6. ロシア陸軍第68独立親衛特殊任務連隊
■ 2.6.1
森の中の未舗装の道を延々と走り続けたトラック達は、特に何の問題に出会うでも無くその日の目的地であるクラスノボルに到着した。
既にファラゾアの制空圏内に大きく入り込んでいるのだが、拍子抜けする思いだった。
一行は小さな街の中心部近くにある、ショッピングセンターと呼ぶには少々小振り過ぎる自称ショッピングセンターの駐車場に太陽が沈む前に車を止め、カモフラージュシートで二台のトラックを覆い尽くした。
カモフラージュシートは暖まったエンジンから放射される赤外線を完全に反射し、赤外線探知を阻害してくれはするが、暖められた空気がエンジンルームの外に流れ出すのを止めてくれるわけでは無かった。
要するに、ファラゾアがその気になれば気付かれてしまう程度のカモフラージュでしか無いのだが、それでも何もしないよりはましだろうと、一定の心の安寧を得ることは可能だった。
彼らのトラックは既に二台に減っていた。
元々レヴォーヴィチの部隊の所属では無かった五台のトレーラーと三台のトラックは、クラスノボルまで移動してくる途中で彼ら自身の任務の目標物、即ち撃墜されたファラゾア戦闘機の残骸を幾つも発見し、それを回収してトレーラーに積み込むと元来た道を引き返していった。
一般兵士からなる回収部隊のトレーラー達が引き返して行った今、レヴォーヴィチの部隊だけが残った。
トラック二台と身軽になり、重鈍なトレーラーに足を引っ張られることも無くなった彼らは、本来の行動力を取り戻していた。
一行は既に誰かの手によってガラスが叩き割られているショッピングセンターの玄関を潜り、建物の中に入って身体を休めた。
この先しばらくは屋根の下で睡眠を取ることなど出来ないと全員が理解しており、敵勢力圏内で緊張を保ちつつも最大限にリラックスした最後の夜をめいめいに過ごした。
翌朝、日が昇ると同時にショッピングセンターの建物を出てトラックのエンジンをかけ、すぐに出発する。
20kmほど進んだところでペチュラ川を渡河する。
運の良いことに渡船はこちら側の岸で乗り捨てられており、すぐにトラックを載せて川を渡ることが出来た。
これがもし渡船が向こう岸にあったなら、気温が摂氏一桁になっている中で寒中水泳をしなければならないところだった。
渡船の管理人など遠の昔に逃げ出しており、ここに居るわけが無かった。
昨夜一泊したクラスノボルの街も人影を見かけることなど無かったのだ。この辺りの住人は既に皆逃げ出してどこかに避難しているのだろう。
ペチュラ川の対岸に上陸し、高低差のある森の中の道を50kmほど進んだところで、一行はトラックを道路脇の森の中に止めて下車した。
装備一式を身につけ、トラック二台に木の枝などを被せて簡単なカモフラージュをした後に彼等は自分達自身の脚で歩き始める。
ここからナリヤンマルまで直線で約200km。彼等の脚ならば、八日間の行軍で目的地に到着するはずだった。
運良く生きて帰れたら、森の中に隠したトラックに乗って来た道を辿り帰る事が出来る。
敵の拠点までまだ距離がある。
一行はいつでも森に飛び込むことが出来る様道路の左右に分かれて二列になり、頭上を警戒しつつも足早に道程を急いだ。
■ 2.6.2
それから四日間は何事も無く過ぎた。
基本的には森の中の道を行軍し、敵の姿が見えたら慌てて森の中に飛び込み隠れる、という事の繰り返しだった。
地球製の航空機は派手な音を大気中に撒き散らしながら飛行するが、ファラゾアの戦闘機は音も無く近付いてくる。
もちろんファラゾア機と言えども、音速を大きく超えて飛行している機体は超音速衝撃波が作り出す轟音を発しているのだが、それとてファラゾア機が通り過ぎた後に突然爆音が聞こえてくるだけであり、敵機を早期に発見する助けになりはしなかった。
しかしそれでも、この作戦立案時の当初の目論見通り、地上を歩いて移動している彼等に注意を向けるファラゾア機はおらず、結果的に彼等はファラゾアに攻撃を受けること無く行軍を続けることが出来たのだった。
移動を徒歩に変えて四日目。
ファラゾアはナリヤンマル東方の湿地帯に、直径40Kmほどのほぼ円状に幾つもの地上施設を設置しているらしいことが分かっており、その円の中心からの距離が100kmを切った。
即ち、ファラゾア地上施設の最南端から約80kmの距離に到達したという事であり、このままの速度で行軍できればあと三日もあれば最も南にある地上施設に到達する。
空中を飛ぶ飛行物体に較べて、地上の小規模部隊に対しては相当警戒が甘い事が予想され、まさにその通り彼等はここまで障害無く接近できていたが、この先もそうであるとは限らなかった。
レヴォーヴィチは小隊に対して対空警戒を強めて前進することを命じた。
その為に移動速度が落ちるのは仕方が無かった。
焦って行軍して敵に見つかってはこれまでの苦労が全て水の泡となってしまう。
そして一度地上から接近するという手を見られた以上、二度と同じ方法でファラゾアの地上施設に接近することは出来ないだろう。
これが唯一、ただ一回のチャンスなのだと自分に言い聞かせながら、レヴォーヴィチは焦る自分の心を押さえ付ける。
幸い彼の部下達は、その様な上官の心の葛藤を知ってか知らずか進軍速度が低下したことに対して不平を漏らす者はおらず、ただ黙々と空を見回し、そして北に向かって歩き続けた。
ナリヤンマルはペチョラ川が北極海に流れ込む河口にほど近い、大河東岸の街だが、ナリヤンマルを含めその周囲には数百kmに渡って広大な湿地帯が広がっている。
いわゆる永久凍土と呼ばれる地形だ。
夏場には僅かな地表部分だけ氷が溶け、背の低い灌木や下生え、苔類が繁茂する湿地帯となるが、僅か数m地下には永久に融けることの無い氷が埋まっている。
この湿地帯に入ってしまえば、適当な遮蔽物になる様な山は存在せず、身を隠すのに丁度良い森も無い。
高さほんの数mでしか無い灌木伝いに身を隠しながら進むしか無かった。
しかし一日の最低気温が0℃を割り始めたこの時期、その様な広葉樹は殆ど葉を落としており、身を隠すと言ってもたかが知れていた。
夜になり、ごく小さな簡易テントを張ってその中に潜り込む。
氷点下での野営は体力を大きく奪う。
もちろん氷点下であっても夜を過ごす事は出来る。その様に訓練を受けている。寝袋に入ることが出来れば天国の様なものだ。
しかし赤外線放射を抑制するという意味では、テントの方が都合が良かった。
身体を休めるという意味でも、テントを使えるのは有り難かった。
朝を迎え、雪がちらつく中でまた行軍を開始する。
寒さで強張った身体が、歩き始めれば少しずつ温まってきて動く様になる。
空には灰色の雲が低く垂れ込めている。
良い天気だ。
雪を降らす厚い雲は赤外線を完全に遮る。
即ち、どの様な手段をもってしても高空を飛ぶファラゾア機が地上の彼等を見つけることは出来ない。
行軍速度を上げ、一気に距離を縮める。
また夜が来る。
明るいうちに当たりを付けておいた小さな丘に身を隠しながら登る。
厳重に電磁シールドされたことでファラゾアに使用が見つかることは無くなったが、代わりに体積が倍ほどになった赤外線暗視ゴーグルを付け、遙か数十km彼方のファラゾア地上施設を観察する。
こちらが発見される危険性も増すが、同様に敵の施設を観察するにも、夜間の赤外線イメージによる偵察は非常に効果的だった。
しかし、ゴーグルを通した画像を見てレヴォーヴィチは眉を顰め、そしてその意味を考えて驚愕した。
彼の眼に映ったのは、そこに地上施設が存在するとは思えない程に周囲のバックグラウンドと同じ一面の闇だった。
即ちファラゾアの地上施設は、ほぼ一切の熱を外部に放出していないのだった。
ただそれだけでも、敵の持つ科学技術の高さが分かる。
地球人類には絶対に作れないものだった。
何も見えないのではどうしようも無かった。
そのまま小一時間ほどファラゾアの地上施設を観察し、その間何の変化も認められないことだけを確認してから、高さ僅か10mほどしかないその丘の陰に隠れて休んだ。
翌朝、レヴォーヴィチは数人の兵を連れて再び丘の上に登り、枯れた下生えの中に身を隠した。
兵の一人が年代物のフィルムカメラを取り出し、グレネードと見まごうばかりの巨大なレンズを取り付ける。
これほどファラゾア地上施設に近い場所で、電子機器であるデジタルカメラを使用するわけにはいかなかった。
「全体が収まる様に何枚か取って、その後最大望遠で全体を舐める様に取ってくれ。」
「諒解。」
レヴォーヴィチが双眼鏡でファラゾアの地上施設を見つめる脇で、シャッター音が鳴り続ける。
フィルムを二回ほど取り替えた後、兵を一人残して皆が丘の陰に戻った。
レヴォーヴィチは一人の兵士を呼んだ。
ゴルジェイ・イシャエフ上等兵。彼の部隊の中では最も若い兵だった。
隊長に名指しで呼ばれたゴルジェイは、多少緊張した面持ちでレヴォーヴィチの前にしゃがみ込む。
低い丘の陰で直立不動の敬礼をするわけにはいかなかった。
「ゴルジェイ。お前はここから戻れ。南南東の方角に真っ直ぐに進めば、ザハルヴァニの村に出る。ペチュラ川沿いの村だ。適当な脚を調達して、何とかシクティフカルに辿り着くんだ。シクティフカルには連邦陸軍の地方司令部がある。第68独立親衛特殊任務連隊の名前を出せば、地方司令官に取り次いでもらえる。
「現在ファラゾアの地上施設HM-11から25kmの地点に来ている。ここまでは近づけたことを報告するんだ。これを持っていけ。」
そう言ってレヴォーヴィチは、プラスチックバッグに入れられた撮ったばかりのフィルムをゴルジェイに渡した。
ゴルジェイは顔を歪めつつ、そのバッグを受け取った。
ゴルジェイが何を考えているか、その表情からよく分かった。
一番の新入りで力不足の自分は足を引っ張るだけなので、作戦の重要な局面に差し掛かる前に体よく追い払われた、と思っているのだろう。
もちろんあながち大外れではないのだが、それだけではなかった。
「行け。」
歯を食いしばりながら、ゴルジェイがフィルムをバックパックに詰めたのを確認して、レヴォーヴィチはゴルジェイに命じた。
ゴルジェイは悔しさで泣きそうな顔をして敬礼し、そして後ろを向いた後はもう振り返ることもなく、与えられた任務をこなすべく南に向けて歩き去った。
ゴルジェイの姿が十分に小さくなった後、去って行くゴルジェイの背中を見送るレヴォーヴィチに、ロジオノフ軍曹が話しかける。
「なんのかんの言って、お優しいことですな。」
「何の話だ、軍曹。」
「独り言ですよ。」
そう言いながら、レヴォーヴィチを見るロジオノフ軍曹の顔には薄らと笑いが浮かんでいる。
「そう言えばゴルジェイの奴、先月彼女が出来たって喜んでたぜ。戻ったら彼女と宜しくやるんだぜ、畜生め。」
バックパックに背を預け、地面に低い姿勢で座る若い兵士がニヤニヤと笑いながら言った。
「ほう、彼女が。ならばこそ余計に若いモンは帰してやらんといかんですな、大尉。」
レヴォーヴィチは何も言わずにロジオノフ軍曹を睨む。
「願わくば、無事帰り着いたあの若造が、こんなヤクザな部隊に二度と配属されない様祈るばかりですな。」
ロジオノフ軍曹が、もう姿の見えなくなってしまったゴルジェイ・イシャエフ上等兵が歩き去った方角を眺めながら言った。
「・・・全くだ。人は年寄りから順番に死んでいくのが筋ってもんだ。まだろくに女も知らない様なガキが、真っ先に死ぬなんて間違っている。」
そう言ってバックパックを担ぎ直したレヴォーヴィチを見て、ロジオノフ軍曹がニヤリと笑う。
「休憩は終わりだ。遅れた分を取り戻すぞ。小隊、前進。」
「諒解。小隊、前進。」
ロジオノフ軍曹のかけ声で、まるでだらけた様に低い姿勢で地面に座っていた全員が腰を上げ、腰を屈めた姿勢でファラゾアの地上施設の方角に向けて進み始める。
僅かに存在する地形の起伏と、殆ど葉を落としている背の低い灌木に身を隠しながら、彼等はゆっくりとだが確実にその距離を詰めていった。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
ロシア広いっす。
書いていて、地理的な感覚がおかしくなるぐらい広いっす。
狭い日本で生まれ育った身には、あの広さは手に負えないっす。
地方の中心都市から隣の大きな街に行くのに延々数百km走るとか。それでもロシア地図の中ではちょろっと動いただけとか。
広東軍が満州で地図を見誤ったと言うのを笑えないです。
しかしそれより何より、永久凍土の中にちょこっと突き出した島の様な地面にこびり付く様に街を作って、そこに人が住んでいると言うのがもっと驚きでした。
人間てすげえ。
・・・いや、ウォッカを燃料にして動いているロシア人だからできるワザで、人類には不可能なのかも知れませんが。