一、首狩りの餓鬼
織田信長十九歳。家督を継いだばかりの信長は、今川方に内通していた裏切り者、鳴海城の山口親子に向け兵を挙げた。赤塚で両軍は衝突し、信長軍は二十七の騎馬武者を討ち取られてしまう。
結局引き分けという形で終結した赤塚の合戦だが、その帰り道、信長は不審に気が付く。討たれた騎馬武者は二十七。その筈なのに、何故かもう三人、騎馬武者が行方知れずになっていたのだ。
たまたま側にいた足軽、藤吉郎を使い、信長は三人の騎馬武者の捜索を始める。藤吉郎の必死の捜索により、騎馬武者は発見されるのだが、なんと彼らは、首無しの死体となっていた。
信長と藤吉郎は、この死体の謎を解こうとするも、全容がはっきりする前に、なんと下手人が捕まったという報せが届きー。
信長が庭に面した縁側に出向くと、そこには確かに、襤褸を纏った子供が三人、縄で縛られた状態で胡座をかいていた。
信長の登場に驚いた様子もなく、三人共ふてぶてしく信長を見上げるばかりだ。
そんな三人の後ろには、彼らを見張るように木下藤吉郎と森可成がいて、必死に彼らの頭を押さえて頭を下げさせようとしていた。しかし藤吉郎と可成の努力も虚しく、子供達は無言で抵抗を続けているらしい。頑として信長に頭を下げない子供達を見て、信長はまあ良いと可成と藤吉郎を子供達から下がらせた。
「…。」
「…。」
子供達は不気味な程に静かだった。顔や襤褸布から覗く腕や足には、殴られたか蹴られたか、とにかく無数の痣が出来上がっていたが、三人共嫌に平然としていた。泣き言も恨み言も言わない。まるで信長を値踏みしているかのような目で、信長をじぃっと見上げている。
「藤吉郎!」
信長は鋭く声を発した。
「先の三体の首無し死体と、この三人の餓鬼共の…繋がりを述べよ。」
先程藤吉郎は、「首無し死体の謎が全て解けた」と、意気揚々と言ってのけた筈だ。子供達を城に連れてきたのも藤吉郎の仲間だと言う。そして藤吉郎は、子供達が連れて来られたと聞いて、驚くと同時に至極納得といった表情を浮かべていた筈だ。
そして藤吉郎はこうも言っていた。「下賤な者にしか思いつかない目的がある」と。藤吉郎の言葉や表情から推察するに、三体の首無し死体を遺した犯人は、眼前の襤褸餓鬼三人ということだろう。確かに藤吉郎の言う、下賤な者達には違いない。
しかしまさかそれが、まだまだ体の小さな、この餓鬼共という事がありえるのだろうか。
曲がりなりにもあれらの死体は、この織田信長の直属の兵、馬廻り衆の騎馬武者達だったのだ。古参の家臣達とは違い、信長が手ずから育て上げた強者共だ。昔から共に山を駆け回り、川で泳ぎ、馬鹿みたいに長い槍をもたせて、遊ばせた者達だ。
信長が憮然とした表情で思考を巡らせていると、藤吉郎が丁度、信長の思考のキリの良いところで声を発した。
「先程森様が参られる前に言い掛けた事でございますが、遺体から首がわざわざ持ち去られていたのにはちゃんと理由があるのでございます。」
藤吉郎は勿体つけるようにして間を置いたが、その答えは意外でも何でもない、なんとも無難なものであった。
「金、です。」
「金、か。」
正直、面白みも何もない。信長はつまらなそうに藤吉郎の言を繰り返したが、それで面白味が増すものでもない。
「藤吉郎、お前は確かに最初から言っていたな。織田軍の騎馬武者の首は、山口方の兵からすれば垂涎もの、つまりは金のなる木だと。」
「はい。」
藤吉郎はただ、信長の言葉に頷いただけだった。信長が今、藤吉郎の意見を求めている訳ではないと理解しているからだ。今の信長は、藤吉郎の出した答えを真っ向から否定しようとしているだけだ。
「しかしそれは、山口方の兵にとっての話だ。こんな襤褸餓鬼共が、鳴海城に首を持って行って何になる?まだ徴兵もされない歳だろう。誰がそんな餓鬼共の言を信じて金を払う?それどころか首の検分もされずに終いだ。気味の悪い餓鬼共がおかしな事をしていると、門前払いされるだけだ。」
「いやいや殿、首だけは念の為にと、鳴海城の者共に回収されるのでは?追い剥ぎ紛いの落ち武者狩りもよくある話。まさか子供に褒賞は出さないだろうが、ていよく首だけを、この子供達から取り上げる事はあり得るかもしれませんなあ。大人とはどこまでも汚いものです。」
この場で一番の年長者であるくせに、可成がのんびりとした口調で、「大人」とやらを貶しながら口を挟んできた。この男武辺は確かなのだが、どうにも頓珍漢なところがある。今の論点はそこではない。
しかし可成の発言全てに目くじらを立てていては、消耗するのは不思議と信長の方なのだ。それが実のところ何とも愉快で、信長は可成を側に置いている。
信長が可成の「大人はどこまでも汚い」という主張に、適当に相槌を打とうとした時、思いがけず感嘆の声を上げたのは藤吉郎だった。
「森様、そこでございますよ!この子供等も同じ事を考えたのでございます。首を金に代えたいが、少なくとも偉い大人達相手に交渉など出来るはずもない。だからこの子らは商売相手を変えたのでございます。偉い大人達から、そう偉くない大人達に。つまりはただの足軽相手に、首を売ったのです。それも随分と安値で。もしかしたら銭じゃなくて、米や食べもので手を打ったのかもしれません。」
藤吉郎の話に、信長は思わず「はぁ?」と首を傾げた。仮にそれが正解だったとしたら、酷く損得勘定が破綻した話に思えたからだ。
しかし藤吉郎は、自信があるらしい。
「正直あっしらのような、その日暮らしにも困っているような人間は、モノの価値の正しい勘定なんて出来ないのでございますよ。今日生き残れるだけの食べ物があれば、それで万々歳なのです。例え苦労して手に入れた騎馬武者の首が、握り飯一つと交換だと言われても、その話にケチをつける余裕なんてありません。どちらにせよ正当な値段じゃ買手はつきませんし。なにせ相手も金持ちじゃございませんから。」
しかし信長は、藤吉郎の言葉にすんなりと納得が出来なかった。可成もそうだったのだろう。可成が当然の意見を述べた。
「しかし藤吉郎とやら。仮にそれで足軽が、この子供らから騎馬武者の首を手に入れたとしよう。鳴海の城へ持って行って、首を獲ったから褒賞をくれと言ったとする。確かに首以上に、戦場での働きを証付けるものはないかもしれない。しかし鳴海の城の人間も阿呆ではないぞ?本当にそやつが首を獲ったのか、本物の首なのかも含めて、首実検も論功行賞も慎重に行われる筈だ。どこの城でも同じだろう。余程弁の立つ者でなければ、嘘の手柄だとバレてしまうぞ。さすがに賭けが過ぎないか?」
可成の指摘は最もだ。だからこそ首を獲ったら、その場で誰それの首を獲ったと大声で叫んでしまった方がいい。戦場全体に伝わらずとも、周りの者達が目撃者になる。その上で首を持ち帰り、例えば山口親子に、自分の活躍を伝え相応の褒賞を貰う。首だけポンと持ち帰っても、不要な疑いを招くだけだ。確かに言い訳の仕様はあるだろうが、藤吉郎程喋りが上手くないと、なかなか難しいように思える。
ここで信長は、一つ気が付いた。藤吉郎が先程、捕らえられたのが子供だと聞いて、至極納得していた理由についてだ。
「なるほど…。下手人が両軍に関係のない大人であったとしてもだ、目的が金であったなら、首を獲った時点で足軽のフリでもして、自身の働きぶりを見せびらかすべきなのだ。褒賞を手に入れる為にはな。大人であれば、誰にも気付かれず静かに首を狩る必要がそもそも…ない。しかし本当に、足軽共はこんな得体の知れん餓鬼共から、首を買ったりするものなのか?可成が言った通り、本当に褒賞が出るかは賭けだぞ?下手をすれば虚言で斬首だ。」
信長の言葉に、藤吉郎が少しだけ戯けるようにして言った。
「それはこの子供らの喋り次第でございましょうなあ。そもそもこの子らにとっては、首を売った足軽がその後褒賞を貰えようが貰えまいが、どうでも良い事でございます。彼らにとって大事なのは、首が今日を生きる糧になるかどうか。つまりは誰かに売りつけられるかどうかでございます。この手で稼ぐのは今回が初めて、という訳ではありますまい。上手い口車があるのではございませんか。先程森様は、大人は汚いと申しておりましたが、子供だってそう変わらないと、この猿めは思うております。よくよく自分を振り返ってみると、子供の頃からこの猿の中身は、そう変わっていないように思えます故。」
ああ確かにと、信長も顎を触りながら考える。どれだけ図体が大きくなろうと、知識が増えようと、自分の中身が劇的に変わる事はない。昔からうつけであれば、長じてもうつけだ。根本は変わらない。
とするなら、黙りを決め込んでいる襤褸餓鬼三人を、子供だと侮っては足元をすくわれ兼ねない。
ここに来て漸く信長は、縛られたまま地面に胡座をかく三人の子供達に問いを投げた。
「名は。」
短い信長の問いに、思いも寄らずあっさりと、子供達は口を開いた。
「テンじゃ。」
「コオリっす。」
「…アオと申します。」
三者三様、口調はバラバラだが、三人共素直に答える気はあるようだ。
「どんな字を書く。」
信長が続けて尋ねる。しかしこの問いは些か意地が悪かった。明らかに農民の子以下の身なりの子供に問うても、答えが返ってくる筈もない。
しかし意外にも、返答は早かった。
「お天道様の天じゃ。」
「冷たいあの氷っす。まあ水溜りが氷ってるのくらいしか見た事ないですけど。」
「蒼穹の蒼でございます。」
子供達の返答に、藤吉郎などは面白い程に首を傾げている。子供達の言う漢字が分からないのだろう。それなのに悔しげな表情の一つも見せないところは、いかにも藤吉郎らしい。
しかし不自然だ。身なりの割に、そこそこの学が子供達にはある。
「戦災孤児といったところか。」
もしかしたら元は、そこそこの家の出なのかもしれない。
信長は彼らの顔をよく見ながら、名前と結びつけていく。
天と名乗った子供は、三人の中で機嫌が一番悪そうだった。元は随分と整った顔立ちをしているらしいが、その頰は強く殴られたのか赤く腫れ上がっている。背中の中程まで伸びた髪は酷く乱れているが、櫛で梳かせばそれなりに綺麗になりそうだ。
その天の隣でケロッとした顔をしているのが、氷だった。天と同様に髪は伸び放題だが、前髪が鬱陶しいのか額の上に布を巻いて、髪をかき上げている。切れ長のやや吊り上がった目が、興味深そうに信長を見ていた。
そして蒼と名乗った子は、他の二人とはまた毛色が違って見えた。まず髪が短い、そして大層大人しそうな印象を受ける。胡座とはいえ背筋はピンと伸びており、目の周りにはどす黒い痣が出来ていたが、それでも品の良い雰囲気を漂わせている。
「歳は。」
「九つじゃ。」
「九つっす。」
「九つでございます。」
「全員九つなら、一人がそう言えば良かろう!」
答え方は兎も角として、信長の問いには今のところ、子供達は素直に答えている。
「どこから来た。」
「地面のあるところ。」
先の信長の一喝が効いたのか、代表して氷と名乗った少年だけが答えを寄越した。その表情は少しだけ、人懐っこいものに変わっている。
しかしその答えの適当さに、信長は呆れるどころか、頭にカッと血がのぼった。
「真面目に答えよ!」
信長がそう怒鳴りつけるも、氷の顔色は変わらない。
「大真面目っすよ。他に言いようがありませんもん。だいたい俺らみたいなのに屋根のついた家があるとでも思ってるんすか?それこそそこの猿のお兄さんが言ってた通りっすよ。俺らはその日暮らしにも困ってる哀れな子供達。騎馬武者の首を三つ売り捌いて、握り飯を三つ手に入れて喜んでる、どーしようもない餓鬼っす。しかもその場を目撃されて、捕まっちまった。あーあー。まあ、握り飯はちゃーんと、腹の中に納めてありますけどね!」
氷の答えに、信長は思わず閉口する。この城で信長に向かって、これ程堂々と意見を述べられる人間は、それこそ年長の者にだって少ない。意見を述べるを通り越して、叛意を抱く者は後を立たないが。
信長が黙っていると、ふと藤吉郎からの視線に気が付いた。その口元は嬉しそうに微笑んでいる。氷の口から、「首を売った」という言葉が聞けて、喜んでいるのだ。「当たってたでしょ?褒めて下さい!」と言わんばかりに輝く藤吉郎の目を、信長は無視した。この男は褒めて伸ばすよりも、無理難題を押し付けて伸ばす方が良い気がしたのだ。この時点で信長はもう、何らかの形で、今日出会ったばかりのこの藤吉郎を登用しようと考えていた。
しかし今は眼前の餓鬼三人だ。信長の騎馬武者三人を殺したと自供したようなものである。只で済ます訳にはいかない。
とはいえ信長の中では、まだ怒りよりも興味が勝っていた。藤吉郎の推理でも触れられなかった謎がある。
「お前達は…どうやって俺の騎馬武者三人の首を狩ったのだ?それも誰にも気付かれずにとは、手際が良過ぎる。」
そう、信長が今一番興味を抱いているのはそこだ。藤吉郎は先まで、下手人の目的や素性を割り出そうはしていたが、肝心の暗殺方法については一切触れていなかった。藤吉郎はやはり薄々、下手人が子供である可能性には気付いていたのだろう。しかしそれを説明するには、子供に暗殺が可能であると、その方法を突き止める必要があった。でなければ信長が、納得する訳もない。
だからこそ藤吉郎は、最も肝心な事は言わずに、吉報を待っていたのだ。そう、首の行方と持ち去った犯人が、明らかになるのを。
信長の問いに、天、氷、蒼の三人は顔を見合わせると、また順繰りに答え始めた。
「どうって、まずは目ぼしい奴を探してじゃな、」
「戦場の中心じゃさすがに危ないから、出来るだけ端の方にいる騎馬武者っすね。」
「それでまず天さんが馬によじ登って、騎馬武者の兜を取り上げるんです。」
「意外にこれが使える手なんじゃ。馬の尻に座って、後ろからガッとな。顎のとこの紐も、手慣れてきたからすぐ外せるぞ。」
「しかも人間って突然の事で驚くと、意外に声が出ないんっすよ。『あっと言う間に』って、上手い言葉ですよねえ。ホント、声になるかならないかの『あ』、なんっす。」
「周りの兵も意外に異常に気付きません。まさか騎馬武者の乗ってる馬に、見ず知らずの子供が乗ってるなんて思わないでしょう。見られたとしても、人間って面白いもので、あれ?気のせいかな?…という具合で、自分がその目で見た光景でさえ、勘違いだと思ってしまうんです。それに只でさえ戦中ですし、おかしな事を気にする余裕は誰にもありません。そもそも平常心なんて無い場ですから、正常な判断が出来る足軽なんてほとんどいない。だからこそ俺らも、自由に動けるのでございます。」
「万が一見られても斬ればいいしな。さして人数もおらん。」
口々にそう子供達が言うが、要領を得そうで得ない。
しかし信長は、わかったような顔をして相槌をうった。
「なるほどな。それで?天が騎馬武者から兜を奪った後は、どうするのだ。」
更に信長が先を急かすと、三人は急に黙りこくった。先まで素直に信長の質問に答えていた分、余計に気味の悪さを感じる沈黙だ。
暫くすると天が、声を低くして言った。
「…秘密じゃな。儂らは別に、手の内をわざわざ晒しに来た訳じゃあないからな。」
「…なにを」
たわけた事を、とでも続く筈だった信長の言葉が、中途半端なところで止まった。その口は半開きで、喉の奥からは「あ…」という声が漏れた。
何故ならいつの間にか、天の目線が、信長の目線と同じ高さになっていたからだ。それも近い。まるで口付けでもするような距離に、天の顔があった。
ゾッと信長の背に寒気が走った時には、もう遅い。天は信長のいる縁側にいつの間にか上がり込んでおり、鼻と鼻とが触れそうな程近い位置で言葉を吐き出した。
「信長サマぁ、信長サマは一つ、勘違いをしておるぞ。」
天の両腕は、未だ縄に縛られていて自由が利かない。しかしそんな事は些事だとでも言いたげに、天は大胆不敵にも信長と額を突き合せている。
「儂らは確かに、首を握り飯に交換はしたが、それは目的じゃなくて手段なんよ。目的は今、この状況じゃ。…あんたの顔をなあ、一目見ておきたかったんじゃよ。捕まったんもわざとじゃ。」
天はそう言うと、続けて信長に問い掛けた。
「なあ信長サマ、あんたは本気で、死にそうになったことってあるか?」
天の言葉に、信長は僅かに眉を顰めた。真面目に答えを返すなら、「否」だ。そんな状況になるようなヘマは、一先ずした事がない。
しかしそれが、何だと言うのだろうか。
信長の答えを知っていたのだろう。天はいつの間にかその双眸に怒りの炎を燃やしながら、「儂はあるぞ」と告げた。
「一年くらい前じゃな。美濃のある村でな、氷と蒼と一緒に稲を盗んだ。儂らで食べる為じゃない。尾張の別の村から頼まれたんじゃ。年貢が払えそうにないから、美濃から米を盗んできてくれとな。儂らは断れんかった。あの頃は大人に楯突こうなんて気力もなかったしな。盗めと言われれば盗んだし、殺せと言われたら人も殺した。体良く色んな大人達に使われておったのじゃ。」
信長は怒りに顔を歪めていく天の形相を、ただ間近で眺めているばかりだ。話の終着点はなんとなく見えるが、それが信長に何の関係があるのだろうか。
「儂らはその美濃の村で捕まって、大人達に囲まれて、泣き声も上げられなくなるまで殴られて蹴られた。尾張の村に頼まれただけだと言っても、聞いてもらえんかった。もう死ぬと思った。誰も彼もを憎んで死んでやると、そう思った。だけどふと気付いたんじゃよ。儂らを踏み付けてるこの大人達は、元を正せば悪くないってな。冷静に考えればそりゃそうじゃ。儂らが米を盗んだ、だから折檻している。傍から見ればそれだけの話じゃ。何もおかしな話じゃない。大人達だって生きるのに必死なだけじゃ。儂もあいつらも結局は同じ穴のなんとやら。尾張の大人達だって、生きる為に儂らを扱き使ってた、それだけだ。」
そして天は、更に顔を歪ませながら、喉の奥からおぞましい声を発した。
「だから儂は、人を恨んだりはせんぞ…信長サマ。」
しかしながら声色と、その言葉の内容は合っていない。
「儂が憎いのは、儂を殴った大人達じゃない。むしろあいつらが儂を殴ったのは、当然じゃ。なぶり殺されても文句は言えん筈だった。」
ふてぶてしくも天は、信長を睨め付けながらそう続けた。
「しかし儂が悪かったとも思わん。儂らが生きるにはああするしかなかったんじゃ。あん時の大人達も同じじゃ。儂らみたいな底辺にいる人間はなぁ、マトモじゃ生き残れんのよ、信長サマ。盗みに暴力、果ては殺しまで…兎に角他人から何か奪わんと、その日の食いもんにも困る始末じゃ。」
整った顔立ちをしている分、天の怒りに満ちた表情には、幼いながら鬼気迫るものがある。
「しかし泣き寝入りするのは腹立たしい。そりゃそうじゃろ?あの時、死ぬかと思う程殴られたのも蹴られたのも、事実じゃ。他人のせいで泣きを見るのも死ぬのも…御免被る。それになによりなあ、憎いもんは憎いんじゃ。しかしそれで他人を憎んでおったら、それは自分を憎むんと同じじゃ。わかるじゃろ?…だけどだったら…儂は何を憎めばいい?何に復讐すればいい?」
天は信長に立て続けにそう問うたが、既に明確な答えをもっていたのだろう。天は信長が口を開く前に、さっさと自答した。
「この世そのものじゃよ、信長サマ。儂を殺しかけた奴じゃない。儂らがただ生きる事に困るのも、全部この世が悪いんじゃ。戦ばかりのこの世がな。ただでさえ食べるもんがないのに、戦だなんだと腹が減る事ばかり起こる。」
ここで天は初めて、フッと口元を緩めた。そしてとっておきの話をするようにして、少しだけ声を潜める。
「儂はなあ、信長サマ。この世を治める奴の首、ただ一つだけが欲しいんじゃ。」
天は信長の耳元に、無遠慮にも口を寄せると、更に声を潜めて続けた。
「そいつが直接、儂を殴った訳ではないが…、しかしこの世に復讐しようと思えば、そのくらいしか手は無いじゃろ?だがここで一つなあ、悩ましい事があるのじゃ、信長サマ…、」
天はそこまで言うと、信長からすっと離れた。縁側から庭に飛び降りると、信長に背を向けたまま、その端正な顔だけを信長に向けた。
「儂は一体、誰の首を獲ったら良いんじゃろうなあ…?」
その目に浮かんでいたのは、もはや怒りではなく、強いて言うのならば失望だった。天は期待を裏切られたような顔で、顔を半分だけ信長に向けている。
もしかしたら見えない方の半分には、まだ復讐の色が残っているのかもしれないが、しかし信長には確かめようがなかった。
「お前の復讐と俺と、何の関係がある!」
天が勝手に失望したのは、恐らく信長に対してだろう。信長の何かを確かめる為に、天はわざわざ首狩りをして、信長の元に捕まりに来た。信長にとっては腹立たしい限りだ。理由がまるでわからない。理解が及ばない事程、苛立たしいものもない。そもそも天は信長を、一体どんな人間だと思っていたのだろうか。
信長の尋常ならざる怒鳴り声に対し、しかし天は動揺する事もなく答えた。
「別に?それこそ儂の復讐話はついでのついでじゃよ、信長サマ。儂らが尾張に信長サマを見に行くって言ったらなあ、ある人から言伝を頼まれた。ちゃんと済ませないとならん用事はそれだけじゃ。首狩りも、儂の話も、全部ついでじゃよ。」
天はそう言うと、するりと縄から抜け出した。
それを合図にしたかのように、黙って地面に座っていた氷と蒼も、あっさりと縄抜けをする。
「わざわざ捕まった甲斐があったかは微妙じゃが、こっちの用は済んだ。儂らは帰る。お互い生き残ってたら、そのうち会う事もあるじゃろ。じゃあな。」
そう言って天は、まるで友に挨拶でもするようにして、信長に軽く手を振ってみせた。あとはさっさと三人で引き上げていく。堂々と立ち去る彼らを邪魔する者はいなかった。
皆、呆気にとられていたのだ。
まるで狐に抓まれたように、信長も藤吉郎も可成も、暫く惚けた顔で庭に立ち尽くしていた。全てが夢幻だったかのように、天、氷、蒼の三人は、すっかりと庭から姿を消している。
「あれは…、」
可成が、珍しくもあ然とした声で言った。
「おなごでございましたなあ。」
可成の発言を最後に、またしても場が静まり返った。しかし先までの緊迫した静寂ではなく、どこかシラけた静寂だ。
そしてその静寂を破ったのは、クックッと笑いを堪える藤吉郎の声であった。
結局藤吉郎は堪らずに、ケタケタと笑い始める。
「いや、申し訳ございませぬ。しかしなんとも可笑しくて…。あの狐か狸に化かされたような状況で、しみじみと『おなごでございましたなあ』…などと申されるので、ああ可笑しい。いやしかし、確かにあの天とか申す子供は、あれはおなごですな!あと数年もすれば、あれは美人になりまするぞ!」
藤吉郎の笑い声に、可成がカカカと笑い声を重ねる。二人の笑い声は正直耳障りで堪らなかったが、信長は何故か日常に戻ってきたような気分になり、こめかみの辺りを揉みほぐし、ほっと息を吐き出した。
「天、か。」
そして氷と蒼。
結局彼らは誰に何を伝えに来たのか、それが誰の差金なのか、見当もつかない。
「まあ良い。」
信長はおなごとは思えない、天の憎しみに満ちた顔を思い起こしながら、空を見上げた。
「あれは己が身を燃やしておるのだ。この夕空の赤のように、あれは憎きこの世を焼き尽くさんとする苛烈な炎だ。」
天は言っていた。この世を治める者の首、ただ一つが欲しいと。
「なるほどあれに失望されるとは…多少は情けなくもある、かな。」
正直に言って、尾張一国さえ纏められていない今の信長にとっては、天の復讐相手になる事など夢のまた夢である。しかし別に、それで構わない。わざわざあの不気味な少女の相手をしてやる義理はないのだ。
しかしこの天と仲間達は、意外なところに、予想もしなかった置き土産をしていっていた。
信長がそれに気付いたのは、その日の夜、正室の帰蝶を抱いて、心地よく微睡んでいた時だった。
「ふふっ…しかし今日は忙しい一日でございましたね、殿。お疲れでごさいましょう?もうお休み下さいませ。」
信長の腕の中にいる帰蝶が、気を遣ってか声を掛けてきた。
信長は帰蝶の声が堪らなく好きだった。高くなく低くなく、ただただ耳に心地よい声だ。その声で紡がれる言葉が信長を苛立たせた事は、帰蝶が嫁いできてから四年、一度も無かった。これからもそうだと、信長は自信をもって言える。
それ程までに信長は、帰蝶という女に惚れていた。
子はまだいない。いや、いなくて良いと信長は考えている。子なぞ出来れば、帰蝶の情は子にも移ってしまう。それは信長の望むところでは無かった。帰蝶の心も体も余すところなく、独り占めしていなければ気が済まない。
とはいえ抱かないというのも無理な話で、抱く。そして情けない事にも、帰蝶を抱いた後は決まって悪夢に魘される。そこでは帰蝶が、満面の笑みで信長に告げるのだ…「子ができた」と。
そういう訳で信長は、帰蝶を抱いた後はどれ程眠たくても、睡魔に抗う。まるで怖い夢を見るからと寝たがらない子供と同じだ。しかしこればかりは、例え帰蝶のあの声で、「お休み下さいませ」と言われても…嫌だ。
頷かない信長に、帰蝶は困りましたねと言って小さく笑った。
「今日は朝から合戦でしたし、間の悪い事に父上からの使者も参られて…、とんだ一日でございましたね、殿。だからもう、眠って良いのです。悪い夢など見ませんから、ね?」
帰蝶の指が、信長の髪を梳く。その心地よさに、信長の瞼はいよいよ屈服しそうになるが、しかし頭のどこかで、何か重要な事を聞き流しているような気がした。
「父上からの使者…チチウエカラノシシャ?」
ハッと信長の意識は、先までの微睡みが嘘のように覚醒した。聞き覚えのない話に、帰蝶の言葉を意味も解さずに繰り返す。
「…?はい、夕方、私の父、斎藤道三からの使者が参ったでしょう?」
「来ていない…。」
信長の元を訪れた者と言えば、襤褸を纏った子供が三人だけだ。
「おかしいですね…。殿には先に挨拶を済ませて、私の元に通してもらったと、そう言っていたのですが…。」
さすがに帰蝶も、話が噛み合わない事を不審に思ったのだろう。上体を少しだけ浮かせて、信長の顔を上から不思議そうに覗き込む。
そんな帰蝶の腕を引き、その体を自身の腕の中に納め直しながら、信長は帰蝶に尋ねた。
「取り敢えず話を聞かせてくれ。誰とどんな話をしたのだ。」
帰蝶は信長の問い掛けに、はいと頷くと答えた。
「父上の使者と申した者は、まだ子供でございました。二人です。十歳くらいでしょうか。私も驚きましたが、あり得ない話ではありませんし…。」
「身形はどうだった?まさか襤褸を纏っていた訳ではあるまいな。」
「え、ええ。普通に…武家の子といった感じでした。行儀も良く、所作にも問題はございませんでしたよ。」
うむと信長も頷いた。確かに、優秀であれば幼いうちから、小姓として仕える者もいるかもしれない。しかし信長にはその二人が、ただの小姓である筈がないと、確信があった。歳も近い、恐らくは天、氷、蒼の三人と、その若過ぎる使者達は関わりがある筈だ。
「それで?さすがに名は名乗ったのだろう。」
「ええ。しかしこれも今思えば妙な話で…。一人は『影』と申しまして、もう一人は『火種』だと。珍妙な名だと私が問えば、影が申したのです。『道山様からそう呼ばれている』と。そう言われてしまっては、納得する他なく…。」
「まあなあ。」
信長は帰蝶を責めずに、帰蝶の髪を優しく手で梳いてやる事で、話の先を促した。夕方の一件がある手前、信長自身もその妙な名前に納得せざるを得なかったのだ。
そんな信長に、帰蝶は更に身を寄せながら口を開いた。
「話をするのは影という子ばかり。どうやら火種は、口がきけぬようでございました。」
「物言わぬ使者とはおかしな事だな。」
「ええ、しかしその分と申しましょうか、影の方は大層喋りの上手な子で、私だけでなく、側で控えていた者達までよく笑わせてくれましたよ。面白可笑しく、今の美濃や稲葉山城の事を次々と教えてくれました。」
帰蝶がその時の様を思い出したのか、フッと笑みを溢した。そしてクスクスと愛らしく笑い始める。
「ふふっ、そして言うのです。父上が婿殿、つまりは殿に会いたがっていると。すぐには場が設けられないだろうから、また春が来る頃に、花見でも共にせぬかと、そう申されていたそうです。」
心底楽しげに発せられた帰蝶の言葉に、しかし信長は戦慄した。
「岳父殿が…俺に会いたがっていると?」
「ええ。」
「それは真か?」
「影が申すにはそうだと。それにその事を殿に伝える為に、尾張に来たと申しておりました。…殿?」
信長は帰蝶を、ガバッと抱き締め直した。信長の顎の下で、帰蝶の頭が不思議そうに傾げられたのがわかった。しかし今はどうしようもなく、帰蝶にしがみついていたい気分だった。
「会見じゃ。」
「はい?」
「岳父殿は俺と、大々的に会見する事を望んでおるのだ。」
家督を継いだばかりの隣国の若造を、道山は直接値踏みしたいのだろう。もし信長に満足出来なければ、その時はこの尾張を、隣から食い尽くすつもりだ。
「どいつもこいつも…俺を勝手に品定めしたがる。それも俺の知らない尺度でだ。」
道山だけではない。夕日に照らされた天の顔が、まざまざと脳裏に蘇った。
恐らく天の言っていた「遣い」とは、道山からの会見の申し入れを、信長に伝える事だったのだろう。
美濃から来た子供達は五人。それが何を思ったか、二手に分かれてこの那古野城で、好き勝手やってくれものだ。
天には恐らく失望された。一体何をもって失望されたのか。天のうちにあった信長をはかる尺度とは一体、何だったのか。
しかし今はそれどころではないと、信長は密着する帰蝶に顎をぶつけないよう、気を付けながら首を振った。
今考えなければならないのは、岳父斎藤道三が織田信長をはかる尺度についてだ。如何にして道山は、信長を品定めしようというのか。
「…知るか。」
暫くして信長は、吐き捨てるようにして言った。
「俺は俺だ。いつだって俺は…織田信長だ。」
道山との会見がどれ程良い方向に転がっても、信長が天下を獲れる訳でもなければ、美濃を貰える訳でもないのだ。せいぜい、「尾張を纏めるのに力を貸そう」と、そう言われるくらいの話だ。
「別に天下を治められるとか、神になれるとか…、そういう話ではないのだ…天。どう足掻けば俺のような田舎者が、そんな者になれるというのだ?それこそ大うつけの夢物語だ。」
先からちらちらと脳裏に浮かぶ、天のあの失望した顔。夕日に照らされながら信長を振り返った、あの顔だ。
『この世を治める奴の首、ただ一つだけが欲しいんじゃ。』
天は失望したあの顔で、その言葉は口にしていない筈だ。
しかし信長の頭の中では、確かに天が、失望した顔でそう嘯いている。
いつの間にか、天の腕を縛る縄は消え失せ、自由になった右腕を、天がゆっくりゆっくりと持ち上げた。この先何が起こるのか、信長は何故か知らない。
握られた天の右の拳から、そのうち人指し指だけが伸ばされた。天が真っ直ぐに指差すのは、信長だ。
『なあ、あんた…』
殿、殿…大丈夫ですか、殿…
ハッと信長が目を開けると、そこには涙目で信長の顔を覗き込む帰蝶の顔があった。
「やっと起きてくれた…。殿、酷く魘されていましたけどその…ご気分は…?」
「いや、大丈夫だ。少し夢見が悪かっただけだ。」
どうやら信長は、いつからか眠っていたらしい。全身じっとりと汗をかいていて、気持ちが悪い。
「殿…?」
信長を案じる帰蝶の心地よい声が、信長の耳に届く。
しかし信長の耳の奥の奥では、別の女、いや、子供の声が、まるで耳垢のように残って、へばりついていた。
『なあ、あんた…』
「お前は一体…何を言いかけたんだ。」
ー いや、違う。あれは夢だ。夢の中の天は、俺の想像でしかない。記憶とは違う。
ならばあの時夢の中で、天が言いかけた言葉は、信長自身が天に言われたかった言葉ではないのか。
もしくは信長自身が、信長自身に向けた言葉だ。
しかしながら夢はプツリと途切れたのだ。信長が再度、その夢を見る事は無かった。