8. OPERATION 'KALIMANTAN EXPRESS'
■ 9.8.1
08 Jun 2051, 03゜18' N, 118゜39' E, Celebes Sea, North East Kalimantan Island, Depth 520m
A.D. 2051年06月08日、カリマンタン島北東、セレベス海、北緯03度18分、東経118度39分、深度520m
ほぼ赤道直下の強烈な陽光が降り注ぎ、南国の海特有の明るさを含んだ紺碧の暖かな海原が波打つ海面の遙か下。
ほぼ真上から射す焼け付くような太陽の光もこの深さでは殆ど届くことも無く、永遠の暗闇に閉ざされた深海の冷ややかな水を掻き分ける様にして闇よりも黒い巨大な物体がゆっくりと移動していく。
地上の大気中とは異なり光の通りの悪いこの海中において、音波などのアクティブな探知能力を持つ者であれば、僅か数百mしか離れていない場所に、似た様な巨大な物体が潜み、やはり同じ方向に向かってゆっくりと進んでいることに気付くであろう。
或いはその探知能力が高いならば、そのさらに向こうにも複数の同様の巨体が潜み、それらの周囲には少し小振りではあれどもやはり自然に生み出されたとは思えない幾何学的な形状をしたものが幾つも取り囲むように息を潜めている事に気付けるやも知れない。
暗い海の底に身を潜めながらもその実それらの巨体は頻繁に互いに連絡を取り合っており、人間の耳の可聴域を超える超音波の領域で耳を澄ませるならば、お世辞にも静かとは言えないほどに多量の音波信号を発し、また船殻を通じて海中に漏れ伝わる騒音や、推進器の立てるリズミカルなホワイトノイズを辺りにまき散らしていた。
その巨体の立てる騒音を丁寧に一つずつ拾っていくならば、周囲数十kmに渡る同海域に数十もの同様の物体が海中に身を潜めて居る事に気づけるだろう。
暗い海の底に潜む黒い巨大な船体の中で、所狭しとモニタやボタンの並ぶ薄暗く狭い室内にはっきりとした男の声が響く。
「艦隊旗艦『ラクロシュトゥリ (Laclocheterie)』より定時通達。作戦発動まで二時間。変更無し。針路速度維持。以上。」
「諒解。返信不要。針路速度維持。各員警戒態勢を維持。」
「針路速度維持。警戒体制維持。」
幾つもの男女の声が手短に指示を復唱確認する。
指示の復唱が終わると室内に声を発する者は居なくなり、聞こえるのは機器類が時折立てる低い電子音のみとなる。
艦は特に障害物も無い海域を、事前に指示された地点に向けて15ktの低速でゆっくりと進んでいく。
15ktの水中速度は、一昔前の潜水艦であれば巡航速度と言って良いそれなりの速度であるが、核融合炉からの膨大な熱量を利用し、静粛性という呪いの様な軛から解き放たれ、日々技術的躍進を続ける航空機用に開発されたC-Jet (モータージェット)技術のスピンオフから派生したH-Jet推進器を主推進器に持つ、いずれも水中速度50ktを越える現代の軍用潜水艦にしてみれば、それは微速前進と変わりない様な低速であった。
深度500mを越える深海に潜んでいるが、海底はまだ遙か数百m下方にあって気にする必要も無い。
時折打ち出されるアクティブソナーの探信により、僚艦との位置関係や、海底地形、周囲に障害物が無いことは常に把握されている。
搭載された大型のGDDは、周囲数百kmの大気圏内、あるいは地球周回軌道上に敵性の重力波放射源が無いことを知らせている。
より長距離高精度の探知能力を持ち、且つ上空にAWACSドローンを周回させているピケット艦や艦隊旗艦からは定期的に周囲に脅威が存在しないことを示す短信が発せられており、それら幾重にも張られた警戒網が、これから始まる作戦が現在のところ問題無く開始時刻に向かって進んでいる事を知らせている。
CIC室内には、作戦前の緊張感と共に、その緊張状態を長く続けたために漂い始めた僅かに弛緩したような空気が流れ始めていた。
「良い艦なんだが、情緒がねえよなあ。」
CIC中央の席に座る潜水空母ACSS-041「ジョリー・ロジャー」艦長シルベストレ・カンデラス大佐が、脇に立つ副長のクリスチャン・ガルシア中佐に向かってぼそりと呟いた。
大きな声ではなかったが、狭く静かなCIC内では充分な声量であり、部屋の中に詰める全員が艦長のぼやきを明瞭に聞き取れた。
「情緒、ですか?」
何を言っているんだコイツは? という内心の言葉を明らかに滲ませた声色で副長は艦長を見返す。
それは間違いなく上官に向ける様な態度ではなかったが、しかし二人の間の関係を良く表しているとも言えた。
「おうさ。潜水艦って言やあオメエ、海の中に静かに息を凝らして潜んで、魚雷ぶっ放した後は轟沈する獲物の沈没音をBGMに、僅かな物音さえ立てない様にして駆逐艦のスクリュー音に怯えながら爆雷攻撃をやり過ごして、海中をどこへともなく消えていく、ってえモンだ。それが潜水艦乗りのロマンだろ。それがどうだこの艦は。ソナー打ち放題、騒音垂れ流し放題。潜水艦にジェットエンジンなんぞ付けやがって。ボリューム最大の拡声器で喚きながら街中走ってるみてえなモンだ。水中速度はバカみてえに速えが、それだけだ、それだけ。ロマンもクソもねえ。」
「ロマン、ですか。」
それは一体いつの時代の潜水艦だ、と心の中でツッコミを入れながら、副長のクリスチャンは先ほどと似た様な台詞を繰り返す。
ロマンを語る艦長のシルベストレは、根っからの潜水艦乗りだった。
ファラゾア来襲前から、母国スペイン海軍の潜水艦に乗り組んでいた。
ファラゾアによって海上交通が完全に封鎖された後も、海中の潜水艦はファラゾアに邪魔される事無く従来通りに行動する事が出来た。
但し、潜水艦が標的とすべき海上船舶が全く居なくなってしまったため、ほぼ全ての潜水艦とその乗務員はまるごと潜水輸送艦へと転職する事となり、失われた海上輸送を肩代わりして、貨物を満載して世界中の海を西へ東へと駆け回る羽目になった。
その時も、栄光と伝統のスペイン海軍の潜水艦乗りが、事もあろうにトラック運転手に成り下がってしまったと嘆いたものだった。
一方、副長のクリスチャンは元々水上艦艇に乗務していた。
フィリピン海軍の駆逐艦勤務であったクリスチャンは、当時南シナ海を有耶無耶の内に自国領海にしてしまおうと強引に南方へ進出する共産中国の海警船や、民間船舶を偽装した中国海軍の輸送船と鎬を削り、一触即発一歩手前の日々を過ごしていた。
カリマンタン島にファラゾアが降下した日、南シナ海やスールー海に浮かぶありとあらゆる船がファラゾアの攻撃により沈められ一掃された日、彼の乗る艦は運良く補給と修理のために母港に戻っていたので撃沈を免れ、その乗務員であったクリスチャンも死を免れたのだった。
しかしその代わり、彼の乗る艦が乗員を乗せて岸壁を離れる事は二度と無かった。
そのままフィリピン海軍で働いてはいたものの、実質的にほぼ失職してしまったクリスチャンは、大量に増えた潜水輸送艦の手配や管理を行う部署でデスクワークに勤しんでいたのだが、海と船が大好きで、それが海軍に入った男にとって陸の仕事は余りに苦痛であった。
潮風を感じず、波に揺られる事も無く、降り注ぐ日差しも無い海軍らしからぬ職場と嫌っていた潜水艦勤務でも、日がな一日机に座って書類を睨み続ける毎日が延々と繰り返される生き地獄の様な日々よりは遥かにマシと、毎日の通勤途上にある港湾管理局の掲示板に張ってあった国連軍の潜輸乗務員募集のポスターを目にしたその日に、直属の上官に対して国連海軍への出向を願い出たのだった。
以来潜水艦乗りになってもう五年。この「艦長」というよりも「カシラ」と呼んだ方が似合う男と共に仕事をするようになって三年近くになる。
長くなり始めた付き合いに、お互いの性格は良く把握できている。
気心の知れた仲と云うよりも、まるで遠慮の無い腐れ縁と言った方が良いこの関係も、案外に居心地が良くて実は今ではそれなりに気に入っていた。
だからクリスチャンは、この上官が突然にロマンだ情緒だと益体もない事を、事もあろうに作戦開始前のCICのど真ん中で、周りのクルー達にも聞こえるような声量で喋り始めた理由をよく理解していた。
カリマンタン・エクスプレス作戦の開始に向けて、ミンダナオ島東側から浅瀬と島の多い複雑な海底地形の南部を抜けて、海中とは言えどもカピト降下点のあるカリマンタン島に肉薄している現在、艦内の全てのクルーや飛行隊員は緊張の度合いを徐々に高めていっている。
特にこのCICに詰めるクルー達は、作戦が始まる遙か前から索敵や繰艦で長い極度の緊張を強いられている。
今もっとも大事なこの時間にとうとう彼等の精神力が途切れ始めてしまい、弛緩した空気が漂い始めたのを敏感に感じ取って、息抜きを与えるためにどうでも良い様な話を振ってきたのだろう。
僅かでも息抜きを与えられれば、彼等はまたしばらくは緊張を持続することが出来る。
「潜水空母という奇想兵器そのものがロマンなのでは? 貴方はそのロマン溢れる兵器の艦長だ。ロマン艦長。」
ならばその話に乗るべきだ。
艦長や副長がいくら偉そうにふんぞり返っていたとしても、クルー達が上手く働かなければ潜水艦は動かないのだ。
「騒音垂れ流しのロマンなんてあってたまるかよ、ってんだ。格好悪ィ。ついでにこの艦にゃ、死神が満載ときたもんだぜ。ロマンどころか、縁起でもねえ。」
「艦名が『Jolly Roger』なんですから、ちょうど良いのでは? 髑髏のマークが似合いそうだ。」
「ふん。今度ドック入りしたら、艦体に髑髏マークでも描いとくか? ああ、浮上中は海賊旗立てるのも悪くねえな。カトラスじゃなくて、大鎌になりそうだが。」
「やめてくださいよ、みっともない。そんな拗らせた旗なんか立てたらファラゾアに笑われます。どうしてもやりたいなら、私がこの艦を降りてからにして下さい。」
艦長と副長の間で交わされる丁々発止の掛け合い、というより殆どじゃれ合いの会話に、CICの中で忍び笑いが漏れる。
今日に始まった話では無い。
この艦に勤務して半年、CICに詰めるクルー達も、この艦長と副長の関係性についてはもう慣れたものだった。
そして、この艦の特殊性についても。
第七潜水機動艦隊所属、五番艦ACSS-041潜水空母「JOLLY ROGER」。
搭載される艦載機を操るパイロット達は、かつて「死神」あるいは「始末屋」と呼ばれた者達。
今はST(SHOCK TROOPS)部隊という名を付けられたトップエース達の集団。
勿論、そのエース集団が翼を休めるホームベースたるこの空母を動かす者達も、ただの一般兵士の集まりでは無かった。
艦長、副長を始め、いずれも各担当の分野において秀でた能力を持つ者達をかき集めたクルー達。
当然だった。
今現在、地球人類が持つ最高戦力であるST部隊ごと、つまらない理由でこの空母に沈んでもらっては困るのだ。
航空部隊はST部隊という名前を与えられた特殊な部隊であるが、そのエース集団を支える者達もまた、潜水艦あるいは空母の運用において非常に高い能力を持つ者達が集められていた。
「艦隊旗艦『ラクロシュトゥリ』より通達。作戦開始二十分前。計画に変更無し。全艦最終確認。艦隊深度200。針路変わらず。速度10kt。」
現在時刻は0840時GMT+8。(インドネシア標準時午前08時40分)
照明が抑えられた薄暗いCICに、通信士の読み上げの声が響く。
通信士や索敵係が口頭で報告する内容は全て、艦長席周囲に設置されたモニタや、CIC壁面の大型モニタに投影されており、艦長や副長のみならず誰もがその情報を見て取ることが出来る。
しかし例えそうであったとしても、全ての動きは必ず口頭で報告される。
「深度200。速度10kt。」
「アップトリム05。深度200。」
艦長の指示に従い、深度を浅くするために艦首を上にして艦が僅かに傾くのを感じる。
「全艦最終確認。航空管制、報告。」
「航空管制、全機出撃準備完了。パイロットは機内にて待機中。」
「格納庫作業員はパレット上の機体固定を再確認。確認後格納庫作業員は安全地帯に退避。」
「機体固定再確認。格納庫作業員は安全地帯に退避。」
「ピケット艦から通信。上空重力波反応無し、周囲100kmに敵影無し。降下点周辺異常無し。波高0.5(ゼロデシマルファイブ)、風速02、風向34。」
「敵探知、報告せよ。」
「探知ありません。ピケット艦情報通り。」
艦長と副長から矢継ぎ早に出される指示に従い、クルーが報告し操作する指示に従い、全長400m近い巨艦が闇に包まれた深海から浮き上がり、薄暮領域にその姿を現す。
その数百m向こうにも、深海の闇を纏い浮き上がってきた様な漆黒の巨体が同様に姿を現す。
辺りを見回す者がいれば、周囲数十kmの海域に同じ様な巨体が次々と浮き上がってきた事に気付くであろう。
「作戦開始マイナス十分。急速浮上に備えよ。」
「急速浮上用意。」
「旗艦『ラクロシュトゥリ』より通達。作戦開始まで十分。艦隊深度100。全艦急速浮上用意。作戦開始まで通信を遮断。各艦作戦開始シーケンスに沿って行動せよ。」
「諒解。作戦開始シーケンスに沿って行動。トリム03。深度100。」
「アップトリム03、深度100。」
CIC内の空気がさらに張り詰める。
さしもの艦長副長コンビも、ここに来て掛け合い漫才などする事も無く、CIC壁面のメインモニタを睨み付けている。
「作戦開始マイナス五分。カウントダウン開始。300。」
CICを更なる静寂が包む。
探知情報が更新される電子音が定期的に響く。
「80・・・70・・・作戦開始マイナス一分。58、57、56・・・」
作戦開始までのカウントダウンを任された火器担当オペレータの声だけが室内に響いている。
作戦開始直前のCIC室内は、ひりつく様な緊張に支配される。
この作戦は、これから始まる人類の存亡を賭けた、気の遠くなるほど長く激しい戦いの最初の一歩なのだ。
それを皆が理解していた。
躓いて出遅れるなど許されない。
勿論、失敗など絶対にあってはならない。
「10秒前、8、7、6、5、4、3、2、1、作戦開始。」
「急速浮上。MBTフルブロー。アップトリム15。針路そのまま、速度40。浮上後に航空甲板展開。」
カウントダウンがゼロになると同時に出された艦長からの指示により、CIC内部が一気に騒然とする。
「急速浮上、フルブロー、トリム15。」
「速度30、35、40。ブレーキスケイル展開。」
「深度80、60、50、40、20、10、浮上します。総員耐衝撃姿勢!」
「総員耐衝撃姿勢!」
「上空に突発重力波多数確認。分離不能。菊花動作開始と推測。」
明るさを湛えた紺碧の海面の向こう側に突如姿を現した巨大な黒い影は、そのままの勢いで海面を突き破り、水飛沫を辺りに撒き散らしながら艦体の1/3程まで水面上に飛び出した。
濡れて黒光りする巨体が、陽光を反射する水飛沫に縁取られて海面上に舞う。
次の瞬間、引力に引かれて海面に打ち付けられた巨体は、盛大に真っ白な水飛沫を上げてその中に隠れて見えなくなった。
「艦体姿勢安定。」
「航空甲板急速展開。レーザー通信回線開け。AWACSドローン射出。」
浮上時の艦体動揺も収まり、ジョリー・ロジャーのCICで艦載機出撃に向けてクルー達が次々に所定の作業を行っている頃。
カリマンタン島上空に目も眩むほどの鋭く明るい光が無数に現れ、島の中央北部の山岳森林地帯に向けて真っ直ぐに落下していった。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
投稿遅くなりまして申し訳ありません。
とうとうボレロが始まりました。
あとは一気に突き進むだけです。(作者的にも)
・・・問題は、パッと進んでパッと終わる長さじゃ無い事です。w
ちなみに作中に登場する推進方式H-Jetですが、噴射するのは水のみです。液体と気体の混合物ですが。
原理的には、ペットボトルロケットと同じです。