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天下の素首  作者: 蓮見友成
15/15

十四、謁見


 「あらあら、遅いお着きでございましたねえ。」

 将軍足利義輝が鉄砲の稽古をしているという角場に入った信長、可成、新介、藤吉郎を出迎えたのは、一人の女だった。

 「お陽殿ではないか。」

 可成が女を見て、驚きの声を上げた。

 そこにいたのは確かに、今朝方まで世話になっていた宿の女主人、お陽だったのだ。

 「ええ、お陽でございますよ。」

 「何故貴女がここに?」

 新介が目を白黒させながら問うと、お陽がにこりと笑みを返した。しかし何も答えない。「当ててみて」と、信長達を無言でからかっているようにも見える。 

 しかしお陽の笑みも、そう長くは続かなかった。

 「…遊びの時間は終いじゃ。説明して差し上げろ。」

 そう天が、お陽に促したからだ。

 「ええー、まだまだ遊ぼうと思ってたのに。残念。」

 そしてそれに答えたお陽の声が、明らかに変じた。

 それは先までのお陽の声ではなかった。また別の女の声だ。そして信長は、その声に聞き覚えがあった。

 ああこれは、と信長は眉間に皺を寄せた。どうやら最初の最初から、信長達は『遊ばれて』いたらしい。

 「…影か。」

 影と呼ばれた女は、お陽の顔で笑みを深めた。

 「ええ、正解でございますよ、信長様。」

 影はそう言いながら、パッと顔を袖で隠した。しかしすぐさま、袖を下ろす。

 その一瞬で、女の顔が変わった。お陽の顔から、影の顔に。信長の知る頃より、少しばかり大人びてはいるが、間違いなく影の顔だ。

 「こりゃすごい。」

 それを見た藤吉郎が、正直に驚いて見せた。確かに目を疑った。瞬きするまもなく、顔が文字通り「変わった」のだ。化粧を落としただけだとしてもありえない。

 「いやいや〜?」

 と影が愉しそに首を振って言った。今回の声は男の…恐らくは随分と久方ぶりに聞く影本人のものだ。

 「化粧だけじゃないし、これはれっきとした技ですよ?どこぞで見た奇術を真似たんです。そっちは振り返る度に顔に付けたお面が次々と変わっていくっていう演目だったんですけど、それと私の変装術とを組み合わせたら面白いかと思って。まあ私の場合はお面を使ってる訳でもないんですけど。どうでした?驚きました?」

 「…ああ。顔もだが、俺はお前の声にも驚いたぞ。一体お前の喉はどうなっているんだ。」

 信長がもはや呆れながら言った。昔とは違い、もう影も立派な青年だ。それでもまだ女の声が、それも複数の女の声が使えるとは、凄いを通り越して薄気味悪い。

 「音声ってのは、忍の基本ですからね。その気になれば信長様の声だって真似られますよ、ほら。」

 そう答えた影の声は、確かに信長そっくりだった。信長はますます眉間の皺を深めると、「止めよ」と言って影を睨んだ。

 「気分が悪い。」

 信長の言葉に、影が軽く頭を下げた。しかしその表情から謝罪の意思は全く感じられない。

 「…まあいい。」

 信長はなんとか機嫌の悪さを抑えると、影ではなく天に声を掛けた。

 「影に俺達を見張らせていたのか。」

 信長の問いに、天が「そうじゃ」と肯定した。

 「言っておくがあんたらの為じゃぞ?信長サマはもっと外に目を増やすべきじゃな。そうすれば義龍からなんかの刺客に煩わされる事もなかったんじゃ。ああ言うのは始めが肝心ぞ?今回が惜しいと思われれば、また次も刺客を寄越すだろうさ。」

 天の言葉に、信長がぐっと押し黙った。確かに、義龍の刺客に後を付けられている事には全く気付いていなかったのだ。

 そんな信長を更に天は責める。

 「昨日の晩、信長サマの家臣に刺客の情報を教えたのも儂らじゃ。影をわざわざ宿に寄越して護衛に付けたのもな。それをあんたときたら、そのまま大人しくこっちが迎えに来るのを待っておけば良いものを、朝っぱらから刺客に殴り込みに行きおって。」

 「いや、殴った挙げ句に殺したのは天だがなあ。」

 可成が空気も読まずにそう言った。

 可成の発言に、天も毒気を抜かれたのか、「はあ」と溜息をつくと、幾分落ち着いた声で先を続けた。

 「信長サマがあまり忍ものを信用していないのは知ってる。結局あんたは自分の目で見たものしか信じられないし、自分の目で見ないと気が済まないのもな。だけど実際問題、あんたの目だけじゃ、義龍の刺客さえ捉えきれなかった。致命的な程に情報不足ぞ。」

 「ホントにねえ。私みたいに可愛くて美人で強くて優秀な忍を早いとこ見繕った方が良いんじゃないの?」

 天の言葉に同意するように、影が付け加えた。今回はその声も表情もすっかり女のものだ。

 信長は言われっぱなしになっている事が気に入らず、思わずムキになって言い返した。

 「…お前達に助けを乞うた覚えはないわ!」

 ここで素直に「世話になった」と言える性格であれば苦労はない。根が真面目な新介と藤吉郎などは、信長の決して良いとは言えない態度に狼狽えているようだった。信長と天を交互に見ながら、双方の顔色をうかがっている。

 「あぁ?儂だって信長サマを助ける気など微塵も無かったわ。なのにあの人が、」

 打てば響く天である。信長の態度にいよいよ天が喧嘩腰になったが、彼女の言葉は中途半端なところで止まった。

 「天、儂の客人や。丁重にもてなそや。」

 突然、第三者の声が割り込んできたのだ。

 いつの間にか、天の背後に男が一人立っていた。

 天がハッとした様子で振り返るのにつられて、信長達も現れた男の顔をまじまじと見つめた。

 精悍な顔つきの若者である。信長達の視線を一身に浴びても動じる事なく、堂々としている。

 しかし勿体無いと言うべきか、その顔は煤と汗で酷く汚れていた。

 男は暫く、にこにこと信長達に笑みを返していたが、そのうちぶるりと体を震わせると、盛大にくしゃみをした。

 「ハックショイショイショイ!!んー、あかんあかん。やっぱり冬場の稽古は堪えるで。ああ、汗が冷えて寒いわ。」

 「おいこら儂に喧嘩売ってんのか。鼻水がこっちに飛んできたぞ。汚いじゃろうが。」

 至近距離でくしゃみを食らった天が、袖で顔をごしごしと拭いながら男を睨み付けた。しかし男は気にする様子もなく、笑いながら天の頭を乱雑に撫で回し始めた。

 「怒るな怒るな。せっかくの美人が台無しになるで、天。もったいない。」

 「その美人に鼻水飛ばすとはいい度胸じゃと言っておるのだ。」

 天はすかさず男に言い返し、その手を鬱陶しそうに払い除けるが、男が気に障る様子はない。

 天と男との一連の会話を聞きながら、信長の脳裏に思い起こされたのは、昨晩の「お陽」の言葉だ。

 『御公方様はどのようなお方か。』

 そう問いかけた信長に、お陽、もとい影はこう答えた筈だ。


 ー 驚くほどに、能天気。

 ー 京の町をよく散策なさっては、楽しそうに大口開けて笑っておられますよ。そういえば、尾張のお殿様とは歳が近いのではございませんかー。


 「影、」

 未だ男と言い合っている天ではなく、黙って彼らを眺めていた影を信長が呼ぶと、影はそれだけで信長の聞きたい事がわかったようで、「ええ」と頷いた。

 「こちらにおわす方が将軍、足利義輝様にございます。」

 影の言葉を合図に、可成、新介、藤吉郎の三人が、一斉に地面に膝をついた。

 足利義輝に向けて、すぐさま頭を下げた自身の家臣達を見ながら、信長は立ち尽くしていた。頭では自分も地に膝をつかなければと思っているのだが、如何せん体が咄嗟に動かなかった。内心で「しまった」と頭を抱える。

 完全に自分は、天下の将軍に礼を尽くすに出遅れている。普段から頭を下げる習慣の無い信長だ。最後にきちんと礼を尽くした相手は、もしかしたら岳父斎藤道山かもしれない。とするならばもう、彼と直接会った正徳寺の会見が最後だ。

 つまるところ、信長の体は「頭を下げる」という動作を、完全に忘れてしまっているらしい。むしろあまりに棒立ち過ぎて、自分でも今の姿を間の抜けたうつけに感じる程だ。ここにきて「尾張の大うつけ」という呼び名を思い出すとは、赤っ恥もいいところである。

 「…殿、」

 珍しく慌てたように、可成が信長を呼んだ。

 可成の急かすような声に、何故か助かった思いをしながら、信長はやっとのこと膝を折りかけた。

 しかしそこで、「ええんです、ええんです」と信長の正面で手を振ってみせたのが義輝だった。

 「儂もこないな薄汚れた格好やし、ここは無礼講でいきましょや。むしろちゃんと御所でお迎えせんと、申し訳ない限りですから。」

 信長が膝をつくのをやんわりと阻止した義輝が、にこりと笑った。

 「さっき影が紹介してくれよったけど、儂が足利義輝や。どうぞよろしく頼んます。」

 親しげに話し掛けてくる義輝に、信長の口はなかなか言葉を吐き出せずにいた。正直に戸惑っていたのだ。未だかつてこれ程まで友好的に、信長に挨拶をしてきた者がいただろうか。いやいないと信長は一人で首を振った。

 「…殿?」

 さすがに黙りの信長に、可成が不審に思ったのか再度声を掛けてきた。それに促されるようにして、信長はやっとのことで声を発した。

 「尾張の織田上総介信長と申します。この度は、謁見の機会を頂けたこと、恐悦至極にございます。」

 ここでもまた、信長は頭を下げなかった。じぃっと義輝の目を見つめる。何故だかこれが、最善な気がしたのだ。

 そんな信長からの視線に、義輝は数度目を瞬いて、そして可笑しそうにぷっと吹き出した。

 「あはははは!天が言うとったんはホンマやったようや。こんな挨拶されたん初めてやわ。面白い方やなあ。」

 「じゃろ?何しでかすかわからん方なんよ。これを御所の幕臣たちの前にでも連れて行ってみろ。今の挨拶だけでお堅い方々からは非難轟々じゃろうが。信長サマは儂に感謝するんだな!義輝に御所の外で会うのを勧めたのはこの儂よ。要らぬ恥を掻かずに済んだじゃろ。」

 いけしゃあしゃあと天が言った。

 一先ず信長は、将軍の前であることも構わず、一発天に拳骨を落とす事にした。

 「痛っ!なんじゃ酷いな信長サマ!儂のお陰で恥かかずに済んだのに、何故殴る。」

 天の叫び声に、信長がもう一発拳骨を落として怒鳴り返した。

 「どこがだ!これでもかってくらい恥しかかいておらんわ!」

 信長の顔は恥でか怒りでか、真っ赤に染まっていた。



 天と信長が不毛な言い争いをしている最中、ふと影が義輝に問い掛けた。

 「そういえば上様、火種はどうしたんです?一緒に鉄砲の稽古をしていたのでしょう。」

 影の問いに、義輝がああと頷いた。

 「儂がこないな格好やからな。せめて顔くらい拭いたがええかな言うたら、どっか行ってしもうたわ。」

 「ああ、水でも汲みに行ったんでしょうねえ。ついでに手拭いでも探してるのかも。」 

 「そうかそうか。いやあ、火種は鉄砲の師匠としては文句の付けようもないんやけど、口が利けへんからなあ、なかなか意思の疎通が難しいのや。影はよう火種の言うことがわかってるようで感心やわ。」

 「ふふ、慣れですよ慣れ。私、少し火種の様子を見てきますよ。なんにせよ上様のお顔、酷いですもの。」

 そうかあ?と義輝は自分の頬を撫でた。次いで指先を見ると、真っ黒になっていた。

 「うん、そやな。儂の顔もの凄い汚れとるわ。」

 「はいはい。上様は取り敢えずそれ以上お顔の汚れを広げないでくださいね。あとは…そうだ!お三方も私と一緒に来ます?ここにいても肩身が狭いばかりでしょ。」

 義輝に返事を寄越した影は、続けて可成と新介、そして藤吉郎に声を掛けた。三人は顔こそ上げているが、未だ地面に膝をついたまま、所在無さげにしている。

 「それがええ。ついでに角場を使わせたって。織田家は早うから鉄砲に目を付けてたらしいからなあ。ここの角場について意見も聞きたいし、鉄砲も撃ってくれて構わへんから。織田はんと話しとう間の暇つぶしにでもして下さい。勿論、織田はんの身の安全は任せとき!なにせ天がおるからなあ、安心や。」

 義輝の言葉に、可成は早くも場に馴染んだのか「ではお言葉に甘えて」などと頷いているが、新介と藤吉郎は不安そうに目を見合わせていた。まるで「天がいるからこそ不安だ」とでも言いたげである。なにせ現在目の前で、信長と天の口論は激しく繰り広げられているのだ。

 「手拭い持ってくる頃には、さすがの信長サマもいくらか冷静になるでしょ。やらせたいだけやらせとけば?上様も面白がってるみたいだし。」

 まるで非は信長にしかないと言いたげな影の言葉だったが、いちいち目くじらを立てる可成達では無かったので、黙って影の後に続いてその場を立ち去った。

 


 暫くすると、確かに信長と天の口喧嘩は終わった。

 信長の目が天以外に向いたからだ。信長の瞳は僅かに驚きで見開いている。

 信長の視線の先には、戻ってきた影の姿があるのだが、彼は何故か火種の片腕に嬉しそうに抱きつきながらこちらに歩み寄ってきた。

 火種は見ないうちに、随分と背が伸びていた。体格も良い。あまり少年の頃から見目の変わらない影と並ぶと、まるで並び立つ男女を見ているようである。特に今は、影が火種の腕にじゃれついているので、恋仲のようにも見える。

 「いやまさか…本当に恋仲ではないだろうな。」

 影は見目こそ女形だが、男であるのには違いない。衆道は珍しい程の事でもないが、どうにもこの二人には合わないような気がした。なにせ二人共、特に影の天に対する崇拝は、昔から常軌を逸しているものがある。影の興味が、どんな形であれ天以外に向くとは、信長には思えなかった。

 信長の疑問に、天が「よく知らないが」と前置きして答えた。

 「女っ気のない火種を、影がからかって遊んでおるだけじゃろうと思うぞ。よく火種を連れ回しては、京の町を練り歩いておる。おかげでここらじゃ、あの二人はおしどり夫婦なんて呼ばれて有名じゃ。町の人達も影を男だとは思わないからなあ。火種も始めは恥ずかしがって抵抗してたみたいじゃが、影が余計に面白がって、今や火種は諦めの境地、なされるがままよ。」

 信長はその様がありありと頭に浮かんだ。

 口の利けない夫に甲斐甲斐しく寄り添いながら歩く妻。夫の分もと言わんばかりによく喋る口と愛嬌たっぷりの笑顔を京の町で振りまいていれば、それは人々の目に止まるだろう。夫も妻のお喋りを咎めない優しげな好青年に見える。幾度と繰り返される戦で疲弊している京の町で、仲睦まじい二人の姿は目の保養なのかもしれない。仮にそれが嘘幻だとしてもだ。

 「それに影は土産に情報も持ち帰ってくるしな。」

 そしてきっと、影の第一の目的は、天の言うように情報収集なのだろう。京の人達は、部外者に対して排他的なところがある。京で生まれ育った自分達は他とは違うのだと、そう思っている節があるのだ。だからこそ何度戦火に見舞われようが、どれほど町が荒廃しようが、京から人々はいなくならない。土地に誇りを持っているからだ。

 そんな京の人達が余所者とまともに関わろうとすれば、それはもう商いくらいのものだ。それを抜きに京の人達から話をかき集めようとすれば、町に巧く馴染むしかない。

 「義龍の刺客の居所が割れたのも影のおかげじゃ。あれはよく顔が利く。余所者の噂などあっという間に影の耳に入るからな。」

 いつの間にか義輝は、信長と天の側を離れていた。少し離れたところで、火種から手拭いを受け取り、勢いよく顔を拭いている。

 信長は声を潜めると、天にだけ聞こえるように問うた。

 「お前は御公方様を殺す気か。」

 天は昔から、天下を統べる者の首一つが欲しいと、繰り返し言っていた。幼い頃に暴力を受け、死にかかった事を、天は根深く恨んでいた。しかしその怒りの矛先を、暴力を振るった大人達でなく、この世そのものに向けているという、少し変わった餓鬼だった。

 しかしここで天が問題としていたのは、「では実際誰を復讐相手として殺すか」である。

 群雄割拠の戦国時代である。上の首がコロコロとすげ変わる世の中なのだ。天下の将軍でさえ、京を長年追われ、やっとのことで戻ってきたところである。

 そんな中で、一体誰の首を落とせば、天の気は晴れるのかー。

 「悩ましいのう。」

 天が言った。

 「確かに、一度は将軍と名の付く者を見ておくかと思って、京に来た。まあ正確には、逃亡先の朽木谷にまずは行ったのだがな。それでまあ、うまいことここにいる訳だが、」

 天は一度言葉を切ると、やれやれと言いたげに首を振った。

 「実物はあれじゃ。こっちの気勢が削がれると言うかなあ…あれが天下の将軍と言われても、あまり実感がわかないんじゃよ。困ったことにな。」

 天の言葉は、まさしく今の信長の思いだった。

 おおよそ世間の将軍像とかけ離れているのが、今のところ信長が見た足利義輝である。

 「ま、このまま義輝が京を纏め上げて、天下をしっかり統率出来るのなら、間違いなく儂の復讐相手は義輝になる。義輝が名実共にこの国の頂に立ったその時は、殺す。が…、」

 天はここで、忌々しそうに溜息をついた。

 「氷と蒼は気乗りしないじゃろうな。」

 天の言葉に、そういえばと信長は首を傾げた。

 「その二人はどこにいるのだ。どちらもお前の側にいないのは珍しいな。」

 信長の問いに、天が苛立たしげに舌打ちした。

 「今川義元のところじゃ。義輝の奴が、今川に密偵を入れたいなんて言い出しから、儂があの二人を貸してやった。」

 「…何故。」

 信長が意外に思ってそう問うと、天が更に不機嫌になりながら答えた。

 「あの二人が義輝を殺したくないと思っているからじゃ。だから義輝から遠ざけた。信長サマも見ての通り、義輝は決して極悪非道の悪人ではないし、どこの誰とも知れない儂らを側に置いておくだけの度量もある。そこをあの二人は気に入ってしまったのよ。じゃが儂が殺すと決めれば、あの二人は儂の命に従う。」

 「ならば遠ざける必要はないじゃないか。」

 信長がそう言うと、天が鼻で笑った。それは自嘲だった。

 「自分でも甘いとは思うがな、あの二人には意に沿わぬ殺しはして欲しくないのじゃ。影と火種は、もとより戦や殺しを生業にする家に生まれ育ったが、あの二人は違う。氷と蒼は、儂が気まぐれに拾っただけじゃ。もともと誰かを恨んだり憎んだりできる性分ではないのよ、あの兄弟はさ。」

 「…お前らも一枚岩という訳ではないのだな。」

 信長の言葉に、天が「そりゃそうじゃ」と言って苦笑した。


 

 「申し訳ないなあ、待たせてもうて。」

 暫くすると、義輝が大きな筵を持って戻ってきた。

 「さあさあ、この筵の上に三人で座って話そうや。この角場やと、屋根のあるのは煙硝蔵くらいやけど、あそこは冬は外より冷えるからなあ。それならいっそ、寒空の下で話した方が暖かいわ。」

 義輝の隣に天が座り、義輝の正面に信長が座った。

 「それで織田はん、儂に挨拶しにきただけではないのやろ。なんや用件があるのならお伺いしますけど。」

 義輝の言葉に、信長は最早堅苦しい前置きは不要かと判断して、簡潔に要望を述べた。

 「尾張守として認めて頂きたく。」

 信長は些か楽観視していた。影の言葉を借りれば、義輝は「脳天気」な男である。加えて最近では、将軍としての力を示す為に、各地の争いを調停したり、自身の名の一部を他の大名に与えたりと、味方を増やすのに必死の様相なのだ。事実上尾張の掌握まであと一歩の信長の願いは、すぐさま聞き入れられると思っていた。

 しかし義輝は、信長の願いを断固として認めなかった。

 「そうは言うけど織田はん、尾張の守護大名は斯波やろ?そして守護代である伊勢守はまだ岩倉城で健在やと聞くで?そやったら、儂が織田はんを尾張守として認める訳にはいかんなあ。」

 この一点張りである。

 信長は大層悔しい思いをした。こんなことなら、伊勢守を徹底的に潰してから、上洛すべきだった。

 信長は不自然な程に黙りを決め込む天に、ちらと視線をやった。一声味方してくれないかと思ったが、天は信長と目を合わせようともしない。

 その態度に、信長は引っ掛かりを感じた。

 そもそも京にいる将軍にしては、尾張の内情に詳し過ぎる気がするし、義輝ははなから信長の言い分を聞く気がないようにも思える。義輝の態度からちらちらと見え隠れするのは、もしや天の思惑ではないか。

 いや、と信長は首を振った。むしろ信長が尾張守になることは、天にとって悪いことではない筈なのだ。

 元々斎藤道山の小姓をしていたのが天だ。その斎藤道山はというと、死んだ後に遺言で、信長に「美濃を獲れ」と促す罠を仕掛けた。結果として織田家では、尾張を統一すれば次は美濃を平らげると、信長以外の皆が息巻いている状態なのだ。

 相変わらず信長としては、尾張さえ纏めてしまえば、残りの余生は愛する帰蝶と平穏に暮らしていきたいというのが正直なところなのだが、いずれにせよ美濃を放置という訳にはいかなくなっている。

 そう考えれば天にとっても、信長が尾張守になり、次は美濃攻めをという流れは良いはずだ。

 しかし結局最後まで、天は何も言わずに信長と義輝の会話を聞いていただけだった。そして義輝も終ぞ首を縦には振らず、そして信長もこれ以上言葉を尽くす事が出来なかった。

 「天、織田はんの家臣の方々を呼びに行ってくれへんか。そろそろホンマに寒うなってきたし、解散や。皆はんには早う暖かい宿に戻ってもろうた方がええやろ。」

 義輝がそう言えば、信長に反論する事は出来ない。今回は顔を覚えてもらっただけでも良しとするかと、信長は密かに息を吐き出した。なんだかんだと緊張していたのだ。

 天がその場を去ると、義輝も何故か長々と息を吐き出した。

 「いかんわあ。あの娘とおるとどうにも…心の臓の縮こまる思いがします。」

 ああ寿命が縮まりますわと、そう言って義輝は、言葉とは裏腹に気持ちの良い笑い声を上げた。それは思い出し笑いのようだ。

 信長が突然の事に首を傾げていると、義輝が先よりも親しげに言葉を紡いだ。

 「すんません一人で笑うてもうて。やけどあの娘と初めて出会うた時はもう、笑うしかなかってん。ホンマ驚きもんでしたよ。」

 義輝の言葉に、信長は天の言葉を思い出した。


 『賭けに勝ったのじゃ。』


 「失礼ながら御公方様は、天と何を賭けたのでございますか。」

 信長は興味が勝って、そう問い掛けた。天は何かの賭けに勝って、義輝の元に身を置いているのは間違いない。

 「いやはや、賭けの事まで織田はんの耳に入ってるとはお恥ずかしい限りやわ。織田はんは、儂が塚原卜伝先生に剣術を教わったんは知ってますか。」

 はあ、と信長は話の行く先が見えずに曖昧な返事を寄越した。そもそも信長の中で、剣術とはあまり興味の対象ではなかった。実際戦では弓矢や槍が中心になる。今はそれに鉄砲も加えられるだろう。刀とは言ってしまえば、戦においてはあまり活躍の機会がない。首を斬り取る時くらいにしか使われないだろう。

 そんな信長の考えもお見通しだったのだろう。義輝は気分を悪くすることもなく、先を続けた。

 「塚原先生の剣術には奥義って呼ばれるもんがあります。それが『一の太刀』言いますんや。よう奥義とか言うもんは、なんやろ…概念みたいな、精神的なもんやと思われがちですけど、一の太刀に関しては純粋に…『技術』なんですわ。説明が難しいのやけど…『技術』やから、傍から見ても、一の太刀を使える使えないは判断できるんです。そやから実際に、一の太刀を修得していると認められた弟子は少ないんですわ。なんせ、『私は奥義を得た!この感覚や!』って言えばいいだけの話やないですから。」

 なるほどと、信長は一先ず頷いた。それはそうだ。精神的な会得ならば、本人が「出来た」と言えば済むだけで、それを他者が確かめる術はない。しかし純粋に「技術的難所」があるならば、その一の太刀とやらを使える者は限られてくる。信長としては「精神」とやらの曖昧さを省いた一の太刀は、悪くないように思えた。

 「ま、元は塚原先生の技やから、弟子でもない織田はんにあんまベラベラと話せないんが残念やけど。まあ『技術的に難しい技』やと思うてくれとったらええです。そんで、天との賭けの内容でしたか。」

 そう言って義輝は、気まずそうに頭をかいた。

 「他言無用で頼みますけど、朽木谷におった頃に一度、人を斬った事があります。そん時に使うたんが、一の太刀ですわ。それを…偶々なんやろうなあ、天に見られとって。それが天と初めて会うた時ですわ。」

 義輝が苦笑した。

 「そん時に『一の太刀』を盗まれてもうてなあ。天の奴が『儂にもそのくらい出来るぞ』と挑発してきよって。儂も人を斬ったばかりで昂ぶっとったし、売り言葉に買い言葉で『やってみせろ』と言うてしまいまして。」

 そして天は義輝の刀を借りると、見事に「やってみせた」らしい。

 「一度しか見せてへんし、天には練習する暇さえ与えんかったのに、あっさりとやってしもうて。あん時は驚くの通り越して腹が立ちましたわ。」

 義輝が可笑しそうに笑った。

 「儂は何も賭けたつもりなかったんやけどなあ。天が『儂の勝ちじゃな。暫く寝床と食べ物寄越せ。』言うてきましたのや。その後も色々ありましたが、結局儂らも天らを受け入れるしかのうなって。まあ、儂も儂の家臣達も、朽木谷の寺で退屈してたんは間違いなかったし、天達みたいな刺激が欲しかったんも事実や。そんな事があって、けどすぐに織田はんもご存知の通り戦になって。運良く京に戻ってこれたけど、まあ幾らかは天らを拾うたおかげですわ。あれらの働きぶりは目を瞠るものがありましたから。」

 そうですか、と信長は相槌をうつしかなかった。

 「しかしまあ、あと三ヶ月もすれば、天らは京を去るかもしれません。」

 義輝がふとそう呟いた。

 信長はその言葉を意外に思った。天の口振りからだと、京で義輝の行末を見ていくものかと思っていたからだ。

 首を傾げた信長に、義輝が答えた。

 「五月には越後の長尾景虎はんが上洛する予定です。天はどうにも、景虎はんを見たいようや。それが終われば、出ていくかもしれんですなあ。」

 長尾景虎と言えば、自らを毘沙門天の化身とする戦上手だ。巧みなのは戦だけでなく、商いに関してもだと聞く。質の良い青苧を京で売り、かなりの儲けを出しているらしい。

 「そうですか。」

 信長は再度、相槌をうった。

 天の関心は、これからどこに向かうのかー。考えるだけでゾッとした。




 結局信長達は、影が「お陽」としてもてなした宿にもう一晩泊まる事となった。

 影と火種が護衛も兼ねて、信長達と共に角場を出ていく。

 彼らの背を見送りながら、ふと義輝が言った。

 「なあ、別に織田はんを尾張守にしてやっても良かったんやないか。名実揃えば、岩倉城に閉じ籠もっとる伊勢守も早いとこ諦めるやろ。確かに守護代は伊勢守やけど、実際力のあるんわ今や織田弾正忠家の方や。斯波はんにも悪いけど、儂としては織田はんに尾張を纏めてもろうた方が都合がええ。尾張は『京幕府』側や。いざの時に強くいてもらわんと困るで。」

 義輝の言葉に、天が「今川か」と反応する。

 「そうや。今川義元は『鎌倉公方』の味方や。儂が京に戻ったからには、足利東西幕府の関係はこれから更に悪化する。今川義元が大軍引き連れて上洛してきよったら、それは儂への好意やない。鎌倉公方に将軍職を明け渡せっていう脅しや。そん時に今川はどこを通る?美濃か尾張や。」

 「つまりじゃ、あわよくば信長サマに、今川義元を止めて欲しいと、そういう事じゃな。」

 「それやそれ。」

 義輝が大仰に頷いて見せるが、天はいやと首を振った。

 「だったら尚更、信長サマの前途は多難にしてやった方が良いぞ。尾張守を認めてみろ。安心して腑抜けるに決まっておる。あれはあまり支配欲のある男ではないからな。尾張という自分の安全地帯さえ手に入れれば、あとは奥方の帰蝶サマとのんびり暮らす…なんて本気で言い出すぞ。義輝に味方するどころか、下手すれば美濃獲りさえも諦め兼ねない。」

 天の言葉に、義輝が「確かになあ」と言った。

 「なんや気性の激しそうな噂ばかり聞く方やと思うとったけど、実際会うてみると印象がだいぶ変わったんは確かや。全くもって普通の振る舞いではなかったんやけど、なんていうかなあ…こう、織田はんはギラギラしてないんよな。儂に取り入ろうとか名前を売ろうとか、そういうんが全然ない。下心っていうの?織田はんの場合、口に出してる事だけが心なんやろなあって、なんかそんな気がしてんや。…こういうのを真心言うんやろか。」

 義輝の言葉に、天が吹き出した。

 「ははっ、真心か!そりゃいいや。不似合いに見えて言い得て妙じゃ!」

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