十三、京難儀
永禄ニ年、信長二十六歳
弟信行を謀殺して、一年と少しが経った。
今、信長は京にいる。二月の京はまだまだ寒い。用意されていた宿屋の一室で、信長は酒を呑んで体を温めていた。
人間五十年。織田弾正忠家一つ纏めるのに半生を使ってしまったと苦笑し、これでは尾張統一に残りの半生は使い切るなと思っていた信長にとって、この一年は予想外に順風満帆と言えた。
尾張守護代、岩倉城の織田伊勢守相手に、昨年七月、浮野での合戦で勝利をおさめたのである。伊勢守と言えば、信長の尾張統一にとって、最後の最後まで邪魔になっていた大勢力だ。岳父斎藤道山が死んだ長良川の戦いの際も、道山の救援に向かう信長を邪魔してくれたのが、この伊勢守である。それを負かした。未だ岩倉城に籠もり信長に抵抗する意思は示しているが、どう足掻いても無駄に終わるだろう。信長の勝ちは決した。
そんな訳で信長は、岩倉衆の降伏を待つ事なく、さっさと京に出てきていた。勿論用件は信長を尾張の国主として認めてもらうこと、そしてその交渉相手は将軍足利義輝である。
信長は酒器が空になっているのにも気付かずに、思案していた。口元で傾けた酒器からは何も流れてこないが、信長はごくごくと喉を鳴らす。
今信長と同じ部屋にいる家臣は三人のみ。森可成に毛利新介、それと身の回りの世話をさせる為に連れてきた木下藤吉郎だ。加えてこの宿の女主人一人が、信長達に酒を注いでいた。
常ならば共にいるであろう前田利家はいない。利家は少し前に、家中で刃傷沙汰を起こした。それ故罰し、織田家から勘当していたのだ。
「…御公方様に、如何程の力があるかどうか。」
信長の突然の呟きに、新介と藤吉郎がビクリと肩を揺らした。彼らの反応に、信長も自身の失言に気が付いた。ここは将軍家と繋がりのある宿らしい。宿泊先にと提供された。ここでの自身の言動は、全て将軍家に筒抜けるのではないだろうか。
「ふふっ、尾張のお殿様は嘘のつけないお方ですねえ。…あらいけない。お酒が無くなっていましたね。ささ、お注ぎ致しましょう。」
信長達の心配をよそに、品の良い笑みを浮かべたのは、「お陽」と名乗ったこの宿の女主人だった。年齢の今一つ判らない女で、顔の造りも尾張の女とは違って見えた。これが京美人というものなのか、はたまた京特有の化粧でもあるのか、信長はどことなく女の顔に居心地の悪さを覚えていた。
しかしその違和感は信長だけが抱いているようで、藤吉郎などはすっかり鼻の下を伸ばしている。
陽が信長の隣に寄り添うも、信長は座り直す振りをして距離を置いた。それに「まあまあまあ」と、可笑しそうに陽が微笑んだ。そしてまた信長ににじり寄ろうとする陽をやんわりと止めたのが、可成だった。
「お陽殿、そのへんで勘弁してやってもらえぬか。我が殿はそれはもう、惚れ抜いた女人がおるのだ。それに殿はこれ以上は飲めますまい。」
可成が穏やかにそう告げた。可成の発言は何もかもが正しかったので、信長は面白くなくてそっぽを向いた。確かに帰蝶以外の女に興味はないし、酒にも弱い。
「あらあら。」
陽はわざとらしく目を丸めると、さっと信長の隣から退いた。酒の代わりになのか、熱い茶の入った湯呑を信長に差し出した。
「ではこちらの方がよろしいですねえ。それによくよく考えれば、明日は上様にお会いになるとか。万全の状態で臨んで頂かないと。ささ、お酒の代わりにしっかり食べて下さいな。」
そしてテキパキと配膳をし直す陽に、信長は問い掛けた。
「お陽は御公方様を知っているのか。」
「ええ勿論。うちの宿も贔屓にして頂いてますからねえ。」
「将軍家でも幕府でもなく、御公方様自身を知っているのか。」
「…ええ。存じ上げておりますよ。」
現将軍、足利義輝と言えば不遇、という言葉がよく似合う。幼い頃から京を追われ、逃亡先である朽木谷で、返り咲くその時を虎視眈々と狙っていたらしい。昨年の北白川の戦いをきっかけに、実力というよりは時運に恵まれて帰京を叶えている…というのが義輝に対する信長の見立てだった。
「どのようなお方だ。」
信長が問うと、陽は簡潔に答えた。
「驚くほどに、能天気。」
思わぬ答えに、信長は眉を顰めた。
「それは褒め言葉か。」
「いえ、どちらかと言えば貶しているかと。」
「…良いのか?」
信長が思わず確認すると、陽はあっけらかんと「構わないでしょう」と言った。
「皆様が黙っていて下されば、私の悪口は上様のお耳には入りませんから。私もここで信長様が口にした事を、上様や幕府に申し上げる事はございません。どうぞゆるりと、気を緩めて下さいませな。」
しかし信長は、ますます眉を顰めた。何に対してか信長自身もわからないが、警戒心が煽られる気分だ。
そんな信長に、陽がにこりと笑って付け加えた。
「能天気と申しましたが、それは性格についてだけで、頭の良い方でございますよ。剣の腕前も一流だとか。京の皆も、上様の事は好いております。」
「よく町に出られているのか。」
信長が問うと、陽がええと頷いた。
「幼い頃から上様は、京を追われては、朽木谷の寺で過ごしていらしたでしょう?気心知れた同じ年頃の家臣達と共に、自由気儘に暮らしていたようでこざいます。その名残なのか、京の町をよく散策なさっては、楽しそうに大口開けて笑っておられますよ。そういえば、尾張のお殿様とは歳が近いのではございませんか。」
「ああ、そうらしいな。俺より少しばかり下だと聞いている。」
「仲良く出来ると良いですねえ。」
陽がそう朗らかに言った時だった。部屋の外から「殿!」と切羽詰まった声が聞こえてきた。
「入れ。」
信長が鋭く声をかけると、中に入ってきたのは、他の宿に泊めていた家臣だった。ちなみに今回の上洛、信長は八十人の家臣を連れてきている。
「夜分に申し訳ございません。殿に申し上げたき事がござい、」
「前置きはよい!さっさと申せ!」
元より頭を下げていた家臣だったが、信長の気短な怒声に、彼は更に頭を下げて言った。
「はっ!…その、報告がございまして。」
信長は家臣の言葉に苛立ちを募らせる。そんなことは言われずともわかっている。
信長の機嫌の悪さに、家臣は更に恐縮してしまい、うまく言葉が出てこなくなったらしい。
信長は舌打ちすると、バンッと床を叩いた。
すると家臣はぱっと顔を上げて、やっとのこと要点を吐き出した。
「殿への刺客が…!」
しかし後が続かない。恐らく順序立てて報告するつもりが、勢いで「刺客が」と口走ったので、それ以上うまく説明が出来ないのだろう。
ここで意外にも口出ししたのは藤吉郎だった。
「その刺客とやら、どこにいるのでございましょうか。」
「ここから程近い宿に。」
「何人で。」
「六人。」
「誰の差金かはわかっているのでしょうか。」
「美濃の斎藤義龍らしいと…。」
そこで答えていた家臣がハッとした表情を浮かべて、次いで不愉快そうに顔を顰めた。身分の低い藤吉郎の問い掛けに、誘導されるように返事を寄越していたのに気付いたのだろう。
そこで藤吉郎は口を閉じた。不穏な空気を感じとったのだろう。信長としてはさっさと話が進んで助かっていたので、残念なところである。信長の家臣の大半よりも、藤吉郎の方が明らかに地頭が良いから、惜しいことこの上ない。
「明朝だ。日が昇り次第動くぞ。」
信長は対応を即決した。
「御公方様に謁見する前に、憂いは取り除いておかねばならない。」
可成が信長に「そうですなあ」と頷いた。藤吉郎も新介も、はっ!と歯切れの良い返事を寄越した。報告に来た家臣だけが、話が読めずに目を白黒させている。
「…下がれ。」
信長は勘の悪い家臣をなんとか怒鳴りつけずに、それだけ命じた。彼は逃げるように退室する。
「殿、あれでは…他の者達は明日、出遅れるのでは?」
新介が目敏くそう問うので、信長は鼻で笑っておいた。
「はんっ、別に構わんさ。あいつらは上洛に際しての飾りとして数を揃えただけだ。むしろ迅速に動かねばならん時には邪魔になる。義龍の刺客も大人数ではないようだしな。少しばかり脅せば済む話だろ。」
信長はそう言うと、立ち上がった。
「お陽、今宵はお開きだ。」
まるで空気のように静かに成り行きを見つめていた陽に、信長が声をかける。
「かしこまりました。床の用意は出来ておりますので、どうぞごゆっくりとお休み下さいませ。」
陽には、一切の動揺が見えなかった。
さてその翌朝、日が昇り始めるとすぐ、信長と可成、新介、そして藤吉郎の四人は、刺客の滞在するという宿を訪れていた。
狙いであった信長自らの訪問に、刺客達は驚いて身なりも整えずにぞろぞろと表に出てきた。信長達を囲う。
「わざわざ挨拶にきてやったぞ。」
信長が声高に言った。
「どこの誰の手の者かまで筒抜けの刺客とは、未熟者にも程があるな。そんな未熟者共が俺に刀を振ろうとも、それはカマキリが鎌を振り上げて、馬に立ち向かうようなものだ。それでもやるか?」
刺客の一人が、信長の発言に顔を真っ赤にして掴みかかろうとするのを、信長は他人事のように見ていた。相手にするのも面倒だったので、微動だにしない。信長が動かずとも、喧嘩慣れした新介あたりが割り込んでくるだろう。
しかしここで、思わぬ事が起こった。
信長に向かってきた刺客が、ガクンと体を揺らして、次いで顔面から地面に倒れ込んだのだ。そして完全に気を失ったのか、起き上がらない。よく見ると頭から血を流しているようだ。
先までの喧騒が嘘のように、場が静まり返った。信長一行も刺客達も双方、今しがた起こった事に声が出ない。
「おいおいお前ら、こんな朝っぱらから道の真ん中で何をしておるのじゃ。」
そんな沈黙を打ち破ったのは、中性的でよく響く声だった。
皆が声の主を見る。
そこにはまさに、容姿端麗、と評すに相応しい若者が立っていた。
凛々しい顔立ちに、自信に満ちた瞳。華やかな直垂を着て烏帽子を被り、長い髪は烏帽子の中に仕舞わずに、一つに結んで背に垂らしているようだ。風に揺れて、髪の先が見え隠れしている。左腰に脇差しを、そして右腰には別の短刀を差していた。なんとなくその右腰のものに、信長は既視感を覚える。朝日に照らされたその姿は、若々しく輝いて見えた。
既に右手には打刀の柄を握っているが、抜刀はしていない。その刀を鞘ごと自身の右肩に載せて、足下で倒れている男をつまらなそうに見下ろしていた。元は左腰に差していたであろうそれで、恐らくは刺客の頭部を殴打し、昏倒させたのだろう。
「女…?」
刺客の一人が、突如乱入してきた麗人をまじまじと見ながら呟いた。そう、格好とは裏腹に、その美しい顔は女のものだ。
「天…、」
信長の口から、久しく口にしていなかった名がこぼれ落ちた。あまりに小さな呟きで、信長自身にしか聞こえていなかっただろう。
しかし女は、それに応えるように僅かに笑みを浮かべると、小さく首を振った。その動きは、真正面にいた信長にしかわからない。
信長は大人しく口を閉じた。恐らく天の言いたい事は「黙れ」、そして「余計な真似をするな」だ。
「殿?」
眼前にいるのが天だと気付いていないのだろう、新介が何もしない信長を訝しむ声がした。可成は「んー?」と信長に対してか天に対してか、何か考えるような唸り声を上げ、藤吉郎は「ほぉ、」と恍惚を顔に浮かべ溜息を吐いた。
信長はただじっと見つめていた。約三年ぶりの再会だろうか。暫く見なかっただけで、記憶の中の少女はすっかりと女になっていた。十歳差だったから、もう十六になるのか。記憶の中の天との差異が、信長を酷く混乱させた。故に、言葉が出ない。
女の笑みは、妖しげだ。幼かった頃の、他人を小馬鹿にしたような笑みとは違う。
息苦しい沈黙を破ったのは、天だった。
天はぐるりと信長一行を取り囲む刺客達を見回すと、声を張り上げた。
「儂は客人を迎えにきただけじゃ。お前らに用はない。さっさと去れ。」
客人とは、どうやら信長達を指すらしい。
天の声音には傲慢な響きがあった。それを感じとったのだろう、刺客達が声を荒げた。
口々に不平と文句を言う彼らに、信長並に気の短い天が我慢出来る訳がない。
「黙れ!」
天が一喝する。信長も初めて聞く、まるで雷鳴のような大音声だった。刺客達含め、信長達もビクリと肩を揺らす。
「お前ら少しは頭を使ったらどうじゃ。信長サマが京にいる目的はなんだ。信長サマを『客』と呼ぶ方はただ一人よ、違うか?」
刺客達の顔色がみるみる悪くなっていく。信長とて「もしや」と思っていたが、改めて考えると過程の全くわからない仮説が現実味を帯びてくる。
「お前らはわざわざ信長サマが上洛するのを狙ってやってきた。それなのに信長サマが今から会おうとしている相手を知らないとは言わせんぞ?それによくよく考えるんじゃな。お前らの主も二月後には『会いにくる』予定だろうが。いいのか?これ以上ここで駄々をこねるのなら、儂から伝えてやろうか?美濃の斎藤義龍は、我々と揉めたいらしいってな。」
『斎藤義龍』の名が天の口から出た途端、刺客達は一斉に地に平伏した。
「御公方様の御家臣の方とは知らず、とんだご無礼を…!」
「我が主には毛頭、御公方様と争う気などごさいません!」
額を地に擦り付けながら謝罪する刺客達に、天は苛立たしげに声を荒げた。
「だいたい殺るならもっと巧くやらんか!ったく、こんな茶番に駆り出されるこっちの身にもなれよなあ、もう。」
最後はブツブツと呟いた天に、信長はおいおいと声を上げたくなったが、天がすかさず無言で睨んできたので、開きかけた口を大人しくまた閉じる。
次いで天は、平伏したまま固まっている刺客達を一瞥すると、肩に担いでいた刀の、鞘の切先で地面を激しく叩きつけた。地面が削れて、砂が派手に跳ぶ。
それだけで、天の怒りは十二分に伝わった。
「何回も言わせるな。さっさと…この前途無限の都から立ち去れ。そしてよくよく肝に銘じておくんじゃな…京において、御所様の存ぜぬものなど何もないと。悪事は筒抜けじゃ。二度とこの地で…ナメた真似をするなよ。」
義龍の刺客は、まさに脱兎の如く逃げ出した。
信長はそんな刺客達よりも、天の口から出た「御所様」という言葉と、先までの会話から推測される彼女の立場が気になって仕方がなかった。
新介も藤吉郎も、一連の出来事に呆けている。
そんな中で、「おお」と何故か感嘆したような声を上げたのが可成だった。
「そなた、もしや天ではないか。いやあ、暫く見ぬうちに、ますます美しくなったのう。誰ぞ良い男でも出来たか、ん?」
全くもって空気を読まない可成の発言に、信長と天が同時に口を開いた。
「「いや、今はそこじゃないだろ。」」
あまりに綺麗に揃った声が不愉快だったのだろう。天がキッと信長を睨み付けた。先までは唖然としていた信長だったが、今はいくらか落ち着いていた。故に天の態度が気に入らず、信長も負けじと天を睨み返す。
火花でも散りそうな程に互いを睨み合う天と信長を見て、可成が可笑しくて仕方がないと声を上げて笑い始めた。次に藤吉郎がケタケタと笑い出し、次いでいつまでも緊張していた新介がふっと肩の力を抜いて苦笑した。
信長もまた、天を睨めながらも、懐かしさに浸らずにはいられなかった。
天が先導して、すっかり日の昇った京の町を歩く。
幾度も戦乱に巻き込まれた町だ。都と言えども外観だけ見れば、信長の想像よりも遥かに襤褸だった。
しかし予想外に、町の人々は明るく元気だ。逞しい、という言葉がよく似合う。せっせと働き、稼ぐ。どれほど荒もうとも、京に住んでいる事に誇りを持っているのだろう。
天は町外れの角場に向かっているという。
「義輝もなあ、こんなに朝早くから信長サマ達が騒ぎを起こすとは思ってなかったから、朝一で鉄砲の稽古をしに角場に行っていたのじゃ。暫くしたら、信長サマ達が既に宿を出たって報告があってな。嫌な予感がしたのよ。余計な騒ぎを起こされても面倒だし、しょうがないから儂がまるーく収めに来てやったんじゃ。感謝しろよ?」
「…丸く収める、なあ。」
信長は天の言葉に、頷く事が出来なかった。自身の後ろを歩く可成の背に、男が一人背負われていたからだ。天が最初に刀で殴った男で、結局絶命していた。
「…まさかあの程度で死ぬとは思わなかったのじゃ。刀で斬るなら加減もわかったが、殴るとなると少し経験不足じゃったな。失敗失敗。」
なんてことなさそうに天は言うが、その顔は少し引き攣っている。
珍しいなと信長が天の反応を訝しんで尋ねた。
「ならば刀を抜けば良かったんじゃないのか。お前の腕だ。首の皮一枚だけ斬るなんて芸当も出来るだろ。脅しにはそれで十分だ。」
信長は天の剣技を実際には見たことがない。しかし愛用の、今も彼女の右腰にある鎧通しだけで数々の死地を乗り越えてきたことは確かだし、柴田勝家の話だと、普通の刀も扱えるらしい。腕前も相当だという。
信長の問いに、天が首を振った。
「義輝に人を斬るなと言われていた。だから抜かずに殴ったが失策じゃったな。死体なんぞ持って帰ったら嫌な顔される。…もう信長サマが殺したって事にしていいか?」
「阿呆ぬかせ。どこの世に、将軍に謁見するのに死体を土産にするうつけがおるか。しかもこの男が死んだからといって、御公方様が得する訳でもないし。」
「少なくとも儂が怒られずには済む。」
「だったらしっかり叱ってもらえ。」
ふん、と天がそっぽを向いた。自業自得だが臍を曲げたらしい。
数年会わないうちに、天には僅かにだが、表情が増えたような気がする。出会った幼い頃など、天はいつも不機嫌で眉間に皺が寄っていたと記憶している。単に信長を前にして機嫌が悪かったのかもしれないが、天の表情が動く時はいつも、彼女が仲間の少年達と共にいる時だけだった筈だ。
それが久方ぶりに再会して見れば、笑顔を振りまく事はなくとも、誰にでも軽口が利けるくらいにはなったようだ。
その証拠にと言えるのか、可成はともかく藤吉郎や新介もまた、気さくに天に問いを投げていた。
「だったらそもそも刀は持って来なければ良かったじゃないか。」
「儂も別にいつもの鎧通しさえあればよかったんじゃ!それを義輝が、客人を迎えに行くのだから恥ずかしくないように着飾っていけってさ。なんで信長サマの為に洒落込まねばならんのじゃ。」
「いやあしかし、あっしみたいな下賤の者は、このような立派な着物に腕を通した事などありゃしやせんよ。羨ましい話ではないですか。」
「あー、今日のは義輝が子供の頃に着てたやつを貰ったのじゃ。お下がりだな。」
へえ!と新介と藤吉郎が驚嘆の声を上げた。それはそうだ。一体全体どうすれば、将軍のお下がりなどを頂戴する事になるのか、相変わらず理解し難い女だ。
「それで、御公方様とはどういう関係なんだ。」
信長が問うた。天の目的が昔から変わっていないのなら、「この世への復讐のため」に、彼と何らかの関係をもったのだろう。「この世を統べる者の首を叩き落とす」という狂気じみた願望を、彼女はまだ持ち合わせているのだろうか。
「どういう、ねえ。」
まただ。天は妖艶な笑みを浮かべる。この表情こそ、数年前の天には絶対に無かったものだ。
「賭けに勝ったのじゃ。」
それからは何を聞いても、天はのらりくらりと答えをはぐらかした。
鉄砲の轟音が、京の町外れで響く。
なんとも不似合な音だと、信長は角場が近付いている事を知りながら思った。京の町で鉄砲の音は違和感を覚える。確かに戦とは切り離せない町だが、この町に昔から響いていたのは剣戟の音と、矢が空を割く音、そして炎が町を燃やす音ではないだろうか。
天に誘われるようにして、京の町を歩いてきた。真っ直ぐな道の組み合わせで出来た町。鉄砲を放てば、遮る物はない。標的を見失う事もないだろう。
「新たな時代、か。」
義輝の帰京と鉄砲は、何かの因果の象徴のようだ。
そんな事を信長が思っていると、ふと火薬の臭いが鼻についた。いよいよ角場に着いたらしい。
「さて、この様子だとまだ鉄砲の稽古をしておるようじゃな…。まったく、人には正装させておいて、あれは出迎えの用意もしておらぬようじゃ。困ったお人よな。」
天はそう言って、角場の門をくぐった。天に言われるままここまで来てしまった信長達が、そこで我に返って躊躇した。義龍の刺客を追い払うだけのつもりが、そのまま将軍に謁見する事になってしまった。それも御所ではなく、町外れの角場でだ。
「あっしはここで遠慮させてもらった方が…。」
真っ先に声を上げたのは藤吉郎だった。膝がブルブルと震えている。
信長は藤吉郎の様子に、珍しいと驚いた。常ならば大仰に感情を表す藤吉郎である。信長に怒鳴られれば、恥も外聞もなく床に丸まって怯える男だ。それが今、棒立ちで震えているだけときた。
新介も可成も、門前で立ち止まっている。信長もだ。将軍という役職の名は、思った以上の威光として、信長達の脳裏に刻まれているようだ。将軍という像の中身は知らずとも、自然と畏れを抱くのだろう。日の本にいればきっと誰もがそのように育つ。将軍を京から追い出した三好には、このような感覚はなかったのだろうか。
そんな四人の様子に、天が怪訝そうに顔を顰めた。
「なんじゃ、さっさと入らんか。あ、可成。死体はそこらへんに転がしておいてくれたら良いから。後で始末する。」
それでも門の内側に入ってこない信長達に、一転、天が愉しそうにニヤリと笑った。
「おい、こんなところで立ち止まってどうする?なんなら義輝の方をこっちに連れてくるぞ。」
天の言葉に、信長がまず一歩、門の内側へと足を踏み入れた。もはや反射だ。天と義輝の関係はわからないが、この女なら冗談抜きで将軍にご足労をかけるだろう。
「はい、はい、はい。これで良し。」
信長が動いたのを確認すると、天は次々と可成、新介、藤吉郎の手を引いて、門の内側へと連れ込んだ。
天は満足げに頷くと、さっさと奥へと歩いていく。見渡す限り、誰もいない。本当に将軍がいるのか疑わしい程だ。
鳴り止まない鉄砲の音、緊張感、そして天。
「まるで戦場にきたようですなあ。」
可成が信長の気持ちを寸分違わず言葉にした。
そうだ。天が現れればそこは、いつだって戦場だった。今だってそうなのだ。交渉という名の戦だ。相手は将軍、足利義輝。目的は、織田上総介信長を尾張の国主として認めてもらうこと。
「戦なら幾度も経験した。気負うことは無し、だな。」
信長の呟きに、他の三人も覚悟を決めたようだ。これが戦であるならば、寡兵を更に少なくする事はない。天の口振りだと新介も可成も藤吉郎もいて構わないのだろうから、もう誰も残るとは言わなかった。
そんな三人とは裏腹に、信長は密かに頭を抱えた。
ー 戦と例えたが、しかし結局のところは会見だ。ならば俺には、「あの時」の経験しかないぞ…!
あの時とは勿論、岳父斎藤道山と初めて会った日の事だ。帰蝶に言われるまま傾奇者の形で正徳寺に出向き、わざわざそこで正装に着替えた。しかしそれも道山は全てお見通しで。挙げ句に道山の小姓として現れたのは天と氷と蒼の三人の餓鬼共。利家が天に挑発されて庭に飛び出して暴れ、大いに恥をかかされたものだ。
結局会見自体も上手くいったのかいかなかったのか、よくわからないままに終わったのが正徳寺での会見だ。あれしか経験がない。その上、あの時と同じく天までいるときた。
「はぁ…。」
信長はひっそりと溜息をつくと、空を仰いだ。
信長の心模様とは真逆の、よく晴れ渡った空が見えた。