A3
人生、常に逃げの一手でしたが、逃げても、生きていればいいんですよね。きっと。逃げる人もいればぶつかる人もいる。僕は逃げますよ。ずっと、誰も見えなくなるまで。
ニート論完成までの道のり1 どん底へと突き落とされて、見えたもの
猫を失った俺にもはや大学を生き抜く活力は残っていなかった。俺は聖域で思い出を噛み締めた後、そのまま大学へは戻らなかった。
大学を中退し、実家に帰った。俺を待っていたのは辛辣な言葉だった。
『何でやめたの』『二十までに道を決めろ』『明日から就職活動しろ』
やめてくれ。俺は……俺は精一杯頑張ったんだ。俺だって……。
そうだ。俺だって頑張った。精一杯頑張ったんだ。もうこれ以上ないぐらいに頑張った。独りでにきびを馬鹿にされながら、歩き続けた。だが、それでも、越えられなかったんだ。人生は。みんなが涼しい顔で歩んでいく同じ道を俺は歩けなかった。除け者にされ、膝をついても、自分で立ち上がらなければならない。何度だって立ち上がった。だが、もう俺はボロボロになっていた。
家に帰ったところで、人生から逃げることは出来なかった。辛辣な言葉が胸を突き、一度目の自殺を考えた。そのときの遺書は今は破り捨ててもうない。
考えた方法は、有名な入水自殺法だ。これは水の中で溺死するというものだ。苦しみは数瞬だけで、後は意識を失い、命を落とすことが出来る。睡眠薬と併用されやすい方法だ。睡眠薬を適量以上のみ、後は水の中に飛び込む。水の中で息を吸うことで、後は意識を失い、死神の餌食となる。死体が出やすく、自殺と判定しにくいので、遺書は必須になる。だが、水の中で息をするなんて、恐ろしいことをさあ実行しようと思ってもなかなか出来ない。実行しようとすると、なにものかが目の前に現れ、『来るべき時ではない』と訴えてくる。『ならば、俺は何をすればいい?』答えは返ってこなかった。
もはや、人生を生きぬく力も能力もない。瓦解しそうな精神の中、模索を続けても、暗闇を掴むことしか出来なかった。
そう、そこには一筋の光もなかった。どん底とはここなのか。人が自ら死を考えたとき、ここへ放り出されるのか。そしてこんなにも暗いのか。その暗さは嫌な暗さではない。周囲に人がいて、その中での一部の暗闇ではなく、どこまでも真っ暗なのだ。
俺は自殺未遂で家に帰り、外に出ることを拒絶した。親はそんなことも知らず、20までに仕事を見つけなければ追い出してしまうと言った。
20まで何とかなるのなら。俺を元気にしたのは恐らく、どん底の闇とあのときの声のおかげだ。
来るべき時ではない。ということは、来るべき時まで生きろということだ。俺は20を自分の寿命と定めて、生きようと思った。20にはきちんと死ねるようにくいを残さないように生きようと考えた。
だが、実際、生きることを選んだとき、自分に何が出来るか、何をしたいかということが分からなかった。何もせず、起きて、ご飯を食べて、そして寝る。
そんな生活が続いた。クラスメートは就職したり、大学生活を送っているだろう。そんな彼らの生活を想像しながら、俺は『ひきこもり』の日々を送るようになっていた。本当に何もしなかった。何もする気になれないし、このときは本当にただ呆然と外を見たり、天井を見たりしていた。
何かがいきなり生まれるのだろうか。ただ、みんなから取り残されていく自分を自分で感じながら、何もしなかった。
この頃だ。俺が自分をニートと意識を始めたのは。自分はニートなんだ。まさか自分がニートになるとは思わなかった。
それだけを感じた。時間は過ぎ、あっという間に一年が経過した。その間、俺は本当に何もしなかった。
20歳まで、数ヶ月を残すばかりとなった。つまり、俺は20歳ぎりぎりまで何もしないまま過ごしていた。俗に時間を無駄にしていたという感じだ。
だが違う。これは時間を無駄にしていたのではなく、俺の中に新しいものが発生しようとしていたのだ。それはどん底に落ちた人間が光を認識しようとする神秘的光景だったと思う。これこそがニートが生きるために本能的に生み出したものではないだろうか。劣等感も憎悪も恐るべき量が体内に沈殿していた。それらが徐々に活力に変わっていく。質量がエネルギーに変わっていく原爆のようなものだ。
そう、俺はまだ死ぬわけにはいかないと本能で感じ取っていたのだ。死ぬぐらいなら、逃げて逃げて、しつこく生き抜いてやるというその防衛本能は俺を動かした。
だが、その原爆のごとくエネルギーの大半は使用されず、消えてしまった。ほんのわずか生き残ったエネルギー、つまり活力で俺は立ち上がった。
もう一度大学に復帰しようと、勉強を始めた。東京大学に的を絞って、攻略を始めた。俺の学力では三年間ぐらいかかるかもしれない。そんな時間はない。今年中に何とかしなければならない。そんなとき、後期日程を考えた。得意科目を主軸に出来る後期日程の理科一類は俺にとって一番いい試験を作っていた。数学と理科と英語をセンター試験とし、2次試験は、数学または理科のどちらか一方と、英語を主軸にした総合科目と数学を用いた事象の解析を主軸にした総合科目の三教科で争われる。数学を取れば実質二科目となる。数学で八割以上を取って、英語を主軸にした総合科目の点数の悪さを何とか補おうと思って、頑張り始めたが、後期試験を総合科目三つの一本化にしてしまったことでこの計画はつぶれた。数学を軸にした方法がダメになって、受験を半ばあきらめた。
東大の中に従来の後期試験方式を強く支持している人がいて、その人が一本化を止めさせてくれることを望んだけど、やっぱり多勢は後期日程が機能していないことを訴えたみたいで、ダメになった。
前期試験で行けばいいのだけれど、数学と理科と英語を学ぶだけなら可能だった。だが、国語と社会だけはどうしても学べなかった。根本的なプライドというものなのか、そのプライドがどうしても勉強することを拒絶してしまう。もうその2科目は勉強することを本能がやめてしまう。やはり、理系としてのプライドなのだろう。受験のために勉強しているのはわかる。だが、受験のために勉強しているのではなく、数学と科学を発展させるために勉強しているのだというプライドがどうしても邪魔をする。だから、俺はその先に進めなかった。高所恐怖症と同じだと思う。『絶対安全』と言われていても、高いところで恐怖を感じる。
受験のためだと思っても、文系の学問を拒絶してしまう。数学と理科だけなら、好きな学問だから勉強を続けられたと思う。不思議と国語と社会は勉強できなかった。
そのとき、俺はアニメがすごく好きになっていて、クレヨンしんちゃん、ドラえもん、火垂るの墓、未来少年コナンなどを夢中になって観ていた。それで、アニメを作ってみたいという願望が強くなった。話を考える脚本というものを毎日作るようになっていた。受験のことも忘れて、夢中になっていた。
だいたい、半年で18か19ぐらいの脚本が出来た。ひとつあたりアニメにすると、4話か5話ぐらいになる。
それを新人賞として送ろうということになったんだけれども、小説しか取ってくれないので、小説に作り直して、それで、送るようにした。
だいたい20以上の作品が作られたけれど、出した作品は全部最初の選考で落とされてしまった。だいたい、下手な人でも、三回にいっぺんは通るって言われている。でも、俺は一度も通らなかったから、よっぽど下手だったということになる。
一度も一番簡単な選考を通らなかったから、全然ダメなんだけれども、話を書くのは好きだったから、それからも書き続けた。
ニート論完成までの道のり2 それから
受験もやめて、小説もたくさん書いたけれど、一度も一番簡単な選考にすら通らなかった。話を聞くと、才能のある人は一度出すだけで通ってしまうし、普通に可能性のある人は二度目の選考ぐらいにはいくという話だった。一番目の選考に通らないということはもう才能がないということだった。けれど、書くことは好きだったから、趣味でたくさん書き続けた。そのときに才能のある人の小説を教えてもらって、読んだ。それから、新しい道のりに向かうようになった。
ニート論完成までの道のり3 相対性発見のきっかけ
そのとき教えてもらった小説はすごく才能のある作者が書いているということだった。その人は一度で受賞して、活躍していると聞いた。自分の作品と読み比べてみたんだけれども、そのときに、自分の作品のほうがずっと面白い作品だということに気付いた。才能があるということはすごく面白い作品を書くんだろうと思っていたけれど、自分の作品のほうが面白くて、相対性に気付くきっかけになった。
自分からすれば、才能のある人の小説より、自分の作品のほうが遥かに優れているように見えた。でも、世間の目に立ったら、やっぱり才能のある人は面白くて、自分の作品は最初の選考にも通らないぐらいに面白くないものなんだ。
相対性に気付いたのはそのときだった。そして、相対性を考えて、色々なものを論理的に考え始めると、ついに『ニート論』が完成した。ニート論は人生を生きるたくさんの人々のためになるものだと思う。辛いことや苦しいことを頑張るための元気が湧いてくる。
ニート論
注意!!! このニート論は『相対性』を考慮し、主観的意見にならざるを得ないことを基本としているので、絶対的に正しいものではない。
ニート論原文(分かりにくいので、解説と照らし合わせる必要がある)
同一の現実に複数の観測者が存在し、同じ環境の望むとき、観測者によって、感ぜられる不幸の度合い、影響度が異なってくる。
ニート論解説
ニート論は極めて簡単である。ある本を読んだとき、『面白い』と答えるものもいれば『面白くない』と答えるものもいる。そんな誰でも当たり前に分かっていることだ。これがニート論の原点だ。これを人生そのものに当てはめたのがニート論だ。
ニート論とはこの相対性を人間そのものに当てはめることで、すべての問題を解決する助けになるのだ。
ニート論を使えば、ニートを持続できる
俺は死にそうになっていた段階からニート論を使って、脱出した。ニート論は相対性を利用して、自分を騙すことにある。
俺は大学を辞めてから、一年も苦しみを感じ続けた。なぜ、苦しかったのか? 理由は簡単だ。俺が社会を『絶対的』に捉えていたからだ。絶対的に捉えることで、劣等感を覚え、欝になってしまっていたのだ。自殺した人、凶悪犯罪を起こしてしまった人、彼らも恐らく劣等感を覚えていたからだ。ニート論はそれを救う人生のバイブルになってくれるはず。ニート論を用いれば、いかなることでも劣等感を感じなくなる。ニートを持続することだって可能になる。
ニート論 入門 自分を騙すのは『自分論理』
ニート論を実際に使って、元気になってみよう。ただし、このニート論はうつ病を治したり、何かの恐怖症を治したりするものではない。これは単に劣等感を癒すためだけに存在するものだ。『ニート論を使ったからといって、自分が強くなるわけではない』ので注意してほしい。
ニート論は自分を一切変えずに、劣等感を癒すものだ。つまり自分の能力は不変なのだ。ニート論とは努力家の劣等感を癒すために存在する。
まず試しに使ってみよう。俺を参考にしてほしい。
俺は日本一の小説家になることを志している。そして、それを可能にするためには書けば必ず溜まる『量』を基準にしなければならない。『きちんとストーリーのある小説』を『834冊』書くことで、日本一小説を書いた人となる。つまり、コピペを利用できないということである。
これらを使って、自分を騙す。
『小説は数がすべてである。なぜなら、小説は観測者によって、評価が変わってくる。どれが正解かは決めることは出来ない。だが、量は絶対的に溜まる。そこで、量や発行部数などが何かを決めるものさしになる。俺は小説834冊分の文章を書くことによって、日本一になる』
このように自分を騙し、人生のゴールを明確に決めることが出来る。相対性を利用すれば、いかなることも可能になるのだ。
もし、相手に追いつけなくても、自分論理で、自分の有利な方向に持っていくことが出来る。そうすれば、人生で迷いがなくなる。
人生に迷いがあるのは『絶対的』に社会を見ているからだ
社会では『お金』『地位』などですべてを決めてしまいがちである。それらが自分の順位だと思ってしまう。それでは、全然だめである。相対性をうまく使い、『お金』も『地位』も人間のひとつのステータスなので、人間の価値を決するものではない。とする。
俺は相対性を生かして、『量』だけを小説家のレベルを決定付けるものとしている。なぜなら、質は観測者によって変わってくる。質に程度の差はない。いずれも、60^{x}として判断されるだけである。よく、『この小説はいいから読んでみなさい』などと言うが、『それはあくまである観測者が見て、よいと思った』だけ。だから、読書と言うのは『偶然より見つけたものを読む』のがいいのだ。どれも等しく60^{x}だ。話題のあるものだけを読んでも、みんながすでに到達しているものなので、何もいいことはない。そうではなく、あまり人の読まない作品こそ、読むべきである。『100部』しか出回っていない自費出版の本を読んだことがあるが、『実に面白いもの』だった。
売り上げと言うのは、ミーハーによって決定付けられるものだ。これはいいと一度でも言われれば、こぞって買う。そんなものだ。だから、読む人が少ないほど、話題性は出にくい。人の評価を気にせず、見つけた一冊を読む。それこそが冒険的な読書。
だから、質を求めても意味はない。売れれば売れるほど質が高いわけではない。なぜなら、質に関係なく持ち上げれば売れるからだ。
質の高いといのは『ある観測者一点からでしか言うことの出来ない』ものなのだ。
そうやって、自分論理をいかに組み立てるかで、自分の立場は変わってくる。ニート論の入門は『自分論理』で自分を騙すということだ。
ニート論 基礎 思考力を上げる
ニート論を使い始めると、相対的に自分の立場が上がるので、劣等感に負けにくくなる。思考力を上げれば、ニート論はさらに使いみちを広げる。
『ニートはクズ』というものがいた。だがそれはあくまで『ある視点に立ったときのみ成り立つ』ものだ。視点を変えれば、ニート>労働者になるし、ニート<労働者にもなる。ニートも労働者も同等という言い方が出来る。労働力と経済力を相対性理論のごとく考えてみよう。労働力を使えば使うほど、経済力が上がる。労働力を使わなければ、経済力は0のまま。つまり、労働者とは『労働力を使って、経済力を上げているだけ』なのだ。ニートより偉いなんてことは客観的には言えない。
ニートは消費が少ないから、環境には優しい。労働者はブタのようにお金を使うから環境に悪い。環境問題ではニート>労働者だし、社会的に見れば、『ニートは税金も払わないし、親に迷惑をかけている』ということで、ニート<労働者になる。
相対性を考えると、正解がなくなる。ニートは『親』から見れば、クズだと思う。親としてはまともに働いてほしいし、これ以上スネを齧ってほしくないだろう。だが、ニートの立場からすれば、それが俺の人生なんだ。労働者だからいいとかそういうことはいえないと考えることが出来る。
そしてどちらの主張が正しいというわけではないが、親が『もう金を出さない』といえば、ニートは事実上消滅だ。だが、ニートはそれでも家にい続けようとすれば、消滅できない。挙句に喧嘩になって、裁判沙汰になる。『生んだ子を追い出すなんてとんでもない』と弁護側がいい、『成人すれば働くのが当然』と反論し、堂々巡りの末、大概『親の側が折れる』ようになっている。そりゃ、産むか産まざるかは親にしか決定の余地がないのだから、当然の結果だ。
子供がニートになってほしくないのだったら、子供を産まなければいい。子供を産むということは、子供がニートになって、一生お金が掛かり続けることも視野に入れておかないといけない。性欲に負けて、産んでしまったなんて安易な考えではダメだ。文系の大好きな倫理で言うところの、生命倫理だ。生命を考える限り、ニートを考慮しなければならない。人間以外の野生動物なら、ダメな子供を平気で殺してしまうが、人間は感情を持ってしまったからそれが出来ない。
ニートでい続けるためには『お金の供給源』がいる。ちなみにニートとは決して楽をしているわけではない。ニートはかなりの努力家である場合が多い。1日16時間労働なんて当たり前。彼らは無償で働いているいわば聖人でもある。
そんな彼らを弾圧するのは戦争と同じぐらい怖いね。
ニートは消費>経済力 労働者は消費<経済力
今の世の中、消費>経済力が必要ではないのかね? 世のお金は一定量しかない。そして、国の財源が低くなっている。これが今の状態なのだろう。
ということは『金持ち』こそが『ニート』にならなければならないのではないかね。論理的に言って、金持ちが金をさらに稼ぎ、貯金すると、景気が悪くなるのではないかね。所得制限をしないとヤバイよ、これ。でも、一番いいのは、金持ちがニートになることだ。ニートになれば、消費天国が続いて、財源も潤ってくる。これでオッケーではないか。しかし金持ちはなかなかニートを作らない。コネと金でニートにしないようにしているわけだ。ニートを先入観で馬鹿にする前に、ニートになるべき人もいることを認めるべきではないかね。
ニート論 応用 革命を実現させる
ニート論の最終形態は『革命』だ。思考力を上げ、相対性によって、自分の優位性を上げることに成功すれば、そこからついに革命が始まる。
この世の中、一部だけに金があることを『理不尽』に思わないかね? 思考力を上げて、国民が結束力を見せ、E=mc^{2}おごとく爆発的パワーを見出さなければならない。経済格差を埋め、世界を変えるためには、ニート論をこの段階まで引き上げる必要がある。一部の金持ちを認めるな。経済格差を認めるな。あなた一人が頑張っても確かに意味はない。だが、あなた一人が頑張り、すべての人が頑張りを見せれば、変わってしまうのだ。人間の可能性は想像以上のものがある。ガンジーを見れば、人間の力の凄まじさを理解することが出来る。ニート論は相対性と思考力に加えて、結束力を扱い、混沌を吹き飛ばすエネルギーを生み出すものである。
ニートという職業を認めるべきだ
ニートにも二種類ある。片方はどうでもいいので、もはや無視するとして、もう片方のニートは『ニート以外に成り立たない』のだ。もうどうしようもないじゃないか。ニート以外になれないんだ。いわば、8+5の解が2種類以上に定まるということを正当化できない限り、ニート脱出は不可能なのだ。
誰が好き好んでニートなどやるものか。金はなし。切り詰める生活(一ヶ月6000円生活)を継続し、生涯孤独、精神的ダメージが日々募り、外に出ることすら困難な状態を誰が好き好んで体験するものか。そんなもの誰も望んでしているわけではない。そうなるしか方法がなかったのだ。幸せなものがいれば、不幸なものがいる。労働者がいれば、ニートがいる。社会の仕組みを変えない限り、これはもう絶対に変わらないのではないだろうか。政権交代が云々とテレビで騒いでいるが、政治家が変わっても、国民一人一人が変わらないと何も変わらない。少なくともニートは誰が何をしても変わらない。変わるためには自分を変えるしかない。そして自分を変えることが極めて難しい。そうなれば、ニートがニートとしてある以外に方法がない。社会不適合者を徐々にこうして減らすほかない。もうこれは変えられる問題ではない。
それをまず理解しない限りは何も変わらない。多くの人にとって、変える必要性はないであろう。ニートが継続できる限り、ニートたちも変える必要性を感じていない。だが、恐怖は感じている。恐怖に押されるから、多くの者が変えることを強制される。多くの社会人はニートの感情を理解できていないので、変えることは楽だと思っている。だが、楽ではない。これは極めて難しいことだ。それならば、容認するほかない。ニートを容認したところでニートが増加するわけではない。ニートを容認し、国が支援すると決めたとする。だが、生活費ギリギリの支援で、ほしいものが手に入るわけでもない。そんなニートに自分からなる奴は天性の倹約家ぐらいだ。天才なら月700円ほどで生活出来るだろう。しかしそんな天才ですら、ニートになろうと思っている奴は皆無に近い。そう、ニートとは『運命的にならざるを得ない職業』なのだ。それはいわば、余りだと思えばいい。25を3で割れば、社会が成り立つとすれば、1余る。それがニートだと思うほかないのだ。そしてそのようなニートがいるからこそ、25÷3の社会が安定している。無理をして、25÷3の無駄を無くそうとすると、8,33333……となり、循環小数となってしまう。これは不安定な社会である。無駄は必然。明日の食事もないものがいて、今日の食事を捨てるものがいる。それは安定のための必然なのだ。無理をして、完璧な分配を試みようとしても、循環小数になるばかりだ。人間が変わらない限り、すべての安定は不可能。
ニートの役割
ニートに出来ることは人間の自重。これしかない。思い上がりすぎた人間の歯止めとしてニートを活用するほかない。とはいえ、その歯止めもわずかなものでしかない。人間は時期にタイムマシンを発明するだろう。量子力学が発展、M理論が証明され、質量の本質も解き明かされ、遺伝子は解明され、究極体に進化していくと思われる。人口惑星、はたまた人口銀河が誕生するかもしれない。ビックバンを再現させてしまうかもしれない。時間と空間の関係はさらに深くまで解明され、光速の本質も根こそぎ解明される。文系君がそれを一般化し、宇宙旅行に時間旅行を行うようになり、遺伝子を操作して、天才を量産していく。もはや人間の進歩を止めることは出来ない。最終的に行き着く真理は恐らくだが、ものすごく単純なものだと思われる。最終的には代数と数字だけで世界が見られるようになるかもしれない。人間最大の神秘『脳』も解明され、この世の謎が消滅する。そして最後の謎に行き詰る。誰が俺たちを創ったのだろう。
ニートの意味などこれっぽっちもない。ニートは果たして何をすればいいのだろうか。ずっと家にいて、空でも眺めていればいいのだろうか。いいや、ニートにはとてつもない使命があるような気がしてならない。運命的に行き着いたところだけに、何らかの使命があるのだ。だが、考えても明確な答えは出ない。ニートはただ生きていればいい。不幸な人間の代名詞になりて、この世で生きればいい。不幸を持つことで幸せを供給出来るなら、それも悪くないだろう。金が尽きても、それで裕福になるものがいるなら、それも悪くなかろう。餓死しても、それで満腹になるものがいれば悪くなかろう。
ニートは本当に脱出できないのか
不可能とはいえない。だが、実際この世に何十万人といて、そのうち裕福な家庭のニートが多いわけではないだろう。(この不景気だし)
それを考えると、ニートを脱出する難しさがわかる。ニートが甘え? ふざけるな。金も入らず、恋人も友人もおらず、空腹に耐えるニートを『はい、やりたいです』と言うマゾが何十万といるはずがない。誰だって金がほしい。労働ぐらい体力的に、シミュレーション的には出来ないわけではない。やろうと思えば、かなり高度なこともやってのけるニーとも多いだろう。だが、これは運命なのだ。ニートはなりたくてなるのではなく、なる奴がいて、必然的になるのだ。
そんなニートを脱出することはとても出来ない。俺の論理では『不可能』と出ている。不可能はまやかしだ。もちろんそうだ。だから、その方法を模索し続けている。だが、ニートを脱出する術は全く見当たらない。外に出ればいいって? 出れないから難しいのだよ。
ニートでも軽度のニートは治りやすい
言うまでもないことだと思う。
ニートである。悪いことは何もしていません
我輩はニートであると堂々と胸を張って生きていくことがニートには必要だと思う。私はニートです。何も悪いことはしていません。人を傷つけるつもりもありません。人の役に立ちたいです。お金ばかりを求めているわけではありません。人々の役に立って、生きて生きたいのです。お金を稼がないことで、人助けをしているではダメですか? 親のすねを齧って、他人のすねを齧らないではダメですか? ほしがりません、死ぬまではではダメですか? なぜ、ニートがダメなのか。社会の安定のための余りで、仕方のない運命的な人種だ。なぜダメなのか? なりたくてなっているわけではない。なぜダメなのか? なぜ、なぜ、なぜダメなのか? 俺たちは誰かを傷つけたことはない。誰かを騙したこともない。差別をしたこともない。いじめたこともない。ただ遠慮して生きてきただけだ。誰かが損をするのが嫌で遠慮し、誰かが不快になるのを見るのが嫌で、目立たないようにし、何事の前でも仕切ったりせず、いつも控えめにしてきた。誰かを蹴落とすのが嫌で努力もしなかった。いつも遠慮し、他人に譲ってきて、最後に行き着くのが、究極の遠慮。それは莫大なお金を他人に譲る、就職していくものたちのために席を譲るなどの人生をかけての遠慮だ。学生の遠慮とはわけが違う。そこまでして、ニートは馬鹿にされ、認められず、まるで、放射性同位体みたいだ。太陽も同じくだ。ただ消費を続け、エネルギーがなくなれば、最後は朽ちる。ニートは太陽だな。ただ放出し、最後は朽ちる。そうか、分かったぞ。これがニートなんだ。
ニートは常に与え続けて、エネルギーを受け取らなかったものたちなのだ。ならば、ニートの役目は決まった。黄昏時まで、爆発を繰り返すだけだ。エネルギーが尽きれば、潔く消えよう。そして、ニートが消滅し、氷河期が訪れるであろう。
行くぜ、最後のニート論
すべての材料が揃った。なるべくしてなったニート。俺たちは何をしなければならないのか。それは爆発し続けることだ。太陽の近くに人は住めない。いや、地球と太陽の位置、軌道こそがベストなのだ。軌道がひとつ違えば、生きていけなかった。つまり、ニートの周りでは人は生きれない。そう、最初から友人やら恋人を求めることが愚かだったのだ。近くに人は住めない。いや、地球と言うベストな軌道にいるものたち以外には弊害でしかない。そんな太陽ニートはほんの一握りの人のために爆発を繰り返すのだ。そして、カロリーがつき、死ぬのだ。死ぬそのときまで爆発をやめてはいけない。それがニートなのだ。ニートは悲壮感で生き抜き、ベストな軌道にいる人間たちを救えばいい。周囲に人間は住めない。友人がいなくてもそれでもいい。むしろ、太陽だ。太陽のような人とは孤独なのだ。周囲には灼熱の炎が存在し、人は近づけない。ある程度離れればようやく恩恵を受ける。ニートよ、そのままでいい。立派だ。何のエネルギー供給もなく、今あるエネルギーを消費し続ける。だが、忘れるな。お前のおかげで、今、救われている軌道がある。お前のせいで灼熱に見舞われたものもいるだろう。太陽付近では生物が住めない。じゃあ、太陽は不要か? 太陽のせいで生物が作られない。地球だけおいしい思いをしている。太陽は消えるべきか? 少なくとも地球人はそうは思っていない。そう。おまいの周囲がいくら迷惑そうにしていても、おまいは爆発を続けるのだ。地球のようにおまいを必要とするもののためにな。おまいが爆発して消える生命とおまいが爆発して、助かる生命。太陽の破壊力を考慮すれば、恐らく、前者>後者だ。しかし、太陽よ、おまいは偉い。そう、地球からすれば偉い。金星からすれば、「おまいのせいで、生命体が生まれない。消えろ。うざい、もっと静まれ」だが、弱まれば、地球は困る。
それが真理だ。これこそがニート論最終形態だ。太陽よ、輝け、少数の人間のために爆発爆発爆発だ。友人がゼロ? 恋人がいない? エネルギーが減る一方? いいじゃないか。それがおまいの役目だ。これを持ってニート論を完成とする。改善の余地が出来次第、次々と訂正はするが、本質はやはりこうだった。
『人は何かを犠牲にしないと何も得ることは出来ない』
これが真理だということは、今のところ覆しようがない。覆したものがいれば、論理を聞きたいところ。まあ、得るという意味のとらえどころによっては覆せる可能性は高いが。
最終章 創作について
手当たり次第
手当たり次第に書いていたから、何を書いているのかわからなくなった。ちょっとまとめると、『人間の心は相対的だから、視点を変えることですべてが変化する。人間の思考力が上がれば、社会は革命によって変化する。思考力は弊害になる。思考力が中途半端でニートになり、ニート論完成』と単純な考え方に基づいて見てきた。
最終的なニート哲学は『ニートは爆発を繰り返すほかない。それによって周囲に人がいなくなっても、エネルギーの限り爆発し続けないといけない』となるのだが、爆発を具体的に見ていこうというのが、最後にしたいことだった。
ニートの力1 掲示板力
ところで、大きな掲示板があって、そこではたくさんのニートで溢れている。たぶん、全体の20パーセントはニートではないかと思う。というのは1日その掲示板にいて、書き込みやスレの消費速度を見ていると、朝、昼と夜では驚くほど変わらないのだ。
もちろん、不規則な仕事をしている人もいるし、大学生などは携帯で講義中に書き込みしているだろう。だが、それにしたって、昼のスレ移動速度を見ていると、ニートは多い気がしてならない。
昼にしても夜にしても、書き込みには非常に面白いものがある。書き込みはタダで見れるのだが、くだらない小説を書いたり、近年まれに見る天才的な書き込みをするものが朝や昼に何度もあがってくる。そして、残念なことに、それらの書き込みが市販の本より数倍面白いので、掲示板の力を知れば、掲示板がエンターテインメントの場になること請け合いである。だが、かなりの思考力と慣れ、タイピング速度、幅広い知識、教養が試される。それらがないと掲示板についていけない。もちろん、スレを3、4に絞れば楽だが、俺のようにスレを50以上見て、一日に200以上の書き込みをすることもあるような奴はさまざまな知識を見につけ、ある程度の思考力が必要である。
まともなものからネタ、煽り、釣りなどさまざまなものがある。まともなものなら『政治家などより優秀なものがいる』し、ネタなら、トップクラスのものを提供してくれるし、煽り、釣り、マジレスは何となく楽しい。頭が悪いものは荒れていると言うらしい。どこかの頭の悪いものが『ネットの掲示板はひどいですね』と言っていた。笑止。
掲示板で楽しいことは、鍛えた思考力、知識を活用した書き込みだ。まともな議論では高次の展開をしているところがたくさんある。(釣り、煽りは多いが)
これらのネタなどを楽しむユニークなコミュニケーションだ。そして、その楽しさを知れば、病み付きになる。ただし、まともな人間はネタや煽りに過敏に反応してしまいがちで、マジレスすると、馬鹿にされる。(わざとマジレスするものもいるし、俺自身、たくさんしている)
慣れが必要である。また好みも分かれる。俺は『本格的に議論をしている場』や『ネタや煽りが多い文芸創作板のスレ』が好みで、今はそこが主流だ。特に文芸創作の場は面白い。ネタや煽りが散在しており、利用者は比較的頭がいいと思われ、レスの内容が面白い。ここではワナビがたくさんいるのだが、彼らの場合、比較的優れた思考力を持っているが、流行や読者の感性に多くを委ねざるを得ない小説には不向きな脳の持ち主といえる。
だいたい、ここにいるワナビというのはまずまず頭がいい。それは色々なところの書き込みやFランク大学の卒論を見て比べてみれば分かる。
読者の感性というと中傷的だが、いい判断材料がある。俺が面白いと思ったもの(ミステリなどが主流だ)は、妹は糞といい、妹から借りたライトノベルは有名どころだが、全部糞だった。(唯一けっこう読みこめたものがあったが、7巻まで借りると、すさまじい劣化に驚いた)
つまり、読者の思考力や持っているものによって、『感想は変わってくる』のだ。だいたい、俺ほどに妄想と思考を繰り返していると、一般読者がすごいというレベルが、『数年前に通り過ぎたレベル』に値するのだ。また執筆をしているものはアイデアの分解、構築を目まぐるしい速度で繰り返しているから、『あーあ、俺の考えていたのと全く同じだ』となるから、どれもこれも糞になってしまうのは至極当然だ。
小学生に翻訳本格ミステリを見せてみると、『うえーん』と言うのと同じで、持っている感性などによって面白い小説は変わってきてしまう。文学を面白いという俺の親から、某エッセイと小説を借りたが、おっさんが仕事をするだけの話だったので、糞だった。逆に俺の面白いと思ったミステリを貸すと、イマイチだった。難しいと親は言っていたが、俺からすれば、親から借りたもののほうが圧倒的に難しかった。
すべては思考力や感性で変わるので、小説を書く場合は、いかに『読者層の最も広いところの読者に近い感性を持っているか』が問われていると考えるべきだ。
そういう点で、この板にいるワナビは実に損をしている。一般人から見れば、ひねくれているというのだろう。だが、論理的に言って、まともだし、筋道の通った発言をしているものが割合多い。糞納得できない評論やエッセイを見るたびに、つくづく思う。哲学書など読むと、どう考えても、論理的におかしいものがわんさか出てくる。
まあ、そういう人間のおかげで、その板が面白いのだが、まともと言われている人間だけが掲示板を使用するようになると、一気につまらなくなるだろう。
単純には、一般読者に受けている作品を研究すればいいのだ。つまり売れている作品だ。不思議と受けのいい作品というのは俺の感性に合わない。『ドラゴンボール』『デスノート』などは爆発的ヒットだが、俺にはどうしても面白さが理解出来ず、『ザ・シェフ』『Y氏の隣人』などは何十回も見直してしまうほどだが、反響がドラゴンボールほどないというより売上はかなり差があるように思う。俺的には後者の作品群のほうが圧倒的と言うか、0と100ぐらいの差で、面白いが、一般受けは前者の作品群だ。
ただ、反響あって、面白いものもある。『ドラえもん』は一億部の傑作だが、俺も面白かった。無駄がなく、見やすく安定している。他にも『こちかめ』や『ドラゴン桜』など反響が強くて、面白いものがある。とはいえ、爆発的ヒット作と比べると、単巻売上はさほどでもないので、比例はしていない。
文学では特に顕著。一応たくさん本を読んだのだが、別に難しいわけでもなかった。600万部のものやらノーベル文学賞などの作品があるが、どれも、話はたいして盛り上がることもなく、文章も取り立てて騒ぐほどでもなく、小説の神様なんてとてもじゃないがいえないものばかりだった。神様なら読者をひきつけて、離さないぐらいの話を創ってくれるから。それもこれも感性や知識や何かの問題なのだろうが、どう冷静になって、話を書き出してみても、どうでもいい話にしかなっていない。いや、マジで冷静になって話しの骨組みを考えたさ。どこにでもありそうな話のひとつでしかないのは事実だと思うのだが、昔はあれぐらいですごいと言われていたのかな。昔からすると、ずいぶん小説も進歩したのだろうか。とはいえ、最近のものもどうでもいいものが増えすぎている気がする。ネット小説でなんかすごいのを前に見つけたのだが、すごいインパクトだった。(何か非道徳的だが、それを納得してしまう論理を展開し、真にビックリなバッドエンドに突入する)それぐらいインパクトがほしい。そういうものが一般受けしないのは分かっているが、一般受けするレベルが、低レベルとなってしまっているものが文芸創作の場にはたっぷりいる。そういう人はもうプロになる必要がない気がする。ネット小説のほうがヤバイものが多いから。書籍化できないヤバイものも書き放題だ。そういうものこそ、真に読みたい。ぜひ紹介したいのが、某ネット小説で、ひたすら暴走している話なのだが、それを見つけたら読んでみるといい。心情描写が論文調なので、読むのに思考力がやや必要だが、この非道徳的な暴走は血湧き肉踊る展開だ。
ネット小説か掲示板書き込みしかもう読まない
単に金がないだけだったのだが、売ってある本はどれもこれもお約束の中で展開されるものだから、読んでもだれるだけだと気付いた。一般受けするということは、綺麗なハッピーエンド系ばかりなうえ、思考力が低めのものを対象にしている。そういうものはどれもこれも通り過ぎたレベルにあるものでしかない。それに比べて、ネットの書き込みなどは負の感情がスパイラルになっており、天下一品の煽り、釣りが散在しているうえ、ネット小説は、やはりお約束のカスばっかだが、稀にヤバイ物がある。
そういうヤバイものを見つけ出す手段はいくらかある。キーワード検索で絞っていくとすぐにヒットする。まあ、ヤバイので一般受けしていないが、そこらへんのどうでもいい作品と違って、『飛んでいる作品』ばかりだ。
ヤバイ作品をいくつか見ると、『俺は決めました。これから全裸で外に出る。何が起こるかは分からない。だが、俺と言う人間がここから第一歩を踏み出すのだ。すべてが変わる瞬間だ。女がいれば襲ってやろう』みたいなめちゃくちゃやばそうな作品なのだが、ifという創作の利点を前面に打ち出したスリルのある作品ばかりだ。
正直言うと、99パーセントのネット小説は俺の感性に合わない。話題だと言っているので、どのレベルにあるのかと思えば、よくありがちな、二次選考や三次選考落選作品だということに気付く。そういうのは中途半端作品と呼べる。一般受けする可能性を持ちながら、いまひとつというわけだ。そうではなく、「なんじゃこりゃうひー」となるような作品を見たいわけで、それは全部表舞台には上がってこないことで有名だ。
ちょっと飛んでる作品と言うのが実は一番面白い。
話は横道にそれたが、ニートはこの掲示板で書き込みをしていればいいと思う。少なくとも俺はこのニートの書き込みを楽しんでいる。遊園地に行くより楽しいことをタダで提供してくれるニートはまさに太陽だ。おお、太陽じゃねえか。すげーよ。
飛んでいるブログ ニートのブログは面白し
言っておくと、99パーセントは糞です。糞と言うのは要するに俺の感性では楽しくないと言う意味だ。たぶんだが、どんなすごいものでも、実際、それをすごいと思っている人は1パーセントぐらいしかいないと思う。1パーセントでも100万人だ。100万部売れた本があったとして、半数がミーハーで、その半数が糞といい、残り半数が一人で何冊も買って、売上を伸ばしたりしているから、すべてをひっくるめて、「この本すげーよ」と言う人はまあ5万人といないだろう。売るという意味ではこうしてミーハーを利用するのが得策なのだろうが、糞とつけている人が山ほどいるのは事実だろう。古本屋に溜め込まれている古本ほど悲しいものはない気がする。
そこで、ブログもやはり合うか合わないかは人それぞれだろう。合うものは100に1つしかない。俺が見ているブログは13個。そのうち2つはどうでもいいと思っている反面、参考資料に利用させていただいている。執筆しているとどうしても、ある専門分野の知識を若干使う必要が出てくる。その人は職人だからかなり役に立っている。
芸能人のブログは99パーセントどうでもいいことをどうでもいいように書いている(ブログ活動に熱心さを感じない)だけなので、ほとんど読まないが、一部精力的で面白いものがある。しょこたんのブログなどがそれにあたる。それにしても、芸能人とは思えないほどオタク文化に精通している。惹き込まれた原因になった作品は何なのだろうか。
そして、一般人のブログの中で、ニートのブログがいくつかある。中には神ブログというものがある。文章がただひたすら面白い。何という毎日を送っているのだろう。というか、あんたは一体何者だ。何でそこまでニートを誇れるのか、敬服する。かなり勇気付けられることもある。悲壮感がすごい。もうすべてを捨てて、オタク魔神になることを決めました。とか言い出すと、あんた、やべーよと言いたくなる。
だが、そういうのこそが真に面白い。他人から見れば不幸だ。不幸ばかりが綴られる。これこそが幸せを与えるブログ。太陽だ。
「おい、あんたのおかげで俺は今頑張って生きているぞ。あんたのブログに書かれていた日記は壮絶だった。引きこもりは辛いが一緒に頑張ろうぜ」と言った感じで、100億の言葉より、一人の仲間の素晴らしさを理解した。
ブログではただ激動の毎日をつづり、死にそうだとか、写真で『俺のブサメン』とか言ってみたりするものは確かに太陽の仕事をしている。俺たちに生きる勇気を与えてくれる。究極のビタミンDを供給してくれる。『あんたが生きる辛い日々で確かに救われた人がいる』と俺は言いたい。
ニート、不幸なるプライベート
プライベートをつつがなく話してくれる人がいる。すごく勇気付けられる。「俺の挫折なんて挫折とも言えないレベルだな」と言うことに気付く。
これまで辛いと思っていたことが、へでもないことに気付くとき、人間は幸せを感じる。そして、そのプライベートを話してくれる人は太陽だ。プライベートはなかなか話せない。なぜなら、『人は失いたくないものを持っている』からだ。プライベートを話せるということは『どうにでもなれ。もう人生捨てたよ』という人か、『特に過去に恥ずかしい経験を持っていないもの』か『成功者が失敗談』を話す場合に限られる。
だが、現在進行形で辛いものが話してこそ、真に意味がある。俺だけではないということを再認識させてくれる。太陽だ。すげーよ。こんなに人を幸せに出来るんだから。
挫折挫折挫折
挫折回数は50回では少ない。ちなみに俺はだいたい20回ぐらい。一般市民からすればこれでも多いだろう。
挫折と言っても細かく分ければ、30回ぐらい、大雑把に行くと、10回ぐらいだ。
『習い事5回』『大学受験2回』『小説投稿2回』ぐらいか。大雑把に言ったから、まあこんなもんだ。ちなみに一生懸命やったものは皆無。努力すら完璧に出来たことはなかった。まさにクズクズクズと言うわけだ。そんなクズだからニートになってしかるべきだが、俺は要領が悪かっただけなのだろう。だいたい、普通の人はこんなに挑戦しないだろう。まあ、適当にやっておくかぐらいに思う。俺はすべて全力だ。全力で当たって、歯が立たず、中途半端に終わっている。つまり壁に激突して、壁はびくともしなかったわけだ。そして動かない壁に恐れをなして、逃げ出したのだ。別の壁なら何とかなると思い、ぶつかるが、どの壁もびくともしない。また逃げる。そして、気付くころには三百六十度壁に包まれていた。終わった瞬間だ。逃げることはもはや許されない。
だが、ぶつかってもぶつかっても壁は割れない。そういう人間こそが挫折者だ。たかだか一回失敗したぐらいでは挫折者は名乗れない。しかも一度でも何か結果を出せば、それは挫折ではない。例えば、大学受験をする。偏差値57の大学なら上々だ。それを『T大落ちたから挫折』なんて言わせない。挫折とはT大を目指して、偏差値46の大学に落ちたというものを意味する。しかも俺のことだ。しかも、今は44まで落ちている超底辺大学だ。そこにすら、かすりもしない俺は人間として能力が全く欠如している。能力がない。これこそが落ちこぼれだ。のび太にも二つほど才能がある。普通の人は特別能力がなくても、ある程度能力がある。俺はすべての能力が件並み低いのだ。おまけに魔王にきびは圧倒的に強く、ルックスは件並み低かったのだが、さらに低下してしまった。しかし、にきびを作る才能はあったのかもしれない。何せ五百円玉のにきびを作ったのだから。しかし、それは能力ではない。俺は作りたくないと思っていたのに、出来てしまったのだ。
さて、障害者ですら、外に出る能力があって、生活している人はいる。画家になった人もいる。俺はその障害者よりさらに能力が低い。もはや人間最低ランクかもしれない。類稀に見る落ちこぼれの代表的存在だ。マジですべての能力がのび太をさらに下回っている。総合点で俺以下の人間は実はいないのかもしれない。なお、俺のステータスは
友人0 恋人0 何かに挑戦した回数50以上 結果を出した数0 天性のにきび面 天性のひきこもり 天性の要領の悪さ(何かをやっても、まともなものに仕上がることはない。何度もやり直しをさせられ、先生が「まあいいわ。これで提出しな」と呆れてしまう) 天性の不器用さ(家庭科でエプロンを縫うと、俺だけミシンの糸が変な方向に行く。まともな作品が出来たことは未だかつてない) そうか、俺の場合、天性をこういうところに使ってしまったのか。なるほど、俺はまさにニートになるべくしてなったニートというわけだ。ニートこそが俺の取り柄なのだ。何だそれ。何だそのめちゃくちゃは。すべての能力と引き換えに俺は天性のニートやにきびを手に入れたのか。
天性の落ちこぼれ
俺は負けず嫌いなので、たくさんのことに挑戦した。だが、天性の落ちこぼれでのび太をはるかに下回るので、結果は0 劣等感だけが募り、ひねくれざるをえない。ひねくれるのは劣等感を紛らすための自己防衛本能だ。これを否定すると、劣等感は件並み高くなる。負けず嫌いというのはある程度能力があるものならいいステータスだが、落ちこぼれが持っていても、劣等感を増やすものにしかならない。なお、俺は天性の落ちこぼれというが、その理由を50回以上の挑戦で、結果0 簡単な結果ですら出なかった。こととしている。誰でも、これだけやれば、小さな結果ぐらいは出る。俺は皆無なのだ。
まさに落ちこぼれの代表格である。こんな奴が劣等感を癒すことが出来たのは、涙もろかったからだろう。泣くと劣等感や憎悪が緩和されるのだが、そのおかげでギリギリラインで致命的な発狂を食い止めた。(軽度の発狂は2回ある。自殺未遂2回だが、これもかなり軽度だった)
こうしてニートに何とか行き着いた。ニートに行き着くことですらもはやギリギリだった。とにかくにきびが強かったというのが、俺の青春時代の思い出だ。本当に強かった。こいつはもう圧倒的攻撃力と知恵を持っていたな。落ちこぼれに上乗せするように出来たから、俺はもう死ぬか生きるかのギリギリラインで高校生活を過ごした。高校生活が楽しい? 馬鹿言え、生きぬくことで精一杯で、楽しさを見つける余裕はなかった。
小学生ぐらいは落ちこぼれでもそれなりに楽しんでいたが、中学校以降は楽しい思い出なんて皆無だね。ていうか、リア充が許されるのは小学生までだから、それ以降は、生きるか死ぬか、生涯孤独生活開始といったところ。幸せは他人に譲り、後は降り注ぐ不幸と劣等感を処理することで精一杯。もうこんな感じで、生きていくのも嫌だ。もっとまともな能力を求む。天性のにきびとか天性のひきこもりとかそういうのはいらんから。
これはガチだ。でも、これが普通なのかね。いや、そうは思えない。こんな辛いのだったら、まともに学校生活が送れるはずがない。俺はギリギリだったよ。マジで。予習復習?
ふざけるな。そんなものは健全な高校生がやれることだろ。俺らは溜息と劣等感で勉強なんて出来なかった。明日の不安を拭うために、神様に『明日、無事終わるように』とお願いしてたよ。教室にいる間はずっと恐怖を感じてたよ。トイレに行きたいのも我慢して、冬場は死ぬかと思ったよ。にきびは治らんし、頭ににきびが出来たら、コンボで毛は抜けるし、周囲は笑うし、何も知らん奴は平気できついこと言うし、これ死んだほうが楽じゃねってなるぜ、普通。
お助けキャラなんて架空の世界だけだし、苦労なんてないよ。苦労じゃなくて、地獄って奴さ。苦労というのは余裕があるときに使う言葉さ。苦労なんて、幸せな奴が言う戯言だ。俺らは苦労とか関係ない。明日、生きれるか、辛い早く終われ、我慢我慢で生きるだけ。友達を作るとか、そういうのも論外だ。そんな余裕はない。おぼれないようにsうるのがやっと。女の子なんてもっと論外だ。
そのうちいいことが起こる? ないない。もう暗闇が最後まで続いているね。発狂寸前だったし、何をしても、結果は出ない。落ちこぼれだからね。
そりゃ、ニートになるしかないって。
マジでそんなだから。俺がどうして不幸を強調するかわかってほしい。楽しいことをしている間にこんなヤバイ奴らがいることを分かってほしいんだ。これを読んでいるのにどこかの教師がいるとしたら(たぶんいないだろうが)子供の中にはこんなヤバイ奴もいるってことを分かってほしい。当たり前のことが当たり前に出来ず、毎夜、何デシリットルも涙を流して、何とか劣等感を癒して、ギリギリの戦いを毎日繰り広げていることを。成績が悪いのはそのためなんだ。精神状態が普通な幸せな人は何の迷いも不安もなく頑張れるけど、ギリギリで落ちこぼれの人は勉強もろくに出来ない。予習とか復習とか簡単に出来ない。
俺だって、負け続けるわけにはいかない
俺は落ちこぼれだ。能力は全く欠如している。そんな奴が何か頑張って結果を出そうと思うなら、能力に左右されない『数』で勝負するしかないだろ? だってそうだろ。質で勝負したって、勝てない。でも数なら『どんな糞でもやった数だけしっかり溜まる』から。俺のような落ちこぼれが結果を出そうと思ったら、数で勝負するしかない。それで、俺が怠けていたわけではなく、必死に生きていたことを証明するしかない。数を残す。生きたことを神様に示せればいいさ。もうそれだけだ。落ちこぼれは『質』を考える贅沢が許されない。数だけを書いて、一歩ずつ貯金していくしかない。そんな人生しか歩めないのが、落ちこぼれ。落ちこぼれは何をしても質が伴わない。しかし、努力は出来るし、数は残せる。俺はもう数だけに掛けるしかない。落ちこぼれのままでいい。だが、生きた証を確かに神様の目に留めておきたい。
俺の人生のゴール
落ちこぼれが生きた証を残すには『日本一』にならないといけない。そのために、834冊を書ききる。俺に技術はない。何も知らない。お金も限りがある。後何年生きられるか分からない。落ちこぼれが普通の人間より長生きできるはずがない。だが、残された少ない時間で超える。834冊。書くだけなら誰でも出来る。けれど、一定の物語を作りながら834冊を書くのは割合ホネがいる。それをやり遂げて、努力の結晶を神に捧げる。そうすれば俺の人生は終わる。死んでもいい。
ありがとうございました。まだ、調子が戻りませんが、加速度的に調子は上げていきます。この人間をまたよろしくお願いします。




