四、村木城・搦手口
同盟相手、水野信元への援軍を決めた信長は、岳父斎藤道山に留守居の兵を頼んだ。
早速とやってきた斎藤軍についてきたのは、天ら五人の子供達。自分達も村木城攻めに参加すると言って聞かない彼らは、信長の前で「軍議」を開いてみせる。
大手口に水野軍、搦手口に信光率いる守山衆、そして最も攻めにくい南側に信長軍。
軍議を纏め上げた氷は、天を守山衆に付けるべきだと言う。「身内からの裏切りが一番怖い」、そう信長に忠告してー。
信長は、大荒れの伊勢湾を前にして、すっかり閉口してしまっていた。
つい先程からだ。風が強くなってきたかと思えば、あっという間に雨が降り始めたのだ。そのうち波が大きくうねり出し、気付けば極寒の嵐だ。
「なあ、他人のことを言えた口ではないがなあ、信長サマ。あんた、本当に嫌われ者じゃな。」
信長の隣で、同じく黙って海を眺めていた天が、ぼそりと呟いた。
「天、お前に言われるのは些か心外だが、まあそうなのだろうなあ。」
天の言葉を、信長は認めざるを得なかった。
「道中の城は信長サマを通してくれんし。それで陸路は止めて海路じゃと言えば、このザマか。天候にまで見放されてちゃ、この先が思いやられるなァ。あまりの運の無さじゃ、いっそ清々しいぞ。」
「…少し黙っとれ!」
信長は怒声と共に、天の頭頂部に遠慮なく拳骨をくれてやった。「痛っ…、人でなしか!」と、天が頭を押さえながら喚いたが、信長は知らん顔をして、再度大荒れの海に視線を戻した。
さて、知多半島、信長の同盟相手、水野信元の緒川城を攻略せんとして、今川軍が緒川城の目と鼻の先、村木という所に城を築いた。放って置いては、水野は間違いなく今川方の手に堕ちる。だから信長は、岳父、美濃の斎藤道山に留守居の兵を頼むという前代未聞の暴挙を押し通してから、那古野城を出立した。信長と共に村木城攻めに参戦するのは、叔父信光の守山衆である。ちなみに何故か、道山の小姓である天、氷、火種の三人の子供達も、さも当然と言わんばかりに、信長に同行していた。
そんな織田軍は道中、想定内だったとはいえ、早くも厄介な問題に直面していた。
二年前、赤塚で衝突した鳴海城の山口親子だ。陸路で緒川城に行こうと思えば、この鳴海城の近くを通らなければならないのだが、先に様子を見に行かせた天、氷、火種の話だと、山口軍は道に出張って、信長を通せんぼする気満々だと言う。最早完全に、鳴海城は今川の城の一つに成り下がっていた。
しかしこれは、信長も予想していた事だ。どうするどうすると騒ぎ立てる天達をよそに、信長は熱田に寄ると、舟を集めさせた。陸路が使えなければ、海を渡ればいい。簡単な話だ。
熱田に一泊して、そして今に至る。
昨日は気持ちの良い程の晴れだった。なのに今日に限って、予想だにしなかった嵐ときた。
しかもまだまだ寒い一月だ。雨に濡れれば体は芯から冷える。
信長はじめ兵達はみな、歯をガチガチと鳴らしながら震えていた。それは勿論、信長の隣にいる天とて同じだった。
「寒い寒い寒い寒い!寒いし誰かさんには殴られるし、散々じゃ!」
喧しい。信長は隣で怒鳴り散らす天を睨みながら、しかしながら些か可哀想な気もしていた。なにせ天は「女」で「子供」だ。大の大人でも音を上げそうな今回の行軍は、この分だとこの先もっと荒れるだろう。
果たしておなごの天に、耐えられるのか。
しかし勝手に付いてきたのは天なのだ。それを信長は、許した訳でも、賛同した訳でもない。天がこの行軍中に体調を崩したとしても、戦が始まってから死んだとしても、信長に責任はないはずだ。
「ゔぅ…氷と火種め…早く帰ってこんか…。」
天が恨めしそうに呟いた。
今、天の同行人、氷と火種には、前田利家を付けて船頭のところに行かせていた。要するに遣いだ。用件は至って簡単で、「今すぐに舟を出せ」である。
この嵐だ。船頭も水夫達も、出航には後ろ向きだった。しかし嵐だろうと信長には関係ない。今日舟を出さなければ、村木城攻めが一日遅れる。ただでさえ陸路が使えず、行軍は遅れているのだ。そしていくら道山の手配してくれた留守居の兵がいるとはいえ、信長も長くは那古野城を空けていられない。
水野信元だけではない。信長だっていつ何時、誰に城を攻められてもおかしくない状態なのだ。
それになにより、「立ち止まっている」という状況を、信長は好まない。足を止めていたところで、寒いのも嵐なのも変わらないのだ。だったらさっさと、前進してしまった方がいい。その方が戦も早く始められるし、早く那古野城に帰還もできる。敵もまさか、この嵐の中、信長が海を渡ってくるとは思わないだろう。
信長が強く脅せば、船頭だって舟を出しはする。
しかし信長は、船頭を呼び付ける事も、船頭の元に赴く事もしなかった。
ちょっとした遊び心だったのだ。信長は先刻、船頭ではなく、氷を呼び出すとこう尋ねた。
『氷、お前ならどうする?』
信長は基本、他人に意見を求める事は少ない。結局のところ信長は、自分で考え抜いた戦の手順でなければ、信用出来なかったからだ。だから信長軍には、軍師と呼べる存在がいなかった。
しかし一昨日、那古野城で「真似ごと軍議」をしてみせた氷に、信長はなんとなくだが、自分に似た「何か」を感じていた。まだ戦には大々的に取り入れられた事のない「鉄砲」への着眼点もさる事ながら、各軍の配置についても、信長は概ね氷と同じ事を考えていたのだ。
大手口に水野軍、搦手口に叔父信光の守山衆、そして彼らを囮に使い、一番攻めにくい村木城南側に信長軍と鉄砲隊。
信長がこの布陣の何が一番気に入ったのかというと、氷が大将である信長自身を、南側の一番攻めにくい場所に配した点だった。
一番攻めにくいというのはつまり、一番こちら側の被害が大きくなるという事だ。いくら大手口の水野軍と搦手口の守山衆が奮戦したとしても、恐らく一番人死が出るのは、南側の信長直属軍だろう。
それでも氷は、敢えてそこに信長と信長の兵を配すと言った。それは何故か。
結局のところ信長が、危うい攻め口を自分自身で攻めなければ気が済まないと、解っているからなのだろう。
この村木城攻めの要は、城の南側の攻略に掛かっている。この攻めにくい南側を崩しさえすれば、村木城の兵の士気はおおいに下がるだろう。なし崩しに自滅する可能性さえ出てくる。そうなればこちらの思うつぼだ。
だこらこそそんな大事な攻め口を、他人に任せる事が信長には出来ない。危険な目に遭おうと構わないから、自分自身で采配を振るいたいし、鉄砲も撃ちたい。そもそも死なない自信も負けない自信もあるので、信長は最前線に出ることも厭わないのだ。
しかしこの考え方が、賛同を得る事はほとんどない。
勝手に今回の従軍を拒絶した家老の林などは、その筆頭だ。毎回毎回、口酸っぱく反対される。鬱陶しいことこの上ない。だから信長は、重臣だろうが何者だろうが、他人の意見を求める事を、そもそもしない。自分で決めて、自分で決行する。それだけの事だ。
だから今回、氷に意見を求めるような問いを投げたのは、ほんの気まぐれに過ぎなかったのだ。なんとなく氷は、信長と同じ答えを持っている気がした。
十歳も年下の子供相手に意見を尋ねた信長を、側にいた利家は目を白黒させて驚いている。
そんな利家は無視して、信長が氷をじっと見つめると、「そうっすねえ」と氷が答えた。
『俺なら意地でも舟を出させるっすね。』
『なぜ。』
信長が短く問うと、氷がニヤリと笑った。
『運試しに丁度良い。』
横で天が呆れたように、「この嵐を見てまだ運試しするのか」とボソリと呟いたが、信長は氷の答えを気に入った。
『良かろう。ならば船頭の説得に行ってこい。』
そうして、氷が火種を伴い、信長が念の為利家を付けて、彼らを送り出したのだった。天はその場から動くのが億劫だったのか、信長の側に残っていた。
暫くすると、意気揚々と氷が戻ってきた。その後ろには、火種と利家もいたのだが、氷の表情とは反して、何故か後ろの二人は顔色が悪い。
「どうであった。」
信長が問うと、氷は自慢げにトンッと自身の胸を叩いた。
「完璧に手回ししてきましたよ!すぐに出航の用意をしてくれるそうです。」
ほう、と信長は感心した。
「相当嫌がっておっただろう。どんな口車に乗せてやったのだ?」
信長が聞くと、氷が首を傾げた。
「なーに言ってんすか信長様!言葉なんてそんな食い物にもならないものに、俺は賭けないっすよ。これですよこれ!」
そい言って氷が、親指と人差し指で輪っかをつくってみせる。
「銭ですよ、ぜ!に!」
そして氷がニカッと笑って告げた額に、信長はキッと利家を睨んだ。
「あの、はい、その…申し訳ございません、殿。」
氷の告げた銭の額は、信長が払おうと思っていた額の三倍だった。利家には水夫の雇い賃について予め伝えていたし、氷のあらぬ暴走を止める為に利家を付けていたというのに、一体何をしていたのかと、信長は最早呆れて言葉も出ない。
「ま、儂らの銭じゃないからなあ。」
そう当たり前の事をわざわざ口にした天に、信長が再度拳骨を落としたのは致し方の無い事だった。
それが二日前の話だ。
今信長は、村木城の南側に、ゆっくりと移動している途中だった。
結局のところ、あれからすぐに舟に乗り込んだ信長達は、二十里程の距離をたった半刻で渡りきって、水野領常滑湊に着岸した。
追い風だった。最早水夫など不必要な程に、舟は勝手に前進した。
とはいえ波は高く、雨が後ろから信長の背を叩きつける。決して快適とは言えない海路だったからこそ、半刻で湊に着いたのも、生きているのも「運が良かった」と言えた。
信長がしてやったりと、これみよがしに天を見下ろすと、天は大層つまらなそうに鼻を鳴らしたものだった。
それ以降、天の姿を信長は見ていない。天の代わりになのか、信長の側にいる氷に尋ねてみれば、既に叔父信光の守山衆に、天は紛れ込んでいると言う。
『那古野城でも言ったっしょ?天は守山衆に付けるって。』
この時、信長が思い出したのは、那古野城の大広間で、氷が手元に拡げていた紙だった。大雑把に村木城が描かれたその紙面、西の搦手口の側に「守山衆」の文字。そしてその隣には、書き込まれた「天」の文字。
あの時氷は、「身内からの裏切りが一番怖い」と言っていたが、その意味の解らない信長ではない。
『信光様には気を付けた方が良いっすよ、信長様。というか、織田の人間は正直、あんた以外根絶やしにした方が後の為だとは思います。いやホント、信長様は敵が多い。』
氷の苛烈なまでの指摘は、これまた信長の考えとほぼ一致していた。
信長はその日、軍には野営をさせると、氷と火種を含む数人の共を連れて、自身は緒川城へと赴いた。
そこで一泊し、翌日水野信元と策を詰めた上でまた一泊し、そして今朝、夜明けと共に出陣した。
先に戦端を開いたのは、大手口の水野軍、そして搦手口の信光率いる守山衆だ。その音を聞きながら、信長はゆっくりと、村木城南側へと鉄砲隊を率いて進軍している。
なるべく城内の多くの兵を、大手口と搦手口に引き付けさせてから、信長は堅固な南側に猛攻を仕掛けるつもりだった。その為に鉄砲も多量に用意させてある。
息を潜めるようにして、信長は機を待つ。勿論すっかり日は昇っているので、信長軍の姿は、村木城の兵も視認している筈だ。しかし矢玉が飛んでくる事は今のところなかった。
村木城方も、まさかこの堅固な南側を、信長が本気で攻め崩そうとしているとは、考えていないのだ。まさかこの軍こそが本命なのだとは、思いも寄らないのだろう。
それでいいー、信長は耳をそばだてて、遠くに聞こえる戦いの音を聞いていた。
しかし信長にとっての誤算は、信長本人の性格だった。
ジリジリと時間ばかりが過ぎていく。遠くから聞こえる騒音は、大層盛り上がりもしなければ、酷く盛り下がりもしない。
大した時間は経っていなかったのだが、信長は苛立たしげに舌打ちをした。
「ちっ、あの阿呆共は、一体なんに時間をかけて…。」
信長の言う阿呆共とは、勿論水野軍と守山衆だ。
いつか木下藤吉郎が言っていたが、戦で意外に重宝されるのは「音」である。「えいえいおう」の掛け声、陣太鼓の合図、法螺貝の音、鉄のぶつかる音、矢が空気を割く音、そして最近で言えば鉄砲の轟音。
兎に角だ。戦で動きがあれば、音が変わる。例え戦場の様子が見えなくとも、音は聞こえてくる訳だから、報告などいちいち無くとも、信長には戦局がありありと脳裏に浮かんでいた。
「これは思ってたより、時間が掛かりそうっすねえ。」
いつの間にか信長の隣で地面に座り込み、欠伸を噛み殺していた氷が、信長の気持ちを代弁するようにして言った。
つまるところだ。大手口の水野軍も搦手口の守山衆も、今川軍に苦戦している。
今回の戦の要は、その両軍がいかに敵兵を引き付けて、そして崩すかにあった。そして南側の敵兵力をそちらへと回させ、数を減らす。そこで信長が手薄になった南側を攻め入るのだ。
つまり囮が囮として機能していなければ、本命である信長軍とて、動けない。
「報告!報告致します!」
そのうちに、両軍の様子を見に行かせていた者達が戻ってきた。
大手口には利家を、そして搦手口には、今回も足軽として戦に参加している、すっかり顔馴染みとなってしまった藤吉郎を行かせていたのだ。
余談だが実はこの二人、歳が同じで双方十六歳なのだが、これには信長も驚いたものだった。藤吉郎はどうにも、その猿のような面と達者な口のせいで、老けて見えるからだ。しかし確かに、たまに見せる戯けた顔だけは、年相応と言われればそんな気もする。
二人は揃って「苦戦しております」と口にして、互いに顔を見合わせた。あまりに息がぴったりだったので、驚いたのだろう。信長はそんな二人を気にする事なく、問い掛けた。
「お前達、士気はどうだ?」
「有り余っております!この利家、早く槍を振るいたくてなりません!」
そう頓珍漢な答えを返したのが利家で、
「信光様はじめ守山衆の士気は、随分と低いように思われました。」
そう的確な答えを返したのが藤吉郎だった。
側にいた氷は、利家の答えを聞いた瞬間から、ケタケタと笑い転げている。
しかしあながち、利家の答えも間違いではないのだろう。利家個人はともかくとして、水野軍にとっては、領地を守る戦いだ。これが必死にならない訳がない。
反して叔父信光は、この戦に負けたからと言って、大きく失うものはない。いや、先を見ればこの戦、勝たなければ織田家は今川の更なる脅威に晒される事となるのだが、そのあたりの計算が、歳をとればとる程出来なくなるものらしい。叔父信光の視野は狭く、そして見ている先がそもそも違うのだ。
「ま、信光様の本音をぶっちゃけると、そのうちに潰してやろうと思ってる目障り極まりない信長様の手駒を、この戦に乗じて少しでも減らせたら上々って感じ?」
まさしく、氷の言う通りなのだろう。
叔父信光は、今のところは信長の味方をしているが、その内には野心が見え隠れする。いつか信長を引き摺り下ろし、尾張を我が物にするという下心だ。もしくはこの叔父も、そのうちに弟信行の味方をするのかもしれない。
「自分の守山衆には極力無理をさせずに、この戦は凌ぎたい。だけど信長様の兵には頑張ってもらって、出来る限り死んで欲しい。そもそもお味方の少ない信長様のことだ。死んだ有能な若者達に代わる兵を、すぐに補充など出来るはずもない…。いやあ、信光様は嫌な性格してるっすね!」
パチパチと拍手までして見せた足もとの氷を、信長は膝で小突いて黙らせると、まだ何か言いたげな藤吉郎に目を向けた。
信長の視線に気付いた藤吉郎が、すぐさま口を開いた。
「大手口にて、天と会いました。」
藤吉郎の話だと、天はいつの間にか、藤吉郎の背後に立っていたらしい。藤吉郎がハッと気配に気付いた時には、戦場だと言うのに、具足の一つも身に着けていない天が、藤吉郎をじっと見ていたという。
『お猿、久方ぶりじゃのう。今日も信長サマの使いっ走りか?なら丁度いい。信長サマに伝言じゃ。』
天は声を潜めると、藤吉郎に耳打ちした。
『すぐに良いもん聴かせてやるから、大人しくその時まで待っとけ。孫氏じゃっけ?九地の下に隠れ、九天の上に動く、ってやつじゃ。早まっても出遅れても駄目なんよ、戦ってやつはな。今回はマムシ様の命令もあるからのう。あんたの為に働いてやるから、儂が動くまで早まるなよ。けど機は逃すな。わかったか信長サマぁ?』
「…だそうです。」
「…しばし、待とう。」
この時信長が思ったのは、天が一体何をするつもりか、ではなかった。
ー あの娘は、孫氏の言葉など知っていたのだなあ。
そんなどうでも良い事を考えながら、信長は空を仰いだ。
一昨日とはうって変わっての快晴に、信長は何故か、天がニヤリと笑っている気がしてならなかった。
さて、藤吉郎に信長への伝言を頼んだ天はというと、搦手口での攻防を少し離れたところから眺めていた。
この搦手口にも、信長のいる南側同様、空堀が掘られているのだが、南側に比べると然程大きなものではない。平たく言えば、一般的な大きさの空堀に、搦手口は守られている。
だから兵を空堀に降ろそうと思えば降ろせるし、その空堀をよじ登らせて中に攻め入る事も、やる気さえあれば出来るのだ。
しかし信光は、頑なに兵を出すことを拒んでいた。
ではこの搦手口での攻防がどう進んでいるのかというと、それは空堀に架かる一つの橋を巡って、という事になる。
織田、水野軍の今回の村木城攻めは、村木城の今川軍にとっては急襲だった。
なにせ信長は、先日の大嵐の中、伊勢湾を突っ切りここ知多半島までやって来たのだ。信長が水野信元の援軍にくる事くらい、今川方も知っていたかもしれないが、まさかこれ程早く、信長が村木城に辿り着くとは、水野信元もだが、敵方も思っていなかっただろう。
だからこそ、この搦手口の空堀に架かる唯一の橋を、村木城の兵は落とす時間がなかったのだ。
通常、城での攻防戦が行われる時、城方は橋を落とす。当然だ。その橋を通って敵兵が城に雪崩込んだら堪らない。その為に、橋に一定以上、つまりは大勢の兵や馬、などの重さがかかった時、自動で崩落するよう仕掛けがされた橋だってあるくらいだ。
しかしこの搦手口の橋は、未だに架かったままだ。つまるところ自動で橋が落ちる仕掛けなどはされておらず、今川方としては、自分達の手で橋を落とさなければのらないのだが、敵が攻めてきてからそんな事をする悠長な時間は普通、ない。
織田、水野軍の急襲が成功した時点で、少なくともこの搦手口は、織田信光率いる守山衆が優勢でなくてはならないのだ。守山衆はとっくに橋を押さえて、城に攻め入っているべきである。
「が、実際は橋の両端でほぼにらめっこ状態…か。こりゃ信光サマはやる気ないんじゃろうなあ。」
天は一人、ぽつりと呟いた。
勿論守山衆は、橋が落とされるのは阻止している。しかしそれより先に、攻め入る気はないように思える。
橋が架かりっぱなしなのだから、多少の犠牲など省みずに、兵の数と力で無理やり攻め入れば一番話が早いのだ。しかし信光は敢えて、そうしていないのだろう。
「今守山衆が村木城に雪崩込んだら、間違いなく一番乗りじゃろうしなあ。そしたら多分、南側の今川兵はこっちに流れてくるから、守山衆が相手取る兵の数は、まあ、必然的に増える。つまるところ南側を攻める信長サマの、囮役みたいな感じになるな。うん、それが信光サマはつまらないんじゃろ。だから攻めきれるのに攻めない。他の攻め口が突破されてから、自分達も動こうって腹な訳だ。…メンドクサ。」
天はそう分析すると、ガシガシと頭を掻いた。
「んでもって、ついでのついでに言うと、信長サマの兵がより多く死んでくらたらそれに越した事はない、ってところじゃろうなあ。今は信長サマに良い顔してるみたいじゃけど、そのうちは自分が織田家と尾張を…って腹が見え見えじゃ。」
それから暫く、橋を巡って緩やかに展開される戦を、天は冷めた目で眺めていた。緩やかにとは言ったが、勿論村木城の兵達は、それなりに必死だ。橋を落とす為に、守山衆を追い払おうとしている。とはいえ守山衆も、それだけは看過しない。
「ま、ここで橋を落とされましたなんてなったら、さすがの信光サマも言い繕えないもんなあ。」
信長への言い訳も、橋まで落とされたら通用しないだろう。そんな不手際がバレたら、信長が怒るのは目に見えている。
だからこそギリギリのところで、信光は手を抜いているのだ。頑張りましたが、攻めきれませんでしたー、橋まで落とされては、そんな言い訳も出来ない。
「まったく…メンドクサ。」
天はそう言うと、右腰に差した鎧通しの柄に、そっと手をかけた。
そして走り出す。やる事がなく突っ立って屯しているだけの足軽達の間を、その小さな体ですり抜けるようにして走る。背の低い天が、軍の中を突っ切っている事など、誰もまったく気が付かなかった。
一気に橋までの距離を縮めた天は、あるところから場の空気が変わったのを感じた。僅かに鼻にかかる血の匂いと、喧騒。戦場の空気だ。ピリッとした緊張感に、ここら辺の兵達は、橋での攻防にしっかりと意識が向いている事がわかった。
そして同時に、天の耳には、兵達の声が聞こえてきた。
「さっさと攻め込んでしまえばいいじゃないか。」
「なぜいつまで経っても、城に攻め入る許可が出ないのだ。」
「じき、橋も落とされるぞ。」
兵達の声に、天は彼らの合間を縫うように走りながら、うんうんと頷いた。まったくその通りである。やはり最前線にいる兵の方が、よく状況を理解しているし、だいたい最前線にいるような連中は、血の気も多い。一番乗りの雄叫びを上げたくて堪らない兵もいるだろう。手柄を立てて銭や褒美の欲しい者もいる筈だ。それが我慢を強いられている。手を伸ばせば届く距離にある餌を前にして、だ。なんともつまらない事だと、天は思った。
気付けば天は、橋の上を走っていた。そこでは押し合い圧し合い、守山衆と村木城の兵が戦っていた。槍のぶつかり合う音が、天の耳を打つ。
それでも未だ、守山衆のうちで、橋を渡りきり城内へと足を踏み入れたものはいなかった。相手の抵抗もあるのだろうが、城に攻め入るのはまだ待てと、信光に余程の厳命をされているのかもしれない。
「我らが一気に押し返す!隙を見てその後に橋を落とせ!我らには構うな!」
前方から、そんな怒鳴り声が聞こえてきた。
天は戦う事もせずに、橋の中程を過ぎたあたりまで辿り着いていた。怒声の主は、城から出てきた騎馬武者だった。それが数人の兵を連れて、橋の上に出ようとしている。
なるほど、一気に橋の上の守山衆を押し出して、邪魔が入らないうちに橋を落としてしまおうという腹のようだ。そうなるとこの騎馬武者達は、完全に城からは締め出されてしまうので、捨て身の策だ。
しかしそういう覚悟のある者達は強い。勢いだけで形成をひっくり返してしまう事もしばしばだ。
天はそんな覚悟に満ちた騎馬武者の顔が、しっかりと見える位置にまで来ていた。
スッと天は一つ息を吸い込むと、いよいよ右腰の鎧通しを抜いた。その刃は全身両刃になっていて、珍しがられる事も多い。
もともと低い背を、更に腰をおとして低くする。そのまま風のように駆けた天は、正面で大声を上げていた騎馬武者に気付かれる事なく、その武者の乗っている馬の下に潜り込んだ。そして馬の下を這うようにして駆け抜ける。
その間に一瞬だけ、天は立ち止まった。右手で逆手に握った鎧通しの刃を、馬の腹に深々と突き刺したその瞬間だけだった。
ビギャァァァ
この場にいた誰もが聞いた事もないような、おぞましい叫び声、いや鳴き声が、響き渡った。
突然鳴き声を上げて暴れた馬に、乗っていた騎馬武者は振り落とされた。地面に受け身も取れずに落下した騎馬武者は、具足や鎧の重さで少しだけ、起き上がるのに時間がかかった。
そしてその一瞬で、またしても状況が変わる。
まず地面から離れようとした騎馬武者の頭は、再度衝撃に見舞われた。兜ごと強く殴られたような感覚に、騎馬武者が視界をはっきりさせた時に見えたものは、誰かの草履の裏だった。
「痛ったあ、兜ごと蹴るもんじゃないな。失敗失敗。」
騎馬武者が不快な耳鳴りと共に聞いた声は、どう考えても子供の声だった。
混乱する騎馬武者だったが、それ以上何かを思考する事は許されなかった。
痛いー、そう思ったが最後、騎馬武者の喉が、ごぽりと気味の悪い音を立てた。
天は馬から落ちた騎馬武者に素早く寄ると、兜ごとその頭を地面に蹴り付けていた。
次いで天は、目を白黒させる騎馬武者の胴の上に馬乗りになると、兜と鎧の隙間でチラチラと見え隠れするその太い喉を、鎧通しで突き刺した。逆手で握った両刃だ。刺突の力は、天のような非力な子供が使っても十分である。
ごぽりと、騎馬武者の喉から血が溢れ出て、騎馬武者は叫び声も上げられずに、死んだ。
その瞬間、天と騎馬武者の周囲が、しんと静まり返った。
天は騎馬武者の死体から腰を上げると、場の凍った空気など気にせず、悠々とした態度で、体を橋の方へと向けた。
その小さな体は、天の握る鎧通し同様に、血で汚れている。
頭からひっかぶったのは、馬の腹を割いた時にひっかぶった血で、過程を知らなければ、まるで激しい戦を生き残った満身創痍の兵、といったところだろうか。
しかし天が殺したのはただ一人。それも天自身は掠り傷一つ負っていないのだ。そのくせ、血塗れだ。
そんな天が、鎧通しを鞘に納めると、両腰に手を当てて、橋の上の守山衆に大層偉そうな態度で叫んだ。
「守山の兵達よ!道山さ…間違えた、信長サマからのお言葉じゃ!よう聞け!…『手抜きは許さぬ』。」
天の子供ながらにドスの利いた声を、守山衆はおろか、村木城の兵までもが聞き入っていた。
「以上じゃ。どこの攻め口よりも早く突破しないと…あんたらマズイ事になるぞ?」
それに、と天は心底不思議そうに首を傾げた。
「こんな子供に、一番乗り取られてもいいんか?」
首を傾げた瞬間に、天の髪から血が滴り落ちた。
そしてジィッと、天は橋の上の兵を睨め付ける。
その視線はよそに逸れる事はなく、しかし誰を見ているのかが傍からは判らない。挑発的な言葉と、血塗れの異様な姿と相まって、もはや不気味としか表現しようのない様だ。
しかしその異様な様が、守山衆の気を狂わせていく。
もとより橋の周囲に出張っていたのは、最前線を任される血の気の多い兵達だ。欲深く、手柄と褒美を欲する者達も多い。
それでも信光の策略で、目の前に突破出来る敵がありながら、我慢に我慢を重ねていた兵達なのだ。
そしてただでさえ、ここは戦場だ。
橋周りの守山衆は、天の登場と彼女の姿、態度、そして「信長は手抜きを許さない」という彼女の言葉に、まさしく「あてられた」。
天はまだ城内には入っていない。橋を渡った先にある門は、村木城の兵を出入りさせる為に、大きく口を開いたままだ。
「いける…いけるぞ!」
誰かがそう呟いた。
おぉぉぉ!!
その言葉を合図にしたかのように、橋の上の守山衆が狂気じみた叫び声を上げた。そして橋を渡り切ろうと走り出す。後方にいた者達も、訳がわからないまま、つられるように橋に押し寄せた。
そのあまりの勢いに、村木城の兵達は、見事に出遅れた。
結局橋を落とすことも、門を閉める事も出来ずに、村木城の兵は唖然と、守山衆が城内に雪崩れ込むのを許してしまったのだ。
「一番乗りじゃー!!」
誰かがそう叫ぶのが聞こえた。
天は押し寄せる守山衆を避けるようにして、橋の下に潜り込んだ。
堀の側面を滑るようにして空堀の底に降り立った天は、橋の真下を歩きながら、チラチラと上をうかがう。
ドンドンと橋を鳴らす足音、矢が頭上を飛ぶ音も、先よりも多いようだ。
これで信光の思った通りにはもう、戦は進まない。
これからこの搦手口の守山衆は、村木城内の兵を多く引き付ける為の、囮となるのだ。
「まあ信長サマ云々は嘘じゃが、まあ方便じゃな。どっちにしろあの人は、手抜きなぞ許さんだろうし。それにしてもやっと…、」
ー 戦の始まりじゃな。
天の言葉を聞いた者は、誰もいなかった。
織田信光は、搦手口の様子を、随分と後方から眺めていた。
一応は馬上にいた。自身の槍も、近くに控える家臣に持たせてある。
しかし信光は、この戦に自ら参戦する気は更々なかった。
もとより信光は、全体の様子を把握して、指揮を執るべきであるから、誰もそれを咎めはしないが、その心内を知れば、顔を顰める者はいるかもしれない。
甥である信長が、信光の守山衆と大手口を攻める水野軍を、囮に使う気である事は、軍議の際にすぐにわかった。それでも不満を言わなかったのは、信長が敢えて攻めにくい南側を、自分が担うと言ったからだ。ならばせいぜい頑張れば良いと、信光はどこか他人事のように思ったものだ。
だからと言って、身を切る気は起きなかった。もとより水野と今川の問題なのだ。水野だけが囮になるならまだしも、信光の守山衆まで囮の扱いをされる事が、まず気に入らない。
信光はなにも今回の戦の事だけを考えて、信長の策を気に入らないと言っている訳ではなかった。
信長の中ではつまるところ、信光の扱いはそういうものなのだと、感じたからだ。信長が家督を継いでからというもの、反信長派が勢いを増す中、信光は一貫して信長の側に付いてきた。甲斐甲斐しく世話を焼いてやったつもりだ。信長も確かに、信光を丁重に扱っている節はある。
しかし結局のところ、信長は信光と守山衆を囮として使うのだ。確かに、勝つ為には致し方のない選択だったのかもしれない。しかしそれで、はいはいと頷けるほど、信光は信長に尽くしてはいないし、そんな立場ではないと自負していた。
あくまで信光は、叔父として信長を助けて「やる」側なのだ。信長に上から命じられる立場に甘んじた気はない。
だから兵達には、城に実際に攻め込むのは、機を見てからだと言い含めていた。真っ先に飛び込んで、都合よく囮になるのは癪だったからだ。最低でも大手口の水野が門を破ってからだ。
しかし信光の思惑は、思わぬ形で叶わぬものとなってしまった。
おぉぉぉ!!
前方から聞こえてきた兵達の雄叫びに、信光は困惑した。
明らかに盛り上がりを見せた最前線、そして信光の目にうつったのは、自身の兵が搦手口を破り、城内へと雪崩れ込む光景ー。
「…なぜだ。」
水野軍も信長軍も、まだそれぞれの攻め口を突破していない筈だ。勿論信光も、まだその気はなかった。
「どういう、ことだ。」
信光の周りにいる家臣達もまた、戸惑った表情を見せている。
それから信光は随分と長く様子をうかがっていたが、やがて苛立ちを隠しもせずに、命令した。
「待機させていた他の隊も、順次城内へ入るよう伝えよ。橋だけでは時間がかかる。空堀をのぼって攻め入れ。弓矢も使って攻め立てよ。…敵は増える。心してかかれ。」
このままでは、信光の手勢はやられるばかりだ。下手をすればまた、村木城の兵は橋を落としにかかるかもしれない。ならばもう腹を括って、囮役に殉じるしかなかった。
信光が馬上で、苛立ちから足を揺すったその時だった。
「騒いでも動いても殺す。そのまま静かによう聞け。」
信光の耳元でふと、声が聞こえたのだ。
ゾクリと全身の毛が逆立つ感覚と、一斉に吹き出た冷や汗に、信光はその声の通り、硬直した。
そんな信光が確認できたのは、視界の下にギリギリで見え隠れする、刀身だった。剥き身のそれが、信光の首に当てられているのがわかる。
首元のヒヤリとした感覚に、信光はゴクリと喉を鳴らした。
そんな信光に構わず、背後の声の主は、信光の耳に言葉を注ぎ続けた。
「今回は大目に見てやるが、次は無いぞ。」
信光はその声に、違和感を覚えた。どう聞いても、子供の声だったからだ。
「子供」と言われて真っ先に思い付いたのは、道山が送り込んできた彼の小姓だという子供達。確か信長の周りに、ニ、三人付いていた筈だ。
恐らくそのうちの一人なのだろう。信光の背に密着するようにして、馬の尻に乗っている。チラと信光は左右に視線をやるも、どういう訳か、誰もこの異常事態に気付いていないようだった。
「まあもう察しておると思うが、我が主、斎藤道山様が織田信長をご入用でな。あれには手を出すな。あれに手を貸してくれるんなら、こちらとしては万々歳じゃがなァ。なにせ尾張国内の事となると、こっちも手出しがしづらいんじゃよ。」
コクリと信光が頷くと、背後の子供が耳元で、「この戦、せいぜい気張れ。」と愉しそうに笑った。
少しだけ緩んだ緊張感に、信光は相手を刺激しないよう、ほとんど口を動かさずに小声で聞いた。
「なぜ、道山殿は、信長をそうまでして気にかける?今回の事も、わざわざ美濃から那古野城の留守居の兵まで送り、そして村木城までお前達を付いてこさせ、信長の手助けをさせている。そこまでの労力をかけて、なぜ信長を構う?」
道山とその息子、義龍との不仲は、最早尾張でも有名な話だ。美濃斎藤家とて家中に火種がない訳ではない。それでもなお、道山はわざわざ、義理の息子である信長に目をかける。悪目立ちし過ぎる程にだ。
「…儂はなあ、信光サマ。この世が憎い。儂を痛い目に合わせた、この世が憎くて憎くて仕方がないんよ。」
しかし背後の子供の答えは、信光の求めていたものとは違った。
何故か自分について話しだした子供だったが、身動ぎも出来ない信光は、その声を聞き続けるしかない。
信光の反応などはなから気にしていないのだろう。子供は言葉とは裏腹に、機嫌良さげに続けた。
「この世って奴に復讐しようと思っても、儂も人の子じゃからのう。復讐相手はせめて生きた人間じゃないと、どうしようもない。だから儂は、この日の本を統べる奴に復讐してやろうと誓った。じゃが、いざそれが誰かと問われると、未だに答えは出らんのよ。まったく、困ったことよ。」
かなり飛躍した子供の発想に、信光は何故か脳裏に、昔から破天荒な甥の姿を思い浮かべる。
「で、マムシ様と利害が一致した。」
クスクスと愉しげに笑う子供に、言っている意味はわからなかったが、信光は何故か鳥肌が立った。
「…ああ、すまんすまん。マムシ様がなんで信長サマに目をかけてるか、じゃったな。それは儂もよく知らんが、『尻に敷かれてるのが良い』とかなんとか言っておったよ。」
子供の答えに、信光は余計に意味がわからなくなったが、信光が再度何かを問う前に、チリッと首に痛みが走った。
「お喋りはそのくらいでおしまいじゃ。だいたい儂は、あんたが喋るのを許していない。儂はいつでも本気ぞ?…もう一度言うが、次は無い、からな。」
その言葉を最後に、信光は急に背が軽くなった気がした。視界にちらついていた両刃も消えている。
信光が反射的に振り返ると、そこには誰もいなかった。
「…?」
そこまでして、信光は喉に違和感を覚える。
何も考えずに首に触れると、僅かに液体の感触がした。
血だー。
信光は顔を青褪めさせると、自身の首を思い切り指で掴んだ。
ー 大丈夫だ。首は、無事だ。
自身の首は落ちていない。当たり前だ。当たり前だが、確認せずにはいられなかった。
しかし喉の当たりがヒリヒリと痛む。恐らく薄っすらと、あの刀身で傷をつけられていたのだろう。
あの子供の、「騒いでも動いても殺す」というのは、半ば本気だったのだ。
無礼だ。それこそあの子供を探し出して、首を斬っても文句は言われない程の無礼な振る舞いだ。
しかし信光は、一人溜息をついた。目撃者のいない状況で、あの子供を罰する事は出来ない。勝手に小姓の首を斬られたとなれば、斎藤道山は烈火の如く怒るだろう。
信光に出来る事は結局、この村木城を全力で攻める事だけだった。