七、死に場所は長良川
隣国美濃、信長の岳父斎藤道山とその息子義龍とが、いよいよ長良川にて睨み合いになる。道山を助ける為、信長は軍を率いて木曽川を越える。
そして道山の小姓衆である天達もまた、道山の思惑を胸に行動を開始。道山と信長、そして天達に、決断が迫られるー。
弘治二年、四月。美濃ー。
「是非も無し、か。」
「…義龍はなあ、劣等感の塊みたいな男じゃからな。遅かれ早かれこうはなるさ。それはマムシ様もわかっておったじゃろ?」
「…まあのう。」
斎藤道山は、鷺山城内の櫓の上から、かつての居城、稲葉山城を遠くに見上げて、苦笑いを浮かべていた。その顔には、やり切れなさが滲んている。
「家督は義龍に譲って、マムシ様はここ鷺山城に移った。…それたけで十分だと思うがなあ。義龍の奴は不安で仕方ないのじゃろ。」
疲労の色を見せる道山を慮る素振りも見せずに、喋り続けているのは、十三歳になった天である。相変わらず男装をして、道山の小姓として側で仕えているが、最早天の事を男だと思っている者はこの城にはいなかった。
大層な美人になったと、道山は隣に居座る天をちらりと見て、感慨深くなった。彼女を拾って、もう四年程が過ぎた。出会った頃は、まるでボロ雑巾にこの世の憎しみすべてを吸い込ませたような、さすがの道山もつまみ上げるのを躊躇う、どうにも手の付けられない子供であったが、道山は苦心して、除けるだけの汚れは取ってやったつもりだ。
まず身なりを整えてやった。仕事を与えて、文字の読み書きも教えた。剣の稽古もつけてやったが、天は何故か鎧通しという、実戦ではどうにも心許ない短刀を気に入ってしまったのは成り行きだ。
相変わらずの生意気な口と、内に燻るこの世への復讐心だけは、天から消える事は無かったが、道山はそれはそれで良いと思っている。
しかし、だ。歳を重ねる毎に女としての色香を増す天に、道山は心を痛めない訳ではない。
直に、男との力の差が大きく開くだろう。大人の女の体になればなる程、天の「この世への復讐」への道のりは、険しいものになる筈だ。この娘さえ望むなら、道山は嫁ぎ先を探すのもやぶさかではなかったのだが、今更天が、その復讐の刃を懐に仕舞いきれるとも、捨てられるとも思えなかった。
「おーい、マムシ様ァ、聞いてるのか?」
「ああ、聞いておるわ。義龍が劣等感の塊だという話だったか。それを取り除く為に儂は、義龍に家督を継がせたつもりだったのだがのう。それなのに義龍め、血を分けた弟達を殺し、儂にまで宣戦布告しよってからに。」
「ま、その『血を分けた』ってのもまた、義龍の劣等感の出処なんじゃろうがなあ。」
天の指摘に、道山は押し黙る他なかった。
斎藤家の血というのは、嫌悪される事も多い。なにせ元々の主君を殺して、美濃一国を奪い取った道山の血筋である。しかも元を辿れば、ただの油売りの血なのだ。決して高貴で高潔とは言えない。
義龍は幼少の頃から、そんな出自を嫌っていた節があった。父からは何も学ぶ事は無いと言わんばかりに、他の大人達に師事を請うた。勤勉と言えば聞こえはいいが、道山にとっては可愛げがない、それが幼少から今に至るまでの義龍だった。
対象的に、義龍の弟達は、父道山をよく慕っていた。国政や戦の仕方だけに留まらず、道山からは商いのやり方まで教わっており、道山も下の息子二人は鍛えがいがあったというものだ。しかしそれが傍から見れば、道山は義龍を冷遇し、その弟達ばかり可愛がっていると、そう思われたのだろう。その実、道山を避けているのは義龍の方なのだが、そのうちに義龍は、道山が弟二人にばかり期待をし、自分を廃嫡するのではないかと思い込むようになった。
しかし蓋を開ければそんな事はなく、道山は家督を義龍に譲ったのだが、これで義龍の劣等感が失くなる筈も無かった。
あろう事に義龍は、弟二人を殺した。病を理由に二人を呼び出して、騙し討ちしたのだ。
これに道山は、激怒した。
弟二人に叛意があるならば兎も角、あの二人にはそんな素振りは皆無だった筈だ。
血筋に対する劣等感に加え、弟達への劣等感。利口な義龍が暴挙を起こしたのは、そんな負の感情に追い立てられたからなのだろうか。
道山はその後、怒り心頭したまま、稲葉山城の麓を焼き払っている。
道山は、あの日町を焼き尽くした炎を思い返しながら、肩を竦めた。
「町を焼いたのは、儂の失策だったな。」
「そりゃそうじゃろ。誰だって住む場所を焼かれちゃ怒るさ。例えそれがかつての主の仕業だったとしてもな。儂はここまでが義龍の思い描いていた展開なんじゃないかと思ってるよ。マムシ様が皆から恨まれるように、謀ったんじゃないか。そうなれば必然、義龍の味方が増える。マムシ様は孤立無援で、この鷺山城から稲葉山城をただ見上げるばかりじゃ。苛立たしいな。義龍が高みからこっちを見下ろしているみたいで腹立つ。」
そう言った天が、睨めつけるようにして稲葉山城を見上げているのを見て、道山は逆に心が静まってきた。
道山はぽつりと、疑問を吐露した。
「婿殿と、何が違ったのだろうな。」
道山は最近よく、その事を考えていた。
道山の娘帰蝶の婿である尾張の織田信長は、ある意味で義龍に非常に良く似た育ち方をしている。
まず血筋だが、織田弾正忠家はもとより武家ではあるが、かと言って尾張を治めるような家柄ではない。守護の家臣のそのまた家臣の家柄で、弾正忠家は先代、織田信秀の一代で、膨大な力を付けたと言っても過言ではない。間違っても血筋を理由に、信長は尾張統一を果たす事は出来ないし、実際にも出来ていない。
そもそも信長が家督を継いだのも、一部の人間からすれば驚愕ものだったに違いない。生まれた頃より信長は一人、那古野城で過ごしてきた。父信秀と母土田御前は、信長の弟信行と共に、ずっと末盛城を居城としてきたのにだ。信長はただ一人、嫡男であるにも関わらず、ほぼ放任状態で育ってきた。放置と言っても過言ではないだろう。
そして両親に見守られ育った信行の方はというと、非常に出来が良かったらしい。勤勉、素直、行儀も良いー、不真面目で素行不良、尾張の大うつけとまで呼ばれた傾奇者信長とは正反対で、家臣からの期待も高かったのが信行だ。
結局、信長が織田弾正忠家の家督を継いだ訳だが、しかしながらこの男、血筋や出来の良い弟の存在などに、劣等感を抱いている様子は一切無い。
「信長サマと義龍の違いねえ…。」
天は少しだけ考える素振りを見せると、ああと何か思い出したようにして言った。
「いつか信長サマが言っておったぞ。『俺は今日を生き残るのに、戦々恐々の日々よ』ってさ。要はじゃな、信長サマには余裕が無いんよ、昔っから。劣等感なんぞに頭を悩ませている暇がな。他の誰かと自分を比べて、持ってるモノと持ってないモノの数を数える間もなく、信長サマは次々と湧いてくる命の危機に対処せねばならん。今ある信長サマの全てを、取り敢えず注ぎ込んで、それはもう我武者羅にな。じゃないと、あれは既に死んでおろう?なにせ周りは敵だらけのお人じゃ!…義龍は逆になあ、直近の自分だけの危険?ってのが無いから、不要な事まで考え過ぎるんじゃろ。ある意味余裕があるから。それで劣等感の塊の完成よ。」
天の言葉を最後に、二人の間には沈黙が訪れた。春の夜風が、さらさらと天の一つに結った長髪を揺らしていく。
「なあ、」
長い沈黙の後、天が珍しくおずおずと口を開いた。
「戦、するのか?義龍と。あっちの方が兵の数が多いじゃろ。氷が兵力差は六倍とか言っておったぞ。」
道山が黙っていると、天はそれを肯定ととったのだろう。不貞腐れた顔で一言、道山に言葉を投げた。
「負けるぞ。」
「ああ、わかっておる。」
道山が穏やかにそう答えると、天がボソボソと呟いた。
「マムシ様だけなら、逃がせるぞ。」
道山が天の言葉に、驚いて目を僅かに見開くと、それに気付いているのだろう、天が気まずそうに言葉を続けた。
「マムシ様にはな、こう見えて感謝してるんよ。儂みたいなボロ餓鬼を拾ってくれて、使ってくれて、マムシ様の側にいたこの何年かは、ホント楽しかったんぞ?それにやっぱり、マムシ様は命の恩人だしな。それは氷にとっても蒼にとってもだし、後から拾ってきた影と火種にとっても。今あの四人でのう、マムシ様を逃がす算段をしてるんじゃ。儂は説得役よ。マムシ様にさ、逃げましょうって説得するために、儂はここにいる。」
天の告白に、道山はフッと笑みを浮かべると、楽しげに問い掛けた。
「それで?儂をどこにやろうというのじゃ。」
「尾張。」
天の答えに、いよいよ道山は、ははっ!と大声で笑った。
「良いの良いの!婿殿と帰蝶と共に過ごす余生も楽しかろうな…。しかし答えは否、じゃ。儂は既に井ノ口を焼いた。戦はもう、始まっておる。」
最後はそう静かに告げた道山に、天は思い切り舌打ちをして言った。
「…頑固者は早死にするぞ。」
それはこちらの台詞よと、道山はその言葉を飲み込むと、代わりに懐から紙を取り出した。
道山が信長に宛てて書いた書状である。
「婿殿に。」
天はそれを無言で受け取ると、内容を尋ねる事もせず、再度舌打ちをかました。
「マムシ様は、儂があんたを置いて、戦場を去ると思っておるんじゃな。じゃなきゃこんな紙切れ、託すものか。」
「紙切れ、のう…。言ってくれるわ。」
ヒラヒラと書状を揺らして見せる天に、道山は苦笑しながら言葉を続けた。
「確かにそのままでは、ただの紙切れよな。中身もそう大した事は書いておらん。万が一お前達が逃げ遅れでもして死んだ時に、書状が他の誰かの手に渡っても構わないようにな。」
「そんな紙切れを、儂はマムシ様を置き去りにしてまで、信長サマに届けねばならんのか。正直なところ、メンドウなんじゃが。」
天が書状を一応は懐に入れながら問うと、道山が一際大きな声で言った。
「『届ける』事に、意味があるのよ。」
道山が声を張ったのはその一言だけで、あとは声を潜めて、天に「種明かし」をした。
全てを聞き終えた天は、はあと溜息をつくと、「マムシ様も人使いが荒い」と呟いた。
「これは戦で華々しく死んだ方が、楽が出来そうじゃ。」
天が冗談めかして言うので、道山は天の額を小突いてやった。
「馬鹿を言うな。お前には生き延びてもらわねばならん。何のために今まで、お前のような危ない娘を、養ってきたと思うておる。お前の『この世への復讐』とやらが、儂にとっても『都合が良かった』からだ。思惑通りと言えるかの、お前は儂に多少なりとも恩も感じておるようだし、儂の『都合』も鑑みて、今後もせいぜい復讐に励んでくれると、儂も憂いなく死ねるのだがのう?」
道山はそう言いながら、自然と口角が上がるのを抑えきれなかった。
あと数日もすれば、道山自身は死体になるだろう。それでも道山の『ある思惑』は、この娘を通してこの世に在り続けるのだ。
「…さすがはマムシと呼ばれた男じゃな。人の足元を見よってからに。…が、一つ断っておくが、儂の復讐とマムシ様の望みにズレが生じた時は、あんたの望みは捨て置くぞ?あとから文句は言うなよ?」
天の至極面倒そうな返しに、道山は今宵一番の大きな笑顔を見せた。
「はっ!心配せずとも、死人に口は無いわ!」
そしてその数日後、道山は出陣した。道山軍は長良川の中の渡しという所で、川を挟んで義龍軍と睨み合いになった。
結局天は、いよいよ戦が始まるとなっても尚、道山の側に控え続けていた。そこには、具足を付け槍を持った蒼と、野良着を纏った影の姿もあった。氷と火種は見当たらない。
道山は先程から、「さっさとこの場から離れよ」と、彼らに命じているのだが、天達は聞く耳を持たなかった。
「もしかしたら信長サマの軍が間に合うかもしれんじゃろ?信長サマ宛の書状も預かってる事だし、すれ違いになっては堪らん。」
天が主張する通り、信長は道山が決戦に出ると聞いて、援軍を率いてこちらに駆けつけている途中らしい。しかし義龍とて、その情報は得ている筈だ。であれば、義龍は早々に戦端を開くだろう。そうなれば道山とて、待てない。
それに道山は、はなから信長を待つ気は無かった。こんな内輪揉めに、他国の者まで巻き込んでは、道山としては更なる恥の上塗りであるし、信長に死なれては困る。
むしろ天達には、信長軍の足止めと、撤退の説得をして欲しいところではあったが、この分では天も信長も、道山の言う事を聞くようには思えなかった。天も信長も妙なところで義理堅く、一度気に入った者にはよく懐く。今彼らが慕っているのは自分なのだと、道山は自負していた。
それに、だ。
先程から道山のもとには、彼に古くから仕える家臣達が最後の挨拶にやってきていた。道山と同じく戦死を覚悟し終えた歴戦の武者達が、道山と話し終えると、代わる代わる天の細い背中を叩いていくのだ。
「お主が殿の側におるのなら、儂らも安心して戦えるというものよ。」
「天、道山様の事を頼んだぞ。」
「腕の見せ所だぞ、天。最後まで殿をお守りせよ。」
そう天に声を掛けては持ち場に向かう家臣達に、天は苦り切った顔で「うん」と答えるばかりだった。
しかし天は、そんな彼らの期待を裏切り、道山を置き去りにしなければならない。それはそうだ。天には生き延びて、やるべき事がある。
道山は次から次へと家臣達に喝を入れられ、ますます機嫌の悪くなる天を見ながら、ふっと笑みを溢した。
ー いつの間にやら、皆に可愛がられておったのだなあ。
道山の思考は、過去へと遡る。まだ戦は始まっていないが、これが走馬灯というものだろうか。
可愛げの欠片も無かった、まだ幼い天達との出会いを思い返すと、次に脳裏に浮かんだのは、嫁入り前の実の娘、帰蝶の顔だった。婿である信長とは仲睦まじいと話には聞くが、その顔を見たのは尾張へ行く前が最後である。
「天。」
道山は天の名を呼んだ。それに応えるように、キッとこちらを睨んだ天に、道山は穏やかな声で告げた。
「帰蝶に長生きせよと、伝えておいてくれぬか。…くれぐれも頼んだぞ。」
道山がそう頼むと、天は口をへの字に曲げて言った。
「息子と殺し合いをするって時に、片や娘には長生きを望む、か。親の心というのはよく分からんな。子への情とやらは、どうやら平等ではないらしいの。マムシ様然り、信長サマの親も然りじゃ。」
しかしまあ、と言って、天は道山に微笑んだ。
「道山様の最後の頼みじゃ。しかと承った。」
それから義龍軍が川を渡り始めるまで、道山と天の間には、酷く穏やかな一時が流れた。
さて、信長はと言うと、木曽川を越え、大良という所まで軍を率いて駆け付けていた。しかし長良川の「中の渡し」にて、道山軍と義龍軍の一軍目が既に衝突したという報告を聞いて、信長は顔を真っ赤にして、何度も地面を蹴り付けていた。
「くそっ、見たことか…。岳父殿め、俺が来るまで鷺山城に籠もっておれば良いものを…。」
そんな信長の怒りの矛先は、義龍ではなく道山だった。
道山が鷺山城にいてくれれば…、信長はそう思わずにはいられなかった。道山が鷺山城に閉じ籠もっているのであれば、義龍軍はそこに攻め寄せた筈だ。そこで後から来た信長軍と、鷺山城の道山軍とで、義龍軍を挟み撃ちにするのが、一番の理想だった筈だ。
しかし、だ。現実は違った。道山は何を思ったのか、自ら長良川まで下りていき、自軍を守るべき城も山もない真っ平らな川辺りで、戦を始めたときた。
それでは道山には万に一つも勝ち目がない。そもそも兵力差のせいで、道山は圧倒的に不利なのだ。わざわざ道山の方から撃って出る意味が、信長にはわからなかった。
「だーかーら、さっきから言ってるっしょ?」
怒り心頭の信長の隣では、頭の上で手を組んで、大きく伸びをしている少年ー、氷がいた。
「マムシ様は信長様の助けは望んでないんですって!いい加減諦めて分かってくださいよ〜。そして尾張に帰って下さい!信長様の事が念頭に無いから、マムシ様も長良川に捨て身に行ってるんっすよ?」
次いで氷は、「ふぁうぁあ」と場違いな程のびのびと欠伸をした。先程から氷は眠そうに何度も目を擦っており、立ったまま舟を漕ぎそうな状態である。
そんな氷が信長の前に現れたのは、つい先刻、木曽川を渡り終えた頃だった。
まるでずっと河原で待ち構えていたかのように、ふらりと信長の前に姿を現した氷は、珍しく一人きりであった。
『おーい、信長様ー!』
そう言ってブンブンと手を振ってみせた氷は、しかし次の瞬間、シッシッと信長を追い払うような仕草をして見せた。
『申し訳ないんっすけど、そのまま帰ってくれないっすか?』
次いで氷の述べた言葉に、信長は驚く事となる。
『マムシ様はもう死にますから。』
氷のその発言を最後に、あの場は暫く、不気味な程に静まり返ったものだ。
結局信長は、そんな氷の言を無視して、大良まで進軍した。氷の話だと、道山がいるらしい「中の渡し」からここまでは、実にまだ百町(10km)程も離れているという。
「もう信長様もわかってるっしょ?どう頑張ったってさ、もう間に合わないって!だいたいマムシ様を助けに行くどころか、これ以上ぐずぐずしてたら、信長様の方が危なくなるっすよ!マムシ様が捨てた鷺山城にも義龍の手勢が入るだろうし、それこそ稲葉山城にも義龍の兵はいる。なにも敵は、長良川にだけいる訳じゃない。これ以上深入りしたら、間違いなくこの二城から信長様に兵が向けられますってば!ねえ、聞いてます?」
氷の再三の警告にも、信長は全く頷く気が起きなかった。
大体からして、道山が信長に援軍を望んでいないというのが気に喰わない。信長が村木城攻めに出た時、あっさりと信長に留守居役の軍を貸してくれたのは、それこそ道山なのだ。
だからこそ今回は信長が、周囲の反対を押し切ってまで、美濃に出向いた。ならば道山は以前の信長と同じく、遠慮なくその援軍をもらえば良いだけの話ではないか。一体道山は、何の意地を張って、信長の援軍を固辞しているというのだろうか。
そしてその肝心の、道山の腹の中というものが、氷からは何一つ伝わってこないのだ。氷から読み取れるものがあるとすればそれは、彼がとんでもなく眠そうだという事だけだ。とてもではないが、道山の危機を左右する大事な話をしているとは思えない緊張感の無さである。
「ふぁうぁ…あー、眠い。信長様さぁ、いい加減納得してくれないっすか?俺もう色々限界なんっすけど…。きっつ…。」
そう呟いていよいよその場にしゃがみ込んでしまった氷に、頭に血が上り続けていた信長も、彼のあまりの疲労ぶりにさすがに違和感を覚えて、幾分か平静になると問うた。
「俺は帰るつもりはない。が、ここでお前に倒れられても迷惑だ。仮にもお前は岳父殿の小姓だからな。捨て置く訳にもいくまい…、それで、お前は何をそんなに疲れているんだ?村木城攻めの時の過酷な行軍でも、ケロッとしていたではないか。」
信長が変なものでも見るような目で氷を見下ろすと、氷がのろのろと顔を上げた。その両目の下には、くっきりと隈が出来あがっている。
「こっちにもジジョーがある訳ですよ…。マムシ様には信長様をこっちに来させるな、尾張で何か細工しろって命令されたけど、天はマムシ様をどうしても逃したいとか言い出すし、そりゃまあ俺としてもマムシ様には助けてもらった恩もありますし?まあ、マムシ様一人くらいなら夜陰に乗じて逃がせるかなーって思って、結構ホンキでここ数日は逃がす算段してた訳っすよ。それこそ寝る間も惜しんで、色々下見してさぁ。そんでいざこれなら!って作戦思い付いたのに、そしたら天ってば、『マムシ様はどうしても死にたいそうじゃ、説得出来んかった、すまん。』とか最後の最後に言い出すし!しかもマムシ様、こんなに疲労困憊な可愛そうな俺を目の前にして、『それで婿殿を尾張に留めておく細工はしてあるのだろうな?』…っすよ!いや、は?俺の話聞いてましたか?あんた逃がそうと不眠不休で働いてたんですけど、は?…って、もうあの瞬間は心が折れましたよ…。という訳で俺はなーんの細工もしてないんで、信長様を直接説得しに行くしか、マムシ様の命令に沿う術がないわけで。あー、もう眠い疲れたホントきつい。ですから信長様!いい加減帰って下さいお願いしますぅ…!」
最後は最早投げやりな感じで言い切った氷に、信長の口からは思わず労いの言葉が出た。
「それは散々だったな。…しかし俺は行く。」
だからと言って信長の意思が変わる事はない。
信長の返答にいよいよ氷は諦めたのか、これ見よがしに、はぁぁと重い溜息をついた。
「わっかりましたよもう…。あーあ、こんな事なら、岩倉城の織田伊勢守あたりに頑張ってもらうよう、手回ししたのになぁ。」
そして氷の口から続けられた不穏な言葉に、信長は眉間に皺を寄せると、ほうと不機嫌に相槌をうった。
「…どう頑張らせるのだ?」
「そりゃもちろん、信長様が清洲城にいないうちに、岩倉衆に清洲城下を焼かせるとかっすかね。伊勢守さんもどーせ、信長様の事は嫌いでしょ?そりゃそうっすよね!あっちは尾張の立派な守護代。片や信長様は、ぽっと出の若造みたいなもんだし?」
氷の言葉に、信長は不本意ながら「そうだな」と頷くしかなかった。確かに、城を空けて道山の援軍に向かうという信長の決断は、清洲を危険に晒す行為でもあったし、散々家臣達にも反対された。
しかし信長は、その危険については、少しばかり楽観もしていた。なにせ信長が道山への援軍を決めたのは、つい先日の話なのだ。それまで信長は、岳父斎藤道山とその息子義龍との争いに、徹底して無干渉を貫いてきた。まるで美濃の事は自分とは全く関係ないと言わんばかりに、ひたすら内政に力を入れてきた。恐らく家臣達は、そんな信長の様子に、すっかり安心していたことだろう。
だからこそ今回の出兵は、信長以外の者達にとって、完全に不意打ちだった筈だ。道山にとっても、義龍にとっても、そして信長の家臣達にとっても、岩倉城の伊勢守にとってもだ。
急に兵を出した信長に合わせて、他の敵対勢力が急に陰謀を巡らす事は出来ないと、信長は確信していた。その為の沈黙であり、その為の我慢だった。特に尾張国内の有力者達は、皆一様に頭が固い。しっかりと策を練る時間もなく、清洲に兵を向けるとは考えられなかった。
しかしこの「不意打ち」の出軍は、信長の家臣達にとっても同じ事だったので、信長の予想以上に軍が出遅れたのもまた事実だ。そして今、道山は信長の到着を待たずして、死にに出ている。
「それじゃあ信長様、」
信長がここに来るまでの経緯を思い返していると、氷が何故か手を差し出してきた。
「…なんだ。」
信長が警戒を顕にしてその手を睨むと、氷がニカッと笑顔を見せた。
「馬に乗せて欲しいなあとか思ったり?マムシ様を助ける云々はこの際置いておいても、俺、どっちにしろ天達は迎えに行かなきゃっすから。だけどもうヘトヘト、疲れちゃって。」
「阿呆か。」
信長はそう言って、氷の厚かましい手を拒否するも、怖いもの知らずの氷は、疲れと眠気が勝ったのか、勝手に信長の馬の尻に這い上がってきた。
「おいこら!」
信長が怒鳴り声を上げる。側で二人の様子をちらちらと見遣っていた馬廻衆も、氷の行動にざわついた。
「せめて他の奴の馬に乗れ!」
信長が背後の氷を肘で思い切り突くが、氷は微動だにしない。
「大体なんでお前は、一人でこんなところを彷徨いていたのだ?いつもなら誰かと一緒に行動しているだろ。他の連中はどうした。」
信長の再三の問い掛けに、氷が覇気の無い声で答えた。
「俺だって別に、好き好んで単独行動してる訳じゃないっすよ…。天と蒼と影はマムシ様の側で護衛してて、火種には念の為に、俺が用意したマムシ様用の逃走経路の確保を頼んでるし…そしたら信長様を止めにくるの、俺しかいなくなったんすよ…。」
氷の答えを聞きながら、信長は「はぁ?」と呆れ声を出した。
「なんだお前ら、全然諦めてないじゃないか…岳父殿のこと。」
「いや、諦めてます。俺は正直、綺麗サッパリとね。マムシ様は今日死ぬ。むしろ俺達の配置は、天を生かす為のものっすよ。」
氷の言葉に信長が首を傾げていると、背後にいるので表情は見えないが、氷がフッと笑みを溢した感じがした。
「蒼と影は、天の護衛っすよ。逃げ道もいざの時は、天を逃がす為に使います。…いつかも言いましたけど、あくまで俺らの主は、天ただ一人っすから。仮にですよ、天に『道山様を守れ』って言われても、俺らは天の命を優先します。」
「主君の命令よりも、主君の命を優先させるか。」
信長が問うと、氷はあっさりと「そうっすよ」と返答した。
「少なくとも俺達はって話ですけどね。…けど、マムシ様に恩を感じていない訳じゃありませんよ?それこそ最初のうちは本気で、マムシ様を逃がすつもりもありましたし。…だらこそ俺は、ここに来たんでしょうかねえ。まあマムシ様への贖罪ってやつなのかも。せめて『信長様を尾張に帰せ』ってマムシ様の望みくらいは、叶えてあげられたらなーって。無駄足だったみたいっすけど。」
そうか、と言って、信長は肩を竦めた。
「無駄足、ご苦労。」
信長軍は長良川に向け、進み続ける。