ジェムノーザの目的
ローヤン帝国領内の東南部、ある岩山の麓に、異様なまでに樹木が密集した深い原生林がある。
鬱蒼と言ったレベルではなく、夜はもちろんのこと、昼でもその森林はどこか不気味な気を漂わせている。
そのせいか、昔からこの近隣の集落の間では、この原生林には魔物が棲んでいると言う言い伝えがあり、樵でさえ近づくことのない場所であった。
だが、その異様な森林の奥深いところに、一軒の木造の家がある。
その日の深夜、空は一面重苦しい雲に覆われており、月も星も見えなかった。
そんな漆黒の夜空の下、その家の扉の外に出て、一人の老人が空に顔を向けて瞑想していた。
老人は全身黒い法衣であった。
真っ白な長い白髪を結わずに垂らしており、顔は相応に皺があるのだが、肌は若者のような艶がある。
その老人の背後に、不意に一人の黒い人影が降り立った。
老人は目を開けた。瞳に、妖気漂う不気味な強い光が宿った。
「ジェムノーザか……半年ぶりだな」
老人は振り向かぬままに言った。声も、老人らしくなく若い響きがあった。
「老師、その歳なのに感心だな」
黒い人影、ジェムノーザが、覆面の隙間の隻眼をにやりとさせた。
「月も星も見えぬ曇り空の深夜……最も闇の天精を体内に取り込めるからな」
老人は言うと、ゆっくりとジェムノーザを振り返った。
「喉が渇いているようだな。まあ入れ」
その家の中は、家具類は普通であるが、壁や天井が一面真っ黒に塗られていた。
老人は、テーブルの上にあるたった一つの燭台に火を灯した後、茶を持って来た。
「麦酒の方がいいか?」
茶碗をテーブルの上に置いた後、老人は訊いたが、椅子に座ったジェムノーザは首を横に振った。
「茶でいい」
老人も椅子に座ると、茶を一口啜り、
「リューシスパールは生き延びて逃げているらしいではないか。失敗するとは思わなかったぞ」
「失敗したわけじゃない。思うところがあってな。見逃したのさ」
「何?」
「面白い物を手に入れた。見せよう」
ジェムノーザは低い笑い声を立てると、色のくすんだ木箱をテーブルの上に置いた。
「覇王の玉璽だ」
「何だと?」
老人は、思わず大きな声を出した。
ジェムノーザは、木箱の蓋を開けた。中に、紫の紐がついた、翡翠でできた玉璽があった。
「これが、あの伝説の覇王の玉璽か……」
老人は目を瞠り、薄闇の中でも鈍く光る玉璽を凝視した。
「ああ。本物だ」
「よく手に入れられたな」
「まあ、色々方法を探ってたんだが、運が良く簡単に手に入れられてな」
老人は感心したように頷くと、
「まさか覇王の玉璽を手に入れて来るとはな。では、お前はこれで天下を取るつもりか?」
「いや。天下なぞには興味はない」
ジェムノーザは静かに言った。
老人はそんなジェムノーザをじっと見つめて、
「ジェムノーザ。ずっと殺したい相手だと言っていたリューシスパールを見逃し、覇王の玉璽を手に入れても天下を取りに行く気もないと言う。何を考えている?」
すると、ジェムノーザはふふっと笑った。
「老師、俺の最終目的はな。ローヤン帝国を破壊することなんだよ」
「何?」
「ただ滅ぼすんじゃない。破壊するんだ。徹底的にボロボロにさせた上で惨めに砕け散らせる」
「お前……そこまでしてローヤンを……」
「当然だろうが。俺はローヤン帝国に殺されかけたんだ。実に下らない理由でな。だから、百倍以上にして復讐するのさ」
ジェムノーザは冷笑して言うと、低い声で続けた。
「その為には、リューシスパールを生かしておく方がいいと思ったわけだ。奴の戦場での采配はなかなかのものだ。その上、認めたくはないが奴は不思議な何かを持っている。奴を生かして逃がし、あの偽物の皇太子を傀儡にするマクシムの野郎と戦わせる」
ジェムノーザは、そこで茶を一口飲み、
「……結果、ローヤンは分裂し、国内は疲弊するだろう。そうなれば、隣国の宿敵ガルシャワ帝国は、当然その機を狙って侵攻するだろうし、今は和平を保っている南のザンドゥーアも動くかも知れん。ずっとハンウェイ大陸に進出する機会を窺っている北方高原のマンジュ族などは喜んで南下してくるだろう。そうなれば、ローヤンは惨めなまでにボロボロになる。それがリューシスパールを見逃した理由だ。そして、この覇王の玉璽は、その最後のトドメに利用するのさ」
ジェムノーザは、低い笑い声を上げた。
「リューシスパールの奴をやるのは、ローヤンを破壊した後だ」
リューシスの軍団は、ローヤン領内の北部を、ルード・シェン山へ向かって急いでいた。
途上、マクシムの強権によって近隣の県城へと移されていた、元々ランファンに駐屯していたリューシスの私兵らが、リューシスを慕って続々と脱走、その下に駆けつけて来た。
結果、リューシス軍は一千五百人ほどにまでなった。
行軍中、イェダーが素直な疑問を口にした。
「しかし、ルード・シェン山がそれだけの天険である上に、中には恵まれた水と緑に溢れていることがわかったなら、ローヤン朝廷もそこを放っておくとは思えぬのですが」
「その通り」
リューシスは頷くと、
「俺も詳しくは聞いてないんだがな」
と、ローヤン朝廷に一つの計画があることを明かした。
昨年のルード・シェン山調査行の結果、そこに城を築いて一大要塞とする計画が持ち上がった。
それは、宰相マクシムの主導で、早ければ今年の夏にも作業団を結成し、一軍団と共にアンラードから向かう予定になっていた。
「だから、その前に何としても俺達が先にそこを占拠する必要がある。急ごう」
リューシスが手綱を握り直すと、バーレンもまた横から疑問を言った。
「周囲の村落では、そこには神龍の子らが住んでいると言う伝説があるとのことですが、その山には人は住んではいないのですか? それだけの要害なら、例えば、罪人たちの類が逃げ込んで、山賊となっていてもおかしくはないと思うのですが」
リューシスは頷いた。
「確かにその通りだが、人は住んでいないらしい。罪人でも、流石にそれだけの難所に逃げ込もうとまでは思わないんだろうな。だが、そこには二十数頭の野生の飛龍の群れがいるらしい」
「飛龍……流石に神龍の子らが住んでいると言う伝説があるだけありますな」
「だけど珍しい。飛龍は元々、俺達ローヤン民族の故郷である北方高原の、その更に北方にのみ棲息していた生物だ。野生の飛龍の群れがこの大陸の、しかもそんなところに棲んでいるなんて例は今まで聞いたことがない。しかもだ……」
リューシスは続けて言った。
「本来、飛龍と言うのはおとなしく、よく人に懐く生き物なんだ。だから俺達ローヤン民族は飛龍と共に暮らして来た。だが、ルード・シェン山にいる野生の飛龍の群れは非常に凶暴で、入り込んだ調査団を見つけると、様子を窺った後に、一斉に襲って来たらしい。そのせいで、何とか山に登り着いた調査団の兵士らのほとんどは倒れ、たった一人だけが命からがら山から下りて逃げて来たとか」
「それは珍しい」
自身も飛龍に乗れるイェダーが驚いた。
「だから、去年ローヤンの調査団がルード・シェン山に入った時には、そこに拠点を築くことができずに、中を探索しただけで終わってしまったんだ」
リューシスが言うと、
「何とか山を登り切っても、次は凶暴な飛龍の群れかよ。命が幾つあっても足りねえじゃねえか」
ネイマンが面倒くさそうに溜息をついた。
「まあ、バーレン、ネイマン、お前ら二人がいれば何とかなるんじゃないか? ああ、今はエレーナの天法術もあるじゃないか」
リューシスは冗談めかして笑った。
「相変わらず殿下は戦争以外は能天気だな」
イェダーが呆れたように言うと、一同は苦笑した。
「まあ、とりあえず行ってみようぜ」
だが、リューシスらがルード・シェン山に辿り着いた時、誰もが言葉を失った。
その山は、ユエン河とウールン河と言う二つの幅広の川が交差する流れの中の、ほぼ中央に位置している。こう書くと、島のように聞こえるが、そこに見えたのは絶壁の岩山であった。
四方は全て切り立ったような崖である上、その標高はおよそ八十メイリ(メートル)近くもあると見えた。
すでに話には聞いていたが、実際のその姿は皆の想像を超えていた。
「ねえ、どうやって登るの? この山」
白い法衣姿のエレーナが、眼前の川とその向こうの急峻を見て、引きつった顔で言った。
「去年、調査団は、少しだけどなだらかな場所を見つけて、そこまで飛龍で行ってそこからよじ登って行った、とかって聞いたけど……」
リューシスも青い顔で答えながら、その場所を探すべく馬で四方を巡った。
だが、その場所と見られるであろうところを見て、リューシスらはまだ青い顔のままであった。
垂直に比べればまだマシと言ったレベルで、ほぼ垂直に近いようなものだったからである。
問題はそれだけではなかった。
ルード・シェン山を挟む二つの川、ユエン河とウールン河の流れが結構速いのである。
飛龍に乗って近付く者ら以外の一般兵らは、山に近付くだけでも一苦労しそうであった。
「とりあえず……ここまで来たからにはやってみるしかない」
リューシスは表情を引き締め、川向こうの崖を睨みながら言った。
登山が好きだと言う兵士らの中で、体格の屈強な者らを十数人ほど選んだ。
そして、ランファンから連れて来た十数頭の飛龍に、龍士でもある兵士と共に二人で乗せ、飛龍が飛べる限界の高さまで飛ぶ。そのまま崖まで近付くと、選ばれた兵士が短剣を片手に崖に飛びついた。
皆が息を飲んで見守る中、兵士は短剣を岩肌に突き刺しながら少しずつよじ登って行ったが、やがてバランスを崩し、兵士は崖から滑り落ちてしまった。皆が「あっ」と声を発したが、下で待機していた龍士が慌てて飛龍を駆り、落ちて行く兵士の腕を掴んで引き上げた。
その様を見ていたリューシスは、険しい顔で呟いた。
「これは戦よりきつい戦いになるな。しかも長期戦だ」
リューシスは、他の兵士らに、野営地を張るように命じた。




