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天下の素首  作者: 蓮見友成
9/15

八、憎しみに囚われても

長良川の戦い、開戦。

道山の側をなかなか離れる事が出来ない天であったが、その懐には道山が信長に宛てた書状が仕舞われていた。それを届ける為に、天は戦線離脱を余儀なくされる。

一方信長は、岳父斎藤道山の救援の為、軍を率いて木曽川を渡り終える。しかしそこで信長を待ち受けていたのは、道山の奇妙な小姓衆の一人、氷だった。氷は信長に、尾張へと戻るよう告げるが、信長は氷の制止に聞く耳を持つことはなかったー。

 さて、氷の制止を振り切り、道山への援軍を引き連れ先を急いでいた信長であったが、彼が長良川に辿り着く事はなかった。

 「死んだよ。マムシ様はもう、死んでただの素首に成り果てたぞ、信長サマぁ。」

 そう信長に告げに来たのは、長良川の戦場から脱していた天であった。

 天は何故か蒼におぶられた状態で、信長軍のところにふらりと現れた。側には影も控えている。

 信長は天の言葉に、まずカッと目を見開いた。怒りか悔しさか、はたまた悲しみか、信長の顔はこれでもかと力み、赤く染まり、歪んだ。しかし信長の口から怒声が漏れる事はなかった。不気味な程に、静かだった。

 対する天も、それ以上は何も言わなかった。蒼の背でだらりと脱力したまま、動かない。

 異様な二人の様子を前にして、信長の兵は緊張で誰もが身動ぎ一つ出来ずに、唾を飲み込むばかりである。

 そんな痛々しい静寂を壊したのは、信長の馬に同乗していた氷だった。

 「『申し訳ございませぬ、岳父殿…。この織田上総介信長、あれ程世話になった義父一人救えぬとは、一生の不覚。つきましては詫びとしまして、ここにいる氷に、たらふく飯を食わせる事をお約束し、』…っ痛っったぃ!落とすなんてひっどいなあ、信長様!」

 明らかにふざけた様子で信長の声真似をしていた背後の氷を、信長が思わず馬から払い落としたのも無理からぬ話だった。

 「なんで岳父殿が死んでお前に詫びをせねばならん!大体岳父殿が死んだのは岳父殿の責任だ。俺のせいじゃない。大体お前なあ、今はそんなおふざけをする雰囲気じゃなかっただろ!しかも俺の声はそんなに安っぽい声じゃない!」

 そして続いた信長の心からの叫びに、地面に腰を強かに打ち付け呻いていた氷が、えーと不服そうに返事を寄越した。

 「こちとら不眠不休でマムシ様と信長様の為に奔走してたっていうのに。少しくらい冗談にのってくれたっていいっしょ?」

 ぶつぶつと文句を言いながら、氷は信長の方ではなく、蒼におぶられている天へと駆け寄っていく。

 「おーい、天?どうしたんだ。え、てかホントこれなに?もしかして凄いご機嫌斜めなんじゃないの?」

 蒼の肩に顔を埋めてしまっている天の頭を氷がそっと撫でるも、天から返答は無い。

 代わりに口を開いたのは、事情を知っているのであろう蒼と影だった。

 「道山様がいよいよ討って出るってなった時に、俺達は戦線から離脱したんですけど…、」

 「はじめのうちは天も自分の足で走ってたんだよ?だけど暫くしたらさあ、義龍軍が異様に盛り上がる声が聞こえてきて、ああ、道山様が討ち取られたのかってなって…。そしたら天ってば、すっかり不貞腐れちゃってさ、」

 「俺の背中に飛び乗ってきて、そのままこの状態って訳です。」

 二人の話を聞いた氷が、なるほどねと苦笑いを浮かべた。

 「拗ねちゃったか。しょうがないなあ。」

 よしよしと氷は天の頭を撫で続けながら、信長を振り返った。

 「さて信長様、本当にこれより先は、向かうだけ無駄っす。今度こそここでお引取りを願いますよ?くれぐれも弔い合戦なんて、バカな事は言い出さないで下さいね。」

 氷が戯けた口調とは裏腹に、淡々と信長に告げる。しかしながらその表情からは言外に、「いい加減にしろ」という氷の苛立ちが見て取れた。疲れや眠たさも相まっているのだろうが、道山の死に、氷をはじめ道山の小姓衆だった彼らが、多少なりとも怒りを覚えているのは確かなのだろう。

 だからこそ、道山の望み通り尾張に引き籠もっていなかった信長に、彼らは苛立ちを募らせ始めている。

 信長は氷には答えずに、天を仰いだ。

 

 ー 引き際か…。


 信長の目的であった道山救出は、もう成し得ない。

 しかし無駄足で帰る事もまた、信長には耐え兼ねた。散々周囲の反対を押し退けての出兵である。せめて一泡だけでも、義龍に吹かせてやりたい気もする。

 信長が珍しくも決断出来ずにいると、なにやら前方と後方が揃って騒がしくなってきた。

 信長が不審に思い、眉間に皺を寄せていると、よくよく見知った二人の青年が、慌てた様子で信長の前に姿を現した。

 前田利家と毛利新介である。

 今回二人は、信長の側には置いていなかった。

 利家はそもそも従軍させておらず、尾張に残っていた筈で、新介は従軍はしていたが、先鋒を務める森可成の隊に入れていた筈だ。可成は美濃の出である。そのせいもあるのか、可成は殊更に張りきって軍の先頭に立っていた。彼の隊も随分と先へ進んでいる筈だ。

 ここにいてはならない二人が、確かに信長の眼前にいる。つまりは非常事態だ。

 地面に膝をつき頭を下げた利家と新介に、信長はまず「利家!」と鋭い声を発した。

 それに利家が「殿!」と焦れたように話し出した。

 「岩倉の連中が!殿の留守を狙って!清洲に向けて挙兵しようとしている動きがあります。その数三千!」

 利家の報告に、周囲の家臣が動揺してどよめいた。その心内は信長も同じだった。明らかに岩倉勢の動きが迅速に過ぎる。信長は美濃への出兵を、突然を装って行った。それまでは敢えて徹底して、道山と義龍の争いに無干渉を貫いてきた。それは何故か、尾張の反信長勢力に、足元を掬われないようにする為である。突然突飛の信長の行動に、他の敵対勢力がそう簡単に対応出来る筈もない。いくら今、清洲城が空っぽ同然だからといって、それじゃあ今から清洲城を攻めようとはいかない筈なのだ。何をするにも相応の準備が必要で、しっかり手順を踏まなければ動けない連中ー、それが岩倉衆と織田伊勢守である。

 だからこそ岩倉衆が、前触れの無い信長の留守を狙って挙兵する事態など、本来起こり得ない筈だった。

 しかし、利家曰く、それが起きている。

 

 ー あーあ、こんな事なら、岩倉城の織田伊勢守あたりに頑張ってもらうよう、手回ししたのになぁ。


 そこでふと、信長の脳裏に浮んだのは、先の氷の言葉であった。信長を尾張に留め置く為に氷は、道山に細工をしろと命じられたと言っていた。それを氷は結局無視したらしいが、果たして氷の言は本当だったのだろうか。

 信長がキッと氷を睨み付けると、信長の意図が解ったのだろう。氷がブンブンと首を横に振った。

 「いやいやいや、今回のそれは俺らの仕業じゃないっすよ!今回はホントにそんな手回ししてる余裕無かったっすから。今回は無罪!ほらほら、あれじゃないっすか?義龍あたりが伊勢守に入れ知恵したんっしょ、たぶん。」

 やけに繰り返される「今回は」という言葉に、信長は色々と聞きたい事があったものの、ここは言葉を呑み込んでおいた。それに恐らく、義龍の入れ知恵というのは正しい。まるで義龍と伊勢守が予め示し合わせたかのような動きだったからだ。義龍はきっと、信長が美濃に出張ってくる事まで予測していたのだろう。信長の無干渉を、義龍は逆に疑っていたのだ。

 そわそわと落ち着きのない利家に、信長は取り敢えず「わかった」と頷いてやると、次いで新介の方に顔を向けた。

 新介が今一度、深く頭を下げると口を開いた。

 「森可成殿からでこざいます。殿には今すぐに、撤退を始めて頂くように、と。可成殿は既に先鋒の自身の部隊に、撤退を命じられました。間もなくすれば、うまく戦線を離脱出来た者達から、こちらに合流してくると思われます。可成殿がその…勝手に撤退の指示を出したこと、殿には誠に申し訳ござらんが、それだけ切羽詰まった状況だと言う事をお察し頂きたいと、そう言付かっておりまする。」

 新介の報告に、再び場がざわついた。義龍の軍が迫ってきている事もそうだが、可成が信長の許可を得る事なく、勝手に軍を引き上げ始めた事にも、皆驚いていたのだ。

 「それと…、可成殿は負傷しておりまする。敵の千石某とか申す武将と馬上で渡り合い、可成殿は膝ちかくを斬られ…、しかし敵の方も腕を痛めたようで、双方引き下がる形になりました。敵方は足軽含め勢いが凄まじく、可成殿も苦渋の決断で撤退と申されて、それで、」

 新介がこうも、歯切れの悪い言い訳じみた話し方をするのは珍しい。新介は良くも悪くも落ち着きがあり冷静で、血気盛んな若者衆の纏め役のような青年だった。信長の事も昔からよく知っており、信長が嫌う話し方もわかっている筈だ。それが状況だけを簡潔に報告すれば良いものを、可成の撤退指示を庇うような口を利いている。常の新介からは考えられない失態だ。

 それもこれも、森可成という男のせいなのだろう。

 可成は不思議なほど、万人に慕われている。可成を悪く言う者を、信長は知らない。

 あのおおらかな性格を好む者も多いし、同じくらい呆れ果てる者も多い。城下を歩けば武士も農民も商人も、子供から大人まで、皆気楽に可成に声を掛けたがる。「調子はどうだ」と問うて、可成が「いやあ実は困った事があって」と頭を掻いて笑えば、誰もが可成に手を貸したがる。

 そうだ、慕われているというより、人を絆すのが巧い男なのだ。人の情を集めて、人を縛る。信長が知る中で一番の人誑しだ。かく言う信長もまた、可成の言動には弱い。

 その可成が撤退だと言った。それも信長の許可無く軍を退き始めているときた。本来であれば厳罰ものだが、可成は頭もキレるし、戦の経験も豊富だ。恐らくその判断に、間違いはない。

 信長の背後では岩倉衆の不穏な動きもある。どちらにせよ、引き際だった。

 「…わかった。退く。」

 撤退とはいえ、尾張に戻るにはまた大河を越えなければならない。どうしたって手間取るのは目に見えている。義龍軍も信長軍の尻に喰らいついてくるであろうし、本当に何も得るものの無い戦になってしまった。

 信長は内心で「くそが」と吐き捨てると、軍を後退させながら、ちらと天達の方を見遣った。

 いつの間にか顔を上げた天が、未だおぶられたまま、蒼の肩に顎を載せて、信長をじぃっと見つめている。

 信長はフッと笑みを溢した。心底可笑しな気分だ。

 

 ー ここにもまた、可成に絆された者がいる、か。


 「天よ、可成を助けてやってはくれぬか。別に可成が、最後までしんがりを務める必要はない。俺らは俺らで逃げおおせるから、可成には可成で逃げさせろ。…できるか。」

 信長の問いに、天は不機嫌そうに顔を逸した。

 「あんたに命令される筋合いはない。けど、可成には儂が病で倒れた時に世話になったからな。可成は絶対に助けてやる。…可成の為じゃからな。」

 念押しするように「可成の為」を強調した天に、信長は「ははっ」と笑い声を上げた。

 「わかっておるわ。」

 天は信長の返答を聞くと、のそのそと蒼の背から下り立った。そして手早く仲間達に命じていく。

 「影、お前は儂と一緒に来い。氷は蒼を連れて信長サマを一応お見送りしろ。木曽川さえ越えさせれば後はなんとかなるじゃろ。マムシ様の最後の望みでもある。そのくらいはしてやれ。」

 天の言葉に、蒼だけが顔色を変えた。

 「なっ…、俺は天さんと一緒に行きます!今回は別に…俺でも良いでしょう?」

 いつか聞いた事がある台詞だと、信長は思った。そうだ、あれは確か、村木城攻めに向かう前に、蒼が執拗に主張していた事と同じだ。天が村木城攻めに行くなら自分も一緒に行くと、蒼はあの時も言い張っていた。あの時は致し方なく留守番する事になっていたが。

 しかし今回もまた、天は首を横に振った。

 「儂は影を連れて行くと言っている。かと言って今の状況で、氷を一人には出来ない。だからお前には氷と一緒に行けと言っている。…これは命令じゃ。いいな。」

 そう告げた天の目には、有無を言わさぬ圧があった。蒼もそれを察したのだろう、それ以上天に逆らう事は無かった。

 結局、別れの挨拶も何も無しにその場を走り去った天と影を見送りながら、信長は氷に問うた。

 「そんなに影の方が良いのか。」

 可成の方は足軽合戦だ。別に蒼を連れて行っても良いように、信長には思えたのだ。蒼は昨年、可成の屋敷にいた時に、可成に槍の稽古をつけてもらっていたらしい。もとより蒼の槍の腕前は、中々のものだったと聞いている。

 「あー…、それはっすねえ、なんというかー、複雑?」

 珍しくも氷が、言い淀みながらも説明した。

 「あのぅ、このあいだ、織田信光が那古野城で暗殺されたっしょ?信長様はたぶん薄々気付いてたと思うんっすけど、あれ影の仕業なんっすよねえ。で、問題はそれが、影の独断だったって事で…。」

 氷の言葉に、信長は思わずヒュッと喉がしまって、相槌さえうつことが出来なかった。叔父信光の暗殺が「影の独断」だったと、氷はそう言わなかったかー。

 天でも、ましてや道山の差金でもなかったというのか。

 天に置いていかれて落ち込んでいた蒼が、ここで初めて会話に加わってきた。

 「天さんは、影が独断で信光を暗殺した事を、勿論良しとはしませんでした。烈火の如く怒って、それこそ影さんを血祭りに上げる勢いでしたけど…、当の影さんが全く懲りてないんです。」

 蒼の言葉に続けて、氷が大きな溜息をつきながら言った。

 「影って俺らの中でもちょっと変わってるっていうか…。俺も蒼も、それに火種も、天にまあ助けられた過去があって、その恩返しも兼ねて天に仕えてるんです。天に拾われたって感じですかね。そりゃあ単純に、天が好きってのもあるっすよ。大事な主であると同時に、大事な友でもありますから。だけど影はなんていうのかなあ、もっとこう…『天』っていう『偶像』を崇拝?崇敬?してるみたいなとこがあって、」

 「影さんは別に、天さんに恩があるとか、そういう訳じゃないみたいなんです。気付いたらいつの間にか引っ付いて来てた感じで…。天さんも最初は戸惑ってたんですけど、如何せん影さん、働きぶりは良いですし、元々伊賀者ってだけあって、俺らには出来ない事も出来たりしますし。それに明るくて優しい…普通に良い人です。」

 「ただ異様にこだわるんだよなあ。『この世に復讐する為に、この世を治める奴の首を叩き落としたい天』っていうのに。」

 そういえばと、信長は氷と蒼の話を聞いていて、思い出した事があった。

 「いつか影が言っていたぞ。『それが出来れば、まるで天罰を下すみたいで、まるで神様みたいだ』…とかなんとか。」

 信長の言葉に、氷と蒼が顔を見合わせた。

 「信長様にもその話してたのかぁ。」

 「いつも影さん言ってますもんね。天さんが下す罰、まさに天罰だって。」

 「そういう考え方だからだろうけど、天の発言はぜーんぶ、実現しなくちゃならないみたいなとこあるよなぁ、影は。」

 氷の言葉に、信長が首を傾げると、氷がどこかうんざりしたような口調で続けた。

 「村木城攻めの時、天を信光率いる守山衆に付けたの覚えてるっすか?その時になんか色々あって、天ってば、信光の首に刃物突き付けて『次はない』って脅したそうなんっすよねえ。あの時信光、信長様に囮に使われたのに気付いてて、村木城攻めで手抜いてたでしょ?そういう『信長様を裏切るような真似をするな』って釘を刺したらしくって。マムシ様の意向もありましたしね。」

 「でも結局、信光は織田大和守と坂井大膳ら元清洲衆と共謀しました。結果的には、俺らと信長様で手を回しましたから、信光は逆に大和守達を裏切る事になりましたが、それでも信光が信長様を裏切ろうとした事には変わりありません。そこで影さんは、天さんの『次はない』という言葉を実現させる為に、影さんの言うところの『天罰』を下しに行きました。あの頃はまだ、天さん本調子じゃなかったですから。代わりに影さんが信光を殺した。」

 信長は氷と蒼の話を聞きながら、背筋が寒くなる思いがした。

 「それで独断で信光を暗殺、か。…影はとんでもないな。」

 信長の言葉に、氷も蒼も正直に頷いた。

 「普段は別にいい奴なんっすけどねえ。たまにおっかない事しでかすから、」

 「最近は天さん自らお目付け役をしている感じなんです。目を離した隙に勝手をされちゃ困りますから。それも天さんの為に、みたいな名目でやらかされては、俺らも注意し辛いところもありますし。」

 なるほど、と信長は頷いた。ちなみにそんな無駄話をしながらも、信長軍は今のところ、順調に来た道を戻っている。

 ところでと、信長は先から気になっていた疑問を口にした。

 「お前ら、二人でいるとやけに息が合っているというか、やけにうまいこと交互に話すよな。いつもそうのなのか?」

 信長の問いに、二人は揃って首を傾げた。

 「まあ、親の腹ん中にいた時から一緒だもんなあ。」

 「あまり意識した事はありませんけどね。もしかしたら自然と息は合っているのかもしれません。」

 「ま、なにせ俺たち、」

 「「双子ですから。」」

 そう言って声まで揃えてみせた氷と蒼に、信長は思わず素っ頓狂な声を上げた。

 「すこっしも似てるところ無いよなお前ら!」

 見た目も性格も、まるで似ているところがない。これで双子だと言われても反応に困る。

 奇っ怪なものでも見るような信長に、氷が呆れたように指摘してきた。

 「兄弟だって似てない奴は似てないっしょ?それこそ信長様と信行様は、ぜんっぜん似てないので有名じゃないっすか。この濃尾でそれを知らない人間はいませんよ。」

 そう言われればそうだと、信長は納得する。

 「はいはい、俺らの話はここまで!それより河を渡る算段をつけますよ信長様。そろそろ背後が煩くなってきてますし、ほどなく義龍軍に追いつかれるっしょ?どうします?」

 これ以上自分達の話をしたくないのか、氷が強制的に話を切って、信長にそう問い掛けた。

 信長はその問いに、流れるように答える。

 「牛馬と荷駄を先に舟に乗せる。一番最後に、俺と数名を残してしんがりとする。俺が残ってさえいれば、敵はわざわざ河の中程の舟にまで手は出すまい。もとより此度の戦の一番の目的である岳父殿の首は手に入れてある訳だからな。今は勝利の勢いだけで俺達を追ってきているだけだ。」

 信長の分析に、氷はうんうんと頷くと、「信長様がしんがりねえ」と呟いた。

 「悪くないっすけど、もっと面白いことしません?どうせならマムシ様を裏切った連中を、馬鹿にしてやりたい気分なんっすよ、俺。」

 氷の言葉に、常は大人しい蒼までもが、隣で頷いている始末だ。

 「…言ってみろ。やるかは別だ。」

 信長がそう許可すると、氷がニヤリと笑みを浮かべた。

 「信長さーまの、首ぃをちょーだいっ!」

 そして氷は、適当な節をつけながら、そう愉しげに歌ったのだった。




 「可成はどこだ…?」

 天は、足軽同士の乱戦場を縫うように走りながら、森可成を探していた。

 ここにくる道中、天と影は、大勢の兵達と行き逢った。可成に退却を命じられた足軽達である。その中に負傷したという可成の姿は無かった。だからまだ、可成は最前線にいるのだろう。

 戦場は河原である。膝ほどまで草が生えている場所もあるが、基本的に見晴らしは良い。それなのにただでさえ目立つ筈の騎馬武者の姿はどこにも見当たらなかった。

 「くそ…。おい可成!どこじゃー!」

 天はありったけの大声で叫ぶが、それに応える声はない。暫くは必死に可成を探していた天だったが、そのうちに段々と諦めたような気分になってきた。そうすると思い起こされるのは、可成の顔ではなく、道山の顔だった。

 天をここまで育て上げた道山は、死んだ。天にとって育ての親と言っても過言ではない爺が死んだのだ。これほどまでに全てが憎たらしく感じるのは、実に五年ぶりくらいだろうか。道山を殺した義龍軍が憎い。道山の温情にも気付かずに、道山の後釜に座った義龍が憎い。散々道山に庇護されていたクセに、あっという間に義龍に味方した家臣達が、美濃の人々が憎い。

 全員殺してやれねば気が済まない。気が済まないが、天は自分自身も憎くて仕方が無かった。自分にもっと力があれば、権力があれば、兵力があれば、なにより道山の意思を無視出来るだけの心の強さがあれば、無理にでも道山を尾張へと逃がせた筈だ。

 しかし結局天は、蒼と影に引き摺られるようにして、道山の元から去った。他の奴らと同罪だ。だから天は、義龍を恨めない。他の奴らを恨めない。それは自分を恨むのと同じになる。

 いつかの続きだと、天は気付いている。道山に拾われた日と同じだ。まだ八つだった天と氷と蒼を、大人達はなぶり殺そうとした。他の村の大人達に言われて、米を盗みに行って、捕まったあの日の続きだ。

 自分達を死ぬほど殴った大人達は憎い。しかしその大人達のした事は、至極当然の事なのだ。米を盗もうとした餓鬼三人を折檻した。何も悪い事ではない。天も同じ立場なら、同じ事をする。だからその大人達を恨んで彼らに報復したところで、それは自分達に刃を向けるのと同義なのだ。

 しかし腹には据えかねるし許せない。ならばこの怒りは、誰にぶつければいい?

 そしてあの時の天は、突飛で狂気じみた結論を出したのだった。

 「ああそうだった。この世そのものが憎い、恨めしい。儂らみたいな底辺で生きている人間にむごい、この世が憎い。だけど、儂もたかが人間じゃ。復讐相手はせめて、人間じゃないと殺せんからなァ。だから、」


 ー この世を治める奴の首、ただ一つが欲しい…。

  

 全てを持っている人間から、全てを奪うのは一体どれだけ気持ちが良いのだろうか。そいつが絶望する顔を見れば、きっと清々しい気分なのだろう。そうすればきっと、天は全てを許せる気がした。

 ぶつぶつと呟く天の顔は、怒りと憎しみで歪みきっていた。この世の醜いものを全て注ぎ込んだような表情で、元の顔が整っている分、凄まじいものがある。

 そんな天の顔を、隣に並んで見ていた影は、恍惚とした表情を浮かべていた。

 「…私もこんな世の中、大っ嫌いだよ、天。」  

 そして影は、天の耳元で、そうゆっくりと呟いた。天の表情がますます歪んでいくのを眺めながら、影は心底嬉しそうに微笑む。

 しかしその微笑みは、長くは続かなかった。

 「そうかのう。儂はこの戦国の世も、そう捨てたものではないと思うがなあ。」

 突然二人の背後から、場違いな程のんびりとした声が聞こえてきたのだ。

 「戦から帰った後の飯は殊更に美味いし、戦から帰った後に家族や戦友の顔を見ると殊更に安心するし、殿に褒められれば嬉しくて次の戦への活力が湧いてくる。それに儂が単純なだけかもしれんが、戦から生きて戻ってきた後に見る景色は全てがなあ、殊更に美しく見えるのだ!藤吉郎もそうは思わぬか?」

 天と影が振り返ると、そこにいたのは、今まで散々探していた可成だった。可成の右隣りには足軽の形をした藤吉郎がいて、怪我をした可成に肩を貸しているようだ。

 可成に問われた藤吉郎は、「そうですな!」と答えると、へらっと笑った。

 「あっしは実は、戦のただ中でも、世の中捨てたもんじゃないと思っておりまする。考えてもみてくだせえ、あっしは農民でもないですから、戦に出たところで畑仕事が遅れるなんて事もありませんし、戦に出ればそれなりに飯と銭が手に入ります。周りの足軽達とぎゃあぎゃあと、くだらない話で盛り上がるのも好きですし、皆が懸命に生き抜こうとする、なんて申し上げればよいか…、そうです!戦場での皆の生きる力と申しましょうか、そういう我武者羅なモノを見るのが好きでございます。」

 藤吉郎の言葉に、おお!と可成が感心したように大きく頷いた。

 「良い事を言うのう、藤吉郎!」

 そして可成は、まず影の頭に手を置いて、わしわしとその髪を撫でた。

 「ちょ、汚れた手で撫で回さないで下さい!」

 影が珍しくも鬱陶しそうに声を荒げるも、可成は知らんふりで、次いで嫌がる影の肩に手を回し、もう片方の手で空を指さした。

 「取り敢えずあれだ。影、お前はこの晴れた空でも見ておれ。空は実に面白いからのう。この世の荒んだ様を写し出す事が決してないからな!世の中が良かろうが悪かろうが、関係なく晴れるし曇るし雨も降る!何かが憎くて仕方がなくなったら、お前は取り敢えず空を見ておけ、いいな。」

 そして可成は空を指差していた手を使って、そのまま影の顎を下から押し上げた。そのため影は、強制的に空を見上げる事になる。

 そこまでして影を解放した可成は、可成と藤吉郎の登場ではっと表情を緩めた天の元へと歩み寄った。藤吉郎も可成を支える為、共に少しだけ移動する。

 可成は天の正面に立つと、その両頬を思い切りつねった。

 「痛ったあ!何するんじゃ!」

 天が反射的に可成の手を払い除けると、可成はカカと大きな笑顔を浮かべた。

 「しかしお前は天という名前なのに、あの空とは真逆よなあ。空は人の世の何かを写し出す事はないが、お前は出会った人達全ての…まるで鏡じゃ!」

 可成の発言に、天はおろか藤吉郎も首を傾げていると、可成が笑顔を引っ込めて、真面目な顔で続けた。

 「お前は荒んだものを見ると、自分も荒む。憎たらしいものを見ると、自分も憎たらしいと感じる。お前はこの世の写し鏡だ。この世が狂えば狂う程、お前の心も狂うのだろう。」

 しかし、と言って、可成はまた笑顔見せた。先とは少し違い、心底優しげな笑みだった。

 「優しい人達に出会えたなら、きっとお前は優しい顔をするし、自分に情をかけてくれる人がいれば、きっとお前は情のかけ方を知る。氷や蒼が、お前を大切にしてくれているなら、お前は間違いなくあいつらを大切にしているし、もし影が何かに苦しんで絶望しているのなら、お前はこいつと共に苦しんでやれる。天、お前はそういう子なんだよ。」

 可成はそう言って、天の頭を撫でた。

 「きっと今までお前は、この世の嫌なところばかりに出合ってしまったのだろうな。だからこの世に復讐をしたくて堪らないのだ。今まで出会ってきた多くの者達が、この世を憎んで仕方が無かったのだろう。」

 可成はそこで一つ息を大きく吸い直すと、だから!と大きな声で宣った。

 「この世の好ましいところを知りたくなったら、儂の前に立ってみろ。今みたいにな。ちなみにいつ来ても良いぞ!お前はもう、家族みたいなものだからな。そうしてだ、儂の目線の先に、何があるのか思い出すのだ。もしそれがお前にとって美しく見えずとも、他人の心さえ写し出すお前の事だ、きっとそのうち、儂と同じ心持ちになれるさ。」

 藤吉郎も影も、可成の視線の先に今、何があるかを知っている。勿論、天だ。可成は天に、天自身を好んで欲しいと言っているのだ。この世は天という人間がいるのだから、それだけでそう捨てたものではないのだと、可成は言っている。

 「これは完敗だなあ…可成様には本当に恐れ入りました。確かにこれは…絆される。」

 影が憑物が取れたような顔で、ぽつりとそう呟いた。

 当の天はというと、怪訝そうな顔で可成を見るばかりで、恐らく可成の言いたい事は理解していない。

 しかしなにはともあれ四人とも、うかうかとこの場に長居は出来ない。なんと言ってもここは、戦場なのだ。

 「可成様、逃げましょう。」

 最初に動いたのは、すっかり表情を繕い直した影だった。

 「本当は天と、もしかしたら道山様を逃がす為の経路だったのですが、この際です。私達で使っちゃいましょう。信長様も既に撤退を始めていますから、わざわざそちらに合流する必要はないでしょうし。あちらには氷と蒼もおりますので、まあ巧くやるでしょう。」

 影はそう言うと、可成に問い掛けた。

 「『清水溜まり』はご存知ですか、可成様?」

 可成がハッと息を呑むのを聞いて、影は悪戯が成功した子供のように、してやったりと微笑んだ。

 「ふふっ、そう、あそこを渡ってやるんですよ。」

 

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