8. FARSIDE of MOON
■ 4.8.1
眼の前に大きな月が見えていた。
比喩的文学的表現では無く、本当に視野一杯に広がるほどに大きくなった月が、俺達から僅か数千kmの所に存在する。
1960年代の最後の年に米国がアポロ計画の有人宇宙船で月に人を送り込み、その後1970年代に立て続けに何名もの米国人宇宙飛行士が月に降り立った。
その後今日まで月に人が降り立ったことはない。
公式には。
常にあちこちで噂されていたように、軍が裏で極秘裏にゴニョゴニョやっているのまでは知らない。
つまり公式には、アポロの飛行士達以来、俺達が初めてこれだけ月に近付いた人類、という事になる。
今俺とミノリを乗せたSu-102は、毎秒100km近い速度で月に接近している。
月までの距離は約3000km。
その数字は、単位が「km」だとは思えない凄まじい勢いで減っていっている。
この速度を殺し、地球に帰れる様にする為には、月の引力もブレーキに使いながら、約900秒の10G加速が必要となる。
勿論そんな長時間の高加速には耐えられない。半分の5Gであれば1800秒。
その間に移動する距離は9万km。
月の直径は約3500kmでしか無いので、とっくに月を行き過ぎ、本来予定していた軌道からは完全に逸脱する事になる。
しかしたかが9万km。
地球までの40万kmを考えるならば、二割ほど増えるだけだ。
やってやれないことはないだろう。
燃料は十分に足りると航法システムが言っている。
L1ポイントをとうの昔に行き過ぎ、ファラゾアに一撃も入れられなかったのは痛恨の極みだが、コレパノヴァ中佐が言ったように今は生きて帰ることを第一とさせてもらおう。
力なく俺にもたれかかるマイスイートエンジェルも連れて帰らなければならないことだしな。
戦闘中の軌道により相対速度が大きく変わるなどの事態が想定された為、Su-102の航法システムは、地球に帰還する為の軌道計算を相当精密に行う事が出来る。
姿勢制御やエンジン噴射時間の制御など、特に高G条件下では人間が正確な操作を行うのが難しい為、かなり強力な自動操縦機能も実装している。
今の状態からただ単に地球に帰るだけならば、計算で求められた軌道を承認して、それに従って航行しろと自動操縦をセットするだけで構わない。
そして俺は、まさにその様にした。
俺はミノリの耐Gスーツの固定具をさらに二箇所追加して固定し、高いGを掛けても固定が外れないようにした。
そして自分の耐Gスーツをシートに固定する。
「ミノリ、帰ろう。地球へ。」
オートパイロットを起動し、高Gが掛かる前に、ヘルメットをぶつけて彼女に一声掛ける。
キャノピーが閉じた真っ暗なコクピットの中では、ヘルメットバイザーの鏡面反射が緩和され、彼女の横顔を見ることが出来る。
「う・・・。」
ヘルメット越しに彼女の呻き声がかすかに聞こえた。
「ミノリ。大丈夫か。ミノリ。」
思わず畳み掛けるように呼びかける。
横から覗き込むと、バイザーの中、彼女の眼が薄らと開くのが見えた。
ヘルメット越しでよく聞こえない会話がもどかしいが、一人乗りのこの機体には、機内で複数人が会話する為の機能は無い。
無論、耐Gスーツに付属している無線での通信機能を使用する訳にはいかない。
負傷しているであろう彼女を乗せているからには、戦闘は極力避けたいのだ。
「う・・・っせえ。どうなってる? 何で、オメエが、いんだよ?」
弱々しい声ながら、彼女がはっきりと言葉を発するのを聞いて少し安堵する。
「攻撃開始前に狙撃された。サズヴィエーズヂィ01は大破したので脱出した。ミノリの機体は狙撃の時に吹き飛ばされた。大破漂流しているところを発見したので助けた。今いるのは俺の機体のコクピットだ。」
「クソ・・・タレ。余計なこと、すんじゃ、ねえよ。」
「まあそう言うな。命あっての物種だ。どこか痛いところはないか?」
「左・・・左肩が、動かねえ。クソ、痛え。中がグチョグチョに、濡れてて、気持ちワリィ。」
彼女は荒い息を吐きながらも、いつもと変わらない口調で毒づいた。
外観では気付かなかったが、どうやら彼女は左腕を怪我しているようだった。
中が濡れているというのは、出血して耐Gスーツの中に血液が溜まっているという事だろう。
やはり彼女の身体に高Gを掛けるのは避けるべきだ。
耐Gスーツとは、実は耐Gジェルの塊だ。
スーツ表面と内面の間に数cmの厚みで耐Gジェルがみっちりと充填されており、かなりの衝撃をこのジェルが吸収する。
この耐Gジェルは応急補修材を兼ねており、デブリ等の貫通で小孔が開いた時には、中から染み出してきて表層下に仕込まれている硬化薬と反応して硬化し、直径数cm程度までであればスーツに開いた穴を塞ぐことが出来る。
あの減圧したコクピットの中で彼女が生存していたのだから、スーツの穴は補修されているのだろう。
しかしそれ程出血しているということは、多分左肩辺りをデブリに撃ち抜かれて大きな傷があるのだろう。
バイタル表示の血圧が大きく低下しているのを先ほど確認している。
まずいな。
早く手当てしなければ失血死するかも知れない。
「ミノリ。今から月周回軌道で5Gの減速加速を行う。今のままのスピードじゃあ、ヴォイジャーを追い越して銀河の彼方まで飛んで行ってしまいそうなんだ。かなりGが掛かるが、我慢してくれ。一緒に地球へ帰ろう。」
俺のヘルメットの右側を彼女のヘルメットの左にくっつけて言う。
「クソ、その、キメェ言い方、止めろ、オメエ。」
荒い息づかいが聞こえる。
あの気丈な彼女が痛みを隠すことなく苦しそうに喋るということは、相当痛いのだろう。
そんな彼女の身体を高Gにさらさなければならないことに心が痛む。
しかし、それをしなければ地球に帰る事が出来ない。
「減速を開始する。オートパイロットを起動する。」
既にカーソルを合わせてあった自動操縦の表示を確認し、ダイアルを押し込む。
自動操縦が起動する。
核融合炉の出力が上がり、後方でスラスターの噴射音が聞こえる。
機体がぐるりと周り、エンジンをすでにもう手が届きそうなほどに近い月に向けた
背中から聞こえる轟音。
5Gの力でシートに押しつけられる身体。
「ふっ・・・ぐ、はっ。」
ヘルメット越しにミノリが痛みを堪えて息を詰まらせるのが聞こえる。
「済まない。しかしこうしないと地球に帰れない。我慢してくれ。」
ヘルメットの向こうからは、荒く短い息づかいが聞こえるだけだった。
流石に悪態をつける状態ではないらしい。
自動操縦にしたことで開いた両手で彼女の身体を支える。
つまり、耐Gスーツ越しではあるが、彼女の身体を後ろから抱きしめることとなる。こんな時で、彼女がこんな状態でなければこれ以上無いご褒美なのだが。
俺のこの熱い思いの前には耐Gジェルの厚みなんて関係ないさ。
この両腕の中に俺の天使を抱いている。その事実こそがこの世の何よりも幸せなのだ。
機体は後尾を進行方向に向け、核融合ジェットの青白い炎を長く噴き出しながら月のすぐ脇をかすめるような軌道で月に接近していく。
コンソールに表示された月との相対速度が徐々に減っていく。
月は既に白い地面となって足下を埋め尽くしている。
大小無数のクレーターが、凄まじい勢いで足下を過ぎていく。
航法システムは軌道計算の結果、月表面から僅か10kmの高度を相対速度80km/sで、逆噴射しながらかすめるように飛び抜けるコースを提案し、そして俺はそれを承認した。
流れる月の表面が近付いてくる。
巨大なクレーターの壁の頂点が時々、ヒヤリとするほど近くを通過していく。
それでもやはり、SF映画のオープニングを見ている様で現実感がない。
七十年近く誰もが毎日のように見上げながらも、人類の誰も到達したことの無かった大地が眼下に広がっているというのに、自分が宇宙に居て月上空のごく低空をイカレた速度で飛んでいる、という事実を実感として認識していないからだろう。
仕方の無いことだとは思う。
つい数日前まで、人里離れたシベリアの果てに押し込まれ、月はおろか宇宙機さえ見たことが無かったのだ。
操縦できるように訓練されたとは言え、そんな状態から突然宇宙に放り出されて実感が湧こう筈も無かった。
足元を流れる月の表面の景色が、恐怖を感じるほどに限界まで近付いた。
その時、レシーバに注意喚起の電子音が鳴り響く。
半ば恐怖から、半ばは未知の美しいものに見とれて、足元の月の景色を眺めていた俺は我に返り、視線を上げた。
真っ暗な宇宙空間に瞬く星々。
月の地平線の少し上に浮かぶ、緑色のターゲットマーカが五つ。
敵。
紫のマーカが重なっていないということは、現在重力推進を使用していない自由落下状態にあるという事か。
忘れていた。
いや、その可能性は指摘されていたが、どのみち地球人には手が出せないL1ポイントという手近な集合地点があるので、わざわざ月の反対側のL2を使う必要など無いだろうと、低く見積もられていた危険。
画像をズームする。
そこには、訓練の中で何度も繰り返し教え込まれ、シミュレータの中でCG画像を幾度となく睨み付けたファラゾア艦の姿が、ジェット噴射による機体振動のせいで6万km彼方のブレて不鮮明な画像として映し出された。
形状からして空母四、戦艦一。
まずい。
ファラゾアの戦艦は、SF映画に出てくる宇宙戦艦の様に、たった一隻で大都市を一瞬で消滅させるだけの火力を持っていると習った。
その数千mもある巨体に口径1mを越えるような巨大なレーザー砲を無数に搭載しているのだと。
空母の方はというと、俺達人類が海の上で運用していた空母と同じ様に、戦艦に較べて武装度は高くない。
だがそれは「戦艦に較べて」と云うだけの話であり、存在が確認されている口径1m前後のレーザー砲は、俺達地球人類にとっては充分すぎる脅威だ。
それに相手は俺達人類よりも遙か先に進んだ異星人だ。
それ以外にも奇想天外な兵器を山ほど持っていたっておかしくはない。
さらに言えば、奴等の宇宙船は戦闘機と同じ様に、或いはそれ以上に高加速高機動出来る事が確認されている。
死に物狂いで逃げ回り距離を取って、上手く逃げたと安堵の溜息を吐いた次の瞬間、突然後ろに現れて一発撃たれて終わり、という訳だ。
そんなのが6万kmの彼方、他分奴等にとっては目と鼻の先に五隻。
・・・詰んだな。
多分、もう生きて地球に降り立つ事はないだろうと分かっていても、それでも諦めて死ぬのを待つだけというのはちょっと性に合わないな。
やるだけやってみるか。
「ミノリ。済まない。悪い知らせだ。敵が現れた。戦艦一、空母四だ。」
5Gという加速度は彼女の負傷した身体には相当辛いらしく、先ほどから彼女はぐったりとして俺に身体を預け、浅く荒い息を繰り返しているのがヘルメット越しに伝わってくる。
「・・・・」
彼女が何かを言っているのだが、聞き取れない。
「大丈夫だ。諦めたりなんかしないさ。生きて帰るぞ。ついでに帰りの駄賃に戦艦の一隻でも沈めてやる。任せろよ。」
「・・・・」
今この機体は減速のため月とほぼ反対方向に向けて盛大に核融合ジェットを噴射している。
奴等がそれに気付かない筈は無い。とっくに気付いて捕捉されているだろう。
発見されてもう30秒近くも経つ。
それでもなぜかまだ奴等は撃ってこず、俺達は生きている、というところに掛けるしかなかった。
「自動操縦を解除する。ちょっと揺れるが、我慢してくれ。済まないな。」
彼女の返事を待たず、自動操縦を解除する。
6万kmの距離のファラゾア戦艦にどれだけの効果があるのかは分からないが、5Gを余り超えないような加速度でランダム機動を始める。
ヘルメット越しに伝わる彼女の息づかいが、時々大きくなったり止まったりしているのが分かる。
ランダムにかかる横Gが辛いのだろう。
申し訳ないが、生き延びる為にそこは我慢してもらうしかない。
月表面との距離はもう徐々に離れ始めている。現在高度25km。
余程馬鹿な操作をしない限りは、もう月に衝突することは無い。
今ではもう地平線からかなり上にいる敵艦隊のマーカーを時々振り返りながら、ランダム機動の積み重ねで所定航路を余り逸脱しないように注意する。
その時再び警告音が鳴った。
何事だ?
敵艦隊の方向に振り返った俺の視野に、敵艦隊近傍に突然現れた無数の紫色のマーカーが見えた。
このタイミングでミサイルを撃つのはナンセンスだ。よりコストの低いレーザーでカタが付く。
という事は戦闘機か。
クソッタレ。
「ミノリ。最悪だ。敵が戦闘機を射出した。百二十機。心配するな。俺に任せろ。全部叩き落としてやる。ちょっと揺れが酷くなるぞ。」
「・・・・」
何かを伝えようとしているのか、彼女が何か言っているのが僅かに聞こえるが、言葉になっておらず上手く聞き取れない。
コンソール上のカーソルを操作し、武器管制を赤に。
ガンサイトがHMDに表示され、ミサイル残弾数が緑で表示された。
250mmレーザー、セルフチェック。OK。
ミサイル、セルフチェック。OK。
さあ来てみろ。
ただでやられるつもりはない。
奴等に較べて幾ら兵器が貧弱だろうと、牙を備えた猛獣だということを分からせてやる。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
タイトル使い回しててゴメンナサイ。
どこかで聞いたようなタイトルでゴメンナサイ。
でも、L2というとやっぱりこのタイトルが・・・
次回、やっと戦闘に入ります。長らくお待たせ致しました。