7. 青い惑星(ほし)
■ 10.7.1
空は暗く、地球は青い。
今から百年近くも前、人類で初めて宇宙空間に到達したロシア人がそう言ったという。
見回してみたが、神は居なかった、とも。
月の表面から僅か400kmしか離れていない超低空を、相対速度2000km/sにも届こうかという狂った速度でかすめて飛び、その速度のまま四発のミサイルを敵艦隊に向けて叩き込んだ後に、最大で地球から80万km近く離れた長楕円軌道を取って1000Gものイカレた加速で減速した後に、帰り道は比較的マイルドな加減速で地球に帰り着くという行程を機体が飛行しているおよそ三十分もの間、やる事の無い達也はひたすらHMDに映し出される外部モニタ画像を見て過ごした。
作戦後、生還率を高めるために無用な電磁波などの放出は禁止されており、自分と同じ様に、厳しい作戦を終えた後にやる事がなく手持ち無沙汰になっているであろう僚機と会話する事も禁じられていた。
整備兵のオットーが言っていた様に、作戦中に美しい宇宙空間の天体ショーを見る必要などは無く、攻撃目標と航法に関するマーカや数値がちゃんと読み取れる事がHMDモニタに要求される性能だった。
その為、HMDに映し出される宇宙空間は、まるで能力が足りないプロセサ上で強引に走らせている3Dゲームのテクスチャの様で、粗くぼやけて滲んでいて、美しさに感動するには余りに平坦で雑な映像だった。
達也はふと思い付いてコクピット内の空気を脱気した。
宇宙空間を航行中のミョルニルのコクピットは、最低限の与圧により0.3気圧の空気、正確には30kPaの酸素窒素混合気体が充填されている。
0.3気圧というのは、万が一パイロットスーツの気密が完全に破れてしまったとしても、最低限生命維持活動を維持するに十分な気圧であり、且つ充填必要空気量を1/3に抑えることが出来るという、絶妙な空気圧である。
尤も、簡易的な船外活動服であるパイロットスーツの気密が破れるような事態に於いて、コクピットの気密が保持されているかどうかと云う点については甚だ疑問であると言って良いが。
コクピット後部には、コクピット内を数回満たす為に充分な量の予備空気タンクが備え付けられており、宇宙空間では同じ重量の黄金よりも遙かに価値の高い空気を無駄にする事無く回収して、その空気タンクに押し込むための真空ポンプも備え付けられていた。
真空ポンプが動作する振動音が低くなり、コクピット内環境を示すインジケータの表示が1.0 x 10E-3 kPaを割った事を確認した後、機体姿勢を太陽に腹を向ける様に調整してから達也はキャノピ解放のボタンを押した。
機体を伝わって聞こえる軽い摩擦音と共にキャノピは開き、徐々に開いていく暗灰色のキャノピの向こうに、青く光る、白い雲のまだら模様を纏った地球が見えた。
それは息を呑む様な光景だった。
濃い青色の地球の周りには、色とりどりに光る大小無数の星が煌めき、我ながら間抜けな感想ではあったが、確かに地球は青く、そして何も無い宇宙にポツンと浮かんでいるのだと思った。
達也は右手を使ってヘルメットのHMDバイザーを額の上に跳ね上げた。
ヘルメットのシールドバイザーはメロウスモークで着色されているとは言え、肉眼で直接見る宇宙空間は、ロシア人が言うほどに暗いとは思えなかった。
そこには文字通り無数の星が、まるで漆黒の床に砂を撒いたかの様に、或いは闇の中で非常識に大量のLEDをそこら中に乱雑に飾り付けて一斉に明かりを灯した美しくも豪快なアトラクションを眺めているかの様に、静かに冷たく、しかし息をする事さえ忘れてしまうほどに美しく光っていた。
その賑やかに光る暗黒の空間の中で、テニスボールほどの大きさに見える青く光る惑星がひときわ目立っていた。
少し左に視線を移せば、不釣り合いに大きな衛星である月が、静かに佇み柔らかな色合いの白い反射光を放っている。
その青い星が生まれ故郷かと問われれば、そんな現実感などまるで無かった。
だが知識として、その惑星上で自分が生まれ育ったという事は知っていた。
しかし今、人だけでなくありとあらゆる生命が生存する事が不可能な、美しくも冷たく残酷なこの宇宙空間に居て、遙か彼方に頼りないほどに小さく見えるその青い星が視野に入れば、理由も理屈も何も無く、ただ強烈にそこに還りたいと渇望する思いが胸の内に湧き上がってくる事を感じた。
それは、そこが生まれた場所であると、自覚できないほどの記憶の深みに刻まれた、地球上で生まれたありとあらゆる生命が持つ本能なのか。
或いはただ単に、生存不能である真空の中で、眼前に空気がある場所を捉えた「渇き」によるものか。
機体のログを調べられれば後で色々やかましく言われるだろうが、しかしキャノピを開けて肉眼で直接地球を眺めてみて良かった、と達也は思った。
例え生まれ故郷という実感など無くとも、自分が護りたかったものの全てが、そこに存在する事だけは確かだった。
護りきれなかったものも、それでも今でもまだその惑星の上に存在する事だけは、確かだった。
今でも彼女の肉体は地上にあり、肉体を離れた魂もまたこの星と共にあるのだろう。
それはそう思わせるだけの美しい景色だった。
ロシア人は、見渡してみても神は居なかったと言った。
だが達也が聞いている現実の情報では、言わば「神」が宇宙の彼方から還ってきたのだと、暗い部屋の中で眼鏡を光らせながらアメリカ人の大尉は言った。
神など居てたまるものかと思った。
その様な想像上の胡散臭い存在に彼女たちの魂が拉致されるなど、我慢がならなかった。
彼女は今でもあの美しい青い惑星の上に在る。
そしてその「神の様なもの」にこれ以上何かを奪われるのも我慢がならなかった。
その様なものなど、見つけた片っ端から全て叩き潰して、ただの一匹でさえも生きる事を許しはしないと、達也は胸の内に暗く静かに燻り続ける強い怒りを新たにする。
そう、まさにその、宗教上ではなく、生物学上の意味において「神」と呼ぶ事の出来る存在の者達の艦に、つい今しがた何発もの核融合弾を叩き付けて、この冷たく残酷な宇宙の暗闇の中に葬り去ってやった様に。
コクピットのシートに固定されたまま、地球に向けて自機が自動操縦で帰還していく間中、達也は徐々に大きくなっていく地球を時間の許す限り眺め続けた。
■ 10.7.2
数十万kmという果てしのない距離を僅か一時間足らずで踏破し地球へと還ってきた機体は、太平洋上空100kmに到達すると対地球相対速度をさらに落として1.5km/sとし、先ほどまでの頭がイカレているとしか言い様がない超高速に比べればまるで淑女がしずしずと湯船に脚を浸け入れるようにゆっくりと大気圏へと機体を沈めていった。
午後の時間の地上から見ればかなり西に寄っているであろう太陽が、丸みを帯びて見える太平洋に反射する。
所々に大きな積乱雲の塊があり、その積乱雲から流れてきたのであろう湿り気を多く含んだ空気の向こうに透けて、陽光を反射して光る太平洋が赤っぽく見える。
戦いを終えた黒灰色の機体はゆっくりと高度を下げていき、まるで洋上に浮かぶ浮遊物の集まりのように見えていたハワイ諸島が、高度が下がるに連れて徐々に大きくなって細かな起伏や市街地の概形までがはっきりとしてくる。
大気圏内に進入したことで自動操縦が切れ、達也は手動操縦で操る機体をパールハーバーの入り口に面したヒッカム宇宙軍基地の広大なエプロンへとゆっくりと誘導した。
「フェニックス02、お疲れ様だ。Bエプロンの駐機スポットに着陸し駐機せよ。マーカを設置してある。隣の機体にぶつけるなよ。」
高度10000mを切ったところで、ヒッカム基地の管制から着陸の指示があった。
どうやら滑走路に降りるのではなく、エプロンへ直接降りる指示のようだった。
完全重力推進であるミョルニルは、ジェットエンジンを持つ機体に比べると着陸脚を接地させての移動が少々苦手だった。
エプロンへ直接着陸することで地上移動距離が短くなるのはありがたかった。
高度5000mまで降りると、エプロン上に駐機する機体がはっきりと見えてくる。
666th TFWは一番東側に横隊を作って一列になって駐機しているようだった。
そのすぐ西側に0182TFS、一番西側に0183TFSが並んでいる。
駐機スポットはまだ1/3も埋まっていなかった。
自動操縦とは言えども、敵の攻撃を回避したりすることで全ての機体が同じ航路を取れたわけではないだろう事は想像に難くない。
大気圏内のように密集した編隊を組んでいるわけではないので、同じ小隊でも航路に相当な差があり、小隊の三機が同時に帰還してくるのは難しいのだ。
事実0666A1小隊も、マリニーも武藤も突撃中にバラバラにはぐれてしまい、自動操縦で暇が有り余っていた帰還中に二人の機体を探してはみたものの、数百kmから1000km程度の比較的近くに重力推進で減速する地球連邦軍機が何機かいることは分かったのだが、IFFへの応答も含めたあらゆる信号の送信を禁じられた状態では、どれが武藤でどれがマリニーか、判別することは全く出来なかったのだ。
どうやら自分は結構早めに帰還した方らしいぞ、とまだ殆ど埋まっていない駐機スポットを眺めながら達也は思った。
まさか2/3の機体がMIAになっているなどとは考えたくもなかった。
0182TFSも、0183TFSも「ボレロ」の中心的な役割を果たす潜水機動艦隊の艦載飛行隊に選ばれるだけの腕を持った連中なのだ。
ましてやST部隊である666th TFWが半分も未帰還になるなどあり得なかった。
今から続々皆帰還してくるだろう。
地上の駐機スポットに合わせて緑色の菱形で表示されている駐機マーカに機首を合わせて1m/s程度のゆっくりとした速度で機体を降下させる。
最後の数mは、さらに降下速度を落として0.3m/s程度に合わせる。
ドシリと着陸脚が接地した感触があり、アブソーバの反発で機体が浮き上がろうとする。
そのタイミングに合わせて達也はGPUをカットした。
機体を持ち上げていた力が無くなり、機体は地球引力に従ってずっしりと駐機スポット上にその大柄なボディを落ち着けた。
AGGカット、リアクタ出力低下。キャノピオープン。
機体を伝わってゴトゴトとラダーを引っかける音が聞こえ、ラダーに昇ってきたオットーがコクピットの縁からひょいと顔を出した。
達也がヘルメットのイジェクトボタンを押しながらヘルメットを左へ60度回すと、ガチャリと音がしてヘルメットの固定が外れて、ヘルメットの中に外気が流れ込んできた。
花の匂い、土の匂い、機械油の匂いと、そして潮の匂い。
合成されタンクに詰められた空気には無い、地球の生きた空気の匂いがした。
「お疲れさん。生き残ったな。大戦果だったぞ。戦艦三隻、非戦闘艦三隻、駆逐艦四隻撃沈だ。残りの駆逐艦四隻は、尻尾巻いて逃げ出したってよ。」
コクピットの中に向けて突き出されたオットーの拳に自分の左の拳を打ち付け、ヘルメットをコンソールの上に置いて達也はシートベルトを外し始める。それをオットーが手伝う。
前回の八年前の大失敗だった作戦の雪辱を果たす、満足のいく戦果だった。
これで宇宙空間でもファラゾアと戦えることを証明できたことになる。
「まだ余り還ってきていないな。」
達也は周りを見回しながら言った。
666th TFWの駐機スポットには、達也を入れてまだ六機のミョルニルが駐機しているのみだった。
「続々還ってくるさ。ただ、それなりに損害は出ているらしいが、な。」
「誰が墜とされた?」
「まだだ。作戦のスケールがデカすぎて、飛行隊本部でも把握出来きっていないらしい。還ってこない奴を確認して、GDDDSの詳細データを突き合わせて確認しないと分からんとさ。難儀な話だ。」
そうやってオットーと会話をしている内に、上空からゆっくりと黒い機体が降りてきて、666th TFWの列の一番向こうに駐機した。
レイラが還ってきたようだった。
達也はコクピット内で出来る機体停止処理を行い、シートベルトを全て外したが、そのまま空を眺めていた。
空にポツリと小さな点が見えてきて、そのままゆっくりと大きくなり、さらに降下してきた。
そのダークグレーに塗られた機体は、666th TFWの駐機列にゆっくりと近づくと、達也の機体から一つ飛ばして向こう側、A1小隊3番機の位置にピタリと止まった。
マリニーの機体だった。
「どうした? 降りねえのか? ここじゃ暑いだろうが。」
南国の暖かい風が吹く中、まるで日陰のないエプロンに駐めた機体のコクピットに、殆ど宇宙服であるごついパイロットスーツを着たまま座り続けるのは、確かに考えただけでも暑そうだった。
しかし実際のところは、跳ね上げた不透明なキャノピの影でちょうど日差しが遮られて、想ったほどに暑くはなかった。
「もう少しここに居る。あいつ等が還ってくるのを見て迎えてやるのも悪くない。」
レイモンドの機体が駐機スポットにピタリと止まり、それに続いて0182TFSの機体が降りてくるのを眺めながら達也は言った。
「は。好きにするさ。納得いくだけ座り続けたら、戻る前にその辺の整備兵に声を掛けてくれ。機体をハンガーに入れて整備する。」
「オーケイ。」
オットーは、達也の行動に理解不能だという表情を見せ、肩を竦めるとあきれ顔のままラダーを滑り降りていった。
マリニーの機体の向こう側に沙美の機体が降下してきて、そのこちら側ではごついパイロットスーツを着たマリニーが、整備兵の手を借りながらいかにも重そうにコクピットから這い出して来るのが見える。
0182TFS、0183TFSの機体も、次々と降下してきて駐機スポットに駐まっていく。
もう全体の半分近くの機体は帰還してきただろうか。
しかしその日、いつまで経っても達也の機体の両脇の駐機スポットが埋まることは無かった。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
宇宙空間でキャノピ開いて、被曝量とかどうなってんだ!? というお話ですが。
まあ、放射線強度が少々高くても10分くらいなら大して被爆はしないでしょうし。
一応、太陽に背中(腹?)向けて、直接当たらないようにはしてますし。
各線冬期から信号を発信するわけにはいかないので、基地の方でバイタルモニタなどはしていないため、コクピットを脱気した瞬間に飛行隊司令部から怒鳴られると言うことはないのですが。
帰還した後、機体のログ解析されたあとで相当怒られるものと思われ。w
もちろんそれをまともに聞く達也では無いでしょうが。(笑)
例えそれでも、ナマ地球とナマ月を、肉眼で直接見る価値はある。(断言)