表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

逃走の果て


 ベアリシュは混乱していた。確実に成果を上げていた追い剥ぎの手法が、とうとう破られたからだ。街の方から呪文の詠唱が聞こえたと同時に恩人のスクイーズと戦士の様子がおかしくなった。すぐ横にいた女呪術士は「まずい」とだけ呟くと、その場の全員を見捨てて森の奥へ逃げていった。ベアリシュには徹底的に勇気の持ち合わせがなかった。前へ進んでスクイーズと戦士を助ける勇気もなければ、女呪術士を追って後ろへ駆け出す勇気もなかった。

 きっかけは女呪術士の声だった。「何してるんだい、捕まりたいのかい!」という一声で、ベアリシュは押されるように女呪術士を追って森の奥へと駆け出すことができた。それは即ち恩人を見捨てたことになるのだが、事実に気づいたのは逃げ出した後、森の中で息を整えつつ女呪術士に指摘されてからだった。ベアリシュは、やってしまった不義理に対してわかりやすく落ち込んだ。わかりやすく落ち込みはしたが、その態度は女呪術士から見て普段と何も変わっていなかった。

「何を今さら……アンタ気づいてるのかぃ? 違う場面で何かあったときゃアンタが真っ先に切り捨てられてたってのに」

「それは……それはそうなんですが、そのときは仕方がないかな、と」

「切り捨てられてたんなら、切り捨てたっていいんだよ! 恩人だろうがなんだろうがね。それより今はどんだけ森に隠れてられるかだ。先、進むよ!」

「森への出入りは必ず街を使わないと……」

「なんで、ここまで来て馬鹿正直に街の規則を守ろうってんだぃ? ちょっと街から離れて森から出れば良いじゃあないか」

「前に、それはできない、と聞いたことがあります。どれだけ森の中を彷徨おうとも森に入ったところに出てくる、そうです」

「そんな訳あるかぃ、馬鹿らしい」

「でも狩人の話なので信憑性は……」

「なぁにが信憑性だ。とりあえず動くよ。考えたら奥に進むのは上手くないねぇ……よし、右だ」

 ベアリシュはそれ以上、言葉を紡ぐことなく女呪術士の後をついて森を進んだ。


「そろそろ戻りませんか、あの、呪術士さん」

「相変わらずバカだね、まだ早いよ。最低でも二刻(二時間)は歩くよ。ってアンタ、時告石(じこくいし)あるかぃ?」

 ベアリシュが懐の小袋から時告石を取り出すと、声を出すほどの暇もない素早さでひったくられる。その色は赤みの抜け切った青色で、ほぼ暗一刻(午前零時)だろうと思われた。真っ青な時告石を見つめながら、女呪術士が訂正する。

「いや、三、四刻(三、四時間)は覚悟しとこうか。そこからもう一度、右へ折れて森の外さね」

「四刻ですか?」

「なんだい、そのくらい腹ァ括りな! 賞金はまだかかってないだろうが顔を覚えられてたら、もう昼間を堂々と歩ける身分じゃあなくなるんだよ! 用心しろって言ってんのさ」

「……はい」

 後ろめたさを覚えてはいたが、加担していた時点で、ある程度の覚悟はあった。しかしベアリシュの中では恩人に対する恩返しの意図が強く、犯罪である、という意識を持ったのはスクイーズたちが初めて見ず知らずの冒険者を打ち倒したときだった。それももう随分と昔のことのように感じられる。その上で、恩返ししていたはずの者を見捨てて逃げているのだから、本当に自分はどうしようもない奴だ、とベアリシュは後悔で一杯になっていた。

 その後は会話もなく、ただひたすらに森を進む二人であった。ベアリシュの時告石は女呪術士に奪い去られたままで、その左手に握られている。後で返してもらうつもりのベアリシュであったが、本当に返してもらえるのかは自信がなかった。


 二人にしてみれば、ただひたすらに森を進んでいたのだが、実際には大した距離を稼げていない。それは二人の体力に由来する。確かに世の中には魔術や呪術などを修めながらも体力に秀でて剣まで振るうような者もいるが、この二人はそうではない。各々に呪術と治癒術を修めるのがせいぜいで、そのために体力が犠牲となっていた。ベアリシュは巨漢であり、体力的に秀でているはずの男性ですらあったが、その実は女呪術士と大差なかった。

 時告石が純粋な青に黄色が混ぜられたかのような薄っすらとした青緑へと変じた辺りで二人は幾度目かの休憩に入った。夜の闇に包まれた森は、問答無用でベアリシュを震え上がらせた。

「いつまで歩くんですか……やっぱり夜の森はまずいですよ」

「何いってんだい、今から街へ戻ってもまずいだろうさ」

 ベアリシュは言葉が続かない。女呪術士への反論も、夜の森がまずい具体的な理由も、どちらも思いつけなかった。しかし早々と街へ戻ることのまずさだけは具体的に思い描くことができた。ベアリシュの心中は捕まりたくない半分、捕まってしまいたい半分と真っ二つに割れていた。真っ二つであるからこそ、どちらか片方へと決め切ることができないでいた。

「よし、いくよ。天穴(スカイホール)を右手に見ながら歩けばいいんだ。角灯(ランタン)があれば欲しいとこだけど、そんなのないだろう?」

 女呪術士の言葉に、ベアリシュは無言で従う。他に道がないように感じられていたからだが、それにしても判断力に乏しかった。女呪術士にしても何かしらの──街へ戻ってからの──明確な目標がある訳ではなさそうだ、とは気づいていた。とりあえず今という現実から逃れるための逃避行であろうことは想像するまでもなかった。ベアリシュはそこから更に現実逃避を重ねて、判断からも逃げていた。


 さらに時が過ぎ、幾度もの休憩を細かく挟みながらも、時告石は青と緑を等分に混ぜたような色へ変じていた。夜中の森林行で疲れた心身を休めつつ、女呪術士が時告石を玩びながら思案顔になっている。次に何を言い出すのかベアリシュは気が気ではなかった。

「そろそろ天穴を真正面に見ながら歩こうかねぇ?」

「森を出る方向ですよね?」

「そうさ。かれこれ三刻は経ったろぅ? どの辺りに出るのか確認がてら森の端へと戻ってみよう、って寸法さ。あんまりに街と近けりゃ、そのまま森の端で隠れたっていいだろうしねぇ」

「でも森の入り口に戻ってしまっていたら、どうするんですか?」

「そんなこと、ある訳ないだろうさ! 呪術士や魔術士に化かされた、ってんならまだしもアタシたちの周りに人なんかいたかぃ? 安心おしよ、ちゃんと森の端に出られるって。そんなに心配なら、ここで別れるかぃ?」

「……そうですか、わかりました。すみません、ついて行きます」

 ベアリシュも噂を聞いただけで森の入り口に戻る、とは半信半疑であった。それよりも気になるのは「街にある森の入り口以外から森を出た」という噂を一切、聞いたことがないことだった。当たり前に出られるから噂にもならないのか、誰も出たことがないから噂になっていないのか、ベアリシュが知っているはずもない。所詮、噂は噂である、と割り切れれば良いのだが、ベアリシュはそういう性格ではなかった。だからこそ、女呪術士の提案に従って確かめよう、という気になった。


 進む方向を森の端へと変えてから森に変化が現れた、ように女呪術士は感じていた。森が濃くなった気がする。時折に樹々が邪魔をして、わざわざ探さなければ天穴を見つけられないことが増えた。そうして見つけた天穴は、決まって真正面にはいない。慌てて方向を修正して進むが、しばらくすると再び天穴の夜明かりを感じられないほどの暗闇に捕まって探す羽目になる。探して見つけた天穴は、やはり真正面にはいなかった。女呪術士は嫌な予感を抱いた。

「ベアリシュ、方向が合ってるか確かめながらアンタ歩いてるかぃ?」

「え、いえ、呪術士さんが確かめているのかと。それにこの暗さですから天穴を見上げながら歩くなんて、できません」

「つまり、アタシの後ろをぼさっと歩いてるだけってこったね?」

「……すみません、そうです。これからは天穴を確かめながら歩きます。けど、その分だけ歩くの遅くなります」

「よし、それでいい。何かおかしなことがあったら、すぐに知らせるんだよ?」

「はい、呪術士さん」





 ベアリシュの言ったとおりだった。時告石によれば軽く四刻は彷徨った挙句、目の前の森が開けた向こうには数刻前(数時間前)まで二人が滞在していた夜の街並みが延びていた。今のところ森の入り口周辺に人影らしきものは見えないが、まだ動き始たばかりであろう街の活気のようなものが森の方まで漂っていた。ベアリシュの顔には「やっぱり」という諦めが浮かび、女呪術士の顔には「そんなバカな」と書いてあった。

「呪術士さん、街です」

「見りゃわかるわ、そんなもん」

 たまたまなのか街へ出入りする狩人などもおらず、見渡す限り無人である。女呪術士は計算していた。街へ入って他の冒険者たちの中に紛れてしまうか、再び街の外を目指して森の中を進むか、実に悩ましかった。安全策はあくまで街の外を目指すことだったが、いま目の前に見える街へ紛れ込みたい誘惑は抗うのが難しいほど魅力的だった。しかし面が割れていれば街へ戻ることは自警団に、捕まえてください、と言っているようなものである。

「よし、戻るよ」と女呪術士は踵を返した。

「えっ? 街はあっち……」

「森に戻るよ」

「だって、噂どおり入り口まで戻ってきちゃったんですよ?」

「アタシたちが迷ってないって、アンタ言い切れるんか。おぉ?」

「それはできないですけど、せっかく戻ってきたんですし……」

「せっかくだから戻って捕まるんかぃ? とっとと動かないと今度こそ置いてくよ!」


 女呪術士はベアリシュの返事を待たずに歩き始める。女呪術士は街へ戻るより、街の外へ出ることに拘った。自警団の連中が徹底的な森狩りでもしない限り外から来た冒険者もどきが仮にも街中で起こった追い剥ぎ騒ぎに絡んでいるとは考えないだろう、ということと、やはり自分ならば森の入り口に人を配置するだろう、という二点が女呪術士の中で勝った。つまり今、早朝とは言えども人の姿が一切見えないことは逆に不自然である、と結論付けている。ベアリシュは最初に森の中へ逃げ込んだときと同じように、少し遅れて女呪術士の後を追った。

「アンタ、あんだけお膳立てが整ってて、おかしいとも思わないのかぃ?」

「街に戻れて良かったかな、と」

「真面目というか、おめでたいというか……どうやってスクイーズなんかと知り合ったのか、不思議なくらいだよ」

「あ、それは借金で首が回らなくなってたところを助けていただいたんです」

「そういや最初の頃に、そんな話を聞いた気もするねぇ」

「前は冒険者をやってたんですが、その時にできた借金をまとめて払ってくださったんです」

「借金ってアンタその性格で賭け事でもやるのかぃ?」

「いえ、そんな。ちょっと護衛の最中に仲間が運んでいる品物を壊してしまって、その弁償ができなくて借金になりました」

「ということは他にもアンタと同じような借金持ちがまだ何人か、スクイーズの世話になってるってことかねぇ」

「それが商人さんが良い人で、誰か一人に借金をまとめることで他の面々は解放してくれると言うので……」

「まさかと思うけどアンタ。一人で引っ被ったのかぃ?」

「はい」

「それでスクイーズが借金を棒引きにして身柄を引き受けた、と……どこまで仕込みなんだか知らんけど、アンタがどうしようもないお人好しなのはわかった」

「そう褒められちゃうと照れますね」

「褒めてない、貶してる」

 話していても歩くことを止めなかった二人だったが、ベアリシュの能天気さにあてられて女呪術士の足が止まった。ため息をついている。


「ま、アンタの身の上話はさておいて、いくら朝っぱらだからって街の人間が一人も見えなかったのは、ちょっともおかしいと感じなかったのかぃ?」

「それこそ早朝ですし、大通りやなんかは人出もあるんでしょうけど、森の入り口まで来る人は限られてる気がします。狩人さんとか」

「それにしたって人っ子ひとりいないのは、おかしいんだよ。自警団に張り込まれてたに違いないさね」

「そうなんでしょうか……わかりません」

「おかしいって言えば、もう一つ。森の中で狩人にも会っていないんだよ、アタシたち」

「何人が森の中にいらっしゃるかわかりませんけど、そう珍しいことじゃないのかな、と」

「会わないどころか、見かけすらしない。声もかけられない。向こうが避けてるとすれば何のために? ……ってアンタに聞いても結論、出ないね。

 仕方ない。今度はもうちょっとキッチリ方向を見ながら進むよ。とりあえず一刻(一時間)くらい天穴を背負って歩く。次に右手に……はケチがついたから左に天穴を見ながら二刻、最後に天穴へ向かって一刻。これだけやってダメなら本腰入れて考えようかね」

「その計算で行くと、どんなに早くてもお昼までご飯はお預けってことですよね……」

「クサい飯喰いたいなら止めやしないよ。今すぐ後ろ向いて街まで戻りな」

「いや、ごめんなさい。我慢します」

 女呪術士はベアリシュの謝罪を当たり前のように流すと、もう一つだけため息をついてから再び歩き始めた。更に四刻が過ぎ、二人は順調に森の中を迷っていた。数刻前と同じように、一刻ほど前から天穴を見失うことが多くなる。天穴を見失うのは樹々の茂りに邪魔されることがほとんどで、改めて見上げて天穴を探したときには、もう二人は進むべき方向を取り違えていた。取り違えた方向を修正して進むも、もう何度目かわからないが程なくして天穴を見失う。この繰り返しである。

 女呪術士にしては辛抱強く、もう一刻ほどを繰り返しへ注ぎ込んで得られたのは、森の入り口への回帰であった。





「とりあえず、入り口から離れるよ」

 疲労と空腹のおかげでベアリシュには答える気力が残っていなかった。ただ女呪術士の後をついて行く。一方で女呪術士の方も思案顔のまま言葉少なに歩いていた。しかし半刻(三十分)ほど歩いて、十分に森の入り口から距離を取った、と判断した時点で足を止めてベアリシュを振り返る。

「どう思う?」

「何がでしょう?」

「二度目も迷ったと思うかぃ?」

「迷ったんじゃなくて、噂が正しかったんじゃないかと思います」

「言ってたね……アタシも今なら信じそうだよ。途中で迷わなかった、とは言わない。アンタがどんだけ注意してたか今となっちゃどうでも良いけど、手を抜いていたとも言わないさ。

 いくら森に不慣れな二人だからって、天穴さえ見失わなければ子供でも辿り着けそうな場所へ辿り着けなかった。二度あることは何とやら、とは言うけれど三度目を待つまでもないね。これは誰かの作為が働いてる。問題は、誰の作為をどうやって、だよ」

「どうやって、とは」

「アタシたち、人に会ったかぃ? 会わなかったろぅ? 気持ち悪いくらい人にも、動物にも遭遇してない。ということは、かなり以前から的にかけられてた、ってことになる。じゃあ、何処から? ここ十二刻(十二時間)くらいの出来事が全部、幻か何かだったんじゃないか、と考えるのが妥当に思えるのさね。それともう一つ……」


 ベアリシュが唾を呑む。

「アタシが化かされてるとして、どうやってと誰を両立する奴が一人いる。アンタだよ、ベアリシュ。ってことでアンタとは、ここでお別れだ。そもそも何でアンタを連れ歩いてたのか、私にもわからないしね。ここらでスッパリ切っとくよ!」

「そ、そんな!」

「これでアンタと別れてもアタシが化かされ続けたなら、もうちょっとヤバいと考えなきゃならないんだけど、とりあえず今やれることはそんだけ、って話さね。悪く思うな、もしくは残念だったね」

「ぼ、僕が治癒術士って言うのは呪術士さんも知ってるじゃないですか!」

「知ってるよ、言葉だけで。アンタの治癒術、見たことないけど」

「それは誰も怪我なんてしなかったから……」

「偶然ってことはあるだろうけど、幻を見させることができる奴なら怪我をさせないよう誘導することもできるかもね? そもそもアタシは、まだ森の入り口でアホ面晒してボンヤリしてるのかも知れないしね。ともかく、ここでお別れだ」

「でも、それだと森の中を一人で歩くことになります。それは危ないですよ」

「ここまで夜の森を歩いたのはアタシも初めてさ。そりゃ認めるが、いま一番怪しいのは他ならぬアンタなんだ……ついて来るんじゃあないよ?」

 そう言い放って女呪術士は手にしている短杖(ワンド)でベアリシュを牽制しながら後ずさる。ベアリシュは女呪術士の手の内をほとんど知らないが、呪術で酩酊させられてまで解毒できるのか自信はない。女呪術士が本気であると肌で感じ取っていた。


 女呪術士はベアリシュを追い払うことに成功した。呪術士に杖を向けられて何を意味するかわからないほど間が抜けている訳ではなかったか、と小さく安堵する。とりあえず怪しい術士であるベアリシュと別れてはみたものの、一人で夜の森を歩くことに対して有効な妙案がある訳でもなかった。しかしベアリシュを遠ざけることで現状が改善されるなら、それは選択する必要があった。

 ベアリシュからひったくっておいた時告石は、まだ女呪術士の手にある。これであの愚図は街へと戻るだろうから問題ないね、と勝手に結論付けておいた。問題はこの後に山積しており、女呪術士はそちらへ思考を移す。一人で夜の森を数刻ほど歩くこと、歩きながら方向を確実に確認する方法、街の外へ出られてからの身の振り方、万が一だが三度目も森の入り口へと迷い戻ったときの対処法……どれも考えてはみるものの、妙案は出ない。しかし動かなければ考えても無駄になる。女呪術士は再び街から遠ざかる方向へ歩き始めた。

 一刻ほどをかけて街から遠ざかる方向へ歩き、再び右手へ二刻ほど歩く。先ほどもだったが、ここまでは比較的順調に事が運ぶ。野生動物の一匹にも出遭わない事実には怖さを感じるものの、出遭ってしまうよりは遥かに良い。動物に出遭わない以上に狩人にも行き会わないのは、動物に遭遇するより機会は少なそうであるため思考の外に置ける。それよりも何よりも天穴の薄明かりに包まれた夜の森を一人で歩くことは、相当な胆力が必要だった。女呪術士は、その胆力をどうにか絞り出して森を歩く。

 そして、ここからが問題である。街へ戻ろうとする方向へ歩き始めてから何者かの妨害を受けている、と女呪術士は仮定していた。街へ近寄る方向あるいは森を出る方向へ進もうとすれば天穴が視認し難くなるのだろう、と。女呪術士は持てる限りの注意力を発揮して、天穴と進行方向を確認し続けた。時には数歩を歩いただけで天穴を探し、進む方向を修正することまでして見せた。


 それでも天穴を見失うことは多くなる。樹々が邪魔をする。薄暗い森の闇にあってすら影が女呪術士の上を過ぎる。化かされている、と女呪術士は確信した。気の進まなかった手段を選ぶに至る。他に選択肢がなかった。


 ──Great spirits of all, lend me their power.

 ──Make known to me the flow of their power.


 呪術師の呪術感知は諸刃の剣である。すべての精霊に乞い願うため、すべてを感じられるようになるが故に切り札足り得るのだが、実際は情報量が多すぎて行使に細心の注意が必要な呪文でもあった。精霊は万物に宿る。大気の精霊、大地の精霊、樹々の精霊、近くにいれば動物の祖霊までをも感じ取れる呪文の力は、しかし空振りに終わった。それらを強烈に圧迫している何者かの存在は感じられても、その何者かが何を司る精霊なのかがわからない。

 大抵は呪文の行使によって精霊自身による自己紹介のような淡くか細い交流が始まるものなのだが、今回はどの精霊も女呪術士には語りかけて来なかった。すべての精霊が何者かに存在を隠されている。周囲を見渡しても一律に平坦に何者かによって取り囲まれていた。冷えた夜気も豊かな樹々も夜気に冷やされた地面にしても、精霊の存在は感じられなかった。突如、平衡感覚さえ失ったかのように女呪術士が膝をつく。とても立ってはいられないほどの空虚であった。

 そんな女呪術士の呪力感知に、始めて感知される精霊、いや祖霊が現れる。それは熊の祖霊で空虚な回廊を迷うことなく女呪術士へ目がけて四つ足で駆け寄り、後肢だけで立ち上がって前肢を女呪術士の首筋へと素早く振り下ろした。





 一方のベアリシュは途方に暮れていた。気がつけば時告石を返して貰い損ねたため、時刻もわからない。街へ向かうのは簡単だが、女呪術士──とうとう名前は教えて貰えなかった──の言っていたとおり捕まる可能性が高いのだろう、と思うと足が向かない。悪いことをしたのだから捕まるのは仕方ないとして、捕まる前に捕まらないよう努力することは悪いことだろうか、と考えて結論が出ない。罪悪感と保身の狭間で板挟みになっている訳だが、この場合は誰にも頼れないことで判断が停滞している、と見るべきだった。

 一人になって感じることは、森の怖さだった。非常に心細く感じられ、二人でいたときの何倍にもなってベアリシュへ襲いかかってくる。狩人が時折に、本当に時折に森で行方不明になることがある、と聞いたこともある。そんな森の中で彷徨いながらも、二度も入り口まで戻ってきたことは、むしろ幸運だったのではないか、とベアリシュは思い始めていた。同時に三回目はあるだろうか、と考え始める。

 いや、ない。今ここを逃せば三回目は訪れない。ベアリシュ自身、自らに胆力や覇気と呼ばれるものがが足りないことは知っている。その性根からしても森の中を彷徨うことは、ベアリシュには考えられなかった。次こそ狼にでも出会ってしまえば、まさにそれまでである。ベアリシュは死ぬよりはましだ、として街へ向かうべく天穴を正面に見ながら歩き始めた。

 半刻もしないうちに、森の入り口へと辿り着く。先ほどと違って、一人二人と人影のようなものが見えた。これで捕まってしまうが、仕方がない。確かにベアリシュも他の面々と同様に追い剥ぎで得た利益で飲み食いし、その日の宿を確保していたのだから。とぼとぼと歩きながら、ベアリシュは街へ向かう。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ