32. 電子的攻撃手段
■ 6.32.1
眼の前に白い雲が迫る。
白い壁となって立ちはだかるように視野一杯に広がった雲は、音も無く静かに達也の機体を飲み込み、視界一面を真っ白に変えた。
時速にして1500km/hを大きく超える速度で雲の中を突き抜けているのだが、濃淡無く一様に真っ白な雲の中ではその速度は感じられず、自分の身体を包む風防が風を切る音以外に感覚的に速度を感じるものが無いので、まるで白い霧の中に浮いて漂っているかのような錯覚に陥る。
勿論頭では自分が凄まじい速度で高度を下げている事は理解しているので、例え眼で見える世界に動きが無かろうとも、その白い世界に向こうからいきなり山肌が現れて反応する間もなく激突してしまうのではなかろうかと、本能が悲鳴に似た警告を上げ続けている。
当然その様なマヌケな事をしたつもりは無く、その真っ白い世界は突入したときと同じ様に一瞬にして後に過ぎ去り、眼の前に雲の下の世界の開けた視界が広がった。
突然現れた山肌に激突するようなことはなかったが、しかしそれでも地上高度たった300mの高さに浮いた雲の下に、引き起こしながら緩い角度で突き抜けたとは言え、高速で突っ込んで行った達也の眼前に緑眩しい新緑の森に覆われたなだらかに連なる山並が急速に迫ってきた。
操縦桿を引く右手にさらに力を加えて、機体の旋回半径をもう少しだけ小さくする。
まるで巨人の手に押さえ付けられたような引き起こしによる高Gに、さらに追加の遠心力が加わって内臓にズシリと重しが置かれる。
血液が遠心力で下半身に寄せられ、酸素が足りないと脳が喘ぎ、視野を黒く染めながら意識が混濁しかける。
急激な引き起こしにより、下を向いていた機首が一瞬で上向きになり、HMDスクリーンの上、眼の前に表示される緑色のピッチラダーが凄まじい速度で下に流れ、キャノピーの外視野に映る景色が水平になった事と、ピッチラダーの水平線が対気速度を表示する三角形の脇に合った事を確認し、達也は操縦桿に加えていた力を一気に抜いた。
骨が軋み内臓がよじれる様な遠心力が一気に抜け、肺の隅々にまで空気が行き渡り、酸素不足で視界も思考も混濁仕掛けていた脳に血流が戻って痺れるような感覚と共に思考がすっきりとする。
足元僅か数十mを、なだらかな山の峰が後に向けて飛ぶように消えていく。
すぐに次の山が迫ってきて、峰と峰の間の山稜が僅かに低くなっている部分を狙って、再び僅か数十mの高度差で掠めるようにして飛び越える。
時折、少し離れた場所で頭上の雲が光り、直径数十mほどの穴が突然発生してその向こうに青空が見える様になる。
上空にいるファラゾア機が、雲の下に抜けた達也達三機を狙って、非効率的ながらもレーザーを撃っているのだ。
ファラゾア、地球人類の区別無く、両軍ともが地球大気中で減衰の少ない波長の赤外線レーザーを用いていた。
大気中で減衰が少ないとは言え、雲に当たれば拡散され乱反射してレーザーは急激に減衰して止められる。
その際レーザーの持つ熱量で、雲を構成する液化した水蒸気の粒子は一瞬で蒸発し、透明な水蒸気に戻りはするが、この時に水蒸気と周辺の大気に与えられた膨大な熱量によって大きな大気の密度差が生じ、陽炎のように揺らめく大気はレーザーの光路を大きく攪乱してレーザー光を拡散し、急速にその強度を減衰させる。
そして雲は大概の場合風によって流れているため、雲を撃ち抜いてその中を貫通する円筒状の透明な光路を何とか確保できたとしても、次々と風に流され供給される雲によりその光路は塞がれ、連続的に発生する強烈な陽炎により結局レーザーはまともに直進する光路を確保できず、やはり急速に減衰するのだ。
これらの効果によって、レーザー光で分厚い雲を打ち抜いてその向こう側に存在する目標を攻撃する事は非常に難しいのだった。
これは雲だけでなく、大気中地表近くの低層を漂う細かな塵や霞でも、弱いながらも同様の効果を得られる。
達也が「古典的」と評した低空での侵攻は、低層雲の中に紛れてしまえばファラゾア機からのレーザー砲攻撃をほぼ無効にしてしまうという意味で人類側に大きく有利となる。
ファラゾア来襲直後、僅か1000mそこそこの射程しか持たない機関砲と、敵に比べて極めてお粗末な索敵能力しか持たなかった人類側の戦闘機が、どうにか生きたまま敵の元にたどり着くために編み出された涙ぐましい程の侵攻方法であった。
そしてまさに達也は今、その方法を踏襲することで敵の攻撃を無効化しつつ前線からさらに敵陣側に潜り込もうとしている。
またひとつ、高さ数百mの山の連なりが達也達三機の前に現れた。
山頂部を雲の底部に突っ込んだ峰を避け、僅か100m足らずでも雲との間に隙間のある尾根の鞍部を三機の黒灰色の戦闘機が一塊になってすり抜けていく。
尾根を超えた無効に広がる同じ様な地形のうねりと、新緑色をした森の連なり。
三機の蒼雷は地形をなぞるかのように尾根を超えて降下する。
「こちらズィマロードク05。ヒドラの攻撃にシステムが侵食されている! 無理だ、これ以上保たん。離脱する!」
「クソ! システムブレイクダウン! ヤバい引き返・・・」
「ウードット15! 操縦不能! クソッタレ! イジェクト! イジェクト! イジェクト!」
「ソヴァ03より空域の各機。Zone4及びZone5のエリア9、10、11は敵ヒドラの攻撃影響下にある。シールドにダメージのある機体は至急Zone6以遠に退避せよ。繰り返す。Zone4および・・・」
達也達三機は、高度を落とした時点から一切の電波の発信を止めているが、受信はそのまま継続していた。
上空で戦う味方機の通信の中に、ヒドラの電子攻撃にシステムを破壊され脱落する者の悲痛な叫びのような声が混ざる。
現在最前線となっているZone5で緊急脱出しても、救難機が迎えに来るとは思えない。
それでも今すぐに撃墜されて確実に死ぬよりは、シベリアの針葉樹林を機載のサバイバルキットを頼りに延々100km以上歩く方が、まだ生き延びられる可能性は高いだろう。
例え対ファラゾア戦用に電磁シールドを強化した現代の戦闘機であろうとも、被弾して機体を傷つけられ、電子回路を保護している電磁シールドに綻びを生んでしまえば、ヒドラの攻撃はその僅かな綻びを確実に突いてくる。
短時間であれば無視できるレベルであったとしても、長時間ヒドラの電子攻撃にさらされ続ければ、システムは時間と共に不調をきたし、最悪システムが破壊されて機体は制御不能に陥る。
「ヒドラ位置変わらず。方位28、距離30、高度75。」
レーザー通信を通して優香里の冷静な声が聞こえる。
今三人とも雲の下を飛んでいるので、レーザー通信は通る。
「距離10で突き上げる。それまでは雲に隠れて飛ぶ。」
「諒解。」
「諒解。」
相変わらず時々思い出したようにファラゾア機からの砲撃を受け、周りの雲に青空の透けて見えるレーザーの通過痕が発生する中を達也達は超音速を維持したまま対地高度300m以下で地面を這うように飛び続ける。
「距離15。カウント10で突き上げる。10、9、8・・・」
足元をまたひとつ、なだらかな斜面を持った低い山並が後方に飛ぶように消える。
山稜に合わせて、達也は僅かに機体を上下させ、数十mの余裕を持って尾根を越えた。
三機が通り過ぎた後ろには、超音速衝撃波が地上を襲い、若葉を舞い上げ小枝をへし折り、巨木をしならせる。
突然甲高い警告音が鳴り響き、前方に大量のGDD反応マーカーがHMDに表示された。
まるで紫色の絨毯が引かれたかのように、前方の地上が紫のマーカーで埋まる。
実際には、前方に見えるまた別の山並の向こう側にあって、目視出来ない。
どこかでみた記憶のある光景。
「ヘッジホッグだ! ブレイク! ヒドラ攻撃中止! 各自退避!」
二人からの返答は無い。
突然の状況にパニックになったり、状況を見極めようと立ち止まったりするようなマヌケではないことは知っている。
二人の動きを確認する必要は無い。
二人にはブレイクと言いながら、達也はさらに高度を下げてそのまま直進した。
僅か高度300mに満たない小山が、音速で接近してきて眼の前に立ちはだかる。
その山肌を舐めるように上昇し、尾根を越えさらに直進する。
尾根を越えたところで、正面の山並を越えてこちらに向かう大量のミサイルが見えた。
数百もの紫のマーカーが、まるで津波の様に横一列になって、5kmほど前方にある山稜の上を越えて向かってくる。
着弾まで5秒。
一拍置いて、達也はスロットルを最大に叩き込んだ。
覆い被さる様に急速に迫るミサイル群。
まさに眼の前で巨大な波濤が崩れるかのように、達也目掛けて下へ向きを変え始める。
達也はさらに降下。
森の梢の僅か数m上を、M1.5を越える速度で飛び抜ける。
衝撃波で掻き分けられ打ち倒される森の木々。
梢の先端が機体を叩く軽い衝撃音が何度も響く。
雪崩れ落ち覆い被さる様に迫るミサイルの波濤の下を真っ直ぐに突き抜ける黒い機体。
それはまるで大波に打ち込まれる一本の矢の如く。
一気に眼前に迫る前方の小山。
耳元で煩く鳴り続ける衝突警告音。
ギリギリまで引きつけて達也は機体を急上昇させ、そしてすぐに降下する。
腹に堪えるGが掛かり、反転して頭が痺れるような逆G。
達也の機体は正気とは思えない速度を保ったまま、森に覆われた山肌に沿って一瞬で斜面を駆け上がり、次の瞬間斜面を舐めるように降下した。
前方のヘッジホッグは例によって森の中に姿を隠しており、肉眼では視認できない。
紫のマーカーが示す敵に真っ直ぐ突っ込む。
後方には数百のミサイルが旋回して達也を追う。
旋回しきれなかったミサイルが、先ほど達也が越えたばかりの山稜に突っ込む。
山の向こう側で戦術核並みの爆発が幾つも発生し、炎と共に森の木々と土砂を大量に空中に吹き上げる。
達也はガンサイトを正面のヘッジホッグに合わせる。
自動追尾機能がそれを補助する。
「OBJ BTW TGT(目標との間に障害物あり)」の黄色いサインがレティクル脇でフラッシュする。
構わずさらにトリガーを引き続ける。
達也の機体から撃ち出されたレーザー光が、針葉樹の葉を灼き枝を切り刻んでその奥にいるヘッジホッグに到達した。
達也の機体を追うミサイルが尾根を越える。
レーザーに撃ち抜かれたヘッジホッグが木立の奥で爆発する。
爆発の小さな煙が上がるそのすぐ上を達也の蒼雷が一瞬で通過した。
後方からミサイル群が迫る。
前方に再び次の小山が迫る。
音速の二倍近い速度でヘッジホッグの群れの上を一瞬で通過した達也は、後方に数十発のミサイルを引き連れた状態で、前方の小さなやまなみに向けて真っ直ぐに突っ込んでいく。
700m/secの速度では、小山が近付くのも一瞬であれば、通り過ぎるのも一瞬でしか無い。
その速度のまま達也は山に向けて突っ込んでいき、激突寸前で機体を上昇、山を越えたところで降下させて再び高度50mに戻る。
達也の機体を追うミサイルが幾つも山並みに突っ込み、再び大爆発を起こす。
ヒドラと思しき目標までの水平距離はとうに10kmを切っている。
達也は操縦桿を力任せに引いた。
視野の中を流れるように落ちていくHMDのピッチラダー。
急激に上向きになる機首。
達也の黒い蒼雷は、その尖った槍の穂先のような機首を天に突き立てんとするかのように真っ直ぐに上を向き、青い空に向けて一気に高度を増す。
地上では、急激な引き起こしにより目標を見失ったミサイルが、最後に達也を認識していた位置に向けて突っ込み、幾つもの火球が発生した。
急激に上昇する達也の前方に、ファラゾア機の一団が存在する。
三十機ほどのファラゾア機が密集しており、そこだけ異常に敵機の量が多い。
その集団の中心に、特徴的な機影。
たとえ初めて見る者でも、その姿を見間違うことは無いであろう。
そのおもちゃの蟹のような姿を認めた達也は、HMDの下で獰猛な笑みを浮かべた。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
相変わらずリアルの仕事がオニで、投稿が不安定になっており申し訳ありません。
そろそろ改善の兆しが見えて参りました。