11. ラチャブリ難民キャンプ
■ 2.11.1
08 November 2037, near Rachaburi, Kingdom of Thailand
A.D.2037年11月08日、タイ王国ラチャブリ近郊
時計はすでに夕方の五時を十分ほど回っていた。
「では今日はこれで帰ります。」
「はい、お疲れさまでした。明日も宜しくね。」
「はい。ではまた明日。」
達也はドアを開ける前に一度振り返り、事務机の向こうからこちらを見て微笑むミズ・オーエンスに笑顔を見せた。
こちらを見て軽く手を振る彼女に、さらに明るく笑って見せて、それからドアに向き直ってドアを開けて事務所の外に出る。
長く使われることなど想定されておらず、あきらかにとりあえず建物の体をなしていれば良いというコンセプトの元に設計されたであろう、撓み始めた事務所の前の廊下を蹴って達也は勢いよく外に飛び出す。
建物の外は熱帯特有の真っ赤な土がむき出しの地面が広がっているが、既に乾期に入りつつあるこの季節では、地面に特にぬかるんでいるところなど無く、逆に風の強い日などには細かな埃が立ってしまい、テントの掃除が大変なほどだ。
達也はその乾いた赤い地面を蹴って駆け出す。
今日は日曜日だ。
という事は、シヴァンシカの仕事は午前中だけで終わり、キャンプの外側を囲む様に出来た露店で買い物をしてきたシヴァンシカが夕食を作って待っているはずだった。
達也もシヴァンシカも運良く仕事を見つけることが出来たが、しかしその稼ぎは低い。
ハイスクールも出ていない子供を雇ってくれる所など無く、本来ならスラムの子供達同様の劣悪な肉体労働にどうにかありつくか、或いは身体を売るかして日銭を稼ぐしかないところだった。
だが、シンガポールで生まれ育った彼等は、英語、マレー語、タミル語、北京語を操ることが出来た。
さらにシヴァンシカは母国語であるヒンディ語と、達也は日本語をそれぞれ完璧に読み書きすることが出来る。
これだけの言葉を操ることが出来るという技能と、シンガポール難民であると云う事、そして親を亡くした身寄りの無い子供であってもどうにかして金を稼いで生きていかねばならないという同情すべき境遇や、あとは国連の難民救済事務所が開設されたタイミングで上手く潜り込めたという運の良さも手伝って、二人はどうにか金を稼ぐための手段を手に入れる事が出来た。
シヴァンシカは世界各地から細々とながらも送られてくる支援物資の出納と配給を管理する事務所で、使い走りから通訳まで何でもやらされる小間使いの様な仕事にありついていた。
達也はといえば、シンガポールにほど近いマレーシア南部から避難してくるマレー人達を受け入れる窓口となる事務所で、シヴァンシカと似た様な仕事を与えられていた。
いずれも、身寄りの無い難民の子供を憐れんだ国連現地事務所の担当者達が、かと言ってその様ないわゆる戦災孤児に毎月与える支給金などなけなしの予算の中からひねり出すことも出来なかった為、戦災孤児を現地雇用の低賃金事務補助員と云う名目にすり替え、子供にもこなせる簡単な仕事をさせて金を与える口実としている様な仕事であることは二人ともが理解していた。
その様な金なので、二人が受け取る金額は子供二人が一切余計なことをせずに生活していくギリギリの金額でしかなく、彼等の難民キャンプが設置されているタイの最低労働賃金をも大きく割り込んでいた。
あるいは、戦災孤児に与えるべき金を誰かがどこかで着服し、その代わりに現地採用者の賃金の一部を回して実績をつくって上手く誤魔化しているのかも知れない、と達也はこの金の出所を半ば疑っていた。
金の出所はどうであろうと、なんとか生きていくだけの金が手に入り、ある程度安全が確保された住む場所があり、まあどうにか自分が人である事を忘れずに済む程度には身ぎれいにしておくことが出来、そして銃弾もミサイルも飛んでこない。
戦いによって家や家族を失い、国を追われた自分達にとって、これ以上望むのは贅沢というものだろうと、達也は半ば諦観の域に達していた。
キャンプのメインストリートをしばらく走って右に曲がる。
このキャンプに住み着いている者以外では、例え地図を持っていても道に迷いそうな曲がりくねった通路を伝い、テントとテントの間を駆け抜けていく。
しばらくして、E38-4166と軍隊式のステンシル文字で描かれた自分のテントに辿り着いた。
「シヴァンシカ、ただいま。入るぞ。」
テントの外から声を掛けて、入口の紐を解いてテントの中に入る。
声を掛けずにテントの中に入ってこようとする奴は、問答無用で刺して良いと言ってある。
実際に彼女が刃物で人を刺せるかどうかはともかくとして、その様な侵入者は正当防衛の元にどの様な目に遭わせようと構わないことになっている。
それがこのキャンプ全体の不文律でもあった。
キャンプ開設初期には、その様な状況でありとあらゆる犯罪が横行したのだ。
「おかえり。お疲れさま。もうすぐ出来るから、ちょっと待ってて。」
シヴァンシカは、隣のテントとの間に設けられた竈に向いて、テントの布の一部を巻き上げ、夕飯の支度をしているところだった。
隣のテントは、リトルインディア駅近くでインド料理屋をやっていたというパンジャブ地方出身のインド人の家族で、シヴァンシカの出身地が近いことから何かと親切にしてくれている。
子供二人で何とか生き延びて行けているのも、この隣のテントの家族の助けに依るところが大きい。
ジャスミンライスの炊ける匂いがテントの中に漂っている。
それに混ざって、いわゆるインド料理の香辛料の香りがする。
難民キャンプが開かれた場所がタイであったのは有り難かった。少なくとも米だけは、安価に手に入れる事が出来た。
一方インド料理の食材が手に入りにくいとシヴァンシカはこぼしていたが。
「晩飯何?」
「チキンの煮込み。えーと、日本人が言うところのチキンカレー? B4ゲートの市でね、チキンすごく安く売ってたの。ちょっと贅沢だけど買っちゃった。あんまり量無いんだけどね。」
「肉が有るだけで有り難いよ。滅多に食えないもんな。」
達也はそう言ってベッドの端に腰掛けた。
男女二人という事でどこかで何かが間違ったらしく、彼等が割り振られたテントは最大で十人も寝ることが出来る家族用のテントだった。
広いテントを割り当てられて喜んではいたが、そのテントはいつまで経っても広いままで、物で埋まっていくことも無かった。
殆ど着の身着のままで逃げてきた彼等には身の回りの品など無く、そして金が無いのでものが増えていくことも無い。
今達也が腰掛けているベッドも、シヴァンシカが働いている事務所の伝手で貨物用の廃パレットを何枚か融通してもらい、達也が自分で作ったものだった。
「おや、タツヤ、帰ってきたのかい? すまないけど、ご飯の支度してる間、リディの面倒見て貰えないかい? 」
「パラヴィさん、ただいま。良いですよ。」
隣のテントの中から、少し薄汚れた青色のパンジャビドレスに身を包んだ恰幅の良い女が顔を出す。
その腕に抱かれていた女の子を受け取る。
いつも世話になっている隣の家族の頼み事だ。否やはなかった。
リディはまだ一歳にもならない赤ん坊だ。彼女が生まれたときには、隣のテントで赤ん坊が生まれるという大事件で大慌てしつつ、随分色々と手伝ったものだ。
達也にしてみれば、感覚的には自分の妹のようなものだった。
隣のテントの家族に世話になっているなどの貸し借りを抜きにしても、リディの世話をすることに抵抗は全く無かった。
「シヴァンシカ、何作ってんだい? サグかい?」
食材を抱えたパラヴィがテントの中から出てくる。
二つのテントの間にお互いの竈を並べ、本当は公共の通路であるテント間のスペースの両脇に板を渡して、スペース的にも道具的にも、お互い色々と融通し合える様にしていた。
もっとも主にシヴァンシカと達也が色々と助けてもらう方だったが。
その分、今達也がリディの子守りをしている様に、できるだけ彼女の家のことを手伝う様にして恩を返そうとしている。
まだ十五歳の子供でしかない二人が、色々な意味でここで安寧に暮らしていけるのは、彼女の家族から助けられている所もかなり大きい。
「はい。B4ゲートのタラートでチキンを安く売っていたので。」
「ああ、あれね。なんでもここの国の鶏肉業者の大物が喜捨したって話だね。前もって言っておいてくれりゃ良いのにねえ。あたしゃ知らなかったから買い損ねたよ。」
「私も偶々見つけたんです。今日は仕事が早く終わる日だったから、ゲートの外に出て買い物していたら、丁度眼の前で入荷したの。」
「そりゃ運が良かったねえ。ま、たまにゃそういう事もなくっちゃねえ。」
「ふふふ。そうですね。」
そこからしばらく、お互いの間に竈を挟んで世間話が続く。
女という生き物のコミュニケーション能力は凄い、と達也は感心する。
十五歳のシヴァンシカと、その三倍近くの年齢である筈のパラヴィが普通に楽しそうに世間話をしている。
自分だったら、四十歳前後のオッサンとこんなに親しく、共通の話題を持って喋ることが出来るだろうか、と少し考える。
いや、無理だ。
天気の話をして、最近の治安の話をしたらもう話題が尽きる。
出来ない事を無理にやる必要も無い。出来るシヴァンシカに任せてしまおう。
しばらく経って夕飯が出来上がる。
テントの中でシヴァンシカと供に夕食を摂るが、その間も隣のテントとの間の出入り口は開けっ放したままで、竈で鍋をかき混ぜているパラヴィとの話は続く。
パラヴィがまだ夕飯の支度をしているので、リディはまだタツヤの腕の中だ。
そのうちに、キャンプの周りで物売りの仕事をしているパラヴィの子供達が帰ってきて一気に賑やかになる。
「さあて、ウチも晩ご飯にしようかねえ。ウチの宿六は今日は遅くなるって言ってたし。アンタ達、手を洗って来な。ご飯にするよ。」
母親の言いつけに従って、三人の子供達が竈の脇に置いてある水瓶に群がる。
シヴァンシカはカトラリを使って食事をするが、パラヴィの家族は伝統的なインドスタイルで食事をする。食事の前の手洗いは必須だった。
「タツヤ、悪かったね、リディの面倒を見てもらって。後は子供達に食べさせるだけだからもう大丈夫だよ。」
そう言ってテントの入口までやってきたパラヴィが、達也の腕からリディを受け取る。
「いえ、全然。リディは可愛い上に泣かないし、暴れないし、全く問題無いですよ。いつでもどうぞ。」
そう言って達也はパラヴィの腕の中から大きな眼でこちらを見ているリディを覗き込む。
泣いたり笑ったりの感情の起伏は余り大きくないが、彼女の黒い大きな眼は常に世の中を興味深そうに見つめている。
「ふふん。ウチの娘は良い子だろ? アンタ達も早く子供こさえな。可愛いよお。」
そう言いながらパラヴィは大きな身体を揺すってリディをあやす。
「二人で生きていくだけで精一杯ですからね。無理ですよ。」
達也達のように運良く仕事にありつけなければ、難民キャンプでは基本的にやることが無い。仕事そのものが無いのだ。
やることが無ければ皆、夜には早い時間から自分が割り当てられたテントに帰る。
とは言えテントに帰ったところでやはりやることは無い。
ランプを灯すにも油を買う金がかかるので、さっさとランプを消して寝る。
だが、毎日十二時間も寝ていれば目がさえてしまって寝ることも出来ない。
暗闇の中でも出来る暇潰しという事で子作りに励むことになる。
夜の難民キャンプでは、あちこちから子作りに励む声が聞こえてきて、最初の内は顔を真っ赤にしていたシヴァンシカももう慣れてしまったようだった。
そして二人とも、パラヴィから言われた様なお節介に対処するのにも慣れてしまった。
食事が終わり、片付けの後に水浴びをする。
暑いので汗はかくのだが、その分雨の多い地域なので水だけは余り気にせず使うことが出来るのは有り難かった。
尤も、暦が変わる頃の季節になると乾期となり、この地方でも水不足に喘ぐことがある。
タイ王室の温情で難民キャンプまで引かれた水道が断水することもある。
だが乾期には気温も下がり、最低気温が二十度前後という肌寒い気候になるので、余り汗をかくこともなくなる。
日もとっぷりと暮れると、他にすることもないので二人ともベッドの上に横たわる。
板を張った上にマットになるようなものも無く、薄いすり切れた布団を置いただけの硬いベッドだったが、雨風が凌げ、プライベートを保てる閉鎖された空間で、弾が飛んでくること無く寝る場所があるだけましだった。
パジャマなどと云う贅沢なものを手に入れる余裕もないので、二人とも下着しか着けていない裸同然の格好だった。
暗くなると訳も無く淋しがるシヴァンシカが抱き付いてきて、二人抱き合うようにして眠るのだが、不思議と達也はシヴァンシカに強い劣情を抱くようなことは無かった。
物心ついた頃からまるで本当の兄妹のように育ってきた事が理由だろうと達也は納得していた。
朝が来て、明るくなると辺りから色々な音が聞こえてくる。
朝食を準備する音、金属を打つ音、人の話し声。
皆、夜が早いので朝も早くから目が覚めるのだ。
達也達もそれにつられてもそもそと起き出す。
経済的な余裕の無い彼らにとって、毎日の朝食というのは贅沢だった。
ゆっくりと身支度を調え、まだ早い時間に仕事に出かける。
他にすることも無いのだ。例え事務所に着くのが早すぎたとしても、事務所の外で鍵が開けられるのを待っておけば良いだけの話だった。
二人ともテントを出て、それぞれの働く事務所に向かうのに、途中まで一緒に歩く。
シヴァンシカは主通路を横切って真っ直ぐ、達也は主通路を左に曲がる。
しばらく歩いて仕事場に着くが、まだ朝も早く鍵は開いていない。
達也は建物の外の日陰で時間を潰すことにした。
雨対策で地面から50cmほど高くなっている廊下に腰をかけ、他にやることも無く、通路を行き交う人々を眺めていた。
一人の男がこちらに歩いてくるのが目に止まった。
その懐かしい姿に、達也は目を見開き思わず立ち上がった。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
身体が慣れてしまうと、家の玄関出たときに、
「うお。今日寒! いま何度? 23℃しか無いじゃん。寒いはずだよ。長袖着て行こ。」
となります。