A1
相対性1
俺は最初、人間は絶対的だと思っていた。進むに適した道があり、みんなが『その道』を進み、みんなが『同じ比較によって幸せ』を感じるものだと考えていたのだが、それがどうも違うように思い出したのが、中学生の頃であった。
学校はみんな平等だ。授業も宿題もみんなに平等に課せられている。それなのに、どうして感じ方に差が出てくるのか。人の差というものが出る理由を深く考え始めた。
小学生のころは人間には模範となる道があって、それに近づくようにするのが人間として当たり前だと思っていた。事実、小学生の頃は、『みんなも彼を見習おう』とか、そういうことを言われてきた。いい行いをした人がいれば、褒められて、『みんなも見習おう』といった感じだ。
俺は小学生の頃、リア充だったので、それをおかしいとは思わなかった。だが、それは平等不平等を考えなければならないほど、不幸を感じていなかったからだ。
中学校に行くようになり、思考力が上がり始めると、自分の浅はかさや無能さを悟るようになり、比較というものが痛いものとなってきた。明確に実力差を突きつけられ、劣等感に打ちのめされてしまった。
問題は、なぜ劣等感に打ちのめされてしまったのかということだ。その答えはこうだ。
『思考力が標準以上であることを前提とし、人間が絶対的であると考えていたために、比較される状況が人間の差を明確につけてしまうものだと思い込んでしまったため』
つまり、テストの点数などが『人間の価値』を決定付けるものだと思ってしまったわけだ。人間が絶対的だと教え込まれてきたからこそ、こういう場面で劣等感を感じてしまった。だが、人間が相対的だということに気付けば、そんなことにはならない。
人間が相対的であれば、『テストの点数』は『ステータスのひとつ』でしかないからだ。テストの点数で劣っていても、他の分野で勝っていれば、五分五分なのである。
そのような相対性を現在の教育では教えていない。いいことである。相対性に気付かなければひとつのものさしで判断出来るし、『学力』だけで、劣等感を支配できるからだ。だが、それによって、『敗者』は思考力を持たなければ、『劣等感』を癒す余地を与えられないという危険な状態を作ることになってしまう。
俺は教育を『学力の向上』のものさしで判断することには否定的である。なぜなら、学力という能力はすぐさま『専門的能力』に直結出来ないからだ。
そこで、『相対性』を教える教育が重要だと考える。相対性を教えれば、思考力によって、逃げ道も容易に作り出せる。教育では『逃げる』という言葉は否定的に考えられるが、逃げることは重要である。熊に出会えば逃げる。闘うのは武器か能力がないと無謀である。逃げることも重要であることが分かる。逃げるためには『思考力』が必要である。逃げるのが上手な人は思考力が高い。逃げるのが不得意な人は『思考力』が欠如しているか、『性格』の影響で、範囲をかなり制限されている可能性がある。
相対性を考えれば、絶対的な場合と違い、明確な『敗者』が出ないし、明確な『不幸』もない。故に人生の勝利者というのが存在しないことになり、凶悪犯罪を起こす引き金になっている『劣等感』を溜めないことを助ける。
ポイント
1、教育に必要なのは絶対的な基準ではなく、相対性の考えを一般化すること
2、相対性を持ち込むと、明確な敗者が出ず、劣等感が溜まりにくくなる
3、相対性を持ち込む欠点は扱う幅が広がり、『統率力』が減少するところ
相対性2
相対性とは具体的にはどういうことなのであろうか。
『何かを決定する基準』が個々の立場で変わってくるというものだ。だから、『法律』が相対的だといけない。アインシュタインはあまりに衝撃的な『相対性理論』を残した。これは全世界で最も衝撃的なものだったと俺は考えている。人類の歴史で『相対性理論』ほど衝撃的な事実はない。神の配下にある法則が『相対的』だったのだ。時間は平等だ。みんなに同じだけ流れる。ずっと俺はそう思っていた。中学生のとき『相対性理論』を知り、俺は世界の革命を見た気がした。時間は平等だと思っていたのだ。『時間』という圧倒的支配力を持つものでさえ、『相対的』だという事実。何ということだ。こんな馬鹿なと思った俺はそれが真実であることを確かめるために、色々な書物を探り、本当であることを確かめた。
話はそれたが、法律が相対的だと『統率力』は一気に下がる。だが、『精神異常者』は罪の軽減が行われるなど、じわじわと『相対性』が出現し始めている。それはダメだ。未成年にも刑事責任を課し、絶対的に、人を殺せば、殺された人が身内だろうが、他人だろうが、『死刑(医学などの人体実験が適切であろう。首吊りは社会への利益がまるでないので、やめるべきである)』。傷害事件は治療費の700倍の損害賠償を課すこと、万引きは損害の120倍の損害賠償を課すこと、交通事故など、過失で人を死なせると、『終身刑』という感じに絶対的に決めなければならない。そして、その中で『人間の相対性』を考える。この相対性は法律の内部で考えられるものである。
例を出すと、従来の絶対的方針では、『テストの点数が悪かった者』は『学力を向上させる』ことでしか、劣等感を拭えない。そして、それを克服すると、『また新しい成績不振者』が現れる。ものさしが絶対的ということは『明確に犠牲者』を出すことに繋がる。
逆に『相対的』であると、『テストの点数』が悪くても、『その分野』で悪いだけであって、『人間として差が出るものではない』ということになるから、明確に犠牲者が出るということはない。
学校の成績が『相対評価』から『絶対評価』になったが、頭の悪い変化である。たとえ、絶対評価としても、『平均点』が発表されるから、優劣の差がつき、劣等感を覚えるし、『勉強』は原則として『大学受験』のために必要になるものだ。大学受験は『相対評価』だから、どのみち、『相対的』にしかならない。
また、学力が必要になるのは大学受験のときだけではないと主張するものがいる。確かにそれはあるが、そのものに『では、他にどこでどのような働きをしているか具体的に述べてください』と訊くと、誤魔化すことしか出来なかった。
それはつまり、学力は『大学受験』に必要なステータスということなる。学力とはそのためだけにあるのだ。だから、『大学受験』を視野に入れない『学力』はただの飾りである。なお、勉強を通して、以下略……というものがいたが『なぜ、国語や数学を通して、以下略なのか』という話になる。別のものでも代用は出来るはずだ。だから、大学受験のための『学力』に間違いはない。
『学力低下』が問題になっているというが、学力が『必要なもの』以外に学力は不要なので、統計を取るときは原則として、『受験生』だけに的を絞らないといけないし、『学力』が下がったことで、何か問題になることはない。なぜなら、いかなる高等科学も学問との関連性はわずかしかないし、社会発展と学問の関連性も薄い。
問題なのは『学力』の低下ではなく『真面目に仕事をする人』『規律をきちんと守る人』『人付き合いが上手、社交性のある人』が少なくなってきたことだ。それは『学力』との関連が薄い部門である。
学力を基準にすれば、統率力は上がるが、『思考力』を欠如した『統率』では『劣等感』が明確に存在することになり、『犯罪』は劇的に減少しない。
ポイント
1、相対性を考えると、明確な犠牲者が出ない
2、絶対的基準は不要である。理由は、基準が絶対だと、社会の悪となる劣等感を確実に存在させることになるから。
相対性3
相対性を考える利点は『劣等感』が溜まりにくくなる点だ。だが、相対性を現す環境は何も教育分野だけではない。娯楽や食などでもある。
好き嫌いというのは相対的である。『人間の嫌いな食べ物』を絶対的に決められない。当然である。ニンジンが嫌いなものと好きなものはどちらも存在するからだ。ではにんじんとねぎを比較して、『どちらがおいしいか』を決められるだろうか?
ある人は『ニンジン』だろうし、ある人は『ねぎ』だろう。このように、人間の味覚は相対的だから、『絶対的にどちらがおいしいかなんてことは決められない』のだ。
ということは、『映画賞』や『小説賞』も『すべて、ある人が見た評価』なのだ。だから、どの作品が『優秀』かなんかは決めることが出来ない。ニンジンが大好きな人、ニンジンが大嫌いな人、どちらもいる。ある作品を見たとき、『すごい秀作』と感じる人もいるし、『すごい駄作』と答える人もいる。だから、『作品の優秀さはそれを決める人によって、変わってくる』ので、『映画賞』を取った作品が『優れている』とはいえない。
しかし、国語には『国』が『優秀』だと決めたものを教科書に載せている。馬鹿げている。それがいいかどうかは『人』によって異なる。それを学問にする神経が理解出来ない。内容を理解する練習(理解力、つまりは読解力の向上)とうたっているが、それならば、『論文』にするべきではないだろうか。ともかく、相対性を考えると、『世の中』にはおかしなことがたくさんある。
ポイント
1、おいしい食べ物や優秀な作品を絶対的に決めることは出来ない
2、国語は『論文』にすべきである
思考力の『メリット』と『デメリット』
思考力と言うと、『何に対する思考力』かで分類される。人間を考える思考力を単に『思考力』と呼ぶことにする。数学の思考力は『数学的思考力』、化学の思考力は『化学的思考力』などのように単に思考力とは分ける。
思考力が高くても、社会ではほとんど役に立たない。むしろ、弊害になる。社会力をXとするし、お金をm、協力者をhとすると、
X=kmh(kは定数)
が成り立つ。社会力とは社会的地位を意味している。そして、社会で生きていくためには、一定量の『社会力』が必要である。お金がないと生きていけないし、ニートとしても、協力者がなければ生きていけない。だから、『社会力』とは人間社会ではとてつもなく重要なものになる。そして、社会力を上げることが『人生』とも言える。
思考力の有無が『社会力』を左右しないことは数式から伺えよう。お金や協力者の単位は相対値だから、当てはめる数値はやや複雑になるので、考えないこととする。
思考力があっても、『社会力』は上がらない。お金と協力者だけが『社会力』を決める。(反論の余地はあるが、あくまで大雑把に考えた場合だ。ちなみに愛情やら友情やらの抽象的なものもすべて協力者に該当する)思考しても、お金にならないし、協力者にならない。
そして、多くの社会人が『協力者の主軸を企業』にしている。就職活動とは協力者探しだ。そして、協力者は『お金』を労働力と引き換えにくれる。ということは『協力者』がすべてを決定付けることになる。協力者の質を上げると、お金も上がるというわけだ。
そして、思考力というのは協力者を得ることに対して、効果を発揮するものだ。
だが、残念なことに、思考力が低くないと、『企業』を協力者に出来ない。思考力が高くなると、企業を相手にしにくくなる。だが、思考力があると、『起業仲間』などを見つける可能性を獲得できる。だが、それはかなり高くないといけないし、運に近いところもある。なぜなら、起業仲間を集めて、起業しても、会社を儲けさせるためには『多くの消費者』を協力者にしないといけないが、消費者の多くは『思考力が低い』ので、『有名なもの』をいいものと考える。目の前に二つの本があって、『有名作家』のものと『無名作家』のものがあれば、内容のよさを考慮することなく、有名作家のものを取るだろう。それと同じで、いくら優秀な人材が会社にいても、知名度で負けていると、『もはや思考力ではどうしようもない』のだ。もちろん、思考力が並外れていれば、『その壁を越えることも出来る』が、中途半端だと、越えられず、倒産、自己破産となる。つまり、思考力とは『低い』か『極めて高い』のどちらか以外では、役に立たないのだ。
中途半端に頭がいいということは『社会』で生きるのが難しいということになる。
企業が現れた。頭がいいものと悪いものとでシュミレーションをしてみるので、見てほしい。
目の前に『企業A』が現れた。企業Aの面接!
『当社の志望理由は?』
頭の悪い人間(以下馬鹿)
『これまで、私は金融のことを勉強してきました。金融のことを活かしたくて、職を探していたのですが、当社は○○という制度を取ったり、○○の預金システムを導入していたりと私の能力を活かんなく発揮出来ると思ったからです』
頭のいい人間(以下天才)
『当社のことは前々からリサーチさせていただきました。ずいぶんあこぎなことをされているようでした。あまつさえ、不正融資の証拠を二つ三つ見つけました。こんなことではいけませんね。私がここに入ってこの汚い悪習を取り除き、必要以上の利益を求めない利用者が安心出来る会社にしていきたいと思います。つきましては入社後、すぐさまこのような方針を社長に要求する所存であります……』
思考力があると、人に使われることを嫌い、自らの意思で何かを変えようとする。だが、企業は真面目に働く『犬』がほしいのであって、マニュアルを逸脱している秩序を乱すものはほしくない。思考力が低いと、相手に使われることを自然と受け入れられる。一般論に賛成し、上司も扱いやすい。
『自己PRをお願いします』
馬鹿
『大学時代は○○部に入り、積極的に活動してきました。部活を通して、何かをやり遂げるためには人々が協力しあうことが必要だということを知りました。そして協力の難しさも知りました。しかし、部活動を通して、これらのことを克服する素地が出来ました』
天才
『ある物事をやるときに、ある到達点を想像することは出来る。想像出来るということは程度の低いことだ。そういったことをやる価値は皆無なので、私は特に何かをしたわけではありません。私は自分の能力を発揮する場を探していました。手段を見つけることは、ありきたりのことを達成するより重要であると思います』
馬鹿は一般的に言われていることをそのまま言う。天才は一般論でも持論に反するなら断固として拒否し、程度の高い点を目指そうとする。だが、能力が欠如していて、実際に到達できない。
企業は『思考力が高いもの』を欲してはいない。頭は悪くても、聞きわけがよく、会社の方針に従うまともな犬を欲している。ご主人に逆らう犬は不要。
なお、女の子が相手でも、思考力が高いと『話が論理的になる』ので、敬遠される。思考力が低い真面目な相手か金持ちの相手に女の子は好意を感じる。
ということは、思考力と言うのは『低め』のほうがいいということだ。もし、社会人の思考力が上がってくると、『企業』の大半は倒産する。思考力が上がり、程度の高いストライキや非買運動を大規模に展開されると、企業は赤字になるからだ。
特に頭がいいものは『儲かっている企業』をいかに地に落とすかということも考え始める。一人だけなら問題ではない。だが、多くなると、世の中が荒れだす。犬も頭が悪いうちが可愛い。偉そうになってくると、もはやペットとして価値はない。
普段、蟻を馬鹿にしているが、もし、蟻が人間の知能を持ったら、人間は『数日』で壊滅する。なぜなら、人間は蟻に対しては無防備だ。だから、蟻が暗躍すると、楽に殺されるのだ。そういうわけで、人間が賢くなると、『頭がいいものが集まり、大規模なストライキ』などをするようになる。思考力がないうちは『行動力』もないからそんなことはない。
思考力と行動力は比例している。俺の周囲には思考力が低いものしかいなかったために『話のつじつま』が合わず、行動が起こせなかった。もし、『人造人間』が作れる時代になり、『その人造人間』を教育出来るなら、俺は自分の軍団を創りたいと思っている。人間の力とは数が集まって初めて発揮される。思考力の低いこの人間社会では『一部の企業』が殿様商売をして、経済格差など一向に埋まらない。
これを書いているときはちょうど、『衆議院選挙』のニュースがやっている。親は政権交代かどうかで盛り上がっているが、どこが与党になろうが、『自分』は変わらない。政治家が変わっても、『自分自身』が変わらないと意味がないのだ。
ポイント
1、思考力は社会では低いほうがいい
2、国民の思考力が上がると、経済格差は埋まる
3、思考力が上がると、国が荒れる
4、政治家が変わるより、国民が変わって、行動したほうが、国は劇的に変わるが、行動力は『思考力』が高くないと上がらない
思考力が高いと社会性が低くなる理由
どうして、思考力が高いと社会で生きにくいのか。理由は簡単である。『国民の思考力』が低いからである。
思考力と言うのは『コミュニケーション』において重要な鍵を握ってくる。
『食の話』
馬鹿と天才
馬鹿『ねえねえ、ラーメンってやっぱしょうゆだよな?』
天才『それは人によって変わる。しょうゆが好きなものと嫌いなものどちらもいる。俺はしょうゆが好きだが、嫌いなものもいるから、絶対的にしょうゆがいいとは断言できない』
馬鹿『まじ、ぱねえ……』
馬鹿と馬鹿
馬鹿『しょうゆだよな?』
馬鹿『塩も悪くねえぜ』
馬鹿『塩とか味ねえだろ』
馬鹿『だからこしょうをいれんだよ』
馬鹿『ブラックか?』
馬鹿『いや、塩だから、普通のこしょうのほうがいいんじゃね?』
天才と天才
天才『しょうゆラーメンというのは比較的人気があるようだな。市場も拡大している。塩はさほど伸びてこない』
天才『やはり、日本人の味覚にしっくり来るのがしょうゆなんでしょう。うどんもしょうゆが原点だし、そういうものがおいしいとインプットされているんでしょう』
天才『今後、塩ラーメンが発展するためには、どうすればいいですかね。インプットされた味をリセット出来る方法があるかどうか』
天才『難しいと思います。子供は親に食べさせてもらいます。親はすでに食文化を築いていて、しょうゆの影響が強い』
天才『塩とラーメンの相性をさらに高める方法が必要ということか』
天才『塩ラーメンを利益に結び付けるためにはね』
『ペットの話』
馬鹿と天才
馬鹿『俺、猫派、お前は?』
天才『俺も猫が好きだが、猫を飼うには環境と相談しなければならない。今はマンションに住んでいるから、犬よりは猫のほうが飼いやすいが、密集住宅に引っ越すと、猫も飼えなくなってしまう。そうなると、必然的に犬派になるね』
馬鹿『まじ、ぱねえ……』
馬鹿と馬鹿
馬鹿『やっぱハムスターサイコー』
馬鹿『がちで可愛い。これやべえ』
馬鹿『名前はハムちゃん』
馬鹿『カワユス。俺はムスカ』
馬鹿『テラ、ラピュタ!』
天才と天才
天才『猫を飼う場合、住宅街だとうろつかせるわけにはいかない。そうすると、室内でしか飼えないが、それでは猫のストレスになるでしょう』
天才『猫をしつけるのは不可能に近いというね。うろつくスペースを庭に造るとどうでしょうかね。ストレスを感じないレベルに』
天才『その場合、猫にとっては自由を認識させないといけないわけだから、囲ってしまうとダメなんですよね』
天才『猫もそういうことを感じるんでしょうかね。今度、獣医と話をしてみようと思います』
天才『それがいいでしょう。でも、室内用の猫も増えているという話ですよ』
『学力低下の話』
馬鹿と天才
天才『学力が低下しているね。どう思いますか?』
馬鹿『どうでもいい。ああ、腹減った!』
天才『ふう……』
馬鹿と馬鹿
馬鹿『学力低下とかマジうぜえ、そんなもん、社会でたらいらんだろ』
馬鹿『数学とかまじいらんよな。方程式とか死ねばいいのに』
馬鹿『ああ、歴史とか何なんだよ、ざけんな』
馬鹿『いい国作ろう平安幕府だろ。まじ、ぱねえ……』
天才と天才
天才『学力低下が問題になっているね』
天才『学力は層によっては必要ないから、必要ない層で下がるのはいいんだけど、学力を必要とする層で下がるのは痛いね』
天才『ワシはそうは思わんよ。学力が下がっても、難関大学の試験は選別に問題が生じていないだろう。社会的に機能する点に問題が生じるとは思えない』
天才『いやいや、学界もチームを組みます。基本的学力の高いものは必須になるんです。そういった人たちの学力が高くないと、確実に影響が出てきます』
天才『いや、そうおっしゃられると……しかし、解決策はあるんですか?』
天才『難しいですね。子供達に学問の魅力を伝えないといけない。しかし、娯楽が増えると、魅力があるかないかを決める基準が上がってしまって、学問がよく映りにくくなってしまうんだ』
天才『勉強が分かる分からないも重要ですよね』
天才『そうですね。教師の質も試されてきますし、学習方針もまだまだ改善の余地がありますね』
『ポケモンの話』
馬鹿と天才
馬鹿『イエーイ、俺のミュウツーに勝てる奴なんていねえだろ。どうだ、まいったか! サイコキネシスだ!』
天才『そうですね、こだわりスカーフなどを利用すれば、カイオーガやガブリアスなどが厄介になってきますし、ダークライのさいみんじゅつやカビゴンなど……まあ、技や努力値、性格補正など……』
馬鹿『うるせー! 天下のミュウツーがそんな奴らに負けるわけないだろ! 失せろ!』
馬鹿と馬鹿
馬鹿『おい、俺とバトルしようぜ』
馬鹿『オッケ、俺のホウオウだぜ』
馬鹿『いえい、ルギアだ。どうだつええだろ』
馬鹿『ならミュウツーだ。どうだ、このやろう』
天才と天才
天才『どのパーティが一番強いと思いますか?』
天才『シングルですか? ダブルですか?』
天才『シングルで、レベル50までとしましょう』
天才『そうですねぇ、どのチームも得意不得意がありますからね。速攻型だと、いかにこだわりスカーフが効くかにかかってきますね。いきなり苦手なタイプが出れば、もはや敗北が濃厚ですね』
天才『まもるのタイミングも重要だと思うんですよね。大爆発を防がれると、かなり厳しいところがあるでしょ。特にドータクンを失って、トリックルームの効果が切れるとね』
天才『そうなると、弱点をつかれるだけですからね。その分、色々なタイプで弱点をつく型は安定していますよね。ピンポイントでタイプをつければ、最悪二撃で倒せるからね』
天才『ただその場合、耐久型に弱いんですよ。どくどくされて、まもるとかげぶんしんをかけられたら、勝ちが見えてこない』
『自殺の話』
馬鹿と天才
馬鹿『自殺とか甘えだろ。弱いんだよ。弱い奴がするんだよ』
天才『それは分かりませんよ。想像を超える苦痛を味わったのかもしれませんからね。いずれにしても、自殺と止めるためには、苦痛をいち早く周囲が気付く必要がある。それが難しい』
馬鹿『人にたよんなよ。責任転嫁とかまじうぜえ』
天才『責任転嫁などではなく、自殺を止めるために……』
馬鹿『甘えだよ。うつ病とか甘え病だろ。それで自殺とか、まじ、ぱねえ……』
天才『ふう……』
馬鹿と馬鹿
馬鹿『自殺とかする人の気持ちが分かりませんよ……以下略』
馬鹿『命の大切さを子供の頃から教えていなかったのが……以下略』
馬鹿『そうですよね、親からもらった命を……以下略』
馬鹿『自殺する人は弱いんだね。小さい頃から苦労を知らないから……以下略』
天才と天才
天才『自殺が止められませんね』
天才『苦痛があったときに、孤独が辛いんですよ。孤独は苦痛がないときはいいんだけどね。自殺した人ってのはやっぱりヘルプを周囲に訴えられなかった場合が多いそうだよ』
天才『訴えるってのは人見知りのある人や迷惑をかけちゃダメだって思う人にとっては難しいことなんでしょうね。訴えやすい環境を作るためには、やっぱり小さい頃から厳しさとかそういったことが染み付いていないことが重要なんですよね。僕も、父親のげんこつを知ってから、何かを相談するなんて出来なくなりましたから』
天才『それはあるかもしれませんね。やっぱり訴えた後の反応が怖いって感じですよね。自殺した人ってのは甘やかされていたとかそういうのはすごく少ないんですよね。やっぱりどこか人に対して恐怖を感じていたりとか、トラウマをもっていたりとか』
天才『そうです。些細な一言を一生覚えていたり、恥をかかされて、それが一生残ったりしますもの。そういうことで、一番大切なところが傷つけられたら、自殺を考えてしまうのかもしれません。対策としては何かありますか?』
天才『難しいですよね。教育を一人一人のためには出来ませんし、親も子供の気持ちを完璧に把握するなんて出来ませんから』
天才『早急に解決したい問題です』
これらから分かるとおり、『思考力』は高い低いが問題なのではなく、コミュニケーションをとっている相手が『自分の思考力の程度』と合っている必要がある。もちろん、性格などもされるが、思考力が重要なのは言うまでもない。
社会人の思考力が低いため、思考力の高い人の話が『低い人』とかみ合わないといったことが生じている。思考力を上げると『仲間』を減らすことになる。
『企業しようぜ。もちろん、成功のメドはある……』
と長々と語っても、頭が悪いと、
『企業なんてやめとけ。無理だって』となるし、思考力があると、話を聞いた上で、
『やめておくよ』か『いいな。やるかいっちょ』となる。
思考力は行動力に比例する。思考力とは『学力』とは全く比例しない。だが、社会の人は『高学歴=頭がいい』と思い込んでいるから、『東大卒』はいいものだと思う。だから、国は現状にある。はっきり言って、俺でも『今の大半の企業よりもっといいと思われる方針(利益を上げるため)』をすでに持っている。だが、それを長々と言っても、思考力の低い社会人は『あっそ』としかならない。だから、現社会は『能力』より『世間をいかに騙すか』が重要である。国民の思考力が上がると、全く商品が売れなくなる企業がかなり多い。俺からすれば、『どうして、その商品を買うのか』疑問になることもある。
『ここは有名だからいいに違いない』『これは売れているからいいに違いない』という理由で、選ぶ状態ではつくづく損をしている。
ポイント
1、国民の思考力が低いので、思考力の高い人は社会に溶け込みにくい
2、国民の思考力が低いので、考えるまでもなく、経歴や肩書きだけで決めてしまう




