12. ありふれた哀しみ
■ 3.12.1
「大丈夫か、父さん? 前より酷く見えるぞ?」
達也の前には、既に自分の食事を終え、食後に簡単な甘い物とコーヒーを手元に置きつつ、しかしどちらもまだ一口も手を付けていない様に見える父親の疲れた顔があった。
目の下に隈が浮き、疲れから来るものなのか少し痩せて見える。
痩せて少し窪んだ眼窩が隈に縁取られて、より一層不健康な印象を与える。
体調を指摘されて浮かべた苦笑いが、眼差しの力弱さを際立たせる。
5339TFSと5342TFSに分かれている達也達親子は、戦闘を終えて帰還した後の夕食の時間、しばしばこうやって顔を合わせて互いの無事を確認する様になっていた。
どちらか片方が朝も暗い内から出撃し午後早い時間に帰還できるいわゆる早番となり、他方が夜明け前後に出撃し、夕刻になってやっと帰還できる遅番に別れてしまい、夕食の時間がずれてしまうことも多かった。
しかしそんな時でも、達也が早番の時は特に、毅達遅番の部隊が帰還してくるまで食堂で待ち続け、例え一瞬でも顔を合わせ、僅か二言三言でも言葉を交わせる様にしていた。
逆に毅が早番の時には、顔にありありと疲れを浮かべている父親を少しでも長く休ませる為に、例え毅が食事の後で達也を待っていたとしても、互いの無事さえ確認できた後はすぐに毅を自室に帰らせる様に気を遣っていた。
「いや、見た目ほどじゃないんだがな。歳かな。ちょっとした疲れがモロに顔に出る様になっちまった。」
そう言って毅は隈の浮いた眼で弱々しく笑った。
その弱々しい笑顔は、どう見ても「見た目ほどじゃない」とは思えなかった。
心配を通り越して、これだけ疲れが溜まっているのによく墜とされずに毎日の出撃をこなせているものだと、逆に感心させられるほどだった。
疲れた父親の顔を見ていられなくて視線を逸らした達也は、食堂の片隅で打合せをしている飛行隊長達の姿に気付いた。
ホームステッド基地に駐留している四つの国連軍飛行隊の隊長が全員、そのテーブルに集まっており、和やかな雰囲気で何かを話し合っていた。
父親に何も断らず、いきなり席を立った達也はその集団に向けて歩いた。
四人の座る席には、偶々であろうが、達也の所属する5339TFS隊長のゲルトナー少佐と毅の所属する5342TFSのルエラス少佐がこちらを向いて座っていた。
達也が近付くと、二人は達也に気付き視線を向けた。
「ルエラス少佐。よろしいでしょうか?」
当然自分に話しかけてくるものだと思っていたらしいゲルトナー少佐が、眉を上げ意外そうな表情をした。
それに対してルエラス少佐は、視線が合ったことで僅かに表情が曇った様に達也には思えた。
「ミズサワ少尉か。何だね?」
ルエラス少佐が、僅かに眉を顰めながら答えた。
これは多分、今から何を言おうとしているのか少佐には薄々予想が付いているのだろうな、とその表情を見た達也は思った。
「失礼を承知で申し上げます。ルエラス少佐麾下の5342A2小隊長のミズサワ中尉について、部隊から外して戴く事は可能でしょうか?」
毅の顔色は悪すぎた。
このまま戦っていれば、いずれ遠からず墜とされる日がやってくるだろう。
毎日顔を合わせている飛行隊長なり小隊長なりが、あの酷い顔色に気付いていないなどあり得なかった。
だから達也は単刀直入に切り込んだ。
「・・・済まないが、それは出来ない。」
「何故ですか? 中尉の疲労度がもう限界である事はご存じと思います。あの状態で戦わせるのは、死ねと言っているようなものです。」
ルエラス少佐の表情が歪む。
断りはしたものの、分かっているのだろう。
そして達也が毅の息子である事は誰もが知っている。
つまり息子に向かって、父親を殺すと宣言したに等しいのだ。
「彼は新兵の育成に必要なのだ。」
今度は達也が眉を顰める番だった。
少佐が何が言いたいのか良く分からない。
いずれにしても、赤の他人の新兵が何人死のうが、そんな事よりも父親が生きている事の方が達也にとって重要だった。
「ミズサワ中尉の下に付けると、新兵の死亡率が明らかに下がる。もともと教育隊に居たからかも知れないが、彼は新兵を教育することに長けている。他の小隊に配属された新兵が次々と死んでいく中、彼の小隊からは新兵の犠牲が未だ一人も出ていないんだ。」
それがどうした、と達也は思った。
自分の父親の命と引き換えに新兵を育てるなどと言われて納得できる訳がなかった。
「つまり、年齢的に限界が近い中尉は、死ぬまでこき使って新兵を育てさせると? ふざけるな。」
「少尉、口の利き方に気を付けろ。」
いつも僅かに薄ら笑いを浮かべているように見えるゲルトナー少佐が、ルエラス少佐の隣から鋭い目つきで達也を睨んでいる。
対照的に、ルエラス少佐は苦い顔で達也を見る。
「これが黙っていられるか。自分の父親が使い潰され、殺されようとしているんだ。新兵の教育をやらせたいなら、前線から外して教育隊でやらせれば良い。誰が見たって一目で体調が悪いと分かるパイロットを戦いに駆り出すなんて、どうかしている。アンタ、自分の父親でも同じ事が出来るか?」
「少尉!」
ゲルトナー少佐が席を立ち怒鳴った。
達也はゲルトナー少佐を睨み返した。
生きる死ぬと云った重大事の前に階級など知ったことかと思った。ましてやそれが、五年もお互い行方が知れずにやっと巡り会ったたった一人の肉親であればなおさらだった。
達也の首筋に後ろからふわりと柔らかいものが巻き付き、達也の身体を後ろに引いた。
同時に達也の前に毅が割り込んで来て言った。
「少佐、申し訳ありません。出撃から帰還したばかりで、少尉はまだ気持ちが昂ぶっているようです。良く言って聞かせますので、ご容赦下さい。」
「タツヤ、頭を冷やせ。」
シャーリーの声が耳元で低く、しかし強い口調で囁く。
「十分冷えている。俺はただ父さんを殺したくないだけだ。手が届いて守れるところにいるのに何もしないなんてあり得ない。」
そう言って達也の眼はルエラス少佐の顔から離れなかった。
少佐も達也の眼から視線を外さずに言った。
「その希望には、答えられないな。新兵を一人前に戦える兵士に育てるのは、我が国連軍優先度最高の急務だ。」
シャーリーの右手に首をロックされ、毅の左手の平を胸に押し当てられた状態で達也はルエラス少佐の顔をたっぷり三十秒、黙って睨み続けた。
その目は昏く冷たく、何の感情も読み取ることが出来ず、まるで戦闘機の光学センサーのレンズを覗き込んだ様だと、ルエラス少佐は自分の背筋が粟立っていくのを感じた。
「そうか。」
まるで何の抵抗も無かったかの様にシャーリーの拘束から逃れた達也は、踵を返して食堂から出て行った。
敬礼したシャーリーがその後を追う足音が続いた。
■ 3.12.2
「全くどうかしてる。どうにか出来るものでもないでしょう?」
そう言いながらシャーリーは寝返りをうって達也の方を向いた。
兵舎の外は日が落ちても相変わらず25℃近い気温を保っていたが、兵舎の中はエアコンが効いており暑く感じる様なことはない。
「分かってるさ。だからといって、黙って見ている訳にもいかないだろう。」
「まあ、そうなんだけどね。」
そう言ってシャリーは思案顔になる。
昼間、特に出撃の前後では奇行やおかしな言動が目立つシャーリーだったが、夜落ち着いた時間に二人きりになると、至ってまともな普通の反応を示す女になる。
そのギャップが達也には驚きでもあり、面白くもあった。
「母親をさ。」
達也はベッドの上で上半身を起こし、既にぬるくなってしまったサイドテーブルの上のミネラルウォーターのボトルを手に取ると、一口飲んだ。
「ん? 何?」
シャーリーは達也からボトルを渡されると、腹這いのまま器用にボトルをあおった。
達也はシャーリーの喉が動いて、水を嚥下していく様を眺めていた。
シャーリーが返してきたボトルを受け取り、もう一口飲む。
「母親は、俺も父親も知らないところで、アパートメントに直撃したミサイルの爆発に巻き込まれて死んだんだ。全く手の届かないところで死んだ。当時俺もまだガキだったし、どのみち何が出来た訳でもないんだけれどな。
「だからさ。今父親は俺の手の届くところにいるんだ。指を咥えて見ているなんてあり得ないだろう。俺にできる限りのことはしたい。」
「上からの指示でしょ? ルエラス少佐にも変更出来無いんじゃないの?」
シャーリーは右手で頬杖をつき、達也の顔を見上げる。
昼間はあれほど冷たく見えるアイスブルーの瞳が、今は妙に澄んで柔らかな色に見えた。
「ああ、そうかも知れない。分かっている。しかし意思表示だけはしておかないと、変わるものも変わらない。」
「まあ、ね。基地司令? 北米南部方面司令部? 北米大陸司令部? どこから出てるのかしらね。誰を動かせば良いのかな。」
そう言ってシャーリーはまた寝返りを打ち、仰向けになった。
光の加減によっては暗い金色にも見えるシャーリーの茶色い髪が枕の上に広がり、衣擦れの音が静かな部屋の中に響く。
少し煤けた白い天井に取り付けられた僅かに青白いLED光が眩しい。
「分かったところで、直接言いに行く訳にもいかないしな。嫌がられようと怒鳴られようと、ルエラス少佐に言うしかないんだろうけれど。」
そう言いながら達也はボトルをサイドテーブルに置き、テーブルの上に置いてあったラッキーストライクの箱を手に取り、一本取り出した。
「煙草は二十歳からです。」
「フロリダは十八からだ。従軍していればそれもうやむやだ。」
そう言いながら達也はマッチを擦り、煙草に火を付けた。
煙草の青い煙と、マッチが消えた白い煙が、混ざり合う様にして天井に向けて登っていく。
「吸ってなかったよね? 美味しいの?」
「美味い、というよりも気持ちを落ち着けるのにちょうどいい。溜息を隠すのに都合が良い、というのは誰が言ったんだったっけな。」
達也が口にくわえた煙草を、シャーリーが右手を伸ばして摘まみ取った。
一口吸って、盛大に咳き込み始める。
達也は少し笑いながら、それを見下ろしている。
「あー、酷い目に遭った。あたしには無理だわ、これ。」
そう言いながら、右手の煙草を達也に咥えさせた。
「ヨーロッパはそれ程うるさくないんだっけ?」
「流石に最近はどこも禁煙だけどね。アメリカみたいにヒステリックには言わないわね。」
米国がどこもかしこも禁煙になっていた二十一世紀初頭、ヨーロッパではまだ普通にどこでも煙草を吸うことが出来た。
それから四十年経ち、流石にヨーロッパも殆どの場所が禁煙となっていたが、アメリカに較べればまだ相当に緩い状態だった。
人々の煙草に対する忌避感も、アメリカほどには強くは無い。
逆にアメリカの場合、今達也が吸っている紙巻き煙草は忌み嫌われていても、葉巻は多くの男達が今でも普通に嗜んでいる。
もちろんこの時代、高級キューバ産が手に入る様なことはなくなったが。
「放射能とか、大丈夫なの、それ?」
煙草も農作物であるならば、小麦やトウモロコシなどと同じ様に、メルトダウンした原子力発電所から漏洩した放射能による汚染を受けていてもおかしくなかった。
「案外大丈夫らしいぜ? そんな事言ってたら、この国でパンもスープも食えやしないさ。」
「まあ、そうなんだけどね。」
シャーリーが煙を天井に向けて噴き上げる達也を見ながら笑った。
しかしすぐに彼女の顔は真顔に戻る。
「・・・どれだけ力になれるか分からないけれど、あたしもあちこち当たってみるわ。他人事じゃないしね。」
そう言って仰向けのシャーリーは、枕に頭を預けて、達也の口元から立ちのぼる紫煙を眼で追っている。
「自分の男の父親だしな。済まないな。面倒かける。」
そう言って達也は軽く笑った。
「それもあるけど・・・ね。」
シャーリーは相変わらず眼で煙を追いかけているが、自分の左に寝転がっているシャーリーの顔を見た達也は、その眼が天井の向こう遙か遠くに焦点を合わせていることに気付いた。
達也の目がすっと細まった。
「そう言えば、聞いた事が無かったな。お前は何でそんなにファラゾアを墜とすのに執着する?」
つい先日、体調不良を押して、ジリオラや達也の反対を押し切って出撃したのはまだ記憶に新しい。
無理を押してでも、一機でも多くの敵を叩き落とすと言い切ったあの日のシャーリーの反応と、その思い詰めた表情に少々違和感を覚えていたのは確かだった。
「好きだった人を、殺されたのよ。」
達也が煙草を一本灰にして、再びミネラルウォーターを数口飲み終わるだけの時間の沈黙の後、シャーリーがポツリと言った。
「・・・そうか。」
それはファラゾアの襲来以来、世界中のどこにでも転がっているよくある話だった。
世界中に無数に転がっていてはいても、当事者にとってはかけがえのない大切な者を失った重大で深刻な問題であるという事もまた、その全ての事例において共通していた。
「VMBO・・・ハイスクール時代にね、一歳年上の人と付き合っていたのよ。彼の方が先に卒業して、何を思ったか軍に入ってね。」
一言告白してそれで終わりかと思っていたが、シャーリーは再び話し始めた。
「『ちょっと心と身体を鍛えてくる。一期二年で戻ってくるよ』なんて軽い調子でね。あと二月で退役、ってとこで、奴等がやってきた。」
話しながらシャーリーが上半身を起こして達也と並んだ。
「運悪く、彼ね、陸軍の航空部隊だったのよ。回転翼の。回転翼より固定翼の方が操縦が簡単なんだってね。あたしは回転翼を触ったことがないから良く知らないけれど。
「ガンナーだったらしいんだけど、当然ある程度操縦はできるわよね。すぐに空軍に回されて、何ヶ月か訓練してから国連軍に出向になったらしいわ。奴等が来た初日にアメリカ軍とカナダ軍がボロクソに負けて、その応援にってシャマタワに送られたらしいわ。」
静かな部屋の中に、シャーリーの声だけが響く。
もう宵の口は過ぎたこの時間、発着する航空機も殆ど無くホームステッド基地は静かだった。
「戦死通知が来たのは、カナダに行くことになったって彼が一時帰省してから半年くらい経ってからだった。でもね、調べたら、着任してたったの五日で戦死してたのよ。」
シャーリーの声が少しかすれている事に達也は気付いた。
しかし何か言おうにも、かけるべき言葉が見つからなかった。
「半年間も、死んでしまったことを誰も知らないで。どこで死んだのかもはっきり分かっていなくって。今でも多分、ハドソン湾のどこかに沈んで。」
少し途切れがちのかすれた声に、僅かに鼻を啜る様な音が混ざる。
「分かってるのよ。どこにでもあるありふれた話だ、って。だけどね、あたしにとってはあの人はたった一人なの。だから絶対、奴等をゆるさない。」
消え入る様な小さな、そして高い声でシャーリーは最後の一言を一気に吐き出した。
静かな部屋の中には、彼女のすすり泣く声だけが聞こえる。
達也が左手を伸ばして小刻みに震えるシャーリーの肩を抱くと、彼女は達也に寄りかかり、額を左肩に付けて泣き続けた。
シャーリーの流す涙が、左腕を伝ってシーツの上に落ちる感覚があった。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
そう言えば、達也君まだ二十歳前でした。
ちょっと大人すぎるかな。
ま、戦争は子供を早熟化させる、ということで。
20020701:一部改訂(追記)