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天下の素首  作者: 蓮見友成
11/15

十、稲生叫喚

長良川の戦いから四ヶ月。

道山からの書状が思わぬ影響をもたらしている中で、信長は弟信行の末盛衆と戦に。弟信行は戦に出ておらず、主だった敵将は二人、柴田勝家と林美作だった。

苦戦する信長軍、いよいよ信長が前線へと駆け出た時、思わぬ横槍が入るー。

 弘治二年、八月


 長良川の戦いから早四ヶ月、道山から信長に宛てた例の書状が、尾張美濃双方に思わぬ影響を及ぼしていた。

 「マムシめ…。」

 信長が、恨めしそうに岳父の異名を吐き捨てた。

 「俺が美濃を獲る余裕などない事は、あなたが一番わかっていたでしょうに…!」

 信長は苛立ちを込めて、書状を握り締めた。クシャリと、紙に皺が寄る。

 外は朝方から土砂降りの大雨であった。この調子では、四ヶ月前に道山が討ち死にした長良川も、信長が必死で逃げた木曽川も、大いに氾濫する事だろう。僅かばかりに残っていた戦いの痕跡も、綺麗さっぱり消えてしまうに違いない。

 しかしながら、道山が死に際に弄した小癪な仕掛けは、大雨でも川の氾濫でも消えやしない。ましてや件の書状を燃やして灰にしたとろこで、結果は変わらない。

 「何故あの書状が、『国譲り状』などと噂されているんだよ…。」

 そう、道山から天、森可成、そして信長へと引き渡されたこの書状、これが何故か、道山が信長に美濃を譲る旨を記した「国譲り状」だと、尾張と美濃で噂になっていたのだ。

 勿論、話の出処は信長ではない。それどころか信長は、書状の存在も内容も、誰にも教えてはいなかった。

 別に秘密にしていた訳ではない。単に他人に言う程の事が書かれていなかっただけだ。 


 『美濃を制する者は、京を制する』


 これだけだ。そんなことは昔から言われているし、特筆すべき事柄でもない。信長には、わざわざ道山がこんなものを遺言として書状に認めた意味が、初めはわからなかった。

 しかし、今ならよくわかる。信長は、道山に嵌められたのだ。仕立て上げられたと言ってもいい。信長の意思に関係なく「美濃をとらなければならない」という状況に今、追い込まれている。

 まずこの国譲り状の噂を耳にして盛り上がったのは、信長の馬廻り衆だ。「あの斎藤道山が、実の息子義龍ではなく、我らが殿に美濃を譲ると遺言したらしいぞ!」と、実によく騒いでくれたものだった。何も疑わず、馬鹿正直にその噂を信じ、信長に期待の眼差しを向ける若者達を、信長は一喝した。「順序を誤って足元を掬われてはならない」と。美濃よりも先に尾張国内の問題である。弟信行の末盛衆はいよいよ、信長の一番家老であった筈の林秀貞とその弟美作を完全に味方とした。守護代織田伊勢守も、岩倉にて信長に抵抗している。そんな中美濃に手をつけてみろー、間違いなく尾張の内から、信長は食い荒らされる。ならば美濃など、むしろ不要だ。

 しかし人の口に戸は立てられぬとは良く言ったもので、次に幾分か静かにだが騒ぎ出したのは、信長の老臣達だった。

 特に父信秀の代から仕えている者達は、あの道山の恐ろしさや頭の良さを身をもって知っている。その道山が、尾張の大うつけに美濃を譲ると書き遺した。老臣達は驚くと同時に感涙した。信長としては失礼極まりない話ではあるが、「あのうつけを見放さなかったのは正解であったか」「あのうつけに苦労して仕えてきたかいがあった」などとぬかしているらしい。

 そして気付けば尾張の人々の間で、国譲り状の話は有名になっていた。戦がない時は針売りをしている藤吉郎によれば、美濃でも同様の噂で持ち切りだそうだ。

 なにやら尾張でも美濃でも、「信長は美濃に攻め入り、義龍から国を奪う」というのは確定事項となっているらしい。義龍の兵の中には、件の書状が、信長の家臣に引き渡されたのをこの目で見ていた、と名乗り出る者も多かった。濃尾の人々は、信長と道山が数年前、正徳寺で会合した事もよく覚えていて、その時に流れた噂もまた、事態に拍車をかけていた。曰く、


 『大たわけの門前に、我が子らは馬を繋ぐことになるだろう』


 つまり道山はこの時より、信長に美濃を譲る気でいたのだと、そういう解釈がなされているのだ。

 「そこまでお膳立てされては、美濃に向かわぬ訳にはいかないではないか…。」

 信長は雨のせいか自分の置かれた状況のせいか、先から頭が痛くて堪らない。こめかみを揉みながら、苛立たしげに膝を揺する。

 家臣達の期待、民の噂、そして美濃からの敵意ー。

 それら全てを無視して、尾張に引き籠もっているのも、可能ではある。しかし信長がどれ程慎重になろうとも、恐らくは無駄だろう。この虚言に踊らされた誰かが、信長を美濃へと押しやるに決まっている。善意か悪意かは、この際関係ない。

 「氷の言っていた、『書状の中身よりも、引き渡した事実が大事』…というのは、確かにそうだったな。」

 可成が義龍軍の前で、堂々と書状を受け取ってしまっている。勿論可成に落ち度はない訳だが、義龍軍が書状の存在を認めてしまっている以上、信長に噂を否定する術はない。例え本当の書状の中身を公開したとしても、「そんなありきたりな言葉を道山がわざわざ遺言で残す訳がない」と、逆に否定されて終わりだ。

 ここまでくると、道山に弄ばれた気分になる。

 簡単な話、本当に国譲り状をくれれば良かったものを、まわりくどい事をしてまで、美濃に対してはまだやる気のない信長を、追い込んできたのだ。信長の中では、まだまだ美濃獲りは時期尚早だ。

 「噂の出処は、天達だろうな…。」

 道山が死んだ日を最後に、道山の元小姓衆の姿は見ていない。しかし問題の書状を可成に渡したのは天と影だ。義龍の兵の前でわざわざ渡したのもあの二人だ。となれば必然、この苛立たしい虚言の出処も、天達だ。

 「殿。」

 部屋の前から、声がした。前田利家である。

 信長は頭の痛みを振り落とすようにして、首を振った。今は美濃の事も、国譲り状の事も後だ。

 「今から行く。末盛衆との決着だ、万全に準備しないとな。」

 こんな大雨にも関わらず、信長は出兵の準備を進めていた。相手は弟信行を担ぎ上げる末盛衆。林兄弟と柴田勝家である。

 「はんっ、川を渡るのは…得意だ。」

 信長が皮肉を込めてそう言葉にすると、利家が木曽川でのしんがりを思い出したのか、素直に「はい!」と返事を寄越した。

 今回越えるのは、この大雨で増水するであろう庄内川である。




 帰蝶は、居室で一人、横たわっていた。

 外は朝から生憎の大雨で、日が暮れた今でも、変わらずに降り続いている。

 部屋の灯りも暫くすれば消えるだろう。侍女たちも下がらせ、帰蝶は眠りにつこうとしていた。

 今宵は信長をはじめ、部屋を訪れる者は誰もいない。なにせ皆、明日の戦で手一杯だ。信長の弟信行との戦である。

 毎度の事ながら、戦の前の晩というのは落ち着かない。帰蝶自ら戦場に出向くわけではないが、信長を見送る立場にはある。嫁いでからこのかた、信長はいつだって寡兵で戦いに挑んできた。此度もそうだろう。

 横になって目を瞑っても、眠気はやってこない。いつだったかの戦の時に、帰蝶は信長の様子が気になって、人に様子を見に行かせた事がある。それによれば信長は、戦の前の晩だろうが戦中だろうが、一人でガーガーと鼾をかいて、気持ちよさそうに寝ていると言う。それを聞いて帰蝶は、可笑しくなって笑ったものだ。

 信長は熟睡している時、鼾などかかない。死んだように静かに眠る。寝息も聞こえないので、初めの頃など、帰蝶は毎晩信長の胸に耳を押し当て、心の臓の音を確認していた程である。

 つまるところ信長が鼾をかいているというのは、寝たふりをしている良い証拠だった。皆にうつけと呼ばれているが、帰蝶は信長の頭の良さを知っている。戦の計算が出来ない男ではないのだ。自分が如何に危ない橋を押し渡ろうとしているのか、きちんと理解しているのが信長だ。どの戦でも恐らくは家臣の誰よりも、信長は危機感を持って臨んでいる。

 故に、熟睡など出来るはずもない。しかし家臣の手前、気を大きくして寝たふりをしているのだろう。妙なところで強がる男なのだ。

 しかし信長のそれを正く理解しているのは、恐らくこの世で帰蝶ただ一人である。

 帰蝶はその事に優越感を覚えながら、笑みをこぼした。いっそ眠れないのなら、この場にいない信長の事を、夜通し考えてみるのも面白そうだー。そう帰蝶が思い始めた時、ふと部屋の中から、聞き慣れない女の声がした。

 「なんじゃ、落ち込んでおるかと思うたが、存外元気そうじゃの。さすがはマムシ様の娘で、信長サマの奥方じゃ。こんな時に一人笑いとは肝が太い。」

 帰蝶はその冷ややかな声音に、背筋を凍らせた。部屋の中にいつの間にか人がいた事にも驚いたが、どことなくその声の主から敵意を感じた事も、帰蝶の肝を冷やした。肝が太いだなんてとんでもない。

 声の出ない帰蝶に、女は帰蝶の返事を諦めたのか、おいおいと呆れたような声を上げた。

 「そんなに驚いてどうする。ここで叫び声の一つも上げられないなら、あんた今儂に殺されてもしょうがないぞ?まあ儂は今晩、あんたを取って食う気はないから安心するんじゃな。」

 そこまで言って、僅かな灯りの中に、女は姿を現した。一体どこに潜んでいたのか、侍女の形をしたまだ年若い娘である。十代の半ばにも達していないのではないだろうか。

 少女が、未だ横たわったままの帰蝶を見下ろした。その睨めつけるような視線に、帰蝶は害意を感じずにはいられない。

 しかし少女は宣言通り、敵意の無いことを両手を挙げて示すと、そのままドンと床に腰を下ろした。

 距離の近くなった少女の顔を見て、帰蝶はようやく声を絞り出した。

 「あなたもしかして…、天?」

 帰蝶の間の抜けた声に、天と呼ばれた少女は眉間に皺を寄せた。

 「なんじゃ帰蝶サマぁ、もうボケだしたんか?」

 帰蝶は知らない話だが、その言葉はかつて、天が信長と再会した時に言ったものと同じであった。 

 帰蝶はジロジロと、思わず天を凝視した。帰蝶の記憶に残る天はもっと幼く、なにより男装していたのだが、今の天は髪型も着物も侍女のそれだ。つまり女に対して変な言い方にはなるが、女装している。もとより整った顔立ちではあったが、少し歳を重ねた事で、色香が増したようだ。形だけ見れば、惚れる男も多いかもしれない。

 しかし天の残念なところは、女の形をしていても滲み出る、その不遜さだった。少しばかりその雰囲気は、機嫌の悪い時の信長に似ているかもしれない。

 天は何も言わない帰蝶の前で、着物の裾が割れるのも構わずに胡座をかくと、膝に片肘を置いて頬杖をついた。行儀の悪さも信長と良い勝負だ。

 帰蝶はここで、何事につけても物事を信長と比べて考えてしまう自分に気付いて、なんだか可笑しな気分になった。気が抜けた帰蝶は、くすくすと笑い声を上げながら、ようやく上半身を起こした。

 突然楽しげに笑い出した帰蝶に、天が気味が悪いと言いたげに顔を顰めた。その表情もまた、帰蝶の笑いを誘う。

 「それで?私が落ち込んでいるつもりだったと、あなたそう言っていたかしら。なぜ?お父上がお亡くなりになったから?それとも殿が、弟君と戦になるから?」

 すっかり恐怖心の失くなった帰蝶が、天に問い掛けた。天は恐らく、前言通り帰蝶を害する気はない。敵意のある声と表情しか出せないのは、天の性なのだろう。

 天は帰蝶の問いに、気を取り直すようにして、大仰に首を振ってみせた。

 「いんや、戦なんぞに、あんたが心を砕くとは思えんからなァ。それよりもあれよ、生駒の吉乃って女の事さ。信長サマが通うておるのじゃろ?」

 天の声に、意地の悪さが滲み出た。どうやらすぐにケロリとして見せた帰蝶を、気に食わなかったようだ。天は頬杖をついたまま、帰蝶の目を掬い上げるように見つめた。

 しかし帰蝶は、その話題に動じる事も無かった。むしろ拍子抜けした程だ。

 「なんだ、そんな話だったの。そうねえ、仕方のない事じゃないかしら。だって私は、子供を産めないもの。」

 そう言って帰蝶が、腹の辺りを擦ってみせた。しかしその声音に、残念さは微塵もない。

 「それに殿は、吉乃に情を抱く事はないでしょう。なにせ殿は、私に惚れ込んでいるのだから。」

 そして自信満々に言い切った帰蝶に、天が何を思ったのか、姿勢を正した。とは言っても、ただ頬杖を止めて背筋を伸ばしただけであるが。

 「さすがはマムシ様の娘よ。からかって…すまなかったな。」

 そう言って天が、気まずそうに頭を掻いた。思わぬ天の謝罪に、帰蝶が目を丸くしていると、居心地が悪くなったのか、天が早口で捲し立てた。

 「そうじゃ。詫びとは言わんが、良い話があるぞ!信長サマはな、生駒屋敷に出向く時、いつも泣きそうな、随分と情けない顔をしておるそうじゃ。そんで屋敷から帰る時は、この世の終わりみたいな暗い顔をして出てくるらしい。ははっ、愉快じゃなァ。あの信長サマのそんな面、目の前にしたら笑えるだけ笑ってやるのに。」

 そしてケタケタと、天が笑い出した。帰蝶はその笑いには加わらず、ただ静かに天を見ていた。

 やがて、ひとしきり笑い終えた天が、つまらなそうに首を傾げた。

 「なんじゃ帰蝶サマ。面白くなかったかァ?あんたを放って他の女のところに出向く男の情けない姿じゃ。吉乃がどんな女か気になるところではあるが、信長サマは生駒屋敷でさして楽しんでいる訳ではないらしい。いい気味じゃとは思わんか?」

 天の問いに、今度は帰蝶が笑い転げた。

 「ふふっ、あなたって本当におもしろいわね。けれど殿のそのお顔に、吉乃は関係ないでしょうよ。そりゃそうよ。吉乃は頭は良いけど、とても大人しい娘だと聞いているわ。そんな女が、あの殿の話し相手になる筈もない。喜ばせる事も落ち込ませる事も出来やしないわ。ふふっ、殿はね、私を想って顔色を変えているのよ。どう足掻いても殿に子供は必要なのだから、私を気にせず吉乃と寝れば良いのに、それが心底嫌なのね。私に嫌われないか心配で堪らないのよ、殿は。」

 「…大層な自信じゃなあ。それで本当に子が出来てみろ、あんたの正室の立場はどうなる?吉乃はともかく、生駒の人間があんたを排そうとするんじゃないか。」

 天が最早呆れたように重ねて問うと、帰蝶は「あら」と言って小首を傾げた。

 「知らなかったの?吉乃はもう妊娠しているわよ。」

 はぁ?と天が顔を顰めた。非常に嫌そうな顔だ。

 「実は殿、吉乃を抱いたのは最初の一回だけらしいのね。それから三月もの間、吉乃に会いに行ってなかったの。それなのに生駒屋敷から、吉乃が妊娠したらしいって報せがきてね。殿ったら、それは慌てふためいて、真っ先に私のところに来たわ。吉乃のところではなくてね。私から言ったくらいよ、『吉乃を城に迎えた方がよろしいのでは』って。そしたら何を思ったのか殿ったら…すぐに不貞寝したわ、その日一日中ね。いつまで経っても子供みたいで、笑ってしまうわ。」

 「うわあ…そこまで帰蝶サマにお膳立てされても、吉乃は生駒屋敷のまま…。じゃあ最近信長サマが生駒屋敷に出入りしながら情けない面してるのは、」

 「そうよ、まさか一回きりの逢瀬で子供ができると思ってなくて、だけど生駒家とも色々話し合わなきゃいけないでしょ。あっちは全力でもてなしてくるけど、殿は気乗りしていないから、ああなってるの。結局吉乃が城にくる事も無さそうだわ。」

 帰蝶が事も無げにそう言うと、天が肩を竦めた。

 「帰蝶サマの圧勝じゃな。おめでとさん。」

 「あらありがとう。」

 帰蝶が冗談めかして礼を言うと、天が何かに気付いたようにはっと目を見開いた。

 「よう見るとあんた、やっぱり節々で似ておるなあ、マムシ様に。」

 そう言った天が、一瞬だったが、優しげな表情を浮かべた。それに驚いたのは帰蝶だ。天の顔はすぐにいつもの不機嫌そうなものに戻るが、部屋に来た頃の剣呑さはもうすっかり感じられない。

 「マムシ様からの、言伝じゃ。」

 突然、天が言った。

 「くれぐれもあんたに伝えるようにと、マムシ様が死ぬ前に、儂に命じられた。じゃが思ったよりここに忍び込むのに手間取っての、遅くなった事は許せ。」

 天はじっと帰蝶の目を見つめてきた。まるで値踏みするような視線だ。

 「長生きするように、と。そう申しておったぞ。あんたにはその意味が…わかるじゃろう?」

 天の言葉に、帰蝶は苦笑いを浮かべる。

 「あなたは…知っていたのね。」

 帰蝶の謎掛けのような言葉に、天はああと頷いた。

 「マムシ様から一通りは聞いておる。随分な賭けよな。そしてマムシと呼ばれた男にしては、心底くだらん。が、嫌いではない。」

 天の返答に、帰蝶はそうねと頷くと、懐かしげに言った。

 「父上は、兄弟達の誰よりもきっと、私を愛しんで下さっていたわ。それも多分、義龍兄上は気に食わなかったのでしょうね。」

 「じゃろうな。義龍の劣等感もまあ、出処がない訳ではない。」

 天の言葉を最後に、暫く沈黙が続いた。聞こえるのは、雨音だけだ。

 雷鳴。また一層、雨が激しさを増す。

 さてとと、天が立ち上がった。

 「これ以上降られては堪らんな。そろそろ儂は行くぞ。」

 さっさと背を向けた天に、帰蝶が静かに問い掛けた。

 「…あなたは、殿と私の味方をしてくれるのかしら。」

 帰蝶の問いに、天は振り返らずに答えた。

 「儂はこの世への復讐の為に、動く。が、未だに誰の首を叩き斬れば良いのか、決め兼ねておってな。天下人の首と一概に言っても…この乱世では、上の首なぞすぐにすげ代わる。一つとれば済む話ではないのだと、最近になって気付いたのじゃ。だから誰ぞ、圧倒的な力で天下を纏め上げる者が出てくれれば…とは思うておる。」

 部屋の灯りが揺れ始めた。もう直に、灯りが消える。

 「それは殿に期待していると?」

 恐らくこれが、最後の問いになるだろう。

 帰蝶が黙って答えを待っていると、天が背を向けたまま、否定するように手を振って見せた。

 「あれにその気はないじゃろ?」

 天の言葉を最後に、部屋の灯りが消えた。

 真っ暗な部屋の中、帰蝶は目を凝らした。勿論、何も見えない。なので目を閉じて、耳を澄ました。

 いつまで経っても、部屋の障子戸が開く音も、床板や天井板が動かされる音もしない。ただ雨音が聞こえるだけだ。

 帰蝶はそのまま、横になった。もう恐らく、部屋の中に天はいない。

 「殿、どうかご武運を、お祈り申し上げております…。」

 それだけ呟いて、帰蝶はいよいよ眠ってしまった。




 さて、昨日の土砂降りが信じられない程の快晴の空の下、信長は増水した庄内川を半ば無理矢理渡り切ると、稲生村の近くに布陣した。

 末盛衆は、まさか信長が大雨の翌日に渡河してくるとは思わなかったらしい。明らかに動きが遅かった。どうやら東から柴田勝家の兵が千、南から林美作の兵が七百、迫ってはきているそうだ。そう報告したのは、前々から末盛衆の動きを探らせていた藤吉郎だった。開戦間際まで情報収集に努め、今しがた信長と合流したところであった。

 「それでこちらは七百と。いやあ、此度もまた、殿のお味方は少ない事ですな。」

 藤吉郎の話を聞きながら、のんびりと感想を述べたのが森可成だった。嫌味にも聞こえる台詞だが、可成が言うと、不思議と悪意を感じない。

 信長は可成の言を無視すると、藤吉郎に目を向けた。

 「それで、信行はやはり出てきてはおらぬのだな。」

 「へえ、柴田の軍にも林の軍にも、信行様の姿はございません。」

 藤吉郎の答えに、信長は一言、「呆れた」と呟き、青空を仰いだ。

 織田弾正忠家の雌雄を決する戦だと、信長は今回そう考えているのだが、信行自身はどういう訳か、末盛城に籠もっているらしい。勝家と美作に言い含められたか、或いは本人が戦に出たがらなかったのか、そこのところ事情はわからないが、信長には理解し難い話である。

 戦で「他人任せ」ほど、恐ろしいものもない。 

 なにせ命が懸かっているのだ。たとえ実際に戦場にいなかったとしても、大将である以上それは変わらない。自軍が負ければ自分の首がとぶ。それを他人任せにして城に引き籠もっているなど、信長には考えれない事であった。

 つまりだ、信長は自分の命を、誰かに預ける事が出来ない。

 それは信長の美点でもあるが、同時に欠点でもあった。家臣に大事を任せる事が出来ない、故に家臣を大いに褒める事も出来ないのである。なにせ極端に言えば、信長の家臣は手持ち無沙汰な訳だ。評価される程の仕事を、信長に与えられていない。有事だろうが無かろうが、仕事内容も仕事量もさして変わらない。戦支度があるか無いかくらいの違いだ。有事の際は信長一人が忙しなく頭を動かし、そして忙しなく働く。たまに藤吉郎のような変わり者が現れて、勝手に気を利かせて、実に良い働きぶりを見せる時もあるが、あれは例外中の例外だ。

 信長が仕事を与えないとはつまり、家臣達にとっては、信長に信用していないと言われているようなものである。それで臍を曲げ、あまつさえ苦言諫言を呈し、離叛する者達が、信長は大嫌いだった。

 なのでそこで不貞腐れない者達を、信長は少しばかり重用する傾向がある。森可成はこれ幸いと暇を楽しむ図太さがあるし、前田利家は根本的に仕事がない事に気付いていない困り者だが、信長に不信感を抱く事はないし、毛利新介は働き回る信長に代わり、当然の如く若者達の纏め役に納まってくれた。この三人と藤吉郎は、良い。

 信長としては、家臣が信用出来ないというよりは、自分の腕の方を信用しているというだけの話であり、実際に腕が良いのは事実だ。四人は、その事実を正直に認めているから、信長の逆鱗に触れる事が少ない。だからこそ信長も、彼らが意見を述べれば、それなりに耳を傾ける。信長の采配を信じて尚、言いたい事があるという事だからだ。この四人になら少しだけー、大事を任せても良い。他の者ではまだ駄目だ。

 逆に信行は、そこらへんがうまかった。家臣達に気前よく仕事を振る。進言があれば一先ず頷いておく。結果が出ればよく褒める。それも上から目線ではなく、心の底から凄いと感心して見せるのだ。まるで親の気を惹くために、いつまで経っても物分かりの悪い振りをする子供みたいだと、信行をそう思った事がある。

 つまるところ、信行は他人によく可愛がられてきたし、恐らくはそれを好んでいる。

 そうなってくると次は、自分で自分を可愛がるようになる。結果、この稲生に自ら軍を率いてくる事がなかったのだ。なにせ信行は、自身と家臣の好意に守られている。二人の実母土田御前もまた、信行ばかりを寵愛していた。

 「さて、」

 信長は空を仰ぐのを止めると、視線を下ろした。可成や藤吉郎の顔よりもずっと下、地面である。

 昨日の雨のせいで、まだ酷く泥濘んでいた。稲生は田園地帯だ。すぐに乾く事はない。

 「まさに泥沼の戦いになりそうだな。」


 日が空のちょうど真上まで昇った頃、信長軍と末盛衆は衝突、激しい足軽合戦が始まった。信長軍は寡兵を更に二分し、柴田勝家と林美作の両軍を同時に相手取る事となり、勿論、信長軍が苦戦を強いられる事となる。

 特に柴田勝家は、自ら前線へと赴き、信長の兵を存分に蹴散らした。それを見た信長が、本陣から飛び出した。前線へと躍り出たのだ。

 信長と勝家の視線がかち合う。それと同時に、周りの兵達がさっと二人の間からいなくなった。二人の一騎打ちの為に、場所をあけたのだ。

 大声を上げれば、互いに十分に聞こえる距離だ。

 勝家が、大きく息を吸い込んだのが、信長にもわかった。久方振りに、勝家の声を聞く事になるのだろう。信長は、勝家の腹によく響く声が、実は嫌いではなかった。

 馬を止める。必要はないが、わざわざ耳を澄ましてみた。

 しかし勝家の声は、いつまで経っても聞こえてこない。

 ふと、勝家の体が後ろに仰け反った。その巨体が、馬から転げ落ちる。

 信長含め周りの者達が、唖然として静まり返った。

 すると、むくりと何かが地面から起き上がるような影が見えた。しかしそれは、勝家の上体や足ではないらしい。

 明らかに勝家より、いやこの場にいる誰よりも小柄な何者かが、泥濘んだ地面に仰向けになって転がる勝家の胴に、馬乗りになっていた。後ろ姿しか見えなかったそれが、わざとらしく信長を振り返った。

 真っ黒な髪や薄汚れた着物とは違い、明るい色の顔面は、信長からもよく見えた。その口が、自慢気にニヤリと笑みを浮かべている事も、その挑発的な目が、誰でもない信長に向けられている事も。

 再度顔が見えなくなった。しかしチラチラと、日の光を反射しているものは、見えた。

 刃だ。そして信長の見た顔に間違いがなければ、それは両刃の鎧通しで、逆手に握られているのだろう。勝家の喉を刺そうとしてか、僅かに刃が振り上げられる。

 「やめろ!!」

 思わぬ程の大きな声が、信長の口から飛び出した。

 取り返しが付かぬ事になると、信長の勘が告げている。パッと思い浮かんだのは、何故か昔の事だった。家督を継いで間もなくの頃の赤塚の合戦、その時に出てきた首無し死体、その首を狩った餓鬼ー。

 「やめろ!!その者は織田家に今後必要となる男だ!勝手に殺す事は赦さんぞ…天!!」

 何を叫んでいるのだろうと、信長自身も思ったが、その割に思考は冷静だった。

 信長の脳裏にあった事は、二つ。

 一つは、勝家という歴戦の武将をここで死なせる事による、織田家の損失。今更ながら信長の頭は、その損失を計算し、甚大だと判断した。

 そしてもう一つは、信長と勝家との間に横槍を入れた者について。あれは天だ。斎藤道山が死んだ日から会うことはなかったが、それがよりにもよって今日、目の前に現れた。それも勝家の首を狙っているらしい。しかしおかしい。もうあれは、道山の手駒ではない。故に天はもう、織田家とも信長とも関係ない筈だ。あれの大逸れた復讐に、勝家も織田弾正忠家の行末も、関係ない。

 

 ー 気紛れか、それとも…


 「他の誰かの…差金か。」


 信長の背を、冷や汗が伝う。

 そして気付けば信長は、勝家を殺すなと叫んでいた。


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