六、お代は清洲城で
村木城攻め、信長は鉄砲隊を率いて難攻不落の南側を攻めるが、初めて大々的に取り入れた鉄砲の扱いに苦戦してしまう。しかしそこで思わず活躍したのが、鉄砲で次々と凄技を繰り出す、根来生まれの火種だった。
氷と馬廻り衆の尽力もあり、無事勝利をおさめ那古野城へと帰還した信長であったが、またしても叔父信光に不穏な動きがありー。
さて、信長が村木城を攻めて、一年以上が経とうという頃だった。天文二十四年、四月。
二十二歳になった信長の元を、叔父信光が訪れていた。
「…という訳でだ。大膳め、儂に味方をして欲しいと頼んできよったわ。」
信光はそう言って、呆れたように首を振った。
「儂がお前を裏切ると思うておるらしい。」
信光の言葉に、信長は神妙な顔をして唸った。
坂井大膳ー、信長が家督を継いでからというもの、清洲城に立て籠もる愚か者の一人である。立場としては、尾張守護代、織田大和守の家老であり、国内で信長に反抗する第一勢力とも言えた。
とはいえ最早、彼らに信長を倒してしまえる程の余力はない。坂井大膳らが清洲城に立て籠っていると先に表現したが、もっと正確に言えば、彼らは信長によって清洲城に押し込められている、となる。清洲城には物資の運び入れをする路さえ残してはいないので、放っておいてもいずれは坂井大膳と大和守が負けるという寸法だ。
しかしここで、大膳らは小賢しい真似にでた。
それが今、信長の眼前にいる叔父信光を、仲間に引き入れてしまおうという策だ。
信光の話では、どうやら大膳、信光が信長を裏切ってくれるのであれば、その時は大和守の守護代の地位を譲ると言ってきているらしい。
そう、ここで肝要なのは、この「守護代」という地位である。
もとよりだ、この尾張を治めるべき正当な者が誰かという話をするなら、それは「守護」である。この尾張で言えば、それは斯波氏に当たるのだが、この斯波氏には実質、何の力も無かった。
まだ信長の父信秀が、台頭する以前の話だ。「守護」斯波氏と、本来守護を支えるべき「守護代」織田大和守は、遠江への出兵を巡り意見が割れたらしい。それで両者の間で争いが起こり、結果としては織田大和守が勝った。そして斯波氏は力を失ったと、ざっくりと話せばそういう訳だ。
とはいえ斯波氏が守護である事には変わりない。大和守がどれ程大きな顔をしようとも、斯波氏は力の伴わない地位にだけは在り続け、ある時斯波氏は、信長の父信秀に目をつけた。
信長も詳しい事情は知らないが、斯波家が信秀の事を気に入ったのは間違いない。信秀は織田弾正忠家、つまりは守護代大和守家の家臣に当たる家の者だったが、斯波氏が見込んだ通りと言うのだろうか、これがあっという間に力をつけた。それこそ主君である大和守を差し置いて、隣国美濃の斎藤道山と競り合う程に。
そしてそんな信秀の跡を継いだのが、信長だったという訳だ。
だからこそ斯波氏は信長を、そう悪くは思っていなかったのだろう。
それが証明されたのが、昨年の話だ。当時守護だった斯波義統が、清洲衆、つまりは大和守と坂井大膳に殺される事件が起きた。
殺されたものは致し方がない。しかしここで注目されたのが、義統の息子、生き残った義銀が、誰に助けを求めるかという事だった。
義銀と斯波家だけでは、到底この群雄割拠の尾張では生きていけない。そこで誰を頼るのか。織田弾正忠家当主信長か、それともその弟、品行方正で名高い信行か。尾張には下四郡を治める大和守の他に、上四郡を治める織田伊勢守という守護代もいるので、そちらに庇護を求めるかー。
そして義銀が頼ったのが、信長だった。尾張守護の家格など最早形無しで、義銀は尾張の大うつけに頭を下げた。とはいえ信長も、ここで斯波氏を他の勢力に取られては困る。義銀の事を丁重に受け入れたのだった。
長くなったがつまりここで信長が言いたいのは、今信長が曲がりなりにも尾張の国主面をしていられるのは、名門の血筋がどうだとか、認められた地位がどうだとか、そういう正当性があるからではないという事だ。確かに斯波氏に頼られているというその点だけは、他に比べて優位ではある。しかしだ、守護の家臣のそのまた家臣の家柄…織田弾正忠家の家督を信長が継いでいるからといって、傍から見れば「だからなんだ」という程度の話である。
だから大和守と坂井大膳が、清洲城に立て籠もって信長に抵抗するのも、決して筋違いという訳ではない。が、自分達を省みろとは言いたくなる。
「叔父上に裏切られては、俺は頭が痛いです。」
そんな事をのんびりと考えながら、信長は信光に返事を寄越した。言葉面通りに、信長は口をへの字に曲げて、困り顔をつくる。
「ふっ…、そう気弱な顔をするものじゃあないぞ。それに儂がお前を裏切る気なら、わざわざ注進になど来るものか。」
信長の言葉に、信光が偉そうにそう答えた。信長は一瞬カッと頭に血が上りかけたが、一つ息を吐き出すと、またしても内心とは裏腹に、少しだけ顔を綻ばせた。
「それもそうですな。いやあ、俺はまだまだ、叔父上のように泰然と構えてはおれないようです。それで叔父上、何かお考えがおありなのですね?」
信長が救いを求めるような目で信光を見つめると、信光は機嫌良く答えた。
「ああ。この際だ。そろそろ清洲衆と決着をと思ってな。儂は坂井めの口車にのって、清洲城に入ろうと思っておる。無論、お前を裏切るつもりはない。内側から坂井と大和守の腹を食い破るつもりだ。しかしお前の事だ。黙って儂が事を進めて、お前に疑われては困るからな。敵を騙すにはまず味方からとは言うが、お前に関してはそうもいくまい。」
つまり信光は、これから信光のとる行動を、信長に黙認せよと念押ししたいが為に、ここに来たという訳だ。それが信長の為になるのだと言う。
「わかりました、叔父上。織田弾正忠家の為に、叔父上が清洲城を落とされる事を、この信長、信じて待つことに致しましょう。」
そう言った信長であったが、ここでふと、首を傾げてみせた。
「しかし叔父上。此度の坂井からの提案、もしや叔父上を罠に嵌めるが為の策略、という事はごさいませんか。叔父上を清洲城に呼び寄せ、自陣で殺してしまおうなどと考えているのかもしれません。」
そう問い掛けた信長に、しかし信光は自信ありげに笑みを浮かべた。
「それはない。清洲城に、坂井蒼佑なる、坂井の分家の出の若者がおってな。そやつが儂に内通しておる。大膳はじめ、清洲衆の内情も逐一報告させておる。大膳と大和守は、本気で儂と手を結びたいのだ。だからお前が心配する事は何もないぞ、信長。」
「そうですか。それならば俺も安心というものです。なにか手が要り用な時は、お声掛けくだされ。」
信長の態度が心地よかったのか、信光は終始機嫌良さげにして、そして守山城へと帰っていった。早々に準備を整え、清洲城へと赴くつもりなのだろう。
信長はそんな信光がいなくなった部屋で、暫くすると呆れたように溜息をついた。
「人間は歳をくうと、どうにも目が曇るらしいな。…お前もそう思わんか、『蒼佑』?」
「はあ…まあ…、それより信長様、無闇に蒼佑の名を出すのはお止め下さいませ。ここでは俺は、『蒼』でございますから。」
どこからともなく聞こえた声と共にふらりと部屋の中に姿を現したのは、道山に仕える風変わりな小姓衆の一人、蒼であった。まだ十二歳だが、顔立ちはともかく、態度には幼さの欠片も残っていない。天や氷に比べると、随分と落ち着いていて、そして随分と大人しい。
「叔父上は、お前が俺の間者だとは、微塵も思っていないらしいな。…ましてや坂井の家とも全くの関わりがない者であるとは、思いも寄らぬのだろうよ。」
信長がクックッと愉快そうに笑った。それに対して蒼は、ただ淡々と応答するだけだ。
「…今のところは上手くいっています、ね。歳も十四歳だと言って、あっさり信じてもらえましたし。坂井蒼佑なんて人間も、本当はこの世に存在しないんですけどね。」
「しかしまあ、お前達も大胆な事を考えたものだよなあ。」
「はあ…、まあ、天さんの為、でございましたから。」
信長の言葉に、蒼は往々にして、歯切れの良い返事は寄越さない。本来であれば、信長の嫌う態度だ。
しかし信長が蒼の受け答えに苛立ちを見せないのは、そのなんとも軟弱そうな態度とは裏腹に、蒼の働きぶりが良いからだった。
仕事の出来る人間は、好ましい。
しかし蒼は、信長の手駒ではなかった。あくまで岳父、斎藤道山の小姓、である。
信長は「惜しいな」と心の中で呟きながら、蒼に問い掛けた。
「それで、その天の様子はどうだ?」
信長の言葉に、蒼が表情を曇らせた。
蒼を叔父信光への間者に仕立て上げるに至った発端は、昨年、村木城攻めから帰還してすぐの事であった。
天が、病に罹ったのだ。
はじめは咳だった。天は、ゴホゴホと息を吸う間も無い程の酷い咳を繰り返し、そのうちに熱を出した。意識が朦朧としている時間が増えて、いよいよ天は食事を一切摂れなくなってしまったのだった。
口を開けば憎まれ口を叩く、生意気で威勢の良い子供が、気付けば目も当てられない程に痩せ細り、死にかけている。
病床の天の周りには勿論、天の仲間である四人の少年達が張り付いていた。その顔色は一様に酷いもので、寝ている天と大差ない程だった。
『もともと天は、体が弱いんっす。』
普段からは考えられない程の弱々しい声で、氷がぽつりと呟いた。
『村木城までの行軍が、堪えたんでしょう。あの寒さに雨で、海を渡ったと聞きましたから。』
そう憔悴しきった顔で続けたのは蒼だった。
確かに極寒の嵐の中、行軍を強行したのは信長だが、しかしそう言われたところで、信長に責のある話ではないし、それは氷達も解っている。だからと言って、天は曲がりなりにも道山に仕えている者であるから、信長とて無下には出来なかった。
なんとか美濃の稲葉山城まで、天らを送り届けてやろうと思案していたところ、道山から遣いがやってきた。
彼曰く、「戻らずとも良い」と、道山は言っているらしい。
『しかし医者代も薬代もかかろう。それは子供らに出させるので、そう氷に伝えよ。』
とも付け加えられた。挙げ句の果てには、
『それでも天が死んだ時は、その時までよ。婿殿が気に病む必要は、一切無し。』
だそうだ。
そう道山に言われては、信長もそうせざるを得ない。
取り敢えず信長の監視下で天の面倒を見続ける事を決めた。しかしいつまでも那古野城の奥に置いておく訳にもいかない。帰蝶は、自分と女中達で看病をしても構わないと言っていたが、それこそとんでもなかった。
万が一帰蝶に病が移っても一大事であるし、なにより信長以外の人間に帰蝶が構う、という事態が許せそうになかった。
帰蝶の時間は余すところなく、帰蝶と信長の為にあるべきなのだ。相も変わらず帰蝶に惚れ込んでいる信長としては、帰蝶の関心を少なからずかっている天らを、早いところどこかへとやってしまいたかった。
が、そこら辺に捨て置く訳にもいかない。
信長が頭を悩ませていると、ふと隣にいた帰蝶が呟いた。
「殿、森可成殿がよろしいのではございませんか?確か天達が初めてこの那古野城に来た時…三年程前でございましたでしょうか。捕らえたあの子らの尋問に、確か可成殿は立ち会われていましたよね?」
帰蝶の提案に、信長はそうだったと記憶を呼び起こす。首狩りの下手人として捕らえた天達と、成り行きを見守っていた藤吉郎と可成ー。
あれはおなごでございましたなあ。
そうだ、あの時、緊迫した空気を破るようにしてそんな発言をしていたのが、可成だった。その後は「あと数年すれば美人になる」などと、藤吉郎と笑いながら、天の事を話していた筈だ。
「可成殿はこう…おおらかな方ですし、殿の頼みなら快く引き受けて下さるでしょう?それに、えいも面倒見が良いですから。」
えいとは、可成の妻で、一時期だが帰蝶に仕えさせていた事もある。
ふむと信長は一瞬だけ考え込む仕草を見せた。しかしこれはただのフリで、その実信長が帰蝶の提案を撥ね退けられる訳がない。
「うん、名案。さすがは俺の帰蝶だ。」
信長はそう言って帰蝶の頭を撫でると、そのままふらりと立ち上がった。
「少し出てくる。」
信長の言葉に、帰蝶は優しげに微笑むと、頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、殿。」
それから信長は、馬の世話をしていた藤吉郎を捕まえると、可成への遣いに出した。それがその日の昼前の話である。
そして実際に、可成が信長の元に参じたのは、日も暮れようという頃だった。
「遅い!」
そう信長が一喝するも、それにビクリと肩を震わせたのは藤吉郎だけで、当の可成はどこ吹く風で言ったものだ。
「いやいや殿。今日は一日休みのつもりでしたからなあ、川に釣りに行っていたのです。それを急ぎ戻って来いなどと言われましても、竿の片付けやら餌の片付けやら網の片付けやら、おおわらわでございましたぞ。」
可成の言い訳になっていない言い訳に、いよいよ可成の後ろに控えている藤吉郎が、頭を抱えて床に丸まるようにして突っ伏し、ぶるぶると震え出した。必死で怯えるその様は、信長の次なる怒声に身構える為らしい。
そんな藤吉郎の仕草に、さすがの信長も気勢を削がれた。信長を恐がる者は多いが、ここまであからさまに恐がって見せる者はなかなかいない。最早藤吉郎がふざけているようにしか見えない程だ。
可成も藤吉郎の体勢に気付いたらしく、口を大きく開けて心底楽しそうに笑い始めた。
「ほうほう、これは良い事を学びましたな。なるほど、こう体を丸めれば、殿のお怒りも少しは和らぐということですか。」
そう言うと可成は、恥も外聞もなくとはまさにこの事、藤吉郎を真似て、自身も床に額をついて、顔を腕で隠すようにして、体を丸めた。
体を丸めて床に突っ伏した男が二人。二人共それから微動だにせず、信長の次の言葉を待っている様に、信長は心底呆れた。
「あまりに、珍妙。」
信長が絞り出した言葉に、未だ顔を隠したままの可成が、「ぶほっ」と吹き出した。まさに暖簾に腕押し糠に釘、可成に反省の色は全く見られなかった。
それでも信長は、可成を重用していた。頓珍漢であまりにおおらかな男ではあるが、これでいて頭は切れるし、槍の達者でもある。そして信長よりも十年、長く生きているだけあって、経験値からくる可成の勘の良さは、信長も頼りにしているところである。老臣達のように頭が固い訳でもなく、信長の破天荒ぶりを笑って見ていられる神経の図太さも併せ持っていた。
だがそれ故に、信長の怒りが尽く伝わらないのもまた、可成である。
ツボにハマったのか、クツクツと笑いの止まらない可成に、信長は「もうよい」と言って頭を上げさせた。
「それで、そこまで釣りに精を出していたのだから、俺への土産の一匹や二匹、あるのだろう。」
そう言えば腹が減っていたと思って、信長が問い掛けると、可成はここではじめて、居心地悪そうに身動いだ。
「いやあ、土産ですか。…実はですな、そこの藤吉郎と一緒に、川原で全部焼いて食べ申した。やはり釣りたては旨い!」
信長は結局、可成と藤吉郎に一発ずつ拳骨を落としたのだった。
さて、可成には天を預かるように言い渡した。無論、彼女の仲間の少年ら四人も一緒にである。彼らを那古野城に置いておいては、信長がおちおち熟睡出来ないというものだ。
あと信長が手回しすべき事があるとすれば、それは天の医者代と薬代、そして他の四人の食費の工面だろうか。道山の言伝通り、それらは一切合切、彼ら自身に払わせるつもりではいる。
「薬代っすか?」
天を可成の屋敷に預けると聞いた氷が、信長の続けた言葉に首を傾げた。
「俺ら今一文も持ってないっすけど。」
「しかし岳父殿が、お前達から貰えと言っておったらしいぞ。」
「えー、道山様も、そのくらい出してくれたらいいのに。」
「それは岳父殿に直接言うんだな。俺に言ってもどうにもならんし、俺から出してやるつもりもない。働きには相応の支払いをしてやらねばならん。これは道理だ。そしてそれは、然るべき相手から然るべき相手に対して支払われるべきなのだ。ここで身を切るべきは、世話になっている天自身か、天を見捨てられないお前達、という訳だ。」
信長がぶーぶーと文句を垂れる氷にそう言うと、氷は「確かにそっすね」と笑みをこぼした。
「信長様の言う通りっす!なるほどなるほど、商売人達が、信長様を好いている理由がよくわかりました。良いものを良い状態で売れば、あんたはそれを相応の銭で買ってくれる。尾張の、特に那古野城に顔を出す商人達は、みな質が上等、彼ら自身もホクホクした顔で帰っていくから、良いなあって思ってたんすよ!なんか正常?健全?って感じ。」
氷はまるで自分事のように顔を綻ばせると、「しゅーごー!」と声を上げた。
氷の声に反応して、それぞれ天の様子を見ていたり、休息していたりした蒼、火種、影の三人が氷の元に飛んでくる。
「問題発生!天の看病をする為の銭がない!」
氷の言葉に、他の少年達の反応は三者三様だった。
「はあ…それはまあ、そうでしょう。」
そう蒼が淡々と答えると、
「ん、ん、」
と、火種が何を伝えたいかはわからなかったが、何らかの反応を示した。
極めつけは影が、
「ちょっと信長様の家臣の方々を引っ掛けてきて、巻き上げようか?」
などと言い出す始末である。
ちなみに影は、ここ最近ではすっかり、城中の人間から女だと思われていた。女顔の上、長い髪は下ろしているし、着物も誰に借りたのか女中のそれだ。信長や仲間達以外の人間と話す時は、一体どんな喉をしているのか、完璧に女の声で話すのだ。
若い娘のフリをして、かつ聞き上手で話し上手。信長が黙認しているのもあるが、影はこの那古野城で遺憾なく、その諜報能力を活かしていた。
まるで忍であるし、実際、伊賀の出だという。
道山に仕えるまでの経緯は知らないが、影はあっさりと、自分が元は伊賀者であると、信長に明かしていた。
「影さん、そんな端金じゃ、きっと足りませんよ。」
そう影の提案を否定したのは、蒼である。
「天さんの命が懸かってるんですから、もっと真剣に考えて下さい。そういう冗談は嫌いです。」
この蒼という少年は、ここにいる誰よりも、天に心酔しているように、信長には思えた。大人しいながらも、天の事となると、時折仲間に対して厳しい言葉を投げ掛けるし、しつこい程の主張をする事もある。村木城攻めの前も、天が従軍するなら自分も付いて行くと、最後まで言い張っていた事は、まだ記憶に新しい。
「はいはい。」
そう影があっさりと身を引いたところで、氷が再び口を開いた。
「それじゃあ取り急ぎ、どのくらい必要かって事だけど…。」
氷の言葉に、信長が口を挟もうとした。医者から薬代については、どれ程かかりそうか聞いていたので、それを伝えようとしたのだ。
しかし信長は、続けられた氷の言葉に、思わず口を開けたまま固まってしまった。
「清洲城と末盛城なら、どっちが良いと思う?」
「清洲!」
「末盛。」
「ん、」
「なるほど、二体一で清洲城、か。」
唐突に少年達の会話が、明後日の方を向いた。そもそも今のは、火種はどちらかを選んでいたのだろうか。
「影、清洲城が良い理由は?」
信長の戸惑いは気にもされずに、会話はどんどんと進んでいく。
「末盛城は今の段階で奪おうと思うと、武力行使しかないから。あの城はある意味、反信長様勢力としての結束力がある。なにせ信行様が舵取りをしていないからね。有能な家臣達が有能な働きぶりを見せている。ま、あくまで優秀の域を出ないから、面白みがなくて読み易くはあるけど。ただ私達だけでどうこう出来る段階ではないの。」
影の言葉に、氷は一つ頷くと、「逆に清洲城は?」と問い掛ける。
「清洲城は逆にグズグズ崩れ始めてる。斯波義銀様のお父さんを殺しちゃったのも、城内の人間は不安に思ってるし、あとは大和守と家老の坂井大膳の力関係もあるよね〜。実権を握ってるのは坂井って感じだけど、それを面白くないと思ってる人間も多い。大和守自身もそうなんじゃない?だけど坂井大膳以外の家老は死んじゃってるし、大和守も坂井を頼らざるをえない。それになによりは、」
「食糧不足、ですか。」
「ん、ん。」
「そう、蒼と火種の見立て通り。腹が減っては戦は出来ない、判断力も鈍る。だから清洲城はどうにかして、外の人間の力を借りなきゃいけない状態ってこと。」
「つまり?」
氷が先を急くように影に視線を遣ると、影はニコッと可憐に笑った。
「外から付け入りやすい。勿論、中からも。」
「今が好機って訳ね…。」
そう言って、氷が天井を仰いだ。
そのまま何やら思考を始めたらしい氷を、他の三人は黙って見守っている。
暫くすると氷は、もとより切れ長の目を更にスッと細めて、呟いた。
「手駒は、織田信光。うまくいけば守山城もとれる。」
「りょーかい。」
それに楽しげに応えたのは影だった。
開いた口が塞がらず、すっかり口内が乾いてしまった信長は、やっとのこと口を閉じると、ツカツカと天の寝ている布団へと歩み寄った。
側に置いてあった薬飲みを鷲掴みにすると、そこから白湯をグビグビと飲む。
ぷはっ、と息を吐き出した時、ニヤニヤと笑みを浮かべている氷と目が合った。
「…俺は大層な薬代が貰えるようだな。」
信長がそう問うと、氷ははてと首を傾げた。
「然るべき人間が然るべき相手に然るべき対価を支払う、っすよね?このままだと俺ら、医者に清洲城を支払う事になりますけど?」
「…大口をきいてくれる。」
信長は揚げ足をとられた気がして、苦々しく言葉を続けた。
「医者には俺から支払いをする。お前らは俺から銭を借りている状態な訳だ。お前らにとっての然るべき相手は、この俺になる。」
「屁理屈っすね。」
「道理を弁えていると言え。」
ははっと氷は笑うと、まるで商売人の口上のように言ってのけた。
「我々からの支払いは清洲城一つ!今なら信長様の温情への感謝の意を込めまして、守山城まで付けましょう!さあさあ信長様、最上級のもてなしを、可成様には言っておいて下さいね?…天が死ぬような事には決してならないように…、お願い、しますね。」
しかし最後は祈るように頭を下げた氷に、信長は顔を顰めると問うた。
「あの娘の命には、清洲城一つ分の価値があるのか。」
「十二分に。」
「では仮に、ここで病に臥せているのが道山だとすれば、お前らは何を支払うのだ。」
信長は意地が悪いと自分で思いながらも、そう尋ねずにはいられなかった。何をどう考えても、彼らの勘定が合っているとは思えなかったからだ。
それに答えたのは、蒼だった。珍しくもその声音には、信長への嫌悪が滲み出ていた。
「道山様の為に対価を払うのは、我らにあらず。それは斎藤家であり、美濃でございましょう。どうしても我々に支払えと言うのであれば、薬代をきっちりと払うのみ。」
そこで蒼は一度言葉を切ると、まっすぐと信長を睨んで言った。
「我らが主は斎藤道山様にあらず。今は天さんが道山様を気に入っているので、その下で働いてはいます。しかし我らの主は、天上天下、生涯ただ一人…天さんのみだ。」
毅然として言い切った蒼に、氷、影、火種の三人は、同意するように頷いて見せたのだった。
それが事の発端だった。
実に一年をかけて根回しされた彼らの周到な清洲城落城計画は、順調に終焉に向かっていた。信光が信長の元に「清洲城を内から滅ぼす」などと伝えにきた事が、何よりの証拠だった。
四月十九日、信光は家臣二百人を連れて守山城を立ち、清洲城へと入った。その心内は、このまま清洲衆と合力し、信長を倒す事にあった。信光には始めから、信長の為に清洲城を内から喰い破る気など毛頭なかったのだ。まんまと信長を騙して、なんなく清洲衆と合流出来たー、そう信光は信じて疑っていなかった。
清洲衆もだ。信光を歓待した。窮地に立っていた清洲衆からすれば、信光は文字通り、信じて待っていた光だったからだ。
しかしそんな清洲城の期待とは裏腹に、半日と経たずに信光は、清洲衆に騙されたのだと、疑いを向けるようになる。
「信光様、申し上げます。清洲衆、坂井大膳様を筆頭にして、信光様を討ち取る算段をしているようでございます!誠に申し開きもございませぬ!我が一族の事ながら、今の今までその事実に気付きませず…!」
信光の元に、「坂井蒼佑」が駆け込んできたのだ。
信光はこの坂井蒼佑を間者として、今まで清洲城の内情を探っていた。彼の話を参考にしながら、信光は坂井大膳に信光を騙し討つ気はないと判断した。そしてこの清洲城にやってきたのだ。
その根幹が、揺らいだ。いや、崩れ去ったと言ってもいい。
信光は平謝りする蒼佑の頭を思い切り蹴り付けると、後は見向きもせずに、慌てて家臣達を呼び出した。
今後の動きを協議しているうちに、いつの間にか蒼佑はいなくなっていた。
そして翌二十日、信光は二百人の家臣達と共に挙兵。清洲城で織田大和守を切腹させ、清洲城を落とした。
坂井大膳は城から逃げ出したが、最早尾張には、彼に味方する者はいなかった。
「すべて叔父上のおっしゃった通りになりましたなあ。いやはや、さすがでございます。」
信長は上機嫌で、那古野城にやって来た信光をもてなしていた。清洲城を落とした報告にきていたのだ。
「まさに叔父上の策略通り。俺を裏切るフリをして清洲衆に近付き、見事に内から崩されましなあ。俺も叔父上の知略から学ばねばなりません。それにしてもお見事!」
信長が手放しに信光を褒める程、信光の顔が苦虫を潰したようになる。信光はそれを必死で隠そうとしているようだが、信長にはその心内までバレバレであった。
故に、愉快ー。
「ささっ、叔父上。たんと飲まれてくだされ。お影よ、しっかりと酌をしてやれ。」
「かしこまりました。」
信光の左腕に擦り寄るようにして、若い娘が酌をしていた。いや、娘のフリをした影、である。
何故か影は、信光に労いでもしてやりたいと言い出し、勝手に酒を持ち出して信光に酌を始めていたのだ。
暫くすると、すっかり千鳥足になった信光が、彼の家臣に背負われるようにして帰っていった。
「ふふっ、これで清洲城は信長様の居城に、この那古野城には信光様が移ってきて、空いた守山城には信長様の家臣を置く。見事に二つの城を信長様にお支払いした訳でございますが、我が主は快方に向かわず。ああ、悲しい。」
信長と二人きりで部屋に残っていた影が、そう嘆いて見せた。とはいえその声音に、憂いた感じはない。
「天の病には最善を尽くさせているさ。しっかり代価ももらったしな。あとは天の気力次第よ。俺の預かり知るところではない。」
「ごもっとも。」
影がそれきり黙ってしまったので、信長が問い掛けた。
「それで、お前は何故、叔父上に酌などと言い出したのだ。」
影の行動が、ただの気まぐれでないことは、信長にも想像はつく。しかし意味がわからない事には変わりない。
「ねえ信長様。」
影がぽつりと呟いた。
「天が言ってたんです。この世に復讐したいって。天に暴力を振るった大人達にじゃなくて、大人達をそうさせたこの世に復讐がしたいって。大人達のしたことは当然で、だけど殴られ損の天は腹の虫がおさまらないからって。私は正直、この話を聞いた時、馬鹿じゃないのかと思いました。誰に復讐するつもりなのかも、本人よくわかっていませんし。」
「…そうだな。」
「だけどもしそれが出来たら、それってまるで神様みたいだと思いませんか?」
影の思わぬ言葉に、信長は驚いて、ただ「神か」と繰り返した。
影がええと頷く。
「この世に罰を下すんです。まさに『天罰』。」
どこか誇らしげにそう言った影に、しかし信長は呆れたように首を振った。
「それが病で死にかけていて、享年十二歳にでもなってみろ。神どころかただの大うつけだぞ。」
「確かに。天には早く良くなってもらわないと、私達も恥を掻きますね。…さて、『顔見せ』は済みましたし、私はそろそろ失礼致します。」
影は最後にそう言い残して、部屋をあとにした。
結局のところ影は、何故信光に酌などと言い出したのか、その答えを具体的に告げる事はなかった。
夏がくる頃には、天はすっかり快復した。
天の面倒を見ていた可成とえい、そして彼らの四歳になる息子と別れを惜しみながら、天と少年達は尾張を去っていった。可成は夏の間中、「彼らがいなくなって、寂しくなりましたなあ」などと事ある毎に呟いていて、あまりにもその回数が多かったので、信長を終始苛立たせたものだった。
「それにしてもまあ、あれも人の子だったんだよなあ。」
入道雲を眺めながら、信長はそう思った事があった。
化け物じみた思考と人を食ったような態度、大胆不敵な行動には人外さを感じるが、しかし蓋を開けてみればただの十二歳のおなごなのだ。風邪も引くし死にかけもする。弱りもするし、意外に他人に懐きもする。道山もしかりだが、世話になった可成の事も、随分と慕っていたようだ。
「…あれの命の対価が清洲城、おまけに守山城付き。」
信長は、フハッと笑い声を上げた。
この年の十一月、那古野城で、信光が暗殺される事件が起こった。喉元を綺麗に斬られていたという。
下手人は判らず終いである。ただここのところ、信光の様子は少し奇妙で、家臣を遠ざけては、随分と若い娘と二人で、部屋に閉じ籠もっている事が増えていたという。
たまたま一人の小姓が、信光がその娘の名を呼ぶのを聞いていた。
『お影、』
確かに信光は、そう言っていたそうだ。
そしてもう一つ、この頃から信光は、頻繁に悪夢に魘されるようになっていたらしい。寝室の側で控えている小姓衆は、何度も信光が「天罰が下る、二度目は、ない、天罰が下る、二度目は、ない。ああ、次は無いと言われていたのにー」と狂気じみた様子で叫ぶのを聞いていたそうだ。
信長は、信光の家臣らからそれらの話を聞き出すと、信光の死に関して、これ以上騒ぎ立てる事があってはならないと言い付けた。
「…天罰、か。」
そう言えば村木城攻めの時、信光を見張っていたのは天だったと、信長はなんとなく、その事を思い出した。
村木城攻めから清洲城奪取まで、傍目に見れば関連の無い出来事のように見えるが、信長には何か繋がっているような気がしてならなかった。それが叔父信光を死に追いやったのだ。
「二度目はない、か。叔父上が俺を裏切ろうとした回数もまた、二回。」
信長の脳裏には、不敵に笑う天と、可憐に笑う影の顔がちらついたのだった。