第1話 プライド 1/2
-土曜日 8時40分
-ハイツ・ハイライト205
「ふぅ」
男は事も無げに息をつく。
(やばい、吐きそう)
目の前の男が、まったく同じ見た目の小さな男を、食べた。
「びっくりしました?」
「するだろ普通!」
「やっとわかってくれたみたいですね、ご主人」
**********
-その12時間前 金曜日 20時40分
-居酒屋『穴太郎』
大学時代に同じサークルにいた森山が向かいの席で言った。
「お前さ、そのくだらないプライド捨てた方がいいよ」
鳥の唐揚げを口に運ぶ手を止めて言った彼の表情に、責めるような深刻さはないが、からかうような不快さもなかった。
(わかってるよ、心底俺のことを心配してくれているんだ、こいつは)
俺の愚痴―入社したばかりの後輩の女が『畑中さん、イベントの全体進行、早く共有に上げてもらえます? それがないと会場との調整できないんですけど』などとこちらの業務進捗に口出しするようなことを人目もはばからず言ってきた、という愚痴。
これを聞いた森山は、最後まで聞いたあとにこう言った。
プライドを捨てろ、と。
「わかってるよ」
「わかってねえよ。その後輩の女って入社1年目だろ? 細かいこともわからずにいい気になって言っちゃっただけなんだって」
(わかってる。そしてそれが、腹立つんだよ)
「それでお前はなんて言ったんだよ」
「何も」
「そうだろ? どうせ黙ってふてくされてたんだろ」
(はいそうです)
「『ごめんね、こっちの急ぎのやつが終わってないから、もうちょっと待ってて』とかなんとか返しとけば、周りの評価も違うのにさ」
(うん、本当に、そうなんだろうな。それと、そういうことができない自分が、ガキ臭くて好きになれない)
「そんなんじゃお前、周りからはお前もその女も、別ベクトルのめんどくさいやつってだけじゃん」
(いやもう本当にそう。そしてこんな俺とも飲んでくれるお前は本当にいいやつ)
会計はふたりで5200円。
駅に向かってふたりで歩く。
森山がしゃべりだした。
「飲んだときって店で別れるのが一番だよな。歩きながら話すのって、なんか嫌だわ」
「ほんと、俺もだ。だいたいさっきまで話してた内容の繰り返しと、次に会うのいつかなーとかだもんな」
駅に着いた。改札を通り、森山に言った。
「それじゃ、俺こっちだから」
「おう、プライド捨てろよ」
別々のホームへ行くと、こちらにはすぐ電車が来た。乗り込み、吊革を持って立った。
『お前さ、そのくだらないプライド捨てた方がいいよ』
(ああ、脳内で繰り返してる。よっぽど刺さったんだな)
森山の顔が正面のガラスに映った。
(プライドを捨てろと言われてもなぁ、具体的にどうすればいいんだよ)
(こうすれば捨てられますよというのがあれば何でもやるよ)
(あーでも、この部分は一生変わることはないのかもなー)
二駅目で座席に座れた。
(でも森山いいやつだもんな、本当に俺のための忠告だったし)
(あぁ、なんでこんな嫌なことに思考を占拠されてるんだろ)
電車に揺られていると、眠りに落ちていた。
**********
目を覚ますと、終着駅を知らせるアナウンスが聞こえた。
( やばい)
立ち上がりながらホームの掲示を探す。
間違いなく終着駅だ。
森山と別れたのは夜10時。普通に帰っていれば11時前には家に着く。そして今は11時30分。折り返して家まで帰れるのは次の最終電車。
(まあラッキーな方か)
折り返しの最終電車に乗り一時間後、電車が止まった。止まったが、ドアが開かない。暗いがここが駅のホームではないことはわかる。
(ええ、なんだよ)
すぐにアナウンスが流れた。
『お客様にお知らせします。ただいま地震が発生しました。その影響で電車は緊急停車しました。安全が確認され次第、発車します』
(地震、全然わからなかった)
電車がゆっくりと進み、再度アナウンス。
『お客様にお知らせします。先ほどの地震の影響で、やむを得ずこの電車は、次の駅でしばらく停車します。ご了承ください。』
(次の駅か。次の次まで行ってくれたら、いつもの駅なのにな)
(まぁひと駅くらいなら、ちょうどいいや。いつ動くかもわからんし、歩くか)
いつもと違う駅で降りた。
(そういえばこの駅で降りたのは初めてかも)
自宅までの道のりはマップアプリで調べておいた。
大通りを使えば迷うことはまずないが、かなり遠回りになる。
細い道を行けば40分で自宅に着きそうだ。
コンビニ2軒と小さな神社を目印にすれば、道を三度曲がるだけで済む。
風が吹いた。涼しい。40分歩くのにはちょうど良さそうだ。
改札を出る。歩くべき道はわかっている。
ひとつ目の目印、コンビニを曲がった。
『お前さ、そのくだらないプライド捨てた方がいいよ』
(あ、またフラッシュバックだ)
森山の顔が視界に浮かんだ。
「うーるせーえなー」
無意識に声になっていた。
(うそです。本当に忠告はありがたいです。余りにも的確に痛いところを突かれたから、逃げ場がなくなってるだけです)
(あぁ、本当に、くだらないプライドを抱えて生きてきたんだな)
(ちょっとした命令口調が癇にさわることなんかよくあるしな)
(他人を下に見てんだろうな。自分より下だと思っている人間から、想定される扱いを受けないから腹が立つんだよ)
(つくづく、くだらない人間だわ。捨ててえな、くだらないプライド)
二つ目の目印、神社が見えてきた。
(神頼みでもしてみよっかな?)
角を曲がると神社の参道が見えた。
暗い。
(こわ。神頼みはやめとこう。明るい時間に来たときにしよう)
ふと見上げると、敷地内の大きな木の枝葉が、街灯を隠している。だがその街灯も明かりをともしてはいない。
**********
目が覚めると、自室のベッドの上ではなかった。
「え?」
声に出ていた。
辺りを見渡した。
最後の記憶にあった、神社の前だ。
(え?)
時計を見る。
(えと、0時30分に駅から歩きはじめたよな。その20分後に神社まで来たから)
そして時計の時刻は深夜1時前。
(気絶してたのか? 立ち眩み?)
(まぁでも、何分かだけか。よかった)
(とにかく、早く帰ろう)
立ち上がって、歩きながら考えた。
(立ち眩みみたいなもんならいいけど)
(まぁ、頭痛も吐き気もしない。病院には、行かなくてもいいだろ)
三つ目の目印、コンビニが見えた。
(あ、そうだ、明日の朝のパン、買って帰ろう)
ここ最近、食事をコンビニで済ませることが多くなった。
料理は得意な方だが、自分の為に作るだけではモチベーションが維持できない。
休みの日に部屋でゴロゴロしていると、腹も減らないから三食食べないことも多い。
惣菜パンを二つ買って店を出る。
ガラスに映った体を見た。
(ちょっと痩せたかな)
アパートに着いた。
「プライドを捨てろ、か」
ドアに鍵を差し込みながら、知らずに声に出ていた。
脳内で森山の口が動く。
『お前さ、そのくだらないプライド捨てた方がいいよ』
床に鞄を投げるように置いても、熱いシャワーを浴びても、乱暴に歯を磨いても、ベッドの上で横になっても、その言葉は頭から離れなかった。