小夜香と十和子の物語 6章
翌日、十和子は、知子が昼過ぎに帰ると、入れ代りにやって来た沢井に小夜香を任せて外へ出た。いつもの十和子だったら、まっすぐに喫茶店に向かっていたはずだが、この日は公園のベンチに自然に足が向かった。ベンチの近くの木で鳴いていた蝉たちの一瞬の静寂も、十和子が座るとまた騒々しい鳴き声に飲み込まれる。体に纏わりつく暑さが、季節が夏の盛りになっていることを意識させる。雲一つなく晴れ渡った真っ青な空と、降り注ぐ日差しに地面はじりじりと炙られ、その照り返しに木陰にいても汗が滲む。喧しく輪唱を重ねる蝉たちの鳴き声も、殊更に夏を意識させる。 それでも、十和子が夏を意識したのは一瞬のこと。すぐに彼女は物思いに浸り、溢れる夏の明るさも暑さも騒々しい喧騒もその意識から零れ落ちてゆく。その胸中では、昨夜の苦い自責の想いと燻る自らへの怒りが、際限なく自らを責め立てていた。
(傍に居ることに浮かれて、私は小夜ちゃんの苦しみにも悲しみにも気づかなかった。何故気づかなかった!周りの言葉や対応に彼女がどれだけ敏感になって、怯えていたことか・・私は、彼女を支えようと決心していたはずなのに、気を遣わせていたのは私の方・・寄り添い少しでも苦しみを分かち合えればと考えていたのに・・何にも出来てなかった!ただ、自己満足で終わってた。こんなんじゃ傍に居る必要もない!)
パッパー、
突然のクラクションに思考が断たれ、またせわしい蝉の鳴き声が降り注ぐ。一瞬、十和子はベンチに座っている自分に違和感を覚えたが、自分を責める流れを断ち切り、あらためて現実に向き合った。
(小夜ちゃんは、常に「死」を意識して立ち向かおうとしているのに、私だけが小夜ちゃんの「死」から目を反らすわけにはいかない・・でも・・)
悩み続ける中、すっと十和子の前に答えが浮かび上がる。
(まだ、死ぬと決まったわけじゃない。このままよくなることだってあるんだから、今は、苦しみや辛い思いを受け止め、分かち合えるように強くなる・・・覚悟を決めよう。全てを受け止める。何があっても支え続ける。それだけ・・それだけを考えてゆこう。)
そう納得した十和子は、もう一つの解答も静かに受け止める。
(それでも・・小夜ちゃんにもしものことがあれば、その時は私も・・)
「時ちゃん、こんな暑いところで何をしているの?あやうく見過ごして、あそこへ行くとこだったよ。」
突然の声に、体が震えた。
「・・えっ?沢井さん。どうしたんですか?小夜ちゃんは?」
十和子は、今考えていたことを読まれたのではと狼狽える。
「小夜の友達が来て、いろいろと聞かれるもんだから退散してきたよ。」
苦笑いと共に答えが返ってくる。
「もしかして、奈穂ちゃんと、亜里沙ちゃんですか?」
「そう、その二人。彼女たちが帰るまで、時ちゃんに相手してもらおうと思って、店に行くところだったよ。ねえ、ところで俺の時もいつもここで過ごしていたの?それだったら、悪いことをしたね。」
「あっ、いいえ。今日はあまりにもお天気が良かったから、たまたま気分を変えたくなっただけです。でも、汗も出てきましたから、喫茶店へ行きましょう。」
カランカラーンとドアベルが誘う店内へ入ると、
「いらっしゃいませ。」
マスターの甲高い声と、涼しい冷気が二人を迎える。すでに四時を過ぎた店内には加奈子の姿はなく、数組の客がいるだけ。いつもの奥の席は指定席のように、二人を待っていた。十和子はアイスコーヒーを頼むと、沢井と向かい合って座った。
「二人だけで、ここに来るのは初めてだね・・考えると二人だけで会うのは、あの公園以来か・・・あれは、不思議な体験だったな・・一生忘れられないよ。今こうしていられるのは、時ちゃんのおかげだ。ありがとう。本当に助けてもらったよ。」
「いいえ、あのことは、私にとっても一生忘れられないことです。あの時、私も救われましたから、感謝しないといけないのは、私の方かもしれません。」
思いもがけない返事に、沢井はまじまじと十和子を見つめた。
「それって、どういうこと?あの時、時ちゃんにも何かあったの?良ければ、何があったか聞かせてもらえないかな?」
「あっ、いいえ、それは内緒です。」
「そう・・か、残念だな。まっ、いつか話してくれるよね?」
「そうですね。いつか聞いて頂く機会があるかもしれません。その時を楽しみに待っていて下さい。」
「わかった。そういうことにしとこう。」
残念そうに同意した沢井は、話題を変えた。
「ところで、さっき公園では何か考えていたの?深刻そうに見えたけど。大丈夫かい?小夜の介護疲れで、倒れないようにね。何かあれば俺もご両親もいるし、何でも相談していいからね。」
「ありがとうございます。何かあったらその時はよろしくお願いします。それより、小夜ちゃんが退院したらどうされるんですか?」
「ああ、そうか。退院してからのことは、時ちゃんも気になるよね。そうだな、いい機会だから聞いておいてもらうかな。さっき二人で話したんだけど、退院した後一日、二日は家でゆっくりして、その後はご両親の許可をもらって一緒に住もうと決めたんだよ。それと、これは小夜にもまだ話してないけど、結婚式もコンサートが終わりしだい挙げるつもりでいるよ。」
「結婚式も?そうですか。もうそこまで考えられているんですね。でもコンサートは九月だから、その後すぐって言うと、九月の終わりか十月の初めですか?式場の手配は間に合うんですか?」
沢井が口にした『結婚』という言葉に、祝福する想いと共に淋しさ、喪失感が十和子の心に芽生え胸が痛む。十和子のそんな想いに気付くことなく、沢井はさらに秘密を打ち明けた。
「時ちゃんにだけ話すけど、式場はもう決めて、予約もしている。でも、小夜に正式にプロポーズをした後に皆に報告するから、このことはそれまでは時ちゃんの胸に収めて内緒にしといて。」
「お待たせいたしました。」
話に集中していた十和子の体は、その声にビクっと反応してしまう。それでも意地で表情だけは何とか取り繕い、コーヒーを置くマスターを悔しさを隠し黙って見つめる。
「どうぞごゆっくり。」
十和子には、去り際に彼がわかっているよと笑ったようで、悔しさは募りその姿を追ってしまう。
「時ちゃん、もう諦めたら?マスターにはかなわないよ。」
苦笑いを浮かべ、沢井が的確なアドバイスをする。
「そうなんですよね。わかってはいても、つい張り合いたくなってしまって。でも、マスターって、私たちの話をどこまで聞いているんでしょうか?もしかして、マスターが一番、小夜ちゃんの事を知っていたりして。でも、今日はいい気分を壊されたから、最悪のタイミングだわ。」
「そうは言っても、時ちゃんはきっとマスターが好きで、彼の趣味も好きなんだよ。何度脅かされてもここに来るんだから。」
「えーっ、そうですか?それだと脅されて喜んでる自虐的な人間じゃないですか。でも・・来ちゃうんですよね・・」
十和子は、アイスコーヒーを一口飲んで気持ちを落ち着かせる。
「沢井さん、これからのこと話して頂いてありがとうございます。結婚式の事、小夜ちゃんより早く聞いてしまって、彼女には申し訳ないけど、でも、安心しました。小夜ちゃんをどうかよろしくお願いします。」
「うん、任せて。小夜をきっと幸せにするよ。約束する。ところで、時ちゃんはどうするの?」
「えっ?どうするって、何をですか?」
「これからの事。小夜が退院したら、時ちゃんはどうするの?」
「私ですか?そうですね。どうしましょう?実は公園で、そんなことを考えていたんですけど、何も出なくってついボーっとしてました。」
「芸能界には戻らないの?」
「ええ、社長は、籍は残しておくって言ってくれてはいるんですが、私には、芸能界は本当に背伸びをしないとついていけない所でしたから、今更戻ろうとは思っていません。小夜ちゃんに会いたいってだけで、飛び込んだ世界ですしその願いも叶いましたから。」
「そうか。でも、小夜に会いたいって想いだけで芸能界に入ってくるなんて、それはそれですごいな。そうだな、それに代わるだけの目標か・・ねえ、時ちゃんは今、恋人っているの?」
「恋人ですか?今まで小夜ちゃんだけだったから、恋人はこれから探します。」
十和子は唐突な問いに内心驚くが、余裕をもって対応する。
「そうか。それだったら、時ちゃんのことが良いって言てる奴がいて、紹介したいんだけど、会うだけでもどうかな?」
「ありがとうございます。でも今はまだ・・・その時が来たらあらためて、よろしくお願いします。」
(何故、いまさら恋人の話をするの?もうそんなこと、どうでもいいのに!)
冷静な返事の裏で、十和子はイラつき強く反発する。
「そうか、良い奴なんだよ。宇佐美って知らない・・」
「機会があったらお願いしますから、今はまだ。」
十和子はきつめに言葉を被せ、遮った。
「・・わかった。気が変わったらいつでも紹介するから。」
それからは、当たり障りのない話しを一時間ほどして、沢井は小夜香の元へ戻って行った。見送った後、十和子は昼を摂っていないことに気づき、思い切ってマスターに頼んでみた。
「マスター、すみません。お昼の余り物でもあれば、食事を用意して頂けませんか?」
「いいですよ。お任せでよろしければ、ご用意できます。」
マスターは、十和子のオーダーに快く応え、サイコロステーキと卵の載ったハンバーグ、そしてライスをワンプレートにしたものと、別皿にサラダをたっぷり盛った料理を用意してくれた。十和子は、目の前に置かれた料理を、楽しみしっかり味わい食べた。
(うん、そうだよ。お腹が減っていたら力も出ない。気持ちも強くなんかなれない、前向きにもなれない。今は小夜ちゃんとの一瞬一瞬を大切にする。彼女のために、できることを何でもしてある。)
お腹一杯になった十和子は、幸福感に浸り明るい未来を見据え、喫茶店のゆったりと流れる時に身を浮かべていた。
退院の前日、小夜香は母と十和子と共に喫茶店へ出かけて、昼食にマスターが作った料理を食べ、食後は飲み物を飲みながら、お喋りに花を咲かせのんびりと過ごしていた。そんな時に、十和子の携帯が鳴った。携帯からは、聞きたくもない声が聞こえてきた。
「十和子さん。才賀ですが、そろそろ小夜香さんのその後の状況をお聞きできると嬉しいんですけど。」
「誰?」
十和子は携帯を手で覆い、
「ミッキー。」
と、顔を顰めて小夜香に答え、再び携帯を耳にあてる。
「別に、何も話すことはありませんけど。」
「いや、いや。十和子さん。そうおっしゃらずに。実は今日、休みなんでもうそちらへ向かっているんですよ。例の喫茶店でも結構ですから、少し時間をいただけませんか?」
才賀は、強引に話を進める。
(もう、こんな時に電話かけてきて。休みだからこそ、ミッキーはディズニーランドにいなさいよ!)
十和子は、再び手で携帯を覆い渋い顔で言った。
「ミッキー、こちらに向かってるって。それに、ここで会えないかって言ってるの。」
「えっ、来てるの?」
「みたいね。お母さん、小夜ちゃんと病院に戻ってもらってもいいですか?小夜ちゃんがここにいると、彼を喜ばせるだけですから。小夜ちゃん、ごめんね。悪いけどそうして。」
「待って、時ちゃん。私、ミッキーさんに会いたいな。ここでもいいけど、気分を変えて公園で会うことにしない?それで、どうしてもここって言うんだったら、ママは他の席で見ていたらいいわ。ねえ、いいよね?」
「それは、あなた達に任せますよ。」
十和子は、あらためて携帯を耳にあてた。
「それじゃ、傍の公園でお待ちしています。どのくらいかかりますか?」
「そうですね、三十分ほどで行きます。」
「わかりました。待ってます。」
電話を切った十和子は、ふと、今の会話にひっかかりを感じる。
(三十分?ちょっと待って!彼、休みって言ってたよね。それに赤羽に住んでるって・・それで三十分?またやられた!本当にもう!あの、偽ミッキー!)
十和子は携帯を悔しそうに握りしめ、怒りを吐き出す。
「まったく!なんで、すぐミッキーにのせられるの!」
「どうしたの?何かあったの?」
小夜香は、十和子の声に驚き尋ねた。
「ミッキー。こっちに向かってるって言ってたのに、多分、家から掛けてきたのよ。三十分かかるって。もう!なんですぐに断らなかったの!ああ、腹が立つ!」
「そんなこと、どうしてわかるの?」
「ミッキーは赤羽に住んでいるの。それに、バイクで動いているから、そこからここまで三十分もかからないわ。」
「へーっ。すごい、そんなことまでわかるの。」
「都内はあちこち動いたもの、それくらいわかるわ。でも、悔しい!今日はミッキーを待たせてやる、そうでないと気が済まない!小夜ちゃんを会わせるなんて、もったいない!」
怒りに任せ、残りのコーヒーを一気に飲み干した十和子は、
「あれっ?ねえ、今日は水曜日じゃない?木曜日でもないのに、休みって言って電話掛けて来るの?」
と、そんなことまで気づいた自分に顔を顰める。
「それこそ暇なんだよ。ネタも無いんじゃないの?」
「えー、それに付き合わされて、小夜ちゃんを合わせるの?もったいなーい!」
そんな十和子の一人芝居を、二人は面白そうに眺めている。
才賀は、電話を切ると商売道具を抱えドアを開けた。
「おお・・っと」
ちょうど帰って来たナオと鉢合わせして、思わず声を上げる。
「びっくりした!脅かさないでよ、まったく!スロット、全然出なかったよ。何?せっかくの二連休に出かけるの?どこに行くの。」
不機嫌そうにナオは、才賀を問い詰める。
「急な取材だ。さっき呼び出しがあったんだ。」
才賀は横をすり抜けようとして、ナオに腕を掴まれた。
「へー、十和子に会いに行くんだ。」
にっこりと笑うナオの目は、笑ってはいない。
「だから言ってるじゃないか、取材だ。スクープだ!」
才賀は、十和子のことを否定するように声を張り上げ、掴まれた手を振り解こうと・・
バキッ!
「うぎゃ!」
才賀の頬に痛みがはしる。あやうく階段を転げ落ちそうになって、手すりにしがみ付く。
(何で?十和子に会うなんて、一言も言ってないぞ!何で、殴る!)
才賀はしがみ付いていた手すりを離し、殴られ痛む頬に手をやり、威厳を込めて言った。
「いいか、今回は我慢してやる。だがもう一度やったらしょうちしないぞ。取材だと言っただろうが!」
才賀は、再び握り拳を構えたナオに背を向け、飛び降りるように階段を下りた。
「スクープ、楽しみにしてるよ!久しぶりの二連休にわざわざ出かけるんだから、大したもんだろうね。ヘボな写真撮ってきたら今度こそ、階段から叩き落としてやるからね!」
才賀は、ナオの罵声を背中に浴びながらバイクへ急いだ。
(ちくしょう、編集長よりえげつねえ。なんでこのタイミングで帰って来るんだよ。)
ひりつく頬に再び手をやり、バイクにまたがる。
(それにしてもあいつ、顔面叩いて手を挫いたから、今回は頬だなんてバカ女のくせに、そんなことだけはちゃんと考えてやがる。ちくしょう、あのカンだけは何とかなんないか?十和子に会うたびに殴られるのはごめんだぜ。)
才賀はバイクが走り出すまで、ずっとぼやき続けた。それも走り出すまでで、また十和子に会える高揚感に、ナオのことも殴られたことも風に投げ捨てた。
才賀は、公園を見回すがどこにも十和子の姿はない。
(おい、おい、すっぽかすつもりか?いや、遅れてるだけか?しょうがない、しばらく待つか。でも十和子さん、時間は守ろうぜ。)
ぶつくさ呟きながら公園をぶらつき、ベンチに座り電話を掛けても十和子が出ないことにイラついてくる。十五分もするとイライラは頂点に達するが、今回は取材を口実に和子に会うのが目的だったから、それをすっぽかされ会えないとなると叩かれ損で、さらには帰ってからナオにねちねちと嫌味を言われるのが目に見えるし、もしかしたら本当に階段から叩き落されるかもしれない。ベンチに座り才賀は帰ることもままならず、知らず知らずのうちに右足を小刻みに揺すりながら、もうしばらく待てば十和子が来るかもしれないという微かな望みに縋りつき時間を潰した。
ふと目の隅に、公園に入って来る人影を感じ、振り向くと二人連れの女性の姿があった。一人は・・ジーンズに白いブラウスを着た十和子で・・もう一人は、黒いスカートにラフなTシャツ、そして手作り風の帽子を被っている。
(えっ?小夜香?)
二人を認めた才賀は、弾かれたように立ち上がりカメラを構えると、シャッターを切りまくる。
(ラッキー!小夜香の姿を撮れたぜ。スクープだ!ナオ、殴ったこと謝れ!)
才賀は、有頂天にシャッターを切り続ける。そんな才賀の前で、二人は立ち止まった、
「お待たせしました。小夜香さんが、才賀さんに会いたいと言うので連れて来ました。」
「才賀さん、こんにちは。こんな姿でごめんなさい。」
小夜香は手編みの毛糸の帽子を触り、照れたように笑う。
「とんでもない。小夜香さん、また、お会いできて嬉しいですよ。思ったより、お元気そうで何よりです。その帽子は、髪の毛が?」
才賀が、言葉を濁す。
「ええ、今はこれが必需品なんです。」
「いやいや、なかなか似合っていますよ。」
(こうして見ると、写真よりも美人だな。洋の十和子と和の小夜香か、甲乙つけがたいぜ。)
そんなことを考えている才賀に、
「ここに座らせてもらいます。」
と、十和子は返事も待たずに小夜香を座らせ、自分も横に座った。
「どうですか、せっかくなんであの喫茶店でいいので、そちらでゆっくり話しませんか?ここは暑いし、どうでしょう?」
「いいえ、私たちさっきまで冷房の中にいたから、ここで結構です。ねえ、小夜ちゃん?」
「ええ、そうだね。少し冷え過ぎたかもね。」
「それよりも、右頬どうされたんですか?少し赤いですよ。」
「えっ、赤いですか?さっき暑さでぼんやりして、そこの木の枝にぶつかったんですよ。」
(ナオの奴、手加減ぐらいできるだろう。)
才賀は、情けない言い訳をしながら毒づく。
「才賀さんも、ぼんやりすることあるんですね。バイクの運転も気を付けてください。」
「あー、十和子さん。気を使って頂いてありがとうございます。でも、私のことはどうでもいいんで、こうしてせっかく小夜香さんにお会いできたんですから、いくつか質問をさせてもらってもいいでしょうか?」
「ええ、答えられる範囲で良ければ。」
小夜香は、じっと才賀を見つめ頷く。
「それじゃ、まず治療の状況はどうでしょうか。こうしてお姿を見る限りでは、お元気そうですが、退院ってこともありえますか?」
「おかげさまで、治療は順調です。少し前までひどかった副作用も、今は楽になりました。このまま順調に治療が進めば、もしかしたら退院もあるかもしれません。」
「ほお、退院もできそうですか?それじゃ本当に順調なんですね。それは良かったですね。おめでとうございます。」
「ありがとうございます。でも、退院はこれからの経過を診て、先生がご判断することですから。」
十和子が一言付け加える。
「それじゃ、肺がんは・・」
さらっとした質問に、十和子が睨みつける。
「引っかけは止めてもらえますか、ミッ・・才賀さん。そうじゃないと、このまま帰らせてもらいます。」
才賀は、睨みつける十和子を、思わず見つめてしまう。
(『ミッ』って、何だ?何を言おうとした?彼女も怒ると殴るのかな・・?彼女だったらいいかもな。)
才賀は、変な方に脱線しそうになる思考を慌てて引き止める。
「ああ、申し訳ない。つい口が滑りました。それじゃもう一つ、右手に指輪ですが、それは沢井さんからの婚約指輪ですか?沢井氏との関係も順調ということですか?」
才賀は指輪が入るように、アングルを調整してシャッターを切る。小夜香はそれを避ける様子も無く、微笑み返す。
「ええ、おかげさまで。忙しい中、会いに来てもらってます。」
「そうですか。沢井氏は、頻繁に来られているんですね?」
「ええ、時間を調整して来てもらってます。」
(沢井は、本当に惚れたのか?まあ、美人で若けりゃ奴じゃなくても落ちるか。チクショー!)
そんな愚痴が、出そうになるのを押さえて、また十和子を見る。
(こちらだけでも、何とかなんねーかな。)
そんなことを考えていると、グーを握ったナオの姿が浮かぶ。
(ここまで出てくるのか!勘弁してくれ!)情けなく泣けてくる。
「それじゃ、退院後には、沢井氏と暮らされるんですか?ご結婚の予定は?」
それでも、質問だけは真面目に続ける。
「今はまだ、わかりません。でも退院ができたら、まずは家でゆっくりしたいですね。それに結婚はまだ先ですから。」
「でも、結婚前の同棲なんて、今じゃ普通ですよ。どうします?沢井氏から誘われたら。」
「人は人ですから。沢井さんはちゃんと大人の判断で、対応してくれますから。」
しつこい質問にも、優等生の答えしか返ってこない。
(大人の判断がどうしたって?沢井も男だぜ、まっいいか、ここは適当に書いて、退院したらマンションでも張っとけばいいか。)
沢井はそう割り切って、質問を変える。
「それで今後の活動は、何か予定されてますか?」
「今はまだ白紙です。早く復帰できるように、治療に専念していますから。」
「それじゃ、ファンの方たちへのメッセージが、何かあれば聞かせて下さい。」
「今も話したように、早く復帰してファンの皆さんの前で歌えるように治療を頑張っています。そして、ファンの方々からは、多くの激励のお手紙を頂いて本当に感謝しています。ありがとうございます。」
「いや、いいですね。それじゃ、この続きは喫茶店でどうですか?そろそろ暑くなってきてませんか?できればもう少し、お話をお伺いしたいんですが。」
「暑いのはそのジャンバーのせいでしょう?脱がれたらどうですか?それに小夜香さんも、これ以上は疲れてしまいますから、これで失礼します。行こう、小夜ちゃん。それじゃお疲れ様です。」
十和子は、きっぱりと取材の終了を宣言して立ち上がる。
「ここでお見送りします。」
さらに十和子は、才賀がこのまま帰るように促す。
「いや、だからせっかくなんで、もう少し話をお聞きできればと思うんですが、どうですか?」
しつこく食い下がる才賀の背後を見て、十和子が言った。
「あのバイク、才賀さんのじゃないですか?警察の人来ていますけどいいんですか?」
その言葉に、才賀は慌てて振り返り声をあげた。
「あーっ、おまわりさん。それ僕のです。ちょっ、ちょっと待って!」
才賀は商売道具を抱えると、愛車の元へと駈けてゆく。
(ミッキーが走ってる。)
十和子の頭に、彼が走る後ろ姿を見てそんなシーンが浮かぶ。
「駐禁?」
「そうみたい。いいタイミングだよね。」
警察官の間に割り込み、才賀はペコペコと頭を下げると、名残惜しそうな視線を二人に向けながら走り去った。
「なんだか、憎めないのよね。でも、あの調子じゃまた、マンションなんかで二人の写真を狙ってくるわね。」
「ううん。もうね、そんなこと気にしないようにしようって、沢井さんとも話したの。大切な時間だもの、悔いのないように使おうって。さっきはミッキーさんに、かっこ良いこと言っちゃったけど、退院したら皆の前でも一杯甘えちゃうよ。そうしたら、皆ももういいやって、ほっといてもらえるでしょう?」
「そうか、そうだね。周りを気にして過ごすなんて、本当にもったいないよね。二人の時間を、大切にすることの方が大事だね。」
「うん。」
「それじゃ、戻ろうか。お母さんも心配してるよ。」
「そうだね、早く戻ろう。彼に言われる前から暑くって、危うく誘いにのって、うんと言いそうになったもの。」
「確かに暑い。行こう。あっ、小夜ちゃん。彼の感想は?ミッキーに見えた?」
「もう最初っから、ミッキーだった。だから憎めないのかもね。」
戻るとすぐ、小夜香は母に取材のことを面白おかしく話した。そして店を出る時、十和子はマスターへ小夜香の退院ことを伝えた。
「マスター。今までお世話になりました。明日、彼女が退院することになりました。いつも気持ち良く過ごさせてもらって、ありがとうございました。」
「そうですか。それはおめでとうございます。でも、いつでも近くへお越しの際はお寄りください。お待ちしております。」
「それで、マスター。こんなものしか、お渡しするものがないんですけれど、受け取ってもらえますか?」
十和子は沢井のものも合わせてた、サイン色紙を手渡した。
「私のは二枚あります、今日は加奈子さんの姿が見えなかったので、マスターから渡してあげて下さい。」
横から小夜香が、一言付け加える。
「おお、これはこれは。素敵なものをありがとうございます。こうして、有名人のサインを頂くのは初めてでございます。大切に飾らせていただきます。」
マスターは小夜香に視線を移し、頭を下げる。
「小夜香様のサインを頂けるなんて、加奈子も大喜びに違いありません。お気遣いありがとうございます。」
「すみません。それくらいしか思い浮かばなかったので、喜んでいただければ嬉しいです。」
「何をおっしゃいますか。皆様のサインを頂けて、こんなに嬉しい事はありません。十和子様のテレビでのご活躍のお姿をまた、拝見できることを楽しみにしています。小夜香様も素敵な歌を、また聞かせて下さいませ。お二人のご活躍を期待しております。ただ、この店が懐かしくなることがありましたら、いつでもお越しください。それまではしばしのお別れでございます。」
マスターはそう言って、優雅に頭を下げた。
「ありがとうございます。また、きっと伺いますから、その時はよろしくお願いします。」
カウベルの音とマスターに送られ、三人は店を後にした。
「マスターは私たちの話、どこまで聞いていたのかな?」
帰る途中で、唐突に十和子が呟く。
「どうしてそう思うの?」
小夜香は怪訝そうな顔で、尋ねる。
「おとといのことだけど、沢井さん、ナホちゃんたちから逃げ出したでしょう?その時、あそこで沢井さんと話して過ごしたんだけど、その時芸能界にはもう戻らないってことも話したの。私はね、マスターは絶対に私たちの話し全部聞いていると思ってたから、さっきの『私の姿をテレビで見ることを楽しみにしている』なんてことを言われると、そのへんどうなのかなって、少し引っかかったの。」
「時ちゃん。それって、マスターが私たちの話を聞いていないってことじゃないの?」
「そうよね。普通に考えるとそうなんだけど、でも変に引っかかるんだよね。」
「あの喫茶店のことは、気にしちゃだめだよ、何があっても不思議じゃないもの。マスターが飲み物を出す時のタイミングとか・・・そうよ!確かに会話を聞いてるみたいじゃない!」
小夜香はそこで、始めて気づいたというように声を上げる。
「それがあの喫茶店の魅力って言うか、マスターの魅力なのよね。ほら考え込まない。小夜ちゃんがそう言ったのよ。」
「初めてよね。あんなにマスターが話すのは。」
知子が横から口を挟み、それには二人とも頷く。
「そうですね。あんなに話すマスターは初めて。」
「でも、あの古風な話し方は、もっと聞いていたかったな。」
小夜香が付け加え、結局、マスターは魔法使いみたいに不思議で、自分たちの理解を超えた人物だということで、三人は納得した。
退院の日、帰り支度もほぼ終わった頃に、マネージャーの木下がやって来た。小夜香は、すぐに才賀のことを報告したが、彼女はそれに軽く頷いただけで、小夜の状況を確認して十分ほどで帰って行った。そして彼女と入れ替わりに、沢井がやって来た。
「ショートカットの小夜も感じが変わって良いね。」
沢井は、鬘をつけた小夜香に温かな言葉をかけた。それから小夜香は沢井の車に、十和子は小夜香の両親の車に乗り病院を後にして、途中、ざわめくレストランで昼食を摂り帰宅した。家に上がり荷物の片づけが一段落した際に、沢井は小夜香の両親に、彼女を明日彼の家へ連れて行きたいと告げ頭を下げた。小夜香も、そんな彼に寄り添い真剣な顔で頭を下げた。
「沢井君、娘をよろしくお願いします。」
父は、そう言って願いを聞き入れた。十和子は、笑顔の裏に複雑な想いを隠し、二人に祝福を送った。そして、その夜の退院を祝う食事会は和やかに過ぎていった。
「明日、迎えに来るよ。」
真夜中近くに、沢井は小夜香にそう言って一人帰って行った。見送る小夜香は、明日には沢井と共に暮らしているという期待感で、一時の淋しさを紛らした。沢井を見送った小夜香は、十和子と風呂に入り、一緒にベッドに横になった。
「明日からは、沢井さんと一緒だね。料理を作ってあげて、彼の『おいしい!』って言葉が聞けて、望みが叶うんだね。」
「そう、ようやく願いが叶うの。おかしくなりそうで落ち着かないよ。」
「小夜ちゃんがお嫁さんに行くみたいで、私も落ち着かない・・でも、そうか、明日は小夜ちゃんのお嫁入りなんだね。」
「そんなこと言われると、もっと興奮しちゃって眠れなくなるよ。時ちゃん、そうなったら付き合ってね。」
「それは構わないけど、向こうに寝不足で行くのはだめだよ。少しは寝ないとね。」
「うん、わかってる。頑張ってみる・・・」
そう答えた後に、小夜香は顔を手でそっと覆い目を閉じる。
「本当に、沢井さんと暮らせるんだね。ずっと一緒にいてお料理も作れる・・とっても不思議。時ちゃんに全てを話してもらったあの時でも、沢井さんと一緒に暮らせるなんて、まだ信じられなかった。でも退院ができて、明日には沢井さんが迎えに来てくれる・・ねえ、時ちゃん・・」
「どうしたの?」
「そうなると・・そうなるとね、期待がどんどん膨らんできちゃう。どうしよう。あんまり期待し過ぎちゃダメだよね。それこそ贅沢だよね?」
「それって、何を期待するの?コンサート?」
「うん、コンサートもそうだけど、赤ちゃんが欲しい。皆の前で歌う感動をまた味わいたいけど、でもね、一番に赤ちゃんが欲しい・・せめて、二年でも三年でも時間をもらえるなら、やっぱり赤ちゃんを産みたい。そして時間のある限り大切に育てるの。後はママと時ちゃんにお願いすることになるけれど。それでも、それでも・・・産みたいな。沢井さんと私の赤ちゃん・・」
弾む声は次第に小さくなり、小夜香は十和子の胸に顔を埋めた。
「ばかだね。少し調子が良いからって、こんなことを夢見ちゃうんだから。」
「そんなことない。小夜ちゃん、あなたがどうなるかは、先生にも誰にも分からないよ。がんは治る。小夜ちゃんのがんは治るから、これからも一杯将来の夢を話して。そしてその夢をひとつづつ、本当にしていこう。まずは、かわいい赤ちゃんを産んで、あなたの手でしっかり育てるの。それにコンサートもやって、皆に歌を聴いてもらうの。焦らなくっていい。一つ一つ叶えてゆくの。」
十和子に顔を寄せていた小夜香は、ゆっくりと顔を上げた。
「だから明日は、その第一歩だよ。沢井さんに一杯甘えて、一杯優しくしてもらって、おいしい料理を作ってあげなさい。明日、小夜ちゃんは、沢井さんのかわいいお嫁さんになるんだから。」
十和子は、小夜香を見つめ優しく付け加えた。
翌日の朝やって来た沢井は、大下家で午前中を過ごし昼食を摂るとすぐ、小夜香を連れて自宅へ帰って行った。十和子はその日も泊まることになり、夜は武雄の晩酌に付き合い、知子からは小夜香の小さい頃の話を聞き、小夜香のベッドに横になった。ただ横になったものの眠れぬ夜を過ごし、ようやく明け方に眠りについた。
目覚めた十和子は、胸に穴が開いたような空虚感に包まれて、ただじっと天井を見つめていた。
(小夜ちゃん、楽しく過ごせたかな?甘えられた?きっと大丈夫だよね・・私は一人になっちゃった・・何をしよう?誰がいる・・?あっ、美っちゃん・・に会いたい、会ってくれるかな?)
十和子が、後先考えず電話すると緊張した声が返って来た。
「時和ちゃん。どうしたの?小夜香さんに何かあったの?」
「ごめんね、こんな時間にかけて。彼女は元気だよ。治療は通院で良いことになって、二日前に退院したの。」
「そうなの。小夜香さん、退院できたのね。よかった。時和ちゃん。あなたは元気にしてるの?今、小夜香さんと一緒なの?」
叔母の声の温もりが、胸に空いた穴を埋めてゆく。
「うん、私は元気。美っちゃんこそ、元気?うまくいってる?」
「ありがとう。元気にしてるよ。社長も元気に頑張っているし、仲良くしてるよ。」
「そうなんだ。よかった・・ねぇ、美っちゃん。今晩、会えないかな。忙しい?」
「あら、時和ちゃんからの誘いなんて珍しいわね。いいよ。じゃあ新宿でいい?時間は七時でどう?」
「うん。新宿で七時ね。」
「場所は、東口の広場でどう?」
「わかった。待ってるね。ごめんね無理言って。」
「何ば言ぃよるとね、遠慮せんでよかよ、私も楽しみにしとるけんね。」
懐かしい博多弁が返ってきた。美代子と話したことで周りを見るゆとりができた十和子は、本棚にあるファーストコンサートの際の写真のスクラップブックに目が止まった。それは、コンサートの小夜香を撮ったものを木下がまとめ、手製のスナップ写真集にしたもの。何度も見てはいたが、十和子はあらためてそれを手に取り、一枚一枚ゆっくりと捲っていった。会場の熱気が再び脳裏に蘇る。同時にその前後の記憶が、一つ一つ脳裏に浮かんでくる。
小夜香に会えるとわかった時の、喜びの瞬間とその後に襲ってきた不安の日々に始まり、初めて小夜香を見た喜びと興奮、そして思わず話しかけていた一瞬へ続く。そして、沢井が食事に誘う場面に出くわした時の焦り、不安、怒りに、無我夢中で会話に割り込み、三軒茶屋までつけて行き、小夜香を撮られないように庇った場面とその後の取材騒動が被さってくる。それから小夜と友達になれた時の歓喜の瞬間と、夜通し話して過ごしたかけがえのない一日一日。何と言っても、初めて小夜香が抱きついてきた時の驚きと戸惑いの瞬間は心に強く残り、その時彼女の背に回した自分の手の震えも蘇る。ただ、沢井と公園で体験した不思議な出来事は、今でははっきりと思い出せない。それは、小夜香ががんとわかった衝撃に紛れたのかもしれない。そして最近のより強い絆で結ばれることになった、思いの全てを吐露した夜と、その後の公園での決意も忘れることはできない。十和子にとって、これらの記憶をこうして思い返すと何年にも渡る出来事の思えるのに、それがたった半年のことなのに思い至り、ただ、ただ驚く。
(冬から春そして夏・・一年も経っていないなんて・・・)
十和子は、再びアルバムのページを繰ると、目をキラキラさせた、小夜香の顔のアップの写真が目に飛び込んでくる。
(どうか、小夜ちゃんがこのまま元気でありますように。)
「時ちゃん、お昼を食べますよ。」
知子が声を掛るまで、十和子はアルバムを眺め続けた。
「時ちゃん、遅くなっても構わないから、今晩も泊まりなさい。」
十和子は見送られる際に、知子と母が重なり懐かしさが込み上げたが、それは今の自分には秘めた覚悟を鈍らせるだけのものと、心から締め出す。
「ありがとうございます。でも、これ以上甘えられません。今夜からアパートに戻ります。本当に今までありがとうございました。」
十和子は、胸に疼く痛みを無視して頭を下げると、七月の太陽の下へと孤独な一歩を踏み出した。明るい日差しに反比例するように、十和子の心は寒く閉ざされ、運ぶ足取りは重く角を曲がると十和子は足を止めた。そして、あらためて十和子はゆっくり深呼吸をして、目の前の現実を受け止めると再び足を踏み出した。それでも、登戸の駅の階段を目にすると十和子の脳裏には、初めてここに来た時の記憶が蘇る。
東京へ来た日、十和子は足が竦み、事務所のビルへ入れなかった。あれほど決心したのにと悔やんでもどうしても一歩が踏み出せず、時間だけが過ぎる中で、タレントになる自信も決意もない自分を認め福岡へ帰ろうと決めた。それでも、せめて一度だけでも小夜香の姿を見て帰りたいと、ラジオで聞いた登戸から通っているという言葉を頼りに、駅の階段の前で、朝、夕と小夜香の姿を求め待ち続けた。そして、待ち続けた三日目の小雨が降る夕暮れ時に、時和子は階段を下りてくる小夜香の姿を目にした。ようやく時和子が目にすることが出来た小夜香の姿は、まるで天使が舞い降りて来たかのように輝いて映った。嬉しさのあまり、時和子はそのまま小夜香の後を家まで追っていた。
翌日、時和子は再び、事務所の入いるビルを訪れ、階段を一気に駆け上がっていた。
その後に続く恥ずかしい記憶も、独りよがりの恐怖にとらわれ怯えていたことも蘇ってくる。望むものを手に入れるために、自分は変わった強くなったと思っていたのに、本当は何も変わってはいないことに気づかされ、孤独に晒されている自分がいる。そう考えると、何も知らなかった昔とこの先にある結末に怯える今と、どちらが良かったのかわからなくなる。そんなことを考えていると、
(小夜ちゃんを独り占めしている、沢井さんが羨ましいな。)
それまで、考えたことのない沢井への嫉妬心までが芽生えてくる。
(喜んであげないといけないのに、幸せになって欲しいと思っているのに、やっぱり小夜ちゃんに傍にいて欲しい。)
一人佇む十和子を、通り過ぎる人々は不思議そうに見てはゆくが、立ち止まり声をかける者はいない。孤独はただ深まってゆく。
アパートを出る十和子は、会いたいと美代子に連絡をした朝の自分に感謝した。このまま一人アパートで過ごすことは、今の十和子にはできそうになかった。
(今夜だけ乗り切れたら、大丈夫。)
そう自らに言い聞かせる十和子は、やって来た美代子の笑顔に緊張の糸が解れ肩がすっと軽くなった。
「時和ちゃん。待たせてごめんね。元気そうだね。」
「うん、元気にしてる。今日は急に呼び出しちゃったけど、会えて嬉しかぁ。」
「どうした?しおらしかね。さあ、何か食べに行こう。」
「うん、何食べる?」
「時和ちゃんは、何が食べたかね?」
「居酒屋か焼き鳥屋さんで、ビールが飲みたい。いい?」
「いいよ。でもね、二人だけで飲むの初めてだね。行こ行こ。」
二人は、肩を並べアルタの方へ歩きだした。
「それじゃ、目についた最初のお店でいい?」
「そいでよかよ。それで、小夜香さんはどうなの?」
「・・うん、治療は続くけど、元気だよ。」
「そうなのね。退院して家に帰ってるのよね?」
「・・小夜ちゃん、今日から、沢井さんと暮らしてるの。」
「えっ?一緒にいるの?そうなの、よかったね。でも、そうなると時ちゃん、あなたはどうするの?」
「わからない、今はまだ、考え中。」
「それじゃ、うちに戻ってきたら?大井戸も喜ぶわよ。」
「うん、ありがとう。でも、芸能界はもういいかな。」
「前にも言ったけど、小夜香さんに代わることを見つけんといけんよ。それまで、手伝ってもらえればこちらも助かるわ。」
「うん、考えてみる。」
「何でも相談してね。私がいることを忘れないで。」
「ありがとう。」
優しい言葉が、胸に刺さり十和子の覚悟を揺さぶる。
「ねえ、時和ちゃん。ここにしようか?」
居酒屋で楽しんでいる二人のところへ大井戸も加わり、その後彼の馴染のバーに案内され、その夜十和子は酔いつぶれて大井戸のマンションに泊まった。
翌朝、十和子は疼くような頭の痛みを抱えながらも、昨日の落ち込みからは抜け出し、孤独に向き合う術を見つけようと一歩を踏み出した。
沢井と新宿へ向かっていた小夜香は、スーパーへ立ち寄った。彼女は、そこでの沢井と二人だけのショッピングに心浮き立つ喜びを感じ、その時間を心から楽しんだ。
そしてマンションへ着くと、小夜香の胸はさらに高鳴り、これから暮らす部屋への一歩を緊張と期待と共に踏み出した。廊下から続くダイニングキッチンへのドアを開けると、壁一面を覆うガラスの窓とそこに広がる東京の街並みが目に飛び込んでくる。その窓際にはひょうたん型の変わった形のソファが置かれ、部屋の真中に小さめのテーブル、壁際にテレビが置かれてるだけで、右を向くとオープンキッチが目に入った。小夜香にまた緊張感が戻ってきたが、それでも、沢井と暮らせる喜びが心の底からじわじわと溢れ出す。
「小夜、疲れただろう。少し休むといいよ。そこのソファで東京の街並みを楽しんでいて。」
沢井は、小夜香のボストンバックを壁際に置き、買ってきた食材をキッチンへ運びながら声をかけた。
「ありがとう、少し休んだら、食事の用意をするね。」
「ああ、楽しみにしてるよ。飲み物は何が良い?」
「あっ、私が淹れる。」
ソファーに座ろうとしていた小夜香が振り返ると、沢井は彼女の動きを手で止めた。
「小夜を迎える、ウエルカムドリンクだよ。俺が用意するから、そこに座って待ってて。何がいい?」
「じゃあ、リンゴジュースある?他のは、まだ苦いの。」
「わかった。すぐに用意するよ。」
飲み物を手にして来た沢井は、サイドテーブルにリンゴジュースとアイスコーヒーの入ったグラスを置くと横に座り、小夜香の肩を引き寄せ囁いた。
「お帰り、小夜。」
「ただいま、沢井さん。」
小夜香が、沢井の肩に頭を預けると二人は黙って体を寄せ合い、しばらくの間その一時を楽しみ、やがてどちらからともなく口づけを交わした。そして体の火照りを冷ますように、二人は飲み物に手を伸ばした。
「小夜が帰って来たことに、乾杯。」
カチン。二つのグラスが触れあう。
「ただいま、沢井さん。これから宜しくお願いします。」
小夜香は、微笑みグラスに口をつけた。
「冷たくて、おいしい。ねえ。沢井さんは、いつもこの風景を楽しんでるのね。前に食事をしたレストランの夜景も素敵だったけど、ここから見る風景も素敵。」
「住んで三年になると、意識することも無くなっていたけど、二人で見る景色は新鮮だな。でも、今は小夜をずっと見ていたい。」
小夜香を引き寄せた沢井は、両手で彼女の顔を包み込みじっと見つめ、そっと唇を合わせる。唇が離れた時に、小夜香が浮かべた恥じらうような笑みを目にした沢井は、再び彼女を抱きしめ唇を求めた。沢井は昂る気持ちを抑さえ、身を任せる小夜香から体を離した。再び、体の火照りを冷やすように、二人は飲み物に口をつけた。そして小夜香は、再び沢井の肩に頭を寄せた。
「沢井さん、こんな私を選んでくれて、ありがとう。」
その一言に、沢井は小夜香の顔を覗き込む。
「小夜にそう言われると、びっくりするよ。それは俺のセリフだよ。小夜こそ、こんな俺を選んでくれてありがとう。」
「沢井さんはね、私が選んだ世界一素敵な男性だよ。」
小夜香が、嬉しそうに沢井に両手を回すと、沢井は彼女を愛おしそうに抱きしめる。すると小夜香は、急に沢井に軽く口づけをして両手を突っ張るようにして沢井の腕から抜け出した。
「さあ、お料理を作らなくっちゃ。」
立ち上がった小夜香を、沢井は引き止めようと腕を伸ばした。
「だめ。今、引き止めたらお料理つくれなくなっちゃうよ。」
小夜香は、笑いながらその腕をかわした。
「しょうがない。」
残念そうに小夜香の後を追った沢井は、道具の場所を教えるとすぐキッチンから追い出されてしまう。出て行ってと言う指示に従った沢井は、椅子をキッチンの近くに運びに、料理を作る小夜香の姿を嬉しそうに見つめていた。
「待たせちゃって、ごめんなさい。」
小夜香は、ミネストローネのスープ、スパゲッティを添えたハンバーグ、そしてポテトサラダとごはんを、沢井の手も借りてテーブルへ並べた。
「おいしかった。本当に待っていた甲斐があった。毎日おいしい料理を楽しめると思うと、嬉しいよ。小夜、ごちそうさま。」
「どういたしまして。沢井さんの『おいしい』が聞けてよかった。」
沢井は、食器を流しに運ぶとテーブルに頬杖をついた。
「さあ、これからは小夜の姿を楽しませてもらうよ。」
「えーっ。食べてるとこを見るの?それって、趣味が悪いよ。」
「いいね。顰めてる顔もかわいいよ。でもね、何て言われようと、やっと小夜を独り占めできるんだから、いろんな小夜を見ることができる特権を放棄するなんて、俺にはできないよ。」
「だって、そんなに見られると恥ずかしいよ。それに、すぐに飽きたって言うんでしょ?」
「言わないよ。小夜のこと、いつまでも見ていられるよ。」
小夜香は、諦めて彼が見つめる中、料理を口に運んでいると、恥じらいはいつしか安心感に変わっていた。そして、沢井と二人での片付けの時間さえも、心ときめく楽しい一時になった。
小夜香が、窓際のソファーに座り陽が落ちた景色を見ていると、部屋の明かりが消えて沢井が横に座った。
「風呂、いつでも入れるよ。」
「ありがとう。もう少しして入るね。」
小夜香は、沢井に身を寄せ鮮明に浮かび上がる東京の街の灯を見る。沢井は、小夜香を引き寄せると唇の感触を楽しむように、焦らすような優しいキスをする。そして、また互いの温もりを求め寄り添う。
「不思議でしかたがないの。」
小夜香が、ポツリと言う。
「何が?」
「沢井さんとの事。」
「俺のこと?」
「そう、沢井さんとのこと。三軒茶屋からまだ半年しか経ってないのに、こうして一緒にいられるのは、何故なの?」
「そんなこと考えていたの?そんなの簡単なことだよ、俺の願いを神様が聞いてくれたからだよ。」
「沢井さんの願い?」
「そうさ。俺はね、初めて小夜に会った時から、ずっと神様に、小夜をお嫁さんにして下さい、って祈っていたんだよ。だから、神様がその願いを叶えてくれたのさ。」
小夜香は、真面目な顔で話す沢井を見てくすくす笑う。
「沢井さん、そんな嘘ついたら神様が怒るよ。私は、沢井さんに初めて会った時は、噂のこともあって少し距離を置いてたわ。でも、だんだん魅かれてゆくのをどうしようもなかった。」
「そうか、嬉しいな。俺は最初に小夜に会った時から、小夜に魅かれていたよ。だから神様にもお願いしたんだよ。」
「そうなの?何故私なんかに?」
「一目惚れ・・?かな。初めて会った時、小夜は輝いていて、その姿に目を奪われたよ。」
「やっぱり不思議。沢井さんへの私の想いは、きっと片思いのまま終わるって、沢井さんが私なんか見てくれないって、諦めてた。初めて番組にまた一緒に出られるって聞いた時は、本当に嬉しかった。でも局で会った時、沢井さん、さっさと追い越して行くんだもの。あっ、やっぱりそうなんだ、って淋しかったけど諦めもついたの。だから食事に誘ってもらえた時は、本当に嬉しかった。私で良かったの?」
「もちろんさ。小夜でないとだめだ。ここまで一人だったのも、小夜が素敵な女性になって現れるのを待ていたからさ。小夜、これからもずっと傍にいて欲しい。」
「うん。ずっと傍にいさせて。」
「小夜。それでね、ひとつだけ忠告しとくよ。」
「えっ、何?」
「いいかい。可愛い女の子の気持ちを、どん底に落とした後に、その子を誘って喜ばせる、そんな奴は、ろくな奴じゃないから気を付けるんだよ。」
「ふふっ、ひどい。その忠告遅いよ。私はそのロクでもない人に、恋しちゃったんだもの。」
小夜香は沢井の体に手を回し、彼の唇に唇を重ねる。沢井も激しく唇を求め舌をからませる。小夜香の気持ちをじらすように、沢井は小夜香の頬に手を当て体を離した。
「風呂、先に入る?」
小夜香は、頷き立ち上がった。
「小夜、どうぞ。」
風呂から上がった沢井は、先に上がりソファーに座る小夜香にワイングラスを手渡たし、横に腰を下ろした。
「小夜が、ここに居ることに乾杯しよう。」
「ありがとう。一緒にずっと居られますように。」
グラスを合わせ、琥珀色の液体に口をつけた。
「あっ、おいしい。リンゴの・・サワー?」
「そう、特製のリンゴサワーだよ。」
「酔っちゃうかも。」
「小夜のは、アルコールは少しだけだよ。」
「うん、ありがとう。しゅわしゅわって刺激が気持ちいい。」
「よかった。ゆっくり味わうといいよ。」
小夜香は、沢井の肩に頭を預ける。
「幸せ過ぎて、少し怖いな。これから私達どうなるのかな?」
沢井は、そう呟く小夜香の肩を強く引き寄せる。
「小夜。俺たちは、やっと幸せになるスタート地点に立てたんだ。俺たちが、幸せになるのはこれからだよ。心配する暇なんてないよ。」
「うん。」
沢井は、二人のグラスをテーブルに置くと、小夜香の肩に廻していた手を顔にすべらせて、激しく長い口づけをした。その唇は、小夜香の華奢な首筋に這ってゆき、小夜香の喘ぎを耳にした沢井は立ち上がり、小夜香の腕を掴みその体を引き寄せた。そして、そのまま小夜香の足に右腕を降ろしすっと彼女を抱え上げた。あっという間の事に、小夜香は声を出す暇も無く彼の首に抱き付いていた。
沢井は、小夜香を抱えたまま寝室へと向かい、ベッドへ小夜香をそっと下すと、横に寄り添い唇に首筋にキスをする。キスの間も彼の手は小夜香の服のボタンを外し、その動きに合わせ小夜香も服を脱いでゆき、服はベッドの下へ消えた。下着姿を晒した小夜香は、胸と股間に手を当て顔を逸らした。電気が消えると耳の後ろから首筋に沢井の唇が這てゆく。
「あっ。」
くすぐったく痺れる感覚がはしり、小夜香は声を漏らした。唇は、ブラジャーが外された胸にゆっくりと下りてゆく。
何もまとわぬ姿になった小夜香は、初めての快感に身を委ね、沢井に導かれるままに体を開く。沢井は小夜香の全てを味わい尽くすように腕に、足に、背中にキッスの雨を降らせ、そして股間へと辿り着く。一瞬身をすくめた小夜香は、沢井に全てを委ねていた。
小夜香はこの瞬間、未来を忘れ、沢井と共に生きる今だけを見つめ彼の愛に包まれる。
初めての愛の行為は、昇り詰めるような快感とはいかなかったが、沢井とより深く一つになれた満足感を彼女に残し、二人はじっと寄り添いお互いの温もりを分かち合った。やがて、沢井は小夜香の薬指に輝く指輪に手を添える。小夜香は、ぼんやりとその動きを見ていると、
「小夜、結婚しよう。」
彼は、プロポーズの言葉を口にした。
「明日、エンゲージリングを買いに行こう。」
彼の言葉はは、心地良い安心感に包まれていた小夜香に、強い衝撃を与えた。一緒に過ごしていれば、いずれは聞くことになると覚悟はしていたが、さっき未来のことは忘れ今を生きると決めたばかりの小夜香には、『結婚』という言葉は、未来への期待とより強い不安に自分を引き戻す呪文だった。その衝撃は大きく、彼女の心は激しく乱れる。心から待っていた言葉、そして聞くことを恐れていた言葉、それは鈍い痛みとなり胸を締めつける。
「ええ。」
小夜香は声を絞り出し、沢井の胸に顔を埋めた。そして、胸の痛みを抑え顔をあげて微笑む。
「ありがとう、沢井さん。嬉しい。」
小夜香は、沢井の視線を逃れるように彼の唇を求めた。
(もうこれだけでいい。後はもう何もいらない。)
その思いと裏腹に、唇が離れると沢井は続けた。
「実は、式場も予約しているんだよ。予定日は十月八日。湘南の海の近くの小さな教会だけど、きっと気に入ってくれると思う。コンサートが終わって、家族だけのこじんまりとした式になるけど、良いかな?勝手に決めたこと許してもらえるかい?」
「勝手に何て、とんでもないわ。沢井さんありがとう。」
沢井の胸に顔を埋める小夜香の頬に、二筋の涙が流れる。
一つは、喜びの涙。そしてもう一つは、悲しみの涙。沢井の手が、小夜香の背中に廻る。その温もりを感じていても、小夜香の悲しみは積もってゆく。
(きっと、このまま一緒にいることはできない。彼に赤ちゃんを見せることもできない。彼に、悲しみを残すだけなのに、それでも、沢井さんと最後まで居たいと思うのは、身勝手なこと?『結婚しよう』って、言ってもらわなくてもよかった・・いいえ、違う・・言って欲しかった。それだけでいい。もう、式は出来ないって覚悟もしている。・・でも・・何故?わずか二カ月先なのに、間に合わないの?コンサートさえも、諦めているのは何故?こうしていると、今までと何も変わっていないのに、どうしてそう思うの? 私はあと何年?何ヶ月?何日?生きられるの?今、何のために生きているの・・生かされてるの?沢井さんとの愛を確かめるため?それとも、もう諦めたはずのコンサートまでは、大丈夫なの?本当は式まで大丈夫なの・・?ああっ、こんな時、時ちゃんの前で泣けたらいいのに、苦しい思いをいっぱい聞いてもらって、時ちゃんと泣いてすべてを忘れたい・・・)
もうすぐ終わる命の砂時計の砂が、さらさらと小夜香を巻き込み流れ落ちてゆく。終わりの時が、もう目の前に来ているイメージが頭に浮かぶ。そして、耳のすぐ後ろで、
『もう間に合わない』と、何故か聞きなれた声が囁く。
(何が間に合わないの?コンサートなの?それとも結婚式?)
ぞっとする思いに、ぶるっと体が震える。その震えを感じた沢井が尋ねた。
「どうしたの?冷え過ぎるかい、寒い?」
「ええ。少し冷えてきたみたい。」
沢井は布団を引き寄せる、二人に掛けた。
「ありがとう。」
小夜香はこれまでの沢井の優しさに、言葉に、行動の全てに感謝の想いをその言葉に籠めた。それは、自分の命の時がそう永くはないと、知らせる誰かの囁きを感じたから。
(私に残された大切な、短いけれども長い時間。その時間を使ってどれだけの人に感謝を伝えられるのかな。沢井さんへ、時ちゃんへ、お父さん、お母さんへ、木下さんへ、友人達へ、ファンの皆へ、今は、まだ少しでも時間があることに感謝しよう。)
沢井の胸に寄せた小夜香の耳は、トクントクンと鼓動を続ける愛する人の心臓の鼓動を感じ取る。
(生きている調べ・・何て素敵な命の音楽なんだろう。)
月曜日の朝、沢井は抗癌剤の点滴をする小夜香を病院まで送り届け知子に預けると、現場へ向かった。
「ママ。時ちゃんは一緒じゃないの?」
「時ちゃんね、一日だけは泊まったけど、その後はアパートへ戻ったの。それでね、昨日時ちゃんから今日は行けないけど、あなたが家に戻る二十八日には必ず顔を出しますって、連絡があったわ。」
「それじゃ、今日来てくれないんだ。」
小夜香は、胸に溜めこんだ想いを聞いてもらおうとずっと考えていた。それが、会えないとわかり、その失望感に叩きのめされる。
「小夜香、今夜は、また沢井さんに迎えに来てもらうんでしょう?贅沢言ったらだめよ。」
「そうだね。」
そう言ったものの、心の中では十和子を激しく詰る。
(何で来てくれないのよ、時ちゃんのバカ!会いたいのに、私には時間ないんだよ!一人が淋しいんだったら、会いに来てよ!)
小夜香は、点滴が始まってもずっと詰り続け淋しさを紛らした。
その頃、十和子は部屋で一人膝を抱え小夜香の曲を聞いていた。
(小夜ちゃん、今頃は病院?私がいなくって驚いてる?ごめん、会いたいよ。今すぐ会いたい。でも、あなたに会うと、あなたのいない明日が辛くって耐えられなくなるの。彼を憎んでしまう。)
今は、小夜香の歌も心に届かず、彼女のことばかりを考えてしまう。それなら、行けばいいのに体が動かない。涙が零れる。
(小夜ちゃんに会っちゃうと、その後一人になった私は、淋しさでおかしくなるよ。ごめんね。行かなくって、ごめんね。)
時間はゆっくりと流れ、十和子の淋しさも果て無く続く。
午後になり、微睡んでいた小夜香に、
「あら、時ちゃん。来てくれたの?」
と、カーテン越しに母の声が聞こえた。目覚めた小夜香は、そっとカーテンを開ける十和子を目にした。
(何故、早く来てくれなかったの!来ないなんて言って、ひどいよ!会いたかったんだから、会いたかったんだよ!)
そう叫びたい思いを、ぐっと飲み込む。
「時ちゃん、もう来ないと思ってたよ。顔を見れてよかった。」
「遅くなってごめん。かわりない?たった三日会わなかっただけなのに、淋しかったよ。」
「元気にしてたよ、あのね、ママには話したんだけど、沢井さんにプロポーズしてもらったわ。」
小夜香は、母を意識して明るい口調で伝える。ただそうしながらも、十和子の手を握ると小さく頭を振り、顔を寄せて欲しいと手を引っぱり体を引き寄せる。十和子は顔を寄せ、小さな声で尋ねた。
「どうしたの?小夜ちゃん。何故、そんな悲しい目をするの?」
小夜香は、外に声が漏れないように彼女を引き寄せ、言った。
「私ね、結婚式まで生きられない。それまで、私の命は続かない。」
鋭い刃で、体を貫かれたような衝撃に、十和子は絶句する。
「何?どういうこと?どうしてわかるの?結婚式・・いつ?」
十和子は、かすれた声で尋ねた。
「十月八日。すぐなのに、私はそこまで持たない・・って感じたの。プロポーズの時に。信じてもらえないよね?でも、今日はどうしても時ちゃんに傍に居てもらって、話を聞いてもらいたかったの。来てくれて嬉しい。」
(たった二ヶ月!それが間に合わない?短い。短すぎる!)
残された時間の短さに、十和子の心は悲鳴をあげる。
(怯える時じゃない!悲しむ時じゃない!今、辛く苦しいのは小夜ちゃんだ!小夜ちゃんなんだ!私が彼女を支えるんだ!)
それでも、抑えきれず涙が滲む。
部屋に籠る十和子に『小夜香さんの元へ、行ってあげなさい。』と、声が聞こえてきた。今、十和子はその声に心から感謝した。自分の背中を押してくれた不思議な声に、ただ感謝をした。
(小夜ちゃんが、時間はもう無いと言うのなら、信じる。そして、どんなことでも聞く。私は小夜ちゃんを支えるためにいるのだから、残りの時間を悔いのないものにしてあげる。)
十和子は、音をたてないようにそっと点滴のスタンドをずらし、ベッドに腰をおろすと屈み込み小夜香を抱きしめ、二人は涙した。
(今の私には一緒に泣くことしかできないの?何かないの?彼女の喜ぶこと、笑ってくれることは・・?)
でも、何も思いつかず、今はただ、黙って小夜香の悲しみを受け止めるだけ。
「お母さん、ご無沙汰しています。小夜ちゃんは、こちらですか?」
不意にカーテンの向こうから、木下の声が聞こえてくる。
「小夜、開けていい?」
「はい、どうぞ。」
返事と同時に、カーテンが開き木下が入って来た。
「こんにちは。」
「あら、時ちゃん、こんにちは。」
木下は、十和子を見て少し困った表情を浮かべた。
「小夜。体の調子はどう?ごめんなさいね、なかなか顔も出せず。ファンレター、目を通しておいてね。」
木下は、そう言って手紙の束を手渡した。
「いつもすみません。今、体調は良いです。」
「そう、よかった。このまま順調に治るといいわね・・それでね、小夜、ちょっと相談なんだけど、例のコンサートの会場どうしよう?予定日まで、二か月を切ったんだけど、このまま押さえといてもいいのかしら?一度、沢井さんに確認取りたいんだけど、小夜から連絡取ってもらってもいい?」
「そうですね。そろそろはっきりさせる時期ですね。沢井さんと相談して、明日返事します。」
「ごめんね。チケットの件も、人の手配や打ち合わせもしないといけないから、今でも判断の期限は過ぎてるの、お願いね。」
「木下さん、コンサートって、会場の費用はどれくらいかかるんですか?」
十和子は、二人の会話に割り込み尋ねた。
「何故?」
「このまま確保することになるなら、だいたいの目安を沢井さんに話す必要があるかなって、思ったものですから。」
「そうね。今回、会場代だけなら二百くらいかな。他に百万ほどかな、それでいい?」
「ええ、ありがとうございます。」
「小夜ごめんね、大変なところに来て、こんな話をするなんて。でも元気そうでよかったわ、また、来るから頑張ってね。」
木下は、すっとカーテンを抜けると、知子に挨拶をする声を残して去って行った。小夜香は木下が帰ると、点滴をしていない右腕で目を覆い囁いた。
「もう一度、コンサートをやりたい。皆の前で歌いたい。昨日まではコンサートは無理だって思っていたのに、何故かな?今は、やりたくて気持ちが抑えられない・・・おかしいよね、時ちゃん・・結婚式は無理って言ってるのに、コンサートをやりたいって言うなんて。私、どうかしてるよね?」
「ううん、そんなことないよ。さっきは長くはないって言ったけど、でも、もしかしたらこのまま良くなるかもしれない。コンサートだって、結婚式だって出来るかもしれない。だから、気持ちを強く持って。準備だけはしっかりしておくのよ。」
その力強さに小夜香は驚き、覆っていた腕を外し十和子を見つめる。
「だから、コンサートをやりたいって、今の正直な気持ちを沢井さんに話すの。彼も分かってくれるし、喜んで費用も出してくれるよ。迎えに来てくれた時にお願いしよう。あと、チケットのことだけど、無料にはできないかな。それだったら、もし小夜ちゃんに何かあっても、迷惑かけずに中止することもできるでしょう?」
「それじゃあ、その費用は沢井さんにお願いするの?」
「そう。そうしといた方が、沢井さんも事務所も納得してくれると思うの。沢井さんも出すのか出さないのか、はっきりしないより良いわよ・・・小夜ちゃん。あなたのコンサートへの想いを、後悔しないように準備だけはしとこう。」
「うん。わかった・・そう言ってもらえて、嬉しい。ありがとう、時ちゃん。」
小夜香は、感謝の言葉に心からの思いを籠めた。
「小夜、待たせたね。お母さん、遅くなってすみません。時ちゃんも、悪かったね。」
沢井は、ロビーに待つ三人に駆けよりながら声をかけた。
「沢井さん、点滴は、先程終わったばかりですから、どうぞお気遣いなく。」
「そうなんですか。もう七時を回ってるのでとっくに終わったと思ってました。小夜、随分かかったけど大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫よ。安心して。」
沢井は、座っている小夜香に近づき頬に手を当てた。
「良かった。時ちゃん、付き添ってくれてありがとう。」
「いいえ。私が傍に居たくて、勝手にそうしてるだけですから。」
その感情の籠らない冷たい言葉づかいに、嫉妬心が揺らめく。
「あのね、沢井さん。今日、木下さんが来てコンサート会場、どうしたらいいかって聞かれてるの。そのことで、後から相談したいんだけど、いい?」
「ああ、いいよ。」
沢井はそう答えながら、十和子の対応に戸惑っていると、
「以前、お願いしましたけど、コンサートには沢井さんのお力が必要です。だから、よく話し合ってその想いを聞いてあげて下さい。」
さらに、小夜香の言葉を補う十和子の声の冷たさに、戸惑いは確信に変わる。
二人の乗った車が走り去るのをじっと見送る十和子は、小夜香の『長くはない』という言葉に、思い招いていた未来の可能性から甘い期待をそぎ落とし、覚悟を新たにした。
「時ちゃん、帰りましょう。」
思いに耽っていた十和子は、慌てて知子の後を追った。
「今日は来てくれてありがとう。今夜は、このまま家に泊まらない?主人もお酒の相手が欲しいみたいよ。」
「ありがとうございます。でも、少し考えたいこともあるので今夜は帰ります。また、近いうちにお邪魔します。」
「そう。泊まりたくなったら、いつでもいらっしゃい。私たちは大歓迎だから。」
自分が歩むこの先唯一の道を受け入れた今、十和子は人の優しさも悲しみさえも何もかも素直に受け入れられることに気付き、そして沢井への嫉妬心さえも謝罪へと昇華する。
公園の横を歩く十和子の目に、『我蘭洞』の明るい看板が飛び込んできた。マスターに最後の挨拶をしてから一週間も経っていないのに、懐かしさが込み上げてくる。同時に。店の名前を今まで知らなかった自分に呆れ、十和子は苦笑した。
車の中では、小夜香が沢井の悩む姿を楽しんでいた。やがて観念したように、沢井は尋ねた。
「小夜。時ちゃん、今日はどうしたんだい?俺に、怒っていた?俺は何かした?」
「ふふっ。ねえ、沢井さんでもわからないことがあるのね?いい?沢井さんが病院へ来て、何をしたか思い出してみて。」
「ちょっと意地悪だな。それじゃ、彼女は俺が来てからの事で怒ってるの?お母さんは気にするなって言ったけど、遅れたこと?」
「ううん。違うよ。もっと後。」
「後?後は何もしてないよ。」
「来てから、私に何をした?」
「何をって。声かけて・・えっ?頬に触った・・?」
「そうよ。それよ。」
「えっ?なんだよ。それって、それじゃ・・」
「そう。時ちゃん、あなたに嫉妬してたの。」
「えっ?ちょっと待ってくれ。それじゃ、俺は時ちゃんと小夜を取り合う恋敵か?」
「沢井さん、そんな大げさなものじゃないわよ。今までずっと、私と一緒に居たのに、それをあなたが連れ去ったから淋しがっているのよ。だからね、これからは時ちゃんの前では、私にあんまり触れないようにしてね。そうでないと、時ちゃん本当に怒ってしまうわ。今頃は彼女も、悪いことをしたって反省しているよ。」
「そうか。彼女の気持ちを、もっと考えてあげるべきだな。これからは、ご指摘通りにするよ。だけど、彼女の前で何もできない分、後から何倍にも返してもらうから、小夜、覚悟しとくんだよ。」
「ふふっ、本当に子供みたい。いいわよ。二人の時にはいつでも傍にいてあげる。」
(時ちゃん。今晩くらい、家に泊まってね。一人は淋し過ぎるよ。そしてごめんね、私はこの時間を大切にするよ。我儘を許して。)
「いいね。帰ってからが楽しみだよ。」
笑いを漏らしていた沢井は、急に真面目な顔になり尋ねた。
「小夜、時ちゃんって、福岡に恋人がいるのかな?聞いてない?」
「ううん。フリーだよ。でも、どうして?」
「いや、前にね、時ちゃんが良いって言う奴を紹介しようとしたんだけど、聞いてもらえなくってね。今だったら、少しは聞いてもらえるか・・」
「だめ!時ちゃんにそんなことしたら、だめだよ!」
沢井の言葉は、小夜香の強い言葉に遮られる。沢井も驚いたが、小夜香も自分の勢いに驚き手で口を塞ぐ。
「ごめんなさい。でも、時ちゃんには心当たりがあるから、彼女の事は私に任せて。」
「そうか、そうだよな。俺が考えるくらいだから、小夜が考えていてもおかしくなかったね。わか った。この件から手を引くよ。」
「うん。任せといて。」
「でも、本当に二人は、互いの事を真剣に考えているんだな。そんな親友がいるって幸せだな。大切にしないといけないね。」
「ええ、もちろん。でもね、沢井さんにとって、時ちゃんは厳しいお目付役だし、お邪魔虫にもなっちゃうよ。」
「あはは、それは勘弁してほしいよ、彼女の厳しさは経験済みだから、特に、お目付け役は勘弁してほしいな。」
「わかったわ。それじゃ、私から時ちゃんに頼んでおくね。」
「小夜、それはぜひお願いしとくよ。」
「それじゃ、お邪魔虫になるのは認めてあげてね。」
「もちろん、それくらいなら耐えて見せるさ。」
「あっ、それ、ひどーい。」
「ああ、言い方を間違えた。時ちゃんがいつ遊びに来ても大歓迎さ。これでOK?それで、相談したいことって、会場のことだろう?このままにしとくのかどうかって。」
「もう、うまく話題を変えちゃって。あのね、木下さんが、このまま会場を押さえてていいか確認して欲しいって。」
「それは、このままでいいだろう?小夜が諦めない限りは、それでいいじゃないか。費用の肩代わりは、いつでもするよ。」
「うん、ありがとう。それで、もう一つ、時ちゃんがコンサートを無料にしたらって言ってるの。その時に、私がどうなってるかわからないからって。でもそれだと最初から、沢井さんに無理をお願いすることになるの。」
「そうか。いや、それは構わないよ。もともと費用は出すつもりでいたから、大丈夫だよ。だけど時ちゃん、そこまで考えたんだ・・ねえ、小夜はコンサートをやりたいんだよね?」
「ええ。やれればと思って・・いいえ、そうじゃない。今はね、本当にコンサートをやりたい。皆の前で、また歌いたくって仕方がないの。ごめんね、我儘言って。」
「いいや、それだけ聞ければ十分だよ。費用の事は心配しないで。ただコンサートを無料にするとか、そう言う実際のことは小夜に任せるよ。それにしても小夜の体調が、どうなっているかわからないか・・・時ちゃん、はっきり言ったもんだね。」
「時ちゃん、少し変わって来たの。でも、ありがとう。」
小夜香は沢井の頬に感謝のキスをしようと、助手席から顔を寄せた。すると小夜香の唇に、さっと振り向いた沢井の口が重なる。
「もう、危ないよ。ちゃんと前を見てて。」
「わかったよ。奥さん、楽しみはまた後でね。」
二人を乗せた車は、幸せに包まれ我が家へと走ってゆく。
十和子は、明け方まで悶々と眠れぬ夜を過ごし、やっと眠りに着いたのに三時間もすると目覚め、ぼーっと布団に横になったまま、今日何をしようかと思い悩んだ。そんな時、昨日見た『我蘭洞』の看板の記憶が頭に浮かんだ。
(そうだ。今日はマスターに会いに行こう。)
すっと気持ちが軽くなった十和子は、布団を抜け出していた。
『我蘭洞』のドアを開けると、カランカラーンと迎えるベルの音が、いつも以上に鋭く十和子の耳に刺さってきた。その違和感を抱いて店内に入った十和子は、マスターに渡した色紙が飾られていることに気付き、ほっと緊張感が解れた。それでも、その気分は、正午を過ぎた店内に誰も客がいないこと、そして加奈子の姿も見えないことに気づくと、また、場違いなところへ来たという感覚が蘇る。
「いらっしゃいませ。」
マスターだけは、いつもの甲高い声で変わりなく十和子を迎える。
「加奈子さん、今日はお休みですか?」
「いえ、いえ。彼女は辞めたんですよ。大切な方から来ないかと呼んでいただいたと、嬉しそうに申しておりました。ああ、それと小夜香様のサイン入りの色紙を渡しましたが、本当に喜んでおりました。小夜香様には、早く良くなりまた歌っている姿が見れることを楽しみにしています、と伝えて欲しいとの事です。ご伝言よろしくお願いいたします。」
「そうですか。加奈子さん、辞めたんですか。もう会えないのは淋しいですね。彼女の伝言はちゃんと伝えておきます。きっと小夜香さんも喜びます。」
十和子は、一抹の淋しさに落ち込んでいると、
「十和子様は、いずれまた加奈子にお会いできますよ。」
マスターは微笑み、謎めいた一言を口にした。
「話が長くなりました。さて、お好きな席へお座り頂いて結構なんですが、いかがでしょう。たまには窓際の席も、気分が変わって宜しいのではないでしょうか。」
積極的に語りかけるマスターは、手を窓際の席へと向ける。
(今の気分は、奥の席が合ってるのにマスターは何故窓際を勧めるの?明るい景色も、人を見るのも今はいらないわ。それに、さらっと言ったけど、加奈子さんにまた会える?一体どういうことなの?)
十和子は、そんなことを想いながらも、つい窓際の席に目を向けた。すると十和子は、また違和感を覚え、席の先の窓の風景に目が吸い寄せられる。いつもは人の通りも絶えず、車も頻繁に走っているのに、今は人も車の姿も見えない。そう気付いた時には、もう十和子は窓際の席へ向かっていた。
(病院へ通う人も、会社員の姿も見えない。車の姿もない。それに、お店にはお客さんの姿もない。何故?)
「何になさいますか?」
薄気味悪さを感じていた十和子は、マスターの声に純粋に驚く。
「あっ、アイスコーヒーをお願いします。」
十和子は、再び外の目を向ける。やはり、見慣れた景色の中に、人や車の姿が見えない。
(病院の休診日?祝日?それだったら、人の姿がない事も少しは説明できるけど。お店に誰もいないのも休日だから?何の祝日?)
十和子は仕事を辞めて、日付や曜日を意識しなくなっている自分を意識する。
(そう言えば、ここの休みはいつなの?いつでも開いているから気にもしていなかった。本当に不思議なお店だけど、そんなことに、今頃気づく私がおかしいの?)
人の姿を求めてじっと外を眺めていると、料理のおいしい匂いが漂ってきて、昨日から何も食べていないことを彼女に思い出させる。
(お客さん、いないと思っていたけれど、気づかなかっただけなんだ。その人が食事を頼んだのね。良い匂い、私もお願いしよう。)
十和子がそんなことを考えていると、
「お待たせいたしました。どうぞ、お召し上がり下さい。」
彼女の目の前に、出来立ての料理が並んでゆく。一つの皿はピラフにハンバーグがのり、もう一つの皿には、野菜サラダにウインナーとから揚げが添えられている。驚いた十和子は、首を振りマスターを見上げた。
「マスター。私、食事は・・」
言いかけた十和子の言葉を、マスターが遮る。
「お腹が空いていては、楽しい事も前向きなことも、何も思い浮かびません。どうぞ、ごゆっくりお食事をお楽しみ下さいませ。気持ちがきっと安らぎますよ。」
彼の笑顔に十和子は癒され、そのもてなしに素直に感謝する。
「ありがとうございます。遠慮なく頂きます。」
「どうぞ、ごゆっくりお召し上がり下さい。アイスコーヒーはお食事の後にお持ちいたします。」
料理は、前のようにお腹を満たし、不安な気持ちさえもその温もりで癒してくれる。
「ごちそうさまです。とってもおいしかったです。」
心遣いに感謝するその顔は、幸せに満たされ輝いている。食器を引くマスターは、笑顔で頷くとすぐにアイスコーヒーを二つ持って来た。
「よろしければ、十和子様。ご一緒させて頂いてもよろしいでしょうか?他にお客様もいらっしゃらないし、特に今日は、お話をいたしたい気分なものでございますから。」
「ええ、マスター。どうぞ。」
マスターは、十和子の前にグラスを置くと、向かいに腰かけた。
「早速ではございますが、私の話を、お聞き頂いてもよろしゅうございますか?」
十和子が頷くと、マスターは嬉しそうに話しを始めた。
「おお、ありがとうございます。では、十和子様、お聞き下さいませ。実は、今まで胸に秘めておりましたが、私、十和子様の大ファンなのでございますよ。お店を続けていたら、いつか十和子様が、ここにいらっしゃるのではないかと、夢見ておりました。本当にあなた様が来られました時は、私、夢を見ているのではないかと驚いてしまいました。願い続けると夢は叶うものでございますね。その時、私は願いが叶った嬉しさに踊り出したいほどでございました。」
話は、マスターがコーヒーを口にする間、しばし途切れる。
「その時の十和子様のお姿は、光り輝いて見えたものでございます。しかし、今日のあなた様のお姿には、その輝きがございません。いかがしたのかと、少々心配になっている次第でございます。」
マスターは、シビアな目で十和子を見つめる。
「人間、誰しも皆一人でございます。それゆえに、望まなくても、孤独にはすぐにでもなれるものでございます。しかし手を伸ばされれば、いつでも人の温もりを知り、人との絆を感じ取ることもできるものでございます。それはご自身の気持ちと、行動ひとつではございませんでしょうか。こうしてお見受けいたしますと、十和子様は人を寄せ付けない、非常に硬く厚い鎧でその身を覆っておいでのようで、見ようによっては、とっても着心地がよろしいようでございますね。その分、脱ぐのは大変そうでございますが。いかがでございましょう?今すぐに渋谷のスクランブル交差点で『助けて!』と大声で叫んでみますのは?そうすれば身を覆っている鎧も砕け、本当のあなた様を皆様にお見せできるのではないでしょうか?そこに百人の方がいらっしゃれば、お一人くらいは声をかけ手を差し伸べてくれるでしょう。そして、あなたの悩みなぞ、ちっぽけなものだと教えて頂けましょう。きっと、一緒に涙して、十和子様をそのちっぽけな悩みからお救い下さるでしょう。」
世間話でもするのかと、気楽に構えていた十和子は、その皮肉な話の内容に激しく反発する。
(・・何の話をしているの?その丁寧な言葉づかいで、マスターは、私をからかっているの・・?ちっぽけな悩み?私の悩みがちっぽけな悩みだというの?小夜ちゃんが死ぬの、死んじゃうのよ!それがちっぽけな悩みなの?・・そして・・・そうよ。私は一人ぼっちになるのよ!それをからかっておもしろい?)
「私が、十和子様をからかっていると?とんでもございません。ただ、お分かり頂きたいだけでございます。人の死なんてたいしたことではございません。これまでも、数多の人々が亡くなり、これからもまた、数多の人々が亡くなってゆくのでございます。十和子様、あなた様は亡くなられた方にこだわることが、ご自身をお縛りになると同時に、それは相手の方の魂までもお縛りになるものだと、お気づきになられたのではございませんか?いずれそれぞれの魂は、また巡り会うことになるのでございます。何度も何度も、巡り会うのです。ですから一つの別れに、こだわる必要はないのでございますよ。ああ、そうそう、一つだけはっきりと言わせていただければ、自らの命を絶つことだけは、お奨めできかねます。自ら命を絶った魂は、消えて『無』となり再びこの世界に帰ってくることはございません。これまで長い間、多くの魂が培い築いてきた『魂の輪』から消えるのです。永遠にその魂は失われ、再び巡り会うことはできないのでございます。それは残された『魂の輪』の者たちを大いに悲しませ、苦しませることになるだけでございます。このことは、くれぐれもお聞き及び下さいませ。心からのご忠告でございます。」
(マスターって、宗教をやっている人なの?)
目を細め胡散臭そうに、十和子はマスターを睨む。
「いいえ。私は一介の喫茶店のマスターでございます。どこぞの怪しい宗教家ではございません。しかしまだしばらくは、宗教めいた話にもなるかと思いますが、どうかお付き合い下さいませ。よろしゅうございますか。この世界の命あるものは、全てが死を忌み嫌い、死を避け、生に縋りつき後の世代へ命を繋げようと、必死で頑張っているものなのでございます。ただ唯一、人間だけが死を望むことも、そしてそれを叶えることも出来るのでございます。人間とは他の命あるものが、必死で縋りつこうとする生を捨て、死を望めば叶えることのできる、唯一の生き物なのでございます。全く困ったものでございます。特に、自らを自由に考え行動のでき、そしてすべての生き物に君臨するものと思い込んでいることが、さらに困りものなのでございます。人間とは本来はこの世界で、唯一の不完全な生き物なのでございます。」
マスターは、十和子の秘めた想いを見透かすように語る。
「また人間は、唯一、死後の事をあれこれと考え、神を創り、死の恐怖を少しでも和らげようと、身勝手な考えばかりをしております。そして、死を恐れているのかと思っていると、死に魅かれ、死に逃げ込む者も数多おります。本当に身勝手で、ほとほと困り果ててしまいます。あっ。そうそう問題は、十和子様が一人ぼっちになられる、ということでございましたね。」
マスターは呆れ果てたように、首を振り話を続ける。
「これだけお話ししても十和子様、あなた様の鎧には、ひび一つ入らぬようでございますね。残念ながら十和子様、人間とはあなた様のように、身勝手な生き物なのでございます。お一人になるのが怖い?だから小夜香様の死を望まない?生きてるうちから、小夜香様の魂を縛っておいでで、よろしゅうございますね。それなのに小夜香様がまだ生きておられる今、すでにあなた様は一人ぼっちではございませんか。もう一度、お気づき下さいませ。人を縛ることは、自分をも縛ることでございます。同じ過ちを何度、あなた様は繰り返すのでございましょうか。」
胸をえぐる言葉に、十和子は必死に抗う。
(私は、私は小夜ちゃんを縛り付けてはいない!私はただ、彼女の幸せだけを望んでいるの!小夜ちゃんが幸せなら、それだけでいい!それしか望んでいない!マスター、私が小夜ちゃんを縛っているなんて、おかしなこと言わないで!)
「それでは、十和子様。あなた様が今、孤独で不幸せなのは、何故でございましょう?悲しみも嫉妬も浄化したとお考えのようですが、ほんとにそうなのでしょうか?そんな薄っぺらな思い込みの裏では、小夜香様をあなた様から奪った沢井様への嫉妬が溢れかえっておいでではないでしょうか?今、小夜香様はお幸せなのに、それを喜べないあなた様は本当に小夜香様のお幸せを望まれておられるのでしょうか?もう一度良くお考えくださいませ。小夜香様の幸せを、十和子様が素直に喜べないのは、あなた様が小夜香様を縛り、そして縛られておいでだからなのではございませんか?断ち切って下さいませ。その縛り、縛られている思いを断ち切ることで、あなた様も小夜香様の幸せを、素直によろこぶことが出来ましょう。そして、そうすることで十和子様、あなた様の前にも素敵な人たちが現れ、より輝く世界を手にすることが出来るのでございますよ。そしていずれまた十和子様は、生まれ変わられた小夜香様に巡り会うのです。目先のことだけに縛られてはいけません。どうか、もっと周りを見て下さいませ。素敵な世界が、素敵な人たちがあなたを待っておられますよ。」
マスターの言葉は、ただ醜い自分の心を晒すだけで、その救いの言葉も想いも心には届かない。十和子は、自分の醜さに体を震わせる。
(私は、小夜ちゃんのために生きてるの。彼女が幸せならいいの。私は沢井さんに嫉妬なんかしていない。小夜ちゃんが、沢井さんと幸せに暮らしていることを、心から喜んでいるわ。だから、小夜ちゃんの幸せのためなら孤独にも耐えられる!)
そんな姿に、マスターは悲しそうに溜息をついた。
「困りましたね。十和子様のその厚い鎧は、私には壊せないのでございますね。仕方がございません。その鎧を壊せるのは、やはり小夜香様だけなのでございましょう。小夜香様に、お願いするしかないのでございましょう。ただ私は、私の大好きな、十和子様の魂が消えることだけは、何としても防ぎたいと思っております。」
じっと十和子を見つめ、マスターは続けた。
「結構でございます。十和子様。これまでお話したことはもうお忘れください。ただし、今からお話しすることだけは、お忘れになられないように、ご忠告申し上げます。これから十和子様は、小夜香様から、大切なものを贈られます。ぜひとも、それをお受け取り下さいませ。それは、小夜香様から十和子様への、命を繋ぐ贈り物でございます。」
カランカラーン。
ドアベルの音が、十和子の耳に突き刺さる。十和子は、夢から覚めたような感覚に襲われ、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなり周りを見廻した。
「いらっしゃいませ。」
マスターがカウンターの中から、客を迎える声がする。
(えっ?今、ここに・・)
十和子には、何故か、マスターが今まで向かいに座りコーヒーを飲んでいたような、そんな微かな記憶が漂う。マスターは、いつものようにカウンターの中にいて、テーブルのグラスも一つだけ。窓の外には、通り過ぎる人の姿と車が走るいつもの風景がある。
(・・料理を食べて、私はうたた寝をしたのね。それで夢を見ていた。でないと、マスターがあんなにおしゃべりすることなんてないわ・・でも、彼は夢で何を話したの?彼、怒ってなかった?)
十和子は、思い出せないことにイラつき、しばし目を閉じ今見た夢に意識を馳せた。やがて、それ以上求めることを諦める。ただ、その後マスターの姿をじっと追っていた。
「お料理おいしかったです。ごちそうさまでした。」
「どういたしまして。元気になられて、よろしゅうございました。」
マスターは、いつものように優しい微笑みを返す。
十和子は、違和感を拭えぬままに『我蘭洞』を後にした。ただ、不思議と孤独感は消え、誰かが寄り添ってくれている安心感が身を包んでいた。
沢井は、二週間の京都ロケに入る前日、小夜香を送り届け京都へ向かった。見送った後、小夜香はそれまで抑え込まれていたものが一気に出たかのように、虚脱感と頭痛に襲われた。
(沢井さんと一緒の時は何ともなかったのに、どうして?)
そのまま横になった小夜香は、暗い部屋で目を覚ました。時間がわからず時計を見ると、まだ八時なのに何故かホッとする。頭痛は治まったものの虚脱感は抜けない彼女に、孤独感が忍び寄る。
(時ちゃん。まだなの?今日は来てくれるよね?)
下の物音は聞こえても、話声までは分からない。小夜香は力の入らない体を無理矢理起こし、部屋の明かりを点けた。パッと、部屋は明るくなったけど寒々しさは晴れない。小夜香は、ベッドを出て一階へ下りキッチンのドアを開けた。料理を手伝う十和子の姿が目に入り、孤独感は失せ怠さも軽くなる気がした。
「寝てなくて大丈夫なの?頭痛は取れたの?」
「うん、まだ怠さはあるけど、頭痛は治ったわ。それに一人よりここがいいわ。」
「それじゃ、そこに座ってなさい。時ちゃん、ありがとう。ここはもういいから、小夜香の相手をお願いね。」
「いいですか?それじゃ、願いします。」
キッチンからいそいそと出て来た十和子が、横に座る。
「覗いた時は、ぐっすり眠ってたから声かけなかったけど、本当に大丈夫?沢井さんの前で、無理してるんじゃないの?」
「うん。大丈夫だよ。無理もしてないけど、時ちゃんの顔が見れて嬉しいよ。」
小夜香の顔をじっと覗き込んだ十和子は、微笑む。
「・・なんだか変わったね・・落ち着いた感じがする。それに綺麗になった。男の人で、そんなに変わるものなのね。」
「そう?変わった?自分じゃ、わからないけど嬉しいな。」
「うん。幸せそうでよかった。大事にしてもらってる?」
「うん。」
まぶしい笑顔で、小夜香は頷く。
「それじゃ遅くなったけど、食事にしましょうか。」
そう言って、知子が料理を運んでくる。
食後、ゆっくりと過ごした後、小夜香は十和子と部屋に上がった。小夜香がベッドに横になると、ベッドの端に十和子は頭を載せた。
「ねぇ、少し話をしてもいい?」
「うん、いいよ。」
「あのね、小夜ちゃんが点滴をした次の日にね、マスターに会いに『我蘭洞』へ行ったんだけど、そこでうたた寝をして夢を見たの。」
「夢?お店で寝ちゃったの?ねえ、時ちゃん、もしかして帰ってから寝ってないの?だめだよ。そんなことじゃ体壊しちゃうよ。」
「大丈夫だよ、ちゃんと寝てるから。それよりもね、夢にマスターが出てきたの。どんな夢だったか覚えてないけど、ただ、マスターからずっと説教をされて、怒られてた気がするの。」
「怒ってたの?ずっと?うーん、嫌な夢だね。きっとマスターは表情も変えずに、あの丁寧な言葉使いで怒ってたんだよね?でも、何故怒られてたのか全然覚えてないの?」
「そう、なんにも覚えてないし、思い出せないの。」
「ふーん。ちょっと残念。夢だとしても、マスターがどんなことで怒るのか知りたかったな。」
「目覚めた時には、思い出せずにイライラってしたけど、今思うと思い出さなくって良かったのかもしれない。」
「よっぽど酷いことを言われたんだね、可哀そう・・ん?」
その時、素通りした言葉が蘇り、小夜香は言いかけていた言葉を飲み込んだ。
「ねえ、時ちゃん。さっき『我蘭洞』って言わなかった?それってあの店の名前?時ちゃんは、知ってたの?私、初めて知ったよ。どうして今まで気にしなかったんだろう?」
「あっ、そうよ。私も聞こうって思ってたの。そうか、小夜ちゃんも知らなかったのね。お母さんと病院から帰る時に、看板に気づいたの。私もその時、何でそれまでお店の名前を気にもしなかったのか、不思議でしょうがなかったわ。」
「それも『我蘭洞』だなんて、もっといい名前なかったのかな。」
「そう?私は結構似合っていると思うよ。『ガランドウ』なのに、一杯不思議が詰まっている。あそこにはお似合いじゃない?」
「そうか。そう言われると、そうだね。何があっても不思議じゃない喫茶店だものね。そうなると夢で、マスターが何を怒ってたのか気になるな。もしかしたら大事な事だったんじゃないの?本当に思い出せない?」
「ええ、説教され怒られた感覚だけで、思い出せないの。でもそうね、マスターの事だから、私のためを思ってのことかもね。」
「?・・あれっ?待って・・私の夢にも、マスターが出てきたことある!でも・・私も思い出せない・・!」
言葉を切り小夜香は、じっと考え込む。
「だめ!やっぱり思い出せない・・・ああ、気になる!マスター、何て言ったの?夢に出たって、思い出さなきゃよかった!」
「余計な事言ってしまって、ごめん。また頭痛くなんないでよ。でも私たちって、そんなにマスターのこと好きだったの・・あっ、そうだ、小夜ちゃんにマスターから伝言を預かってた。」
「伝言?マスターから?」
「そう。加奈子さんに小夜ちゃんの色紙渡したら、とっても喜んでたって、伝えてって言われてたの。」
「よかった。加奈子さん、喜んでくれたのね。」
「それがね。加奈子さん、辞めたそうなの。」
「えっ!辞めたの?」
「ええ。誰か大切な人に呼ばれて行ったって、マスターは言ってたけど、何だか意味深な言い方だった。」
「それって、恋人?」
「わからない。マスターも、それ以上詳しいことは言わなかったの。ただ私は、また彼女に会えますよ、って言うの。」
「へー。どう言う意味だろう。本当に不思議だよね。」
「そう、不思議過ぎて、もうついけいけない。」
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴り、父の帰宅を告げる。
「ただいま。小夜香は帰って来ているのか?」
「お帰りなさい。時ちゃんと部屋に上がってますよ。」
父は、そのまま部屋へ上がって来た。
「お帰りなさい。」
二人は、声を揃え彼を迎えた。
「ただいま。小夜香、お帰り。沢井君とはうまくやっているのか?かわりはないか?」
「パパ、大丈夫だよ。今日は少し疲れが出たけど、今は良くなったわ。沢井さんには、大事にしてもらっているから安心して。」
小夜香の笑顔を見て、父は頷き十和子に声をかけた。
「時ちゃん、いらっしゃい。面倒かけるね。二人ともあんまり夜更かしするんじゃないよ。」
「ええ、わかってる。もう休むわ。」
「それじゃお休み。」
「お休みなさい。」
父を見送り、それでもしばらく二人はおしゃべりをして眠りについた。
八月に入り、小夜香の咳込みがまた激しくなってきた。小夜香は、不安を抱えたまま八月七日の検査の日を迎えた。
「がんが大きくなっています。これまでの抗がん剤では、効果が薄くなったようです。新たな薬に切り替えることも検討しますが、小夜香さんには、あらためて入院して頂くことになります。」
主治医の宗像は、知子と十和子の二人に検査結果を伝え、小夜香も、その夜検査結果を知った。
「会場のこと、沢井さんにお願いしたばかりなのに、ダメなのかな。どうして、コンサートをやりたいって言えたのかな?」
苦しい咳の中、小夜香は絞り出すように呟いた。
再入院では、十和子がまた、それまで使っていた部屋をさっさと確保した。小夜香は、これまでとは違う抗がん剤の点滴を受け、吐き気に苦しみ、呼吸も浅くなり酸素吸入のチューブも付けられた。 その後、副作用の影響が少し治まって来た時、美代子からの連絡が、十和子の携帯に届いた。
「時ちゃん、小夜香さんの具合はどうなの?」
「今は、落ち着いてるけど、いつまたひどくなるかわからないの。」
「そう。それじゃ、長くお邪魔するって訳にもいかんねぇ。ねえ、時ちゃん、急で悪いけど、少し時間もらえん?」
「えっ?どうしたの?社長と何かあったの?事務所のこと?」
「そうじゃないの、個人的な事。事務所はうまくいっとるけん、安心して。」
「そう、良かった。それで、これから会いたいってこと?」
「ええ。小夜香さんのお見舞いで顔を出すから、その後で少し話せん?」
「うん、いいよ。待ってるね。」
「ありがとう。悪い話じゃないからね。それと、小夜香さんがそんな状況なら、すぐに失礼させてもらうね。」
午後、病室を訪れた美代子は知子と挨拶を交わし、眠っている小夜香の顔をそっと覗き、それから十和子を連れ出した。叔母を『我蘭洞』へ案内する道すがら、美代子は修正申告をしたが、被害届けは出さなかったことや、最近の事務所のことを十和子に伝えた。
二人が『我蘭洞』の前へ来ると、突然、美代子は足を止め、そのまま動かなくなった。じっとドアを見つめる彼女は、今にも泣き出しそうに目を見開き首を振る。
「美っちゃん、どうしたの?」
突然の伯母の変わりように戸惑う十和子を無視して、美代子は今にも泣き出しそうな表情で佇む。
「美っちゃん。いったいどうしたの?大丈夫?」
十和子が、応えない美代子の肩に手を置き揺すると、美代子は虚ろな目で十和子を見つめる。
「・・どうして、思い出すと?」
美代子は、訳の分からない呟きを漏らし、涙を零した。
「ここは止めて、他に行こう。」
美代子は、拒否するように首を振る。
「大丈夫よ。」
彼女は、涙を拭い自らドアを開けた。
カラーン、カラーン、カラーン、迎えるドアベルの音は、まるで二人を異世界へ誘う冥府の鐘のように鳴り響き、木霊する。そこに迎える声はなく、ただ、頭を下げたマスターが待っていた。
「美代子様。お越しになるのを、お待ちしておりました。」
頭を上げたマスターの視線は、美代子に注がれ纏いつく。
「どうぞ、お好きなお席へお座り下さい。」
マスターは、見つめる時を伸ばそうとするかのように、いつもより緩やかな口調で話す。美代子もまた彼を、食い入るように見つめ、その視線が逸れることはない。マスターと美代子、二人の視線は絡み合い、取り残され戸惑う十和子は、二人を交互に見るしかなかった。十和子は、一人場違いな所にいる居心地の悪さを感じながら、美代子の背中を押して窓側の席へ導いた。叔母を座わらせ、気持ちを落ち着かせるため、店内を見渡した十和子は、他に客がいない事に気づいた。窓の外に目をやると、通りにも人影は無く車も見えない。頭の片隅に、前にも同じ経験をしたと囁く声がする。
二人の元へ、注文を取りに来るマスターに気付き、
「アイスコーヒーでいい?」
十和子が尋ねると、美代子は彼を見つめたまま頷くだけ。
「アイスコーヒーを二つ、お願いします。」
去って行く背中には、そこを離れがい雰囲気が漂う。
「いったいどうしたの?もしかして、マスターを知ってるの?」
十和子は、マスターの姿を追い求める叔母の注意を引こうと、テーブル越しに腕を掴んだ。
「違うとよ。初めてん会った人やけど、でも、ずっと近か人んごたっと。どうしたとやろか、目ば離せんとよ。何でか抱きしめてあげたくなると。」
答えた美代子の目から大粒の涙がぽろぽろと零れ、手で顔を覆い啜り泣く。十和子は、美代子の横へ移るとハンカチを手渡し、背中に手を廻した。
「ここに入るんじゃなかったね。店、出てもいいとよ。」
「んんん!時和ちゃん、私はここに来んといかんかったと。マスターに会わんと、いかんかったとよ。」
また、理解できないことを呟く。
「お待たせいたしました。」
アイスコーヒーを二人の前に置いたマスターは、美代子に視線をとどめそのまま佇む。十和子は戸惑い、叔母の視線を辿ってマスターを見ると、彼は思いもよらない言葉を口にした。
「『・・・・』もういいんです。産めなかった子供のことを、もう、悔やまないでください。十分に後悔され、悲しまれたでしょう?その子は決して、あなた様を恨んでなどおりません。ただ、そろそろあなた様の想いに縛らたままの子を、その想いから解き放して下さいませ。あなた様も、新しいお命を授かったことでございますし、どうか、お産みになれなかった子供の分まで、これから生まれるお子様を、大切にかわいがって下さいませ。」
美代子は、絶句し大きく見開かれた目で、マスターを凝視する。
「『・・・・』ありがとうございます。産まれることが出来なかった子供も、あなた様がずっと想い続け、愛され続けていたことを知っております。その子もあなた様を、ずっと愛しております。どうかその子供の分もお腹の赤ちゃんと共に、お幸せにおなりになって下さいませ。」
マスターはそれだけを告げると、美代子からぐっと目を離して、驚く二人に背を向け、カウンターへ戻って行った。
カラーン、カラーーーン
ドアベルの金属音が、再びどこまでも響き木霊する。
その刹那、十和子と美代子は、同時に、投げ出され無理矢理夢から目覚めさせられたような、違和感に襲われる。二人は、何があったのかと互いの様子を探り、そして、知らず知らずのうちにマスターの姿を求めてたが、彼は、いつものカウンターの中にいた。
「マスター、何か話してなかった?」
十和子は躊躇いつつも、叔母に尋ねた。
「時和ちゃんもそう思うと・・?私も・・」
美代子は最後まで言わず、気持ちを切り替えるように頭を一振りすると、唐突に呼び出した本題に入った。
「ねえ、今日、時和ちゃんを呼び出したとはね、私に赤ちゃんが出来たことを伝えたかったと。時和ちゃんにはどうしても、直接伝えたかったと。」
そう語る美代子は、もう落ち着きを取り戻しているように見える。ただ十和子は、今、初めて叔母の妊娠の事を耳にしたのに、自分がそのことをすでに知っていたかのように、冷静に受け止めていることに違和感を覚える。
「社長は、妊娠したこと、喜んでた?」
「ええ、病院にも付いて来てくれて、とっても喜んでたよ。」
「美っちゃん、おめでとう。よかったね。予定日はいつ?」
十和子は気持ちを整理しようと、席を立ち向かいの席へ移った。
(何故、お祝いを言う前に、社長の事を聞いたの?)
余計なひと言を後悔するが、叔母がそれをスルーしてくれたことにほっとする。そして、妊娠のことをもっと喜んでいいはずなのに、素直に喜べない自分に苛立ってもいた。
「来年の四月よ。」
「春になるの、楽しみだね。それで結婚はどうするの?」
「大井戸はね、すぐに籍を入れようって言ってると。今月中には入籍するつもりやけん、そん時は保証人になってくれんね。」
「うん、わかったわ。いい話が聞けて良かった。社長にも近いうちに、おめでとうって伝えに行くね。」
話しているうちに、美代子の表情がしだいに曇ってくる。
「どうしたの?何か不安でもあるの?」
美代子は、辛そうな表情で頷く。
「・・あんね。こげんこと、時和ちゃんに話すつもりなかったけど、聞いてもらってもよかね。」
「急にどうしたと?私は構わんけど、聞いていいとね。」
叔母が話す内容がもうわかっていたからこそ、十和子には聞いていいのか迷いもあったが、美代子は話しだした。
「実はね、妊娠したとは初めてじゃなかと。五年前に妊娠したことあるとよ、相手に家庭があったけん、産むことができんかったと。」
美代子は、複雑な感情の籠る目で訴える。
(そう。美っちゃんが妊娠したことがあるって、私、知ってる。どこで?誰から聞いたの?お母さん?違う!お父さん?違う!おばあちゃん?違う!じゃあ、誰?何故、知っているの?)
解けない謎へのイライラが募る。
「ずっと後悔しとったと。実はね、義姉さんにだけその話をして、慰めてもらったとよ。早くそげん男とは別れんといかんよって言われたと。でもずるずると関係は続いとったと。」
(それじゃ、やっぱり聞いたのはお母さんから?いいえ、違うわ。母が、そんなこと私に話すはずがない。それじゃ誰?)
犯人探しは続く。
「そして、あん事故で、兄と義姉さんを亡くした。時和ちゃん。あなただけが母以外に残された唯一の、血を分けた親族になったとよ。私はあなたを失うことが怖かったと。一人ぼっちになる気がしたと。時和ちゃんが部屋に籠りっきりになった時、大変だったけど、あなたがいなくなることを考えたら、何でんなかったとよ。」
そう語り、美代子は微笑む。
「あなたが立ち直って、東京へ行くって言って、本当にそうした時、ようやく私も彼と別れる決心がついたと。そん後に銀行も辞めて、全てに決着をつけたとよ。」
そして、また泣きそうな表情に変わる。
「そうして一人になったら、産めなかった子供のことが、それまで以上に心に圧し掛かってきたと。何故産んであげんかったと、何故抱いてあげんかったとって。男の子かも女の子かも、聞かんかったとよ。そん子は、きっと恨んどるやろと思ってた。」
十和子がそんなことは無いと首を振ると、美代子も頷く。
「今ね、その子の声が聞こえたとよ。恨んどらんよ。今度産まれてくる、赤ちゃんを大切にかわいがってやらんねって、そう、その子が言ってる声が聞こえたと。それって都合が良すぎるやろか?」
自分の知らない叔母の人生の一コマを垣間見た十和子は、何とも言えない居心地の悪さを感じた。それでも叔母のことを想い、赤ちゃんへの感謝を捧げて、今一度その気持ちを代弁していた。
「美っちゃん。その子は恨んでいないし、美っちゃんと今度産まれてくる赤ちゃんにも、幸せになってって本当に思っているよ。美っちゃんが聞いたのは、その子の声だったんだよ。」
(そうか、私もその子の声を聞いたんだ。だから美っちゃんが話す前から、妊娠の事もその前の事も知っていたんだ。)
ようやくもやもやの答えがみつかり、それと共に叔母の妊娠を心から喜ぶ自分に、十和子は気づく。
「それでね、ここに入る前に、その子がここで待っとるような気がしたと。マスターを見た時、何故か産んでやれんかった子供と重なったと。産んであげとったら五歳なんよ、あんなに大きいはずなかとにね。」
美代子も、またすっきりとした笑顔を見せる。
「社長には、そのこと話したの?」
また、十和子の口が滑ってしまう。
「ええ、彼にマンションに来ないかって、言われた時話したよ。彼ね、そげな事は関係ないって言ってくれたと。」
「よかったね、美っちゃん。お腹の赤ちゃんは、最初の子からのプレゼントだね。」
「ありがとう、時和ちゃん。そう言ってもらって気持ちが軽くなったよ。話してよかった。それでね、今日は妊娠の報告ともう一つ大切なお願いがあったとよ。余計なこと話してしまって、大切な事が最後になったけど、よかね?」
「どうしたの?改まって。いいよ、話して。美っちゃんのお願いだったら、何でも聞くよ。」
「うん、お願いって、この子を産む時、私は四十一歳になっとるとよ。超高齢出産になると。この子に何かあるかもしれんし、私に何があるかもわからんとよ。死ぬこともあるかしれんと。」
「えっ・・何言ってるの、美っちゃん?そんな死ぬなんて。出産するだけで、そんなことあるの?脅かさないでよ。」
「あるかもしれんてこと。高齢出産って、思ったより厳しかとよ。いろんなこと考えんといかんし、簡単には産みますって言えん年なんよ。もしも子供に障害があっても、私が生きとったとすればそれでよかけど。でも、もし私が死ぬことがあったら、赤ちゃんを時和ちゃんにお願いしてもよかね。お願いって、そのことなんよ。時和ちゃん以外、他にこげんこと頼める人おらんけん。」
「美っちゃん。死ぬなんて、そんなこと言って脅かさないでよ。」
「だから、もしかしたらって言よるじゃん。私も赤ちゃん残して、そう簡単に死ぬつもりはなかよ。でも、万が一の時はお願いしていいね?」
(そんなこと!そんな約束できない!約束したら、私は嘘をついてしまう・・)
美代子の申し出に、十和子は返事を躊躇う。
「どうしたと?大井戸まで面倒見てって言うとらんけん。ただ何かあった時、赤ちゃんが心配と。お願いできるのは時和ちゃんしかおらんとよ。」
重ねて頼まれた十和子は、自分を押し殺し力強く頷く。
「わかった、安心して。美っちゃんに何かあったら、赤ちゃんの面倒はちゃんと見るよ。でも、無理しないで体を大切にしてね。」
「ありがとう。これで安心した。本当に万が一のお願いやけん。元気な赤ちゃんを、元気な体で抱いてあげたいけん、頑張るけんね。」
美代子は、そう言って二重の意味でほっとしていた。
『我蘭洞』を出る時、再び美代子とマスターは見つめ合う。
「また、ぜひ、いらしてくださいませ。心よりお待ち申し上げております。」
マスターの名残惜しそうな視線を背に、二人は『我蘭洞』を出た。その時、美代子は自覚がないままに一粒の涙を零していた。
十和子は、美代子と別れ病室の戻るとまだ小夜香は眠っていた。叔母に赤ちゃんが出来たことを知子に告げると、
「良かったわね。時ちゃん、年の離れたいとこになるのね。」
知子は、優しい笑顔で答えた。
その日、智子は早目に帰り、十和子が傍らで本を読んでいると、
「時ちゃん、ママは帰ったのね。」
と、目覚めた小夜香が声をかけてきた。
「ええ、お母さん、良く寝てたからって声をかけずに帰ったわ。胸は痛まない?息苦しくない?」
「大丈夫。痛みも無いし、息苦しくもないよ。でもまだ眠いかな。ところで、叔母さんは何の話だったの?」
「えっ?ずっと寝てたんじゃないの?お母さんに聞いたの?」
「そうだよ、時ちゃんが出てすぐに目が覚めたの。ママが、美代子さんがお見舞いに来てくれて、時ちゃんと二人で、出かけたって教えてくれたの。」
「そうなんだ。あのね、美っちゃん・・」
十和子はそこまで口にして、一瞬躊躇してしまう。
「叔母にね、赤ちゃんが出来たの。その報告。どうしても、私には直接伝えたかったって。」
「そうなの、赤ちゃんが出来たんだ。よかったね。時ちゃんのいとこになるんだね。おめでとう。」
「うん、ありがとう。」
「ねえ、時ちゃん。遠慮しなくていいからね。赤ちゃんの事、私が尋ねなければ話さなかったでしょう?」
小夜香は、いたずらっぽい目を向ける。
「ううん、そんなことないよ。すぐには言わなかったかもしれないけど、機会を見つけてちゃんと話したよ。」
「うん、でもね、そんな遠慮はいらないからね。知ってる人に赤ちゃんが出来て、本当に嬉しいの。」
「わかった。遠慮はしないよ。」
眠りについた深夜、小夜香は人の気配に目を覚ました。
窓の方に顔を向けると、『我蘭洞』のマスターが佇み小夜香を見つめている。小夜香は、その姿に驚くことも、恐怖を感じることもなく見つめ返した。すると、マスターの背後から光がベールのように溢れ出ると、小夜香の体を包み込み、体から痛みや怠さ息苦しさを消し去る。そして、彼の訪問はこれが三度目だと記憶が蘇る。一度目は退院が決まった前日、母の本を読み『死』に対して一人怯えていた夜。彼女の元を初めて訪れたマスターは、死は恐れるものではないと、優しく諭してくれた。それでも我慢できなかったら、十和子に縋るようにと告げた。彼女は、最初は戸惑っても、最後には共に悲しみ、辛さを分かち合い支えてくれると。だから、小夜香は十和子を自分の支えとして選んだ。今は、その言葉の通りに、辛さ、悲しみ、そして恐怖を彼女と分かち合い、支えられている。
マスターが再び訪れたのは、沢井のマンションだった。翌日には点滴のために、病院へ連れて行ってもらう前夜、彼は現れて、コンサートをやりたいかと尋ねた。小夜香はやりたいと答え、逆に、出来るのかとマスターに問い返した。彼は何とかできると答えた。ただ、選ばなければならない条件があるとも言った。そしてその条件は、もう少し後に話すから、その時になったら答えるようにと言った。だからその記憶が微かに残っていたのか、翌日、小夜香はコンサートをやりたいと、十和子に告げていた。
そして今、マスターは三度、小夜香の元を訪れた。
(マスター、今夜は、条件の事を伝えに来たの?私のがんは大きくなり始めたの。それだと、あの話はもう無理なの?)
小夜香は声にならない声で、マスターに語りかける。微かに機械音だけが無機質に鳴り続け中、マスターが応える。
「小夜香様のがんが大きくなっていることは、存じております。そのことでは、申し訳ございません。もう、あなた様のがんが、大きくなることを抑えることができないのでございます。」
「それってどういうこと?今まで元気でいられたのは、マスターの力なの?」
「いいえ。それは、小夜香様御自身のお力でございます。私は少しだけ、お力をお貸ししていただけでございます。」
「マスター?意味が分からないよ。どういうこと?」
「ああ・・それはでございますね。小夜香様のがんを抑えるために、小夜香様のもともとの『命の力』を少し使って、がんを抑えるようにお手伝いをしていたのでございます。」
「えっ?それってどういうこと?『命の力』って何?」
「小夜香様。『命の力』とは、『寿命』とも申します。」
「『寿命』?それじゃ、『命の力』を使うって、私の『寿命』が短くなるってこと?」
「まあ、そうとも言えるかもしれないでございますね。」
「・・呆れた。了解も無くそういうこ・・あっ!もしかして、それで私は退院できて、沢井さんと過ごすことが出来たの?」
「気づいていただいて、ありがとうございます。説明が一つ省けました。」
「そうなの、だったらマスターに感謝しないといけないの?それでも、一言断ってくれれば良かったのに。沢井さんと過ごせるためだったら、絶対、嫌とは言わなかったわ。でも、今は、何故抑えられなくなったの?」
「はい。これ以上小夜香様の『命の力』を使いますと、コンサートで歌うことが出来なくなってしまうのです。今でも、最後まで歌えるかは、わからないのでございます。」
「まだ歌えるの?」
「はい、まだ何とか間に合うかと。それまでしばし、ご不自由をおかけいたしますが。」
「不自由?不自由って?」
「今のような、不快な症状のことでございます。」
「そう。不自由っていうのは、それに耐えて我慢しろってこと?」
「はい、そうでございます。ただ、これはあなた様がコンサートをやる、やらないに関わらず、これからつきまとうものでございます。小夜香様、あなた様にはコンサートをやるとお決めになる前に、考えねばならないことがございます。」
「それが前に言ってた条件の事?今、聞けるの?」
「はい、ただ今、申し上げます。」
マスターは、何とも言えない悲しみにも似た表情を浮かべる。
「小夜香様が歌う際には、あなた様の『命の力』をさらに使わねばなりません。コンサートで歌うことを望めば、それから長くはこの世におられませんでしょう。ですからもし小夜香様が、歌うことを諦めるのであれば、ご不自由なままではあっても、後二ヶ月ほどは皆様とお過ごしになられるでしょう。」
「歌わなければ、結婚式は出来るの?]
[申し訳ございません。どちらにしても、小夜香様はベッドから出られることはないでしょう。」
「それじゃ、私がもっとひどい状況になっていたとしても、コンサートはできるの?歌えるの?」
「その時、小夜香様が何曲歌える、とは申せません。しかし何曲かはお歌いになられるでしょう。微力ながら、私もお手伝いさせていただきます。」
「それって、いつまでに返事をしないといけないの?今?」
「いいえ、すぐにとは申しませんが、実は私の時間ももう、残り少なくなってまいりました。数日中にもう一度、お伺いいたします。その時にお返事を頂ければ幸いでございます。小夜香様、よろしくお考え下さいませ。」
その言葉を最後に、小夜香は再び眠りに落ちてゆく。
(何故なの?マスターは、私が歌うことに何故そんなに拘るの?私の歌をあなたも聞きたい?あなたも私のファンなの?)
翌朝目覚めた時、小夜香は昨夜のことは全て忘れていたが、ただ歌えるかもしれないという想いは、頭の片隅にこびりついていた。
小夜香は、入院して二回目の薬の点滴を受け、軽い吐き気を感じるだけ体調は安定していた。その様子を見て、母は昼過ぎに帰って行った。見送った十和子が、戻って来ると小夜香は言った。
「ねぇ。前に、コンサートを無料にするって言ったこと覚えてる?」
「うん?ええ、覚えてるよ。どうしたの急に?」
「あのね、今はこんなだけど、コンサートの時には歌えそうな気がするの。それで、どうすれば皆に来てもらえるか考えてたの。無料にしても、それ以上は沢井さんに迷惑かけられないから、宣伝もできないでしょう?」
「それで?何を思いついたの?」
「とってもいい事を思いついたんだけど、ただね、時ちゃんには、大変なことをお願いをするけど、聞いてもらえる?」
「いいわよ、言ってみて。あなたの思いつきが、どんなくだらないことでも聞いてあげるよ。」
「それ、ちょっと意地悪だよ。どうせ、たいしたことじゃないって思ってるでしょう?」
「そんなことないよ。ただ、珍しく頭を使ったとは思ってるよ。」
「ひっどーい。時ちゃんに頼るばかりじゃないんだから。じゃあ言うよ。コンサートには、ファンクラブの人たちを招待したいの。結局ファンクラブを立ち上げたのに、特別なこと何にも出来なかったから、コンサートはファンの皆と過ごしたいの。一人でもいい、私の歌を聞いてもらいたいの。ねえ、どう?良い考えだと思わない?」
小夜香は、少し疲れた表情を見せたが、それでも健気に微笑んだ。
「うん、良い考えだと思うよ。ファンクラブの人達を招待するなんて、最高だね。うん、珍しく良い考えだ。」。
「ありがとう、ってなんだか嬉しくない。それって褒めてないよ。」
「ちゃんと誉めてるよ。本当に良い考えだよ。」
「本当にそう思ってくれる?嬉しいわ。それでね、お願いって、ファンクラブの皆に、案内状を出してもらえないかな?本当に大変だけど、お願いできる?」
「もちろんよ。それくらい任せておいて。でも、案内を出すのに名簿がいるけど、事務所が貸してくれるかな・・うーん、そうね。小夜ちゃんの事務所で書いてもいいけど、どっちにしても、お願いしないといけないわね。ねえ、木下さんに頼める?」
「ええ、木下さんにお願いしてみる。」
ほっと息つく小夜香に、十和子は真剣な顔を向けた。
「小夜ちゃん。疲れてるとこ悪いけど、一つだけ聞いていい?」
「何?いいけど、急にどうしたの?」
「あのね、気を悪くしないで聞いてね。コンサートまでたった三週間先だけど、それでもその時に小夜ちゃんに歌える体力が残っているって思う?本当にできる・・?もし本当は無理だって思っているのなら、招待状は出さない方がいいと思う。それは、最初から皆を裏切っているようなものだと思うの。」
十和子は、自分の中でせめぎ合う想いにしっかりケリをつけるため、心を鬼にして問いかける。
「盛り上がっているところに、水を差してごめん。こう言われて、それでもまだやれる、やりたいって思うのならそう言って、私は何があっても小夜ちゃんがコンサートの舞台に立てるために、やれることは何でもやる。だから今、あなたの本当の想いを聞かせて。」
小夜香は、十和子のその覚悟を真摯に受け止めた。
「時ちゃん、ありがとう。厳しい言葉だけど、それは私の事やファンの事を考えてのことだよね・・・そうだよね。時ちゃんが何故そんなことを聞くのか、よくわかるよ。」
小夜香は、ゆっくりとその胸に留まる想いを口にする。
「そうだよね。今でさえこんな状態だから、コンサートなんて無理に決まってるよね。本当のこと言って、体のことは全然自信ない。」
答えるその目に宿る光は、言葉とは裏腹に自信に輝いている。
「でもね、時ちゃん。どうしてって聞かれても答えられないけど、今朝目覚めた時にね、胸の奥から歌いたい、歌えるっていう思いが溢れてきたの・・根拠なんてないよ、でも歌えるって感じたその想いに賭けたいって思ったの・・そんなんじゃだめかな?やっぱり、身勝手なことかな?でも、歌いたい・・最後に・・歌いたい。」
絞り出すような小夜香の言葉に、十和子は涙を堪え頷く。
「うん、小夜ちゃんの気持ちはわかった。九月のコンサート、必ず実現させようね。」
「いいの?体のこと本当に自信ないんだよ。それでもいいの?」
「小夜ちゃんの歌いたいって想いがある限り、支えてゆくよ。いいよね?だから、コンサート必ず実現させようね。」
「うん、必ず歌う。歌うよ。時ちゃん、ありがとう。治療も頑張る。食事も頑張って食べる。そして私はコンサートの舞台に立って、皆に歌を聞いてもらうの。」
「ファンの皆へ歌を届けよう。それまで、しっかり支えるから。」
「ありがとう。気持ちが折れそうになったらちゃんと叱って、頼りにしてるからね。」
小夜香は、ほっと一呼吸おいて続けた。
「でも、よかった。根拠も無いのに何言ってるのって、笑い飛ばされるか、怒られるかもしれないって思ってたよ。」
「それは今、歌いたいって想いをちゃんと話してくれたじゃない。それだけで十分よ。」
「それで時ちゃんは納得してくれたけど、パパやママは納得してくれないよね。二人を説得する時は、協力してね。」
「小夜ちゃん、二人だけじゃないよ。宗像先生って大きな壁があるよ。それこそ、今のまんまじゃ間違いなくNOだよ。」
「そうだ。忘れてたって言うか、考えたくなかった。どうしよう、時ちゃん?」
「わかんない。さすがに厳しいけど、まだ時間はあるから二人で考えよう。」
「うん。頼りにしてる。後少しだけ支えてね。」
何気ない言葉に十和子の心は乱れ、さらに抉られてゆく。
「ねえ、前も言ったよね、もう私の命は長く無いって・・多分頑張れるのはコンサートまでだと思うの。」
「えっ?どうしたの?何言ってるの?そんなのわかんないよ。」
「いいえ。これはもうはっきりしてるよ。そうでしょう?私の体のことだから、わかるよ。だからね、これだけは言っておきたいの。時ちゃんと会って一年にもならないのに、ずっと昔から一緒にいた気がするの。時ちゃんは、心許せる大切な友達。そして大切なお姉さんだよ。ここまで我儘に付き合ってくれて、ありがとう。素敵な、楽しい時間を一杯ありがとう。そして、たくさんの愛をありがとう。時ちゃん、あと少しだけ付き合ってね。」
涙が溢れ、十和子は言葉が返せないまま首を振るが、心では、声に出せない思いを叫んでいた。
(小夜ちゃん、あなたを一人にしない!一人では逝かせない!)
八月二十五日。所用で母が来ないこの日に合わせて、小夜香は奈穂と亜里沙に声をかけ、二人は午後一時過ぎに中学時代の同級生の裕子と由美を連れて来た。
「ナホ、リサ。無理を言ってごめん。裕子ちゃん、由美ちゃん来てくれてありがとう。彼女は十和子さん。時ちゃんって呼んであげて。時ちゃん、二人は私の中学の時の同級生なの。」
起き上がった小夜香は、それぞれを紹介した。
知子が来ないこの日までに、招待状を刷り上げてもらいまた、ファンクラブの名簿も借り受けて、十和子は招待状の宛名書きの準備を整えていた。すでに宛名書きを始めていた十和子は、残りの招待状の束を四人に振り分けた。
「名簿には、一枚に五十人の名前と住所が載ってるから、一枚づつ取ってもらって、書き終わったら戻して次のを取ってね。」
それぞれ場所を確保し書き始めた四人に、小夜香が言った。
「皆、よろしくお願いします。手伝えなくてごめんね。」
「何言ってるの。まかせといて、サーヤはゆっくりしててよ。」
「そうよ。サーヤは歌えるように、しっかり体調整えておいて。」
ナホとリサが返事を返すと、他の二人も頷く。
「ありがとう。」
小夜香は、頬に手を当てていた。
五時までには宛名書きも終わり、五人は途中で眠りについた小夜香が目覚めるのを、話をして待っていた。そこにひょっこりと沢井が顔を出し、彼は友人たちの嬌声に迎えられ、
「今日は、何の集会なんだい?」
驚きの表情で、十和子に問いかけた。声で目覚めた小夜香が、
「お帰りなさい。今日はね、皆に招待状の宛名書きをしてもらっていたの。」
と、代わりに答えた。
「ただいま。招待状って?」
今度は訝しげな表情を浮かべ、沢井はベッドへ向かう。
「コンサートの招待状。私ね、コンサートのステージに立って、皆に歌を聞いてもらいたくってしかたがないの。」
「そうか・・そうなんだ。準備は進んでいるんだね。皆、小夜のためにありがとう。」
沢井は、お礼を言って周りに頭を下げた。
「ところで、お母さんはもう帰ったの?」
「今日は来てないの。招待状のことは、ママには内緒なの。そのうちには話すから、それまで黙ってて、お願い。」
「そうか、お母さんは知らないんだ。」
「お取込み中、ごめんね。」
十和子が、二人の会話に口を挿む。
「小夜ちゃん、もう書き終わったから、皆には『我蘭洞』で食事してもらうから、お礼だけ言ってね。」
「あっ、ごめんなさい。今日は、本当にありがとう。ナホ、リサ、ゆっち、ユミ、また遊びに来てね。時ちゃん、後はお願いします。皆をよろしく。」
四人は、小夜香と沢井に挨拶をして、『我蘭洞』へ向かった。カウベルの音は奈穂たちを喜ばせ、さらに彼女たちは店内の雰囲気もじっくりとチェックしていた。
「マスター。食事お願いできませんか?」
「おまかせで良ければ、ご用意はできます。それでよろしいでしょうか?」
「ありがとうございます。お願いします。」
十和子たちは、窓際の席に座る。
「こんな、クラシックな喫茶店があったんですね?」
奈穂が、何故今まで気づかなかったのかと意外そうに言うと、
「本当に気づかなかった。知っていたら来てたのに。」
亜里沙も、相槌を打つ。
「ここはね、不思議なマスターの居る、不思議な喫茶店なの。紹介がないと、店にも気づかないし入れないのよ。」
十和子は、わざと意味ありげに店を紹介していると、
「そんなことはありませんよ。当店は誰でも、いつでも歓迎いたしますよ。」
すぐ傍で、マスターの否定する声がする。
「ひえっ!」
奈穂は、思わず声を出し、他の四人も体を寄せ合う。
「お食事をお出しするまで、まずはお飲物でもお召し上がりくださいませ。これは、私からのサービスでございます。遠慮なく、お飲みください。」
マスターは、驚く女性たちを無視して、各自の前にアイスコーヒー、ジュース、ホットコーヒー、アイスティーそしてもう一つアイスコーヒー、と順に置いて戻っていった。
「えっ?」
裕子が驚いて、カウンターへ戻って行くマスターを見て、
「時ちゃん・・が、頼んでくれたんですか?」
すぐに振り返り、十和子に尋ねる。
「いいえ。どうして?」
「あの、このグレープフルーツジュース、好きな飲み物を注文も取らずに、マスターが持って来たから・・」
「ここはそんなものなの。ゆっち、気にしないで。」
「いやいや。おっかしいよ。何?あの現れかた。おかしいでしょ?いったいどこから湧いたのよ。絶対、さっきまでいなかったよ!びっくりして死ぬかと思った!それにこのアイスコーヒー、何?私の好みを何で、マスターは知ってるの!それを気にしないでって?おっかしいよ!時ちゃんも、絶対おかしい!」
奈穂が、脅された鬱憤を晴らすように喚く。
「ナホちゃん、そんなに怒んないで。私もね、散々マスターに脅されたから、いつの間にか慣れちゃったの。」
「ふー、ああ。本当にびっくりした。」
「くすくす。ナオ、『ひえっ』だもんね。」
「リサ、それを言うんじゃないよ。わたしゃ、脅されるの大っ嫌いなんだから。」
「とりあえず、飲み物でも飲んで落ち着きましょう。」
皆は一笑いしたところで、それぞれ喉を潤した。そして、由美が引っかかっていたことを口にした。
「時ちゃん。サーヤは、本当にコンサートで歌えるんですか?見ていると、今でも起きてるのも辛そうだし、食事もあまり食べていないし、痩せてとても歌えるようには見えないんですけど・・」
十和子は、手にしていたアイスコーヒーを置き、頷いた。
「私も、今のままじゃ無理だと思う。」
「えっ!」
その言葉に、皆の視線が十和子に集まる。
「だって時ちゃん、歌えるって、何か根拠があったんじゃないの?先生が保証したとか。でないとファンに招待状を送るなんて、そんなのだめでしょう?私たち、時ちゃんには確証があるから、準備しているんだと思ってたんですよ。」
奈穂が、強い口調で問い詰める。
「根拠はね、小夜ちゃんがコンサートのステージで歌うって、言った言葉だけ。彼女の最後の望みがそれだから、何としても叶えてあげるの。それを身勝手と言われてもいい。人に迷惑かけても、彼女をステージに立たせる。彼女が望む限り、最後まで支えるわ。」
四人が思わず身を引くほどの凄みが、十和子から漂う。
「時ちゃん、怖いよ。」
亜里沙は、怯えた顔で訴える。
「最後の望みなんて、サーヤ、大丈夫なんだよね?治るよね?」
奈穂の問いに、十和子は首を振る。
「・・だからね、彼女が望むことは何でも叶えてあげたいの。今の彼女の望みは、たった一つなの。」
友人たちは、言葉を失い押し黙る。
「でもね。彼女と一緒に居ると、不思議と本当にステージに立てるんじゃないかって思えるの。それに私は縋っているだけかもしれないけど、後わずかな時間だからこそ、それは大事な希望なの。」
「時ちゃん、何でそんなことを、さらっと言えるの?」
亜里沙が、囁くような声で抗議する。そんな時、皆の鼻をおいしいそうな料理の匂いがくすぐる。
「残される皆様には、僅かな時間と思われるものも、小夜香様にはけっして、僅かなものではないのでございましょう。きっと一瞬一瞬が小夜香様にとって、貴重で有意義な時間でございます。小夜香様は、皆様とは違う時の流れの中にいらっしゃいますよ。」
また、いつの間にか横に立つマスターが、運んできた料理を、それぞれの前に並べ、会話に割り込んでくる。
「もう少し、お待ちくださいませ。他の料理も、すぐにお持ちいたします。」
残された五人は、あっけにとられその後姿を見送る。そして、彼は再び、皆の視線の中を残りの料理を運んで来た。
「残された貴重な時間も、人によっては悲しむことで無駄に使う方もいらっしゃるでしょう。小夜香様は、幸せでござますね。これだけ皆さまに想われ、そうして亡くなられるまでの貴重なお時間を、希望を持って生きてゆかれるのですから。」
マスターは残りの皿を置きながら、話しを繋ぐ。
「若い命が消えるのは、とても悲しい事でございます。悲しむなと言うのは、無理なことかもしれませんが、小夜香様はまだがんばっておいでです。悲しむのは早うございます。さあ、どうか小夜香様を支えるためにも皆様、お料理をお食べになり、しっかりとお力をお付け下さいませ。どうぞごゆっくり、お召し上がり下さい。」
マスターは頭を下げ、下がってゆく。
友人たちは、これまでの話で悲しみに胸が一杯で、食事なんてお腹に入らないと思っていたのに、目の前の料理の匂いに食欲がそそられ、誰からとなくフォークを手に取り、思い思いの考えに耽りながら、出された料理を口にしていた。
「おいしかった。」
食べ終わった奈穂から、一言感想が漏れる。
「うん、本当においしかった。でもびっくり。最初は、とっても食べられないと思ったのにぺろって食べちゃった。」
亜里沙も目の前の皿を見て、本当に驚いている。
「さっきはあんなに悲しくて、食べる気も無かったのに、なんだかサーヤに悪い気がしちゃう。」
裕子はまだ、小夜香のことを気にする。
「ユッチ。もうここでは、そんなこと、気にしなくって良いんじゃないの?ねえ、時ちゃん。」
由美は悟ったような事を言って、十和子に同意を求める。
「そうね。ここでマスターの変な趣味に付き合った人は、元気がもらえるお料理を食べさせてもらえるの。いつもそう。おいしくって、お腹一杯になった後には、悩みも悲しみも忘れて元気になっているの。さっきマスターも言ってたけど、今は悲しむんじゃなくって、小夜ちゃんと一緒の時間を大切にしてゆきましょう。」
「今だと、その言葉に納得できるのが不思議だよね。でもね、私たちに何が出来るの?時ちゃん、どうしたらいいの?」
「そうね。今、皆にお願いしたいことは、コンサートの時には、ぜひ手伝って欲しいってことかな。受付とか、案内とか。特に受付は、どれくらいの人達が、来てくれるかわからないけれど、あらためてそこで住所を書いてもらおうって思ってるの。」
「えっ?わざわざ住所を?それを書いてもらうの?」
「小夜ちゃんがね、歌えなかった時に、一言でも手紙を書きたいの。だから住所も名前もね、書いてもらいたいの。」
「でも、手紙を書くって誰が書くの?サーヤ?」
亜里沙の質問に、十和子は微笑む。
「いいえ。私が、彼女の代わりに書くつもり。」
「何百人も来たら、どうするの?」
「それでも、一人一人にちゃんと書くつもり。歌を聴いてもらえなくってごめんなさいって、彼女の気持ちを届けたいの。」
「それじゃ、その時は私たちもお手伝いします。」
「うん、ありがとう。でも、これは私一人で書きたいの。ごめんね、わがまま言って。」
その優しい表情に、四人は思わず惹きつけられる。
「他にも手伝いをお願いすることは、一杯出てくると思うから、そんな時には声をかけてもいいかな?」
「もちろん。出来ることは何でもします。」
奈穂は、十和子が見せた笑顔にどぎまぎしながらも、尋ねた。
「ねえ、時ちゃん。サーヤ、コンサート会場まで行けるの?先生は許可してくれてるの?」
「いいえ。先生には、まだお願いしてないの。でも、コンサートの時には、付き添いもお願いしないといけないから、許可は絶対に必要なんだけど、それはもう少し先になるわね。」
十和子は、心配そうに見つめる四人に、
「今はね、他にも心配事は一杯あるけど、コンサートをやることを前提に動くから、皆もそれを前提に助けてほしいの。お願い。」
と、言って頭を下げた。
奈穂、亜里沙、裕子そして由美は、しっかりと頷きそれに応えた。
病室では戸惑いの表情を隠そうともせずに、沢井は小夜香の手を握り尋ねた。
「コンサートか・・小夜、今の体調のままで歌えるの?」
「吐き気はきついし怠さも取れないから、今のままでは歌えるとは言えないけど、でもね、何故か歌えるって思ってしまうの。時ちゃんにそう言った時、笑われるって思ってた。時ちゃん、笑わなかったの、コンサートができるように支えてあげるって言ってくれた。沢井さんもお願い、無理だなんて言わないで。今は、歌いたいっていう想いと、皆に応援されているって喜びが、私の支えなの。」
沢井は、握った手を両手でしっかりと包む。
「わかったよ、小夜。俺も、小夜が歌えるように支えの一つになるよ。でも、無理はするんじゃないよ。それにお母さんに隠し事もよくないな。お母さんはずっと小夜のことを心配して、これまでも支えてくれているんだから、今俺に語ってくれたように、小夜の気持ちをちゃんと伝えないといけないよ。いいね。」
「うん、わかってる。ママには近いうちにちゃんと話すわ。ねえ、沢井さん・・」
小夜香は優しい微笑みを湛え、沢井を見つめた。
「何?どうしたんだい・・?」
「あのね。私ね、これまでずっと、沢井さんには素敵なプレゼントをもらってばっかりだったよね。だからね、そのうちに私から沢井さんへ、素敵なプレゼントを届けるからね。」、
「プレゼント?本当にどうしたんだい。急にそんなことを言うなんて。俺が欲しいプレゼントは、小夜が元気になってくれることだけだよ。他には何もいらないよ。」
「沢井さん、ありがとう。でもね、プレゼントはきっと届くから楽しみにしててね。そのプレゼントはとっても脆くて、壊れやすいの、だから届いてからも大切に扱ってあげてね。」
「えらく意味深なことを言うね。わかったよ。それはそれで楽しみにしとくよ。でも、それはいつ届くの?」
「内緒。楽しみに待ってて。ねえ、沢井さん、抱きしめて。」
小夜香は甘えるように、沢井へ両手を伸ばした。沢井は少し布団をめくると、上半身を小夜香に覆いかぶせるようにして、彼女の背中に手を回し抱きしめた。
「ありがとう。」
小夜香は、沢井の重さを受け止め、両手を彼の背中に回し囁く。