31. 月世界旅行
■ 12.31.1
機体の大きさが気になったのは、格納庫の中でだけだった。
全長50m、最大幅で20m近い巨大な機体は、格納庫の中で不用意に機体の向きを変えると容易に壁にぶつかってしまうだけの大きさがあった。
しかしそれは格納庫の扉を出るところまでのことであり、今や離着床と呼ばれるようになった格納庫前のエプロンに出ると殆ど気にならなくなり、空へと舞い上がり大気圏から離脱する頃には機体の大きさは全くと言って良いほど気にならなくなっていた。
「フェニックス、こちらプレアデスコントロール。無事大気圏を出られたようで何よりです。早速ですが実機訓練に入ります。まずは高度20000kmで水平飛行に移って下さい。その後、高度を維持したままAIとのコミュニケーションのみの半自動操縦で、東方に向かって地球を一周して下さい。途中トラブルがあっても、極力手動操縦は使わず、AIとのコミュニケーションのみで対処するようにして下さい。勿論、緊急時には手動操縦にて安全確保願います。」
高度3000kmを越えたあたりで、邑楽試験飛行場の管制室からの通信が入った。
昨日行われた事前説明の中で訓練内容は伝えられていた。
そしてその内容は機体の管制システム、正確には管制システム下の航法システムにもロードされているのではあるが、さすがに全て機体のシステム任せというわけにも行かず、基本的には地上の試験飛行場の管制が全てコントロールする事になっている。
「フェニックスリーダ諒解。これより実機訓練飛行に入る。
「フェニックス全機、聞こえたな。高度20000まで上がった後に水平飛行。東に向かって地球一周。操縦はAIによる半自動。速度任意、針路任意。」
指示をやりとりしている間にも高度は急速に上がり、すぐに20000kmに達する。
「シヴァンシカ、高度20000kmにて東方へ転針。高度20000を保って東回りで地球を一周。速度は任せる。」
「対地球高度20000kmにて東方へ転針。対地球高度20000km、対地速度272km/s、角速度0.6°/secにて東回りで地球を一周します。所要時間は600秒。」
AIに対する入力は基本的に音声で行う。
音声認識技術は、ファラゾア来襲前にすでにある程度完成した技術が存在しており、AIが誤認識する確率は人間同士のコミュニケーションで聞き違えを発生する確率と同程度か、それよりも低い。
ましてやフォネティックコードを織り交ぜた軍隊式の指示であれば尚更だった。
そして一方では操縦桿やタッチパネルのボタンを使用したコマンド入力は、パイロットの意思の直接的入力であるとしてAIを介さず従来通り直接機体管制システムへと伝えられる。
それは即ち操縦桿を握って機体を操縦しながらでも様々なコマンドをAIを通して発する事が出来るという意味でもある。
今のところパイロットがやりたいことを先読みして実行するような便利な機能はさすがに持っていないものの、操縦に手を取られている間にも複雑な命令を出して実行させる事が出来るAIの補助は、優秀なコパイロットあるいはナビゲータが同乗している様なものだった。
達也は複座の戦闘機を操縦した経験を持たないが、コパイロットやガンナーとコンビやチームを組んで戦闘に突入する攻撃機を操縦するのはこんなものなのだろうかと、シミュレータの仮想空間での戦闘訓練の中でその便利さと効率の良さに、珍しく羨ましいという感想を持ったりもしたものだった。
しかしこれからは、幼馴染みの名前を付けたこのAIが自分の行動や戦い方を学習して、こちらのやりたいことを瞬時に理解して実行してくれるようになれば、さらに学習と改良が進んで先読みさえしてくれるようになれば、長くチームを組んだ相棒とのコンビネーションと同様の、或いはそれ以上に相性の良いパートナーになる可能性もあった。
そうなれば、人間には対応できない、人間の戦う場所では無いと違和感を感じ続けた宇宙空間での戦闘をより有利にスムースに進めることが出来るようになるかも知れないと、達也はAIというものにかなり期待を寄せていた。
ミリ秒という刹那の応答速度でパイロットを補佐するために軍や兵器開発者の辿り着いた答えが、人間のナビゲータやガンナーでは無くAIを搭載することだったのだろうが、人間関係の煩わしさに悩まされることも無く、戦場では全く無駄どころか事態を悪化させるばかりの感情というものに左右される事のない機械のパートナーは、達也にとってこの上なく都合の良い、ことによると人間のガンナーよりも信用のおける相手だと思えるほどだった。
「地球一周完了まであと15秒。」
AIに操られた機体はきっかり十分で地球を一周して日本上空へと戻ってきた。
「フェニックス、こちらプレアデスコントロール。全機問題無く地球一周できたようで安心しました。次の課題に移ります。三十秒後に月に向かって進路変更してください。その後、月の向こう側を回って再び日本上空まで戻ってきて、今度は高度20000kmにて対地速度ゼロで静止してください。速度加速度航路共に任意。」
今では月周回軌道を防衛用の有人ステーションが周り、散発的に火星から来襲するファラゾアを迎撃するために月軌道よりも遙か遠くまでスクランブル出撃するのが当たり前の事となってしまっているが、このファラゾアとの戦いが始まった頃の世の中の常識を知る者として、訓練飛行で気軽に月の向こう側を回ってこいと云う要求が出されることに対して達也は軽く苦笑いを漏らす。
AIに付けた幼なじみの名前を連呼するからか、達也はファラゾア来襲直後の頃を色々と思い出していた。
世の中も戦い方も、昔と較べて大きく変わってしまった。
勿論、そうで無ければファラゾアを撃退することなど出来はしないのだが。
「シヴァンシカ、20秒後に進路変更。月の向こう側を回って日本上空に戻ってくる。航路、加速度ともに任意。日本上空に戻ってきたら、高度20000kmで対地速度ゼロで静止。予定航路をHMDに図示しろ。」
「最大加速度3000Gにて118秒、20万6100kmまで加速の後、3000Gにて減速し月周回軌道に入ります。月面高度1000kmを対地速度284km/s、角速度3.0°/sにて東回りに加速度3000Gで旋回しながら周回、月を半周した後61秒後に月周回軌道を脱出し、加速度3000Gのまま地球に向かいます。109秒後に3000Gで減速に入り、日本上空高度20000kmにて静止します。全行程に必要な時間は520秒です。」
流石と云うべきか、機体管制システムとその下層の航法システムとも直接的にインターフェイスして航路計算が出来るAIは、達也からの指示を聞くと瞬時に航路を提案してきた。
しかも、フル加速で遠心力を打ち消しながら僅か1分で月を半周し、10分足らずで地球に戻ってくるという信じられない行程だ。
AIが合成音声で航路を説明すると同時に、二次元のワイヤーフレーム画像による航路概略図がHMDに表示された。
流石に概略図をアニメーションで動かす機能は持っていないようだったが、不必要な処理能力を取られるだけなのでそれはこのままで良い。
要は数値で読み上げられるだけの航路が視覚化され理解できれば良いのだ。
指示を出した後瞬時に最速の航路を計算して返す、その打てば響くようなAIの反応に達也は気分を良くする。
「諒解した。その航路で良い。完璧だ。カウントダウン開始。」
「カウントダウン開始します。12、11、10・・・」
カウントがゼロになった瞬間、HMDに投映されている機体外の景色が動いた。
機体は月に向かって猛加速を開始すると同時に姿勢を変え、機首を月に向ける。
HMD画像の中で月が正面に投映され、目に見えて分かるほどに徐々に大きくなる。
機体の針路を示すフライトパスマーカが、自動操縦である今は黄色の菱形になって正面の月を僅かに右に逸れた位置に表示されている。
手持ち無沙汰の達也が周りを見回すと、周囲に八機、PHOENIX02から09までのキャプションが付けられた僚機のマーカが一斉に月に向かって飛んでいるのが見える。
ある者は達也と似たような航路で飛び、また別の者は達也機とは別の方向から月を周回するつもりの様で、数千kmの距離があると表示されていた。
編隊を組んで機動するような指示を出していない以上、このバラバラの状態で良いのだ。
そもそも宇宙空間では、編隊を組んでさえ各機体の間隔が数百から数千km離れることも珍しくない。
「減速開始します。加速度3000G。月周回軌道到達まで109秒。」
HMDの視野を半分埋めるほどまでに巨大になった淡く白い月が、恐ろしくなるほどの勢いで近付いてくる。
「月周回軌道に到達。加速度3000Gで遠心力を相殺しながら、対地高度1000km、対地速度284km/sで月を周回します。」
AIの感情の無い声が月に到達したことを告げ、次の瞬間再び機体姿勢が変わった。
機体は強烈な遠心力を相殺するのに最も安定した姿勢、即ち機首を真っ直ぐ月の中心に向けた状態で、まるでドリフトするかのように横向きに弧を描きながら地上1000kmを飛行する。
柔らかな白色の地表と、僅かにくすんだ灰色の海で彩られた月の表面の景色が、機体が月の周りを回るにつれて大小夥しい数のクレーターに埋め尽くされた月の裏側の表面へと変わる。
その月の地表の画像が目の前をゆっくりと右から左に流れていき、そして夜の部分に入って視野が暗くなる。
やがて目が暗さに慣れてくると、地球光を受けてほのかに青白く映し出される凸凹とした月の表面の地形が認識できるようになったが、その時にはすでに月を離れなければならない時間だった。
「月軌道を離脱します。加速度3000Gで地球に向かいます。105秒後に加速反転、減速に移ります。」
今まで月を向いていた機首が地球を向く。
目の前にあった巨大な灰色の月の影が視界の左に一瞬で消え、それと入れ替わるようにして右側から青い十一夜程度に欠けた地球が視野に飛び込んできた。
徐々に大きくなる地球を眺める。
大きくなるのが分かるほどの速度で近付いているのだから、相当な速度が出ているはずだった。
HMDの隅に表示されている対地球速度を確認すると、2800km/sを越えてまだ一の位が目にも止まらぬ速度で増加していく。
戦場が宇宙に移り、それと同時に宇宙に出撃するようになった達也にとってそれはもう見慣れた光景の筈だった。
しかし、視野の中で徐々に大きくなっていく青い星を眺めるのが達也は好きだった。
何度見ても、見飽きるという事が無かった。
この星を護りきった、取り返したなどという陳腐な感慨では無く、殆ど滅亡を覚悟して絶望の淵に沈んでいた地球人類が、敵の技術を吸収して自らの技術を育み、以前では考えられなかったこの場所に到達している、そしてそれがもう当然の日常となっていることに喜びを覚えた。
そしてその様な技術の粋を集めて造られた戦闘機に乗って、今ここに自分が居て外から地球を眺めていることに。
まだ自分が生きてここを飛んでいることに。
まだまだ予断を許さない、どころか滅亡と絶望の淵から這い上がろうとしてやっと指先が僅かに岸辺に掛かっただけでしかない地球人類が、このまま生き延びることが出来たとして、その後地球人はどこまで行けるのか。
どこに向かって羽ばたいていくのか。
太陽系を飛び出し、遙か彼方に無限に続く宇宙へとさらに飛び出していくのか。
それは一体いつのことか。
多分自分が生きている間に実現し、そしてその当事者となることは流石に無理であろうが、いつか遠い将来にまるでSF映画の様に地球人が銀河狭しと飛び回る姿を想像するのはとても楽しく、心が浮き立つような思いを達也に与える。
「到着しました。日本上空20000km、対地速度ゼロ、静止しました。」
感情のこもらないAIの声が、銀河の彼方へと飛び立っていた達也の思考を現実に戻す。
「諒解。他の機体はどうだ。トラブった奴は居るか?」
「当機が最初に到着しました。フェニックス07が8秒後に当機からの距離560kmの位置に到着します。02が10秒後、04が13秒後です。トラブルが発生した機体はありません。」
「オーケイ。現状で全機到着を待つ。待機。」
「諒解。」
その後続々と僚機が到着する。
「フェニックス、こちらプレアデスコントロール。全機問題無く帰還できて何よりです。エラーが発生している機体はありませんか? AIは問題無く動作していますか? こちらでもモニタしていますが、何か気付いたことがあれば言って下さい。問題無ければ、次の課題に移ります。次は小隊ごとにデルタ編隊を組んでの機動を行います。1分後に月に向かって加速。条件は先ほどと同じです。ただし今度は各小隊でまとまって行動してください。」
ということは、また月の向こう側を回ってこなければならないのか、と達也は少々うんざりとした感情を抱く。
いくら10分程度で行って還って来ることが出来るからと云って、月というのは一日にそう何度も行き来する所ではないだろう。
少なくとも今までの世間一般の常識ではそうだった。
しかしその達也が提唱する一般常識に反して、その日達也達は八回ほど月と地球の間を往復させられ、さらには月軌道よりも遠くまで四回も脚を伸ばすこととなった。
流石にウンザリと疲れた顔で地上に戻ってきた達也を、格納庫のパイロット詰め所で懐かしい顔が待っていた。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
皆様新年明けましておめでとうございます。
今年も引き続き宜しくお付き合いのほどお願い申し上げます。
新型機で月の向こう側をぐるり月世界旅行ですね。
そして新生シヴィーちゃんも本格的に活動開始です。
月の向こう側を3000Gもの遠心力が掛かる高速で駆け抜けています。
遠心力に対抗してAGGで重力をかけて打ち消しています。
となると、潮汐力が気になる方が居られるかも知れません。
が、この場合、旋回の中心である月の中央部は約3000km彼方と十分に遠く、それに対して達也の身体、或いは紫焔の機体は十分に小さい上に、打ち消すためのAGGによる重力場は均一かつ並行な重力場なので、潮汐力は十分に小さいものとします。
でないと、機体がバラバラどころか、達也の身体もバラバラになりかねません。(笑)
大丈夫です。地球には月があるので、シヴィーちゃんはちゃんと潮汐力まで計算に入れています。
ゼネラルプロダクツ社の船殻の様な事にはならないのです。ふふふ。