12. 死者への鐘
■ 2.12.1
「シッダースさん!?」
その男はキャンプのメインストリートを、ラチャブリの街がある方角の西側から歩いてきた。
薄汚れた半袖の白いシャツの裾を出し、裾が擦り切れたグレイのズボン、すり減って今にも穴が空きそうなサンダルを引っかけ、埃にまみれた茶色の革鞄を肩から提げていた。
突然自分の名前が呼ばれたことで、男は視線を声の方に向ける。
達也と視線が合う。
男は一瞬達也が誰か分からなかった様だったが、すぐに眼を見開いた。
「タツヤ? タツヤじゃないか! 生きていたか! シヴァンシカも一緒か!?」
男が自分の呼びかけに反応し身元が明らかになったことで、タツヤは立ち上がってシッダースの元に駆け寄った。
駆け寄った達也の両肩に手を置き、シッダースは満面に喜色を浮かべる。
「ええ。シッダースさんもご無事で。シヴァンシカは別のところで仕事をしています。行きましょう。」
事務所が開くまでまだ一時間以上ある筈だ。シヴァンシカが働いている事務所に行って戻ってきてもまだ余裕がある。
達也はシッダースを促してシヴァンシカが働く事務所に向かった。
シヴァンシカの働いている倉庫事務所までは、ゆっくり歩いても10分もあれば到着する。
キャンプの中の難民が仕事を探してうろつき始めるのと、キャンプの外から色々な事務所で働いている職員達が出勤してくるのとでごった返すゲート近くの道沿いに、その事務所はあった。
達也と同じ様にシヴァンシカも、職員がまだ出勤してきていないため解錠されていないオフィスのドアの脇にしゃがみ込み、眼の前の通りを行き交う人々を見るとも無く眺めている様だった。
その脇に二人の人影が立つ。
一瞬怯えた様な表情を見せて廊下にしゃがんだまま二人を見上げたシヴァンシカの瞳が大きく見開かれ、そして見る間に喜びの色で染まる。
「お父さん!!」
シヴァンシカはしゃがんでいた体勢から立ち上がった勢いのまま父親に抱きついた。
シッダースは愛娘が生きていた喜びの余りの大きさに、声を上げることも出来ずシヴァンシカを抱きしめて涙を流している。
そんな二人に注意を払う者も無く、人々は通りを歩いて行く。
難民キャンプではよくある光景だった。
離ればなれになっていた親子の再会、行方の知れなかった恋人を見つけ出した喜び、愛する者達の元へやっと辿り着いた安堵。
そして知らされる喪失と別れ。
良く知る者達の顔を見つけた喜びと、最愛の者を失った事を知らされ力を失って倒れる様に地面に膝を突く男。
隣人の家族にやっと会えた安堵も束の間、両親の死亡を告げられて呆然と立ち尽くし涙を流す子供達。
子供達の死亡を知らされて泣き崩れる母親。
「お母さんは? ねえ、お母さんは!?」
抱きついたまま母親の安否を問う娘をゆっくりと身体から離し、両肩を持った父親の眼には哀しみの色が溢れている。
ああ、俺の母さんももう居ないんだ、と、シッダースのその表情を見て達也は悟った。
アパートメントがあった場所に開いた巨大なクレーターを見たときに覚悟はしていた。
シヴァンシカも、共に見たあの爆発跡から母親がもう居ないことは分かっている筈だ。
それでも、父親に問わずにはいられなかったのだろう。
もしかすると、生きているという答えを聞くことが出来るかも知れないと云うあり得ない望みを抱いて。
だが、その望みは叶えられることは無かった。
シヴァンシカが俯く。
「シヴァンシカ。シッダースさんをテントに連れて行ってあげた方が良い。疲れてるだろうし。行って帰ってきてもまだ仕事には間に合うだろ。」
仕事を休むにしても、始業前に事務所の誰かに言伝も出来る。
「・・・そうね。そうする。お父さん、行こう。私達のテントに案内する。」
「あ、ああ。タツヤ、君のご両親は・・・」
ご両親は、と言うからにはシッダースも両親の事を知らないのだろうと達也は悟った。
「分からないんです。仕事が終わってから、いろいろお話しさせて下さい。」
「・・・そうか。」
済まなそうに目線を伏せるシッダースの手をシヴァンシカが引く。
二人がテントの方に歩き出すのを僅かに見送って、達也も踵を返して仕事場に戻っていった。
今日ほど仕事が終わる時間が待ち遠しい日はこれまで無かった。
何度見上げても時計の針は遅々として回らず、まるで時計が止まっているか、或いは誰かが悪戯して巻き戻しているのではないかとさえ思えるほどだった。
もちろんその様なそわそわとした態度は事務所に勤める国連の職員の全員にすぐにバレてしまい、昼休みに入る少し前にディンという名のベトナム人の職員に苦笑いと共に呼び止められた。
「タツヤ、どうした? 今日は随分と時計が気になるみたいじゃないか? 子供でも生まれるのか?」
子供云々は半ば冗談だろうが、実際のところこのキャンプの中では十五歳前後で子供を持つ者も多い。
地球外からの侵略者に攻め込まれ戦時下という異常な事態の下、シンガポール政府はクアラルンプールに暫定政府を置いた状態で実質的に難民の管理などまるで出来ておらず、避難先のタイ政府は最低限難民の命の面倒は見てくれるが、生活の内容までは関知しない。
国連の難民救済活動事務所は、耳障りの良い綺麗事を並べ立てて自己満足に浸っているだけで、難民の生活環境改善や子供の就労・教育問題に対して具体的に何が出来るわけでも無かった。
その様な環境下で、性欲を持て余して好奇心旺盛な子供達が子供を作ったり、生きるために金が必要な年端もいかない子供達が仕事をしたり、或いは身体を売って金を稼いだり、半ば犯罪集団のような徒党を組んだりすることを止める事が出来よう筈など無かった。
もっとも達也もシヴァンシカも、その頼りにならない国連の難民救済事務所で働いて金を得ている訳なので、そういう意味では国連の職員達にここに居て貰わなければ困るわけだが。
「今朝、同居してる幼なじみの父親が訪ねてきたんです。『最初の日』以降お互いの肉親の安否は一切分からなかったのですが、もしかしたら彼が俺の両親のことを何か知っているかと思って。」
「あー、成る程な。そりゃ気もそぞろにもなるわけだ。」
そこでディンは壁に掛かった時計を見上げた。
時計の針はあと10分ほどで昼食の時間になることを告げていた。
「タツヤ、今日はもう帰れ。気になって仕事どころじゃないだろ。オーエンスさんには俺から伝えておく。」
「いいんですか?」
「構わねえさ。その分明日しっかり働け。」
「有難うございます。じゃ、お言葉に甘えて、昼で帰ります。」
「いいって。日本人ってのはガキまでクソ真面目だな。昼まであと十分だ。大して変わりゃしねえよ。もう上がれ。」
「わかりました。有難うございます。じゃ、また明日。」
「おうよ。」
達也は手に持っていた梱包用の資材を倉庫スペースに戻すと、事務所を出て駆け出した。
ディンに言った理由は正しくは無かった。
朝のやりとりで、シッダースも両親の行方を知らないのだろうという事を達也は推察していた。
それよりも、シッダースは当然娘であるシヴァンシカを連れ去るであろうという事の方が、達也の心を激しく揺り動かしていた。
あの日学校を出た後、ファラゾアの襲撃を生き延び、難民列車でタイまで移動し、子供ながらにお互い支え合いながら二年も一緒にやってきたのだ。
その関係を相棒と呼ぶか、伴侶と呼ぶかはともかくとして、既に達也の意識の中では彼女と一緒に居るのが当たり前であると、当然のこととして固定されていた。
事実、彼等が住んでいるテントの周辺では、年齢はともかく二人はほぼ夫婦同然の扱いをされている。
そのシヴァンシカをシッダースが連れ去ろうとしてる。
多分、シヴァンシカは今日の仕事を休んだだろう。
今まで彼等が暮らしてきたテントの中で、二人でどの様な話をしているか、どの様な結論に達したのかが気になって仕方なかった。
もちろん、未成年のシヴァンシカを実の親であるシッダースが保護し連れて行くのは当然のことだと理解はしている。
しかし頭で理解するのと、心で納得するのは全く別物なのだと達也は知った。
自分達のテントまで戻って来て、声を掛けて中に入る。
果たして、シヴァンシカは仕事を休んでテントの中に居り、随分前に廃材捨て場から拾ってきた擦り切れた敷物の上に座って、ベッドに腰掛けたシッダースと話をしていた。
「どうしたの?」
シヴァンシカが少し驚いた様な表情で、テントに入ってくる達也を見た。
「昼から休みをもらった。」
「えっ、もうお昼?」
「昼だ。あ、何か食べるものを買ってくれば良かったかな。気が利かなかった。」
普段彼等は昼食を摂らない。金が無いので、一日二食で済ましている。
だが今日は長旅で疲れているはずのシッダースが居る。
「ああ、シヴァンシカ、何か食べるものを買ってきてくれるか。皆で食べよう。」
そう言ってシッダースはポケットの中から百バーツ札を取り出してシヴァンシカに渡した。
「分かったわ。チキンライスで良い?」
「何でも良いよ。美味いのを頼む。」
「もちろんよ。」
そう言ってシヴァンシカはテントを出て行った。
明るい笑顔だった。
達也もシッダースの方を向いて敷物の上に座った。
「うちの両親の事は知らないんですよね?」
「ああ、済まない。襲撃があったときは店にいてね。慌てて家に帰ろうとしたんだが、カラン川を渡ってブーン・ケン辺りで軍のトラックに保護されてしまってね。そのまま西貯水湖近くのキャンプに収容されたんだ。だから正確にはアーユシが死んだのかどうかさえ、自分の眼では確認出来てないんだよ。」
アーユシとはシッダースの妻、つまりシヴァンシカの母親の名だ。
「そうですか。アパートメントのことは聞きました?」
「シヴァンシカから聞いたよ。ミサイルが直撃したらしいじゃないか。お互い辛いが、あの時あのアパートメントに居て生きている者は居ないだろうね。」
そう言いながらシッダースは顔を歪める。
「タケシの行方は?」
辛そうな表情のまま視線を上げたシッダースが達也に父親の安否を問う。
「分からないんです。ミサイル警報が出た後、携帯に電話が掛かってきて話したのが最後で。でも途中でネットワークが切れてしまって、父さんがどうするつもりだったのか聞けていないんです。」
「そうか。」
達也には兄弟が居らず、一人っ子である事はシッダースも知っている。
話の途切れたテントの中に、表を通り過ぎる荷車の音が響く。
「シヴァンシカは・・・」
達也は一番聞きたかったことを切り出した。
妙に口の中が乾いている。
「連れて帰るよ。弟がコルカタで店を出していてね。そこにしばらく厄介になろうかと思っている。」
「そうですか。クリシュナとイシャンは?」
達也はシヴァンシカの二人の兄の名を出した。
クリシュナは少し年の離れた上の兄で、オーストラリアで大学を出た後、父シッダースの商売を手伝っていた。
イシャンは彼女の二つ年上の兄で、当時ハイスクールに通っていた。
「二人とも生きているよ。クリシュナは丁度コルカタに仕入れに行っていたところでね。私達の様な酷い目に遭わずに済んだ。イシャンはタイピンの難民キャンプに避難していたよ。」
「そうですか。それは良かった。彼女も喜んだでしょう。」
顔は笑顔を保てているが、口の中が妙に乾き、喉がいがらっぽく、そしておかしな焦燥感に苛まれる。
だが、自分と共に居るよりも、父親や兄弟、親類に囲まれている方が彼女が苦労をしなくて済むという事は理解出来ている。
ハイスクールも出ていない、手に職も無くこれと言った特技もない戦災孤児に誰かを養う様な稼ぎはない。
対照的に、シヴァンシカの家は皆商売にそれなりに成功しており、少なくとも食べ物や衣服に苦労する様な生活はしていない。
彼女がどちらにいるべきか、考えなくとも分かることだった。
「タツヤ、君を一人にしてしまうのはとても申し訳ないのだが、見つけたからには自分の娘を難民キャンプに置いて置くことなど出来ない。良ければ君も一緒に来るか? 少なくともここよりは良い生活が出来るだろう。」
そんな事は達也にも分かっていた。
大小様々な犯罪が横行する場所で、心から安心して寝ることも出来ず、そして金も無く、金を稼ぐ手段も限られ、食事をするにも困り、かと言って自力で抜け出すことも出来ない。
底辺に近い様なこんな所にいたいと思っているわけでは無かった。
シッダースに付いていくのも一つの選択肢だろうと思った。
例えば、シッダースの店で働かせて貰い、最初は小間使い程度だったとしても、自分の才覚次第ではそれなりに金を稼げるようにもなるだろう。
もしかしたら、彼の子供達と同じようにそれなりの商人になれるかも知れない。
しかし理由は分からないが、それは違うと感じた。
自分の未来として、酷く違和感を感じるものだった。
「シッダースさん、俺は・・・」
「ただいま! 入るわよ。」
達也がシッダースの提案に答えを口にしようとしたとき、テントの外からシヴァンシカの声が聞こえてきて、結局その時その答えをシッダースに云うことは出来なかった。
シッダースは過酷な長旅の疲れを取るために二晩ほど彼らのテントに泊まった。
マレー半島のあちこちに作られたシンガポール難民のキャンプを周り、シヴァンシカを探し回っていたとのことだった。
しかし梱包用パレットを分解して作っただけの、まともなマットレスも敷いていないようなベッドでは、何日休もうがある程度以上の疲れが取れるはずなど無かった。
シヴァンシカ自身は相当迷っていたようだったが、シッダースが連れて帰ることを強く主張して説いて聞かせ、それが筋だからと達也が反論しなかったことから、最終的には父親であるシッダースと共にこの難民キャンプを離れることを決意した。
達也にも共に来る様に何度も誘いをかけてきたが、達也は行方の分からなくなっている父親を探すからと、その誘いを断った。
それでも諦めずに彼女は何度か話を持ちかけてきたが、達也に残されたたった一人の肉親である父親を探したいと言われては、シヴァンシカもそれ以上無理に達也を誘うことは出来なかった。
二日後の朝、シヴァンシカは父親に連れられてキャンプを出て行った。
多分これでもう二度と会うことは無いと彼女自身も理解していたのだろう。出発前には達也に抱き付き、しばらく無言で涙を流していた、
ここに残りたいともう一度揺らぎ始める彼女の決心を、こんな所にいても碌な事は無い、親元に帰るのが彼女の安全を守るに最善の方法なのだと達也から言われ、赤く泣き腫らした眼で達也を睨み付けながらシヴァンシカは達也から離れた、
そして彼女は、少し離れたところで立って待っている父親の元に走って行った。
何度もこちらを振り返りながら立ち去る彼女の姿を、いつまでもテントの前に立って見送った。
やがて彼女と父親の姿は、メインストリートを左に曲がって見えなくなった。
最後に頬に触れた彼女の髪の毛と、唇に触れた彼女の柔らかな唇の感触がいつまでも残っていた。
達也はその後もしばらく難民キャンプに留まり、今まで通りに国連の管理事務所での仕事を続けた。
しかし、シヴァンシカが居なくなったことで、自分が生きていく理由を失ったことに彼自身気付いていた。
これまでは、シヴァンシカを守るためにあらゆる努力をしていた。
彼女がいなくなったことで、やらなければならないことが消滅した。
父親を探す旅に出ると言ったが、そんなのはシヴァンシカを諦めさせるための方便だった。
倒壊した建物や瓦礫に潰され、或いは爆発に巻き込まれ、何十万もの人間が死ぬのを見てきた。
海に近い商業地区に建つ高層ビルのオフィスで働いていた父親が、あの惨事の中生き伸びられているなどとは思っていなかった。
両親の出身地である日本に行こうかとも思った。
長野県にある父方の祖母の家には何度か行ったことがある。
幸いにも達也は、片言ではあっても北京語を操ることが出来、後は英語があれば何とかなるだろうと思った。
しかし金も無く、そしてまともに一般の旅客用列車が走らなくなった今、陸路で数千kmという距離を踏破した上に、陸続きでは無く島国である日本に辿り着くのは至難の業だという事は容易に想像が付いた。
そこまでの努力をして辿り着きたいと思うところでも無かった。
日本は両親の出身地ではあっても、シンガポールで生まれ育った達也にとって所詮日本という国は、縁のある外国程度でしか無かった。
まるで生きる死体のように数ヶ月をそのままキャンプで過ごした達也は、十六歳になると同時にシンガポール軍事務所の扉の前に立った。
食いはぐれた者や、手段を選ばずこの難民キャンプから出て行きたい者達などの為に、そして常に兵士不足に喘いでいる自軍のために、シンガポール軍は各難民キャンプに徴兵事務所を置いていた。
戸籍データが消失し、誰が死んで誰が生き残っているかまともに集計もされていない現在、シンガポール軍の伝統である徴兵制は全く機能していない状態であったが、十六歳になれば全員軍に登録されるという法律は未だ生きていて、若者に難民キャンプでの底辺の生活から抜け出す機会を提供し続けていた。
例えそれが、新兵の一年後生存率が50%を割るような過酷な道であったとしても、確かにそれはここから出て行くことの出来る確実な一つの手段ではあった。
徴兵事務所のドアを開けた時に鳴った、ドアの上に取り付けられたカウベルの音が妙に印象に残った。
まるで誰かの死を知らせる教会の鐘の音のようだ、とその時達也は思った。
■ 2.12.2
ネットワークが破壊され、電波や通信ケーブルという媒体も使用不能となった現在、一時は世界を動かすほどにまで肥大していたマスコミュニケーションという存在は、ほぼ絶滅寸前の恐竜のような存在でしか無かった。
その絶滅寸前のマスコミでさえ拾わなかった事故が、ミャンマーとインドの国境近くの山岳を越える峠道でひっそりと発生し、そして頻発はしないものの良くある事としてすぐに人々の記憶から消えていった。
ミャンマー中部の内陸都市マンダレーを始発とし、モンユワを経由して国境を越え、インドのインパールが終着であった長距離の乗り合いバスが一台、峠道から谷底に滑落した。
民間に配給される化石燃料の量が絞られ、それに従ってその長距離バス路線の便数が減った為、そのバスは定員の150%を越える乗客を満載していた。
そして多くの乗客が、買い出しであったり仕入れであったり、或いは避難や疎開のための持てる限りの家財道具であったりする荷物を、バスの積載能力限界まで車内に持ち込んでいた。
元々良好では無かった部品の供給が、ファラゾアの侵攻と経済の縮小により更に悪化したことでそのバスの整備状況は極めて悪く、サスペンションは簡単にボトムを突き、溝のなくなったタイヤは雨で泥濘と化した路面で横滑りし、ブレーキのききも最悪でエンジンの出力も全く安定していなかった。
そもそもそのバスは、数ヶ月前に故障して永遠に動くことのなくなった本来の乗り合いバスの代わりに、バス会社がどこからか安価で引き取ってきたエンジンがかかるだけ前のバスよりましなだけのポンコツ大型トラックの荷台を無理矢理旅客用に改造した、重心が異常に高い車両であった。
元々金のないミャンマーも、世界経済の崩壊に釣られて一気に百年分国内経済が先祖返りしたインドも、国民を餓えさせないこと、或いは強大な侵略者に対抗する軍事力を僅かでも整えることになけなしの金を注ぎ込んでおり、国境を越える道路の整備など二の次、三の次、どころかその道路が通る地方の官吏でさえ完全に忘れ去るほどの優先順位の低い事項でしか無かった。
雨の多いこの地方で、放置された道路は急速に崩壊が進み峠道の路肩が崩れ落ちてしまっており、ところによっては本来の道幅の1/3しか残って居らず、トラック一台がやっと通れるかどうかという道幅となっていた。
その残された部分でさえ、いつ何時更に崩壊して、道路が完全に消滅するか分からない様な状態であった。
雨の後、その峠道にさしかかった乗客を満載した整備不良の乗り合いバスは、色々なトラブルに見舞われてまともに進むことが出来なかった登り道での遅れを取り戻すが如く、下り坂を快調に飛ばしていた。
バスはそのうち、何カ所か存在する道路が激しく崩落した部分のひとつにさしかかった。
崖沿いの右カーブを曲がりきったすぐ先に崩落箇所がある事を、行きも同じ道を通った運転手は良く覚えていた。
しかしその崩落箇所で、無理な積載をした大型トラックが後輪を半分落とした状態で、こちらに向けて鼻先をねじれたように突き出して立ち往生している事までは予測できなかった。
見た瞬間、運転手は「無理だ」と思った。
止まれない。避けられない。曲がれない。通れない。
まさか死ぬなんてことは。
バスをトラックに突っ込ませれば、双方の運転席が潰れ、両方の運転手とバス前方に乗っている乗客の大部分が犠牲になるだけで、乗客の何人かは命を取り留めたかも知れなかった。
咄嗟の判断で、しかしバスの運転手は自身の生存本能に逆らえず、反射的にハンドルをトラックと反対側に切った。
溝の無くなったタイヤが泥濘化した雨上がりの路面を滑る。
乗客と荷物を満載したバスは慣性の法則に則り、車体の向きを変えつつも進行方向は変わらない。
バスは横向きになり、叩き付けられる様にトラックの前面にぶつかった。
斜めになったトラックに突き出される様に弾かれたバスは、そのまま真っ直ぐ道路が崩落した空間に向けて滑る。
バスに突っ込まれたトラックは、コンテナとの接続部分で折れ曲がる様に崩落斜面を滑り落ちる。
バスとトラックは絡み合う様にして、崩落した峠道の斜面を転がり落ちた。
バスから乗客と積み荷が、トラックのコンテナからも積み荷が、辺りに撒き散らされる様に放出される。
濡れた急斜面でそれらのゴチャゴチャした放出物は止まることなく、巨大な鉄塊と供に三百m下の谷底に到達した。
質の悪いディーゼル燃料が破れた燃料タンクから噴き出し、何かの火種から着火して、一気に燃え上がる。
煙と熱風が吹き上がってくる滑りやすい崩落斜面を降りることが出来る者など無く、地元警察によって編成された救出隊が谷底に到達したのは、事故の四日後であった。
人の形を残している者、失っているもの。
いずれにしてもその時、生きている者は一人も居なかった。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
えーと、今回はノーコメントで。
どうしても一つにまとめたかったので、長くなってしまいました。すみません。