13. Jaune Trois (黄の三番)
■ 3.13.1
27 December 2039, Montparnasse, Paris, France
A.D. 2039年12月27日、パリ、モンパルナス
そのチャコールグレイのチェスターコートを着て黒い帽子を頭に乗せた男は、地下鉄四号線のサン・プラシード駅の階段を地上まで上ると、左右を見回してそのまま道路を渡り、僅かに後ろを気にする様な素振りを見せながらヴォージラール通りを東に向けて歩き始めた。
もう数時間すれば日が変わるこの時間、年末とは言えど小雪の降る中、下町の細い通りを歩く人影は少ない。
それでも昔は年末のパーティーから流れた酔い客などがその辺りをふらつきながら歩いていたりしたものだが、電気の使用が制限され、街灯もまばらにしか灯っていない今のパリの下町では、夜は治安が悪すぎてわざわざ通りに出たいなどと思う者はいなかった。
男は暗い歩道を少し足早に200mほど歩き、アッサス通りとの角に建つアパルトマンの建物の壁に沿う様にして右に曲がった。
さらに100mほど進んだところでフルーリュス通りを左に曲がると、狭い通りが200mほど先で急に建物の並びが切れて開けているのが薄暗い光しかない闇の中でもはっきりと分かる。
男は真っ直ぐにリュクサンブール公園に向け歩き、深夜の時間帯では固く閉ざされている門の前に立った。
素早く周囲に視線を走らせ近くに人影が無い事を確認すると、男は鉄製の門に手を掛けて力を込める。
営業時間外で施錠してあるはずの門が重く渋い音とともに開き、その隙間に男は身体を滑り込ませた。
公園の中に広がる闇に溶け込み始めているその男は再び門を閉じ、足早に園内へと歩く。
しばらく歩くと左手にリュクサンブール宮が暗闇の中に浮かび、正面に人工池の暗い水面が見える。
その闇の中に人影が一つ佇む。
早足で僅かに息を切らせて歩いてきた男は、辺りを警戒しながらも、池の畔に佇むその人影に近付いた。
「アーツェンブーシュさん?」
歩いてきた男が、池の畔に立っていた男に声を潜める様にして呼びかけた。
「そうだ。ハルツェンブッシュだ。」
近寄ると、待っていた男は暗い色の革のハーフコートを着て、顎が隠れるほどにマフラーを巻いているのが分かった。
チェストコートの男は安心したかの様に息を吐き、ハーフコートの男に近付いた。
「ルイからの頼まれものを持って来た。」
そう言ってチェストコートの男は、革手袋をした手をコートの中に差し込み、内ポケットから透明なビニル袋を取り出した。
暗闇で良く見えないが、ビニル袋の中にはなにか黒くて小さなものが入っている様だった。
小さなビニル袋は、チェストコートの男の手から、茶色い革手袋の革コートの男の手に移った。
「面倒をかけたな。これで奴等の秘密を暴ける。来週のジュードドイチュ・ツァイトゥング(南ドイツ新聞)を楽しみにしていてくれ。」
暗闇の中でも、革コートの男がニヤリと笑ったのが分かった。
「いやあ、済みませんねえ。そういう訳にはいかないんですよー。(I am sorry to interrupt you, but you can not do it)」
突然暗闇から、その場の雰囲気にそぐわないどこか間延びした様な明るく優しげな声が聞こえた。
池の畔の二人が身構えて辺りを見回す。
いつの間に現れたか、暗闇の中にもほのかに白く浮き上がるリュクサンブール宮を背景に、黒い人影が二人に向かって歩いてくる。
二人は慌ててその場を立ち去ろうとしたが、新たに現れた男の手元から気が抜けかけた炭酸飲料のボトルを開ける様な音が何度か聞こえ、同じ回数だけ小さな炎が暗闇に閃く方が僅かに早かった。
チェスターコートの男は一言も発すること無く身体を二つに折って池の中に頭から突っ込み、革コートの男は低くうめいてその場にうずくまった。
「済みませんねえ。これも仕事なもんでー。」
間延びした口調でそう言いながら、男はゆっくりとした足取りで二人に近づいて来た。
もっとも一人は既に絶命し、波立った池の水面に浮かんでいるが。
「ぐ・・・く、クソ。始末屋か。」
ハルツェンブッシュと名乗ったハーフコートの男は、暗闇でも分かるほど憎々しげに近付いてくる男を見上げている。
右足の付け根を押さえてうずくまっているのは、その位置を撃たれたからか。
もう一人のチェスターコートを着ていた男は即死する急所を一発で撃ち抜かれて既に絶命しており、先ほどのビニル袋を受け取る側の男だけ命に別状が無く行動不能となる場所を撃って生かしてあるところを見ると、近付いてくる男は相当の手練れであろう事がわかった。
「あのー、好奇心からお尋ねしたいんですけど。その情報、どうするんですか?」
サプレッサの付いたハンドガンをハルツェンブッシュの額に向け、近づいて来た男がやはり場にそぐわない明るい声で尋ねる。
リュクサンブール公園内には殆ど街灯の様なものは無かったが、僅かではあるが街並みからの明かりがその男の顔を暗闇の中に浮かび上がらせる。
三十代前半に思える少々面長のその顔は優しげに微笑みを浮かべており、チャコールグレイのソフト帽の下に僅かに見える短く刈り込んだ髪は色の薄い金髪だった。
黒いロングコートの前をぴったりと閉じており、黒い革手袋を着けた右手にはハンドガン、左手は無造作に下に降ろしている。
その口調と優しげな顔以外は、いかにも、という服装ではあった。
「公開するんだよ。人々には、あの工業団地でINTCenが何を行っているのか知る権利がある。」
痛みに顔を顰めながら、ハルツェンブッシュは怒りと敵意に染まった眼を襲撃者に向けた。
「知る権利ですか。自称ジャーナリストの方々って、皆さんそう仰るんですよねー。でもそれ、公開したらどうなると思います? 考えた事って、あります?」
「人々が真実を知り、その可否を判断するだろう。例え国連であろうと、EU政府であろうと、大きな世論のうねりを無視は出来ないぞ。」
ハルツェンブッシュは絶え間なく襲ってくる激痛に顔を歪めながらも、どこか誇らしげに言って凄みのある笑いを浮かべた。
「いや、そういう事を言っているのではなくてね。その結果どうなるか考えたことがあるか、と訊いているんですけどね。」
「何を言っている。人々が真実を知り、隠蔽された政府の活動の是非をその真実に基づいて判断する事以上に重要な事があるか。」
「馬鹿ですか、貴方は。いや、馬鹿ですね。その程度の事、各国政府やEUが考えていない訳はないでしょう。馬鹿が一人で粋がっているのとは違うんです。政府組織には頭の良い人が沢山いるんですから。
「そうじゃなくて、その事実をなんで政府とかが隠さなきゃならないか、そう判断したか、って事、考えたことあります?」
未だハルツェンブッシュの額に銃口を向けたままの襲撃者は、明らかにハルツェンブッシュの事を見下し、出来の悪い生徒に理を噛み砕いて教える教師の様な口調となっていた。
「役人どもはとにかく何でもかんでも隠したがる。我々はそうやって隠された真実を暴き、光を当てて、世に知らしめる事が使命なのだ。」
穏やかな顔の襲撃者は、不敵な笑いを浮かべているハルツェンブッシュを見下ろして僅かに眉を顰め、少し首を傾げて溜息を吐いた。
「もしもーし? 英語理解出来ますかー? 馬鹿だから仕方ないんですかねえ? はあ・・・
「公表するとヤバイ情報だからわざわざ隠しているのに、あなたたちがぶちまけることで公になって、それが原因でパニックや暴動が起こったらどうするんですか? ただでさえ社会情勢が不安定なのに。政府が機能不全になって、軍が崩壊して、そしたら人類は滅亡に向かってまっしぐらなんですけど? そこんとこ、どう考えてます?」
「隠すべきかどうかを判断するのは主権者である民衆だ。お前達じゃ無い。」
「いやそれ矛盾してるから。もう良いです。今の地球に馬鹿は要らないんですよ。真実を知る権利とか言いながら、実は自分の名声と金にしか興味の無い人は、特にね。」
小さな一瞬の閃光がハルツェンブッシュの顔を照らした。
額に小さな穴を開けられ、ハルツェンブッシュの身体は前のめりに倒れ、うっすらと雪が積もり始めた砂利の中に顔を埋めた。
「ブツはどこですかねえ。あ、これですね。」
今また一人人を殺したばかりだというのに、男は声色を全く変えずに独り言を言いながらハルツェンブッシュが持っていたビニル袋を拾い上げ、コートのポケットの中に入れた。
「さて。帰りますか。はぁ・・・こんな濡れ仕事、得意じゃないんですけどねえ。」
他に誰も居ない公園の中で、男はまるで気軽な散歩を終えて家に帰るかのような口調で再び独り言を呟くと、ハンドガンからサプレッサを外してコートの中にしまい込んだ。
しかし独り言の内容に反して、二人の人間を誰にも気付かれずに始末した手際は実に鮮やかなものだった。
そして「始末屋」と呼ばれた男は、仕事を終えた後に残るものに興味は無いとばかりに、横たわる二つの死体に背を向けると再びリュクサンブール公園の闇の中に溶けるように消えていった。
それからしばらく後、その男の姿は街灯もまばらなモンパルナスの裏通りを歩いていた。
男は不意に道の端に寄ったかと思うと、商店の脇の壁に五つ並んで設置されている公衆電話に近付き、右から二番目の電話の受話器を取り上げた。
機械の中に溜まっているであろう小銭を狙ったものか、どの電話機も明らかに破壊されており、とても通話が出来るような状態では無い様に見える。
そもそも現在、民間の通信ネットワークは全てサービスを停止しており、通信媒体というものが存在しない。
しかし男は受話器を耳に当て、躊躇いも無く慣れた手つきでプッシュボタンを押し、電話機に左肘を突いて相手が電話に出るのを待つ仕草をした。
「こちらジョーヌトロワ。作業完了。目標回収成功。後始末はせず指示通り放置。ホームに戻る。」
相手が電話に出たようだったが、男は相手の反応を確かめる風でも無く淀みなく一気に喋り、喋り終わるとすぐに受話器を置いた。
そして男は再び小雪の降るパリの下町の裏通りを、闇を伝うようにして歩き始めた。
翌朝、パリ市内で最大の広さを誇るリュクサンブール公園の敷地内で、開園直後の時間に早朝のジョギングを楽しんでいた老夫婦が、公園の中央にある噴水の近くで死んでいる二人の男を発見した。
下町とは言え、パリのど真ん中での殺人事件に辺りは一時騒然とした雰囲気に包まれた。
警察の調べにより、一人はフリージャーナリストのオリヴァー・ハルツェンブッシュ、池に浮いていた方は住所不定のチンピラ、アドリアン・ヴァセランと判明した。
どちらの死体も9mmのメタルキャップ弾を用いて鮮やかに急所を撃ち抜かれており、確実にいわゆるプロフェッショナルの仕事であると推察された。
オリヴァー・ハルツェンブッシュが最近何か大きなヤマを嗅ぎ回っていたという事は友人の証言から判明したものの、彼が捜し当てたヤマが何であるかは、突然パリ市警にかけられた圧力で捜査が中断され、明らかにされることはなかった。
治安が悪化したパリを支えるパリ市警は、妙なところから圧力がかかる様な、危険な香りが濃密に漂う案件にいつまでも拘っていられるほど暇では無いのだった。
ただ、その後ジャーナリスト業界で噂が囁かれることになる。
ストラスブールの東部、ドイツ国境に沿って広がる工業地帯のとある倉庫には手を出すな、と。
深く関わりすぎた人間は、皆行方不明になるか、或いは非常に目立つところで死体になって見つかるかどちらかだ、と。
勿論、新進気鋭を気負う自称ジャーナリスト達がその様な忠告に耳を貸す訳もなく、その後も行方不明者や不審死を遂げた死体を断続的に量産するのではあるが。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
ちょっと毛色の違うのを書いてみたくて。
ゴルゴじゃなくて、もう少し普通の人っぽい目立たない殺し屋を目指していたはずが、いつの間にかやたらよく喋る殺し屋に・・・
殺し屋がメタルキャップ弾は変かなあ。
「黄の三番」ですが、「イの一番」とか「マの十八番」とかいませんのであしからず。