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井の中の蛙


 古ぼけた井戸の中で一匹の蛙の声が響く。

 さて、この蛙は名をストゥルトゥスという。

 ストゥルトゥスはもともと井戸の外で生まれたが、あるときにこの井戸の中に住み着いた。さいわいにも、餌となる虫はいくらでもいる上に、蛙を食らうような敵はいなかった。この井戸にはストゥルトゥスの他に蛙はいなかったので、生き残るために必死になる必要もなかったのだ。

 餌は選び放題、天敵はいない、競争相手もいない。

 そうなると、ストゥルトゥスは次第に傲慢になっていった。

 まるで古井戸の王のように振る舞い、自分よりも弱い虫たちに様々な命令を下した。

 そうやってどれほどの時間が経ったか、彼はふと今が梅雨であることに気付いた。

 あまりの熱気で水分がどんどん奪われていく夏や、その逆であまりの冷気で身体の動きがにぶくなる冬とは違って、適切な気温と十分な湿度をもたらす梅雨は蛙にとって天国のようなものである。

 古井戸の中の生活のせいで自尊心が肥大化したストゥルトゥスは古井戸の外へ出て、外の世界で家来を増やそうとした。

 古井戸の中に生えている細い蔓をつたって彼は古井戸の外へ出た。

「ここが井戸の外か」

 古井戸の外はストゥルトゥスの想像以上であった。

 静寂であった井戸の中と違い、様々なにおいと騒音が混ぜ返って気分が悪くなる。驚きを通り越して不快感さえ覚えたストゥルトゥスだったが、彼の矜持が古井戸の中へ帰ることを許さなかった。

「余は王である! 静まれ!」

 蛙の鳴き声が梅雨の街に響くが、その声に従う者はいない。それどころか、蛙の鳴き声ごときに耳に傾ける数寄者はいなかった。

「王たる余の威光に従わぬとは不敬であるぞ!」

 当然ながらここは古井戸ではない。

 ストゥルトゥスだけにかしずき、ストゥルトゥスだけを褒め称える虫たちはいない。井戸の外へ出たストゥルトゥスなどただのちっぽけな蛙でしかないのだから。

 しかし彼自身はその事実に気づかない。ストゥルトゥスの中では彼がどこにいても世界は自分を中心にして回っていると考えているからだ。

 ストゥルトゥスはしとしとと降る雨の中をあてもなく歩く。

古井戸からかなり歩いた先に非常に美しい建物が見えてきた。他の建物と比較すると家自体が大きく、また広い庭には様々な花が彩り豊かに植えられていた。

 井戸と比べるのもおこがましいほどにすばらしい色彩にストゥルトゥスはまず感嘆の息をこぼし、次にこの家が欲しいと強く願った。

「ここを余の宮殿としよう」

 ストゥルトゥスは住人のことを考えず、この家はもう自分のものだと思い込んで、躊躇なく敷地の中に入っていった。

 するとそこに大きな犬が現れた。

「あなたはだあれ?」

 首輪をはめられている犬はストゥルトゥスに話しかけた。

「余はストゥルトゥス。この世の王である」

 自分の何十倍も大きな犬に対して彼は不遜な態度を崩さなかった。

「おうさま?」

「そうとも、余は王である」

「えらいの?」

「無論だ。余が命令すればどんなやつでも従うのだからな」

「ふうん」

 犬は感心なさげに答えた。目の前にいるストゥルトゥスはただの蛙にしか見えないのだから当然のことだろう。

「貴様、名は?」

「シンプレックスだよ」

「うむ、シンプレックスよ。貴様も余に従え」

「したがう?」

「余の言葉通りに動き、余のためだけに働く。そう難しいことではなかろう?」

 ストゥルトゥスは自分こそがこの世で最も偉大だと信じて疑わない。だからこその言葉であった。

 だが、そんな理屈はシンプレックスには全く通じなかった。

「それってたのしいの?」

「なに?」

「ぜんぜんたのしくなさそう。だれかのいうことをきいて、そのだれかのためだけにはたらくなんて、きっとつまらないよ」

「だがお前は首輪をしている。なぜ余以外の誰かに仕えているのだ?」

「このくびわは、ごしゅじんさまがくれたの」

 そう語るシンプレックスの顔には嫌悪感などなかった。むしろ、シンプレックスはまるで自分を縛る首輪に誇りを感じているように、ストゥルトゥスの目には映った。

「ごしゅじんさまはぼくにごはんをくれるし、ぼくといっしょにあそんでくれるよ」

「そんなくだらない理由で首輪をはめているのか」

「くだらなくはないよ。ごしゅじんさまはぼくをかわいがってくれる、それだけでぼくはしあわせ。ごしゅじんさまはぼくをあいしてくれるから、ぼくもごしゅじんさまのことをあいしている。だから、ぼくはごしゅじんさまといっしょにいたいの」

 シンプレックスのつながりには愛があった。

 愛ゆえに相手を尊重し、愛ゆえに寄り添っていたいと願う。たとえ自分が相手に従うことになっても、そこに愛がある限り幸福は維持される。

「理解に苦しむな」

 だがストゥルトゥスには理解できなかった。

 古井戸の中では自分の言葉と行動こそが絶対であった。彼自身も含め、そこに疑問を差し込むことなどありえなかった。

 ストゥルトゥスにとっての支配とは、一方的に奪うもの。愛を与えることも、愛を与えられることもないのである。

「ばいばい、ちいさなかえるさん」

 機嫌を損ねたストゥルトゥスはこの家を自分の宮殿にしようとしていたことすら忘れて、また街の中を独りさまよう。

ひとりぼっちの王には、忠誠を誓う家来も無聊を慰める道化もいない。領地も王冠もない王様の声は梅雨の雨でかき消される。

 人の気配がない古ぼけた小屋でストゥルトゥスはため息をこぼす。

 古井戸の中と外はあまりにも違い過ぎた。井戸の外に住む民草はストゥルトゥスの命令に従うどころか、王の声に耳を入れようともしない。王の声を聞く者はいたけれど、その者は王の命令に従わなかった。

「まったく、失礼なやつらだ」

 だが、井戸の中に帰ろうとはしなかった。

 ちっぽけな蛙のちっぽけなプライドが彼を突き動かしていたからだ。

「おい、そこの蛙」

 ストゥルトゥスの頭上から不満げな低い声が飛んできた。

 ふと見上げてみるとそこには黒猫が天井の梁に載っていた。その黒で塗り潰された身体には大小様々な傷がいくつもあり、その首には首輪がなかった。

 それを見てストゥルトゥスはよろこんだ。

 おびただしいほどの傷は、勇敢で精強な兵士の証。

 首輪のない首は、誰にも仕えていない証。

 つまり、この黒猫はストゥルトゥスが望む理想の家来そのものであったのだ。

「蛙、返事くらいしろって」

「王に対してなんたる無礼か。だが、許そう」

「はあ? なにいってんだ、てめえ」

 驚くべきことに、黒猫の不敬極まる言動に対してストゥルトゥスは怒りを覚えなかった。むしろ、多少荒っぽい方が兵士として優秀であろうと考えていた。

「余の名前はストゥルトゥスという。貴様の名はなんだ?」

「リーベルタース」

 黒猫はぞんざいに答えた。

「貴様、余に仕えないか?」

「なんで俺様が蛙ごときに従わなくちゃいけねえんだよ。頭まで水でふやけたのか、蛙野郎」

 さすがのストゥルトゥスは堪忍袋の緒が切れそうになったが、先ほどの哄笑の失敗を思い出して口から吐き出しそうな罵声を喉奥に押し込む。

「なぜだ、余はこの世の王であるぞ」

「馬鹿じゃねーの。お前になにができるってんだよ」

「なにもできなくてもよいのだ。なぜなら余はこの世の王なのだからな」

「王様ってやつは無能の別名か。こいつはいいことを聞いたぜ。明日からこの世は王様だらけになるな」

 ストゥルトゥスは自分がこの世の王であると何度も主張するが、斜に構えるリーベルタースはそれを鼻で笑うだけであった。

「王の前で不敬であるぞ!」

「はん、王様ってやつになにができるってんだ。ふんぞり返って喚き散らすなら、そこらのガキにだってできるぜ。もっとも、俺にはできないがな、あまりにもみっともなくて」

「貴様、言わせておけば!」

 我慢の限界を超えたストゥルトゥスは何度も罵声をリーベルタースに浴びせたが、蛙の膂力では建物の梁に届くことはできない。いくら吠えかけてもリーベルタースに痛みを与えることはできないのだ。

 やがて怒鳴り疲れたストゥルトゥスは冷静さをある程度取り戻す。

「貴様は運がいいな。今すぐ余に従えば、先ほどの非礼に特別の恩赦を与え、さらに将軍の地位も与えてやろうではないか」

「いらねえよ」

「なぜだ、貴様は野良猫であろう」

「そうさ。誰かの下についている訳じゃねえ。俺は自由気ままなのさ」

「ならば、主君に義理立てする道理もなかろう」

「俺に主はいねえ。生まれたときから野良だったんだからな」

「なおさら余の臣下になるべきではないか」

「はっ、たとえお前が蛙じゃなくて人間だったとしてもお断りだね」

 黒猫は自分の傷跡を見せびらかすように大きく伸びをした。

「俺がほしいのは自由だ。たとえ安全で快適な生活が与えられようと、俺は誰かに支配されるなんてまっぴらごめんだ」

 この猫にとって支配とは安息ではなく束縛でしかないのである。たとえそれがいかに危険だとしても、自分という存在の生殺与奪は自分自身が握らなければならないからだ。

だからこそ、リーベルタースは多くの傷を抱える。この痛みこそが自由の証であるとして、あらゆる傷を受け入れる。

「理解できんな」

 だが、ストゥルトゥスは理解できなかった。

 彼の住む古井戸には彼を傷つけることができる者は誰もいない。あの古井戸には敵も味方もなく、いるのは自分よりも劣った従僕だけだ。そこに闘争という概念が入り込む余地はなく、自由という概念も同居することはできない。

「あばよ、お山の大将」

 結局、ストゥルトゥスは外の世界で新たな臣下を見つけることができず、どうしようもない不満といらだちだけを抱えただけであった。

 ある者は愛を求めた。

 愛を与え、愛を与えられることこそが幸福であると語った。愛があるからこそ従うのであって、一方的に命じられても従わないと。

 ある者は自由を求めた。

 自由のためならばあらゆる痛みを受け入れると語った。ましてや、ただ命令するだけの無能に仕えることなどありえないと。

 だが、どちらの考えもストゥルトゥスには理解できなかった。

 だから、ストゥルトゥスは自分の治める古井戸に帰った。

 ほら、梅雨の季節に耳を澄ますとどこかの古井戸から蛙の鳴き声が聞こえる。それはちっぽけな世界に満足する愚か者の喜ぶ声なのだ。



 作品中の登場人物たちはそれぞれラテン語の単語から名付けました。

 ストゥルトゥス=愚者

 シンプレックス=素直

 リーベルタース=自由

 後ろ盾を持たない井の中の蛙が王を気取っても誰も従えられず、何も与えられない。だから、愚か者は狭い世界に閉じこもって箱庭で夢見るしかない。

 そんな話でした。


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