十一、稲生介入
柴田、林軍と信長軍が激突!弟信行との決戦が、稲生で幕を開けた。
柴田勝家と対峙する信長であったが、そこに天が現れる。天の介入に、信長は誰かの差し金ではないかと疑うがー。
時は少し遡る。
稲生での合戦が始まり、柴田勝家が前線で奮戦し、それに我慢ならなかった信長が、本陣を飛び出した頃だったか。
木立の影に隠れて、一人の少女が、戦場をうかがっていた。
年の頃は十歳くらいか。木の根元にしゃがみ、先から睨めつけるようにして、戦場を眺めている。
そして彼女を、少し離れたところから見ていたのが天である。天は今回の戦にさして興味がなく、何となくぶらぶらと辺りを散歩していた途中であった。
「なんじゃ、ここらの村の逃げ遅れか。あんなところに餓鬼がおっては、いつ誰に難癖つけられるか分からんぞ。」
天は自分も似たような状況にある事を棚に上げて、呆れながらボリボリと頭を掻いた。あの娘、どうしたものかと考える。面倒事は仲間に押し付けがちな天であるが、生憎と今は一人だった。
「メンドクサ。」
そう言いながらも天の足は、少女のもとへと向かう。特段気配を殺している訳でもないが、少女は横から距離を詰める天に未だに気付いていないらしい。尚の事、天は顔を顰めた。鈍いにも程がある。
「おい。」
天は、少女を容易に蹴りつけられる距離まで近付くと、声を掛けた。
びくりと、少女が肩を揺らした。本当に今の今まで、天の存在を認知していなかったらしい。
少女がハッと顔を上げる。驚きで見開かれた双眸と、半開きの口。思わぬ程に真白な肌に、天が首を傾げた。農民のそれではない。この夏の終わりに、日に焼けていない農民など、老若男女問わずいないだろう。しかも着ているものが、嫌に良い。場違いにも程がある。
少女は天を見て、安心したように肩から力を抜いた。さして歳の変わらない娘だと思ったからだろうか。
少女は意外に強気で、天を指差すと、次いで自身の隣へと手招きした。どうやら「静かにしてここに隠れていろ」と言いたいらしい。
傲慢さの滲む態度だった。天は咄嗟に、この偉そうな娘に関わるのが嫌になって顔を背けたが、少女の方がとうとう声を荒らげた。
「早うこちらへ参れ。見つかってしまうではないか。」
幼いおなごにしても、甲高い声だった。加えて気も短いらしい。その顔には、迫力こそないが苛立ちはよく見てとれた。
ここで天は、はてと首を傾げた。誰かにそっくりな顔立ちである。特に怒った顔には、既視感がある。
「ああ、」
と天は納得した。
「あんた、姫様か。確か名前は…なんか買い物みたいな感じじゃったな…ああ、そうそう、『お店』じゃ!いや『お見世』じゃったか。」
天の言葉に、「おみせ」と呼ばれた少女は、いよいよ激昂した。
「私の名は『市』じゃ!無礼者。」
ああ、と天は一人で頷いた。
やはりよく、怒った顔が信長に似ている。
「私はそんなに、信長兄上に似ておるのか。」
市は、天を隣に座らせると、そう問い掛けた。
その表情に先までの怒りはない。代わりにありありと伝わってくるのは、興味関心だ。天への興味か信長への興味か知らないが、とにかく天は呆れた。この姫様は、その身分と警戒心との釣り合いがとれていない。
天は代わりにとは言わないが、辺りに気を配りながら、市の問いに答えた。
「そっくりじゃよ。なんじゃお前、信長サマには会ったことないのか。信長サマに女装させれば、将来のお前の姿の出来上がり、だな。それくらいには似ておるぞ。」
天の言葉に、市が頬を膨らませた。
「会った事くらい、ある。父上の葬儀の時に。しかしあまりに昔のこと故、信長兄上の顔はうろ覚えなだけだ。うつけ。」
昔の事だから、というよりは、市が幼すぎて覚えていないのだろう。それにしても、
「口の悪さは信長サマ以上じゃぞ、お前。」
市の口の悪さが凄まじい。言葉そのものもだが、言い方が常に上から目線なのだ。
「私は織田弾正忠家の娘ぞ。お前のような者と話すには、このくらいで丁度良いのだ。それよりも天、お前の方こそ口を改めよ。」
そう言い返して胸を張った市に、天はやはり呆れた。警戒心はおろか、市には危機感が大いに欠如している。丸腰の市に対して、天は曲がりなりにも刀を携帯しているのだ。天の機嫌を損ねて斬られる心配はしていないのだろうか。それとも末盛城という箱で大事に育てられれば、誰もがこのような命知らな不遜者になってしまうのだろうか。
いや、それないか。
天は浮かんだ考えを、即座に否定した。信長の弟、そして市の兄である品行方正な信行は、此度の戦に出てきていない。末盛城に引き籠もっているらしい。少なくとも彼は、命知らずの不遜者ではないのだろう。
しかし何故、その大将ではなく、その妹の姫様が戦場に出張ってきているのか。それも共の一人も見当たらない。恐らくは勝手に城を抜け出してきたのだろう。どこか近くの村にでも、乗ってきた馬は預けているのかもしれない。信長も昔はよく勝手に外を出歩いていたというし、市は顔だけでなく、気性も信長よりのようだ。
「で?お市サマはわざわざお一人で、こんなところに何をしにいらっしゃたので?」
天が皮肉を込めて丁寧な口調で問い掛けると、市が満足気に口角を上げた。どうやら皮肉も通じないらしい。とことんまでに、鈍い。他人からの悪意にも、天という不審者の接近にも、戦場に近寄るという愚行にも…とにかく市は疎いのだと、天はこの時よくよく理解した。危機感に疎い上での、しかしながらずば抜けた行動力である。よく言えば大胆不敵、悪く言えば考え無しだ。信長とは決定的に違う。信長は少なくとも、警戒心と危機察知能力はある。しかしながら取り囲む環境が、信長に危険を避ける事を許してくれないので、結局は無理をする事になってはいるが。
天が「世の中上手く回らないものだ」などと考えていると、市が思わぬほど真剣な声音で答えた。
「信行兄上と信長兄上の両方を、負かしにきたのだ。」
はァ?と天が聞き返した。さすがに言っている意味がわからない。
「勿論、今すぐには無理だとわかっておる。しかしだ、織田弾正忠家の家督争いならば、私が参加しても良いではないか。だから今回の戦は偵察ぞ。いつか私が兄上二人を討ち取る為の。」
はあ、と天は間の抜けた相槌を打った。別に市が家督争いに参加したいのならすれば良いとは思うが、兵を持たぬ身でどうするつもりかは気になるところではある。
「ああけど、」
と天は思いついた事を口にした。
「信行ならすぐに殺れるんじゃないか。同じ城にいる訳だし。毒でも不意討ちでも…非力なお市サマにも出来るじゃろ。」
それに市は、不貞腐れたように答えた。
「もう毒なら試した。が、毒見役が腹を下して終いだった。幼い事が幸いして、悪戯で済まされた。」
市の言葉に、天は盛大に吹き出した。
「ぶはっ、本当か!いやはや、そこまでの行動力とは、ぶはははっ、いや失礼…恐れ入りましたよ姫様。」
市が睨んできたので、天は笑った無礼を珍しくも謝ると、軽く咳払いをした。そして市に合わせて、真面目な顔で問い掛ける。
「それで、お市サマはこの戦、どうみる。」
市の答えは、思わぬ程早かった。
「兄上達の勝敗は正直どうでも良い。ただ…柴田勝家が死ねば、信行兄上も信長兄上も終いだし、私にとっては都合が良い。」
「ほう、信行でもなく信長サマでもなくか。」
天が興味深げに問うと、市が十歳の少女とは思えぬ嘲笑を見せた。
「兄上どちらか片方の首だけが落ちても、私には意味がないからな。生き残った方が弾正忠家を纏めるだけよ。間違っても私に、家督が転がり込んでくることはない。」
「そりゃそうだ。」
「だからもっと先を見越しておる。織田弾正忠家は有能な武将が少ない。尾張の兵も、例えば…美濃の屈強な兵に比べれば、やはり劣る。だからこそ、戦に強い柴田勝家は、兄上達よりも殺す意味があると思う。家督争いで信行兄上が勝とうが信長兄上が勝とうが、勝家は死なない限り、双方から重宝されるはず。どっちの手駒になろうが、今のうちに殺しておけば、兄上達、というか尾張の戦力がガタ落ちよ。」
へえ、と天が相槌をうった。見立てが正しいかはともかく、ただの考え無しではないらしい。
「それで?とりあえず勝家を殺せたとしよう。有能な将を欠いた両軍を、お市サマはどうやって潰す?」
「簡単、私が嫁いだ先に潰してもらうだけ。だから嫁ぎ先は、強国の大名でないと困るわ。尾張にいるうちに私がすべき事は、尾張の有能な武将を少しでも減らしておく事と、信行兄上か信長兄上のどちらかに、私の嫁ぎ先に良い男を選んでもらう事じゃ。」
「ふーん、よしんばそれがうまくいったとしても、それじゃあ尾張はその嫁ぎ先のものになるんじゃないか?お市サマのモノじゃあない。」
天が首を捻ると、市があっさりと答えた。
「私が欲しいのは織田弾正忠家の家督であって、尾張そのものではない。家督を使って、何か野望がある訳でもないしな。家督を手に入れることそのものが、私の目標じゃ。そのくらいなら、私の将来の旦那様も、許してくれよう。その器量も無い男なら、こちらから願い下げよ。」
これが十歳の少女の言葉である。
「こりゃ呆れた。儂はとんでもない姫様に声を掛けてしまったらしいなァ。」
そう言いながらも、天は笑いを堪えきれなかった。
なるほどと納得した部分があったからだ。市が織田弾正忠家の家督を欲するように、天もまた天下人の首を欲している。そして二人に共通して言える事は、それが手段ではなく最終目標だという事だ。二人共、それより先の「支配」には興味がないのだ。
「相わかった。」
天はそう言うと、ふらりと立ち上がった。
「柴田勝家は、儂が殺してきてやる。」
市が、ぎょっとした表情を浮かべた。
「しかし天、お前はたった一人ではないか。」
いやいやと、天が首を振った。
「柴田勝家もこの世にただ一人じゃ。ならば儂一人で十分に殺せる。」
「そんな道理が罷り通るものか。」
「そんな道理を罷り通すのが、この儂ぞ?まあお市サマはせいぜい、誰にも見咎められぬよう、ここから儂の活躍を黙って見ておればよい。」
市の視線が、天の頭から足先までを彷徨った。武器は右腰の鎧通しだけで、天は具足の一つも身に付けていない。
「今更なのだが…天は何者なの。」
ようやく市の口から飛び出た言葉に、天がおいおいと呆れ顔を晒した。
「本当に今更じゃな。もう少しお市サマは、身の危険に気を配るべきじゃな。戦よりも、儂みたいな不審者と共におる事をまずは警戒すべきなんじゃそもそも。このまま追い剥ぎにあっても知らんぞ?」
市は天の言葉に不貞腐れたらしい。頬を膨らませてぷいと横を向いてしまった。
「お市サマ、」
天がそんな市をせせら笑いながら言った。
「嫁ぎ先の話は、信長サマにした方が良いと思うぞ?」
「なぜ?」
市の短い問いに、天は戦場を見据えながら答えた。
「…信長サマが勝つからさ。それにあれの方が見る目はありそうじゃ。」
戦を見慣れた天の目は、今しがた生じた信長軍の動揺を見逃さなかった。
文字通り、信長軍が波のように揺れたのだ。本陣の方からジワジワと、三陣、二陣、そして最前線へと、信長軍全体がうねりを上げたように、天には見えた。勿論軍の全体がここから見える訳ではないから、感覚的な話ではある。しかし恐らく、天の見立ては間違っていない。信長が自ら、勝家を討つ為に本陣を飛び出しているのだ。
「さてさて、信長サマが勝家のところに辿り着く前に事を起こさねば面倒じゃ。儂は行く。」
天はひらりと手を振ると、市の側から離れた。
それからそう時をかける事なく、天はふらりと、勝家の背後に陣取った。誰に気付かれる事もなく、天は勝家の乗る馬の尻の上に現れたのだ。
そろりと、天は背後から勝家の首に抱き着いた。異常に気付いた勝家が、体を強張らせるのを感じたが、もう遅い。天は勝家の首にぶら下がるようにして全体重をかけると、その体を後ろへと引き倒した。自然、空を仰ぐ事となる。目に映るのは、昨日の大雨が嘘のように晴れ渡る空だ。
馬上で仰け反らせた体の、ちょうど胸の前に抱えるようにして、勝家の頭がある。立派な兜の飾りが当たって痛いが、天は我慢した。勝家の頭を決して離さぬように力を込め直し、体勢の崩れた勝家ごと、馬上から泥濘んだ地面に転がり落ちた。派手に泥がはねた。
そこでやっと、周囲は勝家と天に目を向けた。柴田軍が呆気にとられている中、天は仰向けに転がる勝家の胴体に馬乗りになる。落下の衝撃で気を失ったらしい勝家を見て嘲笑した。
右腰から鎧通しを抜く。いつもの両刃のそれだ。刃が陽光を反射して、鈍く光る。天はそれを見せつけるようにして周囲の兵を牽制した。天以外の誰も彼もが、時が止まったように動かない。
「愉快愉快。」
天はそう満足気に呟くと、ニタリと笑いながら、顔だけ振り返った。少し遠く、視線の先に、馬上で槍を構えていた信長を捉える。信長は存外、感情が顔に出やすい。あと少しで勝家と槍を合わせる筈だったところに、突然天が乱入してきたのだ。信長は素直に、目を白黒させていた。天はそのザマを見て、心中でケタケタと笑い声を上げる。
信長に視線を投げたのは一瞬のこと、天は再度勝家の顔を見下ろすと、鎧通しを握った手を僅かに振り上げた。両刃のそれは、刺突が楽だ。勝家の首に突き刺せば、市との約束は果たされる。
しかしいざ刃を振り下ろそうとしたところで、天の耳に、大音声が飛び込んできた。
「やめろ!!その者は織田家に今後必要となる男だ!勝手に殺す事は赦さんぞ…天!!」
振り返る必要もない。ここ数年ですっかり聞き慣れてしまった信長の怒声だった。天はピタリと手を止めると、不快な気分で眉根を寄せ、呆れたように空を仰いだ。
「どの口が言っておるのやら。鬼柴田は信長サマの敵じゃろうが。」
天はつい言い返した。ボソボソと吐き出された声だったので、信長はおろか、誰の耳にも届かなかっただろう。しかしその時、天には少しばかりの躊躇が生まれていた。その証に、天の刃はピタリと動きを止めている。
そして天自身も無意識のうちの逡巡が、事態を思わぬ方へと動かした。
「っ…!?」
突然、天の右手首が何かに掴まれた。細い骨がミシミシと軋む音が、冗談抜きで聞こえる。手首にかかる圧と痛みに耐え兼ねた天は、反射的に鎧通しを手放してしまった。
「クソが…!」
口汚く罵った天の眼下には、いつの間にか両の眼をかっ開いた勝家。少し目を離した隙に、意識を取り戻していたらしい。目覚めた勝家の左手が、容赦なく天の手首を握り締めていた。このまま潰すつもりかと言わんばかりの握力に、天は慌てて勝家の上から飛び退こうとした。
しかしそれを許す勝家ではない。
「離せ!」
咄嗟に天は、まだ自由な左手で泥濘んだ地面を掻いた。泥を掴むと、勝家の顔面に投げ付ける。
しかし勝家は、少しも怯まなかった。
それどころか、泥塗れの顔で、楽しげに笑みを浮かべたのだ。
「とんだ目覚めだ。」
勝家が言った。
「皮肉にも敵である信長様の大声で、目が覚めてしもうたわ。どうやら儂は、信長様のおかげで命拾いをしたらしい。」
勝家はそこでようやく上体を起こした。そして天の手首を掴んで離さない手とは反対の手で、天の鎧通しを拾い上げた。嫌にゆっくりとした動作だった。
それを見て天は、ゾクリと寒気を感じた。ジタバタと出来る限り暴れるが、勝家の手から逃れる事が出来ない。
「しかもこのような小娘に殺されかけていたときた。本当に、とんだ目覚めもあったものだ。」
勝家はそう言って、鎧通しを素早く横に振った。
刃が、天の胸を横一文字に斬り裂く。
「クソが…!」
天の顔が忌まわしげに歪んだ。キッと勝家を睨み付ける眼光は鋭いままだ。ようやく解放された右手で、胸元の傷を抑えるが、どくどくと流れ出る血は止まらない。あっという間に、着物が赤黒く染まった。
「天!!」
酷く遠くから、信長が自分の名を叫ぶ声が聞こえた気がするが、それが余計に天の心を荒立たせた。勝家に斬られた上に信長に案じられるなど、恥以外の何物でもない。
血が流れ過ぎたせいか、視界が歪む。既に両膝は地に付いている。脂汗が滲む。意識が朦朧とし始める。
今日、天は一人きりだ。いつも側にいて助けてくれる氷と蒼はいない。影もどこにも潜んでいないし、火種もどこかで鉄砲を構えて機を窺っているなんてことはない。
「マムシ…様…、」
思わず口からついて出た名に、天はいよいよ眩んだ。
随分と弱気な声でその名を呼んだものだ。それももう、自分を拾って育ててくれた斎藤道山は、この世に存在しないというのにだ。
「最っ悪…、」
天は自嘲気味にそう言い捨てると、顔面から地面に突っ伏し、意識を失くした。
天は、敗けた。
倒れた天を眺めながら、ここにもまた敗北を認めた者がいた。勝家である。
負けた相手は天ではない。敵将、織田信長にだ。
「今後織田家に必要になる…か。」
勝家の意識を浮上させた、信長の怒鳴り声。信長は確かに自分をそう評し、そして少女に勝家を殺すなと命じた。
本当に、とんだ目覚めになったと、勝家は体から力が抜ける思いだった。戦場で「敵将を殺すな」と、そう堂々と叫んだ信長には、正直拍子抜けした。やはりうつけだと思った。しかしまさにその言葉があったからこそ、勝家の命は今ある。あそこで信長が天を制止していなければ、間違いなく勝家は死んでいた。戦で討ち死にならばともかく、ふらりと現れたおなごに不意討ちという、実に不名誉な死に様を晒すところだったのだ。
故に今や、信長に対して戦を続ける気にはなれなかった。信長のおかげで命拾いしたという事もあるが、そもそも信長の発言からするに、信長には最早勝家を殺す気はないように思える。ならば戦は成立しない。勝家も気勢が削がれている。それにー、
「このザマでは馬にも乗れんわ。」
そう、最終的に倒れたのは少女一人だったが、勝家もやはりそれなりに負傷していたのだ。
受け身もとれずに馬から落下して、強かに体を地面に叩き付けられた。昨日の雨のせいで地面が泥濘んでいなければ、恐らくは落馬の衝撃だけで重体だったに違いない。なにせあの娘ときたら、共に馬から落ちたというのに、器用にも勝家の頭を、故意に地面に叩き付けてくれたのだ。不甲斐なくも衝撃で、意識が飛んだ。
未だに頭はユラユラと揺れているし、視界も回っている。利き肩も酷い打撲をしており、鎧通しのような比較的軽い武器は持てたが、自身の槍を振るうのは最早無理だろう。腰も酷く打ち付けたので、一人では暫く立ち上がれそうにもない。
故に、負けだ。天に負けたのではない、信長に負けたのだ。自分がこの様では、これ以上信長軍と戦う事は出来ないだろう。今回は運が、信長に味方した。
「退くぞ。」
勝家はそう命じると、家臣の肩を借りて立ち上がった。先よりも高い位置から、地面に突っ伏したままの少女を見下ろした。息はまだあるようだ。思ったより傷が浅かったのだろう。少女は斬られる最後の最後で、渾身の力で身を引いていた。勝家の動きがよく見えていたと思う。刃がどこに振られるのかもわかっていて、出来うる限り避けようとしていたのだ。相当頭に血が上っていたように見えたが、存外冷静な娘だった。
「そこの娘は儂の屋敷に連れ帰る。誰ぞ、引き摺って参れ。」
勝家が撤退してからの信長の活躍は、凄まじかった。
柴田軍を追うことはせずに、信長は軍を率いて南の林美作の軍に襲いかかった。そこでなんと、自ら林美作を討ち取ってしまう。それで戦は決した。信長軍の勝利である。
しかし信長は、終始憮然とした表情を浮かべていた。
「天の気紛れで、勝てただけの事だ。」
そう信長がこぼしたのを、側にいた森可成だけが聞いていた。信長の言う「天」が、彼もよく知る少女の事を指すのか、それとも「運」や「神仏」的なものを指すのか、可成には判らなかったが、信長の言わんとする事は解った。
「柴田殿が退かなければ、危のうございましたなあ。」
ああそうだな、そう信長がつまらなそうに頷いた。
数日後、末盛城から、信行が母土田御前と柴田勝家を含む重臣達を連れて、清洲城へとやってきた。無論、信長に謝罪を述べる為である。
既に母土田御前の嘆願もあり、信長は信行達の叛逆を一切合切赦す事にしていた。勿論双方、気持ちは伴ってなどいないが、穏便に済ませられるならそれに越した事はない。
形ばかりの和睦を結んだところで、風のように信行一行は、清洲城を後にした。
ただ一人を除いて、だが。
「聞いておりますか兄上。」
信長の前に座っているのは、妹の市だった。信行達の謝罪中には終ぞ姿を現さなかったのだが、信行達がいなくなった途端、信長と話がしたいと言ってひょっこりと現れた。門番の話だと、一人で馬に乗って駆けてきたという。小さな体で大したものだと、少しばかり感心したのだが、市の態度は信長の予想を遥かに超えていた。
今、市はおなごとは思えない勢いで、出してやった茶漬けを口の中にかき込んでいる。そして同時に喋ってもいる。口が裂けても行儀が良いとは言えない妹に、信長の方が気後れする程だった。
「すまん、何の話だったか。」
口からするりと出てきた謝罪の言葉には、信長自身が驚いた。どう取り繕っても信長は、この態度の大きな妹に下手に出てしまっている。どうしたことかと、信長は頭の痛くなる思いだった。
そんな信長に気付いていないのだろう、市はどんと椀を床に置くと、偉そうに胸の前で腕組みをして、信長に言った。
「兄上に貸しを返して貰おうかと思いまして、参りました。」
「貸し、と言ったか。悪いがお前とは、父上の葬式以来会っていない筈だ。俺がお前から何かを借りた事などあるまい。」
信長は本気で首を傾げた。すると市が、いいえと首を振った。
「そんな昔の話ではございません。つい数日前の話でございます。」
数日前と言えば、思い当たるのは稲生の合戦しかない。しかしそれならばむしろ、市は謝罪する側ではないだろうか。戦に加担はしていなくとも、市も末盛城の人間の一人。まだ十歳の娘に言っても致し方ないかもしれないが、織田弾正忠家の当主である信長に叛いた信行の側にいた事には変わりない。
信長が黙っていると、市があっけらかんと言った。
「柴田軍が撤退したのは私のおかげでございます。この貸しは大きいかと思いますが。」
市の言葉に、信長は顔を顰めた。ちらちらと脳裏に浮かぶ、市とは別の少女の顔に、嫌な予感がする。
「順を追って話せ。」
信長がこめかみを指で揉みながらそう命じると、市は「そのつもりでございます」と言って、一から十まで説明した。それはもう、誤魔化しても構わないような事までペラペラと。
織田弾正忠家の家督が欲しいこと、あまつさえ信行に毒を盛った事があること、信行と信長の双方を潰すには、柴田勝家を織田家から追い出す、もしくは殺してしまうと良いと考えたこと、その話を偶然出会った少し歳上の少女に話したこと。そして、
「そうしたら天が、柴田勝家を殺してきてやると、そう申したのです。実際は惜しかった訳でございますが。」
天を差し向けたこと。つまり天の背後にいた差し金は、市だったのだ。
「はなから何かがおかしいとは思っていたが…。」
信長は思わず、天井を仰いだ。
道山の小姓だった頃とは違うのだ。天は今、信長や織田家、尾張とさえ関わる必要はない筈だ。それがわざわざ、戦に横槍を入れてきた。それも明らかに柴田勝家を狙ってだ。天個人の意思だとは思えなかった。あの時すぐに、誰かの差し金だと疑った。
しかしそこから先の思考が纏まる事はなかった。あの時、勝家を殺して利があるのは、勿論信長方だった。信行が貴重な戦力を削る訳はないし、例えば尾張の他の勢力、織田伊勢守あたりも、今一番邪魔なのは信長の方だろう。ならばわざわざ、兄弟同士の潰し合いを邪魔立てするとは思えなかった。
ならば信長の味方に、天を使ったものがいたのかとも考えたが、それもあり得ないように思えた。確かに天と顔見知りの者は多いが、その中で信長を通さずに勝手をする者は思い当たらなかったのだ。
ならば、誰の差し金で天は動いたー。
その答えが今、信長の眼前にいる市という訳だ。
「そりゃあ、思い当たらなくて当然だったな。」
まさか十歳の妹の思い付きに、天がそれこそ気紛れに付き合っただけだったとは。
しかし市の言う「貸し」は理解出来た。随分と棚からぼた餅だが。信行も信長も柴田勝家も潰し損ねた市は、発想を少し変えて、信長に恩を売りに来たという訳だ。
「今回の戦で信長兄上が勝てたのは、私が勝家にちょっかいをかけたからだ」と言いたいらしい。
ずば抜けた行動力と、残念な程の無鉄砲さだ。これでは末盛城で、市は大層肩身の狭い思いをしているに違いない。いや、城を勝手に飛び出すくらいだから、案外周囲を歯牙にも掛けていないのは、市の方なのかもしれない。土田御前も信行も嫌いそうな性格だ。
かと言って信長が好む性格でもない。行動だけ見れば、少年時代の信長に似てなくもないが、これでも信長は、慎重に事を進めたい性格だと自負している。加えて割と合理的だとも思う。少なくとも市のように、感情にただ真っ直ぐな性格はしていない。この妹は突き詰めると、傲慢な程自分の心に素直なのだ。欲求に忠実だ。
ならばここは応えてやるかと、信長は思った。末盛城にいる市と繋がりを持つのは、実際悪くない。将来的には信長にも牙を向ける気かもしれないが、今のところは信行の方を見限っているようだ。ならばせいぜい、信行を蹴落としてもらえば良い。どちらにせよ今回の和睦も、そう長くは続かないだろう。信長と信行、土田御前は、いわば油と水だ。永遠に混じる事はない。
「それで?何が欲しいのだ。」
信長が諦めたように問うと、市は顔を綻ばせた。こういうところは、年相応に幼い。
「結婚相手を、自分で選ばせて欲しいのです。天には、信行兄上よりも信長兄上の方がイイ男を選んで貰えるぞって言われたから、候補だけは信長兄上から頂戴したいと思います。ですが何年掛かりになろうとも、私がよくよく考えて、その中から選びたいのでございます。」
「なぜ。」
信長が短く問うと、市はハキハキと答えた。
「はい!いずれ兄上から織田弾正忠家の家督を奪う為に!」
信長は目を輝かせる妹を見ながら、「相わかった」と答えてやった。
「ところで、」
信長が話題を変えた。
「天がどうしておるかわかるか。」
その問いに市は、ここに来て初めて悲しげな表情を浮かべると、「知りません」と首を振ったのだった。