31. メモリカード
■ 2.31.1
逆井はハンドルを切って片側二車線の国道の右車線から左車線に移った。
前方から大手チェーンのコンビニエンスストアの看板が近付いてくる。
幅の広い歩道を横切る様に設けられているコンビニエンスストアの駐車場に入る斜路に向けて減速し、緑地帯を横切ってコンビニエンスストアの駐車場に入った。
毎朝の出勤途中のルーチンだった。
ここまで来れば職場の研究所まで1kmを切っている。
8時40分。だいたいいつもの定刻だ。
朝の通勤時間帯だというのに、駐車スペースの大半は空いている。
ファラゾア来襲以来、化石燃料の一般への供給量が大きく絞られていた。
産油地帯のかなりの部分がファラゾア制空圏下に入ってしまい、そもそも産油量が大きく下がっているという理由もあったが、大切な化石燃料はその殆どが航空燃料として精製され、航空機以外では殆ど太刀打ち出来ない対ファラゾア戦に投入されている為、ガソリン、或いはディーゼル燃料として一般に殆ど出回らなくなった。
燃料が無ければ車は走らない。
各家庭に所有されていた内燃機関式のエンジンを持つ自家用車はほぼ全てが大きな粗大ゴミ、或いは鉄屑と化した。
市民の生活を守るために電気だけは引き続き送電されていたので、電気自動車を動かすことは出来た。
しかしながら、約三十年ほど前に東日本を中心に発生した大地震に続いて東北地方で発生した、当時の日本が過去経験したことのない大規模な原発事故の結果、日本は原子力発電所の数を減らし、その分の電力を風力や太陽光などのいわゆる自然エネルギーに置き換えようとした。
当時丁度、世界的にも環境問題が声高に議論されるようになっており、国ごとの二酸化炭素総排出量の取り決めが出来たため、二酸化炭素を大量に排出する火力発電所を原子炉と置き換えられるだけの数建造できなかったという実際的な理由もあった。
四十基以上もあった原子炉によって生み出されていた電力量を安定して自然エネルギーで置き換えて賄うなど到底出来る筈も無く、ファラゾア来襲前から日本では電力の需給バランスがかなり危ういことになっていたのだ。
その危ういバランスを、ファラゾア来襲によって海上交通が殆ど遮断され、化石燃料供給量が大きく低下するという問題が直撃した。
総発電量の半分以上を化石燃料に頼る状態となっていた日本全体の総発電量が大きく低下する中、企業や重要施設への電力供給が優先されることで一般の家庭への電力供給が大きく絞られることとなった。
この事態に対する日本国民の反応は、化石燃料が不要かつ安定した電力供給が出来る原発を増加させるというものでは無く、「皆で節電して消費電力を抑え、この難局を乗り越えましょう」というスローガンのもとに自ら進んで爪に火を灯すような生活を選択するという、全国民が一致団結した、ある意味では日本国政府にとって非常に都合の良いものであった。
日本政府はこの国民による自発的なキャンペーンに内心大いに喜び、皆が不公平無く同じ電力量を使えるようにと、電力の配給制を提案した。
そして「不公平無く」という大好きな言葉に乗せられた日本国民は、快くこれを受け入れた。
まさに模範的社会主義国家の面目躍如と云ったところであった。
元来怖がりの日本人にとって数十年前に経験し、いまだ立ち入り禁止区域の残る原発事故の記憶は非常に強烈であり、例えば核分裂による原子力発電をより安全に改良しつつ増設して充分な電力量を確保する、と云った改善案を採用することが出来ないほどに恐怖で思考停止していたのだった。
いずれにしても、各家庭への電力供給が、本来の必要量を十分に満たすに足りない量の配給制となった今、電気で動く自動車を稼働させるだけの余剰電力が各家庭にあろう筈も無いのだが、それには逆井のような例外もあった。
政府関連機関の公用車、要人の公用車などである。
移動手段などとして車が必要なところには、チャージカードという名で呼ばれるID番号の振られた電気自動車が、政府からの支給という形で与えられていた。
驚いたことに、国立重力研究所人工重力理論部主幹研究員である逆井もまた、その電気自動車の供与対象であった。
元々国立重力研(NIG)と同じ市内にある別の国立研究所で量子物理学分野の研究を行っていた逆井は、ファラゾアが使用する戦闘機械を解析してオーバーテクノロジーを得ようとする国際プロジェクト(Project "Lolium Multiflorum(吸収:ラテン語)")に日本が参画し、人工重力制御と重力推進技術の解析・開発が日本に割り振られた後に発足したNIGへと転籍となった。
重力について専門的に研究を行っているトップクラス科学者は日本に殆どおらず、統一場理論研究を行っていた逆井に、「最も人工重力に近い者」として白羽の矢が立ったのだった。
ファラゾアの戦闘機械が人工重力による推進装置を持っている事は、すでに地球上の誰もが知っていることだった。
ただ、その人工重力の作り方を地球上の誰も知らなかった。
地球側の戦闘機に撃墜され回収されたファラゾア戦闘機械の残骸の人工重力発生器を解析し、その理論研究を行い、それを元にして人工重力制御と重力推進技術を速やかに実用化にこぎ着ける事を逆井は強く求められていた。
その研究プロジェクトの責任者として指名された逆井だったが、最寄りの駅まで直線でも10km近く離れており、バスも一時間に一本来るか来ないかのこの研究所に勤務するに当たり、一定以上の地位を持つ職員には研究所から電気自動車が貸与されたのだった。
コンビニエンスストアの棚には空きが目立つ。そして商品の値段も、ファラゾア来襲以前に比べると全体的にかなり高くなっている。
逆井は缶コーヒーを一つ手に取ると、レジで支払いを済ませた。
一般的な電子機器が殆ど使えない現在、支払いは現金で、レジも機械式のものに退化している。
店の外に出て缶コーヒーを開け、煙草に火を付けた逆井に近付いてくる男がいた。
「あ、あの。じゅ、重力研の逆井さん、ですか?」
いつ散髪をしたのか分からない程に長い髪の毛を後ろで束ね、よく分からない柄の黒いプリントTシャツを着て色落ちしたダブダブのジーンズを履き、黒いリュックサックを背負った小太りの男だった。
余り手入れをしていないと思われる、少し曇った眼鏡越しの眼が、落ち着かな気に視線をあちこちに飛ばしている。
最近では余り見かけることの無くなった、いわゆるオタクで引き篭もりでコミュ障という人種について人々がどの様な印象を持つか、という姿を体現したかのような男だった。
「・・・そうですが。あなたは?」
明らかに不審げな顔で逆井はその男を見た。
自分が地球防衛に深く関与するそれなりに重要な研究に携わっているという自覚はあった。
オープンとなっている国際プロジェクトであるので、一昔前のように重要な国家機密に対する他国の諜報員の接触という事態は余り考えられない、と研究所の総務部からの説明はあったが、用心するに越したことは無い。
それ程までにその男の風采と挙動は怪しすぎた。
いや、「本物」はこんないかにも怪しげな格好はしないんじゃないか? と、頭の中で自問していると、その男は肩に掛かったリュックサックを降ろして、その中に手を突っ込んだ。
「良かった、です。えっと・・・あれ。どこ行ったかな、あれ・・・あ、あった。」
まさか拳銃や爆発物を取り出したりはしないだろうな、と僅かに身構える逆井の前で、その男は掻き回していたリュックサックの中で目的のものを探り当てた様だった。
男は逆井の質問を完全に無視すると、リュックサックから電子機器用のメモリカードを一つ取り出した。
軍事用や官庁などの一部の特殊にシールドされたものを除いて、一般で電子機器が殆ど用いられなくなった今、余り見かけなくなったものだ。
今や明らかに怪しい人物を見る眼へと変わった逆井に、男はそのメモリカードを押し付けてきた。
「これを、見てください。逆井さんに渡せ、って、言われました。絶対に逆井さんの為になるから、って。逆井さんじゃないとダメなんだ、って。お、俺は中身見てません。よく分からないんで。じゃ、じゃあこれで。」
「おい、君。渡せって言われた、って、誰から? ちょっと待ちなさい。君!」
突然メモリカードを押し付けられたことで呆気にとられた逆井が我に返るよりも前に、その怪しい風采の男は後ろを向いて駆け出していた。
体型からして余り運動が得意そうには見えなかったのだが、男は走るのが案外に早く、その姿はすぐに隣のビルの陰に隠れた。
コンビニエンスストアの駐車場を横切り、逆井が歩道まで出たときには既にその姿はどこにも見えなくなっていた。
「何なんだ、あれは?」
逆井はそう言って、手の中に残されたメモリカードをしげしげと眺めた。
12TBと表面に書かれたそのカードはまるで、それを渡してきた男以上に怪しげな瘴気を放っているかのように逆井には思えて、思わず眉を顰めるのだった。
■ 2.31.2
夜21時。
コンクリート打ちっぱなしの何の化粧っ気もない内装の研究所の自室で、シミュレーション結果を表示しているモニタ画面から視線を外した逆井は、こめかみを右手の指で揉みほぐしながら背もたれにどっかりと身体を預けた。
そろそろ帰宅しなければならない時間だった。
しかし、ファラゾア機から取り出した重力発生器の解析が全く思うように進んでいなかった。
ガラス窓に隔てられた隣の実験室で、夜遅い時間にもかかわらず、何十個目かの重力発生器を慎重な動作で分解している技術者達に目をやって、逆井は深い溜息を一つ吐いた。
機械的に分解することは出来る。これは全く問題無い。
部品の構成元素を分析することも、まあなんとかできる。突拍子もない同位体元素が使われていたりして、一体どうやって再現すれば良いのか頭を痛める事も多いが、それでも分析結果自体は何とか出てくる。
最大の問題は、それらの部品がどの様な役割を担っていて、どの様に動作するのかがさっぱり分からない事だった。
つまり、重力発生器としての解析はまるで進んでいないと言って良い状態なのだった。
それはまるで、ネアンデルタール人に量子コンピュータを分解させているようなものだ、と逆井は自嘲した。
分解する程度なら出来る。しかし何がどう動くのか全く理解出来ない。
そう云う意味では俺はネアンデルタール人と全く変わらない。
逆井はまたひとつ、大きな溜息を吐いた。
ファラゾアの科学技術が何千年、何万年先に進んでいるのか知らないが、その差を僅か数年で解消しろという要求が土台無理なものなのだ。
幾らこの重点技術に人類の存亡がかかっていると発破をかけられたところで、無理なものは無理だ。
ネアンデルタール人が三日でグレイに進化して、量子コンピュータを作り始めることなど出来ないのだ。
NIG(国立重力研)に転籍が決まった時の、当時の上司の台詞を思い出した。
「逆井くん、喜べ。君のこれまでの努力が評価される時が来た。人類の未来を担う、極めて重要な仕事だ。国際プロジェクトが直々に君をご指名だ。君にしか出来ない。頑張ってくれ給え。」
その上司の顔に張り付いた満面の笑みは、上司が吐いた台詞の文面通りの物では無いことくらい分かっていた。
糞の役にも立たない、評価されることもない論文しか提出できない、ましてや研究室に大きな金を呼び込む事が出来る企業との共同研究など望むべくもない、地味で用途不明で先の見えない研究。
上司から何度も研究テーマを変えろと迫られ、その度にとりあえず矛先を逸らすための副業的な短期研究を行い、その結果を論文にすることで渋い顔の上司を何とか黙らせてやってきた。
そんな偏屈で、頑固で、そして愚にも付かない研究にいつまでもしがみついて、研究室の研究費ばかり浪費していく穀潰しを追い払えるとあれば、それは満面の笑みも浮かぼうというものだ。
歪んだ上司の笑みが記憶の中で渦巻き漂う。
クソ。本気になって取り組んで、結局何にもものにならないんじゃ、あのクソ上司が笑顔の裏で望んでいたとおりじゃないか。
見返してやろうとか、追い抜いてやろうとか、そんなつもりはさらさら無かったが、ただ再びあの笑顔にあざ笑われるのだけは我慢がならなかった。
頭を振ってその昏くねっとりと張り付いた笑顔を思考の中から追い出す。
ダメだ。今日は帰ろう。
こんな気分の時に無理に仕事をしても、きっと上手く行かないし、効率も悪い。
一旦家に帰って、飯を食って風呂に入って寝て、頭をリセットしよう。
散らかった机上を簡単に片付けて、端に寄せた参考文献の山を動かす。
積み重なった分厚い本の下から黒いメモリチップが現れた。
すっかり忘れていたが、今朝コンビニエンスストアの駐車場で一服付けているときに、前後左右上中下とどこから見ても怪しい見た目のニート男が手渡してきたメモリカードだった。
さてどうするか。
逆井は、黒いメモリカードを右手で弄んでいた。
12TBとは、随分大容量のカードを使ったものだ。少なくとも逆井自身、ファラゾア来襲前にこれほど大容量のカードを見たことは無かった。
このいかにも怪しいメモリカードの中身が気にならないと言えば嘘になる。
しかし、実はこの研究所のネットワークを一発でダウンさせるようなとんでもないウィルスが仕込まれてないとも限らない。
この手の出所不明な過去のメモリ媒体を読み取るための、強力なウィルス対策が施されたスタンドアロンPCが確か資料室にあった、と逆井は思いだし、席を立った。
今日はこの中身を覗いて終わりにしよう、と。
中身がエロ画像や萌え絵ばかりなら、変に身構えた自分を笑い飛ばす事で気分をすっきりさせて今日は終わりだ。ちょうど良い。
資料室に入って件のPCの電源を入れ、OSを立ち上げた後、持参したメモリカードをスロットにおもむろに差し込む。
カードはファラゾア来襲前に世界標準的に用いられていた形式でフォーマットされており、問題無く読み取れた。
ウィルスチェックを掛ける。
幾つか引っかかるファイルもあるが、脅威度は全てグリーンで、通常のファイルにごく簡単なマクロやバッチが組んであるだけの物だった。
どうやら攻撃的な意図はないらしい。
00_README_1st.txtといういかにもなファイル名のテキストを逆井は開いた。
30分後。
ほんの僅か前に、今日はもう帰ろうと決めたことなど、逆井はすっかり忘れてそのメモリカードの中に記録された情報に完全に夢中になっていた。
一つファイルを開くと、一つ新しい世界が広がるような気がした。
膨大な数のファイルを次から次に開いて、中身を確認し、図面を読み解き、文章を貪るように読んでいく。
そこには膨大なCADデータ、工程表、多数の特性図とその試験報告、工学的な解説文書、果ては取扱説明書から、主要な参考文献までが全て揃っていた。
これは、重力発生装置に関する理論的、工学的な解説書だ。
人工重力を発生させる理論、その為の装置、装置を製造するための周辺技術、組み立ての工程、完成後の装置特性と取扱法、重力発生装置を重力推進器として利用する方法。
その全てがここに揃っている。
あの男、何者だ?
少なくとも俺が知る限り、この地球上で人工重力を発生させる程にまで研究を進めているチームなどない。
という事はつまり、この技術は地球のものではない?
例えばあの風采の上がらぬ男は、ファラゾアの中の裏切り者かレジスタンスの様な立場の者で、この戦いの行く末を大きく左右するであろう人工重力の技術を地球人に漏洩することが目的だった、とか?
或いはあの男は見かけによらず、アインシュタインやエジソンなど足元にも及ばない程の大天才で、人工重力について理論から実用化までを全て自分で考え出してしまった、とか?
いやいやそれは無い。確かあの男は自分には中身が理解出来ないというようなことを言っていた。
・・・そんな事はどうでも良い。
逆井はだんだんどうでも良いことに脱線していく自分の思考を一旦リセットした。
これは、技術的ブレークスルーなどという生易しいものではない。
このカードに記録されているとおりに装置を作っていけば、人工重力発生装置が出来上がってしまうのだ。
この技術は地球のものではない。それは間違いないだろう。
しかしファラゾア来襲前の世界標準フォーマットを用いて、全ての文章が日本語で書かれていることから、このメモリカード内の情報を自分に渡そうと画策した者がいる。
出所など、どうでも良い。重要なのはここに格納されている情報だ。
もちろん、重力制御技術開発にいそしむ地球人に危機感を抱いたファラゾアが、こちらをミスリードしようと欺瞞情報を送り込んできたという可能性もある。
いずれにしてもこのメモリカード内の情報を理解し、自分のものにすることが必要だ。
理解すれば、情報の真偽も判断出来るようになるだろう。
これは家に帰ってシャワーなんて浴びてる場合じゃないぞ。
カードの安全性は確認されたのだ。自分が使用している端末を使って本格的に解析検証して理解する必要がある。
自室に戻り、まだ電源を落としていなかった端末にカードを差し込んだ。
さ。一度頭をリフレッシュしてクリアにしてから本腰を入れて取りかかるか。
最近凝り気味の肩を回しながら、逆井は煙草を吸いに自室を出て行った。
だから逆井は知らなかった。
いや、例え彼がモニタの前に座っていたとしても、気付くことは出来なかっただろう。
カードの中に格納されていた一つのごく簡単なプログラムが、端末のセキュリティを巧妙にかいくぐって起ち上がり、カードの中で小さく無数に分割分散されたデータを掻き集めるようにしてファイルを合成した。
最初に立ち上がったプログラムは合成したプログラムを起動し、そしてあらゆる痕跡と共に自らを消去した。
新たに立ち上げられたプログラムは、研究所ネットワーク内に張り巡らされたセキュリティなどまるで存在しないかの如くするりとすり抜け、ネットワーク空間の中に消えていった。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
重力研は、高エネ研のすぐ近くに存在するものとして考えています。
あと、どこかでも書きましたが、某世界で最初に反応弾食らった街に近いところで生まれ育ちましたが、私は原発推進論者の核武装論者です。ついでに無神論者です。
この点については個人的な主義なので御意見無用です。
(と書いとかないとうるさい人時々いるからね・・・)