24. グアテマラ・ブルボン
■ 3.24.1
「どうしてタツヤは飛べないの?」
パトリシアの問いの後に、沈黙が降りる。
古いエアコンが立てる耳障りな振動音だけが店の中に響いていた。
それは当然の質問であり、そしてパトリシアにとっては何の裏もない、単純且つ素朴な疑問を口にしただけの事だ。
だが今の達也にとってその言葉は、何よりも重く、そして何よりも苦い。
達也が酷い怪我をしているのでは無いと知っていつもの明るい表情に戻ったパトリシアに対して、素直に今の自分について説明出来るような気分ではなかった。
「色々あったんだ。」
達也はずっと自分を見ているパトリシアに対して、努めて素っ気なく返事をして、次のグラスを手に取った。
自分が陥っている面倒な事情について余り他人に知られたくはないというこちらの事情と気分をその一言で察して欲しいと思いつつ、しかしそれでもパトリシアにはその気持ちは伝わらないだろうなと、半ば確信めいた諦めも感じていた。
彼女たちがこの店に来るようになってそれ程長く経つ訳では無いが、頻繁に顔を出してひとしきりお喋りを楽しんでいく彼女たちの性格をある程度把握するには充分な時間だった。
情が深く優しく面倒見の良い、今の達也にとっては面倒この上ない性格であるパトリシアは、世捨て人のような素っ気ない態度で対応する達也の事を放ってはおかないだろう。
「やっぱり怪我してるの? 後遺症とか? 何か障害が残っているとか? それとももう戦うのが嫌になった? 誰か大切な人を失ったとか?」
案の定パトリシアは、達也の出したシグナルには気付かず立て続けに質問を放ってくる。
彼女にしてみれば、最近新たに出来た知り合いが本来の力を発揮できず燻っていることを心配して、善意から出てきた言葉なのだろう。
それが分かっていて、鬱陶しい不要だと切って捨てるほどに達也は冷酷にも成れなかった。
そしてパトリシアの質問の最後の言葉が、まるで鋭く尖った爪のように、心に出来た傷を抉っていくのを感じた。
達也はグラスを磨いていた手を止めてパトリシアを見た。
彼女は変わらず真っ直ぐな眼で、心配そうに達也を見ていた。
大きなお世話だと思った。
一方で、本気で心配してくれているらしい彼女の優しさを好ましくも思った。
ささくれた心に多少の苛立ちを感じつつも、不思議とその優しさに包まれるのを心地良いとも感じた。
自分の中に澱んでいるものや突き刺さっているものについてここでパトリシアに話してしまうのも、立ち上がれなくなった自分の心の中の何かを変える一つの切っ掛けになるかも知れないと、妙に冷めた視点で彼女と自分自身を眺めているもう一人の自分がいた。
「今日は非番だと言ったな。」
また一つグラスを磨き終えて、曇りひとつ無く透明になったグラスをグラス置き場に置いた。
「そうよ。いつまでも付き合えるわよ。パトリシア・メイヒューゼン人生相談事務所は絶賛営業中。」
達也の態度が僅かに変わったことを敏感に察してか、また明るい笑顔に戻ったパトリシアがおどけた様子で言った。
「コーヒーを淹れる。奢りだ。まずは飯を食ってしまえよ。折角マーチンが作ったのに、冷めたら不味くなる。」
ジョンブルの食い物なんざ暖かかろうが冷たかろうが大して変わりゃしねえ、と奴なら言うかも知れないがな、と思いながら達也はパトリシアの手元で急速に温度を失っているフィッシュフライを片付けることを彼女に勧めた。
「そ、そうね。」
まるで自分の前に料理が置かれていることに今初めて気付いたとでもいう風に、パトリシアはフィッシュアンドチップスに注意を戻し、今まで放置していた時間を取り返そうとするかのように勢いよくフィッシュフライを切り分けて口に放り込み始めた。
それを時々横目で眺めながら達也はコーヒーを淹れる支度をする。
豆は何が良いだろう。
このご時世にそれ程選択肢がある訳では無いのだが。
グアテマラ・ブルボンのフレンチローストはどうだろうか。
きっと苦いコーヒーになるだろう。
■ 3.24.2
達也は何杯目かの冷めたコーヒーの残りを飲み干し、カップをソーサーの上に置いた。
カチャリと硬い音がした。
窓の外には、水平線の上に沸き立つ積乱雲に一部隠れながらも、赤く燃えるような夕日が海の向こう側へと落ちていく大パノラマが広がっている。
昼間の強い光に輝く青い海と打ち寄せる波に洗われる白い砂浜と、あらゆるものが赤く染まる中で水平線の向こうに沈む夕日を居ながらにして楽しむことが出来る景観は、この小さなカフェテリアが持つ最大の宝物だと達也は常々思っていた。
店の中までが赤く染まる世界の中、相変わらず小うるさい振動音を立てるエアコンの騒音以外に音も無い店内で、パトリシアが静かに泣いている。
店の営業時間はとうに終わり、マーチンは既に帰宅して居ない。
結局今日は、パトリシアの他には珍しくNAVY CLUBに宿泊しているらしいいかにも高官然とした男が一人閉店少し前にやって来て、軽食とコーヒーを頼んだ以外に客は来なかった。
昼過ぎから居座り続けたパトリシアは、いつものカウンター席に座って達也の身の上話に耳を傾け、時に笑い、悲しみ、そしてもっとも最近の出来事の顛末を聞き終わる頃には声も無く静かに涙を流していた。
最初は親切の押し売りにも近いパトリシアの行動を煩わしくさえ思っていた達也だったが、下手な同情の言葉を口にするわけでも無くそれでいて感情豊かに聞き役に徹した彼女に、思いの外彼女が最初に言ったとおりそれ程長くもないこれまでの人生の色々について話し易くなり、気付けば結局長い時間を掛けてこれまでに起こったことの大半を詳細に語り聞かせていた。
ゲームばかりしていた子供の頃、父親に引きずられるようにしてジュニアクラブに連れて行かれた件では楽しそうに笑い、最初の一発のミサイルでシンガポールの街が崩れゆく様を聞けばそれを嘆き、生まれ育った国を追われ劣悪な環境の難民キャンプに流れ着いた話を聞いて悲痛な面持ちで悲しみを露わにした。
カリマンタン島で仲間を失い、イスパニョーラ島で再び仲間と恋人を失い、ファラゾアの艦砲射撃を受け、地球人が発射した核ミサイルを間近に食らい、父親を失い、そして戦う力を失った。
多分他人が聞けば相当に悲惨な人生を歩んできたと思われるだろうという自覚は確かにあったのだが、実際にパトリシアがその話を聞いた挙げ句、何もかもを失ってこの場所に流れ着いたという話の結末に涙を流し始めたのを見て、さしもの達也も慌て、いつもキャノピー越しに眺めていた椰子の木と白い砂浜で働く幸せについておどけた様な話を追加する羽目になった。
確かにそこには憐憫や同情と云った感情があるに違いなかった。
しかしパトリシアは、薄っぺらい言葉を口にすることでそれを表に出すことをしなかった。
少なくとも、明らかにそれと達也に分かるような行動は取らなかった。
同情されるのでも無く、見下されるのでも無い、ただ共に悲しんでくれるだけの存在が側に居ることで、どれだけ自分の心が救われるかという事を達也は初めて知った。
達也は既に自分の記憶に対して自分の意識の中では折り合いを付けていた。
勿論忘れる事は出来ないし、今だその悲しみが消える事もない。
だが、例えば今も眼に焼き付いて薄れる事のないシャーリーが散っていった時の記憶に苛まれ、その場面が延々と繰り返されるような悪夢を見たり、シャーリーの死という事実に追い詰められて酒や薬に逃げ込むような事は無かった。
であるので余計に、PTSDが改善されない事の理由が分からないのだが。
パトリシアの反応に対して、自分の事ながらどの様に対応すれば良いのか分からず些か狼狽えた。
まさか彼女が、声も出さずに突然泣き始めるとは思わなかった。
分かっている。本当に酷く深い悲しみを感じた時、心が悲しみに麻痺したようになり、泣き叫ぶ為の声さえ出ないものだ。
語った自分の記憶に、パトリシアがそこまで強い哀しみを感じるとは思っていなかった。
驚いて、そして嬉しく、申し訳なく、嫌悪と感謝と安らかさと面倒さと色々な感情がない交ぜになって思わず笑みを浮かべてしまった。
少し前からパトリシアに並んで座って話し込んでいたカウンター席から立ち上がり、パトリシアの前に置いてある空になったコーヒーカップを取り上げる。
その動きに、パトリシアが脇に立つ達也を見上げて眼が合った。
「ありがとうな。色々楽になった。こうやって吐き出す事も必要らしい。」
そう言って達也は、泣いて赤い眼をしたパトリシアの頭の上に右手を置いた。
すんなりと自然に手が出た。
手触りの良い柔らかな金髪を数度撫で、パトリシアのカップと自分のカップも併せて両手に持ち、カウンターの向こう側に歩き、シンクの中に入れた。
「ねえ。タツヤってお休みあるの?」
コーヒーカップを洗う達也の手元を見ながら、おずおずと云った感じでパトリシアが尋ねた。
もう涙こそ流していなかったが、鼻声で、時々鼻を啜り上げる小さな音が聞こえる。
どうやら、どうにもコメント出来ない事態に対して強引に話題を変える事にしたらしい。
下手な言葉を掛けられるよりも、達也としてもそちらの方が有り難かった。
「もちろんあるさ。」
「いつも店に居るから、お休み無いんだと思ってた。あるんだ。」
一般の兵士達と同じように達也も週に一度の休みを取ることは出来た。ただ、休みを取ったところで何もすることがないので休みを取っていなかっただけだった。
毎日のんびりとろくに客の来ないカフェテリアで時間を潰すのは、前線で体力と精神力の限界を試すような激務に明け暮れていた頃と比べると、まるで毎日が休日のような温さだった。
毎日が休みの日と変わりないなら、取り立てて休みを取る必要性も無かった。
少しの間をおいて、無理に明るさを纏った声が水音を遮って店内に響く。
「ねえ、来週の木曜日、お休み取れる? 一緒に出かけない? 時には気晴らしも必要よ?」
勿論それを彼女が知るわけも無かった。
彼女は彼女なりに、達也の心のどこかにある大きな傷口を癒やす方法を考えてくれているのだろうと思い、その優しさは達也にとって単純に嬉しいものだった。
「取れるんじゃないかな。ずっと働き詰めだったからな。一応、マーチンに訊いてみるが。」
強引な話題転換を、達也は有り難くそのまま受け取る事にした。
NAVY CLUBにいつぞやのような団体が宿泊して、キャパシティを軽く越える注文を受けたりしなければ、基本的に暇なこの店の店員が一人休みを取ったとて何か問題が発生するとは思えなかった。
「コロナドの街に出た事ある?」
「無いな。ここに来てから、ノースアイランドのゲートの外に出たことはない。」
休みを取ってもやることがなく、わざわざ休みを取ってまで基地の外に出て行く理由も無かった。
この何ヶ月間か、達也の世界はノースアイランド基地の柵の中、それどころかこのカフェテリアから半径500mの中でほぼ完結していた。
「行くべきよ。基地の中に引きこもって同じところにずっと居て、休みも取らずに仕事ばかりなんて、絶対に良い事無い。基地からコロナド行きのシャトルが出てるわ。何だったらサン・ディエゴまで脚を伸ばしてもいい。ダウンタウンか、イーストヴィレッジならまだお店も沢山残ってる。市街地なら警察がパトロールしてるから治安も悪くないし。」
軍人が治安を気にして警官に守ってもらうというのはどうなのだろう、と思いながら、達也は肯定の笑顔を浮かべる。
コロナドの街は、ノースアイランド基地が存在するコロナド島に広がる元リゾート都市だった。
今では、物資が豊富かつ常に人手不足の国連軍基地で働く地域住民のホームタウンと化している。
もともとリゾート都市として開発されたコロナドの街は、いかにもアメリカ風の広々とした街並みに、メキシコから流入したスペイン風の文化が混ざり合い、異国情緒を感じる事の出来る美しい街並みを今もまだ保っていた。
「分かった。明日、マーチンに話してみよう。休みは溜まっている。大丈夫だと思う。」
達也自身、パトリシアの提案は歓迎すべきものだった。
シャーリーとマイアミの街に出た記憶のフラッシュバックはあるだろうが、それも含めて、何か自分の心に対する刺激となって、現状を変えられる可能性があるならば試してみるべきだと思った。
いつまでも皆の死を悲しんで、カフェテリアで日がな一日時間を潰している訳にはいかない事は自分でも分かっていた。
自分にもコントロールできない自分の精神にどの様な形でも刺激を与えて、前に向かって進む時が来ているのだと、達也は思った。
「ところで、コロナドの街で何をするんだ? 何が出来るんだ? と言った方が良いか?」
洗い終えたカップを乾燥棚に置きながら、達也はパトリシアに尋ねた。
あらゆるものが瓦解し、あらゆる事が狂ってしまっているこの合衆国では、何もかもが昔と同じようにはいかなかった。
フロリダキーズやマイアミの様に、昔華やかだったリゾート都市が、今では街中薄汚れてゴミだらけのスラム街と化している事も珍しくないのだ。
「そうね。食事と、買い物? タツヤ、あなた服持ってないでしょう? あなたの服を買いに行こう?」
自分の服を買いに行くと聞いて、達也の顔が僅かに引き攣る。
マイアミでの精神的重労働を思い出したのだった。
「そ、そうか。服か。そうだな。お手柔らかに頼む。」
少し引き気味に答えた達也を見て、一瞬不思議そうな顔をしたパトリシアが破顔した。
「なにそれ。街に出るのがそんなに怖いの? 引き籠もりすぎ。」
達也の態度を可笑しそうにクスクスと笑うパトリシアを見て、彼女の優しげな顔には、涙よりもやはり笑顔の方が似合う、と、達也は思った。
翌日、思った通りマーチンからは簡単に休みの許可を得る事ができた。
それどころか、「高級食材の仕入れの為」と云う名目で、ガソリン自動車と護身用携行火器の使用許可まで取るという離れ業をマーチンはやってのけた。
「すぐ隣に簡単に借りられる『虎の威』があるのに、使わなきゃ損だろ?」
と、マーチンはカフェテリア「コロナド・ビーチ」を覆うように影を落としているNAVY CLUBの建物を見上げて、片目を瞑りながら笑った。
こうやって生き延びて今も生活している民間人の強かさを見た様な気がした。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
コーヒー豆は、中米地域から陸路を伝って合衆国に供給されています。
南米カリブ海沿岸諸国でも、コーヒー園はまだ細々と続けられています。人口密度の薄い地域は、ファラゾアは無視しますので。
もっとも、どこかの島を吹き飛ばした核弾頭のお陰で、放射性物質が大量に流れてきてお話にならない事になってるかも知れませんが。