生を退屈にしない術なのである。何かをしたいと思ったとき、それをしてしまうと感動も憧憬もなくなる。したいけど、我慢している。その状態は永遠に憧憬を持つことが出来る。そしてそれを苦痛と認識しない努力を始めることで、人生の幅を飛躍的に伸ばすことが出来る。だが、欲求不満はストレスになると考えられており、素直に薦められないところがある。


 友人がいないまたは少ないということは思考力が高い証拠である


 私が小学一年生の頃は『友達を百人作ろう』と教えられた。その頃を思うと、まず懐かしさが先行するのだが、冷静に友達を百人作ろうという目標を考えてみると、かなり頭が悪くないと、達成できないことである。

 とはいえ、友人の定義をどうするかによって、変わってくる。辞書的意味では抽象的でうまく考えられない。頭が悪いほど抽象的に物事を考えたがるが、辞書を作った者の頭が悪いわけではない。これは抽象的にしないと『批判を伴う』単語だから、そうせざるを得ないのである。

 そういうわけで、私が定義した友達を考慮すると、友達を百人作ろうは不可能に近く、相当頭が悪くないと出来ないことである。

 私の定義する友達とは『ある個人の立場に立ったとき、家族の次に大切な生命体』である。家族の次に大切な生命体ということだから、友人は一人しか作ることが出来ないことになる。友達が二人いるということは『二人の大切さの度合いが一致している』必要がある。それは可能なのだろうか? まして、百人の友人となると『百人すべての大切さが一致している』必要がある。

 結論から言うと、それは不可能に近い。計算で算出しようとすると、まずズレが生じる。思考力が低ければ、認識のレベルでそれも可能だが、思考力が高いと、プライドが高くなるから、友人を複数持つことに後ろめたさを感じるようになる。思考力の高い人間は『利用出来る仮の友人』と『友人』を分けている。『友人』には金を貸すが、『利用出来る仮の友人』には借りがないかぎり、貸さないし、貸すにしても、利益になるよう考える。

 つまり、損得を考えて、仮の友人を設定する。

 そういうわけで、友人とは本来一人しか作ることの出来ないものである。理想的なのは一人の恋人と一人の友人というものである。友人が一人もいないということは二人以上いるものより、普通のことである。なぜなら、最大で一人しか友人が出来ないのだから、本来0か1のどちらかにならなければならないからである。

 友人は基本的に作らない。本当に友人になる相手がいるなら、何も仕掛けなくても、出来る。友人とは『決して裏切らない。打算がない』ものである。そんな相手はそうそういないのだから、友人が0という事実をまるで、ひどいことのように考えないようにするこは重要である。

 宝くじでも当たって、6億円が手に入ったらすぐに分かる。銀行員が飛んでくるし、人がすぐに集まる。そして気付く。これが『友人のからくり』だということに。

 友人が0ということは正直で素晴らしいことである。逆に友人が多いということは獰悪で腹黒い人間である。友人が少ないほうが、心は綺麗というわけだ。友人をたっぷり作って誇るより、友人0で綺麗な心を誇るようにしよう。


 肉体は健康・ルックスがすべてであり、ルックスを変えることは困難だが、精神は変わりやすく、また不安定である


 全員がそうというわけではないが、相手にとって、自分のルックスが及第点でなければ、恋愛が生じることはない。及第点は人によって変わるが、今日、イケメンや美少女があまりに増えたため、及第点が高くなってきている。

 及第点が高くなったため、多くの会社がルックスを上げるための商品をたくさん出している。それらを駆使すれば、もとが平均以下でも平均的な数字が出せるようになったから、あまりに恵まれなかった人を除いて、ほとんどの人間は37歳程度までの範囲なら自分のルックスを及第点と見てくれる異性が存在するといえる。

 体が健康であれば、ルックスが及第点に達した瞬間、多くは恋愛の『初』を始めることが出来る。そして、二次試験の精神鑑定に入る。この精神鑑定とはルックスという足きりを合格した後に存在する『難しい試験』である。

 これも難易度は人によって変わる。東大、東工大なみに設定している人もいれば、Fランク大学レベルのものもいる。いずれにしても、足きりを突破しても、精神鑑定をパスしなければ恋愛は発展しない。

 ルックスで合格できても、精神鑑定で合格できないものが多い。なぜなら、この精神鑑定はほとんどのものが足きり以上に重視しているからだ。

 ルックスは才能だけで楽に突破できる。つまり、努力は不要だ。だが、精神は努力がほとんどである。

 精神とは変わりやすく不安定であるからだ。肉体のように安定していない。よって、ルックスをパスしたものにとって、後は努力の問題ということになる。なお、私の場合、天性的に足きりを突破出来ないので、こういうこととは無縁である。

 前振りは長かったが、精神は変わりやすいということに注目してほしい。多くのものはルックスに恵まれないことで落胆している。だが、それはルックスを悲観することによって、精神を傷つけているのだ。

 精神は変わりやすいのだから、精神を変えてやればいい。そうすれば、いかなる不幸も楽に突破できる。だが、そうなるには多くのものをダウンロードしておく必要がある。精神にダウンロードすべきものは以下のようである。

『劣等感を癒す論理』『不幸を打ち消す論理』『逃げ道を形成する論理』

 精神は変わりやすいから、努力次第で、上記のものはダウンロードできる。よく不幸を脱出するために、目の前の障害を取り除こうとする。しかし、これは適切でない。障害を取り除こうとするのは『世間一般の平均に追いつこう』とする意味合いが強い。それではいけない。人に近づこうとするのではダメだ。自分の独自の性質を認めることが重要なのである。

 では、どうやってダウンロードするのか。実は私も方法を知らない。上記の二つは私もダウンロード出来たが、『逃げ道を形成する論理』だけは完全なものとしてダウンロード出来ずにいる。

 劣等感を癒す論理を身に付けるためには不幸を相対的に捉える訓練をすることが何より必要だ。

 例えば、テストで18点だった。平均は60点。これだけなら、たいしたことはない。だが、18点の答案を人に見られると苦痛である。そうなったとき、その不幸を次のようにして捉えることが重要である。

『テストで試されている能力は社会の役に立つ能力とはかけ離れている。ということは点が高ければ高いほど、意味のないことを長時間勉強した馬鹿ということになる』『学校教育の制度を考慮すると、テストの点が高いほど、クズであり、低ければ低いほど、天才である。だが、これは自分の興味関心のあることに熱中し、結果を出すための努力を惜しんでいない場合に限る』

 他にも色々な自分論理が考えられるが、不幸のたびに、落胆せず、論理を使い、不幸を相対的に不幸でないと考えることで、劣等感や不幸に強くなる。逆にこの論理を持たないとダメージが大きくなり、自分を潰してしまう。

『テストの点が悪いことで、人間は決まらない。なぜなら、数学は圧倒的に出来ない限り、その恩恵は少ないし、国語は駄作を読まされただけで、重要性は皆無。英語は海外と関わらない限り、まったく意味を持たない。最近は翻訳家が増えているから、英語を勉強する意味は薄れてきた。理科も自然科学を扱う仕事以外は不要であり、社会も専門家以外は不要である。こんなもので点を取って、うかれているものは圧倒的な馬鹿である。学歴のために勉強するのも馬鹿である』

 自分論理を使い、不幸に対する耐性を高め、人生を有利に進むようにしよう。私も多くの論理をダウンロードして、不幸に強くなりたいと思っている。

 不幸のたびに論理を起動し、ダメージを和らげる。ストレスもすべて同様である。


 人間<虫を論理的に証明する訓練をする


 自分論理に付属するものだが、精神は変わりやすいという性質を考慮して、自分をだます自分論理は突っ込めば突っ込むほど、その威力を発揮する。圧倒的自分論理を形成すればもはや、いかなる不幸も不幸でなくなる強い人間になる。

 だが、それは難しい。何年も傷ついてやっと出来るようになることだ。私もまだ修行中なので、すべての不幸に対する耐性を持っているわけではないし、耐性の度合いも小さい。私がいま志しているのは『人間<虫を論理的に証明すること』だ。

 人間は虫以下であるという事実を証明するに当たって、例えば、人間の命を虫以下にすると、人間を蚊取り線香のごとく殺していいことになってしまい、法律に反する。

 このように人間の配下の絶対的背景に従わなければならないので、困難を極める。これを証明する目的は『不幸の耐性』を上げることだ。虫を立派に捉えて、自分も頑張ろうという気にさせるためだ。

 だが、実際にやってみると難しい。

『蚊も人間と同じ尊い命である。それを血を吸っただけで殺すなんてひどすぎる。そんなひどい人間より、俺はマシだ』としても、俺は手で蚊を潰したことがあるから、論理は破綻してしまうし、

『蚊は短い生涯の中、懸命に生きている』としても、生涯の長さは基準によって定められるから、比べられない。(虫の寿命と人間の寿命を一緒には考えられないということ)

 けっこう難航している。自分論理は自分を納得させなければならない。自分を納得させることさえ出来れば、不幸を幸に変えることも出来るが、納得できなければ、何の意味も無い。だから、私は苦労している。

 この論理をダウンロードすれば、どんな不幸にもかなり抵抗出来るようになるだろう。だが、それゆえに難しい。


 成功するということは程度の低いことである


 これも自分論理のひとつである。証明はさほど難しいものではない。これは『劣等感を癒す』フリーソフトなのだが、私は比較的容易に納得できた。

『成功するということは目標が低い証拠である。人間はチーターより速く走れない。当然新幹線より速く走れない。たかだか、オリンピックの金メダル程度で、はしゃぐことでもない。俺ほど偉大になれば、目指すは光速だから、時速5000キロ程度でも全然すごいとは思えない。お金を手に入れて、成功だというのはもっと馬鹿げている。金で買えるものはすべて二番煎じだ。お金で買えない程度の高いものがまったく見えていない……以下略』

 成功できない人間が成功者との比較に耐えうるために、成功することを程度の低いことと認識しておくことは重要である。これらはすべて不幸を乗り越えるための方法である。俺はたくさんの著書を見てきた。色々なことを書いているし、俺の言っていることと同じようなことを言っている本もあったが、反対のことを言っている本もある。どれが正しいかは『個人』が決めることだ。俺は『不幸に出会って、劣等感をためるぐらいなら、たとえ客観的に破綻していようが、自分論理で不幸をさえぎる』ほうがマシだと思っている。


 障害を最大限に生かす論理を見つける訓練をする


 多くのものは『障害は取り除くもの』と考えている。だから、辛いし、苦痛を伴う。なぜなら、障害を持っている人は『生涯を取り除いても、人並みになることすら難しい』からだ。障害を取り除いて、遅れを取り戻すために無理をする。それでは、劣等感や悔しさに打ちのめされてしまうだけだ。

 もっと別に考える。障害をジェット機に出来ないか。障害をバネにして、飛躍的加速をつけられないかなどと。

 障害を持っているものはその障害を利用する方法を考えるべきなのだ。『障害があるからこそ出来ること』というのは意外に多い。

 人並みを目指しても、障害があるぶん、苦痛を増やすだけだ。人に出来ない素晴らしいことを障害を利用して行う。

 もちろん、それも難しいことだ。だが、人と同じ道を、障害を取り除いて進むより、人と違う道を、障害を利用して進むほうが楽だと思う。

 まずはその姿勢を示すこと。『人に追いつく』ではなく『自分独自の道を見つける』そういう訓練をする。

 テレビを見ていて、親が障害のある子供に『普通の人と同じようになってもらいたい』と言っているのを見た。だが、子供は苦痛である。親の気持ちは分かるが、『普通の人とは違う自分にしか進めない道』を獲得することが重要ではないだろうか。それが劣等感を和らげるために必要なことだと思う。


 2を攻略する方法


まずはすべてのものを否定する


 程度を逸脱して興味を持てば、人生を悲観することがなくなってくる。だから、2はぜひともマスターしたいものである。だが、私自身、まだ2を身に付けていない。2を身に付けるためには論理的思考力を底上げして、自分論理を完璧に作ることが出来るようにしておかないといけない。

 さて、第一歩は『全否定』である。

 世の中のすべての事柄を否定的に捉えることからすべてが始まる。これは人間も物事もすべてである。

 どんな偉大と言われる人間も否定的に捉える。

『そんなもの偉大でもなんでもない。神でもないたかだか人間が偉大なんて、どれだけ思い上がっているのだろうか。人間は誰も同じ価値しかない。偉大なんていう言葉を人間に使うのは失礼極まりない』

『偉大なこと? 0カロリーで平均寿命を生き抜くことだね。無理でしょ? 人間だから。人間は偉大でもなんでもない。飯を食わなきゃ死ぬ程度の、レベルの低い生き物なんだ』

 とにかく自分論理で否定を重ね、憧憬も羨望もすべて捨て去る。そして、そこから始まるのである。


 他人を褒めない


 最も重要な要素のひとつである。劣等感をためないために、成功者を叩くというものがあったが、人間は褒めてはいけない。成功者を褒めると、付け上がって、際限がなくなる。他人を褒めるということは褒められる側はいいが、周囲に不快感を与える。では全員を褒めればいいのではないかということになるが、結果ふぁ出ていないのに褒められると、逆効果で、劣等感を余計に与えるだけになる。

 褒めないということがいかに重要かが分かるであろう。劣等感は平均からどれだけ自分の能力が低いかで溜まる量は変わってくる。褒めないことで、平均を下げればいい。そして高すぎるものを下げるだけでいい。そうすれば、安定した社会になる。

 また、褒めないことは程度を逸脱して興味を持つことを助けてくれる。程度を逸脱して興味を持つとは『ある事柄を徹底的に極めようとする姿勢を見せる』ことであり、その原動力となるのは『完成』を目指すことである。

 相手を褒めて、模倣するのではなく、相手を否定し、さらに上を目指すようにしなければならない。だが、理系学問の場合は『絶対的根拠』となるものを発見することもあるので、そのときは否定できない。だが、決して褒めてはいけない。


 自らの好きなことを程度の高いことと考え、他を否定する


 何に興味関心を示せばいいのか。それは数多くの経験と挫折を繰り返さないと見出せない。自分の好きなことを見つけるためには一度やってみなければならない。

 食べ物と同じで、やってみて『おいしいかまずいか』を決定する。それゆえ、興味関心を持つべきものを見つけるためにはお金と時間がかかる。

 よく、『物事を途中で投げ出すな』と教えるが、それは適切ではない。適切な言い方は『途中で投げ出すべきものと投げ出してはいけないものの二通りがあり、その判断が重要である』となる。

 自分の好きなことを見つけることは趣味であり、強制ではない。だから挫折してもいいのだ。だが、親の中には頭が比較的悪いものが多く、子供が挫折すると、『あんたは何をやっても長続きしないのね。もう何もさせません』と言うらしい。『何をやっても』と言うのが適切でない。たまたま、合わないものが連続しただけかもしれない。また周囲がたまたま一度で好きなことを見つけたのかもしれない。周囲と同じように考えて、挫折したことを悪いことだと決め付けてしまっては、子供の可能性を奪ってしまうことになりかねない。自分が好きなことを見つけるまで『挫折』するのは当たり前のことだと考える必要がある。子供には多くをやらせ、親はこう言うべきなのだ。『やってみて、面白いと思ったことがあればそれをやってみよう。逆に面白くなかったことはやめよう』

 今の日本は『強制』と『忍耐力』と『平均』が重視されるため、『自分の才能に気づかないまま平均的生涯を終えている』場合が多い。平均的人生でも納得できるのなら、それでいいが、納得出来ないものは、どこかもったいない感じがする。

 多くを経験し、そこから自分の好きなことだけを見出せばいい。その際に、個人のレベルで出来ることであればなおいい。


 自分が世界の中心であると考える


 自分の心は分かるが、相手の心は分からない。よって、世界の中心は自分にある。当然のことである。だが、『自分が主人公とでも思ってんじゃねえの? ばっかでえ』などと言われる。自分が中心ではない。みんなの地球というのだろう。

 だが、自分の心が理解できるということは、自分が中心であることを示している。『自分が世界の中心だから、自分が世界を決定する』のだ。

 その証拠に、趣味の好き嫌いがある。それを主観的に捉える。ある映画を見て、面白いと思う人も面白くないと思う人もいるだろう。『世界の真実は自分自身の答え』である。映画を見て、面白いと思えば、『この映画は面白い』のだ。

 原則として、主観的意見しか通用しないものの答えは『自分の考え』が正論となる。何か本を読んで、『これは素晴らしい』と思えば、その本は素晴らしいし、『これは典型的な駄作』だなと思えば、駄作なのだ。

 物理学のように絶対的根拠がないものは自分の感じたことを絶対的なものとして考えること。何かをしていて、『俺はこれだ』と思えば、他の意見を気にせず、それに没頭すること。それが究極に近づくために必要なものだ。よく○○映画賞などといって、作品を褒め称えるが、あれは『それを評価した人が決めた賞』であって、素晴らしいかどうかは誰にも言えない。評価する人によって変わってくるものに『質のレベルで順位』を決めても、何の意味も無いのだ。ミーハーにならないことを薦める。


 ひとつを極める。後のすべては否定せよ


 多くの経験の中で『これがライフワークだ』と思ったものがあれば、それだけをやればいい。学校の授業をろくすっぽ聞かなくてもいい。授業中にそれをやってもいい。『テストで赤点を取らなければいいのだ』とにかく、趣味に没頭する。だが、没頭しても、それを極めなければならないという暗黙の使命がある。

 極めるべきものがひとつ出来たら、それ以外は『クズ』だとして、否定する。その分野に全力を注ぎ、世界を切り開いていく。

 ときに飽きてしまうこともある。だが、それが本当に好きなことなら、数日後には復活している。そういうものだ。復活しないなら別のことをすればいい。

 私は文章を書くことを極めたい。文章で世界を表現し、文章で何かを伝える。人前で、口頭で何かを伝えるのは苦手だ。だから文章を使う。何を表現するかは明確ではないが、自分の中にある何かをすべて伝えたいと思う。それに一生がかかっても十分だと思える勢いで没頭しているが、自分を満足させることが出来ず、何度も行き詰っている。かなり苦しいのだが、なぜか、時間を置くと、またやりたくなっている。だから書き続ける。

 人生をかけるに値するものを見つけ出すことが重要である。そのためには時間もお金もかかるかもしれないが、見つけるだけの価値はある。


3を攻略する方法


 不幸こそ最大の栄光。幸せを潰す訓練をする


 多くのものを心の中で嘲笑うというのは相対的に自分の地位を上げるために必要である。そういう意思が『犯罪に繋がる』みたいなことを警察は言っているが、それはありえない。なぜなら、犯罪は『劣等感』と『憎悪』から来るからだ。お金がほしいから泥棒をする。なぜお金がほしいのか? お金がないと劣等感が溜まるからだ。世の中、お金で決まってくる。お金がなく、みじめな生活をしていると、他と比べて、劣っているように感じてしまう。劣等感が増大してしまうからだ。

 だから、劣等感を抱かないよう、自分の地位を上げるのは重要である。そして、そのためには不幸の捉え方を変える必要がある。

 幸せを肯定しない。

『優秀な人間は才能という武器や盾を持って、テーブルマウンテンを攻略するようなもの』

『不幸な人間は掛け軸裏の洞窟を攻略(99F)するようなもの』

 こう考えると、攻略時に感動が大きいのは後者であることに気付く。

『能力のある人間はクリアできて当たり前だよ。そりゃ、カブラステギやラセン風魔を装備して、分裂の無限増殖セットがあれば、楽にクリア出来るよな。こちとら、ダンジョンの難易度が違うんだよ。ガチンコでヘルギャザーに勝てないんだぜ。工夫と技術で乗り越えていくしかないんだからよ。一寸先のブレイドゲータに殺されることもあるんだぜ』

 不幸な境遇を難関ダンジョンとして捉え、生ぬるいダンジョンを進むものに、

『あーあ、そんなもんクリアしたって、全然偉くもなんともないよ。誰でも出来るだろ、そんなダンジョン攻略なんてよ』

 と言ってやればいい。逆に自分を『非常に難しいダンジョン』を攻略していると思えばいい。難しいダンジョンだが、クリア時には感動が待っている。不幸をただの不運だと思わないこと。恵まれた人は挑戦すら出来ない『難しいダンジョン』に挑戦していると思えばいい。

 人生は不思議のダンジョンに似ている。入るたび、形が変わる。ただ、人生の定説があるように、ダンジョンにも攻略方法がある。ガイコツ魔王の杖で予期せぬことが起きるかもしれないように、人生にも落とし穴はたくさんある。

 不幸で苦しんでいる人は自分の入ったダンジョンが『難関ダンジョン』だと思えばいい。アイテムは何も持ち込めず、いきなり強敵の嵐。それをどう潜り抜けるか。考えただけでもワクワクする。そんなふうに自分論理を組み立てて、

『生ぬるいダンジョンは楽だけど、誰でも攻略出来る』として、幸せな生ぬるいダンジョンを否定するのだ。

 頑張ることは出来るけど、競争は出来ない。誰かを蹴落とすのが苦手なのです。それなのに、たくさんの人々を蹴落としてしまった。蹴落とさざるを得ない。だから、辛いのだと思います。

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