表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天下の素首  作者: 蓮見友成
10/15

九、木曽川、恐れを抱く

長良川の戦いで、岳父斎藤道山は死んだ。

撤退を始めた信長軍、信長率いる本隊は、しんがりを信長自身が務めながら、木曽川を渡り始める。

一方、本隊と分かれてしまった森可成隊も、木曽川「清水溜まり」に退路を見出すがー。

 信長の軍勢は、義龍軍に追われながらも、なんとか木曽川に辿り着き、荷駄も兵も纏めて舟に載せて川を渡り始めていた。

 そしてほとんどの舟が今、川の半ばに差し掛かっている。

 しかしそんな中で一艘だけ、途中から逃げる事を忘れたかのように動きを止め、ただ浮かんで揺れているだけの舟があった。いや、正確に言えば、川には勿論流れがある訳だから、流されないよう、敢えてその場に留まっている舟、である。河原で二の足を踏んでいる義龍軍からでも様子がはっきりと見えるほど近くで、所在無さげに揺蕩っている。

 そしてその舟の上で仁王立ちする男の姿も、義龍軍にはしっかりと見えていた。

 信長である。舟には信長の他にも四人が乗っていた。

 明らかにしんがりとして、義龍軍の程近くに舟を浮かべている信長に、義龍軍は困惑気味にざわめいていた。他を逃しても肝心の信長が討たれれば元も子もないのだから、狂気の沙汰である。

 道山の首と一緒に、大うつけの婿の首まで手に入るのであれば、義龍軍としては万々歳だ。

 信長とて自棄になっている訳ではないのだろうが、それにしては微妙なところに舟を浮かべていた。

 勿論、義龍軍の槍が届く範囲にはいない。それよりも遥かに遠い水の上だ。しかしながら鉄砲の玉どころか、矢も十分に届く距離にいる。 

 そして義龍軍を更に困惑させたのは、信長の横に彼同様仁王立ちしている少年が突然、義龍軍に向かって声を張り上げた事だった。

 「さあさあ、義龍軍の皆様、寄ってらっしゃい見てらっしゃい!今回の的はなんと!那須与一も驚愕、総大将、織田信長の御首だ!さあさあ、狙える者はよーく狙え!一攫千金も夢じゃあないぞ。撃てるものなら撃ってみよ!」

 まるで市の商人が品を売り捌く時の口上だ。そんな場違いな大声が、木曽川に響き渡った。

 


 信長は自身の隣でそう言い放った氷をちらと横目で見ながら、呆れながらも口を開いた。

 「俺は扇子か、それとも美女か?」

 そんな信長の皮肉に、氷はいやいやと愉しげに首を振った。

 「扇子も美女も不要不要!信長様の首があれば、的としては十分っすよ。」

 それはそうだろうなと、信長は鼻で笑った。いや、最早笑わなければやってられない気分である。

 「それで?こんな中途半端なところで舟を止めて、俺に撃たれろと?」

 先から河原では、義龍軍が無粋にも鉄砲の用意をしていた。どうやら義龍軍の中には、那須与一に倣って弓矢を使おうという粋な者よりも、目新しく破壊力もある鉄砲を使って、信長の体を粉砕しようと考える者の方が多いようだ。

 「ま、そうなりますかねえ。義龍軍としても丁度良いんじゃないっすか?戦に鉄砲を導入する事に対して、不信感を抱いているご年輩方も多いですし、まあ、お試しって事で。」

 「お試しで撃たれたら俺は堪らないが。」

 信長がそう顔を顰めるも、氷は意にも介さない。

 「まあまあ。いつぞやの続きっすよ。運試し。村木城攻めの時だって、大嵐の中、無事に海を渡りきったじゃないっすか〜。今回も多分大丈夫っしょ!」

 そう言いながら氷は、先から彼の足元でしゃがんでいる前田利家と毛利新介に視線を落とした。二人共、信長がしんがりをするならばと、勇よく残ったものの、突如氷が始めた「扇の的もどき」ごっこに、今や何か言いたげにしながらも、戸惑いの表情を浮かべるばかりだ。

 しかもこの二人、舟に乗り込む際に、氷から何故か、「川の水で濡らした夜着」を一枚、託されていた。大きな着物に綿を厚く入れたもので、夜着と名の付く通り、夜寝るときに体に掛けて寝るものだ。かなり値が張る。

 そもそも一体どこから、そんな夜着が出てきたのか。氷に問えば、「信長様達が来るまで、河原で夜着被って仮眠してたっす!」ときた。恐らくは道山から、譲ってもらいでもしたのだろう。しかし信長も利家も新介も、恐ろしくて詳しくは尋ねなかった。勝手に頂戴したなどと言われては困る。

 しかし何やら、その夜着がしんがりに役立つらしい。

 氷は「ほらほら」と急かすようにして利家と新介に声を掛ける。二人は氷に促されるまま、水を含んだその夜着を、信長の前に広げて掲げた。まるで信長の首から下を隠すようにして掲げられたそれの後ろに、利家と新介もまた、身を縮こませて隠れた。

 夜着を持ち上げる二人の腕は、その重さに耐え兼ねてか小刻みに震えている。

 氷もまた、信長の真後ろに下がると、屈んだ。その更に後ろには、先から一言も話していないが、蒼が控えていた。手には何故か、鉄砲を持っている。

 舟の上の『布陣』は、これで完成だ。

 この場にいても奇妙極まりないのだ。河原の義龍軍からすれば、余計に訳の解らない動きだろう。

 あちらから見れば、舟の上に突如、大きな布が広げられ、その後ろに信長含め五人の人間が隠れているという図だ。そして何故か一番の貴人である信長の頭は、布からはみ出しているときた。

 信長にとっても、全く意味が解らない状況である。

 鉄砲で撃たれれば、信長達はひとたまりもないだろう。その貫通力や破壊力は、信長自身がよく分かっている。欠点と言えば連続して撃てない点と、命中精度が低い点だが、義龍軍の鉄砲隊はそこそこ数がいるようだ。

 当たる。確実に何発かは、信長含め舟の上の人間に当たる。

 頼みの綱は氷の夜着だけ。しかし硬い鎧ではないのだ。挙げ句に夜着を広げて掲げている事で、こちらからより大きな的を差し出している状態だ。信長の体一つを狙うよりも、大きな布を狙う方が、狙撃側としては撃ちやすい。そして夜着に当たれば高確率で、その後ろに隠れている信長達にも鉛玉は届く。

 「さーて、首をお借りしますよ信長様!マムシ様を裏切った連中を、散々に馬鹿にしてやりましょう。さあ、撃たれてください!」

 愉しげな氷の声と鉄砲の轟音が聞こえたのが、同時だった。水を含んだ夜着に、衝撃が走る。

 利家と新介が、ビクリと体を竦めた時ー、


 信長が、仰向けに倒れた。



 おぉぉ…!!

 義龍軍は、舟の上で倒れた信長に、徐々にざわめくような歓声を上げた。

 夜着の上から出ていた信長の首は、すっかり見えなくなっている。夜着は未だ掲げられたままだったが、鉄砲に撃たれた衝撃で、それが確かに揺れたのを、義龍軍は河原から見ていた。そして消えた信長の首とくれば、間違いなく信長は、夜着を貫通した鉛玉に当たって倒れたのだ。

 盛り上がる義龍軍とは反対に、舟の上は静まり返っていた。人の動く気配もない。

 河原の最前線にいた義龍軍の鉄砲隊は、いよいよ構えを解くと、周りの仲間達と顔を見合わせ、破顔した。道山の首だけではない、なんと信長の首までとれるかもしれないのだ。

 「舟を用意しろ!確認に行くぞ。信長の家臣共は恐らく生きている。万が一にも取り逃がすな!義龍様の御前に、うつけの首を差し出せ!」

 馬上の将が大音声で告げた。おお!と周囲の兵が威勢よく応えるも、それに被せるようにして、パァンッと突然、乾いた音が鳴り響いた。

 義龍軍が、どこからか聞こえてきた鉄砲の音に、静まり返る。

 すると馬上にいた将が、ズルリと地面に転げ落ちた。

 義龍軍から、困惑したどよめきが起こる。将は撃たれて、絶命していた。

 それと同時に、河原にいた鉄砲隊が悲鳴を上げた。

 「信長じゃ!信長じゃ…!」

 皆一様に、同じ名を叫ぶ。

 木曽川に浮かぶ一艘の舟。それがいつの間にか、義龍軍のいる河原に近付いてきていた。その上で広げて掲げれた夜着と、そこから覗く、一度は視界から消えていた筈の、信長の首。

 「化け物じゃ…あの男、死んでおるのに、立っておる…。」

 誰かが、震える声でそう呟いた。

 夜着からはみ出している信長の首は、先までとは違い苦悶の表情を浮かべていた。痛ましげに歪んだ信長の顔の筋肉は、そのままピタリと固まっており、そのクセ目だけは虚ろで、どこを見ているのか判らない。信長の半開きになった口からは、ダラダラと血が流れ出ていた。

 狩りたての生首と同じ表情だ。首化粧をされていない、まさに生の生首といったところだろうか。 

 あれで信長が生きていると言われても、とてもでないが信じられない。被弾して痛みに顔を歪めて死んだ、まさにそんな顔だ。現に一度は、倒れた筈だ。信長の首が夜着の上から消えたを、皆見ている。

 しかし、信長は再び立っていた。いや、夜着に隠れて体は見えないが、しかし首が先までの位置に戻っている。

 まるで生気を感じられない信長の首に、義龍軍は狼狽えた。

 「ひぃっ…!化け物の仕業じゃ。あれが人である訳がない。」

 「きっと道山入道の祟りじゃ…。あの男に取り憑いて、こちらに鉄砲を撃ったのじゃ。」

 「怨霊が憑いておるのだ…祟られる…!」

 義龍軍の兵達は、信長の面妖な様に、すっかり震え上がってしまった。皆腰が抜けて、多くが尻餅をついた。その間も、信長の顔はピクリとも動かない。ただ舟だけが、河原に吸い寄せられるようにして、どんどんと近付いてくる。

 「撃て、撃つのじゃ!この距離ならば小細工など通じん!急げ、急げー!」

 鉄砲隊の組頭が、慌てたように喚いた。その声に反応出来た兵はたったの四人。薬込みを済ませると、鉄砲を構えた。

 「一斉に、放て!」

 轟音が、辺りに響き渡った。舟の上で掲げられた夜着に、間違いなく鉄砲の玉は全て当たった。衝撃なのか、それとも夜着を持ち上げている家臣達が撃たれたのか、今回は夜着ごと、信長の首が見えなくなる。纏めて後ろに倒れたのだ。

 さすがにどう考えても、誰かには当たった筈だ。

 しかし義龍軍からは、歓声が上がらなかった。皆息を殺して、一切の物音がしない舟の上を注視している。

 やがて舟が、岸に辿り着いた。

 義龍軍は、誰一人として、舟に近寄れなかった。

 それもその筈、生きている者の気配の感じられない舟ではあるが、だとすれば変なのだ。舟を漕ぐ者も倒れたのであれば、舟は下流に流される筈だ。真っ直ぐに川を突き進み、義龍軍の元に辿り着く訳がない。

 「やっぱり何か憑いてるんだ…。」

 誰かの一言で、義龍軍の兵は皆震え上がり、全体が数歩下がった。川から遠ざかる。

 それを見計らったようにして、舟の上に人影が現れた。

 すっくと立ち上がったのは、またしても信長である。その体を守る具足は、すっかりと血で汚れていた。明らかに無事ではない。その顔は先までと同じく気味の悪い生首のようで、しかし胴とはしっかりと繋がっている。

 ふらりと、信長の体が揺れる。まるで生気の感じられない奇妙なふらつき方である。

 「取り憑かれておる、やはり道山様の怨霊じゃ…。」

 ガタガタと義龍軍から音が鳴る。体の震えで、兵の具足同士が当たっているのだ。

 すっかりと怯えきってしまった義龍の兵達は、これから更に心の臓を冷やす事となる。

 更にもう四人、舟の上に人影が現れたのだ。利家、新介、氷に蒼の四人である。

 四人が四人とも派手に血塗れになっており、信長同様、義龍軍には彼らが被弾しているように思えた。死人が立ち上がったようにしか見えない。

 しかしこの四人が信長と違ったところは、その手にそれぞれ、鉄砲を握っていた点である。

 今まで虚ろで焦点の合っていなかった信長の目が、カッと見開かれた。

 「化け物だの怨霊だのと…阿呆共めが。…おい、真に恐れるべきものが何かを、こ奴らにとくと教えてやれ!」

 信長の怒声と共に、氷達は近くにいた義龍の兵らに銃口を向ける。

 「義龍が恐れるべきは、この織田上総介信長ただ一人だ!この場を生き延びた者は…、よくよく義龍に言って聞かせるのだな。…放てぇ!」

 信長の合図と共に、鉄砲の轟音が再度響き渡った。

 今回逃げ惑ったのは、勿論義龍の兵達だ。




 「あー、愉快痛快愉しかったー!義龍の兵達の驚いた顔見たっすか?傑作でしたね!怯んで逃げ惑って情けないったらありゃしない。あー、けどせっかくなら義龍本人を馬鹿にしてやりたかったなあ。ま、あれは今頃道山様の首実検でもしてるんでしょうけど、ね。」

 木曽川を渡り終えた信長達は、先に逃げていた信長軍に、大歓声で迎えられていた。

 勝ち戦でもなし、目的であった道山の救援も叶わず、全く良いところのない、むしろちゃんとした戦にまで漕ぎ着ける事も出来なかった出兵であったが、信長軍の雰囲気はそれほど悪くはなかった。

 全ては先の、命懸けの茶番のおかげである。

 しんがりを名乗り出たのは信長自身だ。しかしそのしんがりが、氷の言葉を借りれば面白可笑しくー、なったのは、全て氷のせいだった。

 

 信長さーまの、首ぃをちょーだいっ!

 

 何を思ったのかそう信長に願い出た氷は、道山を討った義龍軍を、せいぜい虚仮にしてやりたかったらしい。

 「いやあ、化け物とか物の怪とか怨霊とか、人って好きじゃないっすか〜。そーゆーの利用してみたら、どのくらいの反応があるのかなあって、いつかやってみたかったんっすよ。いやあ、想像以上想像以上。」

 満足気に頷く氷を尻目に、信長は苦り切った表情を浮かべていた。

 「想像以上は氷、お前の肝の太さよ…。しんがりをするとは言ったが、まさか敵の元に出向いて鉄砲ぶっ放す事になるとは思わなかったぞ。」

 信長の言葉に答えたのは、苦笑いを浮かべた新介である。

 「まったくです…。挙げ句氷に『この夜着で鉄砲の玉は防げるんで、大丈夫っすよ!』って言われた時は、いっそこいつを川に突き落としてやろうかと思いましたけどね。」

 新介の口調は、普段よりも随分と親しげだったが、信長は咎めなかった。動揺の表れなのだろう。信長も未だに心の臓がバクバクと鳴っているので、他人のことは言えない。

 「けど実際、鉄砲の玉は一つも貫通しませんでしたね殿!鎧だって鉄砲で撃たれたらひとたまりもないのに…。世の中不思議です!」

 そして興奮冷めやらぬと言わんばかりに、ホクホクと信長に話し掛けてきたのは利家だった。他の家臣達にしんがりを無事果たした事を褒められて、その顔はまさに喜色満面といったところだ。

 「確かになあ。」

 信長は思い出しながらそう呟いた。川の水で濡らしたただの夜着一枚で、信長の体はしっかりと守られていたのだ。

 「そう考えると、俺の頭がふっ飛ばされていないのは、運が良かっただけだよなあ。」

 氷は、水を含んだ夜着で、鉄砲の玉が防げると自信があったのだ。氷も蒼も、夜着の後ろにしっかりと隠れていたのが良い証だ。しかし信長の首だけは、夜着から飛び出ていた。氷はどうやら、信長の首を敵に見せる事で、後々信長に死んだふりをさせたかったらしいが、今思えばとんだ博打に巻き込まれていたものだ。

 「それにしてもまさか、ここまで汚されるとは思っていませんでしたね…。」

 新介がそう言って、肩を竦めた。その視線は彼自身の具足や着物に注がれている。それらには血がべっとりと固まり付いていて、恐らくは洗ってももう落ちないだろう。

 まるで死地を潜り抜けてきたような血生臭い格好を、新介同様、信長も利家もしている。先に逃げていた家臣達も、信長達のそんな格好を見て、怪我をしたのかと酷く慌てていたが、しんがりを務めた割に、三人には傷一つなかった。

 ではこの血は一体何なのか。答えはまだ舟の中に転がっていた。

 「氷さん、この兎どうしますか?」

 そう言って舟の近くから氷に呼びかけたのは蒼だった。蒼が指差す先には、矢の刺さった兎が一羽、転がっている。

 氷が逃げる途中で、どこからか射てきた兎である。

 その血を使って、信長達は、あたかも鉄砲に撃たれたかのような演出をして見せたのだ。少々派手過ぎるくらいに。

 「んー、俺あんまし兎の肉好きじゃないんだよねえ。あっ、そうだ、信長様にあげよっと!」

 氷の言葉に、信長はすぐさま「要らん!」と怒鳴り返す。

 そんな信長に構わずに、兎を蒼から受け取った氷が、嬉々として信長の元に戻ってきた。

 「それにしても、信長様の顔も凄かったっすよねえ。最初に撃たれた時に、信長様倒れたフリして、夜着の後ろに完全に隠れたじゃないっすかぁ。その後まさか、『生首とはこんなものだったか』って言いながら見せてきた顔、ホント凄まじかったっすよ!俺思わず吹き出しそうになりましたもん。」

 氷の言葉に、後ろから追い付いてきた蒼も、「確かに」と頷いた。

 「まさか氷さんの茶番に、あれだけ応えて下さるとは思いませんでした。だってどうやったらあんな苦悶の表情で固まれるのか…ふはっ、目はどこ向いてるのかわかりませんでしたし、ぶくくっ…!思い出したら笑えてきました…すみ、ません、ふふっ、」

 蒼が珍しく、表情を崩した。目尻に涙をためて、笑いを堪えている様に、信長もつられてふっと口元を緩めた。

 そんな信長の様子に、唖然とした表情を浮かべたのは利家と新介だった。

 「殿が笑ってる…。」

 そして馬鹿正直に言葉にしたのは利家である。

 利家の発言に、信長はさっさと笑みを引っ込めると、代わりにあの「生首顔」をつくってやった。まだ口元の血は乾いて残っていたので、より「生首」らしく仕上がっている筈だ。

 予想外の信長の行動に、まずは蒼が吹き出した。年相応に笑う蒼の姿を、信長は初めて見た気がする。

 次いで氷と利家が笑いに陥落すると、ずっと我慢していたであろう新介も笑みをこぼした。信長の周りで、笑い声が弾けた。

 今回の戦で何も得たものはない。むしろ失ったものばかりだ。強力な後ろ盾であった道山は死に、兵も失った。森可成も負傷していると聞く。挙げ句に手薄になった清洲には、岩倉の伊勢守が攻め入ろうとしているらしい。

 「最悪だな。最悪だがしかし、いっそ清々しい程だ。」

 信長もひとしきり笑うと、よし!と気合いの声を上げた。

 「まさに周りは敵だらけだが、もうそれで良い。認めてしまえば存外、気楽なものよ。」

 信長はそう言うと、声を張り上げた。

 「これより急ぎ、岩倉へと向かう!俺の留守を狙う小心者共に、目にものを見せてやれ!」

 おう!と元気よく応えたのは、信長の馬廻衆だ。今にも駆け出しそうな血気盛んな若者達に、信長軍の士気は申し分ない。負け戦の後とはとても思えない程だ。

 信長はついで、氷と蒼に目を向けた。

 「お前らはこれからどうするのだ。岳父殿は死んだ。行くあてはなかろう。」

 信長の言葉に、氷がニカッと笑顔を見せた。

 「なーに言ってんすか信長様!俺らの帰るところは、天のいるところだけっすよ。それにまあ、マムシ様にも色々言われてるんで。残念ながらまだまだやる事が山積…って、あぁぁっ!うっわ、完全に忘れてた!どーしよぉぉ!…っ痛って、」

 突然氷が、さっと顔色を青くさせて叫び声を上げた。

 耳を壊しそうな程の絶叫に、信長はすぐさま、氷の頭に拳骨を落として黙らせる。

 氷が黙ったのは一瞬だけで、すぐさま早口で捲し立て出した。

 「ワスレテタワスレテタ、完っ全に忘れてた!うわあ、どうしよ!?えっ、信長様信長様、天から書状もらったりしてないっすよね?」

 氷があわあわと信長に問い掛けるも、信長に思い当たりはない。首を振って見せると、氷は膝から崩れ落ちた。既に兎の死体は、地面に落下している。

 氷の慌てぶりに、さすがの信長も不審に思って蒼の方を見ると、こちらもまた顔色が悪い。

 それでも氷よりは話が出来そうなので、信長が「蒼、」と呼び掛けると、蒼が普段通りの歯切れの悪い返事を寄越した。

 「はあ、いや、それが…。道山様から、信長様宛の書状を預かっていたのですが、俺達も結構、道山様の死に動揺していたと言いますか…はい、すっかり書状の事を忘れていて、しかも今書状持ってるのが天さんなんですよね…。」

 蒼の説明に、信長は色々と衝撃を受けたのだが、「天が持っている」と聞いた瞬間、何故か諦めという言葉が思い浮かんだ。

 「そういうなんというか…大事な外交の道具というかなあ、そういうのを天に持たせるのは、人選誤りだろうが…!」

 信長が唸るようにそう言うと、地面に膝をついていた氷が、うんうんと他人事のように頷いたので、信長は取り敢えずもう一つ、氷の頭に拳骨を落とした。

 それで、と信長が問い掛ける。

 「書状の内容は知らないのか。」

 それに氷と蒼は顔を見合わせると、交互に口を開いた。

 「大事なのは書状の中身じゃなくって、書状を渡したって事実なんっすよ!」

 「だからこそ義龍の兵の前で、見せつけるようにして受け渡しをしなくてはならなかったんですが…。」

 「これはもう、天にうまくやってもらわないと。」

 「…。」

 「ちょ、黙らないでよ蒼!俺まで不安になってきた。うわあ、天の事だから…書状の事なんて忘れて暴れまわってそう。うん、容易に想像が出来る。」

 そこまで言って氷は立ち上がると、爪先立ちになり背伸びをして、ポンッと信長の両肩に手を置いた。

 「まああれっす…。テンヲシンジテマチマショウ。」

 氷の目は頑なに、信長の目を見ようとはしなかった。

 

 

 


 信長が木曽川の上でしんがりをしていた頃、別の所で義龍軍の相手をしていた森可成の隊もまた、木曽川を目指して撤退を始めていた。

 「いざ、清水溜まりまで…走れ!」

 しかし目指しているのは信長のいるところではなく、木曽川の「清水溜まり」と呼ばれる場所である。

 「しかし本当に、清水溜まりを渡れるのか?」

 可成が珍しく、戸惑いの表情を浮かべていた。足を負傷している可成は今、隊の後方で影に引き摺られるようにして走っている。

 「ああ、もともとマムシ様を逃がすつもりで用意していた退路じゃ!抜かりはない。あとは逃げる奴らの心持ち次第よ。」

 可成の後ろでそう大声で答えたのは、刀を握った天であった。

 天の右手には、逆手で抜かれた鎧通し、全身が両刃になったそれは、既に血で汚れていた。

 「可成!そんな心配するより、もっと早く走れ!儂に一体どれだけ斬らせるつもりじゃ。もうとっくに、病で世話になった分の恩は返したぐらいは斬り捨てておるぞ。」

 可成の護衛としての天の働きぶりは、実に見事なものであった。可成の背に手の届きそうになる敵を、とにかく順繰りに斬っていく。敵兵の股下に滑り込み、内腿を刃で撫でる。かと思えば低い姿勢から飛び上がり、槍を振り上げた敵の脇を斬り上げる。

 天自身、その小さな体が非力である事を解っている戦い方だった。的確に大量出血を引き起こす急所を狙い、反撃される前に敵を戦闘不能に追いやっていた。そのため、天の鎧通しが敵の槍を受け止める事はほとんど無い。元々薄くつくられている鎧通しの刃で敵の攻撃を受ければ、非力な天にはひとたまりもないだろう。

 天の鎧通しが両刃になっている事も、天の非力さを補っていた。天は鎧通しを振るう時、続けて二度腕を動かす。一度押し切った刃を、すかさず引き戻すのだ。敵兵を二度間無しに斬り付けている事になり、敵の傷は深くなる。

 「しかしなあ、清水溜まりと言えば、美濃のここらの地域では、軽く『神域』扱いだぞ。清水溜まりに纏わる伝承なんて、子供の頃から聞き飽きる程に聞かされて育つからのう。あそこを渡るなど畏れ多くて、誰も舟を出してはくれまい。」

 可成が天の怒声など気にせず、そうのんびりと言い返した。

 そもそも「清水溜まり」とは、木曽川の一部を、美濃と尾張の人間がそう呼んでいるものだ。「溜まり」と言っても、水溜まりのようなものではない。あくまで川の一部であるので、水は勿論下流へと流れている。

 しかし清水溜まりの内では、その流れが非常に遅いのだ。まるで水が停滞し、その場に溜まっているかのように見える。

 何故そのような事になるのかと言うと、それは清水溜まりの両岸の形によるものだった。それぞれが丸く婉曲しているのである。恐らく上空から見れば、清水溜まりと呼ばれる箇所は、まるで「川のただ中に突如現れた池」に見えるに違いない。大きくて真ん丸な水溜りにも見えるだろうか。とにかくだ、川の面積がぐっと広がりを見せるのだ。

 そのため、川の流れが非常に遅くなる。そこが木曽川であると知らない他所者が見れば、本当に池か湖に勘違いするかもしれない。よくよく目を凝らさらなければ、誰も水の流れに気付かないだろう。それで「溜まり」と呼ばれている。

 そして次に「清水」だが、これは字面通り、「きれいな水」という意味だ。木曽川を流れる水なのだから、この清水溜まりの水だけが水質が違うという事はない。

 清水の由来には、ある昔話が絡んでいた。

 昔から木曽川というのは、よく氾濫する川であった。どれ程昔の話なのか、最早誰も知る由もないが、とある年の氾濫は、類を見ない程酷いもので、木曽川は溢れるだけに留まらず、その水が酷く澱んだそうだ。茶色どころか、どす黒く水が染まったらしい。

 その異様さに、人々は神々の怒りだと、恐れ慄いたそうだ。川が濁ってすぐに神様の怒りだと言うあたり、当時の人々には何か後ろ暗い事でもあったのかもしれない。

 家屋は水に浸り、田畑は駄目になった。飲水さえ綺麗なものが手に入らずに、木曽川沿いの村々はどこも途方に暮れた。

 しかしそこに、不思議な噂が聞こえてくる。

 木曽川の一部で、ある日突然、両岸が湾曲に広がったのだという。まるで凄まじい勢いで流れてくる川の水を受け入れるかのように広がったそこでは、川が氾濫する事が無かったそうだ。周囲の人々が一安心して川に近付くと、更に驚く事があったと言う。なんとそこの水だけが、少しも濁る事なく、キラキラと澄んで輝いていたらしい。まさに清水と呼ぶに相応しく、近隣の村人達はそこの綺麗な水で喉の乾きを癒やすと、大急ぎで遠い村々にもこの事を伝えに行ったという。こうして話が広がると、木曽川沿いの村々から多くの人々が駆け付けるようになり、皆ありがたがって水を汲んで帰った。

 そしていつの間にかそこは、「清水溜まり」と呼ばれるようになる。

 暫くして氾濫が収まると、人々はその清水溜まりの河原に、小さな鳥居を立てた。まるで神社のように扱われ始めた清水溜まりに、手を合わせる者は後を絶たず、そのうちに清水溜まりを巡って、禁忌のようなものが出来上がる。清水溜まりから水を汲んではならない、清水溜まりを渡ってはならない、果てには清水溜まりの水に触れてはならないー。

 人々はいつの間にか、清水溜まりを神域のように畏れるようになっていた。

 「馬鹿らしい。」

 天が吐き捨てた。

 「川は川じゃし、水は水じゃ。清水溜まりだけ渡れない意味が、儂には少しも理解出来ん。」

 「ふふっ、天らしいや。だけど神仏や信仰って言うのは、時に人を席巻するんだよ、天。現にこの場にいるほとんどの兵はきっと、何かしらを信仰していると思うよ。」

 天の苛立たしげな声に答えたのは、可成に肩を貸している影だった。藤吉郎はこの場にはいない。

 「…私だってそうだから。」

 そして続けられた影の一言は、とても小さな声で、天には届かなかったが、側にいた可成の耳にはしっかりと聞こえていた。

 可成もまた、小声で影に問い掛ける。

 「お前にとっての神とは、天か。」 

 「ええ、可成様。」

 影がうっとりと微笑みながら答えた。

 「この世を憎んで恨んで仕方がない…そんな神サマがいても良いでしょう?」

 影が嬉しそうに、可成に問い掛ける。

 「極楽浄土に行けるとかよく言いますけど、正直そんなことどうでも良いんです。というかなんで皆、死んだ後に幸せになれれば良いなんて、それで納得してるのかが、私には甚だ疑問。生きてる内に幸せにならなきゃ、だったらなんでわざわざ生まれてきたんだって話じゃないと思いません?」

 影の言葉に、可成はうむと考え込む。脳裏に浮かぶのは、一向宗を熱心に信仰する妻のえいだった。えいならば影の問いに、すぐに答える事が出来るだろうか。

 「天は過去に色々あってまあ…呆れた事にというか、この世の中に対して腹を立てるという、ちょっと面白い事をしています。この世を統べる者の首を叩き落とすと、馬鹿みたいな事まで言って…。誰の首が具体的に欲しいのかは、天もまだ決め兼ねているようですが、馬鹿らしいと思いながらも私は、天のそんな生き方を信仰しているんですよ。憎い腹立たしい恨めしい…そして決して消える事のない激しい怒り。天は決して、この世での復讐を諦めない。ただ救いを祈って経を唱え、時がくるのを待つだけじゃない。自分の手で気の済むまで、この世で復讐をし続ける、それが天です。」

 影がそう言った丁度その時、真後ろで人の呻く声が聞こえた。可成がハッと振り返ると、そこには、こちらに槍を振り下ろそうとしている兵がいて、しかしその動きはピタリと止まっていた。そのうち兵の手から、ポロッと槍だけが地面に落下する。

 その兵の首元には、刃が深々と刺さっており、口からは呻き声と共に、血が流れ出ていた。

 「随分と血生臭い神様もいたものだな。」

 「そこが良いんですよ。現実味があるでしょう。」

 可成と影がそう言ったところで、兵の首元から勢いよく刃が抜かれた。その薄い刃は血で汚れ、既に切れ味が悪そうに見える。

 ドサリと兵が地に崩れ落ちると、その背後にいた者の姿が現れた。勿論、鎧通しを逆手に握った天である。

 「…そろそろお猿が清水溜まりに着く頃じゃろう。儂らも急ぐぞ。」

 戦場で人を斬り、気が昂っているのか天が頬を上気させながらそう言うと、それを見た影がぞくりと背を震わせた。そして恍惚とした表情で一つ天に頷き返すと、可成と共に走り出す。

 そんな影の顔をちらと見ながら、可成はそれ以上、信仰について話しをしようとは思わなかった。

 話を本題に戻す。

 「…ともかくだな、清水溜まりを渡るのは至難の業だぞ。そりゃ渡れるのなら、それに越した事はない。後を追ってくる義龍軍からは、確実に逃げられるだろう。なにせあっちの足軽達は、畏れて多くて、清水溜まりには足を踏み入れたがらないだろうからのう…。しかしそれは、儂らを乗せる舟を出す連中にも言えることだ。ここらの川並衆に頼もうって言ってもなあ…。暗黙の了解ってやつよ、清水溜まりに舟は浮かべまい。」

 可成がそう言って、わざとらしく首を傾げて見せる。その様は言外に、しかし方法があるのだなと、影と天に問うていた。

 それに影が、得意げに答えた。

 「確かに、私達が頼んだくらいでは無理でしょうが、話は既に押し通してあるのですよ、可成様。元はと言えば、道山様を逃がす為に手回ししていましたから。それ相応のお人に、川並衆を動かすようお頼み申し上げました。」

 「…相応のお人、とな。」

 可成が影の言葉を繰り返すと、影がにこりと笑って答えた。

 「ええ、蜂須賀小六様でございます。」

 「…蜂須賀?」

 「ええ、そこそこの出の方なので、可成様も名前くらいは聞いたことがございますでしょう?まあ、あの方は最後まで道山様にお仕えしておりましたから、今頃死体になっているかもしれませんが。」

 影の言葉に、いつの間にか並走していた天が、「いんや」と首を振った。

 「小六はなかなか強かな男じゃからなあ、マムシ様が討ち取られた後は、きっとうまく逃げおおせておるじゃろ。強情ではあるが、柔軟でもある。儂らみたいなみすぼらしい餓鬼の話も、利があると踏めばしっかり聞いてくれるしな…。見どころのある男よ、マムシ様も気に入っておった。」

 ほう、と可成が興味深げに相槌をうった。天が目上の者を褒めるのは珍しい。

 「それで、その小六殿と川並衆がどう繋がるのだ。」

 可成が問い掛けると、それには影が答えた。

 「天の言うように、小六様は勘定に長けた方でございますし、自分の利になりそうな事への嗅覚と言いますか…並外れたものがあります。小六様は道山様に仕え始めるずっと以前から、この木曽川を使って商いをしている川並衆から、その利益の一分を巻き上げていたようで。」

 「…穏便な話ではないな。」

 「ふふっ、ええまあ。川並衆と言っても、いくつかの集団に分かれております。根っからの商人である集団もありますし、野武士の荒らくれ集団もございます。小六様が利を頂戴していたのは、この野武士から成る川並衆だそうです。小六様の腕っぷしの強さもあるかもしれませんが、あの方はなかなかに口も巧いですからねえ。なにやら小六様、良い仕官先が見つかれば、そこらの川並衆を自分が全て取り立ててやると言って、その前金として彼らの稼いだ銭を取り上げているそうですよ。」

 「穏便でない上に横暴ではないか。」

 可成が呆れたようにそう言うも、その声には笑いが滲み出ていた。

 「気に入って頂けましたか?」

 影が可笑しそうに問うと、可成がああと頷いた。

 「殿の好きそうな男だ。生きておればそのうち、殿の元に流れ着くやもしれんな。…それは兎も角、その小六殿が、子飼いの川並衆に、清水溜まりをいざの時は渡れと、そう命じておるのだな?斎藤道山殿を逃がす為に。」

 「その通りでございます。まあ、乗せるものは変わってしまいましたが、良いでしょう。小六様への言い訳は、後からどうとでも。しかし川並衆が素直に織田の兵を乗せてくれるかどうか、そこだけが問題なんですよねえ。小六様の川並衆もまた、小六様に似て、食えぬ信仰よりも、食べ物になる利益を取る集団ですから。斎藤道山ほどの大物に手を貸すのであれば、相応の褒美がもらえると、河原の鳥居を倒す勢いで舟を出してくれるでしょうが…。」

 そこで影が、ふと天に視線を向けた。背後から追いすがってくる兵をまた一人斬り伏せた天が、影の視線に答えるように、鼻で笑った。

 「はんっ、信仰も銭も、確かに人を動かす道具ではあるが、そんなもの放り出しても人を動かすものがあろうが。」

 天が、嘲笑した。

 「恐怖、じゃ。神仏に対する畏れとは違う。命そのものを危険に晒された時の恐怖、そん時の痛みや苦しみ…、人はそれから逃れる為なら、コロッと立場を変える事もある。不甲斐ない事にのう。」

 「恐怖、か。わかる。」

 そんな天の言葉に、可成があっさりと頷いた。それに眉を顰めたのは、当の天だった。

 「なーにが、わかる、じゃ。可成、お前に怖いものなぞあったのか?信長サマに怒鳴られても、いつだってふざけたように平然としておるではないか。今だってそうだ、逃げておるのに悠々としおってからに。」

 天が不機嫌そうに言うと、可成がはてと首を傾げた。

 「なるほどそう言われれば…改めて考えてみると、恐怖という程の事でもないのか。なるほどなるほど、つまりあれだな!儂はどんな状況に立たされても、殿の事は裏切れんという訳だ。なにせコロッと立場を変える程の恐怖を知らん!うんうん、さすがは儂だ。」

 そしてカカと大笑いし出した可成に、天が呆れたように溜息をついた。 

 「…あんたの思考に、儂は恐れ慄きそうじゃよ。」

 場違いな可成の笑い声は、天が「うるさい」とキレるまで、景気よく続いた。



 一方、天達と分かれて行動していた藤吉郎はというと、既に清水溜まりに到着していた。

 藤吉郎と同時に、多くの可成隊の兵らも集まってきているのだが、誰一人として清水溜まりを渡っている者はいなかった。

 影が懸念していた通りの事態が発生していたのだ。

 

 天め…言っていた事と違うではないか…!


 藤吉郎は先から、川並衆の頭領だという男と交渉を続けているのだが、彼はなかなか、舟に可成隊を乗せる事を承諾しなかった。

 「あぁん!?俺らは小六様に、斎藤道山を逃がすから手を貸せって言われてたんだ。それを何が悲しくて織田の兵なんぞ乗せなきゃならねえんだ?」

 「ですから、申しておるでしょう!その蜂須賀小六様の遣いの者から、そう伝えよとあっしは言われてここに参ったのでございます。時間がありません。どうか、お頼み申し上げます!」

 ずっとこの押し問答である。川並衆が舟を出し渋っているのだ。

 「それに大体てめえらな、この清水溜まりを渡る度胸はあるのか。見てみな、明らかに皆、気乗りしている顔じゃあねえよ。」

 川並衆の頭領が、そう嘲るように言って、可成隊を指さした。

 これには藤吉郎も、閉口せざるをえなかった。

 可成隊の中にも、勿論、清水溜まりの成り立ちを知っている者がいる。そこが神聖なものであり、今では指一本でさえ触れてはならないと、そう畏れられている事も知っているのだ。神への不敬に、後々祟りを恐れる者も多い。

 それに藤吉郎は思うに、元より人間は、そういう場所に踏み入ってはならないと、本能的に察する生き物なのだ。別に無神論者であったとしても、それは不思議と変わらない。 

 つまるところ可成隊は、例えどうぞとお膳立てされても、清水溜まりを畏れて渡れない。

 「…参りましたな。」

 藤吉郎はボリボリと頭を掻いた。義龍の兵に本当に襲いかかられるまで、可成の兵も川並衆も、こうやって実にのんびりと構え続けるつもりなのだろう。今の様を「のんびり」などと形容したと知れれば、この場にいる皆の怒りを買いそうではあるが、なんてことはない、それが事実だと、藤吉郎は思っている。

 人が信仰に縋る根底にあるものは恐らく、「死後の恐怖」である。それは藤吉郎にも理解出来る。死んで見知らぬ場所に招かれるのは確かに怖い。しかしそこが極楽浄土だと保証されているのなら、幾分気はマシだというものだ。手軽なもので言えば、信仰心さえあればそれが保証されるのだから、身分問わずに信仰が流行るのも頷ける。何も厳しい修行が必要な訳ではない。

 そう考えながら眼前の清水溜まりを見てみると、藤吉郎としては心底馬鹿らしい気分になる。

 これも信仰とやらの断片だ。ここを穢せば何か悪い事が起こると、皆がなんとなく畏れている。極楽浄土行きを取り消される程の悪行だと。

 「…追い立ててやらねばならんな。死後の恐怖よりも、今死ぬ事の恐怖が勝るように、追い立ててやらねば、皆舟には乗らんだろう。」

 しかしそれは、それこそ義龍軍がここに辿り着けさえすれば、すぐに叶う話ではある。河原に追い詰められれば、もはや進む先は川しかない。そこまですれば、さすがの可成隊も川並衆も、清水溜まりを渡るだろう。

 しかし当然だが、それでは間に合わない。可成隊は壊滅だ。

 そこでふと、藤吉郎は誰かにジッと見られているような居心地の悪さを感じて、辺りを見回した。

 すぐにその者が目に入る。天の仲間である火種だ。村木城攻めのおりに、藤吉郎は火種と面識があった。

 火種は少し離れた草むらの中に伏せていた。草は大人の膝くらいまで伸びているので、火種をうまく隠していた。藤吉郎が気付けたのは、火種がわざとらしく藤吉郎に視線を向けていたからだ。

 火種は、伏せたまま鉄砲を構えていた。藤吉郎が気付いた事に気付くと、それを見計らっていたのか、僅かに口角を上げると、引き金を引く。

 パァンッという乾いた音が、河原によく響いた。

 可成隊の兵も川並衆も、皆が静まり返った。

 間髪入れずにもう一発、発砲音が響き渡る。二発連続して鉄砲を撃つのは、火種の技だ。

 川並衆の男が一人と、可成隊の足軽が一人、パタリとその場で倒れた。彼らは、鉄砲に撃たれて絶命していた。

 藤吉郎は、河原の空気が変わった事に気が付いた。

 先までの畏れとは違う。本物の恐怖が、河原に満ちている。

 「頭領!早く舟を出されよ!この場に留まれば、皆撃たれて死にまするぞ。」

 静まり返った清水溜まりで、藤吉郎ただ一人が、叫び声を上げた。その切迫した声は、この場にいる全員の恐怖を煽るのに十分だった。

 それに追いうちをかけるように、再度鉄砲の轟音が響き渡る。無差別に放たれる鉛玉は、またしても川並衆と可成隊の兵を、一人ずつ撃ち殺した。

 「くそっ、てめら!舟を出せ!織田の兵どもも一緒だ。こうなりゃ信長に恩をきせてやる。清水溜まりさえ渡っちまえば、誰も追っては来れねえ。行くぞ!」

 川並衆の頭領が、いよいよ重い腰を上げた。

 藤吉郎は続々と清水溜まりを渡り始めた舟を見ながら、安堵の溜息をついた。この場で安心している者など、藤吉郎一人くらいだろう。

 いつの間にか、火種の姿は消えていた。勿論、鉄砲の音もしない。

 「義龍軍と乱戦になるよりも、よっぽど良かった。撃たれた者達には申し訳ござらんが…多を救ったな。」

 火種は恐らく、立ち往生に頭を悩ませていた藤吉郎に、手助けをしてくれたのだろう。確かに天も、いざの時は火種が清水溜まりにいる筈だから頼れとは言っていた。

 「…それにしても恐ろしい。」

 今回彼らは藤吉郎の味方だった。だから撃たれなかった。織田の兵も藤吉郎も逃げられる。


 運が、良かっただけだ。


 藤吉郎は今頃になって、身震いを覚えた。



 さて、それから程なくして、天、影、可成の三人も、清水溜まりへと辿り着いた。待ちわびていた藤吉郎は、可成と共に舟に乗り込んだ。しかし天と影は、乗らないと言う。

 「殿も今一度お前達の顔を見たいであろう。共に来ればよいではないか。儂の奥も息子も、お前達が訪ねてくれるのであれば喜ぶぞ。」

 そう可成が言うも、天はきっぱりと首を振った。

 「別に儂らは、信長サマとも可成とも、仲良しこよしをする気はない。今まではたまたま縁があっただけじゃ。マムシ様亡き今、余計に関わる必要もない。」

 可成が残念そうに、「ではどうするのだ」と問うと、天がふっと笑みをこぼした。

 「決まっておる。気の済むまで義龍の兵を斬る。それから先の事は知らん。とにかく今は腹立たしいのじゃ…マムシ様を殺した連中がな。この世に復讐する前に、まずはマムシ様の仇討ちよ。…ほら、そろそろ義龍軍が立て直してくる。はよ行け。」

 先から義龍軍は、どこからともなく撃ち込まれる鉄砲に、混乱して足踏みをしていた。火種の仕業である。

 「そうか、仕方ないか。」

 可成はそう言うと、大きな笑顔と共に、手を振った。

 「またな、天。」

 可成と藤吉郎の乗った舟が、清水溜まりを渡っていく。

 しつこく繰り返される、可成の「またなー!」という声を背後に、天は影と共に義龍軍と対峙した。

 義龍の兵達は、信長軍が清水溜まりを渡っている事に、動揺の色を隠せないようだった。

 河原がざわめく中、ふと天が、懐に手を入れて、しまったと顔を顰めた。

 「影どうしよ、道山様から信長サマ宛の書状、入れっぱなしだった!」

 天の声はわざとらしい程に大きい。義龍の兵にもしっかりと聞こえる大音声だ。その声を合図にしたように、鉄砲の発砲音は止んでいた。

 「えっ、もう天ってば何してるの!道山様から信長様への大事な大事な書状じゃないのさ。渡せなかったら大変だよ!」

 不自然な程に丁寧に、書状の情報を大声で繰り返した影に、天はニヤリと笑うと首を傾げた。

 「どうしよっか。」

 「ふふっ、任せてよ!」

 それに影が楽しげに答える。

 影は河原に落ちていた弓と矢を拾うと、矢に天から渡された紙を結び付けた。それを弓と共に構えると、清水溜まりの舟に向かって放った。

 寸分違わずその矢は、可成と藤吉郎の乗る舟に刺さる。

 「これで大丈夫!道山様からの書状は、森可成様を通して織田信長様に渡されるでしょう、めでたしめでたし!」

 まるで義龍の兵達にしっかりと聞かせたいと言わんばかりに、そう影は大声で叫ぶと、すぐに声量を落として続けた。

 「んんっ…さて、とりあえずはこれで良いかな。」

 叫び過ぎて喉がおかしくなったのか、影が咳払いをしながらそう言うと、天が「ああ」と頷いた。

 「マムシ様が死んだ事以外は上々じゃ。あとはこの間抜け面共を斬り捨ててしまえばよい。」

 もう舟は残っていない。天達は河原に追い詰められた状況だ。

 「さてと、」

 天がそう言って、鎧通しを握り直した。そして一歩前に出る。しかし隣から「ごめん!」という叫び声が聞こえたかと思うと、天の体は大きく傾いた。それと同時に、天は物凄い勢いで腕を引っ張られ、強制的に走らされた。

 「おい、影!」

 河原沿いを全速力で走る影の手が、天の左手首を力強く握っている。影が天を連れて、義龍軍の前から逃げ出したのだ。

 後方からはまた、鉄砲の轟音が響き始めた。火種が一人だけ残り、隠れて義龍軍を撃ちまくっているのだろう。その混乱のせいなのか、はたまた清水溜まりを逃げる可成隊の方が気になるのか、なんにせよ義龍軍からは、誰一人として追手はやって来なかった。

 それなのに、天がどれ程声を荒らげても、影は足を止めようとしなかった。

 「私の神様は、はぁ、生身の、人間、なんだよ。はぁ、こんなところで、間違っても、死なれちゃ、困、る、」

 息を切らしながらも、影の喉から言葉が絞り出された。

 しかしあまりに小さなその呟きが、天の耳に届く事はなく、やがて彼らは完全に戦線離脱したー。

 



 信長は、岩倉城下を焼き払うと、岩倉の軍勢とかち合わないよう注意しながら、清洲城へと帰還した。

 信長を出迎えたのは、帰蝶だった。さっそくと人払いをする。

 「お父上は、お亡くなりになりましたか。」

 帰蝶が全てを見通したように言うので、信長は言葉を飾る気も隠す気も起きずに答えた。

 「ああ。格好つけて城を出たくせに、岳父殿の軍を見る事もなく、ただ義龍軍に美濃を追い返されてきた。情けないだろ。」

 信長は別に、道山の後ろ盾が失くなる事を恐れて、兵を挙げた訳ではない。まして道山の婿として義を尽くそうなどと考えていた訳でもない。

 すべては、帰蝶の為だった。

 帰蝶が道山を死なせたくないと言った。だから、挙兵した。信長は帰蝶に弱い。惚れた弱みというものだ。

 「…幻滅したか。」

 信長が弱々しくそう問うと、帰蝶はまさかと首を振って、ぽつりとこぼした。

 「それは私が問うべき事でございます、殿。…私に、幻滅はしないのですか?」

 「…!俺が帰蝶に幻滅する事など、一つもある訳がない!」

 帰蝶の言葉を、信長がすぐさま否定した。

 家臣達が見れば驚くであろう程に、信長は哀しげな顔をしていた。まるで捨てられる前の子犬のようなその表情に、帰蝶は心を痛めながらも静かに尋ねた。

 「これ程までに殿に愛されておりながら、未だに子の産めない私を、許して下さいますか。同盟相手であった父上も亡くなりました。私に価値は、あるのでしょうか。」

 帰蝶の言葉を聞いた瞬間、信長が弾けるように立ち上がり、帰蝶を抱き締めた。

 「当然だ。むしろ子など要らぬ。例え我が子であってもだ…誰か俺以外の者に、帰蝶の情が移ってしまうのが、俺は何よりも怖い。俺は帰蝶という女に、恋しているのだから。お願いだ、岳父殿も救えぬ俺だが、見捨てないでくれ…!」

 まるで縋るような信長の言葉に、帰蝶は微笑んだ。慈愛に満ちた表情で、信長の背を撫でる。

 「一体どこからそんなお考えが飛び出すのか…、私から殿の元を離れるなどありえませぬ。しかしお父上が亡くなり、私も些か不安になっていたようです…気弱な事を申しました。殿にそこまで想うてもらって、私は今とても、幸せでございますよ。…だから泣かないで、殿。」




 みっともなく帰蝶の腕の中で泣いてしまった信長は、目を赤く腫らしたまま、無事帰還した可成と対面していた。

 可成はしげしげと信長の顔を眺めると、「ほうほう」と納得したように頷いた。

 「濃姫様に、嫌われましたかな。」

 「馬鹿を言え。そのような事は万に一つも起こらぬわ。」

 先まで散々不安がっていた自分の事は棚に上げて、信長は可成を睨んだ。

 ここで他の家臣であれば、信長の不機嫌さに思わず頭を下げるところであるが、可成はどこまでものんびりと構えている。

 むしろ楽しげにさえ見える顔で、信長を眺めている可成を急かすようにして、信長は床を手でバシバシと叩いた。

 「それで、疲れておるだろうから報告は明日でよいと伝えた筈だが、火急の用か。」

 信長の苛立たちに気付いているのかいないのか、可成がそうでしたと思い出したように膝を叩いた。

 「矢文をもらいましてな。斎藤道山殿から、殿宛てにだそうですぞ。いやはや、亡くなられて尚、粋な事をされる。」

 そう言って可成が差し出したのは、結ばれた紙切れだった。恐らく矢からそのまま引き抜いてきたのだろう。開封された様子はない。

 「氷達の言っていた書状か…?」

 信長がさっそくと紙を開くと、そこにはたった一言だけ書かれていた。


 『美濃を制する者は、京を制する。』


 小ぶりのクセのある文字だった。恐らく道山の直筆だろう。裏を見ても表を見ても、書かれているのはこの言葉だけだ。

 「美濃、か。まるで夢物語だ。」

 道山は信長に、美濃を獲れとでも言うのだろうか。確かに土地は豊かで、交通の要所でもあり、京にも近い。魅力的な地ではあるが、信長の目は正直にいって尾張の外には向いていない。尾張国内でもいざこざが絶えないのだ。それも誰も彼もが信長を蹴落とそうとしてくる。

 大体道山らしくない。もし信長に美濃をとらせたいのであれば、「お前が美濃をとれ。」くらいは書いてのけそうな男である。そもそも道山は、信長にそんな余裕も余力もないことは知っている筈だ。目下の問題は尾張国内の勢力争いである。

 そこでふと信長が思い出したのは、氷の言葉だった。

 「大事なのは中身ではなく、書状を渡したという事実…確かに氷は、そう言っていた。」

 信長は、可成に問い掛けた。

 「矢文と言っておったが、この時他に、なにかおかしな事はなかったか?矢を射たのは天か?」

 信長の問いに、可成が顎に手を当てて考え込む。

 「おかしな事でございますか…?矢を射たのは天ではなく影でしたが…ああ、そう言えばあの二人、やけに大声で騒いでおりましたなあ。それこそ、この書状が斎藤道山殿から殿に宛てたものだと儂が知ったのも、あの二人がそう騒いでいたからでして。近くにいた義龍の兵らにも、聞こえていたでしょうなあ。」

 可成の答えに、信長はそうかと短く返したきり、黙り込んだ。

 考える。道山は何がしたかったのか、何が言いたかったのかー。この書状の内容だけでは、意味がわからない。

 しかしあの斎藤道山だ。なにか仕掛けがある。 


 大事なのは、書状を渡したというその事実…


 「やめだやめだ。」

 信長は暫くすると、匙を投げた。

 「疲れた疲れた。飯にしよう!可成、お前も食っていけ。」

 それはありがたい、そう喜ぶ可成を見ながら、信長は道山からの書状を懐にしまい込んだ。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ