後日譚 エミリア奮闘記 後篇 2/3
「母親です」
皆の視線がデボラに集まった。
「デボラさん、あなたは、マルコには別の道に進んでほしいんですね?」
デボラは取り乱さず、言う。
「大したものね。お嬢ちゃんだと思って、安心してたのに」
(エクソシストがこんな年の娘だと知って喜んでいたのは、そのためだったんだ)
デボラはゆっくりと語り始めた。
「この工房は、夫の夢なのよ……私もそれを支えたつもり。ふたり一緒に、死ぬまでの伴侶として、愛し合っていくんだと思っていたわ。でも夫は、工房ができて、子どもひとり作ったら、それきり。私の方は見向きもせず、バイオリン一筋よ……それ、いいかしら?」
デボラがエミリアに向かって手を差し出した。エミリアは、持っていたバイオリンを手渡した。
デボラはバイオリンを撫でながら言う。
「夫はほんとうに、バイオリンに向き合うことしかできない人。でもそれなら、それでいいと思っていたわ……アントニオにバイオリン作りを強要するまでは、ね」
デボラがやっと夫を見た。
浩平は、ただうなだれている。
デボラが続ける。
「息子にはいろんな遊びを通して、たくさんのことを吸収してほしかったのに、夫は物心ついたときからバイオリンばかりを触らせていたわ。アントニオがバイオリンを嫌いになったら、彼には見向きもしないで、次は養子縁組み」
デボラはマルコに向かって言う。
「勘違いしないで。あなたに罪はないの。身寄りがない小さな子どもがバイオリンを見て目を輝かせているのよ?養子縁組みの話を夫がしたときは、大賛成したわ」
デボラは数歩、ゆっくり歩きながら言う。
「マルコにバイオリンづくりの才能があったかどうかは、私にはわからない。でも、才能があったら、別の若い女を弟子に取ることもしなかったのかしら」
デボラは、エマの方を見なかった。
「夫が外からとった弟子は、後にも先にも、エマひとりきり。しかもそれが住み込みだなんて、ね……嫌になるわ」
浩平が何か言おうとしたが、デボラは構わず続けた。
「だからね、マルコが本当にバイオリン作りを仕事にするのなら、それは構わないの。だけどそのために、この工房はいらないわ。この工房は、昔は夫と私の夢だった。でも今は、夫が周りに撒き散らしている呪縛よ」
デボラが工房を見つめている。そしてその視線をエミリアに戻した。
「あの呪術師……気の利いたものを置いていってくれたわ。このナイフでバイオリンを傷つけると、籠められた呪いが解き放たれるそうよ」
言い終わると同時に、デボラがナイフをバイオリンに向けて振りかざした。
エミリアは聴くことに集中していた自分を責めた。
いつの間にか、デボラの手には小刀が握られていた。
(バイオリンに籠められた呪いは……物理的な破壊力を持ってる!それがここで一気に解き放たれたら……工房ごと吹き飛ばされちゃう!)
止めに入ろうとするが、ここからでは間に合わない。
ドッ
ナイフが深く刺さる音だ。
だが、木製の楽器にではない。肉だ。
ナイフはアンナの右の手のひらによって阻まれ、バイオリンには届いていなかった。
デボラは呆然としながら、ナイフが刺さった場所と、アンナの顔を交互に見た。
アンナは自分の手からナイフの刃を抜き、そしてデボラの手からナイフを引き剥がし、ゆっくりとデボラを抱き締めた。
「デボラさん……」
アンナが優しくささやく。
「あなたはとても立派な女性よ……夫を支え、ふたりの息子を支え、この家庭を支えている……とても大きな仕事だわ」
デボラの肩が震えている。
「だからね、今日からは、あなたはあなたのことを支えてあげて。今まで凛として立って、周りを和ませてきて、少し疲れたあなた自身を支えてあげて」
デボラが膝をつき、顔を手で覆った。
嗚咽が、風に混じる。
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マルコとアントニオが、デボラを支えて、家の中に入っていった。
アンナがデボラに囁いていた。
「どう?息子に支えてもらうのも、悪くないでしょ?」
エミリアは3人の後ろ姿を見送って、地に落ちたバイオリンを拾った。
エマと浩平は、先ほどから同じ場所に立っているが、エミリアもアンナも、話しかける気になれない。
エミリアが弾かれたように気づいた。
「お母様!手当て!」
慌てて白いハンカチを取り出し、母親の手のひらに巻いた。
「ありがとう、エミリア……さてと、これ、どうする?」
「……ここで呪いを祓ってもいいんだけど、デボラさんが言ってた呪術師っていうのも、気になるの」
「そうね、あんまり、放っておいていいものじゃないかもね」
「うん、だから、法王庁に届けて、調べてもらおうかと思うの。呪術の波動から、術者がわかるかもしれない」
「術者が知りたけりゃ、調べることないぜ」
男の声はすぐ近くから聞こえた。
エミリアもアンナも、慌ててそちらを見る。