五、村木城・南
ついに始まった村木城攻め。
搦手口の守山衆を監視していた天は、信光の出方に難色を示していた。そこで一計を案じた天は、守山衆に搦手口を突破させる事に成功する。
信光から、何故道山が信長に肩入れするのかと問われた天は、「儂と道山様との利害が一致したから」という謎の言葉を残して、その場を去ってしまった。
一方、村木城の南を攻める信長だったが、初めて大々的に取り入れた「鉄砲」に、思わず手を焼いてしまいー。
おぉぉぉ!!
遠く搦手口の方から、歓声が沸き起こった。
どうやら搦手口を攻めていた叔父信光の守山衆が、門を突破し村木城内へ雪崩込んだようだ。
信長は音を頼りにそう判断すると、自身の足元に座り込んでいる氷に、ちらと視線を送った。
その時には既に、氷は信長を見上げるように首を後ろにもたげていて、その顔には心底愉しそうな笑みを浮かべていた。
「ほーらね!天を守山衆につけておいて正解だったっしょ?」
そして氷がニヤニヤと言った言葉に、信長はうむと頷くしかなかった。
叔父信光は、搦手口を攻めるにあたり、最初から全力を尽くすつもりはなかったのだろう。信光とて、信長が彼の守山衆と、大手口の水野軍を囮に使う気だという事には、薄々勘付いていた筈だ。だからこそ信光は、まるで牛のようにのんびりと、搦手口を攻めていたのだ。間違っても彼の守山衆が、一番初めに門を破る事のないように。
しかし結果として、守山衆はいの一番に、村木城内に辿り着いた。それは何故か。
恐らく信光のやる気のない様子を間近で見ていた筈の天が、「何か」をしたのだ。那古野城での真似ごと軍議の時には既に、子供達は信光の心内と、それに伴う戦の様相を、思い描いていたに違いない。だからこそ天を、守山衆の監視に付けるような真似をしたのだ。
「ほぉ〜、あの娘の言が、真になりましたな!まことにまことに、愉快痛快!」
そう言ってケタケタと笑ったのは、先まで守山衆の様子を見に行かせていた藤吉郎である。その隣では利家が、自分も早く槍を振るいたいのだろう、そわそわと信長をうかがっている。氷はしてやったり!と言いたげな表情で信長を見ていて、連れの火種は相変わらず、ただ仏頂面で黙したままだ。
信長は自身を取り囲む面子に、久方ぶりにある感情を覚え、ふっと笑みをこぼした。
『気楽だー。』
家督を継いでからというもの、信長はまともに息付く暇もなく、苛立ちと試行錯誤の日々を送っていたように思う。途絶える事のない裏切りに外敵。老臣達からの小言に諫言。少しでも気を抜けば、信長はすぐさま当主の座から引き摺り下ろされただろう。命だってなかったかもしれない。
しかし今、信長の周りにいるのは、そんな信長の苦労と苦心を解っているのかどうかさえ判らない、脳天気な若者達ばかりだった。これから死ぬかもしれないというのに、緊張感の欠片も無い。
信長は久方ぶりに、ゆったりと呼吸が出来ている気がした。
戦場だというのに、空気がやけに美味しい。
おぉぉぉ!!
そのうち、水野軍が攻めている大手口からも歓声が聞こえてきた。恐らく水野軍も、門を破って村木城内へと雪崩込んだのだろう。
「もう暫く待て。大手口搦手口に、村木城の兵を多く誘き出せ。その上で手薄になった南側を、我々が攻めるぞ!」
「はい!!」
信長が笑いながら言った言葉に、利家が嬉しそうに返事を寄越した。まるで「相撲をとるぞ!」と、言わんばかりの気楽な会話だった。
パンパンパンッ
鉄砲の音が、響き渡る。
先の宣言通り、信長は村木城の南側を攻め始めた。
ここには、大きな空堀が掘られており、勿論橋などは架かっていない。もとより通用口でもないので、門の類もなく、城は板塀で囲まれていた。狭間はしっかりと設えられているので、村木城の今川兵達は、そこから矢を射掛けたり、数は少ないが鉄砲を撃ったりしてくる。
信長は、敵の矢が届かない辺りに、自身の鉄砲隊をズラリと並べると、彼らを二人一組にさせた。一人が鉄砲を撃ち、もう一人にはその間に、次の鉄砲の用意をさせるのだ。
鉄砲というのは、その飛距離と貫通力においては、弓矢の上をいくが、かといって決して万能ではない。
なかなか狙い通りに玉は飛ばないし、一発ずつしか撃てない。しかもその一発を準備(薬込み)するのに、とにかく時間がかかるのだ。火薬と弾丸を詰めて、カルカで突き固める。火皿に火薬を用意して、火縄を付ける。そこまでしてようやく、撃ち手は鉄砲を構えられるのだ。そして火蓋を切る。
だからこそ信長は、鉄砲隊に分業させているのだ。一人が撃っている間に、もう一人が次の鉄砲の用意をするという寸法だ。そうすれば間無しに数が撃てると思ったのだ。
そしてとにかく、鉄砲の数を揃えた。今の鉄砲隊と鉄砲に、高い命中精度を求める事は出来ない。信長とて、早いうちから鉄砲の訓練はしていたが、いや、訓練をしてきたからこそ、その扱いの難しさは心得ていた。
ならば個々に技術を求めるよりも、鉄砲の数と実際に撃つ数を増やした方が手間がなく確実である。つまるところは、「数撃ちゃ当たる」だ。
しかしこの村木城攻めが、信長にとって初めて、大体的に鉄砲を取り入れた戦であった。そして今、信長は自分の考えの甘さを痛感していた。
二人一組作戦が、間違っているとは思わない。しかし信長の計算通りにはいっていなかった。
まず信長は、ズラリと並べた鉄砲隊が「一勢に」かつ「間無しに」鉄砲を撃てると期待していた。しかし既にこれが、失敗している。
二人一組で鉄砲を準備し、撃つ。これはいい。問題は、この何組もの「二人一組」の動きが、揃えられていない事だった。
もとより薬込みの準備が遅い未熟者もいた。しかしなにより予想外だったのは、鉄砲を準備している途中で、それを暴発させる者が多く出たことだった。
火皿に残った火薬カスを払わなかった、カルカの扱い方が雑だったー、そんな理由で、鉄砲が暴発していく。
普段の訓練中ならありえないような失敗だった。しかしそれが、多発しているのだ。
挙げ句の果てには、熱くなった鉄砲の筒の部分に不用心に触れて、手を火傷したはずみに鉄砲を取り落とす不届者まで出る始末だった。
そんな訳で、信長の「放て!」という言葉に、対応出来ない者達が続々と出てきた。せっかく鉄砲の数が多くても、それらが撃てる状態でなければ意味がない。それもバラバラに撃っては意味がないのだ。戦、特に城攻めにおいて鉄砲は、単発では然程の脅威にはならない。
「この阿呆共め…。」
信長は苛立たしげに頭を掻いた。
訓練では出来ていた事が、出来ていない。ありえない失敗を犯している。皆、戦場の興奮と緊張で、普段通りの動きが出来ていないのだ。
信長としては、城に鉄砲を撃ちかけている隙に、馬廻り衆に深堀を登らせて、城内に雪崩込ませる予定だったのだが、とんだ誤算が起きてしまった。
今はまだ、村木城内の今川軍は、信長が攻めにくい南側を敢えて攻めてきた事と、信長の持ってきた鉄砲の多さに、慌てている筈だ。城方は、大手口と搦手口に兵を割いている筈なので尚更だ。
しかしその混乱も、時間の問題だろう。
今川軍が信長の鉄砲隊に脅威を感じなくなれば、その時点で戦局は、今川軍有利に変わる。なにせこの村木城南は元より、堅固な守りを誇っているのだ。鉄砲隊を無視され、空堀を登る馬廻り衆に集中されては困る。なにせ敵は堀の上から攻撃してくるのだ。熱湯でも石でも、頭から浴びせられたら、信長の馬廻り衆はひとたまりもない。
「どうする…。」
鉄砲隊を立て直すのは、最早不可能だ。ならばいっそ、鉄砲は捨てさせて、弓矢の数を増やすか。しかしそうなると、距離を詰めなければならない。ただでさえ空堀を登る馬廻り衆は捨て駒同然だ。その上、距離をとっていた兵達まで城に近寄らせれば、此度の戦の死傷者はきっと、激増する。
「是非も無し、か。」
信長がそう呟いた時だった。
パンッパンッ
続けざまに、乾いた音が二回響いた。
鉄砲隊は、信長の号令がかからなくなった時点で、鉄砲を撃つのを止めていた。だからこそ先の発砲音は、やけに戦場で響いた。
パンッパンッ
そして間無しにもう二回。発砲音が聞こえてくる。
「ヒュー!さっすが火種!お見事!」
場違いな口笛と共に聞こえてきたのは、興奮気味の氷の声だった。
信長がハッと自身の左手、少し離れたところに目を向けると、そこには城を指さしながらはしゃぐ氷と、その足元で鉄砲を構える火種がいた。
火種は氷の言葉に答える事はせず、ただ淡々と一人で、薬込みを完了させた。流れるようにカルカを使ったかと思うと、その他の動作は、信長にはよく確認出来なかった。
それ程までに、火種が薬込みにかけた時間は短かった。
そして鉄砲を、火種はこれまた流れるようにして構えた。狙いを定めたかどうかさえ判らない早さで、引き金を引く。
パンッパンッ
そしてまただ。何故か「二回」、続け様に発砲音が響いたのだ。
信長は素早く、視線を火種から城に向ける。
するとどういう訳か、城の板塀が四箇所、弾けるようにして派手に木屑を飛ばしたのだった。
「…は?」
信長は自身が見たものに、驚きで口をあんぐりと開けた。
信長は目が良い。遠く離れた城の囲いも、よく見えていた。決して見間違いではない。確かに今、四箇所に鉄砲の玉が命中したのだ。
しかし火種以外に、鉄砲を撃った者はいない。
そしてその火種も、鉄砲の薬込みは、一度しか行っていないのだ。
にも関わらず、どう考えも、玉は四つ飛んでいった。そしてよくわからないのは、発砲音が二回したこと。
信長が眉間に皺を寄せて、火種の方に視線を戻すと、信長と目があったのは、火種ではなく氷だった。
氷がニヤニヤと笑みを浮かべて、信長に顔を向けている。
ー 俺の仲間、すごいっしょ?
氷の声は聞こえずとも、信長はそう自慢されているのがわかった。
信長は戦の真っ只中だということも忘れて、火種と氷の元に走り寄った。
「今一度、見せよ。」
何を、とは言わなかった。それは火種も氷も心得ているのだろう。火種が「ん」と喉から絞り出したような音で頷き、今回は信長に見せる為に気を利かせたのか、ゆっくりとした動作で鉄砲に薬込みを始めた。
玉と火薬を入れる。カルカで中を突き固める。そこまでは至って普通だ。しかしそこから、火種は思いもよらぬ事を始めた。
何か紙を捻ったようなモノを、鉄砲の中に入れたのだ。
そしてその上からまた、玉と火薬を詰め込んだ。
信長が目を白黒させているうちに、火種は更にとんでもない事をし始めた。
なんてことないように悠然と、点火した火縄を直接、鉄砲の中に入れ込んだのだ。
「待っ、」
信長が思わず後ずさったのと、火種が鉄砲を構えたのとが同時だった。
パンッ
火種の鉄砲から、玉が一発放たれた。引き金は引いていない。
そして火種は、ここでようやく、引き金を引いた。
パンッ
これは通常の射撃と同じ要領で、二発目の玉を放ったらしい。
それらがまた、城を囲む板塀に命中し、派手に砕いた。二発ともだ。
いや、とここで信長は首を振った。
二発じゃない。やはり四発だと、信長は思った。
板塀の砕け散った範囲を考えても、二発でかなうものではない。
そこで信長の意図を汲んだように、氷が手を差し出してきた。
「ほら、信長様。秘密はこれっすよ。」
氷が差し出してきたのは、鉛玉だった。
しかしよくよく見れば、鉛玉を半分に分けるようにして、何かが挟まっていた。
「笹の葉らしいっすよ。俺も詳しくは知らないですけど、鉛玉つくる時に、玉の真ん中に笹の葉を入れてから、固めるんだって。そうしたら、撃った時に半分に鉛玉が割れて飛んでいくらしいっす。」
なるほどと、信長はその鉛玉をしげしげと眺めた。
つまりだ。火種は一度に鉛玉を二個、鉄砲に詰め込み、かつその鉛玉が二つに割れて飛ぶという訳だ。結果、一度に四発撃ったのと同じになる。
「鉛玉の仕掛けはわかった。しかしそもそも、どうやって一度で二回撃ったのだ?なにやら紙のようなものを入れていたが…。」
信長の疑問に、火種が「ん」と氷を指さした。
それに応えるようにして、氷がまたしても、信長に何かを差し出してきた。
先の紙のようなものだ。実際に触ってみると、やはり紙である。
しかし思わぬ事に、湿っていた。
「水で一回濡らして、絞ってるらしいっすよ。俺もどんなからくりで、そんなもんで玉を二ついっぺんに入れられるのか未だに理解してないっすけど、まあ火種はやれてるんで、可能なんでしょ。根来衆はそういうびっくり技、もしかしたらいっぱい持ってんのかもしれないですね。恐ろしい恐ろしい!」
氷の言葉に、信長はそうだったと思い出した。火種は確か、根来の出だと言っていた。幼い頃から、鉄砲に触れてきたとも。
むーと、信長は唸り声を上げた。これはどれ程信長が鉄砲の稽古に励んだところで、そういう鉄砲集団には、根本的に勝ち目は無いのかもしれない。
しかし信長が今競うべきは、根来衆ではない。眼前の村木城にいる今川軍だ。
信長は急ぎ、火種の元に、鉄砲隊の中でも腕の良い者達を集めさせた。彼らを改めて、二人一組にさせる。
先より数は随分と減るが、下手な者はもう使わない。
そもそも今の鉄砲隊の実力で、鉄砲を横一列に、ズラリと並べたのが誤りだったのだ。
大体にして、軍が横に伸びれば、命令は届きにくくなるし、動きを揃える事は出来ない。
ならばはじめから、一点集中で攻めれば良かったのだ。なにも村木城の南側を全部、突破しようなどと思う必要はなかった。
どこか一箇所でも突き崩して、信長の馬廻り衆を城内に入れてしまえばそれでよかったのだ。その後は城内で激しい白兵戦になるだろうが、信長が村木城の南を攻める最大の理由は、敵の士気を下げる事にある。
その為には、「最も攻めにくい南側を、信長軍に破られた」という事実さえあれば良い。それだけで、大手口、搦手口双方の今川軍は、更に動揺する筈だ。
「氷、遣いを頼む。」
信長は火種の隣で、暇そうにしていた氷に声をかけた。
ちなみに火種は、自身の鉄砲にあろう事か、手持ちの水をぶっ掛けていた。鉄砲の熱を冷ます為なのだろうが、少しでも間違えれば、鉄砲が使い物にならなくなる。しかしあの火種の事だ。あまりにぞんざいな手付きに見えても、そんな事態にはならないのだろう。
信長はそんな火種の手付きを気にしながらも、氷に言って聞かせた。
「いいか。今から我らは、ここからまっすぐの、あの狭間三つだけを狙って、鉄砲を撃ちまくる。そう、あの狭間三つだ。お前は空堀の中に下りて、あの狭間の下に馬廻り衆を集めろ。無論、全員ではない。が、ある程度。匙加減はお前に任せる。利家が見つかれば協力させろ。」
信長の言葉に、氷は頭の後ろで手を組みながら、へえと面白そうに笑った。
「俺で良いの?」
まるで友達のような口調の氷に、信長は一度睨みを利かせるも、すぐに手でしっしと追い払うような仕草を見せた。
「さすがにここにいるのが天だと、任せないがな。お前ならまあ、構わんさ。」
信長の言葉に、氷は一瞬、虚をつかれたような顔をしたが、すぐにまた笑みを浮かべた。
「わっかりました!ちなみに馬廻り衆の皆々様を焚きつけるのに、なにか褒美の話などあればどうぞ?」
氷が戯けたように問い掛けると、信長は大声で答えた。
「この南側攻め、一番槍には、普段の倍以上の銭を出す!生きて戻ればその三倍!」
信長の答えに、氷は満足げに頷くと、走り出した。
空堀へと向かう氷であるが、時折信長を振り返っては、何故か大きく手を振っている。
「氷は…心底楽しそうでございますな。」
信長が特別に側に控えさせていた藤吉郎が、そんな氷を見送りながら、不思議そうに首を傾げると、信長も呆れたように首を振った。
「まったくだな。理解出来ん。」
守山衆に何かをした天も然り、楽しげに死地へと向かう氷も然り、淡々と凄技を見せる火種も然り、道山に仕えるこの奇妙な子供達の頭の中には、信長には理解しえない鬼でも住んでいるようだった。
那古野城に残った蒼と影も含めて、一体岳父斎藤道山は、どんな教育を施したというのだろうか。
「さてと。」
しかし今、信長が考えるべきは、遠くにそびえる「的」のみだ。
「俺も撃つぞ。」
信長は鉄砲を用意させると、自身も構えた。
「放て!」
そして信長が、吠えた。続けて鉄砲の轟音が鳴り響く。
ひたすらにその繰り返しだ。
少数精鋭に切り替えて、かつ狙いを狭間三つに絞って正解だった。
先までバラついていた鉄砲による攻撃が、ようやく纏まりを見せた。皆で揃って撃ち、そのうちに次の鉄砲の用意がされ、すぐさまその鉄砲を放つ。
代わる代わる手渡される鉄砲の中に、今回暴発するものは一つもなかった。
さて、信長の指示通りに、空堀の中に降り立った氷は、「お犬ー!!」と声を上げながら、利家を探していた。
堀の中では、信長の馬廻り衆、つまりは血気盛んな若者達が、がむしゃらに堀を登って城を目指しているのだが、これがまるでうまくいっていなかった。
まずもってしてこの巨大でかつ深い空堀だ。これは戦の最中でなくとも、登るのは一苦労な代物である。
そこに加えて、城からは矢が飛んでくる。熱湯が上からふってくる。かと思えば大きな石が転がってくる。
せっかく堀の半ばまで辿り着いた者達も、何らかの邪魔がはいって、また堀の底に転がり落ちる始末だ。
中には打ち所が悪くて、そのまま起き上がれなくなる者や、死ぬ者もいた。
そもそも堀を登りきったところで、板塀まで乗り越えるのは至難の技だろう。手間取っているうちに、槍で突かれて終わりだ。
だからこそ鉄砲隊の援護が必要だったのだ。鉄砲の破壊力でもってして、板塀を撃ち砕く。もしくは今川の兵を、少しでも板塀から遠ざける。うまく隙をつくれさえすれば、そこは信長の馬廻り衆である。元気の良い若者達から我先にと、城に飛び込んでいける筈だ。
しかしその鉄砲隊が、想定外にうまくいかなかった。
だからこそ信長は、作戦を変更して、氷をここに寄越したのだ。
「お犬ー!!…あーあー。こりゃお犬も死んでるかもね。」
堀の底に転がっている死体の数が、氷の予想よりも遥かに多かった。となれば必然、信長の予想よりも多いだろう。村木城を包囲してからというもの、槍を振るいたがっていた利家の事だ。いの一番に堀をよじ登って、殺されている可能性も大いにある。
「一番槍どころか、一番に死体になってそうだもんなあ、お犬は。」
とはいえ利家の協力がなければ、氷は些か面倒な事になる。この熱狂した馬廻り衆が、本来余所者である氷の話に、信長からの命令とはいえ、耳を貸すとは思えなかったからだ。
「はあ…まったく、肝心な時にお犬はどこ、ぐぇっ!?」
氷が思わず愚痴をこぼしていた最中だった。
突然、氷目掛けて、何かが上から落ちてきたのだ。
重さのあるそれを避けきれずに、氷は蛙が潰れたような声を上げた。うつ伏せに倒れた拍子に、顎を強く地面に打ち付けた為、氷の意識は一瞬朦朧としたが、なんとか気を取り直した。そして背中に伸し掛かったまま、倒れた氷の上から動かない「それ」に、氷は珍しくもありったけの悪態をついた。
「重いだろっ!さっさとどけ!死体の相手なんてしてる暇、こっちはないっつーの!」
氷の視界には、人間の腕がちらついていたので、間違いなく氷に伸し掛かっているのは、堀を登っていた途中で落下した、馬廻り衆の誰かだろう。
それがわかっているところで、しかし氷にその誰かをどかすだけの筋力はない。まだまだ体の出来上がっていない十一歳の子供なのだ。普段から鍛錬に励む、信長の馬廻り衆の若者の体重には敵わない。
ジタバタともがいていた氷の耳に、暫くすると声が聞こえてきた。
「痛ってえ。ちぇっ、これで落ちるの十回目だぞ…。いい加減なんとかしないと、殿に良いとこ見せられない…。」
その声を聞いた瞬間、氷は顔を綻ばせた。
「なーんだ、生きてるじゃん!お犬!」
氷の言葉に、背中の利家が、驚いたようにパッと飛び起きた。
「一番槍には普段の二倍、生きて帰れば普段の三倍…しかもきっと、殿からも褒めてもらえて覚え目立たく出世…!」
氷の話を聞いた利家は、目をらんらんと輝かせると、堀の中をぐるりと見渡した。
誰かを探すような利家の仕草に、氷が首を傾げていると、利家は目当ての人物を見つけたのか、おーい!と声を上げた。
「新介!」
「おう?」
利家の呼び掛けに応えたのは、今まさに堀を半程まで登っていた青年だった。その青年に向かって、利家は「降りて来い」と仕草で伝える。
青年は暫くそれに対して、首を振っていたが、利家がしつこく呼ぶので、名残惜しげに堀の上を睨むと、あとはスルスルと堀を滑り降りてきた。
「で?何の用だよ、利家。せっかくあと少しで登りきれそうだったのによ。」
「なにがあと少しだよ!あと半分はあったし。」
軽く睨み合う二人の間に、しかし然程の険悪さはない。どうやら歳もちかく、仲も良好のようだ。
氷はそんな利家と青年を交互に見遣りながら、クイッと利家の着物を手で引っ張った。
氷は無言だったが、意図は伝わったらしい。利家が新介と呼ばれた青年を、氷に紹介した。
「毛利新介。俺と同じで殿にお仕えする馬廻り衆だ。言いたくないけど、俺よりも頭は良いし、人望もある。俺ら若者衆の纏め役みたいな奴なんだ。」
新介は、そんな利家の言葉に破顔した。
「まあな。お前らみたいな傾奇者達の面倒を、殿に押し付けられて長いからな。それなりに頭も使って働いてるさ。利家みたいな勢いだけのバカ達だけじゃあ、勝てない喧嘩もある。そんな時が俺の出番よ。とはいえ今回のは、殿も苦戦しているみたいだなあ。鉄砲での戦は、うまくいかなかったか。」
新介の大きな笑顔が、徐々に困った時の笑みに変わっていく。それをちかくで見ていた氷が、はいはーいと手を上げた。
「さっきお犬にも言ったんだけどさ、信長様は鉄砲をズラッて並べるのを止めたんだ。あんましうまくいってなかったから。そんで向こうの狭間三つだけを狙った、少数精鋭に切り替えた。だから活きの良い奴らは、そっちの狭間の下で待ってた方が良いと思うよ!」
「活きの良い奴ら、ねえ。まるで魚みたいな例えだな。」
そう返した新介は、氷のあまりに親しげな話し方も気に触らなかったようで、ふむと顎に手を当てて、なにやら考え込んでいる。
「殿の言いたい事は…わかった。利家、とりあえずここら辺の連中を、そうだな、二つに分けろ。まだまだ体力の余ってて、怪我も少ない奴らは、殿と鉄砲隊が狙ってるっていう狭間の真下に集める…ゆっくりな。あまり性急に集合させると、上から見てる今川兵に勘付かれるから。それで残りの奴らは逆に、急かして走らせろ。狭間からなるべく離れたところ、逆側に、だ。そっちは囮にするから。」
おお!と利家が、感心するように声を上げた。
氷は概ね新介の意見に賛成だったので、敢えて何も言わなかった。
それから先は、とにかく「怒涛」だった。
まず信長と鉄砲隊が、見事宣言していた通りに、狭間三つを撃ち崩した。たかが三つ、しかしされど三つである。その場にいた今川兵は、蜘蛛の子を散らすようにして、少し奥へと逃げていった。
そしてそこに、出番を今か今かと待ち構えていた信長の馬廻り衆が、堀から這い上がり、攻め込んだのである。
そこから先は、激しい白兵戦だった。
しかしそこに、利家と新介はいなかった。
二人は、堀の底に転がっていた。
利家は悔しそうに頭上を見上げていて、新介は苦笑いを浮かべている。
「一番槍、取られてしまったなあ。」
新介は困ったように頬を掻くと、さてもう一度登るかと、未だ堀の底で尻餅をついている利家に手を差し出した。
さて、利家と新介を除き、一体誰が「一番槍」になったのかというと、それは氷だった。
利家と新介、氷は、年長の二人を先頭にして、氷が後を追うようにして堀をよじ登っていたのだが、いざ上に辿り着こうという時に、氷がまず、新介の足首を掴んだのだ。
「おっと…!?」
新介の片足に、氷の重みがかかる。全体重とは言わないが、ただでさえ登りにくい堀の壁にへばりついているのだ。体勢を崩し掛けた新介が、グッと指先に力を入れ直す。
しかしそんな新介に構わず、氷は何故かニカッと良い笑顔を見せた。
「いっちばんやーりは、褒美が二倍ッ!」
適当に節をつけて、そんな事を歌った氷が、新介の足首を、更に遠慮なく引っ張った。そこで完全に手と足を滑らせた新介は、かなりの高さを堀の底へと落ちていった。
「へ?新介!?」
それに驚いたのが、新介の隣にいた利家である。
利家が堀の側面にへばりついたまま、驚きで動けずにいると、今まで新介がいた空間に、氷が楽しげに割り込んできた。
その口はまたもや、楽しげに音を紡いでいた。
「生きてもーどれっば、褒美が三倍ッ!いっちばんやーりー、いっちばんやーりー…お犬は落っこちってワンワン吠ーえるッ!」
氷が最後に付け加えた歌詞に、利家は嫌な顔をする暇さえなかった。
隣に並んでいた氷が、ニィッと笑みを深めたかと思うと、器用にも片足を浮かせて、利家の横腹を蹴ったのだ。
もとより鎧に守られている体だ。加えてまだ子供の蹴りだ。しかも氷自身も、堀の側面にしがみついているのだから、その蹴りの威力など無いに等しい。現に利家の体に、然程の痛みはない。
しかし氷の一蹴りは、利家の体勢を崩すのに十分だった。
利家の指が、パッと堀の側面から離れてしまう。踏ん張りきれなかった体が、宙に浮いた。
利家は、遠くなる氷の顔を見上げながら、堪らず怒声を上げた。
「こんの…クソ餓鬼!!」
これで一番槍は俺のものだね!褒美がたくさん!
しかし怒りも虚しく、利家の耳には、氷の楽しげな声だけがしっかりと届いた。
そんな訳で、一番槍を競っていた利家と新介を脱落させた氷は、いの一番に堀を登りきり、城へと飛び込んでいた。
板塀の内側は、思った以上の混乱ぶりで、まさかこの攻めにくい村木城の南を、信長軍がこれほど本気で攻めてきた事が、城方にとって想定外であったと、容易に知れた。
大手口の水野軍と、搦手口の守山衆に、兵を割いているのもあったのだろう。
「馬廻り衆の数さえ揃えば、激戦にはなるだろうけど、ここは押し切れるな…。」
士気の高さで言えば、信長の馬廻り衆に勝る者はいないだろう。皆目立ちたがり屋で、血の気が多い。鉄砲隊に良いところを取られるのではないかと、不貞腐れていた者も多い筈だ。
「とはいえ、その筆頭たるお犬と新介さんを落っとこしてきちゃったからなあ。…しょーがない、皆がくるまで、少し頑張りますか!一番槍なりの働きをしないと、信長様に後から褒美を出し渋られても嫌だし。」
氷はブツブツと呟きながら、足元に転がっていた、元は敵方の弓を拾い上げた。
そしてもう一度屈むと、次は転がっていた矢を手に取る。
今川の兵が、氷に槍を向けている。ジリジリと距離をうかがう兵の一人に、氷はスッと弓を構えた。
しかしその動作は、本当に狙いを定めたのかどうかさえ、判らない程素早いものだった。すぐさまキリリと弦を引き絞ると、氷は迷いなく矢を放った。
次の瞬間、氷に狙われていた兵の、首から上が綺麗に失くなった。
彼の側にいた他の兵が、ギョッと目を見開いていたが、そんな彼も次の瞬間には、頭を失くしてしまっていた。
立て続けに二本、矢を放った氷は、そこで一度ふぅ…と息を吐き出した。
「取り敢えず、首二つ。」
その顔には、先までの笑顔は浮かんでいない。
「そしてこれで…三つ目。」
氷が矢を地面から拾う。勝手に頂戴した弓を構え、そして矢を放つ。
その矢は真っ直ぐに、一人の今川兵の喉仏を見事に貫き、そして勢いよく兵の首を、後ろへと飛ばしていった。
ゴロリと、地面に首が落ちた。
暫くすると、馬廻り衆の若者達が続々と堀を上がってきて、すぐさま村木城の南は、地獄と化した。
激しい白兵戦が繰り広げられ、敵味方問わず、おびただしい数の死者が出た。その有様を聞いた信長が、後から死んだ者達を想い、涙を流した程だった。
城攻めを開始して四刻以上。朝から日暮れまで村木城攻めは続き、城方が降参した。多大な犠牲は払ったものの、信長の勝利という形で、この戦は終わった。
「はんっ、信長サマの『首』は、どうやらご無事なようじゃなァ。」
帰路、どこからか合流してきた天が、信長の顔を見て、鼻で笑ってきた。
「死んでたらその素首、儂が大事にもって帰ってやろうと思っていたのにのう。」
珍しく饒舌に話し続ける天に、信長は顔を顰めると言った。
「なんだ。お前は俺の首が欲しいのか。」
信長の問いに、天はいや、と即座に首を振った。
「要らんな。それに信長サマァ、儂が欲しいんは、ただ一つよ。」
天の言葉に、信長はこの娘と初めて会った日の事を思い出して、言った。
「この世に復讐するに足る、この世を治める奴の首、か。」
「そうじゃ。儂の夢は、天下人をただの『素首』にすることよ。何もかも手に入れた奴が、何もかも失う瞬間ってのは、どういうものなんじゃろうなァ。」
天の問い掛けに、信長は「俺は知らん」と、ぶっきら棒に言い返した。
「俺は…今日を生き残るのに、戦々恐々、必死の日々よ。」
天の前では、どうにも信長は、本音がポロリと出てしまう。それに天は、「そっか」と素っ気なく頷いただけだった。
この時の信長はまだ、天の言う「天下」になど、更々興味はなかった。