バイバイ わたしのトーコちゃん
まばらに散った花びらに身を浸し、あの頃を尊ぶ歌を奏でた。声援の中、シャッター音を響かせ、これっきりの制服姿を写す。写したらバイバイ。これからの進路を考えて幸せそうに言うんだ。
またね、なんてね。
帰り道はそれまで一緒に帰っていたトーコちゃんと。
トーコちゃんはとっても大人しめの女の子。わたしが何を言っても、どんなことを言っても、トーコちゃんはいつも「うん」と「そうだね」しか言わない。トーコちゃんはそんなんだから、裏でたくさんアクを吐かれるんだ。
わたしはそんなトーコちゃんと今日という晴れやかな最後の日も一緒に帰っている。なんとなーく、トーコちゃんと一緒にいるこの時間が心地がよかった。
「あいつ、むかつくよね。だってさ、こんな日に告白しよーって言いまわっているんだよ。気色悪いと思わない」
うん、とトーコちゃんは柔らかい笑顔でうなづいた。おっとりなトーコちゃんの印象的なたれ目はより一層とろんととろける。
トーコちゃんが何を思っているのかは、わたしははっきり言ってわからない。謎、だ。シークレットボックス。でも気になるからって、そこに手を突っ込むことなんてしたくない。怖いから。
「でね、集団告白したんだけど、見事に全員ふられてやんの」
うん、うん、とトーコちゃんは何度もうなづく。わたしのことをわかっているようでとても嬉しくなる。
学校は愚者の楽園。
トーコちゃんの中身は分からないけれど、これだけは共通していると思っている。わたしとトーコちゃんは、きっと、そう。
学校は愚者の楽園。アクの温床。すべてのアクの原因。ヒーローは現れないし、わたしたちも動かない。どこまでいっても苦い何かしか残らない。アクを言い合って、そのアクが浮いて、ふわり、どこまでもそのままで。
最後の日にひらひらと舞い落ちるピンクはその汚い何かを隠している。桜の園はわたしの嫌な何かも隠す。可愛くって残酷な園。そんなところにわたしたちは三年間もいたんだ。
愚者の楽園化したあそこは地獄だった。アクを示し合わさなければ息をするのを殺される。同調しなきゃいけない。どれだけ傷ついても、傷つかなくなるまで。それが愚者の楽園で生きていくコツだ。
でも「そうだね」しかわたしのトーコちゃんは言わないから、愚者の楽園では遠巻きにされていたようだった。
「でね、でね、トーコちゃん、覚えてる? 卒業式。あいつ泣いてたの。バッカみたい」
歩くと、胸が軋む。もう忘れたはずの感覚だったのに。
あの日の帰り道の夕日も、最後の日に舞い散ったあの淡い色もここにはない。
でも言っちゃうんだ。全てさらけだしちゃう。だってわたしのトーコちゃんだもの。最後の時も同じように、これまでと一緒にしちゃう。
痛んだ夕日は血の色。どこまでも光は照っている。わたしたちの視界に入り込んで、帰り道の境を作る。ここから先は明るい場所から暗い場所へ。建物の影がわたしたちを包む。トーコちゃんの身を包む。
トーコちゃんはわたしの前ではブラックボックス。開いてはいけないパンドラの箱。魍魎の匣。でも開けてしまいたくなる。それは私がただの人だから。神様の現身としての不完全な身だから蛇にそそのかされて、りんごを食べてしまいたくなる。
ちろちろとピンクの舌のような色の花びらがトーコちゃんの肩についていた。そうして私を誘っているように見えた。
私は最後のこの日にそこに手を伸ばしてしまうんだ。
今日で終わりだからね。今日で終わりだから、この道も、最後。どんなことも。明日はどんなふうになるか、分からない未来。
今日で断絶された帰り道はどことなく寂しかった。
果実を齧っていない人間だから感じてしまうのだろうか。
「それでね……」
どうしてだろうか。最後だから思い出しちゃうのかもしれない。
トイレの洗面所で、手を洗っていた私の友達。私とその友達は談笑していた。いつものアクは止まらない。
湿気の多いこの場所は音がこもり外まで伝わらない。狭い個室はどこも空っぽで誰もいない。そこはアクにとって絶好の場所で、愚者の楽園の象徴みたいな場所だった。
ポケットからハンカチを取り出して手を拭く。そうしている傍で友達のアクに耳を傾けた。
「トーコちゃんってさ、主体性がないっていうか、依存体質だよね」
その後に続く言葉に私は息をのんだ。
「『寄生虫』みたい」
膿んだ傷口から出てくる虫をなぜか思い出した。『寄生虫』と全く違う虫なのに、体から出てくるその虫を思い浮かべて、てらてらと輝く気持ち悪さを感じてしまった。トーコちゃんはまさに、それだと友達は笑ってけなすのだ。
荒ぶ野に友達はそうして水を灌ぐ。するとアクの華は育ち、草が生える。一本生えたらまた一本。ほかにも一本、気づけば一面に緑の草原。美しい原風景の完成だ。
赤い砂漠には潤いが必要で、そうでなければ、その空間は息苦しいものになってしまう。
だから、愚者の楽園。学校の空気に汚染されなければ最後は私の空気もなくなってしまう。
さよなら空気。そうしてわたしはおさらばして宇宙に飛び出して真空の中を漂い一人、孤独に生きる、なんてできやしない。
でも、わたしのトーコちゃんとは一緒に帰っていたし、わたしはその変化した空気にのっかるなんてこともできなかった。
のっかるのも、のっからないこともできない。のっかっても、のっかからなくても辛く痛みを伴う。
どっちも地獄で。どっちも天国。空気を吸えないわたしはただの何か。
わたしはなりそこない。
最後の審判にも選ばれなかった傍聴人。
「それでね、あいつトーコちゃんの悪口を言ってたんだ。今だから言うけど、『寄生虫』とかひどくない?」
トーコちゃんはそうだね、と苦笑した。その笑みにはどこにも憎しみなんかなくって、私は自分が罪に溺れる魂に思えた。
トーコちゃんとは、もうおさらばだ。今日で最後だ。愚者の楽園は今日卒業した。一緒に泣いて笑って、アクをふりまいたわたしたちの冒険活劇の一幕は拍手喝采で全ての幕を下ろした。愚者の楽園はわたしを『卒業』という名の罪で弾き飛ばした。
そうして一片の曇りもなく、全てをまっさらにした者たちがまた次の春に愚者の楽園へやってくる。
わたしたちは追放された。アクをふりまく天使も悪魔も一緒くたになってりんごを齧りつくしてしまったから。わたしはそのりんごの恩恵にあずかり、今もアクアクな口を開ける。
「ひどいよね」
うんとやわらかい木漏れ日。帰り道の一瞬の光にトーコちゃんは身をささげた。
「ひどいったら、ないよね」
もうすぐ終わりだ。トーコちゃんとの最後の道は駅で終わる。そこからは全て遮断されている。道は選ばれている。こっちとそっち、区切られて一緒に先へは進まれない。
りんごはりんごでも、わたしは熟したりんご、トーコちゃんはまだ青々しい青りんごを手にして生きていく。お互いのりんごは、選べない。もう実はなっていない。
それなのに、どうしようもないのに、まだ気にしているのかちくりと心が痛む。
「そういえばさ……」
トイレから出ようとしたとき、友達は煙草をふかしたような白い息を吐いた。嘆息、ため息、落ち着き、わたしに諭したような眼差しでこれからの道を提唱する。わたしの出来損ないのアクは始まる。アクは形成され、一気に噴きあがる。
「トーコちゃん、あんたのこと誰かの『嫌い』しか言わない女だって悪口言ってたよ。ひっどいよね。トーコちゃんは、あんたがいなきゃ独りぼっちなのに。付き合っているこっちの身にもなれっての」
「そんな……」
わたしには「うん」と「そうだね」しか言わないトーコちゃん。でも友達の言うそのトーコちゃんはわたしの知らないトーコちゃんだった。誰だかわからない。まるで違う人間。違うものを手にしたもの。
きっと蛇にそそのかされたんだ。
もう既にわたしが手にしていなかったりんごをトーコちゃんは手にしていた。どんな知識も空気も受け入れられる、そんななりそこないに落ちぶれてしまった。
ああ、それなら未だりんごを手にしていないわたしは、どれほどの罪も完璧も目指していてもなじめないじゃない。
愚者の楽園化したそこに順応するには、いち早く蛇を見つけて、わたしの身をささげること。そして大きなりんごの木のたもとに寄って、より空気を飲み込める熟した赤いりんごを齧ること。
わたしはりんごを手に取り、勢いよく齧りついた。
「ああ、なあんだ。あんたもなんだ。わたしもトーコちゃんのこと、鬱陶しいと思ってたんだ」
でも手にしたりんごは、痛んだりんごで蛇なんかどこにもいやしなかった。
ちくちくと胸もが痛んだ。心が真っ赤に腫れあがり、わたしはどこまでも清清しいトーコちゃんの笑顔に自分の弱さを隠した。
わたしは完璧にはなれないなりそこない。
蛇にも誘われず、愚者の楽園も見離した追放者。
どうしても完璧にはなれない自分の弱さ。どうしてりんごを齧ったのに、どこまでも痛むんだろうね。トーコちゃんはいつまでも、うんと頷いてくれて、わたしのアクに身を預けてくれる。
わたしのりんごは不完全な真っ赤に熟れたりんご。涙と血を言葉の端にひた隠し、流し続ける。
駅近くに来て、わたしの胸がきゅっと縮む。
白い光の中にいるわたしの本心。やまなみはまもえず、鳥は飛ばない。振り向くとあるのは最後の裁判に乗り遅れたわたしだけ。
トーコちゃんは一歩先に。
電子掲示板の時間を見て、これっきりの改札口を通る。トーコちゃんはわたしの隣。わたしはトーコちゃんの隣。狭い通路を抜けて、ちくちく痛んだ過去を全て置いてくる。
トーコちゃんは本当はどう思っているのだろうか。開けてはならないものに思いをはせるほど馬鹿なことはないけど気になるのは仕方ない。わたしの心は汚くなってしまったけど、トーコちゃんの心はどうなのだろうか。
きっと、もう、同じではないのだろう。
今羽ばたくわたし達の羽はどこもかしこもささくれているのに、わたしにはトーコちゃんの羽だけは美しく見える。
ああ、最後なんだ。わたし達はこれっきりなんだ。なんて思いたくもないのに、やっぱり思っちゃう。
トーコちゃんの方の電車が来る。わたしの方はまだまだだ。トーコちゃんが先に動く。最後の笑みをわたしに向けながら。
わたしはトーコちゃんの白い手を握った。白い羽が一面に散った気がした。キラキラ輝いていたあの頃が、羽とともにぬけ落ちる。わたしにはないものを携えて、美しく清い彼女を、羨ましく思っていた。
それじゃあ、だめなのかな。
「また、会えるよね」
トーコちゃんはうなづく。
うん、と。
「またね」
うん、とばいばい、と言葉が紡がれる。
バイバイ。
トーコちゃんの最後の言葉はとても良い音色で彩られていた。そうして人込みに紛れて、どこの誰かも知らない、わたしの知らないトーコちゃんになっちゃうんだ。
きっと最後なんだ、全部全部。これっきり。うやむやになって、当たり前が痛みと感じて。わたしはこんな痛みさえ消え去ったとき、やっとトーコちゃんの隣に立ち美しい羽を広げて。
今、大空に。