12. クローンガ警察署
■ 1.12.1
マレー語を話す事の出来る警官の名前はチャイヤット警察中尉と云うらしかった。
お互い名前を知らなければ、色々と面倒なので、パトカーで警察署に移動する間に自己紹介があった。
パトカーを運転している方の警官はカイと呼ばれていたが、マレー語も英語も話せるわけでは無かったので、特に自己紹介は無かった。
もっとも警察署は駅から僅か数百mしか離れておらず、駅前の通りを直進し始めて僅か一分も経たずに到着したのだが。
達也とシヴァンシカは、警察署に着くなりまずシャワーを浴びる様に言われた。
難民列車に乗っている間に悪臭には慣れてしまったので自覚は無かったが、この暑い気候の中で数日シャワーを浴びる事さえ出来なかった二人は、それなりに酷い匂いだった様だ。
多分、パトカーという閉鎖空間の中に閉じ込められて、チャイヤットはその悪臭に辟易させられたに違いなかった。
シャワーを浴びた後は警官から渡された服に着替えたのだが、それは灰色の貫頭衣で、まるで囚人の様だった。
汚れた服を洗濯してやるからその間その服で我慢しろと言われては、口を噤むしかなかった。
シャワールームから出た後は、小さな会議室のような所に連れてこられた。
しばらく経つとシヴァンシカが入室してきた。彼女も達也と同じ灰色の貫頭衣を着せられていた。
お互いの妙な格好を見て、顔を見合わせて笑った。
普通に笑うことが出来ているシヴァンシカを見て、達也は内心胸を撫で下ろした。
「待たせたな。」
お互いの貫頭衣を笑い合って、5分ほど経ってからチャイヤットが入室してきた。運転手をしていたカイという名前の警官をそのまま連れていた。
部屋に入るなり開口一番、やっと人間らしい匂いになった、とデリカシーの欠片も無い失礼なことを云う。
シヴァンシカが顔を真っ赤にして俯いた。
風呂どころかシャワーを浴びる事も出来ず、それどころか飲む水にさえも事欠いていたのだ。
そもそもが、シャワーなど浴びることが出来なくとも、こうして生きているだけで充分に幸運で、そして生き延びる事が最大最重要、そして唯一の望みである様な最前線直下から逃げ延びてきたのだ。
降り注ぐミサイルや、倒壊する高層ビル、そして瓦礫の下敷きになってどれだけの人間が死んだか分からなかった。
数え切れない程の死体を見て、千切れ飛んだ人間の身体のパーツを見つけ、そして感情が麻痺するほどの数の血溜まりを跨ぎ越えてきた。
平和なところに住んでいる奴は、勝手に間抜けなことを言う、と達也は思った。
「そう怖い顔をするな。気に障ったのなら謝る。」
どうやら癇に障るチャイヤットの台詞で腹を立てたのが顔に出ていたらしい。
冷静になれ。
自分に言い聞かせて、達也は一つ息を吐いた。
「まずは、名前と生年月日と住所、両親の名前を教えてくれ。ああ、身分証明書があれば見せてくれると助かる。」
達也はシャワーを浴びる前にボストンバッグと一緒に渡された、身につけていた物を入れたビニル袋の中から財布を取り出し、IC(Identification Card)を取り出した。
シヴァンシカも同じ様にして財布からICを取り出す。
二人ともシンガポール生まれであるので、シンガポール国民同様にIDカードが発行されていた。
日本やインドのパスポートを持ち歩くよりも、ICの方が余程便利なので普段はICを持ち歩いていたのだ。
二人のICを受け取ったチャイヤットは、ICの裏と表をしばらく眺めた後、カイと呼ぶ警官にそれを渡してタイ語で何かを言った。
カイは二人のICを持って部屋を出て行った。コピーでもとるのだろう。
警察が何かに悪用するとは、思いたくなかった。
「君達の両親か他の家族はあの列車に乗っているのか?」
「乗って居ない。俺達二人だけで逃げてきたんだ。家族を探している余裕なんて無かった。」
「そうか。ご両親の安否は?」
「分からない。俺も彼女も、母親の方は多分死んでいるだろう事は分かっている。死体は見つからなかった。両方とも、父親の方は生きているのか死んでいるのか、知らない。」
「・・・そうか。悪いことを聞いた。済まない。」
シヴァンシカがまたあの時のことを思い出したのだろう。
俯いて、膝の上にかかる貫頭衣の生地を強く握り締めている。
達也はシヴァンシカの肩に右手を回して、軽く自分の方に抱き寄せた。
MRTのベドク駅近くに居る時に、彼等のすぐ近くで戦いが始まった。
市街地のあちこちにミサイルや撃墜された戦闘機が落下し、爆発や建物の倒壊が次々と発生した。
そんな中、とにかく一度家に帰ろうというのは、ごく自然な流れだっただろう。
MRTは既にあちこちで寸断されていてもう動いてなどいなかった。
道路も倒壊したビルやその破片、放置された自動車などが路上に散乱しており、既に道路としての機能を失っていた。
バスでもタクシーでも、公共の交通機関など全てストップしていた。
上空で戦っている戦闘機達が発射する機銃弾が突然落ちてきたり、何もない所が突然爆発したりする。
死の恐怖に怯えながら、建物の陰を伝うようにして逃げた。
彼等を守ってくれるはずのその建物さえ、突然倒れたり崩壊したりして瓦礫を撒き散らし、逆に彼等に死をもたらす巨大な凶器へと変わる恐れもあった。
実際ビルの陰で何度か、雪崩のように降ってくる瓦礫や、ビルの倒壊に巻き込まれ死にそうな目にも遭った。
つい先ほどまで居た場所が爆発し、爆風に吹き飛ばされたこともあった。
眼の前で降ってきた瓦礫に人が押し潰されるのを見た。
機銃弾の流れ弾が当たって車が爆発し、その炎に焼かれ全身に火を纏って、まるで踊るように焼け死んでいった者も居た。
そこに存在したありとあらゆるものがぶちまけられたように路面に転がり、色々なものが燃える酷い匂いの煙と炎に巻かれ、多くの死体を脇に見ながら、爆発と倒壊に怯えて逃げ惑いながらも、家を目指した。
何時間もかかって、達也は脚を痛めたシヴァンシカを庇いながらも、なんとか二人の家があるタンピネスまで辿り着き、アパートメントのあるタンピネス21ストリートを越えた。
その時のシヴァンシカの台詞が今でも頭にこびり付いていて離れない。
「う、嘘・・・嘘でしょ・・・」
いつもの見慣れた光景は一変していた。
手前側にある高層HBDは半ばから折れて崩壊し、十五階辺りから上が存在しなかった。
その破壊されたビルの向こうに空が見えていることで、自分が絶望的な光景を見るであろう事は嫌でも想像がついた。
建物の角を回り、舗装されたいつもの小径を抜ける。
ブロック266のHBDの角を曲がった先には、何も存在しなかった。
いや正しくは、そこには色々なものがあった。
ミサイルか何かによって作られたであろう巨大なクレーターと、倒壊してバラバラになった幾つものビルが混ざり合った瓦礫の山、それぞれの部屋に置いてあったのであろう家財道具や日常の細々したもの、そしてくすぶり黒い煙を上げる炎。
しかし彼等が目指して命からがら辿り着いた、彼等の家とそして母親達はどこにも存在しないことは、明らかだった。
かつて自分達の家だったそのクレーターと、くすぶり続ける瓦礫の山を呆然と眺めながら、道端に何時間座り込んでいたかもう覚えていなかった。
ここに居れば、そのうち自分達の父親達が帰ってくるかも知れない、とも思っていた。
夜も更けてきた頃、突然眩しいライトの明かりに照らされたと思うと、軍のトラックが脇に止まり、優しくもしかし強引にトラックの中に担ぎ込まれた。
トラックの中に押し込まれる時、最後までシヴァンシカが泣き喚いて抵抗していた、あの泣き声が耳に残っている。
センバワン空軍基地の敷地内に作られた難民キャンプに保護され、呆然と何日か過ごした。
本格的な難民の避難が始まり、軍に誘導されるに任せて国境を越え、ジョホールバルで難民列車に押し込まれた。
結局父親や、シヴァンシカの兄妹達に会うことは無かった。
それが全てだ。
達也が話し終えると、部屋の中に沈黙が降りた。
シヴァンシカがまた思い出して泣いている。
いつの間にか部屋に戻ってきていたカイと、チャイヤットが悲痛な面持ちで黙ってこっちを見ている。
「・・・そうか。彼女が少し落ち着いてから、また話を聞こう。腹は減っていないか?」
しばらく経って、チャイヤットがやっと口を開いた。
■ 1.12.2
何日かぶりの食事を貪るように食べた。
味などしなかった。ただ空腹を満たすだけに食べた。
食事を終えてしばらくしてから再びチャイヤットが部屋に入ってきた。
今度はカイと、もう一人恰幅の良い中年の男を連れていた。
「人心地ついたと思う。今度は、今朝方の事件の話を聞きたい。気付いているかも知れないが、彼女を襲った連中はいわゆる反政府ゲリラという奴で、要するに手配書の回っているならず者達だ。とは言え、何人かを殺してしまっているわけだから、何もお咎め無しというわけにも行かない。詳しい話を聞かせてくれないか?」
達也とシヴァンシカは、チャイヤットの言葉に黙って頷いた。
まずはシヴァンシカが、列車が駅に着いたところから事の次第を説明する。
少々堅苦しい印象のあるチャイヤットだが、話し始めてみると案外に相手から話を引き出す話術に長けていることが分かった。
シヴァンシカの話に適当なところで相槌を打ち、話が発散し始めると質問を上手く織り交ぜながら、彼女が話しやすいように誘導していく。
シヴァンシカがチャイヤットに話をする傍らで、カイがキーボードを叩いて話を記録していった。
カイはマレー語が分からなかったはずだが、と達也は思ったが、カイの前にレコーダが置いてあるのを見て納得した。
「ふむ。大体分かった。後でまた聞くことが出来るかも知れないが、とりあえずシヴァンシカ、君への質問は終わりだ。で、タツヤ、君の方だ。同じ様に列車が駅に着いたところから話をしてくれるか。」
言われたとおりに、順を追って今朝の行動を達也は話した。
水か食料を手に入れようと列車を降りたこと。食料は手に入らなかったこと、駅前の仏教寺院で水を手に入れたこと。
そして、シヴァンシカが連れ去られようとしているのを目撃し、次々と反政府ゲリラ達を倒していったこと。
「随分手際がいいのだが。君は何かそういう訓練を受けているのか? 俺達警官でもそれ程までに上手く立ち回る自信は無いぞ。」
眉間に皺を寄せたチャイヤットが、本当に不思議に思っているという口調で聞く。
「そんな訓練は受けてない。ゲームだよ。ネットで仲間達と良くFPSをやってた。屋内突入戦は、人気のマップだ。」
「FPS? マップ?」
どうやらチャイヤットはゲームを余りしない人間のようだった。
「First Person Shooting。キャラクタの視点で戦うゲームだよ。チームプレイをするためには、ある程度の銃器とか白兵戦の知識や、戦場で部隊を展開する戦術知識が必要になる。勝つためにはもっと知識が必要だ。」
「ああ・・・eスポーツなんてのが盛んなのは知ってるが。」
なんてこった、とチャイヤットは心の中で頭を抱える。
こんな子供が俺達よりも余程軍事の専門的な知識を持ってるって訳か?
それも銃器を扱う知識から、戦術的知識まで。
「ゲームが得意なのは分かった。だが、ゲームと現実は違う。」
「やらなければならないことは違わない。突入の仕方や、タイミング。敵に気付かれない様に行動する方法。何を優先して、何が重要か。」
「馬鹿な。ゲームと同じ様に動けるはずがない。」
「ずっとサッカーをやってて、体力と身体能力には自信がある。それにFPSはRPGとは違う。キャラクターは皆、普通の人間と同じだ。超人じゃ無い。」
「現実で銃撃戦をやれば、本当に弾が飛んでくるんだぞ。当たれば死ぬ。」
「当たらなければどうと云う事は無いさ。撃たせなければ良い。」
そんなバカな。
チャイヤットは、テーブルの向こう側、自分の正面に座っているシンガポール生まれの日本人の子供をまじまじと見つめる。
まだ十四歳の子供だぞ。
十四歳の子供が言う台詞ではないし、やって良い事じゃ無い。
だが、その子供が今言った内容は、まさにその子供がつい先ほどやってのけた事そのものだった。
この小僧がおかしいのか? それとも日本人がおかしいのか?
「言いたい事は分かる。でも、そうしなければ俺は彼女を助けられなかった。父親と約束したんだ。彼女を守る、って。」
「つまり、彼女を守る為に仕方なく反撃した、と?」
「当たり前だ。散々人が死ぬのを見てきた。何万人、何十万人も、だ。なんで好き好んでそれを自分でやらなきゃならないんだ。」
チャイヤットは自分がこのたかだか十四歳の子供の話に引きずられている事を自覚していた。
しかしその子供の話が衝撃的すぎて、そして価値観が違いすぎて、自分のペースに引き戻せなかった。
この子供は、常識で考えてあり得ない様な悲惨な体験をしてきたのだろう。
人の死というものに対して、もう何の感情も湧かないほど。
唯一絶対に譲れない、連れの女の子の安全以外の、あらゆるものを切り捨てて生き延びてきたのだろう。
眼の前に座る子供の中の世界の基準が、自分の常識と余りにかけ離れている事をチャイヤットは自覚した。
これでは碌な調書が取れない。まずい。
「大体分かった。」
チャイヤットの後ろに座った、警官の制服がピチピチになるほど恰幅のいい男が口を開いた。英語だった。
達也の目が、これは誰だと言っている。
「署長のプラサート警察中佐だ。」
「タツヤ、と言ったか。お前は彼女を助けられた。それで目的は達しているだろう。駅前で難民の女性達を攫おうとした反政府ゲリラ達は、駆け付けた警官と銃撃戦の末、全員が警官によって射殺された。それで良いだろう。お前は何か罪に問われる事も無い。反政府ゲリラを警官が撃退したとなれば、報奨金も出る。コモンの奴が入院する見舞金と、奴が働けない間に嫁と息子がやっていくにも充分な額だ。それで手を打て。お前も今から難民キャンプで大変だろう。幾らかは出してやる。それで八方丸く収まる。どうだ。」
もとよりシヴァンシカの安全が確保出来ていれば良い達也に否やは無かった。
大きな事件となり、その容疑者或いは重要参考人として警察に足止めされ、シヴァンシカと離れてしまうのだけは避けたかった。
「彼女と離れなくて良いなら、それで文句は無い。」
「良い心がけだ。チャイヤット、それで処理しろ。タツヤと、シヴァンシカと言ったか。一晩泊まっていけ。難民列車は明日も来る。余り快適なところでも無いが、難民列車よりはマシだろう。腹一杯飯を食わせてやれ。経費で落として良い。」
そう言って署長はパイプ椅子から立ち上がった。
「ガキのくせに、たいしたもんだ。これからも彼女を守ってやるんだぞ。」
プラサート署長は、会議室から出る途中で達也の後ろで足を止め、達也の肩に手を置いて言った。
力強い手だ、と思った。
振り向いた達也に、プラサートが笑顔で頷いた。
達也とシヴァンシカは、いわゆる留置所の中で一晩過ごした。
所長の言うとおり、本来ならば快適なところでは無いのだろうが、充分な食事を与えられ、シャワーを浴びる事が出来て、ベッドで寝る事が出来た。
確かに署長が言ったとおり、難民列車に揺られながら寝るよりは遙かに快適だった。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
いわゆる取引ですね。
タイの警察だと、たまに起こるらしいです。人から聞いた話ですが。
事実とは違っても、八方丸く収めるための大岡裁きみたいなものです。