10. 難民列車
■ 1.10.1
列車は長くブレーキの掛かる軋み音を撒き散らした後に、酷い揺れとさらなる軋みと共に静止した。
シヴァンシカと共に身を寄せ合うようにして座っている、クッション性など皆無の座席の上で、衝撃で身体がずれるのを感じた。
相当酷い運転ではあったが、客車内の乗客からは呻き声が上がったものの、苦情や悪態を吐く声は殆ど聞こえなかった。
誰ももうそんな元気など無いのだった。
限界まで詰め込まれた客車の中には、汗をかいて何日も身体を洗っていないすえたような酷い悪臭が充満しているが、それにももう慣れてしまった。
誰もが疲れ果てた虚ろな眼をして、どうにか確保した場所に座り込み、何かにもたれかかって、列車と共に身体が揺れるに任せている。
達也は、窓側のスペースに座り、自分にもたれかかって寝ているシヴァンシカを見た。
黒く艶やかだった髪はほつれて頬に貼り付いており、座り心地が悪いのか、エアコンの無い車内では暑くて寝苦しいのか、眉間に皺を寄せて浅い眠りに落ちている。
彼等にはたいした持ち物も無く、もちろん貴重品など持ってはいないが、しかし十代前半の少女という売り物にも慰みものにもなってしまうシヴァンシカそのものが貴重品であるとも言えた。
もちろんシヴァンシカほどでは無いにしても、自分にもそういう意味の価値があることを達也も自覚している。
だから彼等はどちらか片方が必ず目を覚ましておき、交替で眠りにつくことを決めていた。
シンガポール国内であればその様な事件は殆ど起こらないが、ここはもう彼等が生まれ育った国では無い。
彼等が生まれ育った国は、戦いの最前線直下の地域となり、軍以外の立ち入りが禁止されてしまったのだった。
もうあそこに帰ることさえ出来ない。
親も無く、軍に誘導されてただ二人で押し込まれた脱出列車に揺られる間に、二人共がそれを強く意識し自覚した。
寄りかかったシヴァンシカを起こさないよう、身体を動かさずにいたのだが、それが少々無理な体勢だったらしく左の背中に痛みを感じた。
痛みから逃れるために達也は僅かに身体を動かした。
彼女を起こさないように身体を動かしたつもりだったが、失敗した。
相変わらず眉間に皺を寄せながら、二・三度眼を瞬かせてゆっくりと目を開けた彼女が自分の顔を見るのと眼が合った。
「起こしたか。ごめん。」
一瞬ここがどこかわからないという表情を浮かべた彼女に、起こしてしまったことを謝る。
誰もが酷く疲れ、腹を空かし、そして絶望していた。
疲れを癒やし空腹を忘れてしまおうと、僅かなスペースに座り、無理な姿勢にも構わず貪るように睡眠を取ろうとしているが、疲れ果てている筈なのに誰の睡眠も皆浅く、僅かな揺れや人の動きで目を覚ましてしまい、結局疲れを回復できてはいない。
中には相当悲惨な体験をしたらしく、夜間昼間に関わらず、寝始めて暫くすると大声を上げて跳ね起きて、周りにいる他の似たような状態の人々から睨まれてもごもごと謝りながら、荒い息を吐き汗を拭いて再び座り直して疲れの溜まりきった顔でまた目を閉じる、と云った行動を何度となく繰り返す者も少なくない。
「いいの。こっちこそゴメン。重いでしょ。」
シヴァンシカが少し笑って達也を見た。
疲労と絶望がその笑顔に暗く影を落としている。
「大丈夫だ。向かいのオッサンよりかなり幸せな状態だ。」
シヴァンシカが向かいの席の状況に目をやって、軽く笑った。
今度は幾分影の薄い笑顔だった。
彼等の向かいの席では、通路側に座る太った中年男性が、神経質そうな顔で眉間に皺を寄せて眠る窓際の初老の男にずっしりと身体を預けて眠っている。
偶々隣の席に乗り合わせただけで、二人は元々知り合いというわけでは無かったのだと、彼等が眠りにつく前の会話から推測していた。
前の席の二人が、自分達を襲うような人間では無い事は乗り合わせてしばらくして確認出来ている。
窓側の神経質そうな男は、この世の全てのものは規則とマナーによって形作られているべきだ、というような考えを持つらしい極めて厳格な性格のようだった。
通路側の太った男は、見た目に反して案外と正義感の強い性格をしているらしく、車内に設置してあるトイレに行くので席を立った二人のために、空いてしまった座席が他の乗客に取られてしまわないように確保していてくれたりもした。
もちろんこの二人に下心のようなものが無いとは言い切れないし、何かの拍子に突然豹変する可能性も否定できない。
だが、最初から下心丸出しでこちらの懐の中を狙ってきたり、どこかに連れ去ろうと誘いを掛けてくる様な態度を隠しもしないような連中よりは余程ましだと思っていた。
「列車、止まったの? どこ?」
昨夜遅く、列車はマレーシアとタイの国境に到着した。
そのまま夜が明けるまで国境の町であるパダン・ベーサーに止まり、彼等は車中で夜を明かした。
朝になり、イミグレーションが開いた後に国境を越え、同じパダン・ベーサーのタイ側の駅にしばらく止まった後に、列車はノロノロと動き出したのだった。
「クローン・ンゲ? クロンガエかな? タイ語はよく分からないな。それほど大きな街じゃ無い。国境からもまだ余り進んでない。列車の速度が遅い。」
達也は車窓から見える駅のプラットフォームに立つ標識にタイ語と併記してある英語の表示を読んだ。
街の名前が分かったところで、ここがどこなのか分かるわけでもなかった。
こんな時に携帯電話の地図サービスが使えればな、と達也は思った。
電話のバッテリーが切れてもう当分経つ。充電するためのサービスコンセントも見当たらない。
そしてそれ以前に、携帯電話の電波はマレーシア国内に於いても完全に停止していた。タイであっても状況は変わらないだろう。
シンガポールから既に発生した、或いはこれから発生する数百万人の難民に対して、当初はマレーシア政府が全面的な協力を申し出ていた。
マレー半島中北部に幾つかの難民キャンプが作られ、半ば着の身着のまま国を出てきたシンガポール人達は、鉄道を用いた輸送によって続々とその難民キャンプに送り込まれていった。
ファラゾアの降下から数日経ち、ファラゾアの降下ポイントが実はボルネオ島の自国領内である事が判明した後、マレー政府は難民政策を大きく方向転換し、現在受け入れている八十万人以上の難民を受け入れることは不可能であると公式に表明した。
地理的な実質的最前線はシンガポールであるが、ボルネオ島とは言え敵の本拠地が国内に存在する以上、今後軍事費が大きく膨れあがることを予想しての決断であると各国に受け止められた。
クアラルンプールに暫定政府を置いたシンガポールも、間借りする立場である関係上、これを受け入れるしか無かった。
シンガポール難民達は、マレーシアに設置された難民キャンプを目指して国境から旅立っていったが、彼等の大部分が難民キャンプに辿り着く前にマレーシア政府が方針変更を行ったため、多くの難民が既に国を発った状態で行き先を失うこととなった。
多くの難民が列車に詰め込まれ、劣悪な環境の元、マレー半島を縦断する線路上に待機させられている状況を憂慮したタイ王室が難民の受入を表明した。
タイ国政府は難民列車の提供と、そしてマレーシア国内に滞留している多くの列車がタイ国境を越えて自国内に進入する事の許可、そしてタイ中部チャオプラヤ川流域の平野部に難民キャンプを設置する事を表明した。
そして達也達を載せた列車は、タイ国境を越えて気の遠くなるような彼方へ向けてゆっくりとした速度でマレー半島を北上しているのだった。
「そう・・・・お腹、空いたね。」
クアラルンプール南部に設置された難民中継拠点で振る舞われたパンとスープの粗末な食事を摂ってから、もう丸二日が経っていた。
その間、水以外に何も口にしていなかった。その水を入れたボトルも、昨夜の時点で全て空になっていた。
簡単な作りの駅の建物の向こうに、駅前で営業する商店が幾つか見えた。
国民全員が難民として国を脱出したシンガポールのドルが、今でも通貨として使えるのかどうか分からなかった。
「駅前に店がある。行ってみよう。もしかしたら、何か買えるかも知れない。」
それでも運良く何かを手に入れられるかも知れない。
少なくとも、駅構内の水道で水を手に入れる事は出来るだろう。
水道水では、腹を壊す危険もある。しかし、水も飲まずにこの暑い車内に閉じ込められていれば、いずれ脱水症状で体力を失い、下手をすれば死ぬ。
もっとも、水で腹を壊して脱水症状を加速させる危険もあるにはあるのだが。
「動けるか?」
シヴァンシカはそれ程身体を鍛えているわけでは無い。かと言って、虚弱体質な訳でも無かった。
シヴァンシカ一人を残していくよりも、常に二人で行動している方が色々と安心だった。
「うん。まだ大丈夫。」
達也は立ち上がり、列車の窓を大きく開けた。
運良く、窓の下にはプラットフォームがあり、飛び降りる距離は1mほどで済む。
「どうしたんだい?」
向かいの座席の太った男が目を覚ました様だった。
「水が手に入るかも知れない。行ってみます。」
「気をつけるんだよ。遅れないようにね。」
「はい、有難うございます。」
そう言って、達也は窓から外に飛び降りた。シヴァンシカが飛び降りるのに手を貸してやる。
「まずは駅前の店に行ってみよう。ダメだったら諦めて、トイレと水を探そう。」
「分かったわ。」
他にもパラパラと客車から降りてくる乗客に混ざって、線路を渡り駅舎を通り抜ける。
駅前を横切る道路を渡り、それ程大きくも無く余り綺麗でも無い個人経営らしい商店に入る。
店番をしていたらしい中年の女が笑顔を浮かべながら椅子から立ち上がった。何か言っているのだが、タイ語なのでもちろん達也には分からない。
達也はポケットの中に入れていたシンガポールドルの札を見せた。
「シンガポールのお金、使えますか?」
達也の手の中にある札を見て女は何か言っているが、やはり分からない。
女がヒジャブを被っているのを見て、達也はマレー語に切り替えた。タイ深南部にはマレー人が多く住んでいる。
シンガポールでは皆日常的に英語を使って会話しているが、人種構成から大概のシンガポール人は他にもマレー語、タミル語、北京語か或いは福建語を使える者が多い。
学校でもこれらの言葉を公式に教科として教えている。
達也の場合はさらに日本語も使える。
「ダメ。使えない。」
案の定女はマレー語が少し話せるようだった。だがその返答の内容は無情なものだった。
元々使えないのか、或いはシンガポールドルは既に紙くずと化したのか。
何度頼み込んでも女が首を縦に振る事は無かった。
達也は諦め、溜息を吐きながら店を出た。
「落ち込まない。元々ダメだって思ってたんでしょ?」
店を出たところで、シヴァンシカが達也を慰めるように言った。
「ああ。そうだな。水を探そう。駅舎の周りにあるかも知れない。」
「私は先にお手洗いに行ってくる。いい?」
「駅にあったのか?」
「ほら、あそこ。」
シヴァンシカが指差す方を見ると、駅舎の中から人の列がはみ出していた。
女ばかりが並んでいるところから、どうやらトイレ待ちの行列の様だった。
「分かった。水は俺が探しておく。」
「うん。ありがと。ゴメンね。」
シヴァンシカが列の最後尾に並ぶのを見届け、達也は水を探し始すついでに、通り沿いにある他の店にも顔を出して金が使えるか聞いて回った。
何軒かの店ではマレー語、或いは英語ではっきりと断られ、そして何軒かの店ではそもそも言葉が通じなかった。
いずれにしても、今手元にあるシンガポールドルは全く使い物にならないという事がよく分かった。
駅前の通りの店の並びにある両替屋でも受け取りを拒否されてしまったのだ。
意気消沈した所を、気を取り直して本格的に水を探す事にした。
通りに並ぶ店の店先に幾つか水の販売機があったが、その様な販売機には当然金が必要だった。
しばらく歩き回って、達也は駅の近くに仏教寺院を見つけた。
仏教だろうが、イスラム教だろうがキリスト教だろうが、寺には水があるはずだ。
そしてそこから水を恵んでもらう事を聖職者達は拒否しないだろう。
寺の境内にいた仏教僧は少し英語が話せた。
水が欲しいという達也の願いを快く聞き入れてくれ、わざわざ水場に案内してくれた。
空きっ腹を水で埋めて誤魔化すようにがぶがぶと水を飲んで喉の渇きを潤した達也は、鞄の中に入っていた500mlのペットボトル五本に水を満たし、礼を言って仏教寺院を後にした。
駅前を横切る通りを逆向きに歩き、駅前の広場を通って駅舎の方に進み始めたとき、まさに達也が進んでいこうとしているその駅舎の方角から、幾つもの女の悲鳴が重なって聞こえてきた。
いつも拙作お読み戴きありがとうございます。
派手な戦闘の陰では・・・というお話です。